からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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ねたみ

十字架につけながら生きる

テーマは 『 十字架につけながら生きる 』 です

ハレルヤ。

主の平安と恵みがありますように。


新約時代で、信徒たちが一番模範にして見習うべき人は 使徒パウロです。


新約聖書の多くの部分は使徒パウロが書きました。

聖霊が書くようにパウロを用いて下さいました。


キリストに出会って劇的に人生が変わった人です。

出会った瞬間から一直線にキリストを目指して走り続けた人でした。


主に対する愛はあまりにも熱く、その心はイエス様で満たされていましたし、自分の全人生を惜しまずに主にささげました。


彼ほど 主に救われたことに対して、価値を知る人はいないと思います。

私たちは あまりにもその価値に気付いていないですね。


【ルカの福音書9章25節】

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

全世界どころか、わずかなものに 自分のたましいを売る者が実に多いです。


クリスチャンは “救いの値打ち” が全世界よりも “上” であることを知らないといけないです。


パウロは主に出会って初めて自分が何者であるのかに気付きました。

それまでは自分を立派な者だと思っていました。


また、罪のない正しい者と思っていましたし、まともな者だと思っていました。

自己評価が高い者でした。


しかし主に出会って初めて “真の自分の姿” を見ることが出来ました。

そして びっくりしました。

とんでもない姿が そこにありました。


「私は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。私は罪人のかしらでした。(第1テモテ1章13節、15節)」

これがパウロの告白でした。


その後、彼の人生はどのように変わったでしょうか。

まず、パウロがしたことがありました。


【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

古い人を十字架につけました。

そして彼は その十字架を負いました。


“十字架を負う” ということは、情欲、欲望、貪欲、不義、妬みなど 人間の生まれながらの行為を十字架につけながら生きることです。


自分が誇りとしている すべてを捨てて、主を第一にすることです。


自分の十字架を負って生きているパウロの告白です。


【第1コリント15章31節】

兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

彼はどんなに苦しくても、自分の十字架を負って主に従って歩みました。


イエス様が死に至るまで父なる神に従順であったように、パウロも死に至るまでイエス様に従順な人でした。

一度もその心が主から離れたことがありませんでした。


イエス様に出会った後の彼は とても幸せでいのちに溢れ、いつも聖霊に満たされていました。

それがどんな苦難の中でも彼を勝利させる原動力でした。


この姿が私たちにも必要な姿ではないでしょうか。
(;´Д`)

2017.1.2
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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力と恵みと憐みの神様

テーマは『 力と恵みと憐れみの神様について 』です

【Ⅱサムエル記22章17-30節】

主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。

主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。

彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

主は、私の義に したがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

私は主の道を守り、私の神に 対して悪を行わなかった。

主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって、私に償いをされた。

あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者には目を向けて、これを低くされます。

主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。

あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。

この箇所は、ダビデの賛歌です。聖書には色々な賛歌があり、その人たちの信仰告白が書かれています。

ダビデほど波乱万丈な人生を送った人はいません。
神様がダビデをイスラエルの王にしなかったならば、とても平凡な人生だったと思います。
父が飼っている羊の世話をする羊飼いでありました。羊飼いの生活はとても単調です。
人との関わりが少ないので、他人から来るストレスがあまりなく、毎日同じことをします。
他人から命を狙われることもなく、妬まれることもないです。

しかし、神様がダビデに目を留めて イスラエルの王にするために油注ぎをした時から、彼の人生は本当に変わってしまいました。

羊飼いから王様になることは、ものすごく祝福があって、権力を手に入れて好きなように生きていけるだろうと思うのは世の中の人の考えです。

ダビデはそうではなかったです。
油注ぎがあった時から神様の計画の中で激しい人生を生きるようになりました。
その時から神様の恵みも多く注がれましたが、同時に別の力も襲いかかってきて急に敵が増えてしまいました。

毎日、戦いに出て行かなければなりませんでした。
妬む者たちが増えて、とにかく彼を殺したい人間が増えました。
一番激しかったのは義理の父であるサウル王でしたが、権力による妬みでした。

様々な苦しみをダビデは味わってしまいました。家庭の中でも色々なことがありました。
その中で誰1人 彼を助ける人はいなく、自分の身を隠すところも受け入れるところもありませんでした。
ダビデを誰が助けたでしょうか?――それは、神様であります。

私たちは、ダビデの人生を通してどのようにしたら神様だけに頼って生きることができるでしょうか。
そして、救われた者たちは、どのように生きるべきなのかを彼を通して学びたいと思います。




【Ⅱサムエル記22章2-3節】

彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。

私の神という言葉が連続して出てきます。これはすごく私たちが学ばなければならないことですし、
彼にとって神様がどのような神様であったのかを強調する言葉であります。

多くの者は神様は創造主であることを知っています。世界は神様が支配していることも知っています。
しかし、それだけでは何も始まりません。

ある人は「彼らの神様」と言います。それは自分たちと(彼らの神様)は何の関係もないです。
ある人は「われわれの神様」と言います。それも十分ではないです。
何が大切かと言うと、その神様が「私の神様」でなければならないです。

ダビデは「私の神」という言葉を使いました。
これは神様との関係が親密であることを示しています。

遠くに神様がいる感じがするのは、まだ親密度が薄いということです。
「わが巌、わがとりで」となった時は、その人自身が神様を日々の生活の中で体験していることを意味します。

私たちは自分で神様を体験しないと、わが神とは言えないです。

十二弟子のトマスは、イエス様が蘇った時に信じませんでした。ずっと疑いを持っていました。
そこでトマスの手が イエス様の傷跡に触れた時に初めて「わが主よ」と告白しました。

「わが巌、わがとりで、わが救い主」ということばを自分で認識し、信じて頼ることがないならば、
その神様と自分は何の関係があるでしょうか?


教会でも「私の神様」ではない人たちがいます。
「神様、神様」と呼んではいますが、親密な交わりがない中で信仰生活をしても何が得られるでしょうか?

それでは神様を知ることができず、神様を体験することもないです。
神様は私たちに「近づきなさい」という言葉を使いますが、これは親密度なのです。
自分1人の神様ではなく、もちろんみんなの神様でありますが、ダビデは「私の神」と言える強い思いがありました。

ダビデがどのような状況の中にいたのでしょうか。次の箇所です。


【Ⅱサムエル記22章5-7節】

死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

よみの綱は私を取り囲み、 死のわなは私に立ち向かった。

私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。

どれほど彼が厳しい環境の中にいたでしょうか。

サウルと3千人の勇士が、自分1人の命を狙うために追いかけてくるのです。
その中でダビデは生と死の隣り合わせでした。
もしこれが 私たちの姿だったとしたら、ものすごい恐怖心が出ると思います。

ダビデはどれほど不安・恐れがあったでしょうか。ですから彼は神様に頼るしかなかったのです。
身を避けることも出来ない荒野で神様を呼びました。その祈りが神様に聞かれました。
そして、一度たりとも神様は ダビデをサウルの手に渡しませんでした。反対にサウルをダビデの手に渡しました。
ダビデにとっては何度もサウルを殺すチャンスがありました。しかし手を下しませんでした。

自分を守ってくださった神様に対する恵みに溢れて、主が油注がれた者を殺さないという立派な信仰でした。
ただ自分自身が 神様に助け出され、神様が自分の避け所であったことだけでも喜びと感謝に溢れて、神様を褒め称えました。

これが私たちが 最初にダビデから学ぶ姿であります。

神様が 「 私の神様 」 になっているのか、その確信を持って神様に日々頼っているでしょうか?




そして、救いを受けている人たちは、神様の前にどのように生きるべきでしょうか。次の箇所です。


【Ⅱサムエル記22章21-25節】

主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

私は主の道を守り、私の神に 対して悪を行わなかった。

主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって、私に償いをされた。

ダビデが神様の前で自分の行いを誇っていると思ったらいけないです。
救われた人たちは、このように生きていかなければならないです。
「神様は救い主であるし、恵み豊かな神様だから、その恵みがいつまでもあるから自分が好きなように生きて良い」ということは、絶対にないです。

神様が自分を救ってくださったならば 恵みの中に留まり、その救いに相応しく生きていかなければならないです。


【マタイの福音書5章48節】

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

なぜこのような言葉がこの箇所に出てきたのかは、その前の部分を読むと分かります。
それを理解しないと「完全」だという言葉の意味が分からなくなります。次の箇所です。


【マタイの福音書5章46-47節】

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

この言葉を比べるとダビデが言った意味が分かります。

神様が「完全」と言ったことは、取税人や異邦人よりもあなたたちは勝る者でなければならないということです。
取税人や異邦人と同じことをするならば、それは救われた人の姿でしょうか?――そうではないです。

ですから、ダビデが神様の前で「手をきよくしました。自分が罪を犯さないように生きました。」と言ったのは、
そのようになるために彼が努力をしている姿であります。

神様は私たちを見て言います。人間には、誰1人完全な者はいないというのは神様が一番よく知っておられます。

それなのに、神様が私たちに完全でありなさいとおっしゃったのは、「あなたたちは救われた者として、実を結びながらわたしの前できよく正しい者として生きていきなさい。」というみこころなのです。

私たちは完全にはなれないのですが、だからといって何もしないのではなく、私たちは完全になろうと努力をして
取税人や異邦人に勝る者にならなければいけないです。

もし人間が完全な者だったとしたら、神様はいらないと思います。


パウロは、他の十二弟子よりも勝っている部分がたくさんあります。
しかし、パウロが語った言葉を見ると、自分は100%弟子になったと誇ったことがあるでしょうか?――それはありませんでした。
常に自分の中にある肉と戦い、肉を打ち叩きながらたくさん働いても「まだまだ私は足りない者」と語りました。

私たちは頑張っても罪を犯すことがあります。時には努力が足りなくてそうなる時もあります。私たちが完全ではないからです。時には弱くて倒れる時もあります。

ソドムとゴモラの町では「義人は1人もいなかった」と滅ぼされましたが、今の時代は義人がいるから違うだろうと思う人もいるかも知れません。
しかし、「私が義人です。」と誰が言えるでしょうか。世の終わりの時にもそう言える人はいないと思います。

パリサイ人は 神の前に来て「これを守りました。あれも守りました。」と言って、自分を義としました。
それをイエス様は退けました。いくら守ったとしても、その心の中には罪があるのです。


神様が言いたいのは、「努力しなさい。神様の命令に従順しなさい、主が喜ぶことをしなさい。」なのです。

神様が語ることは難しくて守れないことではないです。
私たちが本気で守ろうと思うならば、守ることが出来ると申命記30章に書いてあります。

昨日よりは今日、今日よりは明日が良くなるように努力する姿を 神様はすごく喜びます。
ダビデはそのように生きました。罪から自分の身を守ろうと必死でした。それでも人間ですから罪を犯しました。
間違えた判断もしましたが、それでも神様は彼を見て「わたしの心に適う者」と言ってくださったのです。

神様が私たちに多くの恵みを与えてくださるのも、私たちが努力している姿を神様が見るからであります。

まったく努力をしないで 恵みをないがしろにし、苦しい時だけ求めて自分勝手に歩むならば、神様は喜ばないです。


ダビデがそのように生きたことに対して、神様が「わたしのきよさによって、わたしに償いをされた」という言葉が2箇所も出てきます。

これは、神様は私たちの心や行いを見ておられますし、私たちが蒔いた通りに刈り取らせる神様であることが現れています。

神様に頼り、神様を敬う者、従う者に対しては豊かな救いと恵みを与えます。
しかし、主の言葉を退けて悪の道を歩む者に対しては懲らしめます。これは必ず来ることであります。


【レビ記26章23-24節】

もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、

わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。

これは神様の口から出た言葉であります。
「あなたをわたしの愛する子として見るのではなく、わたしに反抗する者として見る」のです。
そうすると報いを受けます。1人は良い報いを受け、もう1人は悪い報いを受けます。
これはどの時代であっても変わることがないです。神様の言葉は永遠に続く言葉であります。
私たちはそれを忘れてはいけないです。

救いの実を結ばないで、いばらとあざみを出して 自分だけではなく 他人にまでトゲを刺す者、他人の畑までもいばらで覆ってしまう者には、災いが必ず来ます。
悪い実を結ぶので、神様はその人に七倍にして報いを与えます。

私たちはそのことを本当に気を付けなければいけないと思います。




【Ⅱサムエル記22章29節】

主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。

この言葉はとても大切であります。

ダビデ自身が神様をどのように思っていたのかが分かります。

この世は光ではなく暗闇です。
暗闇に ともしびがあるということは、私たちにとって神様の救いと希望、喜びであり祝福であります。
神様に頼って生きることは、神様が自分のそばに共にいることは、自分の歩む道がたとえ暗闇の道を歩いていても その人は、その中で絶望することはないです。

主ご自身がその人の光となり導きとなり、助け・救い平安となり、祝福になりますが、ダビデはいつも自分のともしびにしていました。


私たちも歩む時には、神様が私たちのともしびでなければならないです。
主のともしびがある時に、闇が照らされていきます。

私たちがその道をつまづかずに、わなに掛からないようには、このともしびが必要であります。

私たちが光の中を歩む時に、神様は「あなたたちは世の光である。」と語りました。
ともしびを持たない人が光り輝くことはできないです。これを私たちが手放してはいけないです。

死ぬ時まで神様のともしびに導かれて、ダビデが経験したように私たちもこの地上で経験していかなければならないです。

救われた人はこのように神様と親密な関係を結びながら、「わが神、わたしのとりで、わが巌」このようにしながら
毎日神様をともしびに照らされて、その中を歩むのが信仰生活であります。

その中で受けた恵みを常に思いながら、神様に感謝の賛美を捧げることが 私たちに必要なことであります。
(・∀・)

2013.11.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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