からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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聖日礼拝メッセージ

イエス様が教える祈り方

テーマは 『 イエス様が教える祈り方 』 です


今日はお祈りについて考えていきましょう。

みなさんは普段お祈りをされているかと思いますが、そもそもお祈りとは何でしょうか?


普段のお祈りを一度振り返ってみてください。


「神様、この問題があります。解決してください。」「神様、病気を癒してください。」「祝福してください。」など色々な願いを持ってお祈りをした方が多いのではないでしょうか。



確かに私たちが必要なものがある時に必要なことを求めて祈ることや、神様に助けを求めることは悪いことではありません。

聖書でも、「求めなさい、そうすれば与えられます」という御言葉もありますし、お願いすること自体は悪くないのです。



しかし、もし そればかりになってしまっている場合は少し注意が必要です。


『お祈り=神様にお願いごとをする』、要求の時間になっているからです。

これは本来のお祈りの意味とは少し異なってきます。


聖書には、イエス様が直接私たちに「こう祈ったらいいよ」と教えてくださっている箇所があります。



主の祈りですが、これは主が教えてくれた祈りであり、本当は弟子たち、私たちがどのように祈るべきかの模範の祈りです。

弟子たちの祈り、私たちの祈りです。


そのイエス様直伝の祈り方について詳しく見ていきながら、自分の普段のお祈りと比べつつ、どのように違うのか、足りない部分がどこか、また、実際にどのようにお祈りすればいいのかを学んでいきましょう。






【マタイの福音書6章7-15節】

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。


主の祈りを具体的に見ていく前にまず7-8節を見ていきましょう。


【マタイの福音書6章7-8節】

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。


異邦人、特にその当時のギリシャ人は、ギリシャの神々に祈る時に その神々の名前をたくさん挙げながら、どれかには聞かれるだろうと思い、祈っていました。


だからこそ、同じ祈りを何回もただ繰り返していました。

でもこれは神様が私たちに求める祈りの姿ではありません。


長い祈りをすると聞かれるという考えではなく、どのような気持ちで祈るのか、祈りをどのように捉えているのかが大事なのです。


何も深く考えずにとりあえず長く祈ろう、繰り返して祈ればいつか聞いてくれると思って、呪文のように何度も唱える必要はないのです。



神様は唯一無二の私たちの神様であり、私たちが必要なものはすべてすでにご存じであり、私たちの祈りにも耳を傾けられています。


大切なのは、お祈りの長さではなくて、お祈りに対する私たちの姿勢なのです。


一つ気をつけたいのは、長い祈りが悪いという訳ではないです。


意味もなくただ繰り返す祈りが不要なだけであって、神様としっかり交わりをしながら祈りが長くなるのはもちろん大丈夫なのです。

イエス様も一晩中祈ることもありました。



ポイントは、意味のない言葉を長く並べるのではなく、お父さんに話すように意味のある言葉を会話として、話していくことです。


長く話さなくても、何回も繰り返さなくても、天におられる父、神様に伝わる祈りがこのイエス様が教えてくれた祈りなのです。



この主の祈りで大切なポイントの一つが、ここで出てくる主語は「私」ではなく、「私たち」になっていることです。

お祈りは、自分のためだけではなく、周りにいる人、兄弟姉妹も含めて、みんなのためでもあるのです。


イエス様もよくお祈りの中で、人のため、また、私たちのために祈っておられました。


私たちも自分のためではなく、周りの人のために祈るべきです。






それでは、一節ずつ見ていきましょう。


だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。


私たちの神様は天におられますが、私たちの父なのです。

私たちと親しい関係であり、家族としての深いつながりがあります。


この天におられる私たちのお父さんは誰よりも私たちのことを気にかけ、関心を持ち、いつも私たちとの交わりを大切に、会話を大切に考えられています。


イエス様もこの地におられた時、いつも天におられる父、神様に対して呼びかけ、お祈りをしていました。

いつもコミュニケーションを取りながら、父の意思が、御心がなされるようにいつもお祈りしていました。



私たちもイエス様がされたように、天におられる私たちのお父さんにお祈りを通して話をするのです。

お祈りはお父さんとの親子の会話です。


そのお父さんに、初めに祈るのが神様の御名をあがめることです。

神様の御名を聖なるものとしてあがめること、つまり、神様の聖なる御名を尊敬し礼拝することです。


お祈りはまず天におられるお父さんに話しかけ、お父さんを尊敬し、礼拝することから始まります。






御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。


この御国は、これから終わりの時代を経て、来る新しい天の御国のことです。


神様が元々造られた完璧で平和な、愛があり、神様との交わりがいつもあったエデンの園をもう一度造り変えられます。

その新しい神様の御国が来るように、神様にその御国を送ってくださるように祈るべきです。


その御国では、私たちが今経験している苦しみや、痛み、罪、あらゆる悪いものはなく、すべて神様が造られた美しいものと神様との直接交わりができる場所なのです。

その御国が来るように祈るべきです。



また、御心の天になるごとく地にでも行われますように、は もちろん神様の意思が、御心が今のこの地でもなるようにということでもありますが、ただ神様だけがそのようにするのではなく、私たち自身もその神様の御心の通りに歩み、神様の御心を実行する者になることが大切です。


それは、神様だけではなく、私たちの日頃の行いのことも指します。

天ではすべて神様の御心がそのまま完全に行われています。



しかし、地ではその御心を行わないように邪魔をするものがいます。

その邪魔する者が働くことのできないよう、どんなことがあったとしても、神様の御心の方がなされるようにお祈りすることです。






私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。


日ごとの糧=日用の糧=その日(来る日)に必要なもの。
英語では“daily bread”で、マナと同じです。


エジプトを出る時に、天からマナが降ってきて神様がその日一日一日に必要な食糧を与えて、それで人々は毎日を生きていました。

自分が食べる分以上に蓄えようとしても、腐ってしまって食べることができませんでした。


なぜでしょうか?

それは、神様がその日その日に必要なものを備えてくださるからです。


一日一日その日に必要なものを祈り、与えられていくことで、神様が私たちに日々必要なものを与えてくださっているということを覚え、神様に頼って生きているということを実感しながら生きることができるのです。



もし神様が必要なものをすべて私たちに与えて、一生困らないとなってしまったら、きっと神様から与えられたことも忘れ、感謝も忘れ、自分勝手に生きる者になると思います。

日々神様によって生かされている経験ができなくなります。


本当はすべて神様が私たちに必要なものを備えて与えてくださっているのです。



神様は私たちが必要なものはすべてご存知です。

また、それもすべて備えてくださる方なのです。


だからこそ、続きの箇所でもあるように、明日のことは明日が心配するから、その日に必要なものを求めて生きることです。


その時々に必要なものは神様が与えてくださる。

神様にその時々に必要なものを求めてお祈りすることです。


祈りは私たちの欲のため、欲を満たすためにあるのではありません。

私たちの欲のためではなく、必要のために祈っていきましょう。






私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」


負い目=借り、借金

ユダヤ人は、罪=debt(借金)として捉えていました。


罪は代価を支払って返さなければならないものです。

私たちが神様に逆らい、神様の御心ではないことを行って罪を犯す時、私たちは神様に借金を作っているのです。


その借金である罪、負いめのために、罪の赦しを神様に求めないといけません。

しかし、その前に、まず私たちは 私たちに悪いことをした人を赦さなければなりません。



人を赦さずに『自分だけ赦してもらおう』は神様が望まれることではないのです。


人のことをどうしても許せないと思う人は、神様からの赦しを経験していない可能性があります。


つまり、イエス様を信じて、罪を赦されて救われたと思ってはいますが、実はまだ救われておらず、神様の赦しを経験していない人です。



私たちが犯してきた罪、その代価の大きさを悟った人、そして それをイエス様が十字架の上で代わりに支払ってくださったこと、その赦し、恵みの大きさに悟った人。

その人は、他の人が何か悪いことをしたとしても、その人のことを赦すことができます。


なぜならば、神様がそれよりも私たちの大きな罪、神様に対して歯向かい、犯した罪さえも赦してくださったその恵みの大きさを知っているからです。



「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく我らの罪をもゆるしたまえ」と祈る時、私たちは まず周りの人々のことを赦しているのか、赦していない人はいないかを探り、もしいれば まずその人のことを赦し、そして神様に私たちの罪も赦してもらうように祈っていきましょう。






私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン〕


試みに会わない=罪を犯さないようにする

罪を犯す時は、私たちが試みに会っている時です。


誘惑を受ける時や、自分の弱い部分に対してのサタンからの攻撃を受ける時、それに打ち勝つか、負けて罪を犯すかのどちらかの結果になります。



しかし、この試みにそもそも会わないように祈ること、たとえ試みに会ってしまったとしても その試みの中で負けたり、誘惑に陥ってしまったりしないように祈ることが大切です。


また、悪、つまりサタンやサタンからの攻撃、災害も含めて私たちを苦しめるものから救い出されるように、お祈りすべきです。


神様は苦しみの中で必ず脱出の道を与えてくださる神様です。

聖書でも患難があるとはっきり書かれていますが、その患難や迫害から救い出されるように、神様の助けを呼び求めるべきです。


神様は助けを求める時に答えてくれる神様だからです。



ちなみに、最後の “〔  〕” 部分は、聖書が複写されていた初期の頃にはなかった部分だと言われています。


しかし、その当時、お祈りを捧げる時はいつも最後にこのような主へ栄光を返す頌栄、つまり締めのお祈りがありました。

習慣として当たり前にしていたことなので、元々は書かれていなかったようですが、後世のために付け足したようです。


ここはそのまま、あるものだと思って取り扱っていきましょう。



お祈りの最後は、いつも神様にすべての栄光を返すことです。

神様が主権を持っておられることを認めることです。


この主の祈りをまとめると、「上から下に」つまり「天から地」の順番で、神様への礼拝から始まり、次に私たちの身の回りのこと、罪の赦しを祈って、最後は神様に栄光を返すことです。


お祈りはこのように天におられるお父さんである神様と、地にいる私たちの大切なコミュニケーションなのです。

今日も神様と交わりをしていきましょう!

アーメン (。・ω・)ノ゙


2021.6.13
聖日礼拝メッセージ

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主を愛せずにはおられない理由

テーマは 『 主を愛せずにはおられない理由 』 です

【マタイの福音書25章40節】

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

主を知らない人は、主とは無関係です。


彼らは言います。

「主とは誰なんだ。そんな者は知らない。」と言います。


しかし主に出会って、人生が大きく変わった人ならば、主の存在は何ものにも代えがたい存在になります。

愛さずにはおられない存在です。



聖書に出て来る人物の中で、主に出会って人生が大きく変わった人たちがいました。

その中には主が言われた「最も小さい者たち」がいました。


“最も小さい者” とは どのような人のことでしょうか?


空腹な者、着る物がない人、住むところがない人ですか。

彼らは小さい者と言うより、貧しい者と言えます。



本当に小さい者が誰なのかを学びたいと思います。


そして、主が 彼らにどのように接したのか、これが大切です。

それを知らないと、私たちは小さい者をつまずかせてしまいます。


主がどんなに偉大な方で、語ることばが立派であっても、それだけで、小さい者たちが素直に主を信じることはないです。


自分が直接 主に出会って、そこで感じたものがあるので彼らは変わりました。






●ザアカイ

民族の血を吸って金持ちになった取税人ザアカイに対して 主が見せた態度、
彼の名を呼んで、その家に泊まらなかったならば、彼は主が遠い所からわざわざ来られたとしても主を信じて変わることはなかったと思います。


人々から「あの人は罪人のところに行って客となった。」と文句を言われても、イエス様は最も小さい者であるザアカイを見つけて彼を救いました。


ザアカイはあまりにも嬉しくて自分の財産を手放して主を受け入れました。



●姦淫の場で捕らえられた女

姦淫の場で捕らえられた女は、石を手にした律法学者とパリサイ人たちに連れられてイエス様の所に来ました。


彼女は自分の死を悟って恐怖心で震えていたと思います。

人々の手にある石を見たからです。


彼女は殺される寸前でした。

罪を犯した現場で捕らえられたので、逃げることも出来ませんでした。

律法によって死刑の刑罰を受けなければなりませんでした。


この時、主の目には彼女が最も小さい者に見えました。


イエス様は誰よりも大きな愛を持っている方ですが、目の前にいる女を助け出さなかったならば、女にとってイエス様は愛の神ではなく、刑罰を与える怖い神の印象しか受けなかったと思います。


イエス様は彼女を助ける行動に出ました。


主は人を死なせるために来られたのではなく、生かすために来られましたので、彼女を赦しました。


死からいのちを得た彼女にとって イエス様はいのちの恩人であり、罪を赦す神、愛の神であることを知りました。

主を愛さずにはおられない者になりました。



●ラザロ

死んだラザロやその家族のために見せた主の涙で、人々は主が彼らをどれほど愛していたのかを知りました。






愛の神と言われても自分が体験しないと、素直に その愛を信じることは出来ないです。


ゲッセマネの園で、汗が血のしずくになるまで ひれ伏して「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈りました。


それがなかったならば、主が墓から復活したとしても、信じる者が、主が歩んだ道について行くことは難しいです。



主は最も小さい者たちに関心を見せ、彼らが主の愛に触れるようにしました。

主にある救いと恵みを受けるようにしました。


そして彼らが新しい人生を生きるようにして下さいました。



もし 主が高い所におられるなら、最も小さい者たちにとっては雲の上の存在なので、一生 主に触れることはないと思います。

主の救いも 恵みも 愛も受けることはないと諦めると思います。



しかし、主は最も低いところに来て下さいました。

そして私たちも、主のように 最も小さい者に関心をもって欲しいと願っておられます。


私たちも 最も小さい者の1人であったことを思い出しましょう。


【ヘブル4章14-15節】

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

アーメン (・∀・)

2021.6.6
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善悪の知識の木といのちの木

テーマは 『 善悪の知識の木といのちの木 』 です

【創世記2章9節】

神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。


エデンの園はパラダイスです。

最高に快適な環境です。


人間を愛した神は、人間に配慮して最高の環境を与えました。

最高に住みやすい場所がエデンの園でした。


しかし そこにずっと住みたいならば、1つの条件がありました。

それは、“園の中央にある善悪の知識の木から取って食べてはならない” ことでした。


【創世記2章16-17節】

神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」


神は、人間が自分の考えや思いで善悪を判断することを願いませんでした。

善悪の判断は神の領域だからです。


神が善悪の判断をするので、人間の善悪の判断はエデンの園には要らなかったです。


ある人たちは、人間が罪を犯したのは神のせいだと言います。

「善悪の知識の木がなかったならば 罪も死もなかったのに、そんなものをわざわざ作った神が悪い」と言います。


しかし、これはとんでもない言葉です。



罪は、善悪の知識の木によって始まったのではないです。

善悪の知識の木に対する神のことばに、人間が不従順したからです。


善悪の知識の木は、神が人間を試みるためではありませんでした。


人間に与えられた多くの自由の中で、たった1つの禁止命令に従うならば、永遠にパラダイスで神と共に祝福と平安の中で暮らすことが出来ました。



しかし人間は蛇の誘惑を受けて、欲を抑えることが出来ず、結局自分の決断で善悪の知識の木から取って食べました。


神がすでに「それを取って食べると必ず死ぬ」と強調したので、人間はそれを十分知っていながらも従いませんでした。


善悪の知識の木の実を食べたのは、人間の選択でした。

ですから不従順の罪の責任は、神ではなく、人間にあります。






罪を犯した人間を、神はエデンの園から追い出しました。

エデンの園に住む資格を彼らは罪によって失いました。


エデンの園を追い出された人間を待っていたのは、苦労と呪いと死でした。



また、それから人間は 神からではない人間の善悪の知識を土台にして すべてを考えるようになりました。


自分たちで倫理、道徳、宗教などを作りました。

善ならば祝福、悪ならば罰という救いの基準も作りました。


しかし、知らなければならないのは、どんなに善悪の基準を決めて行動しても、そこに無いのは “いのち” です。

何をしても結局 最後は死です。



神が与える命がないならば、どんなに良いことをしても滅びの対象にしかならないです。


良いことに対しても、それは神の基準ではなく、自分の基準だからです。


もしパラダイスに住みたいならば、善悪の知識の木から取って食べてはならないです。

それは今も同じです。


エデンの園には、いのちの木もありました。



命がほしい人は命の木から取って食べなければなりません。
そのいのちとは “イエス・キリストのいのち” です。


それを食べないと命はないです。


【ヨハネの福音書10章28節】

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。


イエス・キリストは、自分のいのちを与えるためにこの世に来ました。

信じる者たちに、いのちを与えると約束しました。


イエス様のいのちに、人間の善悪の知識が入る余地はないです。

いのちの木には命の実しかならないです。






神は、2つの道が私たちの前にあることを教えました。

死の道といのちの道です。


死の道は、善悪の知識の木の実を食べながら生きる道です。


いのちの道は、神の口から出るいのちのことばによって生きる道です。


【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。


神のことばには関心もなく、自分の思いや考えで生きる人がほとんどです。


死に至らせる善悪の知識の木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするものに見えるので取って食べやすいです。

しかし、そこにいのちはありません。



神のみことばは、私たちを命の道に導くことばです。

それに従う時に死の道から離れることが出来ます。


【ヨハネの黙示録2章7節】

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』


【ヨハネの黙示録22章14節】

自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。

アーメン v( ̄∇ ̄)v


2021.5.30
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愛とは

テーマは 『 愛とは 』 です


「愛」とはどのようなものでしょうか。

聖書の「愛」は恋愛の「愛」ではなく、心がドキドキするような「愛」ではなく、恋人や夫婦の中の「愛」のことではなく、恋人、夫婦、子ども、兄弟、家族、教会の兄弟姉妹、友達、会社の人、周りの人々すべてに対する「愛」を指します。


【第1コリント13章1-13節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


まずこの箇所を大きく分けると3つに分けることができます。






1)愛なしでは意味なし(1-3節)

2)愛の性質(4-7節)

3)愛は絶えない(8-13節)


2つ目の「愛の性質」を詳しく見ていく前に、先に他の二つを確認していきましょう。


1)愛なしでは意味なし(1-3節)

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。


たとえ、どんなに賜物を持っていても、預言が出来ても、知識が優れていても、完全な信仰があったとしても、愛がなければ意味がありません。


すべて それは形だけ、スペックだけがすごくて中身がない人間です。

たとえ、全財産を貧しい人にあげて素晴らしい奉仕をしたとしても、迫害から逃げずに信仰を貫いたとしても、愛がなければ何の価値もないのです。


それほど愛はすべてのうちで最も大切であり、愛がなければ何の意味がないほど、愛は必要不可欠なものなのです。


3)愛は絶えない(8-13節)

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


預言、異言、知識はすべて神様、イエス様についてです。


今は私たちが直接神様、イエス様と会うことができません。

そのため、これから再び来られるイエス様や世の終わり、天の御国についての預言が与えられていますが、その預言は神様について すべて語られているのではなく、一部について語られているのです。


それはまるで鏡にぼんやりと映る姿を見ているようです。

当時の鏡は今私たちが持っているような くっきりとはっきりと映っている鏡ではなく、青銅でできた鏡のため、ぼんやりと映っていたのです。


神様やイエス様のことを私たちは今はっきりと見ることはできず、預言や聖書を通して、どういう方なのか、ぼんやりと知っています。



でもイエス様が再び来られる時、また私たちが天の御国に帰る時には 私たちはいよいよ神様、イエス様と直接顔と顔を合わせて見るようになるのです。


そうなると預言、異言、知識はすべて必要がなくなります。

残るものは聖書に書かれている通り、神様を信じる私たちの信仰、イエス様の中にある希望、神様、そして人々への愛なのです。


この愛は止まることがなく、なくなることがなく、常にあるものなのです。

次に、実際にこの愛とは何か、4-7節を詳しく見ていきましょう。






2)愛の性質(4-7節)

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。


① 愛は寛容、親切

この「寛容」は、ギリシャ語では「忍耐」の意味であり、特に「何か怒るようなことがあったのにも関わらず、文句も言わずに我慢すること、忍耐すること」を意味しています。


相手が何かあなたを怒らせるようなことをしたとしても、それに対して文句を言わずに忍耐し、赦すこと、寛容である姿が愛の姿なのです。

しかもそれに加えて、その人に親切にすることが本当の愛の姿です。



私たちが悔い改めをする時、「しまった」と心から反省する時はいつでしょうか?


それは人に指摘され、文句を言われた時でしょうか。

いや、むしろ逆に悪いことをした相手が私たちを赦し、それどころか親切にしてくれた時に心から「申し訳なかった」と悔いたり、反省をしたりするのではないでしょうか。



人の心を溶かし、和らげるのは、指摘の言葉ではありません。

人の心を動かし、和らげるのは、その人を赦す心、寛容な心、相手に対する親切な心、親切な行動なのです。


愛は相手があなたにしたことに対して、文句を言わずに忍耐し、逆にその相手に親切に接することです。





② 妬まない、自慢しない、高慢にならない

妬みとは、他の人が持っているものや、他の人のことを羨ましいと思うことや、誰の方がもっと良いのか、優れているのかと言い争うことです。

また、人の成功を喜ばしいと思わないことです。


ここでの「愛は自慢しない」は、その相手に対して自分のことを自慢しないということです。


「私すごいでしょ、偉いでしょ」と自慢すること、高いプライドを持って相手に接することは愛のない姿です。

それは相手の徳を高めること、つまり人々の役に立つ、人々がよくなるように仕えるのとは正反対であり、「自分自身、自分だけよければ良い」という考え方なのです。


本当の愛の姿は、相手に対して自分のことを自慢せず、相手の上に立とうとしません。






③ 礼儀に反することをせず、不正を喜ばない

礼儀とは、人前での態度、ふるまいです。


ここでは、礼儀に反する事として不品行や、性的な問題なども挙げられます。

今でいう「ハラスメント」をしないということです。


自分自身がしないということだけではなく、相手が行っている不正、つまり聖書的ではないこと、聖書に反することを喜ばないことも愛です。


もし相手が罪を犯しているのならば、その罪自体に私たちは喜ぶべきではありませんし、むしろ相手が正しい道に戻れるよう、神様が喜ぶ姿に変えられるように努めるべきです。


ここでの「真理」は、義と霊的に清いこと、つまりは神様の中で正しく、霊的であることを喜ぶべきだと教えています。





④ 自分のやり方、自分を優先しない

日本語の聖書では、「自分の利益を求めない」と書いてありますが、ギリシャ語には実は「利益」という言葉はなく、「自分の」とまでしか書かれていないのです。


つまりは「自分のもの」を求めない、言い換えると自分のやり方、自分を優先しないということです。






⑤ 怒らず、人のした悪を思わない

ここで「人のした悪を思わない」とありますが、ギリシャ語では、「人のした悪を数えない、記録しない」という意味です。


私たちは よく「この人にこんなことされた」「昔もこんなことしたよね」と相手がした悪いことを心の中で記録しがちです。


でも、人を愛することは、その人がした悪いことを心の中で記録せず、数えないことです。

罪は悪いことですし、犯すべきではないのですが、いつまでも人の罪を私たちが覚えて記録しておくべきではないのです。


神様も罪自体は全く喜ばないですし、私たちが罪を犯さないことを願っていらっしゃいますが、私たちが犯した罪をいつまでも記録して覚え、ずっと責め続けることはなさらないのです。

私たちが支払うべき罪の代価をイエス様が代わりに支払ってくださったからです。


私たちにした人の悪は、私たちが記録せず、代わりにイエス様がその人の代価を支払ってくださったことを覚え、その罪を赦すべきです。






この愛の姿を全部まとめて書いてあるのが、7節です。


すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

この愛の姿ですが、私たちの実際の生活の中で一番想像しやすく、似ている姿は、“赤ちゃんへの母の愛” です。


お母さんは赤ちゃんと共に過ごしながら、その赤ちゃんが泣きまくったり、変えたばかりのおむつにうんちをしたりしても怒らず、そのことを覚えて責めず、それでも赤ちゃんにやさしくし、大切に接するのです。


夜泣きをしてあまり眠れなくても赤ちゃんをあやしますし、それでも赤ちゃんの面倒を見ますし、礼儀に反するようなことはしません。

お母さんはいつも自分のことは優先せず、赤ちゃんを優先して赤ちゃんのことを思います。


その赤ちゃんのためにすべてを我慢し、その赤ちゃんが元気に大きく育っていくことを信じ、期待し、何があっても耐え忍びます。

この親の赤ちゃんに対する愛が、聖書で書かれている愛の姿に一番近い身近な愛の姿です。



また、この世で完全な愛を見せたのは一人しかいません。

それはイエス様が私たちに向けた愛です。


イエス様が私たちを愛したその姿、その愛の形はここで書かれているのにすべて当てはまります。


聖書で書かれているイエス様の姿を見ることによっても、愛がどういうものであるかを私たちは知ることができるのです。


その愛を私たちも実践していかないといけないのです。

なぜ私たちは周りの人を愛さないといけないのでしょうか。


彼らが私たちによくしてくれたからですか。

家族だからですか。


何かをしてくれたから愛すのではなく、その隣人を愛することは神様が私たちに与えた一番大切な命令だからです。


【マタイの福音書22章35-40節】

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


私たちが周りの人を愛す理由は、その人がどうとか、何をしたからとかではなく、神様がそのように私たちに求めているからです。


神様が私たちを愛してくださったのも同じです。

神様が私たちを愛すと決めてくださったから、私たちが罪を犯し、どんな姿であったとしても、私たちを赦し、愛し、信じて待っていてくださるのです。



私たちも神様が私たちにしてくださったように、周りの人を愛すべきなのです。


完全な姿ではないけれども、少しずつキリストの姿に似たものになること、そのためには何よりもキリストが私たちに一番大切だと教えてくれた「隣人を愛しなさい」ということを実践することが大切なのです。


【第1ヨハネ4章7-11節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2021.5.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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私たちはキリストの体

テーマは 『 私たちはキリストの体 』 です

神様が、私たちが教会に集う者として、どんな姿を求めているのか、教会の在り方についてみていきましょう。


第1コリント人への手紙から学んでいきます。

まず、コリント教会がどんな教会であったかを確認しましょう。


【第1コリント1章4-7節】

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。

というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。

それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。

コリント教会は、パウロが建て、アポロが仕えていた教会であり、人々は信仰を持ち、キリストの中で知識を得、賜物も熱心に求め、教会に仕えていました。


その人々の中で分裂もあり、様々な問題がありました。

貧しい者もいれば、富む者もいて、格差もありましたし、どのように教会生活を送るべきか、それぞれどのような働きを教会でしているのかにも違いがありました。



そもそもコリント教会での分裂は、どの指導者についていくかで人々が言い争いによって起きていましたが、それだけではなく、人々の中、信徒同士でも問題があったのです。






今回はその問題の中の一つを見ながら、彼らを反面教師として、教会とはどういうものであるべきか、私たちは自分自身どうすべきか、周りの人とどのように交わっていくべきかを見ていきましょう。

賜物を題材としたところを中心に見ていきます。


【第1コリント12章4-31節】

さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、

ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。

みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。

みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

ここで、賜物について述べられています。


「賜物」=「神様からのギフト」です。

英語で訳すと“Spiritual Gift”であり、「神様からの霊的なギフト」です。


ギリシャ語を見ると、さらにこれは代価なしに神様の恵みによって、タダで与えられているギフトという意味を含んでいます。


賜物は、神様が恵みによってタダで私たちに与えてくれたものであり、自分のためではなく、人のために使うものとして私たちに与えられました。



あなたの持っている賜物、あなたの才能、得意なこと、信仰はあなた自身が作り出したものではなく、神様があなたに与えたものなのです。


あなたが偉いから、特別に優れているからあげたのではなく、神様があなたにはこれをあげよう、と恵みによってあなたにあげたのです。

そのため、この賜物は自分の名誉や名声のために使うものではなく、自分のものとして誇るのでもなく、人の益になるように使うべきです。


先ほど見た箇所や、続きの箇所でもそのように書かれています。


【第1コリント12章7節】

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

【第1コリント14章12節】

あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

【第1コリント14章26節】

兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。

賜物は私たち一人一人がキリストの体の器官として働くために与えられ、徳を高めるため、つまりは皆の益になるために用いていきましょう。


逆に賜物があるのにも関わらず、働いていない、用いていないのであれば、体の器官としてちゃんと働きをしていないことになり、他の体の部分がカバーとしないといけなくなり、他の人も苦しい思いをするのです。



神様があなたに何か賜物を与えてくださったのならば、それを人の益のために積極的に使いましょう。


教会では、それぞれみんな違った賜物を持ち、違った役割をします。

同じ一つの御霊、聖霊様がそれぞれに違った賜物を与えてくれています。


目立つ働きもあれば、見えないところでひっそりとがんばっている働きもあり、自分では気づいていないけれども他の人の益になっていることもあるのです。

目立つ賜物だけが大切なのではないです。


目立たなかったとしても、神様は一人一人に必要だと思った賜物を与え、一人一人を何よりも尊く思っているのです。


それぞれ違った働きをしていますが、同じ一人の御霊、聖霊様が働いているのであり、その聖霊様が私たちにユニークに働かれているのです。



教会のみんなはキリストの体であり、全員が必要な大切な部分なのです。

一人一人が大切なのです。


しかし、教会生活をしているうちにこれを忘れて次のように思ってしまう人がいます。


「私は手ではないから、からだに属さない」「私は目ではないから、からだに属さない」と思ってしまう人です。


【第1コリント12章15-20節】

たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

この15-16節は、誰かに言われたのではなく、自分が自分自身に投げかけている言葉です。


「あの人はきっと教会にとって大切な存在だけど、私はきっと大切じゃない。この教会にいなくてもいいかも知れない。」、「私はあの人のように信仰がある訳じゃないから教会に属していない。」などと思う必要は全くないです。



神様は一人一人に違った賜物を与え、一人一人全員を大切かつ、なくてはならない器官として作られたのです。


それぞれ違って良い、それぞれ違うからこそ良いのです。

一人一人違うからこそ一つの体としてうまく働くことができるのです。


逆に、自分自身は大丈夫と思っていて、人のことを責める人がいます。


【第1コリント12章21-27節】

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

神様は一人一人違った神様の作品として作っていますし、一人一人に違った賜物を与えています。


違った働きをするからこそ、キリストの体としてうまく働くのです。

みんなが同じ働きをすると、足りない部分も多く、うまく体が機能しません。


神様がみこころによってそれぞれの役割を決め、それぞれに賜物を与えました。


御言葉を伝える人もいれば、聖書の知識を教える人もいれば、異言を話す人もいれば、預言をする人もいれば、いやしを行う人もいれば、困っている人を助ける人もいれば、教会で様々な必要な働きをする人もいます。



賜物は多岐に渡り、神様はそれぞれに違った賜物を与えているので、他の人に「なぜこの仕事はしないの」という必要はないし、「なぜあの人はこの奉仕をしないの。」と他の人と比べて、自分の物差しで人々を測り、他の人に奉仕を強制すべきではありません。


それは神様が私たちに求めている姿ではありません。

「奉仕」や「賜物」を基準に人を見てはいけません。






また、もし自分が他と比べて尊くない、劣っていると思うならば、むしろ喜ぶべきです。

なぜなら、神様がことさらにあなたのことを尊んでいると思っておられるからです。


見えないところで働いている器官こそが実は大切であり、そこが急にいなくなったり、苦しんだり、病気になったりすると、その人だけではなく、体全体が、私たちみんなが痛みます。


私たちは目に見えるところも見えないところも健康かな、大丈夫かなとチェックして、痛みがあればみんなでそこを労わって補って支え合っていきましょう。



あなたが苦しむと私たちも苦しい。

あなたが褒められると私たちもうれしい。


それがキリストの体としての私たちのあるべき教会の姿です。

どの器官もキリストの器官としてなくてはならないものです。


最後に31節を読みます。


【第1コリント12章31節】

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

今持っている賜物以外にも、教会にとって必要な賜物はないのか、人の益となるために賜物を求めていきましょう。


周りの人々にとって必要な賜物があれば、それは積極的に求めていきましょう。


2021.5.9
聖日礼拝メッセージ

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私たちは神様の建物、畑

テーマは 『 私たちは神様の建物、畑 』 です


今回は “教会とは何か、教会に仕える主のしもべや、教会生活が どうあるべきか” を見ていきましょう。

第1コリント3章を見ていきますが、その前にまず、コリントの教会がその当時どのような教会であったかを見ていきます。



コリント教会の始まりは 使徒18章に書かれており、AD50の初め、パウロが2回目の宣教旅行の際に、コリントを訪れて宣教し、プリスキラとアクラと一緒に18ヶ月間も住みながらコリントの教会を建てました。


パウロはそこでユダヤ人から迫害を受け、のちにシリヤに向けて出発するためにコリントを出ました。

その後、アポロがコリントに到着して、その教会に仕えていました。

実際にアポロの姿を見てみましょう。


【使徒の働き18章24-28節】

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。

この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。

そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。

彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。


コリントの教会は 教会を初めに建てたパウロや、その後のアポロのメッセージによって霊的に成長していました。


コリントという町は ギリシャにあり、都会で、成功している人々が多かったのですが、コリントの教会には社会的に低い地位の人も多く、もちろん高い地位の人もいました。

約1世紀の間ローマの植民地であったため、ローマの影響も受けていました。



また、ギリシャの文化では英雄をまるで神のように扱い、神のように仕えていた文化もありました。

コリントの教会の姿について見ていきましょう。


【第1コリント 1章4-9節】

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。

というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。

それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。

主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。


パウロの言葉によると、コリント教会はことばや、知識、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者になったこと、また、賜物も欠けることなくあること、熱心に主イエスの現れを待っている信仰深い姿がありました。


これだけを見ると、成長していて霊的にもしっかりしていると思うかも知れません。

しかし、一つそのコリント教会に大きな問題があったのです。


【第1コリント 1章10-12節】

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、

あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。


コリント教会の中で、人々は信仰を持って育ちながらも、徐々に人々の中で「私はパウロの方がいいな、パウロが元々この教会を建てたし」

「私はアポロの方がいい。メッセージが力強いし、うまいし。」

「いや、わたしはケパ、ペテロが良い。」

「いや、それなら私はキリストだけについていく。」という声を上がり始めました。



教会に集い、みことばを聞き、霊的にも成長していきながらも、気づけば少しずつ「私はあの人がいい、この人がいい」と「どの人が良いか」と論争を始め、分裂が起き始めたのです。


それに対して、パウロは第1コリント3章で詳しく述べています。


【第1コリント 3章1-17節】

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。

アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、

各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。


ここでは人々がアポロの方についていく、パウロの方についていくと分裂している様子が書かれています。


本来は ただの人であるこのアポロやパウロを、気づけば神様よりも大切にし、重要視している姿が人々の中で見られました。



それについて、パウロは二つの例を使って私たちに教えています。




畑と建物のたとえ




まずは、畑の例えです。

初めに教会という種を植えたのはパウロであり、その種が育つために水を注いだのはアポロですが、実際にそれを育てて成長させたのは神様です。


いくら私たちが畑に種をたくさん蒔いて、水をたくさんやったとしても、太陽の光がなければ育ちません。

太陽の光は私たちが作り出すことは出来ず、神様の恵みによって与えられるものです。


神様の恵みなしに、教会が成長することはないのです。



神様と共に生き、神様の恵みがない教会に、いくら人がたくさんいても、素晴らしい指導者がいたとしても、それは成長しない死んだ教会です。


私たちが大切にすべきなのは、植える者でもなく、水を注ぐ者でもなく、それを成長させてくださる神様ご自身です。


私たちが大切にし、またいつも教会の中で中心に置くべきは神様なのです。






次にもう一つの例えとして、建物が挙げられています。


建築家は、オーナーに依頼されてそのオーナーの希望通りに建物を建てますが、その建物自体は建築家のものではなく、オーナーのものです。


建築家パウロは、オーナーである神様にコリントの教会を建てるように言われて、しっかりイエス・キリストという土台の上に教会を建てましたが、その教会自体は神様のものであり、パウロのものではありません。


すべては神様のものであるのにも関わらず、それをまるで建築家のパウロや、その建物を維持している管理人のアポロの方を重要視していました。



いつの間にか、神様を求めにくるはずの教会で、神様よりも人を見るようになりました。

それで どの人の方が良いのかと、意見が割れ、口論になったり、もめたりしていますが、それは本来間違った姿なのです。


教会はキリストが土台になっており、教会自体も神様のものであり、そのオーナーである神様に私たちは会いに行くのです。


また、どんな建物になっているのか、ちゃんとオーナーが言ったとおりに建物を建てているかどうかを判断するのは、オーナー自身であり、建物自身ではないのです。



もし建築家である神のしもべが、オーナーである神様の言う通りにしっかり教会を建てないのならば、イエス様が再び来られる日にすべて明らかになり、神様が判断をし、裁きを下されます。


それは私たち人間がその人がどうなのかを判断するのではなく、神様が判断することなのです。






それでは、私たちがすべきことは何でしょうか?


それは私たちが何者であるのか、また神様と私たちの関係をしっかり理解して生きることです。


【第1コリント3章9節】

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。


【第1コリント3章16節】

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。


私たちは神様の畑、建物であり、神様の神殿そのものです。

また、神の御霊、つまり聖霊様が私たちの中に宿っておられます。


私たちが自覚すべきは、私たち自身が神様の教会になっていることであり、私たち自身が神様のものであるということです。



聖霊様が私たちの中に生きているのであれば、人を中心とした肉的な者として生きるのではなく、神様を中心とした聖霊と歩む霊的な者として歩まないといけません。


教会は、人中心ではなく、人を求めに来るのでもなく、私たちの父でありオーナーである神様を求めに来るべきです。



もし人を求めて 人のために来るのならば、肉の者として集まることになり、教会とは言えず、ただの人の集まりに過ぎません。


しかし、神様のものとして、聖霊様が宿っているものとして集まるのが神の教会です。


神様ご自身を求める時、頼り祈り求める時に神様は、私たちの想像をはるかに超えて私たちを成長させてくださり、祝福してくださり、守ってくださいます。



神様は教会をご自身のものとして建てました。


また、そこに集う信徒たちは神様の教会そのものであり、神様のものであります。

教会を成長させたのも神様です。



神様はこれからも私たちに、神様のものとして、神様を求め、いつも神様を中心に礼拝を捧げ、教会で交わりを持ち、成長することを願っております。


それは私たちにとっても恵みのあることなのです。

これからも成長させてくださる神様と共に、神様のものとして教会生活を続けていきましょう!


アーメン (*・ω・)ノ


2021.4.18
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永遠の刑罰に入る人と永遠のいのちに入る人

テーマは 『 永遠の刑罰に入る人と永遠のいのちに入る人 』 です

【マタイの福音書25章46節】

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」


マタイの福音書25章では 『天の御国に入る人、入れない人』、すなわち、『永遠の刑罰を受ける人、永遠のいのちに入る人』 に関する内容があります。


神はすべての人が救われて、天の御国に入ってほしいと願っています。


またイエス様はこのようにも言われました。

「私の父の家には、住まいがたくさんあります」と。


しかし天の御国は聖なる場所、永遠のいのちがある場所なので、それにふさわしい人が入ります。

そして、そこに入れない人は恐ろしい場所、永遠の刑罰がある場所に入ります。


25章の内容をよく読んでみると、信じる人と信じない人の区別ではなく、信じている人の中でも二つに分かれること、すなわちみんなが天の御国に入るわけではないことが書かれてあります。


イエス様を信じるという人が聞かないといけない内容です。

三つのたとえが語られました。




目を覚まして準備した人と、準備出来なかった人




それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のたとえです。

五人は愚かで、五人は賢かったです。


五人はともしびは持っていましたが、油の用意が出来なかったので、花婿が来た時に慌てて油を買いに行き、その間に婚礼の祝宴が始まり、戸が閉められました。


しかし賢い五人の娘は、しっかりと準備をして花婿を待っていたので、すぐに祝宴の場所に入りました。


目を覚まして準備出来た人は永遠のいのちに入りますが、準備出来なかった人は永遠の刑罰に入ります。




役に立つしもべと、役に立たないしもべ




神様は私たちに賜物を与え、主の働きをさせています。


しかしその賜物を使って良い働きをして実を結ぶ人もいれば、その賜物を使わず、働きをしない人もいます。

神が私たちを選んだ目的は次の通りです。


【ヨハネ福音書15章16節】

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。


神は私たちに結ばれた実を与えるのではなく、実を結ぶチャンスを与えます。


私たちが実を結ぶと、主に取り上げられるのではなく、それが私たちの祝福になります。



神は怠け者を祝福する方ではなく、神のものを用いて忠実に働くしもべを祝福する方です。

役に立ったしもべに語られたことばです。


「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」


役に立たなかったしもべにも語りました。


「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

永遠の刑罰が彼らを待っていました。




善行を行った人と行わなかった人




行いのない信仰、正しいことをしなかったこと、主のみこころを行わなかったことは、不信仰の行動です。

不信仰は死んだ信仰です。


良い行いは信仰ある証拠です。


羊とヤギの決め手は、善行を行ったか、行わなかったかで決められました。

羊として認められた人が行った善行です。


「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」


彼らに対する主の祝福のことばは「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」


ヤギになった人はこのような人でした。


「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」


そして彼らに対して、「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」と呪いました。


永遠のいのちに入った人は特別なことをした人ではありません。


主を愛し、主の再臨を待ち望み、自分に与えられた働きを黙々と行い、困った人を見ると手を差し伸べました。


目立つこともしていないですが、主はその人たちをよく知っています。

そして必ず永遠のいのちがある御国に入れて下さいます。



しかし、呪われて永遠の刑罰に入った人たちを見ると、特に悪を行ったわけでもないです。

普通に信仰生活をしていましたし、自分は天国に入ると思っていた人たちでした。


しかし裁きの時にとんでもないことが彼らに起こります。

なぜそうなるでしょうか?



御霊に満たされた信仰生活ではなく、知識による信仰生活、主から与えられた使命に関心もなく何もしなかった人、そして困った人に対しても無関心だった人であったからです。


それはイエス様に似た姿ではないです。

イエス様に見習わないといけないのに、見習っていなかったです。


信仰生活を飾りのようにつけて、実を結ぶことがなかったので厳しくさばかれます。



私たちに与えられた時間は主のみこころを行う時間として与えられています。


その時間を無駄にしてはいけないです。

決算の時が来るからです。


アーメン (。・ω・)ノ゙


2021.4.11
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勝利した主

テーマは 『 勝利した主 』 です

【ローマ8章37節】

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。


今日は 死からよみがえった主を礼拝する 『イースター』 です。


復活は圧倒的な勝利を宣言するものです。

復活によって神を冒涜する者ではなく、神の子であることを公に証明しました。



主の勝利は、主を信じる者の勝利です。

主は、信じる者にも圧倒的な勝利を与えます。


主がどのようなことに勝利したのかを今回は伝えます。




サタン、悪魔との戦いで勝利しました




活動の初めからサタンとの戦いがありました。

40日間 断食した後に、悪魔の甘い誘惑がありました。


それは十字架の道を妨害する誘惑でした。



十字架の苦難は、辛いものなのでサタンから来たものと思う人が多いですが、それは神の計画であって、サタンの計画ではないです。

サタンは十字架にかからないように多くの誘惑をしました。


しかし主は すべての誘惑を退け、サタンの計画には従わず、神の計画である十字架にかかって「完了した。」と宣言しました。

それは勝利の宣言でした。


サタンは、主が救い主ではなく、偉大な人間として生きることを願いました。



しかし主は、人間を罪から贖う救い主になることを選び、十字架の道を選びました。


神の計画を正しく知って、その計画に従う時に私たちもサタンに勝利することが出来ます。




死の力に勝利しました




死の力はサタンが持っている一番強い武器です。

罪からの報酬は死です。


どの人間も、サタンの最強の武器である死の力を打ち破ることが出来ないです。


ですからすべての人間は、死の武器の前にひざまずき 死にます。

死は、罪を犯した人間に下るのろいであり刑罰です。



しかし主は、死の力を打ち破り、よみがえりました。


サタンの最強の武器である死よりも 強い武器である “いのち” が主にはあります。

死人を生き返らせるものがあるならば、死を恐れる必要はないです。


復活のいのちは、信じる者に永遠のいのちを与えるという約束が 嘘ではないことを証明しました。



死で終わったならば、永遠のいのちの約束は無効ですが、復活が起きたので有効になります。


信じる者は死を恐れる必要がないです。

いつか永遠のいのちがある体に私たちもよみがえるからです。




主の勝利は自分自身に対する勝利です




十字架を前に主は激しく祈りました。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と三度も祈りながら自分自身と戦いました。



世にある最大の敵は、外にあるのではなく 自分自身です。

絶えず自分の中から出てくる肉の思い、人間的な思いがあります。


自分を優先したい思い、楽な道を歩みたい思い、何もしたくない怠ける心、快楽を求める思いなどが絶えず出て来ます。

その戦いで失敗することが一番多いです。



自身が自分の一番の敵です。

主はそれにも勝利しました。


断食後の誘惑が来た時も勝利し、最後の十字架受難の誘惑にも勝利しました。

このように勝利した主に、父なる神が与えたものは何でしょうか?


【ピリピ2章9-11節】

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。


このように勝利した主には素晴らしい権威と祝福が与えられました。

そして勝利者につく者も その祝福と喜びを共有することが出来ます。


ハレルヤ。 v( ̄∇ ̄)v


2021.4.4
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メシヤの受難と勝利

テーマは 『 メシヤの受難と勝利 』 です

【イザヤ書53章1-12節】

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。


イザヤ書53章は、メシヤであるイエス・キリストの受難の預言が 一番具体的に書かれてあります。


イエス・キリストが受けた受難を思いながら読むと、説明が要らないほど具体的です。

そのままでもメッセージになります。


この預言は メシヤが来られる700年前に預言されましたが、まるで現場を見ているようです。



メシヤが地上に来られた目的は一つだけでした。

罪人である人間を贖うために 自分が贖いのいけにえになるためでした。


誰も予想出来ない神の計画でした。

聞いても理解する者はいませんでした。



人々は神が示したメシヤではなく、自分たちが考えたメシヤを待っていました。

人間が期待するメシヤとは ヒーローのような存在で、突然現れて悪人たちを一瞬に打ち破って困った自分たちを助けてくれる力があり、格好良いメシヤでした。


ですから似ても似つかないイエスという人が自分のことをメシヤと言ったので疑い、拒否しました。


田舎出身で、学歴もなく、貧しく、みすぼらしく、見とれるような姿も、輝きも、見栄えもしない人をメシヤとして信じることは無理でした。

期待を裏切ることなので拒否しました。


奇跡を行ってもそれはサタンの力だと言い、メシヤと認めず、苦しめ、十字架につけて殺しました。






人々を惹きつけるヒーローのような姿で来たら良いのに、なぜ神はみすぼらしい姿のメシヤを遣わしたのでしょうか。


神は、人が見た目を重視することを知っていました。

目の欲があるからです。


ですから敢えてメシヤを、人目を惹くような姿ではなく、信仰がないと信じることが出来ない姿、神のことばを正しく知らないと受け入れることが出来ない姿にしました。


メシヤは人気を得るためのヒーローではなく、罪人たちを救うために犠牲のいけにえになる小羊としての働きをするために来られました。



自分自身を徹底的に低くした理由は、私たちへの愛でしたが、人々の目にはその愛が見えませんでした。


外見だけを見てつまずきました。

今も十字架のキリストをそのような目で見る人々が大勢います。


ですからペテロはこのように注意を与えました。


【第1ペテロ3章3-4節】

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。


イエス様の内面を見た人はメシヤとして受け入れます。

主の成長の過程や生涯、そして主が受けた受難とみことばによって見るならば、救い主であることが分かります。


キリストが受けた苦難はすべて、罪を犯した私たちのためでした。


【イザヤ書53章8節】

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。


【第1ペテロ2章24節】

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。


罪を犯した人間は、罪の代価を払わないと永遠の死です。


しかし、人間には罪の代価を払うものを持っていないです。


ですからキリストが来られ、ひどい苦しみを受けながら十字架にかかり、血を流して私たちの代わりに罪の代価を払って下さいました。

それを知って自分の罪を告白し、主からの救いの恵みを求める人は罪赦されます。


【マタイの福音書20章28節】

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」





サタンは人間が罪のまま死んで永遠に滅びることを願っています。

しかし神は 人々を愛するので、すべての人が罪から救われることを願ってキリストを通して、罪の代価を払って、救いの道を完成しました。



完成された救いのわざを信仰で信じるならば、永遠のいのちがある神の御国に招き入れられますが、罪のまま死ぬならば、永遠に地獄で苦しみながら罪の代価を払わないといけないです。


救いの恵みはずっと続くことはないです。

サタンもそれを知って、人間が救われないように不信仰の心を与えています。


死んだら無になることは絶対にないです。


キリスト教は、自分の行いによって天国に入るために頑張るのではないです。


いくら良い行いをしても罪は消えないです。


キリストによって すでに完成された救いのわざを 信仰によって受け入れる時に 罪赦され、キリストの恵みによって天国に入ります。


みなさんは救われていますか?

それとも  まだですか。


救いを受けてほしいです。


アーメン (・∀・)


2021.3.28
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十字架を負う人生

テーマは 『 十字架を負う人生 』 です

【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。


イエス様は人生の最後に十字架を負ったのではなく、天から下って来た時から すでに十字架を負いました。


そして十字架の道をずっと歩み、十字架にかかって地上での生涯を終えました。

ずっと十字架を負った人生でした。


力もなく権威もなかったからではないです。



だれよりも聖く、誰よりも霊的権威があり、誰よりも偉大な方でした。


神が一番評価する人生は十字架を負う人生です。

それはイエス様が歩んだ人生であるからです。



人々は十字架を負う人生を かわいそうな人生だと思いますが、主は十字架のない人生が一番かわいそうな人生だと言われます。


なぜなら、その人は神と何の関係もないからです。

そして十字架がもたらす祝福がまったくない人だからです。




イエス様は十字架を負う人生を生きるために、まず自分を捨てました




イエス様が捨てた “自分” とはどんな姿ですか?

―― 神という自分です。


【ピリピ2章6-7節】

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。


私たちが十字架の人生を歩むために捨てるべき “自分” とはどんな姿ですか?

―― それは古い自分です。


古い自分では十字架の人生を歩むことは出来ないです。

古い自分がそれを嫌がるからです。



どうやってそれを捨てることができるでしょうか?

次の通りにすると捨てることが出来ます。


【ガラテヤ2章20節】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。


古い人は高慢で、世を愛し、仕えるよりも 仕えられるのを好みます。


イエス様には悪いものがなく、最高の身分である神を捨てたので、人間に仕えることが出来ました。


私たちはそれとは違い、悪い自分を捨てる時に十字架の人生を歩むことが出来ます。



神から人の子になったイエス様は、人々にいつも仕えていました。

罪人の罪を厳しく攻めたのではなく、罪人の悔い改めの声を聞いて 彼らを救い出しました。



小さいこと、些細なことでも無視せずに助けました。

人の痛み、苦しみに共感し、あわれんで下さいました。


他人の重荷を負って下さいました。

受け入れ、忍耐し、慰めました。



【詩篇68編19節】

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。


イエス様は自分を捨てたので、人々に対しても とても謙遜でした。

謙遜はこのような姿です。


【マタイの福音書20章26-28節】

あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」


イエス様は父なる神のみことば通りの人生を歩みました。

ですから十字架で贖いの業を完成することが出来ました。



十字架の人生は神のみことばに従って歩む人生です。


ペテロが 十字架を負わないように主を止めた時に、主はとても厳しい言葉でこのように言いました。

「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」



サタンは、私たちに辛い十字架を負わないで、気楽に生きるように勧めます。

そのように邪魔をします。


イエス様は私たちに “自分の十字架を負ってついて来なさい” と命令しておられます。

それが御心に従う道、いのちを得る道、栄光を受ける道だからです。



全世界を手に入れても、永遠のいのちがないならば、多くの財産が何になるでしょうか?


私たちにいのちを与えるために イエス様は十字架を負いました。

私たちは、その命を得るために自分の十字架を負ってイエス様に従います。


アーメン (・∀・)


2021.3.21
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