からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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あわれみ

感謝と奇跡

テーマは 『 感謝と奇跡 』 です

【ヨハネの福音書6章1-13節】

その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。

大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。

イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。

さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。

イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。

もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。

「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」

彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

みなさんは毎日祈っていますか?


祈っているならば 願いのための祈りが多いですか?

それとも、感謝するための祈りが多いですか?



神様は願いも感謝も聞いておられます。


しかし神様を最も喜ばせるのは “感謝” です。


感謝する時に、さらに強い恵みの雨が天から降ってきます。



そして、感謝の中でも さらに神が喜ぶ感謝があります。

試練の中での感謝と、小さいことに大きな感謝をささげる時に神様はとても喜びます。



いつも感謝している人を見ると、霊的にも精神的にも安定しています。

顔も笑顔です。

口から絶えず感謝のことばが出てきます。


感謝のない人を見るといつも不機嫌な顔、不満げな顔、そして文句を言います。

そこから嫌なものが流れてきます。



今年も既に2ヵ月が過ぎましたが、どれくらい感謝しましたか?


“神の恵みなしには生きていけないな” と思う出来事も色々ありました。

そういうものがあるからこそ、受けている恵みに対して感謝が出てきます。


自分がいま存在していることを神様の恵みだと思っていますか?

自分の足で歩いて来られたことを感謝しましたか?



ある大学2年生の男の人が、交通事故で脊髄を痛めて首から下がマヒしました。

動けなくなりましたが、口に棒をくわえながらパソコンで文字を入力して 友達にメールを送ります。


今は それしか出来ないです。人生が一瞬にして変わりました。

とてもかわいそうでした。


2度も交通事故にあった私から見ると、いま生きているのは すばらしい神の恵みです。

いつもそのことを思っています。






今日のテーマは、“感謝と奇跡“ の話ですが、本文には感謝と奇跡があります。


主は五つのパンと二匹の魚で、男だけで5千人、そして女と子どもを合わせると二万人くらいの人たちに食べさせました。

まさに奇跡です。


その奇跡を起こす “前” のことを 見ていきたいと思います。


主は、父なる神にまず感謝をささげました。

奇跡が起きてからの感謝ではなく、“最初から” 感謝しました。


そして感謝して分け与えた時に、みんなが食べられる分のパンと魚になりました。


主は自分の力を見せびらかすために奇跡を行ったのではないです。



この奇跡は群衆に対する ある思いから始まりました。

本文には出ていないですが、別の福音書には 次のようにあります。


【マルコの福音書6章34節】

イエスは、船から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

彼らの魂を憐れみ、まずは霊のパンを与えました。


それから次の箇所です。


【マタイの福音書15章32節】

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」

食べ物もなく、肉体も弱ってきたことを見て、かわいそうに思い、奇跡を行って彼らを食べさせたいと主は思いました。



聖書にある奇跡を見ると、主のあわれみによって、信仰によって、必要性に応じて奇跡が起きたことが分かります。


誰かに対して憐れみの心を持って祈る時に、その祈りが聞かれることを経験していると思います。


憐れみの心がある時に、私たちの祈りも真剣な祈りになります。


親は常に子どもに対して憐れみの心を持っています。

ですから 惜しむ心がないですし 真剣です。

夫婦でも互いに憐れむ心があると、喧嘩することもなく感謝し合います。


イエス様の奇跡は、とても小さいものから始まりました。



少年が持っていた大麦のパン五つと小さい魚二匹でした。

これは貧しい人たちが食べる食事です。


このみすぼらしい小さい食べ物が主の手に載せられた時に 二万人近い人が食べた “パンの奇跡” になりました。


どんなに小さいものでも、主の手によって大きく用いられることができます。



もちろん主は、無から有を創造することも出来る方です。


神様は大きなものよりは小さいものを用いることを喜びます。


自分には小さいものしかないし、才能もないし、力もないと嘆く必要はないです。

私たちが小さいものを差し出す時に、主は喜びます。


小さいことに感謝出来ず、満足せず、大きなもの、多くのものを求める時が多いですが、私たちは小さいことに対して感謝が必要です。


小さいことも 主から与えられた “恵み” です。






マタイの福音書15章には カナン人の女性が出てきますが、彼女は小さい恵みに大きく感謝した人でした。


悪霊に取りつかれた娘の癒しを求めてイエス様の所に来て懇願しました。

しかしその時の主のことばは意外なものでした。


「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」


女の人はそれに対して、
「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」


彼女は食卓から落ちて来るパンくずの恵みにも感謝出来る人でした。

その感謝によって奇跡が起こりました。


イエス様がパンくずの恵みではなく、その娘を悪霊から解放する奇跡を行いました。


彼女には 受ける前からすでに感謝の心がありました。

これはイエス様からもいつも見られる姿です。


パンの奇跡でも、まずパンを手に取って父なる神に感謝をささげました。

最後の晩餐の時にも、自分の体がむち打たれて死ぬことを知っていながら感謝をささげてパンを裂き、それを弟子たちに配りました。

これから起こる奇跡に感謝しました。



感謝を蒔くと、感謝なことが起こります。


受けてからの感謝も主は喜びますが、受ける前から感謝することは さらに喜びます。


そこには神の奇跡を信じる強い信仰が見られるからです。


これから みなさんもそのような感謝をしてみて下さい。

神様は小さいもの、みすぼらしいものを手に取って神に感謝をささげる人に奇跡を表します。


“不満” では奇跡は起こりません。

“感謝” では奇跡が起こります。


主の感謝でパンと魚に奇跡が起こり、人々は満腹しました。


その後に、主は弟子たちに「余ったものは一つもむだに捨てないように集めなさい。」と言われました。

なぜそうしたでしょうか?


神が私たちに恵みとして与えられたものを むだにしたり、勝手に捨てたりすることは神の恵みをさげすむ行為だからです。


それは神を無視し冒涜する姿です。


いつも “下さい、下さい” ばかり言うのではなく、与えられた恵みを大切に使うことが主の恵みを知っている人の姿です。


どんなに小さい恵みでもそうです。


神は感謝する聖徒を喜びますし、豊かな恵みと奇跡を与えて下さいます。


そして感謝する聖徒たちを サタンは倒すことが出来ません。


感謝は神と周波が合います。

しかし、不満はサタンと周波が合います。



サタンは、感謝する聖徒を誘惑して試みに会わせて倒すことが出来ないです。

すべてに対して感謝しているので隙間がないです。


神から受けた恵みを思い出してみて下さい。

そして心から感謝してみて下さい。


感謝する人の人生にこれから奇跡が起こります。
(・∀・)つ


2017.3.5
聖日礼拝メッセージ

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私をあわれんで下さい

テーマは 『 私をあわれんで下さい 』 です

【マタイの福音書15章21-22節】

それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

「どう祈ったら祈りが答えられますか。どう祈ったらいいかわからないです。」と言うクリスチャンが多いです。

このように、祈りを難しく考える人が意外にも多いです。


イエス様がどのような祈りに いち早く反応したかを聖書で調べるならば、どう祈るべきかが分かります。


イエス様の所には常に様々な問題や悩みを抱えた人たちが ひっきりなしに集まって来ました。

数えられないほどの奇跡がありましたが、ある奇跡は聖書に記録されてあります。


きっとそこには 神様が語りたいメッセージがあったので、特別に記録として残したかもしれないです。


今日の聖書の内容からは、答えられる祈りの言葉が出てきました。


主の所に悪霊に取りつかれた娘を抱えた女の人が来ました。

想像するだけでも日々大変な思いをしながら娘を育てていたと思います。


治す方法すらありませんので 先も見えないです。
毎日が戦いの日々です。


私も、今までそういう人たちを 何人も見てきましたし、悪霊も追い出しました。

家族もとてもつらい思いをしていました。


そのような苦しみを抱えた女の人が、主の所に来て話したことばは とても短いことばでした。


「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんで下さい。娘がひどく悪霊に取りつかれているのです。私をあわれんで下さい。」
この言葉がすべてでした。


これだけでも 辛い状況と切なる願いが伝わってきます。

ことば数が多ければ多いほど(祈りが)聞かれると思って、あれこれと言う人が多いですが、主の耳に一番入りやすいことばは「私をあわれんで下さい」ということばです。


なぜなら主は あわれみ深い方なので、この女の人はそれを知って 主のあわれみに訴えかけました。


そして主も そのことばにすぐ反応しました。

その後、イエス様は彼女の信仰を試しますが、それに対してしっかりと信仰を見せました。


さらに女の人は進み出て、主の前にひれ伏して、「主よ。私を助けて下さい」と懇願しました。


主が “あわれみ深い神” だけではなく、 “助け主” であることも知っている女の人は、積極的に主に願いました。

主は女の人の願いを叶えてあげました。

そして娘から悪霊が出て行き、癒されました。


私たちに主に対する揺るがない信仰があるならば「主よ。私をあわれんでください。私を助けて下さい。」と祈るだけでも主は答えて下さいます。






二人の盲人が目の癒しの奇跡を体験しましたが、彼らにも同じものが見られました。



【マタイの福音書9章27節】

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

そして さらにイエス様のみもとまでやって来た時に、イエス様は「私にそんなことが出来ると信じるのか」と聞かれた時に、「そうです。主よ」と自分たちの信仰を見せました。


すると、主はすぐに彼らの目にさわって「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。

そして彼らの目が見えるようになりました。


彼らは「主はあわれみ深い方、奇跡を行う主、願いを叶えて下さる主」であることを信じました。


その信仰を持って「主よ。私たちをあわれんで下さい」と叫んだので 主が癒して下さいました。


【へブル11章6節】

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

このように書かれているように、信仰をもって 主に「私たちをあわれんで下さい」と求めたので、奇跡が彼らに起こりました。


また、祈るために宮に来られた取税人の祈りはどうでしたか。

彼は罪の問題を持ってきました。
次の箇所です。


【ルカの福音書18章13節】

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

彼の前に、律法を守って敬虔な信仰生活していると自任しているパリサイ人の祈りには反応しなかった主が この人の祈りには反応しました。

そして彼の罪を赦して下さいました。


罪人が罪を赦してもらうために あれこれ言ったのではなく、自分の罪を悔い改めながら「神様。私をあわれんで下さい」と言っただけでしたが、それは主がとても喜ぶ祈りでした。


主が罪を赦して下さる主だと信じたので、主に直接お願いしました。


「私をあわれんで下さい」と祈る時に、主はあわれんで下さいます。

「私を助けて下さい」と祈る時に、主は助けて下さいます。


短いことばですが、主はその言葉に その人の辛さ、大変さ、悩み、願いがすべて入っていることを知っておられます。


そして、その言葉とともに主への信仰を持って主に近づく人に 主は答えて下さいます。

あわれみ深い主は、あわれみを求める祈りに すぐに耳を傾けて下さいます。



【ヘブル4章16節】

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

神様は私たちをあわれんで下さる方です。

また助けて下さる方です。


「私を助けて下さい」と信仰の先祖たちが 苦しみの中で主に助けを求めた時に、いつも助けて下さいました。


自分の中に 主への信仰があり、問題を主の所に持って行き 「主よ。私をあわれんで下さい。私を助けて下さい」と言うだけで、主は答えて下さる方です。


たくさん祈らないと主が見向きもして下さらないと勘違いしてはいけないです。


切なる思いで 「主よ。あわれんで下さい」 と祈るだけでも、その祈りは主に届きます。


(神様に)届いた祈りには必ず答えがあります。


「私をあわれんで下さい」という祈りは、謙遜な祈りです。
そして「私を助けて下さい」はSOSの祈りです。



【第1ペテロ5章5節】

みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

主の前にへりくだって切に求める祈りと願いに 主はいち早く答えて下さいます。


「私をあわれんでください。私を助けてください。」は、とても良い祈りのことばです。
(。・ω・)ノ゙

2016.1.24
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聖徒の愛の姿とは?

テーマは 『 聖徒の愛の姿 』 です

【ルカの福音書6章27-38節】

しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。

あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。 上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。

すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。

自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。 罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。

自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところが あるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。

返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところが あるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。

ただ、自分の敵を愛しなさい。 彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもに なれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。 赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、 あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

“品格”ということばがあります。
その意味を調べると「その人やその物に感じられる気高さや上品さ」であります。

「男の品格」「女の品格」という言葉がありますが、皆さんは「聖徒の品格」を考えたことがありますか?
また、品格がないことを下品と言います。


「品格のある聖徒と品格のない聖徒」ということになりますが、よく考えてみると品格のない聖徒という言葉はそもそも相応しくないです。
聖徒という言葉自体が、下品な姿ではないからです。


自分の姿を見たときに「品格ある聖徒」なのか「下品な聖徒」なのかを考えてみたら良いと思います。

聖徒の品格の中で一番優れているものは、“愛”であります。


この「愛」というのも、誰もが持つような愛ではなく、人が持っていない“愛”です。
男女の愛ではなく、神様が語るアガペの愛(無限の愛)であります。

アガペの愛を持っているなら、その人はどこから見ても品格ある姿です。


イエス様の姿を考えてみてください。

イエス様の姿は誰が見ても品格ある姿であります。イエス様は着飾ったわけではないですし、高学歴でもないですし、ずっと大工の仕事をしていました。

人々はイエス様のことを「この人が語る言葉には権威がある。」と認めました。
イエス様は愛が溢れ品格がありました。

それはクリスチャンに対しても イエス様は同じことを求めています。
無限の愛をあなたたちも持ちなさい ということです。


【Ⅰヨハネ4章7-8節】

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

もし「私は愛がない」と言い、自分の中に本当に愛がないならば、まだその人は神様を知らない者であります。

神の愛に触れ、神の恵みに触れている人は愛が何なのかを知っています。
それを実際に実行するかしないか以前に、愛が何であるのかを分かっています。

『このような者を神様が愛してくださった。恵みを与えてくださった。』
それを感じない者は心が死んでいる者です。

心が生きている人は神様の素晴らしい愛を感じることができます。


神様は「あなたたちが神の愛に触れてクリスチャンになったのなら、あなたもその愛をもって他人に接しなさい。」と命令されています。


今回の本文、ルカの福音書6章27-38節の言葉は、クリスチャンに語る言葉です。


神を知り、神の愛を受けている者は実行しなさいとおっしゃいます。神様は私たちが出来ないことを無理強いしてはいないです。やろうと思えば出来ることだと思います。

これこそが品格ある聖徒の姿であります。

私たちが下品ではなく、品格ある聖徒になりたいならば実行していかなければならないです。


「自分の力や愛ではなく、神様の愛によって私は出来るのだ」と、クリスチャンは 神によって出来るのです。

愛する姿とはこのような姿です。




1.敵を愛し、のろう者を祝福し、侮辱する者のために祈る(27-28節)



これが出来たのなら、それは愛の姿であります。ある意味、世の中とは反対の教えです。
現在、世界で戦争が起こるのもそういうことであります。赦さず憎しみ続ける思いがあります。

しかし、それは愛の姿ではないです。

ここに出てくる敵、のろう者、侮辱する者とは誰のことだと思いますか?
それをまず知らないと、私たちは誰に愛を示したら良いのか分からないです。

自分が罪を犯した相手ではなく、福音を伝えた時に迫害されたり、のろわれたり、侮辱された相手のことです。


私たちが悪い事をしておいて、その人たちが怒って向かってきた時に、「これが私の敵だ」と言うのは、
それは自分が罪を犯したので自分で刈り取らなければいけないことです。

ここで語るのは、福音に対して激しく反対して侮辱する人に対してのことでなので、きちんと区別をしなければならないです。

そのことが次の箇所に書かれています。


【ルカの福音書6章22-23節】

人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。

その日には喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

イエス様も激しい迫害やのろいや侮辱を受けましたが、彼らと敵対したことがありませんでした。

もちろん弟子たちも人々から迫害された時に無抵抗でした。
しかし、ただ無気力に何もしなかったのではなく、愛をもって彼らを赦し、彼らのたましいのために祝福の祈りをしました。


もしイエス様が十字架の上で自分を殺した人たちに対して「お前たちは地獄へ堕ちろ。一生呪ってやる。」と言ったならば、誰も信じてついて行く者はいないと思います。

歴史にもイエス様の名が残らなかったでしょう。


私たちが行動をする時には「イエス様ならばどうするのか?」と考えるのが行動の基準であります。

イエス様は私たちの模範となってくださいました。

イエス様は十字架の上でも品格があり愛が溢れ、迫害する者のために祈りました。
主の愛は無条件な愛で、その対象も制限がありませんし、その愛も無限です。


自分を犠牲にしてまでも愛した愛です。
神様は私たちにもそれを要求しておられます。

この姿を見て、私たちも自分を迫害する者を愛し、のろう者を祝福し、侮辱する者を祈るならば、それは皆さんの中に愛があるのです。
人々はその姿を見て「この人は本当に愛がある人だ」と認めます。




2.自分にしてもらいたいことを、自分が先に他人にしてあげること



これはマタイの福音書に書かれている黄金律です。

自分にしてもらいたくないことを、他人にするなという言葉がありますが、これは聖書ではなく律法学者からの言葉です。「してもらいたくないことは するな」と否定的な言葉が入っています。


しかし、イエス様は私たちが肯定的に積極的に他人にしてあげなさいと勧めました。


あなたは相手から貰うことを考えるのではなくて、あなたの方から先にその人にやりなさいと語っておられます。

人々は先に「(自分が)受けたい」という気持ちがあります。『あなたが私に先にしてくれるならば、私もあなたにしてあげる。』と、人間の思いはいつもそうです。貰ってから与えます。


しかし、他人を愛する人は違うことをします。

自分の方から相手に先にプレゼントをしたいのです。愛するからその人を喜ばせるために何かプレゼントをしようと考えます。

しかし愛が消えると自分のことしか考えないです。


どの人もそうですが、思いがけないことを相手のためにしてあげると、相手はびっくりするのです。
それを受けながら“その人のことを下品だ”とは思わないです。
また自分への愛を感じるでしょう。人々からの評価は「この人は良い人だ。愛がある人だ。」となります。


その人に愛がないならば、絶対に誰かに手を差し伸べることはしないです。


自分はどうなのかを考えることであります。

自分にしてもらいたいことを考えてばかりいるならば、神様は喜ばないです。それは みことばに反することをしているのです。

愛を蒔くならば、愛を刈り取るようになります。

どんなに冷たい人間であっても、自分が愛を注ぐならば相手の心が変わります。冷たい心がほぐれて愛が返って来るのは聖書の法則であります。




3.人を愛し、良くしてやり、報いを求めない姿(32-35節)



自分を愛する者を愛しても、特別なことではありません。

それは神の律法を知らない人でも誰でも出来ることです。
自分に良いことをしてくれる者に良いことをしても それは特別なことではなく、一般的なレベルに過ぎません。


返してもらうつもりで人に貸したからといって、それが特別な愛でしょうか?そんなことはありません。

金貸しは、しっかりと利子をつけて貸します。それを見て人々は「愛がある」とは誰も思わないです。


イエス様がここで語っている言葉は、それは罪人たちもやっていることである。 わたしの愛を受けている者たちは、彼らのレベルで留まるなら、それは愛ではなく誰でも出来ることだ。ということです。

主が求めておられることは、それ以上のことであります。
アガペの愛は全く違うものです。


35節に聖徒の愛はこうあるべきだと語りました。
「自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。」

これは無条件であり、相手がどんな人であるかは関係がないのです。敵か味方かを考えないで、敵さえも愛すべきです。そして自分の利益を求めないというのは、返してもらうことを考えずにそれをすることです。


私たちがみことば通りにするならば、私たちに良い報いを与えてくださる神様です。

「そうすれば、あなたがたの受ける報いは素晴らしく、あなたがたはいと高き方の子どもになれます。」

皆さんは、目先の利益の方が大事でしょうか?それとも、神様から報いを受けることが大切であるでしょうか?


神様が与えてくださる報いは本当に素晴らしいものであります。

私たちがみことば通りにするならば、損するどころか想像もつかない祝福があります。神様が語る祝福は地上のものではなく、天にある祝福です。

地上での旅路は短いので私たちは地上で受けてもそれらを持っていくことが出来ませんので、天の御国で神様は私たちのために備えてくださっているのです。


私たちが本当の意味で神の素晴らしい報いを受けるためにも 敵を愛し、彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸すことが本当の愛の姿であります。




4.あわれみ深い神のようにあわれみ深く、与えることに励む人



神のあわれみの範囲は、恩知らずの悪人にまで及びます。それは35節に書かれています。

恩知らずとは私たちのことであります。
私たちが神様の事を知らない時から命をいただいていますし、神様から毎日すべてのものを受けています。


太陽、空気、水、これらすべては神様から来たものであります。これらを私たちはタダで使っています。

しかし空気があることに感謝しますという人はほとんどいないです。ほとんどの人はそれを当然だと思っています。

このようにどんな人に対しても神様はあわれみ深い方です。
神様はすぐにでも裁くことが出来るのに、裁かず生かしてくださるのが神様のあわれみ深い姿です。


私たちが悔い改めて立ち返るように、常にチャンスを与えてくださっています。
主は私たちに「天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい。」と要求しておられます。

自分が受けた恵みをすっかり忘れて、「私はそんなことは出来ない」と言うのではなく、
恵みを受けているからこそ「私もそのようにします」としたら神様が喜ぶことであります。


クリスチャンは常に与える人にならなければいけないです。

これは世の法則とは違います。世の法則では、握りしめて自分のものにして他人に奪われないようにしなさいと教えます。

しかし神様は、たとえあなたから奪う者がいても与えなさいとおっしゃいます。常に与えることを考えるのです。
イエス様は与え続ける人生を生きてきました。そして命さえも与えてくださいました。


なぜ、神様が「与えなさい」という言葉を使うと思いますか?
それは私たちの為であるのです。私たちに素晴らしい報いを与えるために神様は与えなさいと語ります。

地上で私たちがどれだけ与えたかによって、天で受ける報いが決まります。


「最も小さい者にしたことは、私にしたことです。水一杯あげても、その報いを受けます。」と約束されています。


ですから、神にも人にも与えたことがない人は、天国で何も受ける報いがないと思わなければなりません。
与えることを知らず、自分だけが握りしめている人は自分だけを愛する人です。

他人にもてなすということは素晴らしいことです。それは絶対に無駄なことではありません。
愛の人の周りには、人がたくさん出来るようになります。


その人を利用して来る人は悪い人ですが、私たちは困っている人に与え、蒔くべき所に蒔き、相手が求めなくても「困っているだろうな」と自分の方から手を差し伸べることであります。




5.さばかず罪に定めず、赦す人(37節)



私たちは他人を裁く人を見て、愛の人だとは思わないです。

神様はなぜ私たちにこのように語るでしょうか?

自分の目には梁があるのに、兄弟の目にあるちりに関心がある人たちに対して叱責のことばであると同時に 聖徒たちがさばくのは神の権威に属していることなので、神に任せて赦す人になりなさいと命令しました。


なぜ私たちが他人を裁いたり罪に定めたり 赦さないことがいけないのでしょうか。

それは神様が権威を持っているからです。裁く権威は神様以外には誰も持っていないです。

私たちは罪人ですので、イエス様は私たちの目の中には梁があることを教えます。
しかし自分の梁には関心を持たないで、他人の目の中にある ちりに目を向けて「悔い改めなさい。あなたは罪人です。」と非難をするのでしょうか?


他人を激しく非難したり責める人は、自分の中の梁に気付いていない人であります。
それで他人にある小さなちりを見て罪に定めます。

これは一言でいうなら、愛がない姿です。愛がない人は自分の中に神がいない人であります。

他人を赦すのは相手のためではなく、自分自身のためです。他人を赦すと自分が神様から赦されるので、まず赦します。


天国に行きたいと思うならば、自分が天国に入るためにも他人を赦すのです。

相手が自分に謝らなくても態度が変わらなくても関係がなく、「主よ。あの人の罪を赦します。私の罪も赦してください。」と祈ることです。


イエス様は自分を殺した人たちを赦しました。
私たちもイエス様の姿を見て、見習って行動をすることです。

迫害する者たちが投げた石に打たれながら死にかかったステパノはイエス様と同じく
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。そこに愛の姿を見ることができました。
これは聖徒が見せるべき愛の姿勢です。


クリスチャンの倫理、道徳の行動基準は低いレベルではなく、むしろ高いレベルです。
それは神ご自身が、この世の神々と呼ばれるものとまったく違う存在であり、愛とあわれみと赦しと偉大な神であるからです。

神様は私たちのことを子どもと呼んでくださっていますので、神の子どもであるならば 聖徒も相応しい姿でなければなりません。


世の中のレベルに合わせるのではなく、神の国の市民として そのレベルに合わせるのです。
私たちは身体は地上にあっても、私たちの国籍は天国であります。

聖徒の品格すら何一つなかった者たちが、日々成長して聖徒の品格を整えていく時に、それが神に栄光をささげる姿です。


愛ある行動ほど聖徒の品格を高めるものはありません。


愛があれば全て出来ることです。愛があるなら問題なく1つ1つのみことばを実行することができるのです。
今日のみことばを目指して日々実行していくならば、誰でも愛の人に変わることができます。
(´∀`*)

2014.7.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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