からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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コリント

あなたの普段の生活の指針は何ですか

テーマは 『 あなたの普段の生活の指針は何ですか 』 です


普段の生活の中で、何を軸にどのようなことを考えて生きていますか。


ついつい 『自分にメリットがあるか』 『この行動や決断をして自分は損をしないか』 と自分を軸にして、自分が一番良い状況になる選択をするように考えていませんか?


実は、この姿は神様が私たちに求める姿ではなく、自分のために生きるということは、神様のためには生きていないということになってしまうのです。



今日は第1コリントから、パウロは普段の生活の中でどのように考え、どのような指針を持って生きていたのかを学び、その姿から私たち自身も普段の自分たちの姿を比べて見習っていきましょう。



【第1コリント10章23節-11章1節】

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。

地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。

しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。

私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。

もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。


23節で出てくる 『すべてのことは、してもよいのです。』 という言葉は、実はパウロがここでみんなに言っているのではなく、コリントの人々が使った言葉、スローガンを引用して言っています。



確かに、パウロ自身、コリントの人たちに 『すべてのことは、してもよいのです。』 と言っていたのかも知れませんが、コリントの人たちはその考えを自分たちの都合の良い言い訳として使い、本当に自分勝手で、『自分が良い』 と思う行動をする根拠にしていたのです。


それは、パウロがコリントの人たちに言いたかったポイントではありません。







パウロがここで私たちが持つべき行動の指針として大きく3つのポイントをあげています。


  1. 自分の利益を求めないで他人の利益を求めること
  2. 何をするにもただ神の栄光を現わすためにすること
  3. 人々のつまずきにならないようにすること(ノンクリスチャンに対しても、クリスチャンに対しても、教会に対しても)

確かに私たちは普段の行動を自分の意志で自由に決めることはできますが、だからといって何でもやってもOK、自由という訳ではありません。



私たちの行動のベースになるべき大きな軸は、まず 『キリストの福音』 であり、その福音を伝え人々が救われるために、『自分の利益を求めずに他人の利益を求めること』 『小さな普段の行動でも神様の栄光を現すこと』 『人々のつまずきにならないようにすること』 が求められているのです。



ただ自分自身が良ければいい、という低い水準、自己中心的な生き方ではなく、『人のためになっているのか』 『周りの人々にとってつまずきになっていないか』 『クリスチャンの代表として行動できているのか』 『神様を喜ばせているのか』 という さらに高い水準、指針を持って生きることです。



それが周りの人の救いに繋がるかも知れないし、少なくとも神様が喜ぶ姿なのです。


アーメン (*´∇`*)


2022.11.27
聖日礼拝メッセージ

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十字架のキリストを誇る

テーマは 『 十字架のキリストを誇る 』 です

【第1コリント1章18-31節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。


この世は十字架のメシアを愚かな者、とんでもない者と思っています。

無価値なものだと思って 十字架のことばを聞いても拒否し受け入れません。


ですから「十字架のことばは滅びる者たちには愚かである」と言われました。

知識、知恵、力、富など誇れるものが多ければ多いほど、十字架のことばは愚かに聞こえます。



ユダヤ人は木にかけられたものは呪われた者と思っているので、呪われて死んだ若者が救い主のはずがないと思って拒否しました。


ギリシャ人は論争好きな人たちで、自分たちの論議に合わないものは受け入れませんでした。

自分たちを納得させないことばは無価値だと思っていました。



しかし神様は、人間を満足させる方法で救いの道を備えたのではなく、人間が到底理解出来ない方法で救いの道を示しました。


それが十字架のイエス様です。

人間の知恵と理解では知ることが出来ないです。




神様はなぜ そのような救いの方法を取ったでしょうか?


神の御前で誰をも誇らせないためでした。

人間は、自分が骨の中まで愚かな者だと理解する時に 十字架のメッセージを聞きます。


自分には誇れるものが何もないと悟る時に、この十字架が愚かな者から自分を救うための神の計画であると理解出来ます。



神様は人間が理解出来ないものを一方的に宣言しました。

理解出来ないものを 信仰によって受け入れる人を救うと決めました。


これが神の知恵であり、神の方法です。


神はイエスと言う知恵を私たちに与えました。

知恵を受け入れるならば、義ときよめと救いを受けます。




世のものをすべて持っている人でも、十字架のことばを受け入れない人は愚かに生きます。

救われるまでは それを知ることは出来ないですが、救われた後は 救いほど価値あるものはないことがよく分かります。



信じる者たちも、いつの間にか十字架の福音を忘れて、それ以外のものに関心が集まり、十字架の福音から離れた生活をしています。


十字架の福音より、人間の願いを叶えるようなメッセージが増えました。


十字架の福音が力を失っています。

これはあってはいけないことです。



信じる者の誇りは、イエス・キリストの十字架です。


十字架の福音によって愚かであった者が救われました。

十字架の福音によって永遠に滅ぼされるべき私たちが救いを受けました。



十字架の道だけが救いを受ける道であり、神様が求める神の民として生きる道です。


また自分を捨て、自分の十字架を負うのが主の弟子の道です。



神の恵みによって神の民になった人たちは、イエス様だけを誇りながら生きることです。


アーメン (*・ω・)ノ


2022.5.8
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苦難をどう思うのか

テーマは 『 苦難をどう思うのか 』 です

【第2コリント1章8-10節】

兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。


人々が一番恐れていることは苦難が来ることです。

ですから苦難が自分の人生に来ないように祈ります。


しかしこの祈りは正しい祈りではないと言われています。

なぜならイエス様が “この世にあっては苦難がある” と前もって言われたからです。


正しい祈りは、「苦難を乗り越える力を与えて下さい」 と祈ることです。



パウロの人生は、主に出会ってから苦難の人生に変わりました。

主が弟子アナニアに、パウロのことをこのように預言しました。


【使徒の働き9章15-16節】

しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」


主はこのように語った理由は、福音の働きを邪魔するサタンの力が どれほどパウロを苦しめるかを知っていたからです。

主ご自身も苦難を受けたからです。



悪魔が大いに働くこの世では、敬虔に生きようとする人たちが苦難を受けることが多いです。

神に逆らいながら生きる人たちは、闇が好きなので、光を嫌い、光の中を歩む者を迫害します。


パウロは、自分が進む道に いつも敵による攻撃と迫害、苦難があると知っていました。


しかし苦難を恐れて避けたことは一度もありませんでした。

苦難を前にした時の心境をこのように話しました。


【使徒の働き20章22-24節】

いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。

ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。


苦難よりも福音をあかしする任務に集中しました。

これが苦難を恐れないためには必要です。


何かをするためには 何をすべきかを考えると共に、何をしてはいけないかも考えないといけないです。


苦難を恐れることはしてはならないことです。


「恐れるな」と言われたことばの中には、色々な意味があります。

苦難がないことは、幸せではなく不幸です。



晴れの天気が365日続くとどうなりますか?

すべてが枯れます。


枯れないために時には雨、時には台風も必要です。



いつ神様を一番求めますか?

いつ聖書をたくさん読みますか?


苦難の時です。






ヨブは神様が認めたほど敬虔な人でした。


しかし彼が受けたほどの苦難は、その時代誰も受けていなかったです。

その苦難がどれほど大変だったのか、ヨブはこのように訴えました。


【ヨブ記7章19-21節】

いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか。

私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。

どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私はちりの中に横たわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません。


ヨブの苦難は終わりがないように思われました。


しかし終わりが来て、神はヨブを大いに祝福しました。

主はヨブの後の半生を前の半生にも増して祝福されました。



詩篇38編は、ダビデが書いたものですが、ヨブ記にとても似ています。

長く続く苦難の中で書いたものでした。


【詩篇38編1-8節】

主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。

私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。

私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。


苦しみをあらゆることばで表現しました。


ダビデも主の心に適った者で、主に愛されました。

しかし多くの苦難がありました。


後にダビデも 神に尊く用いられ、多くの祝福を受けました。



苦難は、火の中で不純物を取り除いて 純金にする過程に似ています。

ですから詩篇119編に このようなことばがあります。


【詩篇119編71節】

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。


苦難の中にいる時は、このような心構えでいなさい と言われたことばがあります。


【ヘブル12章11-12節】

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。


イエス様も苦難を通りましたので、苦難の中にいる人たちが耐えるように助けて下さいます。

耐えた人に祝福を与えて下さいます。


アーメン ( ̄‥ ̄)=3


2022.2.27
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神の基準と世の基準は異なる

テーマは 『 神の基準と世の基準は異なる 』 です

【第1コリント1章26-29節】

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。


私たちは聖書を通して神の世界を知ることが出来ます。

そして神の思いと人間の思い、神の道と人間の道がいかに異なるかを知るようになります。


神は『わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とはっきり仰せられました。


神の思いが私たちの思いよりも高いと言われると、神の思いが正しいことがわかります。



私たちの思いは低い次元の思いです。

低い次元の思いから出る判断基準と価値基準は、神の基準とはあまりにも違います。


しかし人間はそれに気付かず、自分たちが神よりも世に対しては詳しいと誇ります。

今日は私たちと異なる神の判断基準と価値基準を話します。





人選びの基準が異なる




人間ならば あらゆる条件を満たす人が高い評価を受け、就職や結婚などにも有利です。

しかし神は、それとは真逆の基準をもっています。


私たちの目には愚かな基準に見えるかも知れませんが、神に間違いはありません。


神の御前でだれをも誇らせないために、神は人間とは異なる基準を設けています。


無学な者や教会を迫害した者を使徒として選んだ主の選びは、一見間違っているように見えましたが、彼らが世界を変えたことを私たちは知っています。





この世の論理とは異なる




AI時代で神と人間の論理はさらに異なっていきます。

AI時代になると、人間が今までやって来たことを機械やロボットがするようになり、人間は仕事を失ってしまいます。


あらゆる部分で効率化が進み、人間にやらせることが非効率、時間や経済性においてマイナスだという認識が増えていきます。



しかし神はそれとは異なります。

奉仕のことを考えると、人間の目にはそれが非効率に見えるかも知れないです。


お金を出して専門家に任せたらすぐに済むことを非専門家たちが時間や能力をかけることは良くないと思う人たちもいます。

しかし神はそれをただの奉仕と見ているのではないです。



私たちの奉仕は神への礼拝であることを知らないといけないです。

神は聖徒たちが神にささげる礼拝を重視します。


この世の論理ならば礼拝も時間の無駄になります。





神の国と世の計算法は異なる。




世の基準ならば たくさん利益を残した人が、たくさん捧げた人が称賛を受けるし、報いも違います。


しかし神の国では通用しない計算法です。


高価なナルドの香油をイエス様の足に塗ったマリアは、弟子たちからひどいことばを言われました。

『どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。


世の基準や論理ならば、その方が世の人々から褒められるからです。



しかし、主の反応は違っていました。

『そのままさせておきなさい。マリアはわたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」


人々はお金の計算しかなかったですが、主は彼女の “献身” を評価しました。


金持ちとやもめが捧げた献金やタラントのたとえなどを通して、神の国の計算法がいかに異なるかを教えています。



神を信じる者ならば世の論理や判断基準、価値基準が 神の方法よりも上にあってはいけないです。


御国を目指して、御国の民として生きる聖徒ならば、神の論理や基準で物事を判断しないといけないです。


周りから変人や知恵のない人に見られるかも知れません。

しかし、これが狭い道を歩む人の選択でなければならないです。


アーメン (*・ω・)ノ


2021.10.17
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約束に真実な神様

テーマは 『 約束に真実な神様 』 です

【第2コリント1章18-20節】

しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり」と言って、同時に「否」と言うようなものではありません。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」と同時に「否」であるような方ではありません。この方には「しかり」だけがあるのです。

神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。


人間は約束に対して忘れたり、平気に破ったりしますが、神はどうでしょうか?

神は自分の名に懸けて真実に守る方です。


ですから聖書に約束ということばが出た時には、通り過ぎるのではなく、それがどんな約束なのかを詳しく知って、その約束を信じて求めることです。

神の真実さはその約束を守ることで証明されてあります。


約束は私たちに対する神からの祝福ですから、どんな約束があるのかを知って 真実な神に期待したいと思います。



祈る時には自分のことばだけを並べるのではなく、神の約束の上に立って祈ることです。


真実な主を もう一度確認して約束を見たいと思います。


【第2テモテ2章13節】

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」



すべての約束において真実な神様




神の約束は言われた通りになるので、私たちはそれに対して『アーメン』と言い、神に栄光を帰すのです。




信じる者に永遠のいのちを与える




【ヨハネの福音書3章16節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


【ヘブル10章22-23節】

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。


聖徒たちが苦難の中でも希望と信仰をもって生きることが出来るのは、永遠のいのちを与えて下さった真実な神の約束があるからです。




悪い者から守って下さる




【第2テサロニケ3章2-3節】

また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。

しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。



魂を守って下さる




【第1ペテロ4章19節】

ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。


キリストも十字架の上で最後にこのように自分の霊を神にゆだねました。


『父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。』




悔い改める者をきよめる




【第1ヨハネ1章9節】

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。


約束を真実に守る神を信頼する時に、私たちはどんなことがあっても動揺することなく信仰と希望をもって生きることが出来ます。

アーメン (*^・ェ・)ノ


2021.9.19
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愛とは

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「愛」とはどのようなものでしょうか。

聖書の「愛」は恋愛の「愛」ではなく、心がドキドキするような「愛」ではなく、恋人や夫婦の中の「愛」のことではなく、恋人、夫婦、子ども、兄弟、家族、教会の兄弟姉妹、友達、会社の人、周りの人々すべてに対する「愛」を指します。


【第1コリント13章1-13節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


まずこの箇所を大きく分けると3つに分けることができます。






1)愛なしでは意味なし(1-3節)

2)愛の性質(4-7節)

3)愛は絶えない(8-13節)


2つ目の「愛の性質」を詳しく見ていく前に、先に他の二つを確認していきましょう。


1)愛なしでは意味なし(1-3節)

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。


たとえ、どんなに賜物を持っていても、預言が出来ても、知識が優れていても、完全な信仰があったとしても、愛がなければ意味がありません。


すべて それは形だけ、スペックだけがすごくて中身がない人間です。

たとえ、全財産を貧しい人にあげて素晴らしい奉仕をしたとしても、迫害から逃げずに信仰を貫いたとしても、愛がなければ何の価値もないのです。


それほど愛はすべてのうちで最も大切であり、愛がなければ何の意味がないほど、愛は必要不可欠なものなのです。


3)愛は絶えない(8-13節)

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


預言、異言、知識はすべて神様、イエス様についてです。


今は私たちが直接神様、イエス様と会うことができません。

そのため、これから再び来られるイエス様や世の終わり、天の御国についての預言が与えられていますが、その預言は神様について すべて語られているのではなく、一部について語られているのです。


それはまるで鏡にぼんやりと映る姿を見ているようです。

当時の鏡は今私たちが持っているような くっきりとはっきりと映っている鏡ではなく、青銅でできた鏡のため、ぼんやりと映っていたのです。


神様やイエス様のことを私たちは今はっきりと見ることはできず、預言や聖書を通して、どういう方なのか、ぼんやりと知っています。



でもイエス様が再び来られる時、また私たちが天の御国に帰る時には 私たちはいよいよ神様、イエス様と直接顔と顔を合わせて見るようになるのです。


そうなると預言、異言、知識はすべて必要がなくなります。

残るものは聖書に書かれている通り、神様を信じる私たちの信仰、イエス様の中にある希望、神様、そして人々への愛なのです。


この愛は止まることがなく、なくなることがなく、常にあるものなのです。

次に、実際にこの愛とは何か、4-7節を詳しく見ていきましょう。






2)愛の性質(4-7節)

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。


① 愛は寛容、親切

この「寛容」は、ギリシャ語では「忍耐」の意味であり、特に「何か怒るようなことがあったのにも関わらず、文句も言わずに我慢すること、忍耐すること」を意味しています。


相手が何かあなたを怒らせるようなことをしたとしても、それに対して文句を言わずに忍耐し、赦すこと、寛容である姿が愛の姿なのです。

しかもそれに加えて、その人に親切にすることが本当の愛の姿です。



私たちが悔い改めをする時、「しまった」と心から反省する時はいつでしょうか?


それは人に指摘され、文句を言われた時でしょうか。

いや、むしろ逆に悪いことをした相手が私たちを赦し、それどころか親切にしてくれた時に心から「申し訳なかった」と悔いたり、反省をしたりするのではないでしょうか。



人の心を溶かし、和らげるのは、指摘の言葉ではありません。

人の心を動かし、和らげるのは、その人を赦す心、寛容な心、相手に対する親切な心、親切な行動なのです。


愛は相手があなたにしたことに対して、文句を言わずに忍耐し、逆にその相手に親切に接することです。





② 妬まない、自慢しない、高慢にならない

妬みとは、他の人が持っているものや、他の人のことを羨ましいと思うことや、誰の方がもっと良いのか、優れているのかと言い争うことです。

また、人の成功を喜ばしいと思わないことです。


ここでの「愛は自慢しない」は、その相手に対して自分のことを自慢しないということです。


「私すごいでしょ、偉いでしょ」と自慢すること、高いプライドを持って相手に接することは愛のない姿です。

それは相手の徳を高めること、つまり人々の役に立つ、人々がよくなるように仕えるのとは正反対であり、「自分自身、自分だけよければ良い」という考え方なのです。


本当の愛の姿は、相手に対して自分のことを自慢せず、相手の上に立とうとしません。






③ 礼儀に反することをせず、不正を喜ばない

礼儀とは、人前での態度、ふるまいです。


ここでは、礼儀に反する事として不品行や、性的な問題なども挙げられます。

今でいう「ハラスメント」をしないということです。


自分自身がしないということだけではなく、相手が行っている不正、つまり聖書的ではないこと、聖書に反することを喜ばないことも愛です。


もし相手が罪を犯しているのならば、その罪自体に私たちは喜ぶべきではありませんし、むしろ相手が正しい道に戻れるよう、神様が喜ぶ姿に変えられるように努めるべきです。


ここでの「真理」は、義と霊的に清いこと、つまりは神様の中で正しく、霊的であることを喜ぶべきだと教えています。





④ 自分のやり方、自分を優先しない

日本語の聖書では、「自分の利益を求めない」と書いてありますが、ギリシャ語には実は「利益」という言葉はなく、「自分の」とまでしか書かれていないのです。


つまりは「自分のもの」を求めない、言い換えると自分のやり方、自分を優先しないということです。






⑤ 怒らず、人のした悪を思わない

ここで「人のした悪を思わない」とありますが、ギリシャ語では、「人のした悪を数えない、記録しない」という意味です。


私たちは よく「この人にこんなことされた」「昔もこんなことしたよね」と相手がした悪いことを心の中で記録しがちです。


でも、人を愛することは、その人がした悪いことを心の中で記録せず、数えないことです。

罪は悪いことですし、犯すべきではないのですが、いつまでも人の罪を私たちが覚えて記録しておくべきではないのです。


神様も罪自体は全く喜ばないですし、私たちが罪を犯さないことを願っていらっしゃいますが、私たちが犯した罪をいつまでも記録して覚え、ずっと責め続けることはなさらないのです。

私たちが支払うべき罪の代価をイエス様が代わりに支払ってくださったからです。


私たちにした人の悪は、私たちが記録せず、代わりにイエス様がその人の代価を支払ってくださったことを覚え、その罪を赦すべきです。






この愛の姿を全部まとめて書いてあるのが、7節です。


すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

この愛の姿ですが、私たちの実際の生活の中で一番想像しやすく、似ている姿は、“赤ちゃんへの母の愛” です。


お母さんは赤ちゃんと共に過ごしながら、その赤ちゃんが泣きまくったり、変えたばかりのおむつにうんちをしたりしても怒らず、そのことを覚えて責めず、それでも赤ちゃんにやさしくし、大切に接するのです。


夜泣きをしてあまり眠れなくても赤ちゃんをあやしますし、それでも赤ちゃんの面倒を見ますし、礼儀に反するようなことはしません。

お母さんはいつも自分のことは優先せず、赤ちゃんを優先して赤ちゃんのことを思います。


その赤ちゃんのためにすべてを我慢し、その赤ちゃんが元気に大きく育っていくことを信じ、期待し、何があっても耐え忍びます。

この親の赤ちゃんに対する愛が、聖書で書かれている愛の姿に一番近い身近な愛の姿です。



また、この世で完全な愛を見せたのは一人しかいません。

それはイエス様が私たちに向けた愛です。


イエス様が私たちを愛したその姿、その愛の形はここで書かれているのにすべて当てはまります。


聖書で書かれているイエス様の姿を見ることによっても、愛がどういうものであるかを私たちは知ることができるのです。


その愛を私たちも実践していかないといけないのです。

なぜ私たちは周りの人を愛さないといけないのでしょうか。


彼らが私たちによくしてくれたからですか。

家族だからですか。


何かをしてくれたから愛すのではなく、その隣人を愛することは神様が私たちに与えた一番大切な命令だからです。


【マタイの福音書22章35-40節】

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


私たちが周りの人を愛す理由は、その人がどうとか、何をしたからとかではなく、神様がそのように私たちに求めているからです。


神様が私たちを愛してくださったのも同じです。

神様が私たちを愛すと決めてくださったから、私たちが罪を犯し、どんな姿であったとしても、私たちを赦し、愛し、信じて待っていてくださるのです。



私たちも神様が私たちにしてくださったように、周りの人を愛すべきなのです。


完全な姿ではないけれども、少しずつキリストの姿に似たものになること、そのためには何よりもキリストが私たちに一番大切だと教えてくれた「隣人を愛しなさい」ということを実践することが大切なのです。


【第1ヨハネ4章7-11節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2021.5.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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私たちはキリストの体

テーマは 『 私たちはキリストの体 』 です

神様が、私たちが教会に集う者として、どんな姿を求めているのか、教会の在り方についてみていきましょう。


第1コリント人への手紙から学んでいきます。

まず、コリント教会がどんな教会であったかを確認しましょう。


【第1コリント1章4-7節】

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。

というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。

それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。

コリント教会は、パウロが建て、アポロが仕えていた教会であり、人々は信仰を持ち、キリストの中で知識を得、賜物も熱心に求め、教会に仕えていました。


その人々の中で分裂もあり、様々な問題がありました。

貧しい者もいれば、富む者もいて、格差もありましたし、どのように教会生活を送るべきか、それぞれどのような働きを教会でしているのかにも違いがありました。



そもそもコリント教会での分裂は、どの指導者についていくかで人々が言い争いによって起きていましたが、それだけではなく、人々の中、信徒同士でも問題があったのです。






今回はその問題の中の一つを見ながら、彼らを反面教師として、教会とはどういうものであるべきか、私たちは自分自身どうすべきか、周りの人とどのように交わっていくべきかを見ていきましょう。

賜物を題材としたところを中心に見ていきます。


【第1コリント12章4-31節】

さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、

ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。

みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。

みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

ここで、賜物について述べられています。


「賜物」=「神様からのギフト」です。

英語で訳すと“Spiritual Gift”であり、「神様からの霊的なギフト」です。


ギリシャ語を見ると、さらにこれは代価なしに神様の恵みによって、タダで与えられているギフトという意味を含んでいます。


賜物は、神様が恵みによってタダで私たちに与えてくれたものであり、自分のためではなく、人のために使うものとして私たちに与えられました。



あなたの持っている賜物、あなたの才能、得意なこと、信仰はあなた自身が作り出したものではなく、神様があなたに与えたものなのです。


あなたが偉いから、特別に優れているからあげたのではなく、神様があなたにはこれをあげよう、と恵みによってあなたにあげたのです。

そのため、この賜物は自分の名誉や名声のために使うものではなく、自分のものとして誇るのでもなく、人の益になるように使うべきです。


先ほど見た箇所や、続きの箇所でもそのように書かれています。


【第1コリント12章7節】

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

【第1コリント14章12節】

あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

【第1コリント14章26節】

兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。

賜物は私たち一人一人がキリストの体の器官として働くために与えられ、徳を高めるため、つまりは皆の益になるために用いていきましょう。


逆に賜物があるのにも関わらず、働いていない、用いていないのであれば、体の器官としてちゃんと働きをしていないことになり、他の体の部分がカバーとしないといけなくなり、他の人も苦しい思いをするのです。



神様があなたに何か賜物を与えてくださったのならば、それを人の益のために積極的に使いましょう。


教会では、それぞれみんな違った賜物を持ち、違った役割をします。

同じ一つの御霊、聖霊様がそれぞれに違った賜物を与えてくれています。


目立つ働きもあれば、見えないところでひっそりとがんばっている働きもあり、自分では気づいていないけれども他の人の益になっていることもあるのです。

目立つ賜物だけが大切なのではないです。


目立たなかったとしても、神様は一人一人に必要だと思った賜物を与え、一人一人を何よりも尊く思っているのです。


それぞれ違った働きをしていますが、同じ一人の御霊、聖霊様が働いているのであり、その聖霊様が私たちにユニークに働かれているのです。



教会のみんなはキリストの体であり、全員が必要な大切な部分なのです。

一人一人が大切なのです。


しかし、教会生活をしているうちにこれを忘れて次のように思ってしまう人がいます。


「私は手ではないから、からだに属さない」「私は目ではないから、からだに属さない」と思ってしまう人です。


【第1コリント12章15-20節】

たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

この15-16節は、誰かに言われたのではなく、自分が自分自身に投げかけている言葉です。


「あの人はきっと教会にとって大切な存在だけど、私はきっと大切じゃない。この教会にいなくてもいいかも知れない。」、「私はあの人のように信仰がある訳じゃないから教会に属していない。」などと思う必要は全くないです。



神様は一人一人に違った賜物を与え、一人一人全員を大切かつ、なくてはならない器官として作られたのです。


それぞれ違って良い、それぞれ違うからこそ良いのです。

一人一人違うからこそ一つの体としてうまく働くことができるのです。


逆に、自分自身は大丈夫と思っていて、人のことを責める人がいます。


【第1コリント12章21-27節】

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

神様は一人一人違った神様の作品として作っていますし、一人一人に違った賜物を与えています。


違った働きをするからこそ、キリストの体としてうまく働くのです。

みんなが同じ働きをすると、足りない部分も多く、うまく体が機能しません。


神様がみこころによってそれぞれの役割を決め、それぞれに賜物を与えました。


御言葉を伝える人もいれば、聖書の知識を教える人もいれば、異言を話す人もいれば、預言をする人もいれば、いやしを行う人もいれば、困っている人を助ける人もいれば、教会で様々な必要な働きをする人もいます。



賜物は多岐に渡り、神様はそれぞれに違った賜物を与えているので、他の人に「なぜこの仕事はしないの」という必要はないし、「なぜあの人はこの奉仕をしないの。」と他の人と比べて、自分の物差しで人々を測り、他の人に奉仕を強制すべきではありません。


それは神様が私たちに求めている姿ではありません。

「奉仕」や「賜物」を基準に人を見てはいけません。






また、もし自分が他と比べて尊くない、劣っていると思うならば、むしろ喜ぶべきです。

なぜなら、神様がことさらにあなたのことを尊んでいると思っておられるからです。


見えないところで働いている器官こそが実は大切であり、そこが急にいなくなったり、苦しんだり、病気になったりすると、その人だけではなく、体全体が、私たちみんなが痛みます。


私たちは目に見えるところも見えないところも健康かな、大丈夫かなとチェックして、痛みがあればみんなでそこを労わって補って支え合っていきましょう。



あなたが苦しむと私たちも苦しい。

あなたが褒められると私たちもうれしい。


それがキリストの体としての私たちのあるべき教会の姿です。

どの器官もキリストの器官としてなくてはならないものです。


最後に31節を読みます。


【第1コリント12章31節】

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

今持っている賜物以外にも、教会にとって必要な賜物はないのか、人の益となるために賜物を求めていきましょう。


周りの人々にとって必要な賜物があれば、それは積極的に求めていきましょう。


2021.5.9
聖日礼拝メッセージ

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私たちは神様の建物、畑

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今回は “教会とは何か、教会に仕える主のしもべや、教会生活が どうあるべきか” を見ていきましょう。

第1コリント3章を見ていきますが、その前にまず、コリントの教会がその当時どのような教会であったかを見ていきます。



コリント教会の始まりは 使徒18章に書かれており、AD50の初め、パウロが2回目の宣教旅行の際に、コリントを訪れて宣教し、プリスキラとアクラと一緒に18ヶ月間も住みながらコリントの教会を建てました。


パウロはそこでユダヤ人から迫害を受け、のちにシリヤに向けて出発するためにコリントを出ました。

その後、アポロがコリントに到着して、その教会に仕えていました。

実際にアポロの姿を見てみましょう。


【使徒の働き18章24-28節】

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。

この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。

そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。

彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。


コリントの教会は 教会を初めに建てたパウロや、その後のアポロのメッセージによって霊的に成長していました。


コリントという町は ギリシャにあり、都会で、成功している人々が多かったのですが、コリントの教会には社会的に低い地位の人も多く、もちろん高い地位の人もいました。

約1世紀の間ローマの植民地であったため、ローマの影響も受けていました。



また、ギリシャの文化では英雄をまるで神のように扱い、神のように仕えていた文化もありました。

コリントの教会の姿について見ていきましょう。


【第1コリント 1章4-9節】

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。

というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。

それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。

主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。


パウロの言葉によると、コリント教会はことばや、知識、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者になったこと、また、賜物も欠けることなくあること、熱心に主イエスの現れを待っている信仰深い姿がありました。


これだけを見ると、成長していて霊的にもしっかりしていると思うかも知れません。

しかし、一つそのコリント教会に大きな問題があったのです。


【第1コリント 1章10-12節】

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、

あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。


コリント教会の中で、人々は信仰を持って育ちながらも、徐々に人々の中で「私はパウロの方がいいな、パウロが元々この教会を建てたし」

「私はアポロの方がいい。メッセージが力強いし、うまいし。」

「いや、わたしはケパ、ペテロが良い。」

「いや、それなら私はキリストだけについていく。」という声を上がり始めました。



教会に集い、みことばを聞き、霊的にも成長していきながらも、気づけば少しずつ「私はあの人がいい、この人がいい」と「どの人が良いか」と論争を始め、分裂が起き始めたのです。


それに対して、パウロは第1コリント3章で詳しく述べています。


【第1コリント 3章1-17節】

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。

アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、

各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。


ここでは人々がアポロの方についていく、パウロの方についていくと分裂している様子が書かれています。


本来は ただの人であるこのアポロやパウロを、気づけば神様よりも大切にし、重要視している姿が人々の中で見られました。



それについて、パウロは二つの例を使って私たちに教えています。




畑と建物のたとえ




まずは、畑の例えです。

初めに教会という種を植えたのはパウロであり、その種が育つために水を注いだのはアポロですが、実際にそれを育てて成長させたのは神様です。


いくら私たちが畑に種をたくさん蒔いて、水をたくさんやったとしても、太陽の光がなければ育ちません。

太陽の光は私たちが作り出すことは出来ず、神様の恵みによって与えられるものです。


神様の恵みなしに、教会が成長することはないのです。



神様と共に生き、神様の恵みがない教会に、いくら人がたくさんいても、素晴らしい指導者がいたとしても、それは成長しない死んだ教会です。


私たちが大切にすべきなのは、植える者でもなく、水を注ぐ者でもなく、それを成長させてくださる神様ご自身です。


私たちが大切にし、またいつも教会の中で中心に置くべきは神様なのです。






次にもう一つの例えとして、建物が挙げられています。


建築家は、オーナーに依頼されてそのオーナーの希望通りに建物を建てますが、その建物自体は建築家のものではなく、オーナーのものです。


建築家パウロは、オーナーである神様にコリントの教会を建てるように言われて、しっかりイエス・キリストという土台の上に教会を建てましたが、その教会自体は神様のものであり、パウロのものではありません。


すべては神様のものであるのにも関わらず、それをまるで建築家のパウロや、その建物を維持している管理人のアポロの方を重要視していました。



いつの間にか、神様を求めにくるはずの教会で、神様よりも人を見るようになりました。

それで どの人の方が良いのかと、意見が割れ、口論になったり、もめたりしていますが、それは本来間違った姿なのです。


教会はキリストが土台になっており、教会自体も神様のものであり、そのオーナーである神様に私たちは会いに行くのです。


また、どんな建物になっているのか、ちゃんとオーナーが言ったとおりに建物を建てているかどうかを判断するのは、オーナー自身であり、建物自身ではないのです。



もし建築家である神のしもべが、オーナーである神様の言う通りにしっかり教会を建てないのならば、イエス様が再び来られる日にすべて明らかになり、神様が判断をし、裁きを下されます。


それは私たち人間がその人がどうなのかを判断するのではなく、神様が判断することなのです。






それでは、私たちがすべきことは何でしょうか?


それは私たちが何者であるのか、また神様と私たちの関係をしっかり理解して生きることです。


【第1コリント3章9節】

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。


【第1コリント3章16節】

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。


私たちは神様の畑、建物であり、神様の神殿そのものです。

また、神の御霊、つまり聖霊様が私たちの中に宿っておられます。


私たちが自覚すべきは、私たち自身が神様の教会になっていることであり、私たち自身が神様のものであるということです。



聖霊様が私たちの中に生きているのであれば、人を中心とした肉的な者として生きるのではなく、神様を中心とした聖霊と歩む霊的な者として歩まないといけません。


教会は、人中心ではなく、人を求めに来るのでもなく、私たちの父でありオーナーである神様を求めに来るべきです。



もし人を求めて 人のために来るのならば、肉の者として集まることになり、教会とは言えず、ただの人の集まりに過ぎません。


しかし、神様のものとして、聖霊様が宿っているものとして集まるのが神の教会です。


神様ご自身を求める時、頼り祈り求める時に神様は、私たちの想像をはるかに超えて私たちを成長させてくださり、祝福してくださり、守ってくださいます。



神様は教会をご自身のものとして建てました。


また、そこに集う信徒たちは神様の教会そのものであり、神様のものであります。

教会を成長させたのも神様です。



神様はこれからも私たちに、神様のものとして、神様を求め、いつも神様を中心に礼拝を捧げ、教会で交わりを持ち、成長することを願っております。


それは私たちにとっても恵みのあることなのです。

これからも成長させてくださる神様と共に、神様のものとして教会生活を続けていきましょう!


アーメン (*・ω・)ノ


2021.4.18
聖日礼拝メッセージ

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愛とは何か

テーマは 『 愛とは何か 』 です

【第1コリント13章1-8節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

聖書で語る愛はいつ変質するか分からないような ドロドロした愛ではなく、純真な愛です。


その純真な愛が何かを教えた個所が4節から7節です。

自分たちが思う愛とは違う愛であることがよく分かります。




愛とは何か




【第1コリント13章4-7節】

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。


このような愛が私たちにあるでしょうか。

―― ないと思います。


いくつか当てはまるものはあるかも知れませんが、すべてを持っている人はいないと思います。



この愛は成熟した信徒の特徴です。

そして聖霊充満な状態に現れるものです。


この愛があって初めて聖なる者になれます。

それまでは未熟な状態です。


【第1ヨハネ3章11節】

互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。


このように教えられていますが、教会の兄弟たちの間でも妬み、高慢、争い、陰口、怒り、敵対心があるのではないでしょうか?


愛がないので、そのようなことが起こります。

神はそのような私たちを見て「偽り者」と言います。


【第1ヨハネ4章20-21節】

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。


この命令を守らないので、教会の中でも人間関係に問題が起こります。


例えどんなに仲の良い者たちであっても一緒にいる時間が長くなると葛藤や争いが起こったりします。

どのように解決しますか?


愛が一番の解決策になります。


相手に対して今日の愛のことばを適用していくならば、だんだんと相手に対してすまない気持ちと赦す気持ちが出てきます。




愛がないならば




どんなに優れたものを持っていても、力があっても、人のためにいのちをささげても、愛がないならば評価されないです。


主は愛がないならばやかましいどら、うるさいシンバルと語りました。

迷惑だということです。



さらに愛がないならば何の値打ちもなく、何の役にも立たないと言われました。

何をしても主からは評価されないです。


すなわち愛から出ていないことは、人のためではなく自分のためにしたことになります。


きっと主は心の動機を見ておられると思います。

愛は動機と行動が一致しないといけないです。




愛の偉大さ




預言も異言も知識もすたれます。


【第1コリント13章13節】

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

【マタイの福音書22章36-40節】

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2020.7.26
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今はどんな時なのか

テーマは 『 今はどんな時なのか 』 です

【第2コリント6章1-2節】

私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

絶えず流れるのが時間です。


しかし、いつまでも この時間が続くことはないです。

なぜなら終わりがあると主が語って下さったからです。


終わりがある時間の中で生きているので、今がどんな時であるかを知る必要があります。


湯水のように使う時間が人間には与えられていないです。



人間の寿命も終わりがあります。

生まれる時があれば死ぬ時があります。


また次の箇所には このようなことばがあります。


【ヘブル9章27節】

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

死ぬことは誰も避けて通ることが出来ないので、人々はそれを受け止めます。


しかし、死後にさばきがあることを知らない人がほとんどです。

ですから そのための準備も出来ません。



クリスチャンは死後のさばきを知っているので、生きている時にそのための準備をしなければなりません。


準備するためには、今がどんな時なのかを知ることです。

本文でも時が語られてあります。


知恵ある人は、時を見分けることが出来ます。


しかし知恵のない人は、時を見分けることが出来ないので チャンスさえも無駄にしてしまいます。



主の働き人は “見張り人” です。

見張り人は時を見分ける人でなければなりません。


パウロは神の働き人として、また時の見張り人として勧めました。

今がどんな時なのかを教えました。


今はどんな時ですか。

そして自分にとって今どんな時ですか。




恵みの時です




恵みの時とは、罪人が悔い改める時です。

悔い改めることが なぜ恵みでしょうか?


自分が罪人である認識がない人は、罪のまま生きて死に、裁かれて永遠の死を迎えます。



しかし悔い改めて主に立ち返ることは、神にUターンすることです。

Uターンして神の所に立ち返るならば、主から罪の赦しと救いの恵みを受けます。



人間は自分の力で、悔い改めることが出来ないです。

神の恵みによって初めて心から悔い改めることが出来ます。


今は罪人たちが悔い改めて恵みを受ける時です。


【第2ペテロ3章9節】

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。




救いの時です




今は救いの時です。

この世が終わるまでが救いの時です。


世がいつ終わるかは分かりませんが、終わりが来るならば救いのチャンスはありません。


神が罪に汚れた世をすぐに滅ぼさないのは、1人でも多くの人が救われてほしいからです。

主の忍耐を軽んじてはならないです。


【第2ペテロ3章15節】

また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。



従順の時です




信じる者にとっては神に従順する時です。


【マタイの福音書7章24-25節】

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

救われた人が神のことばに従順することが、自分の家を建てる行為であると例えました。



神は私たちが従順の実を結ぶように時間を与えています。

それを十分に活用するのが良いしもべです。


神は良い実を結ぶ人に良い報いを与えます。




準備する時です




信じる人たちはイエス様の再臨を待ち望んでいます。


「天に行って場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのところに迎え入れる。」
とイエス様は約束して下さいました。

目を覚まして用意していなさいと言われました。


迎える用意、天に入るための準備をする時間です。


【エペソ5章15-17節】

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、

機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。

ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

アーメン ヽ(TдT)ノ


2019.9.8
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