からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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民数記

何が問題なのか

テーマは 『 何が問題なのか 』 です

【民数記13章25-33節】

四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。

そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。

彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」

そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。

そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」


真の神様に選ばれ、毎日神様の守りと助けを受けながらも、荒野でイスラエルの民が見せた姿はいつもとんでもない不信仰の姿でした。


目の前で多くの奇跡を行った神様を見ながらも、なぜ彼らは神様が喜ばない姿しか見せなかったでしょうか。


何が彼らの問題だったでしょうか?

自分たちの姿もそこにあります。



今日の聖書のことばに彼らの問題が見えてきます。


まずは神様を問題よりも小さく見たことでした。


心配、恐れ、不安になる理由は何でしょうか?

神様が共にいるのに、なぜ私たちがそのような思いに悩まされますか?


神様を小さく見るからです。


神様を大きく見るならば、問題は大きく見えないです。




聖書には神様を問題よりも大きく見た人たちが出て来るし、問題を神様よりも大きく見た人たちも出て来ます。

ダビデとゴリアテ、そしてサウル王と勇士たちの場合もそうです。


神様を大きく見たダビデの目に、ゴリアテは巨人ではなく 小さい犬にしか見えませんでした。


また否定的なことばが問題です。

否定的なことばは、神様のことばを信じないので出てきます。


『入れません、行ったら死にます』と否定的なことばを言った者たちは、カナンの地に入れず、荒野で死にました。


良い日を見たい人は、信仰をもって肯定的なことばを使わないといけないです。

信仰の人パウロはこう言いました。



【ピリピ4章13節】

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。


伝道に行くと、いつも目の前に妨害する勢力が城壁のようにそびえていました。

しかしパウロは自分の力では出来ないけれど、神様が与えて下さる力によって出来ると信じて突破しました。


『出来ない、死んでしまう』と口癖のように言う者は、蒔いたとおりに刈り取ります。



神様がどんなに良いものを与えようとしても、否定的なことばかり言う者は良いものを受け取ることが出来ないです。


信仰のことばを語り、神の約束を思いながら夢見るならば、そのとおりになります。








また信仰がないのが問題です。

信仰がなくては神に喜ばれることが出来ません。


信仰があるならば神の約束を信じ、神様がそのことを必ずなさると信頼します。



信仰の人は現実を見て、それに信頼する人ではないです。

信仰の人は現実主義者ではないです。


現実の上で働く神様を見て信頼して歩みます。

約束を守り、奇跡を行い、不可能がない神様から目を離しません。



不信仰な人は、それらのものをすべて後ろに投げて現実しか見ないです。

自分の判断に頼り、自分で決めてしまいます。


そういう姿を見て、主は『不信仰な世の中だ、信仰の薄い者たち、信仰がないのはどういうことか』と言われました。


信仰があれば平安であり、多くのものを受けたはずなのに、信仰がなくて失ったものは多いです。



不従順も問題です。

心が頑なで、高慢な者、自分で決める者は、神のことばを聞こうとしません。


「従います」と言いながら、後で心を変えて不従順する者が多いです。

様々な理由と言い訳を言います。


不従順には刑罰が伴いますし、祝福がありません。








イスラエルの初代王に選ばれたサウル王は謙遜な者でした。

しかし王になってから変わりました。


彼の不幸は、神のことばに不従順した時から始まりました。


神の霊を受けた者が不従順した時から悪霊に悩まされる者になりました。

神を恐れなくなった時から人を恐れる者になりました。


神が喜ぶことをした者が不従順した時から悪いことをする者になりました。



次々と問題が起こり、結局は神様に捨てられ、不幸な人生になりました。


祝福を与え、幸せにしようとどんなに神様が願っても、私たちが問題の原因を作るならば、祝福ではなく、問題の中で苦しむ者になり、不幸な者になります。


自分たちの中にこういうものがあるかどうかを調べる必要があります。


アーメン (´;ω;`)


2022.5.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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主にそむいてはならない

テーマは 『 主にそむいてはならない 』 です

【民数記13章25節-14章12節】

四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。

そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。

彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがこのくだものです。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」

そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。

そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。

イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがました。

なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」

そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。

すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、

イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。

もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。

ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。

主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。

わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

モーセは主に申し上げた。「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、

この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主がまのあたりに現れて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。

民数記13章と14章では様々な人間模様を見ることが出来ます。


ここに限らず、75億人に当てはめても いずれかの部類に自分たちは入りますね。

細かく分けるとキリがないので、3種類の人生に分けてみたいと思います。




◎いなご意識の人生




いなご意識を持っている人は、力も能力も実力もない人だと思うかも知れませんが、人はうわべで判断したらいけないです。

この いなご意識は、“内面にあるもの” です。


【民数記13章33節】

「私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

いなご意識を持っていることを、はっきりと見せた10人は、どのような人たちでしたか?

彼らは、いなごのようには見えなかった人たちでした。


【民数記13章3節】

モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。

偵察に行くために選ばれた12人は、みんな “民のかしら” でした。

彼らにいなご意識があるとは、誰も知らなかったと思います。



いなご意識は、不信仰の目で物事を見て、判断する人の中にあります。


神を信じると言いながらも、いなご意識を持っている人も多いです。


彼らは明るい面よりは暗い面をよく見ます。

そして、「出来る」と言うよりも「出来ない」ということばをよく使います。


失敗意識と恐れが強いです。

いなご意識をもった10人は、次のような報告をしました。


【民数記13章28節】

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

恐れと不信仰の目で見たので、大きくて強いものに圧倒され「これはダメだ。」と結論づけました。



自分の中にあるいなご意識が問題なのに、それを問題とは思わず、環境や人のせいにします。


こういう意識を持っている人は、神の祝福もカナンの地にも入ることが難しいです。

なぜなら彼らは、偉大な神を まるで自分と同じレベルの “いなごのような神” と思うからです。


自分がいなごでも、神を象のように大きな神と思うならば 何を恐れる必要がありますか?




◎すぐ失望する人生




すぐ失望する人生の耳には、否定的なことばしか入ってきません。

消極的な意見だけに反応します。


希望ある報告に対しては嫌な反応しかなかったのに、絶望的な報告に対しては敏感に反応しました。


積極的な発言をした二人に対しては石で打ち殺そうとしたのに、消極的な発言をした10人に対しては賛同しました。

こういう人はすぐに失望します。


もちろん彼らにも “いなご意識” があるので、波長が合いますね。

そして自分と違う意見には敵対し拒否し、受け入れることが出来ないです。



こういう人は自分が直接見ていなくても、否定的な報告にだけ反応し、否定的な反応と絶望をすぐに現します。


「そこにはまことに乳と蜜が流れています。」と言われた時に、それを神の奇跡と祝福と思って喜んでいたら良かったのに、その言葉には反応せず、
いなご意識を持った人たちが言った「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。」ということばでは、すぐに反応して泣きわめきながら、次のようにつぶやき出しました。


【民数記14章2節】

「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。

そして神の悪口まで言いました。

そのことばは神を侮ることばであり、神に背くことばです。


彼らのことばを聞いた主が次のように語りました。


【民数記14章11節】

この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。

たくさんの奇跡を過去に体験したにもかかわらず、何か問題に直面すると、背の高い住民や、高い城壁よりも 神を小さく見て「神様も無理でしょう?」という思いがあるので、すぐに絶望してしまいます。


問題にぶつかるたびに弱音を吐き、否定的なことば、絶望的なことばを語る人は多いです。


患難の中で耐えることが出来ないタイプです。


そして、それを神のせい、人のせいにします。

このような人もカナンの地に入ることは難しいです。




◎信仰によって生きる人生




目の前に高い城壁がそびえたっていても、背が高くて強い住民がいても、信仰によって生きる人は 次のような姿です。


【民数記14章9節】

その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

信仰によって生きる人はすべてを信仰の目で見ます。


信仰の目で見ることは、神の約束を信じて物事をみて判断します。


信仰によって生きる人は高い城壁を超え、死の恐れを超え、救いの神に頼り、大胆です。


【申命記1章29-30節】

それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。

あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。

このように信仰によって生きる人は、良い面をみて、可能性を見て、神の力を見ます。


信仰ある人は、これをすべての場面に適用します。


信仰によって生きたダビデの告白です。


【詩篇27編1-3節】

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

信仰によって生きる人といなご意識とすぐ絶望する人生とを比べてみて下さい。

ことばも生き方も その後の人生も全く違います。


信仰によって生きた人生は、勝利の人生になりました。


彼らがそれを証明してくれました。

信仰によって生きた2人、ヨシュアとカレブはカナンの地に入りました。



他の人たちは荒野で死にました。

歴史が記録してあります。


神の国も信仰によって生きた人が入る国です。


信じる者のために神が備えた国ですから、信仰によって生きた人に入る資格が与えられます。


主にそむいて生きることは、祝福の地を自ら拒むことになります。

それで良いでしょうか?
ヽ(TдT)ノ


2018.9.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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