からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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しもべ

足を洗うことの意味

テーマは 『 足を洗うことの意味 』 です

【ヨハネの福音書13章3-5節、12-15節】

イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、

夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。



イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。

あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

イエス様が弟子たちの足を洗ったのは これが最初であり、最後でした。


足を洗ったのは最後の晩餐の席で、
十字架の死を遂げる前日の出来事でした。

他の日ではないからこそ、深く考えないといけないですね。


弟子たちは 後でこのことから学び、主のように互いに足を洗う者になりました。


当時、足を洗ってあげるのは身分の低いしもべの仕事でした。

師とも主とも呼ばれるイエス様がする仕事ではないです。

しかし、敢えてイエス様がこのような行動をしたのは、弟子たちに教えなければならないことがあったからです。


12人の弟子たちの間には ライバル意識がありました。

何度も彼らの間で 『誰が一番えらいのか』 に対して議論がありました。

イエス様はそれを知っていました。


直前にも そのことで議論がありました。


このままではいけないので、弟子たちの足を洗った後に 『わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです』 と言われました。


私たちの教会では実際に足を洗うことはしませんが、それを行っている教会もあります。

本音をいうならば、何となく そのことに違和感を感じます。


イエス様はイベントのように足を洗う儀式を願っているでしょうか?


儀式ではなく、“意味をわかってほしい” と願っています。


何を教えようとしたでしょうか?




自分を低くして謙遜になること




しもべがするようなことを、師であるイエス様がしたことは、師という立場を捨てて しもべの姿になったことを意味します。


謙遜になって しもべの姿を取り、しもべの働きをしました。


『互いに足を洗うべきです』 というのは、“高ぶらないで、自分を低くし、謙遜な者になりなさい” という意味です。


誰かの上に立ちたいと思う人は、人に仕えることが出来ません。

しもべにはなれません。

主の働きは、しもべとしての働きです。



十字架の死は、高慢な人の死でしょうか?


十字架の死は、謙遜の絶頂でした。

自分を完全に無にした姿でした。


『自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい』 と弟子たちに言いましたが、捨てることも十字架を負うことも、“謙遜” にならないと出来ないことです。



他人の足を洗ってあげられるほど 自分を低くして謙遜になりなさい という主のメッセージがあります。

愛と尊敬は、相手を高くあげて相手の足を洗うことです。


実際に足を洗うのではなく、自分を低くして仕えるしもべの姿になりなさいという意味で、主は弟子たちの足を洗いました。




利己心を捨てて他人に仕えること




人は自分が一番で、自己中心ですので、利益もないのに他人に仕えることは難しいです。

ましてや身を低くして他人に仕えることに抵抗を感じます。


うわべだけで仕える場合がありますが、主はうわべではなく、心から人に仕えることを願っています。

主が模範を見せました。


キリスト教の中心にあるのは 『愛』 です。


“神を愛することと、隣人を愛することが律法の完成である” と教えて下さいました。


主はその愛を見せて下さいました。

イエス様の生涯は 自分のためではなく、他の人のために生きた生涯でした。

いのちまでも捨てました。


そのように、人のために生きた姿を最後の晩でも見せて下さいました。


積極的に献身、奉仕する姿の中にあるのは愛です。

自己愛ではなく隣人を愛する姿です。


足を洗うことで、主は仕えることの意味が何かを教えて下さいました。


見て学んで行う時に、良い実が結ばれていきます。

主が喜んで下さいます。
アーメン v( ̄∇ ̄)v


2018.7.29
聖日礼拝メッセージ

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忠実なしもべと悪いしもべ

テーマは 『 忠実なしもべと悪いしもべ 』 です

【マタイの福音書24章44-51節】

だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、

その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、

そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。

そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

本文は、主の再臨と 世の終わりに起こることを語る中で 出てきた話です。

重要な内容です。


自分たちがどのように評価され、どのような報いを受けるかに耳を傾けないといけないです。


主の再臨まで しもべたちは評価されませんでした。

しかし再臨があると、各自の働きに対する 主の評価が下されます。



そこで忠実なしもべと 悪いしもべが分かれます。

そして それにふさわしい報いも与えられます。


主は 正確に敏速に評価を下します。

誰が忠実なしもべで、誰が悪いしもべであると語ったでしょうか?




忠実なしもべ とは




食事の時には、食事をきちんと与えるしもべです。


本文の しもべ は、聖徒たちを 神のみことばで養う 教会の指導者です。

次の箇所では、しもべを “管理人” とも言われました。


【ルカの福音書12章42節】

主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。

主はまず、指導者から調べます。


忠実なしもべとは、食事時には聖徒たちに食事をきちんと与えるしもべです。


すなわち聖徒たちに 霊の糧である “神のことば” を食事時にいつも与えるしもべです。



そのために指導者が備えないといけない 2つの大切なことは、“忠実と知恵” です。


【第1コリント4章2節】

この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。

【コロサイ3章16節】

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

テモテの手紙は “牧会書簡” と言われますが、パウロは教会の指導者であるテモテに色々とアドバイスしました。

そこでも霊の糧を与えることの重要さを教えました。


【第2テモテ2章2節】

多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい

【第2テモテ2章15節】

あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

神のことばで聖徒たちを正しく教え、指導するしもべが忠実なしもべで、神はそのしもべを喜びます。



主人の立場から見ると、任された働きを忠実に行うことほど 嬉しいことはないです。


神のことばは 魂を生き返らせ、信仰を育て、神を知るために なくてはならないものですから、忠実なしもべはそれをし続けます。


また忠実で知恵ある聖徒は その教えを喜び、日々その教えを守りながら成長します。




悪いしもべ とは




悪いしもべの心には、ある思いがありました。

それは「主人はまだまだ帰るまい」という思いです。


それは、間違えた思いですが、本人はそれに対して確信を持っています。

そして自分が管理人である使命も忘れていました。


ですから 自分に任されたことに不忠実だけでなく、任されたことに忠実なしもべたちを妬み、攻撃したり、妨害しました。


主人の財産を勝手に使ったり、自分の欲のために使いました。

食事時にきちんと食事を与えることがありません。


悪いしもべが聖徒に与えるものは 神のことばよりは世間話、人間の教え、曲がった教えが多いです。



(パウロは)テモテに対しても、そういう者にならないように注意を与えました。


【第2テモテ2章16-18節】

俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、

彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。

彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。

神のことばを正しく語らない悪いしもべが大勢います。

しかし彼らは、いつまでも働きをしていますし、大きな教会をやっている人もいます。


それを見て、“神のしもべ” だと評価する人も多いですが、神は彼らを “悪いなまけたしもべ” と呼びます。

そして彼らに対して、とても厳しい裁きを下します。


人が集まるので指導者は自分を “悪いしもべ” だと思わないかも知れません。


しかし、なぜ悪いしもべの所に人が集まって来るでしょうか?

その人たちの教えを喜んで聞く人たちが存在するからです。


霊的なことに無知な人たちが惑わされて その教えを聞きます。


【第2テモテ4章3-4節】

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

この人たちの将来はどうなるでしょうか?

霊のききんに遭います。


みことばがないので、その信仰生活に聖霊の働きはありません。


まるで摂取障害にかかった人のように、指導者も聖徒たちも みことばを食べないので栄養失調になります。

その信仰は生きた信仰ではないです。


みことばを正しく教えず、聖徒たちを飢え死にさせるような しもべは、主人から厳しい処分を受けます。



聖徒たちも真理から耳をそむけて、脇道にそれるならば、惑わしの霊の奴隷にされ 悲惨な目に遭います。


主は忠実なしもべを探しています。
決して悪いしもべではありません。


目を覚まして、自分たちは 忠実な管理人としての働きをしているかを調べてみて下さい。


間違った確信や錯覚で 恵みから落ちることがないようにしましょう。
アーメン ヽ(TдT)ノ


2017.12.3
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自分の歩みを点検してみよう

テーマは『 自分の歩みを点検してみよう 』です

【Ⅰヨハネ2章3-6節】

もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

神を知っていると言いながら、 その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、 確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

神のうちにとどまっていると言う者は、 自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

今回は 2013年最後の礼拝ですので、私たちは1年間の歩みを振り返りながら神様の前にどうであったのかを考えてみたいと思います。

人間は反省しないと成長はしないです。
1年間どのように生きてきたのかを考えて、悔い改めたり 感謝をしないと
新年が来てもダラダラと何一つ変わらない中で出発することになると思います。

私たちに与えられる日々は、毎日新しいものであります。私たちに与えられる時間には古いものはないです。
新しいものとして受け入れる為には古いものに対する整理整頓がきちんと出来ていないと汚れた部屋が さらに汚れるようなものになります。

良いことがあった、悪いことがあった 等、このようなことを考えるのではなく、自分の人生そのものを信仰の目で見て、神様が見たときに私たちの人生はどうであったのかを考えます。




①信仰によって歩んだのか

私たちは信仰を持っている者ですので、とても大切なことであります。
口先だけで「信仰、信仰」と言うのは、誰でも言えることです。

しかし365日を信仰によって生きたのか という部分を神様は一番初めに見ます。
その人が仕事をたくさんしたのか、真面目に生きたのかというのではなく、信仰によって生きたのかを見るのです。

信仰によって生きるとはどのようなことでしょうか?
毎日、神様を想いながら御言葉を読んで祈り 真面目に礼拝に参加をすること。
これはもちろんある部分では信仰でありますが、信仰を一言で言うならば、神様の前に自分が従順したかどうかです。
「神様に対して」という部分が重要です。


私たちには自分の思いや計画、考えがあるのです。
私たちが選択をする時に神様のみこころと自分の計画、どちらを優先にしたでしょうか。

明らかに神様から来るものを知っていながら除けて、自分の思いのままに生きたならば、それは信仰とは関係なく生きていることになります。

しかし、自分の中に様々な思いがあった中でも神様のほうから導きや指示や計画があった時に「どうしよう。どちらを選んだら良いだろう。」と考えた結果、
自分の考えを捨てて神様の計画を選んで生きたならば、信仰によって生きた姿であります。

この世には クリスチャンとして、これは神様のビジョンですと言いながら 色々な働きをする人が多いと思います。
しかし自分たちのビジョンが多いです。「これをしたら主が喜ぶだろう。」と、自分たちは喜んでその働きをします。
とても良い働きなのですが、イエス様が「今、それをしなさい。」という部分との調和が出来ていないと、それは神様のみこころではないのです。

神様には「今」指示することと、後で良いよという部分があるのです。
しかし自分の働きに夢中になって、主が語ることをキャッチ出来ないのです。
調和をするには、一緒に歩まなければならないのに勝手に歩み出すのです。

キリストと調和をしながらその道を歩み、勝手に暴走をしていないのか、信仰の耳・信仰の目で見て 自分の手足を神様が喜ぶところで
使ったかどうか、御霊に導かれて歩んだかどうかを点検しなければいけないです。




②自分を否定して、自分を捨て 日々自分の十字架を負ってイエス様に従ってきたのか

「自分を捨てる」―― これは謙遜な姿であります。謙遜でないと自分を捨てることは無理なのです。
「謙遜」の逆は「高慢」であります。
高慢は絶対に自分を否定することは出来ないです。高慢は、常に高慢なことしか考えないのです。
そのような人は、他人が自分を否定するとすぐに腹を立てます。

高慢な人の姿を見て知ることができるのは、「自分が一番」「自分は賢い」なのです。また「自分は正直で正しく、周りの人たちが悪い」のです。
このような人の口から出る言葉は、とても辛辣(しんらつ)であります。常に辛辣な言葉で他人を裁きます。
自分にはそのような言葉は使わず、他人に対してそのような言葉を言います。そして軽率な判断をするのです。
自分の目で見て、すぐに言葉が飛び出してきます。高慢な人には怒りの感情がとても強いです。
そして他人から崇められたくて計算高いです。また 他人をすぐにバカにします。

謙遜な人は、なかなか怒らないです。相手の立場を考えて理解をするのです。
しかし高慢な人は、相手を理解しようとは これっぽっちも思わないです。


十字架を負うということは、自分を捨てて犠牲を払うことであります。イエス様はすべてのものを捨てました。
すべてのものを捨てたので、周りの人はバカにしました。「十字架から下りてみろ」と言われた時も、イエス様は黙っていました。
これをイエス様は私たちに要求をしているのです。「わたしについて来たいと思うならば、自分を捨て自分の十字架を負ってきなさい。」

口先だけで愛を語ったり「十字架を負います。」と言っても、私たちに行動が伴わないならば本当の意味で信仰ではないです。


ここで主は生きておられるという1つの証拠があります。

数か月前に起こったことです。
エジプトではイスラム教の人が多いですが、そこで1つの殺人事件が起こりました。
ある信者の男の妻が聖書を読んでいたので男は腹を立てました。
イスラム教の教えでは、イスラム教の人が他の宗教に改宗をした場合、殺しても良いということが書かれているそうです。男には2人の子どもがいました。上の娘は8才、下はまだ乳飲み子でした。

そして男は妻を殺しました。聖書を読んでいる姿を見ただけで殺害し、誰にも言わずに妻を穴に埋めました。 同時に2人の娘も生きたまま埋めてしまいました。

その後、男は全く関係のない親戚が自分の娘たちを殺害したと嘘を伝えたのです。
しかし、不思議なことが起こりました。その15日後、男の家族の身内が亡くなり、埋葬のために土を掘りました。
すると土の中に、娘たちが生きているのを発見しました。とてもびっくりして大騒ぎになりました。

埋められていた2人のうち 8歳の娘に、アメリカのテレビ局がインタビューに行きました。しかも生放送でした。
どうやってその中で生きていたのかを訊いたところ、「毎日、白いガウンを着ている人が現れました。その人の両手には傷痕がありました。そして自分に食べるものをくれたのです。」
そして乳飲み子には、「お母さんは殺されていましたが、その方が毎日来てお母さんを起こしました。
そこでお母さんが母乳を飲ませていました。」


それが15日間も続いていたのです。生放送だったので(イスラム教の)人々は放送を止めることが出来ませんでした。
イエス様が現れて自分たちの命を助けたという、科学や人間の考えでは有り得ないようなことだったので、イスラム圏ではまずい放送でした。

生き埋めにされていたら、あっという間に死んでしまいますが生きていました。
しかし聖書では死人も生き返りますし、他にもこのような出来事があるのです。

今、イスラム教では同じようなことがたびたび起こるらしいです。
なぜなら福音が伝えられなく、今は終わりの時であるのでイエス様や御使いたちが直接現れてその者たちに語るのです。
ですからそのような体験をした人はキリストを信じずにはいられなくなるのです。
その男は判決が出て今年7月に死刑になったと思います。イスラム教は家族であっても容赦なく平気に殺します。
これは心が麻痺されない限り出来ないことであります。


しかし、私たちの主は聖書にあるように、愛の神様であります。
先にイエス様ご自身が犠牲を払ってくださいましたので、私たちも見習って犠牲を払い自分の十字架を負うことが、損ではなく祝福の道であり、もっと神様からの素晴らしい恵みを受けます。

ヨナが失敗をしたのは賢すぎたからであります。自分で計算をして神様のやり方がおかしいと思いました。
自分は何一つ損をしたくないと思うのは高慢な姿であります。

私たちは賢い者になるのではなく、人々の目から見たら(自分は)主にあって損をする生き方をするようにならないと、神様には認められないです。




③主のしもべとして生きてきたのか

主が自分に任されたことを忠実にしたのか、それとも怠けていたのか。
「自分の賜物も才能も時間も、全部 土の中に埋めました。全部 自分で使いました。」こういう者を見て、イエス様は「悪い怠けたしもべである。」と語りました。
ある者には「わずかなことにも忠実なものであった。自分は神様の目にどのように映るのか――。

与えられたことをブツブツ言いながら仕方がなくしたならば、何の意味もありません。
だけど喜んで、もちろん辛い事もありますが「神様が私のような者を選んでくださって感謝します。」と、これがないなら役に立たない者なのです。
神様が小さな働きを任せるということは、私たちを役に立つ者だと思うからそれをさせるのです。
ですから私たちはその働きを喜んでしなければならないです。


天国の報いは、私たちがしもべとして働いたかどうかで決まります。
救いは恵みでありますが、私たちがそこで受ける祝福は 地上で蒔いたものに対して 神様がくださるものであります。

ですからたくさん働くことは良いことです。
神様に「私は2タラント残しました。5タラント残りました。」この働きを私たちがしたかどうかを振り返ってみてください。
私たちは忠実なしもべを目指していかなければならないです。

振り返ってみたときに信仰によって歩むと決心していたのに、それが出来なかったなど反省することが誰もがあると思います。
反省をして そこで終わるのではなく、悔い改めて神様に赦しをもらい 新年を共に出発していきたいと思います。
(´∀`)

2013.12.29
聖日礼拝メッセージ

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神様の しもべとは?

テーマは『 神様の しもべとは? 』 です

【使徒の働き20章22-24節】

こちらはパウロが人生の終わり頃に語ったことばです。
パウロは神様の しもべですが、私たちも しもべであります。

神様とは主人と しもべの関係です。

自分を選んでくださった方、神様に対して自分が人生の最期までどういう姿勢で仕えているのか、
これを見ることができます。


しもべの姿とはどういう姿でしょうか?
自分の思いのままに働くのではなくて、しもべは常に主人のみこころに従って歩むものであります。
反抗する者は、もはや しもべではないです。

モーセ、アブラハム、アロン、パウロ、ヨセフなど偉大な者であっても、彼らは自分は しもべであるという
認識を忘れたことがないです。

しもべたちはみこころを知り、そのみこころが自分にとってどんなに厳しく不利であっても、
それに対して「いいえ。」とは言えない人たちです。聞き従うということは「はい。」であります。
なぜならそれは主人からの命令だからです。

パウロに与えられた命令は、自分が迫害を受け死ぬかもしれないということが語られました。
当時の迫害はムチを打たれたり、石を投げられたり、命を落とす人もいました。
もし私たちが、自分が進んでいく道にあるんだと知っていたらどうしますか?

パウロはそれを聞いても一切逃げませんでした。彼の周りにいるクリスチャンたちが一生懸命止めました。
パウロが持っている しもべの精神と、周りにいるしもべの精神が全く違いました。
彼らは苦しかったら逃げる。「後でそれをしよう。今、死にたくありません。長く生きてたくさん働きますから、
神様、他の人を行かせてください。」と、きっと私たちは色んな言い訳をすると思います。
しかし、パウロは自分の主人がそう命令してあるならば、わたしが行かないで誰が行くんだ?と
彼は周りの人たちの言葉を断りました。


クリスチャンたちが神様の子になったということは、その瞬間から「どの道に入ったのかを知りなさい。」と
いうことであります。「広い道ではない」と語りました。それは選ばれた者たちが歩く道は別にあるということです。

2つの道があり、1つは自由に暮らして死んだらどうでもいい、死んだ後は何がわかるんだ?だから「飲めよ、
楽しめよ。」とその道の方が良いです。と思う人は自分が主人で良いと神様は語ります。

しかし、「いや、私は永遠の命も欲しいし、天国があるなら入りたい」と思う人は、その道を選ばないと
辿り着かないです。そこには、私たちをそこまで導く主人がいます。案内する主人の言うことを聞かなければ
ならなく、そこでは自分勝手に出来ないので(自分はどちらの道へ行くのか)選択をしなさいということであります。

パウロは神様の道を選びました。その先に何が待っているのか、そんなに問題ではなかったです。
なぜなら目的地を知っているからです。

私たちが しもべであるならば、必ず主のみこころに従って、そこに迫害や苦しみがあっても
その道を行きます。それが従順なのです。
良い時だけ従うのは従順ではないです。従順は自分を殺さなければ出来ないです。


主の しもべたちは、与えられた使命を最期まで全うしなければならないです。これを別の言葉で言うなら忠実です。
中途半端にして神様に言われた時に「時間がなかったからです」など言い訳をしますが、
本当の部分はそうではなく、怠けている心がいっぱいあるからです。従いたくないという思いが詰まってあります。
旧約聖書のサウル王のようになります。

エゼキエル書には神様の厳しい言葉が書かれています。
そこには神様に従わないで偶像を作ったイスラエルの姿がありますが、
主を信じた者でも自分勝手に歩いた者に対して、神様は怒りをその者に注ぎました。
これは上下関係です。
命令を与える者と、不従順する者に対して神様が語った言葉ですので読んでみてください。


私たちが神様から与えられた使命を果たす時に、すごく気を付けなければならないことがあります。
ただ熱心に働けということではないです。それは熱心党になります。

主に仕えた しもべたちを見ると、人々にものすごく仕えました。
神様に仕えることは、人に仕えることであります。
神様は私たちが人々に仕えるように(私たちを)選んでくださいました。

本当の主の しもべの中にあるものは、ただ仕事熱心な者ではないです。人に対する愛があります。

自分の身を常に守ろうとする者は しもべの姿ではないです。
自分が第一で、他人のことはどうでもいい。他人のために自分のものは何一つあげたくもない、
「何で私があの人たちのために時間を捧げ、命まで捧げることがあるのか?」と思う人は、
まだ しもべの心が分からない人であります。

しもべたちは仕えることが自分たちの喜びになっています。

彼らは主を見上げて力を受けていました。常に彼らは自分たちを選んでくださった神様から目を離しませんでした。
疲れた時もいつも神様のところに来て力を受け、恵みや知恵をもらい、また出て行って仕事をしました。

いつの間にか神様を忘れて仕事に没頭するのは牧師たちの姿でも多いです。
仕事は熱心にしますが、羊(信徒)を置き去りにして羊を見ません。
牧師にとって、本来 それが一番大切なことですが、自分の仕事に熱心に はまっていき、
羊が後ろで鳴いていたり倒れていても、関心がないです。

羊の世話をするのは、羊飼いであり、(他に)誰がするのでしょうか?
そういうことであります。
仕事熱心よりも、神様ご自身や神様が与えてくださった魂に熱心であることが大切です。
牧師は羊を飼うことが仕事であります。

だからと言って、何でもかんでも世話をすることではないです。そのようにすると育たないです。
いつまでも赤ちゃんのままです。

時には厳しく、時には優しく、それは羊を教育するために必要です。
そして育てながら、みこころに従う忠実な者に神様がしてくださるので、 私たち自身が神様の前に、
言うことを聞かないで反抗をする不従順な者にならないで、たとえ今までがそうだとしても
「あぁ、神様。私は本当にダメな子でした。私が変わらないといけないんですね。私を変えてください。
神様が誰なのかよく知って、神様の言葉に対して恐れ おののく者でありますように。」

恐れ おののくことは大切です。

口では「私は しもべです。」と言いながら、しもべの姿の香りが1つも出ないならば、やり直しです。
やり直して、本物の しもべになりましょう。 (*´ -`)(´- `*) 

2013.1.27
聖日礼拝メッセージ

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