からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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これからもどうぞよろしくお願い致します♪

コリント

愛とは

テーマは 『 愛とは 』 です


「愛」とはどのようなものでしょうか。

聖書の「愛」は恋愛の「愛」ではなく、心がドキドキするような「愛」ではなく、恋人や夫婦の中の「愛」のことではなく、恋人、夫婦、子ども、兄弟、家族、教会の兄弟姉妹、友達、会社の人、周りの人々すべてに対する「愛」を指します。


【第1コリント13章1-13節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


まずこの箇所を大きく分けると3つに分けることができます。






1)愛なしでは意味なし(1-3節)

2)愛の性質(4-7節)

3)愛は絶えない(8-13節)


2つ目の「愛の性質」を詳しく見ていく前に、先に他の二つを確認していきましょう。


1)愛なしでは意味なし(1-3節)

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。


たとえ、どんなに賜物を持っていても、預言が出来ても、知識が優れていても、完全な信仰があったとしても、愛がなければ意味がありません。


すべて それは形だけ、スペックだけがすごくて中身がない人間です。

たとえ、全財産を貧しい人にあげて素晴らしい奉仕をしたとしても、迫害から逃げずに信仰を貫いたとしても、愛がなければ何の価値もないのです。


それほど愛はすべてのうちで最も大切であり、愛がなければ何の意味がないほど、愛は必要不可欠なものなのです。


3)愛は絶えない(8-13節)

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


預言、異言、知識はすべて神様、イエス様についてです。


今は私たちが直接神様、イエス様と会うことができません。

そのため、これから再び来られるイエス様や世の終わり、天の御国についての預言が与えられていますが、その預言は神様について すべて語られているのではなく、一部について語られているのです。


それはまるで鏡にぼんやりと映る姿を見ているようです。

当時の鏡は今私たちが持っているような くっきりとはっきりと映っている鏡ではなく、青銅でできた鏡のため、ぼんやりと映っていたのです。


神様やイエス様のことを私たちは今はっきりと見ることはできず、預言や聖書を通して、どういう方なのか、ぼんやりと知っています。



でもイエス様が再び来られる時、また私たちが天の御国に帰る時には 私たちはいよいよ神様、イエス様と直接顔と顔を合わせて見るようになるのです。


そうなると預言、異言、知識はすべて必要がなくなります。

残るものは聖書に書かれている通り、神様を信じる私たちの信仰、イエス様の中にある希望、神様、そして人々への愛なのです。


この愛は止まることがなく、なくなることがなく、常にあるものなのです。

次に、実際にこの愛とは何か、4-7節を詳しく見ていきましょう。






2)愛の性質(4-7節)

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。


① 愛は寛容、親切

この「寛容」は、ギリシャ語では「忍耐」の意味であり、特に「何か怒るようなことがあったのにも関わらず、文句も言わずに我慢すること、忍耐すること」を意味しています。


相手が何かあなたを怒らせるようなことをしたとしても、それに対して文句を言わずに忍耐し、赦すこと、寛容である姿が愛の姿なのです。

しかもそれに加えて、その人に親切にすることが本当の愛の姿です。



私たちが悔い改めをする時、「しまった」と心から反省する時はいつでしょうか?


それは人に指摘され、文句を言われた時でしょうか。

いや、むしろ逆に悪いことをした相手が私たちを赦し、それどころか親切にしてくれた時に心から「申し訳なかった」と悔いたり、反省をしたりするのではないでしょうか。



人の心を溶かし、和らげるのは、指摘の言葉ではありません。

人の心を動かし、和らげるのは、その人を赦す心、寛容な心、相手に対する親切な心、親切な行動なのです。


愛は相手があなたにしたことに対して、文句を言わずに忍耐し、逆にその相手に親切に接することです。





② 妬まない、自慢しない、高慢にならない

妬みとは、他の人が持っているものや、他の人のことを羨ましいと思うことや、誰の方がもっと良いのか、優れているのかと言い争うことです。

また、人の成功を喜ばしいと思わないことです。


ここでの「愛は自慢しない」は、その相手に対して自分のことを自慢しないということです。


「私すごいでしょ、偉いでしょ」と自慢すること、高いプライドを持って相手に接することは愛のない姿です。

それは相手の徳を高めること、つまり人々の役に立つ、人々がよくなるように仕えるのとは正反対であり、「自分自身、自分だけよければ良い」という考え方なのです。


本当の愛の姿は、相手に対して自分のことを自慢せず、相手の上に立とうとしません。






③ 礼儀に反することをせず、不正を喜ばない

礼儀とは、人前での態度、ふるまいです。


ここでは、礼儀に反する事として不品行や、性的な問題なども挙げられます。

今でいう「ハラスメント」をしないということです。


自分自身がしないということだけではなく、相手が行っている不正、つまり聖書的ではないこと、聖書に反することを喜ばないことも愛です。


もし相手が罪を犯しているのならば、その罪自体に私たちは喜ぶべきではありませんし、むしろ相手が正しい道に戻れるよう、神様が喜ぶ姿に変えられるように努めるべきです。


ここでの「真理」は、義と霊的に清いこと、つまりは神様の中で正しく、霊的であることを喜ぶべきだと教えています。





④ 自分のやり方、自分を優先しない

日本語の聖書では、「自分の利益を求めない」と書いてありますが、ギリシャ語には実は「利益」という言葉はなく、「自分の」とまでしか書かれていないのです。


つまりは「自分のもの」を求めない、言い換えると自分のやり方、自分を優先しないということです。






⑤ 怒らず、人のした悪を思わない

ここで「人のした悪を思わない」とありますが、ギリシャ語では、「人のした悪を数えない、記録しない」という意味です。


私たちは よく「この人にこんなことされた」「昔もこんなことしたよね」と相手がした悪いことを心の中で記録しがちです。


でも、人を愛することは、その人がした悪いことを心の中で記録せず、数えないことです。

罪は悪いことですし、犯すべきではないのですが、いつまでも人の罪を私たちが覚えて記録しておくべきではないのです。


神様も罪自体は全く喜ばないですし、私たちが罪を犯さないことを願っていらっしゃいますが、私たちが犯した罪をいつまでも記録して覚え、ずっと責め続けることはなさらないのです。

私たちが支払うべき罪の代価をイエス様が代わりに支払ってくださったからです。


私たちにした人の悪は、私たちが記録せず、代わりにイエス様がその人の代価を支払ってくださったことを覚え、その罪を赦すべきです。






この愛の姿を全部まとめて書いてあるのが、7節です。


すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

この愛の姿ですが、私たちの実際の生活の中で一番想像しやすく、似ている姿は、“赤ちゃんへの母の愛” です。


お母さんは赤ちゃんと共に過ごしながら、その赤ちゃんが泣きまくったり、変えたばかりのおむつにうんちをしたりしても怒らず、そのことを覚えて責めず、それでも赤ちゃんにやさしくし、大切に接するのです。


夜泣きをしてあまり眠れなくても赤ちゃんをあやしますし、それでも赤ちゃんの面倒を見ますし、礼儀に反するようなことはしません。

お母さんはいつも自分のことは優先せず、赤ちゃんを優先して赤ちゃんのことを思います。


その赤ちゃんのためにすべてを我慢し、その赤ちゃんが元気に大きく育っていくことを信じ、期待し、何があっても耐え忍びます。

この親の赤ちゃんに対する愛が、聖書で書かれている愛の姿に一番近い身近な愛の姿です。



また、この世で完全な愛を見せたのは一人しかいません。

それはイエス様が私たちに向けた愛です。


イエス様が私たちを愛したその姿、その愛の形はここで書かれているのにすべて当てはまります。


聖書で書かれているイエス様の姿を見ることによっても、愛がどういうものであるかを私たちは知ることができるのです。


その愛を私たちも実践していかないといけないのです。

なぜ私たちは周りの人を愛さないといけないのでしょうか。


彼らが私たちによくしてくれたからですか。

家族だからですか。


何かをしてくれたから愛すのではなく、その隣人を愛することは神様が私たちに与えた一番大切な命令だからです。


【マタイの福音書22章35-40節】

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


私たちが周りの人を愛す理由は、その人がどうとか、何をしたからとかではなく、神様がそのように私たちに求めているからです。


神様が私たちを愛してくださったのも同じです。

神様が私たちを愛すと決めてくださったから、私たちが罪を犯し、どんな姿であったとしても、私たちを赦し、愛し、信じて待っていてくださるのです。



私たちも神様が私たちにしてくださったように、周りの人を愛すべきなのです。


完全な姿ではないけれども、少しずつキリストの姿に似たものになること、そのためには何よりもキリストが私たちに一番大切だと教えてくれた「隣人を愛しなさい」ということを実践することが大切なのです。


【第1ヨハネ4章7-11節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2021.5.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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私たちはキリストの体

テーマは 『 私たちはキリストの体 』 です

神様が、私たちが教会に集う者として、どんな姿を求めているのか、教会の在り方についてみていきましょう。


第1コリント人への手紙から学んでいきます。

まず、コリント教会がどんな教会であったかを確認しましょう。


【第1コリント1章4-7節】

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。

というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。

それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。

コリント教会は、パウロが建て、アポロが仕えていた教会であり、人々は信仰を持ち、キリストの中で知識を得、賜物も熱心に求め、教会に仕えていました。


その人々の中で分裂もあり、様々な問題がありました。

貧しい者もいれば、富む者もいて、格差もありましたし、どのように教会生活を送るべきか、それぞれどのような働きを教会でしているのかにも違いがありました。



そもそもコリント教会での分裂は、どの指導者についていくかで人々が言い争いによって起きていましたが、それだけではなく、人々の中、信徒同士でも問題があったのです。






今回はその問題の中の一つを見ながら、彼らを反面教師として、教会とはどういうものであるべきか、私たちは自分自身どうすべきか、周りの人とどのように交わっていくべきかを見ていきましょう。

賜物を題材としたところを中心に見ていきます。


【第1コリント12章4-31節】

さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、

ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。

みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。

みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

ここで、賜物について述べられています。


「賜物」=「神様からのギフト」です。

英語で訳すと“Spiritual Gift”であり、「神様からの霊的なギフト」です。


ギリシャ語を見ると、さらにこれは代価なしに神様の恵みによって、タダで与えられているギフトという意味を含んでいます。


賜物は、神様が恵みによってタダで私たちに与えてくれたものであり、自分のためではなく、人のために使うものとして私たちに与えられました。



あなたの持っている賜物、あなたの才能、得意なこと、信仰はあなた自身が作り出したものではなく、神様があなたに与えたものなのです。


あなたが偉いから、特別に優れているからあげたのではなく、神様があなたにはこれをあげよう、と恵みによってあなたにあげたのです。

そのため、この賜物は自分の名誉や名声のために使うものではなく、自分のものとして誇るのでもなく、人の益になるように使うべきです。


先ほど見た箇所や、続きの箇所でもそのように書かれています。


【第1コリント12章7節】

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

【第1コリント14章12節】

あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

【第1コリント14章26節】

兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。

賜物は私たち一人一人がキリストの体の器官として働くために与えられ、徳を高めるため、つまりは皆の益になるために用いていきましょう。


逆に賜物があるのにも関わらず、働いていない、用いていないのであれば、体の器官としてちゃんと働きをしていないことになり、他の体の部分がカバーとしないといけなくなり、他の人も苦しい思いをするのです。



神様があなたに何か賜物を与えてくださったのならば、それを人の益のために積極的に使いましょう。


教会では、それぞれみんな違った賜物を持ち、違った役割をします。

同じ一つの御霊、聖霊様がそれぞれに違った賜物を与えてくれています。


目立つ働きもあれば、見えないところでひっそりとがんばっている働きもあり、自分では気づいていないけれども他の人の益になっていることもあるのです。

目立つ賜物だけが大切なのではないです。


目立たなかったとしても、神様は一人一人に必要だと思った賜物を与え、一人一人を何よりも尊く思っているのです。


それぞれ違った働きをしていますが、同じ一人の御霊、聖霊様が働いているのであり、その聖霊様が私たちにユニークに働かれているのです。



教会のみんなはキリストの体であり、全員が必要な大切な部分なのです。

一人一人が大切なのです。


しかし、教会生活をしているうちにこれを忘れて次のように思ってしまう人がいます。


「私は手ではないから、からだに属さない」「私は目ではないから、からだに属さない」と思ってしまう人です。


【第1コリント12章15-20節】

たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

この15-16節は、誰かに言われたのではなく、自分が自分自身に投げかけている言葉です。


「あの人はきっと教会にとって大切な存在だけど、私はきっと大切じゃない。この教会にいなくてもいいかも知れない。」、「私はあの人のように信仰がある訳じゃないから教会に属していない。」などと思う必要は全くないです。



神様は一人一人に違った賜物を与え、一人一人全員を大切かつ、なくてはならない器官として作られたのです。


それぞれ違って良い、それぞれ違うからこそ良いのです。

一人一人違うからこそ一つの体としてうまく働くことができるのです。


逆に、自分自身は大丈夫と思っていて、人のことを責める人がいます。


【第1コリント12章21-27節】

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

神様は一人一人違った神様の作品として作っていますし、一人一人に違った賜物を与えています。


違った働きをするからこそ、キリストの体としてうまく働くのです。

みんなが同じ働きをすると、足りない部分も多く、うまく体が機能しません。


神様がみこころによってそれぞれの役割を決め、それぞれに賜物を与えました。


御言葉を伝える人もいれば、聖書の知識を教える人もいれば、異言を話す人もいれば、預言をする人もいれば、いやしを行う人もいれば、困っている人を助ける人もいれば、教会で様々な必要な働きをする人もいます。



賜物は多岐に渡り、神様はそれぞれに違った賜物を与えているので、他の人に「なぜこの仕事はしないの」という必要はないし、「なぜあの人はこの奉仕をしないの。」と他の人と比べて、自分の物差しで人々を測り、他の人に奉仕を強制すべきではありません。


それは神様が私たちに求めている姿ではありません。

「奉仕」や「賜物」を基準に人を見てはいけません。






また、もし自分が他と比べて尊くない、劣っていると思うならば、むしろ喜ぶべきです。

なぜなら、神様がことさらにあなたのことを尊んでいると思っておられるからです。


見えないところで働いている器官こそが実は大切であり、そこが急にいなくなったり、苦しんだり、病気になったりすると、その人だけではなく、体全体が、私たちみんなが痛みます。


私たちは目に見えるところも見えないところも健康かな、大丈夫かなとチェックして、痛みがあればみんなでそこを労わって補って支え合っていきましょう。



あなたが苦しむと私たちも苦しい。

あなたが褒められると私たちもうれしい。


それがキリストの体としての私たちのあるべき教会の姿です。

どの器官もキリストの器官としてなくてはならないものです。


最後に31節を読みます。


【第1コリント12章31節】

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

今持っている賜物以外にも、教会にとって必要な賜物はないのか、人の益となるために賜物を求めていきましょう。


周りの人々にとって必要な賜物があれば、それは積極的に求めていきましょう。


2021.5.9
聖日礼拝メッセージ

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私たちは神様の建物、畑

テーマは 『 私たちは神様の建物、畑 』 です


今回は “教会とは何か、教会に仕える主のしもべや、教会生活が どうあるべきか” を見ていきましょう。

第1コリント3章を見ていきますが、その前にまず、コリントの教会がその当時どのような教会であったかを見ていきます。



コリント教会の始まりは 使徒18章に書かれており、AD50の初め、パウロが2回目の宣教旅行の際に、コリントを訪れて宣教し、プリスキラとアクラと一緒に18ヶ月間も住みながらコリントの教会を建てました。


パウロはそこでユダヤ人から迫害を受け、のちにシリヤに向けて出発するためにコリントを出ました。

その後、アポロがコリントに到着して、その教会に仕えていました。

実際にアポロの姿を見てみましょう。


【使徒の働き18章24-28節】

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。

この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。

そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。

彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。


コリントの教会は 教会を初めに建てたパウロや、その後のアポロのメッセージによって霊的に成長していました。


コリントという町は ギリシャにあり、都会で、成功している人々が多かったのですが、コリントの教会には社会的に低い地位の人も多く、もちろん高い地位の人もいました。

約1世紀の間ローマの植民地であったため、ローマの影響も受けていました。



また、ギリシャの文化では英雄をまるで神のように扱い、神のように仕えていた文化もありました。

コリントの教会の姿について見ていきましょう。


【第1コリント 1章4-9節】

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。

というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。

それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。

主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。


パウロの言葉によると、コリント教会はことばや、知識、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者になったこと、また、賜物も欠けることなくあること、熱心に主イエスの現れを待っている信仰深い姿がありました。


これだけを見ると、成長していて霊的にもしっかりしていると思うかも知れません。

しかし、一つそのコリント教会に大きな問題があったのです。


【第1コリント 1章10-12節】

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、

あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。


コリント教会の中で、人々は信仰を持って育ちながらも、徐々に人々の中で「私はパウロの方がいいな、パウロが元々この教会を建てたし」

「私はアポロの方がいい。メッセージが力強いし、うまいし。」

「いや、わたしはケパ、ペテロが良い。」

「いや、それなら私はキリストだけについていく。」という声を上がり始めました。



教会に集い、みことばを聞き、霊的にも成長していきながらも、気づけば少しずつ「私はあの人がいい、この人がいい」と「どの人が良いか」と論争を始め、分裂が起き始めたのです。


それに対して、パウロは第1コリント3章で詳しく述べています。


【第1コリント 3章1-17節】

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。

アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、

各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。


ここでは人々がアポロの方についていく、パウロの方についていくと分裂している様子が書かれています。


本来は ただの人であるこのアポロやパウロを、気づけば神様よりも大切にし、重要視している姿が人々の中で見られました。



それについて、パウロは二つの例を使って私たちに教えています。




畑と建物のたとえ




まずは、畑の例えです。

初めに教会という種を植えたのはパウロであり、その種が育つために水を注いだのはアポロですが、実際にそれを育てて成長させたのは神様です。


いくら私たちが畑に種をたくさん蒔いて、水をたくさんやったとしても、太陽の光がなければ育ちません。

太陽の光は私たちが作り出すことは出来ず、神様の恵みによって与えられるものです。


神様の恵みなしに、教会が成長することはないのです。



神様と共に生き、神様の恵みがない教会に、いくら人がたくさんいても、素晴らしい指導者がいたとしても、それは成長しない死んだ教会です。


私たちが大切にすべきなのは、植える者でもなく、水を注ぐ者でもなく、それを成長させてくださる神様ご自身です。


私たちが大切にし、またいつも教会の中で中心に置くべきは神様なのです。






次にもう一つの例えとして、建物が挙げられています。


建築家は、オーナーに依頼されてそのオーナーの希望通りに建物を建てますが、その建物自体は建築家のものではなく、オーナーのものです。


建築家パウロは、オーナーである神様にコリントの教会を建てるように言われて、しっかりイエス・キリストという土台の上に教会を建てましたが、その教会自体は神様のものであり、パウロのものではありません。


すべては神様のものであるのにも関わらず、それをまるで建築家のパウロや、その建物を維持している管理人のアポロの方を重要視していました。



いつの間にか、神様を求めにくるはずの教会で、神様よりも人を見るようになりました。

それで どの人の方が良いのかと、意見が割れ、口論になったり、もめたりしていますが、それは本来間違った姿なのです。


教会はキリストが土台になっており、教会自体も神様のものであり、そのオーナーである神様に私たちは会いに行くのです。


また、どんな建物になっているのか、ちゃんとオーナーが言ったとおりに建物を建てているかどうかを判断するのは、オーナー自身であり、建物自身ではないのです。



もし建築家である神のしもべが、オーナーである神様の言う通りにしっかり教会を建てないのならば、イエス様が再び来られる日にすべて明らかになり、神様が判断をし、裁きを下されます。


それは私たち人間がその人がどうなのかを判断するのではなく、神様が判断することなのです。






それでは、私たちがすべきことは何でしょうか?


それは私たちが何者であるのか、また神様と私たちの関係をしっかり理解して生きることです。


【第1コリント3章9節】

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。


【第1コリント3章16節】

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。


私たちは神様の畑、建物であり、神様の神殿そのものです。

また、神の御霊、つまり聖霊様が私たちの中に宿っておられます。


私たちが自覚すべきは、私たち自身が神様の教会になっていることであり、私たち自身が神様のものであるということです。



聖霊様が私たちの中に生きているのであれば、人を中心とした肉的な者として生きるのではなく、神様を中心とした聖霊と歩む霊的な者として歩まないといけません。


教会は、人中心ではなく、人を求めに来るのでもなく、私たちの父でありオーナーである神様を求めに来るべきです。



もし人を求めて 人のために来るのならば、肉の者として集まることになり、教会とは言えず、ただの人の集まりに過ぎません。


しかし、神様のものとして、聖霊様が宿っているものとして集まるのが神の教会です。


神様ご自身を求める時、頼り祈り求める時に神様は、私たちの想像をはるかに超えて私たちを成長させてくださり、祝福してくださり、守ってくださいます。



神様は教会をご自身のものとして建てました。


また、そこに集う信徒たちは神様の教会そのものであり、神様のものであります。

教会を成長させたのも神様です。



神様はこれからも私たちに、神様のものとして、神様を求め、いつも神様を中心に礼拝を捧げ、教会で交わりを持ち、成長することを願っております。


それは私たちにとっても恵みのあることなのです。

これからも成長させてくださる神様と共に、神様のものとして教会生活を続けていきましょう!


アーメン (*・ω・)ノ


2021.4.18
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愛とは何か

テーマは 『 愛とは何か 』 です

【第1コリント13章1-8節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

聖書で語る愛はいつ変質するか分からないような ドロドロした愛ではなく、純真な愛です。


その純真な愛が何かを教えた個所が4節から7節です。

自分たちが思う愛とは違う愛であることがよく分かります。




愛とは何か




【第1コリント13章4-7節】

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。


このような愛が私たちにあるでしょうか。

―― ないと思います。


いくつか当てはまるものはあるかも知れませんが、すべてを持っている人はいないと思います。



この愛は成熟した信徒の特徴です。

そして聖霊充満な状態に現れるものです。


この愛があって初めて聖なる者になれます。

それまでは未熟な状態です。


【第1ヨハネ3章11節】

互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。


このように教えられていますが、教会の兄弟たちの間でも妬み、高慢、争い、陰口、怒り、敵対心があるのではないでしょうか?


愛がないので、そのようなことが起こります。

神はそのような私たちを見て「偽り者」と言います。


【第1ヨハネ4章20-21節】

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。


この命令を守らないので、教会の中でも人間関係に問題が起こります。


例えどんなに仲の良い者たちであっても一緒にいる時間が長くなると葛藤や争いが起こったりします。

どのように解決しますか?


愛が一番の解決策になります。


相手に対して今日の愛のことばを適用していくならば、だんだんと相手に対してすまない気持ちと赦す気持ちが出てきます。




愛がないならば




どんなに優れたものを持っていても、力があっても、人のためにいのちをささげても、愛がないならば評価されないです。


主は愛がないならばやかましいどら、うるさいシンバルと語りました。

迷惑だということです。



さらに愛がないならば何の値打ちもなく、何の役にも立たないと言われました。

何をしても主からは評価されないです。


すなわち愛から出ていないことは、人のためではなく自分のためにしたことになります。


きっと主は心の動機を見ておられると思います。

愛は動機と行動が一致しないといけないです。




愛の偉大さ




預言も異言も知識もすたれます。


【第1コリント13章13節】

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

【マタイの福音書22章36-40節】

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2020.7.26
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今はどんな時なのか

テーマは 『 今はどんな時なのか 』 です

【第2コリント6章1-2節】

私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

絶えず流れるのが時間です。


しかし、いつまでも この時間が続くことはないです。

なぜなら終わりがあると主が語って下さったからです。


終わりがある時間の中で生きているので、今がどんな時であるかを知る必要があります。


湯水のように使う時間が人間には与えられていないです。



人間の寿命も終わりがあります。

生まれる時があれば死ぬ時があります。


また次の箇所には このようなことばがあります。


【ヘブル9章27節】

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

死ぬことは誰も避けて通ることが出来ないので、人々はそれを受け止めます。


しかし、死後にさばきがあることを知らない人がほとんどです。

ですから そのための準備も出来ません。



クリスチャンは死後のさばきを知っているので、生きている時にそのための準備をしなければなりません。


準備するためには、今がどんな時なのかを知ることです。

本文でも時が語られてあります。


知恵ある人は、時を見分けることが出来ます。


しかし知恵のない人は、時を見分けることが出来ないので チャンスさえも無駄にしてしまいます。



主の働き人は “見張り人” です。

見張り人は時を見分ける人でなければなりません。


パウロは神の働き人として、また時の見張り人として勧めました。

今がどんな時なのかを教えました。


今はどんな時ですか。

そして自分にとって今どんな時ですか。




恵みの時です




恵みの時とは、罪人が悔い改める時です。

悔い改めることが なぜ恵みでしょうか?


自分が罪人である認識がない人は、罪のまま生きて死に、裁かれて永遠の死を迎えます。



しかし悔い改めて主に立ち返ることは、神にUターンすることです。

Uターンして神の所に立ち返るならば、主から罪の赦しと救いの恵みを受けます。



人間は自分の力で、悔い改めることが出来ないです。

神の恵みによって初めて心から悔い改めることが出来ます。


今は罪人たちが悔い改めて恵みを受ける時です。


【第2ペテロ3章9節】

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。




救いの時です




今は救いの時です。

この世が終わるまでが救いの時です。


世がいつ終わるかは分かりませんが、終わりが来るならば救いのチャンスはありません。


神が罪に汚れた世をすぐに滅ぼさないのは、1人でも多くの人が救われてほしいからです。

主の忍耐を軽んじてはならないです。


【第2ペテロ3章15節】

また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。



従順の時です




信じる者にとっては神に従順する時です。


【マタイの福音書7章24-25節】

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

救われた人が神のことばに従順することが、自分の家を建てる行為であると例えました。



神は私たちが従順の実を結ぶように時間を与えています。

それを十分に活用するのが良いしもべです。


神は良い実を結ぶ人に良い報いを与えます。




準備する時です




信じる人たちはイエス様の再臨を待ち望んでいます。


「天に行って場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのところに迎え入れる。」
とイエス様は約束して下さいました。

目を覚まして用意していなさいと言われました。


迎える用意、天に入るための準備をする時間です。


【エペソ5章15-17節】

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、

機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。

ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

アーメン ヽ(TдT)ノ


2019.9.8
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愛の方法

テーマは 『 愛の方法 』 です

【第1コリント12章31節】

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

【第1コリント13章13節】

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

【第1コリント14章1節】

愛を追い求めなさい。


愛することは自然に身につくことではありません。

愛することは簡単なことではありません。


愛にも色々ありますが、真の愛は 神から愛する方法を学ばないといけないです。

しかし、愛は 学ぶだけで出来ることでもありません。


聖書では私たちが愛ある者になるためには、どのようにしたら良いかを教えています。

今回はその教えを学びます。




愛の定義




【第1コリント13章4-7節】

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛のことを1番正しく教えて下さったのは、神様です。

なぜなら、神は “愛” そのものだからです。


詩人がどんなに美しいことばで愛を語っても、それが愛の定義にはなりません。



愛の神様が教えて下さった愛の定義が1番正しいです。


人々が語る愛と、神が語る愛が どれほど違うかを今のことばでも分かると思います。


甘いことばや美しいことばで表現するのが愛ではなく、私たちが望まないような姿が 神様の語る “愛” です。



人は “愛したい” という思いよりは、“愛されたい” 思いが強いので、神が語る愛に対して、積極的に愛そうという思いは起こらないと思います。


しかし本当に愛ある者になるためには、神が語る愛の形にしていかなければ、愛のない者になります。


ですから、主のことばが語る “愛” を学ばなければなりません。




愛ある人の行動




「互いに愛し合いなさい」と言われたことば通りに 愛し合っているならば、愛ある人です。


愛ある人は、光の中を歩み、つまずくことがありません。

愛ある人は、人々の多くの罪を覆います。


人の罪をバラし、裁いてつまずかせることはしません。

裁く代わりに勧め、とりなしをします。

愛には “犠牲” が伴います。



しかし愛ある人は 義務ではなく、愛があるからこそ自ら犠牲を払います。

代表的な愛の姿が、キリストの十字架の姿です。


口先だけの愛は詐欺師と同じです。

愛のことばで人を騙しているからです。


愛ある人の行動は人を感動させます。

人を生かしますし、人を変えます。




愛がないならば




【第1コリント13章1-3節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

人々は、働きの実や業績が 神様の栄光になると思って熱心に働きます。


しかし、どんなに働いて素晴らしい業績があっても、愛がないならば すべてがむなしいと主が語っておられます。


神が求める1番大切なものがないならば、神はそれを喜びませんし、認めません。


心の動機が愛でないならば、その働きは神のみこころに適う働きにはなりません。




愛ある者になるために




神が教えて下さったみことばから愛を学び、実行していくことです。


また 愛は、聖霊充満によって私たちが聖い生活を送るようになると、人を愛することが出来ます。


愛は成熟した信者の特徴です。


幼子にとって、愛はいつも受けるものだと思います。



しかし成熟した人は、愛は受けるものではなく、与えるものであることを知っています。


愛の神様から愛されている私たちも、その愛に感激して、主のことばのように愛ある者になることです。


2019.1.13
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私たちの信仰は大丈夫なのか

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【第1コリント9章27節】

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

直接会ったことはないですが、間接的に知っている あるクリスチャンの奥様が、愛する娘の病死をきっかけに 信仰を捨てた話を聞きました。

もちろん その奥様も熱心に宣教活動をしたクリスチャンでした。


最近その奥様が数年前から教会にまったく行かず、信仰からも離れたことを聞いてびっくりしました。

そして悲しくなりました。「まさか」と思いました。


本人も、自分自身が神も信仰も捨てて、神に敵対する者になるとは想像もしなかったと思います。


私たちもいつ自分がそうなるかは誰も知らないと思います。

他人も信頼出来ないですが、自分自身も信頼出来ないです。


昨日の心と今日の心が違うので信頼が出来ないです。



「あなたの信仰は大丈夫ですか?」に どのような答えをしますか?


私は「大丈夫じゃないです」と素直に言えます。

信仰が波乗りする時があります。


良い時は大丈夫でも、良くないことが起きると自分の信仰がどう変わるかが心配です。

私たちの信仰を揺れ動かすものが色々あります。


それに気付くことも信仰の失格者にならないために必要です。




神より もっと愛するものがありますか




神より愛するものが存在するならば、その信仰は大丈夫ではないです。


アブラハムが祝福の人になったのは、厳しい神のテストに合格してからでした。

大事な1人息子イサクを神にささげてからでした。


神はその子をいけにえとしてささげるように言いました。

父親として自分の子のいのちに手を下すことは簡単に出来るでしょうか。


しかしアブラハムは神のことばに従いました。

殺す直前に神が彼を止めました。


神は彼が誰を一番愛するのか、恐れているのかをテストしました。

その後に神様は彼を大いに祝福しました。



娘の死で神から離れたその人も、それまではアブラハムの話は耳にタコが出来るほど聞いたと思います。

素晴らしい信仰だと、心では(アブラハムを)尊敬したと思います。

神を一番と思っていたのに、神を一番愛する愛が 自分にないことを証明する結果になりました。


この愛の問題に失敗すると、みんなが信仰のテストに失敗します。


一度、愛の問題で失敗した弟子シモン・ペテロに主が現れて質問しました。


「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか。」

ペテロは二度目には失敗しませんでした。




肉の思いが霊の思いよりも強いですか




カイン、イシュマエル、エサウとアベル、イサク、ヤコブの違いが分かりますか。


前者は世俗的で肉に属する者で、後者は神を愛する霊に属する霊的な者です。

同じ信仰ある家庭で、信仰も受け継ぎましたが、彼らの人生は分かれていきました。


肉に属する者になり、信仰をないがしろにした者たちと、肉のものよりは上にある聖いもの、霊的なものに関心が高く、神を愛しながら生きた者に分かれました。


自分の思い、自分の欲、自分の判断が強い人は肉の思いが強い人です。


その人たちは苦い根を持っています。

それは古い人の根っこです。そこから肉の行いが始まります。


それは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」です。


しかし霊の思いは、それとは まったく違います。

その人たちは御霊によって生きています。


霊の思いは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。


肉の思いは、信仰を堕落させ、神の国を相続出来ないようにします。


しかし霊の思いは、御霊の実をたくさん結ぶので、神に役立つ者、神の国にふさわしい者になります。




神への非難の思いがありますか




神への非難の思いは信仰に致命的です。


娘を失った人が信仰から離れた原因は、きっと神への非難の思いが強かったと思います。

「なぜ私の娘のいのちを助けず取ったのか」と。

神を 盗人、殺人をした悪い神である思いが彼女の心になかったと言えるでしょうか。


「すべてのことについて感謝しなさい」と言われていますが、それが日々守られてあるでしょうか?

守られていないと思います。




ヨナの姿を通して神への非難の思いの危険性をみたいと思います。


神のことばに不従順して嵐に会い、魚に飲まれて、魚のお腹に入り、生き地獄を体験しました。

神が助けて下さらなかったならば、誰も知らない所で死んだと思います。


しかし、神の憐れみで助かったので 彼は第二の人生を送るようになりました。

二度いのちを得たことが小さいことでしょうか?


一生感謝してもしきれない恵みなのに、あっという間に忘れてしまう恩知らずの姿を私たちはヨナ書で見ることが出来ます。


ニネベの人たちを滅ぼす計画が神から出て、彼はそれを神の命令でニネベの町の人々に伝えました。


しかし予想もしなかったことが起こりました。

彼らが本気でそのことばを受け止め、断食しながら神の前に悔い改めました。


神は彼らの姿を見て滅ぼす計画をやめました。

それで彼は不機嫌になり、神への不満が、神への非難に変わり、神にそれをぶつけました。




私たちは自分に悪いこと、思い通りにならないことがあると神を非難します。

そして他人に良いことや、祝福があると、それも妬んで神を非難します。


自分一人のいのちは大切なのに、十二万以上の人間と多くの家畜のいのちに対しては惜しむ心がヨナにはまったくありませんでした。


自己中心的な人間は、神の心には関心がなく、自分が中心で回らないと神に対して不機嫌です。


自分を助けた神の恵みはすっかり忘れて、不満を言う者になったことが悲しいですね。


自分たちにも、ヨナの姿があります。

これが私たちの信仰を汚染させ、ダメな信仰にしてしまいます。


ですから私たちは神や人と戦うのではなく、自分の中にいる強い敵と戦わないと、それに自分がつまずきます。


神や人につまずいたと言えますか?

よく考えるならば自分が自分の信仰につまずいています。


神や人への苦い思い、肉の思い、世を愛する心はあるのに、肝心な信仰がないのです。


これが一番の問題です。
アーメン ヽ(TдT)ノ


2018.5.6
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復活がもたらした祝福

テーマは 『 復活がもたらした祝福 』 です

【第1コリント15章12-19節】

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。

もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったらあなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

キリストの復活は、ただの驚きではなく、信じる者たちに どれほど大きな祝福をもたらしたか分かりません。


信じる人々は、その素晴らしい祝福を知らなければなりません。

イースターは “祝福の日” です。


受難週には、キリストの受難について伝えましたが、
復活の日である今回は、復活がもたらした祝福は何かを伝えます。




敵に対する完全勝利




十字架の苦難も復活も、父なる神の救いの計画に最初からありました。

それによって救いは完成します。


キリストは十字架の苦難を受け、そして復活もしましたので、救いの計画は完成しました。


救いの計画を妨害しようとしたサタンの計画は、“復活” によって失敗で終わりました。

キリストの敵に対する完全な勝利は、信じる者にも同じ勝利をもたらしました。


詩篇23編は、キリストの苦難と復活がもたらした重要な預言があります。


【詩篇23編5節】

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

私たちは、私たちを迫害した敵が見ている前で、主が私たちのために用意して下さるごちそうの食事、主にきよめられた美しい姿、そして あふれる恵みの前に 感激する日が必ず来ます。




再臨の主が来られる




イエス様は すでに来られた方であり、再び来られる方です。

以前は、私たちと同じ姿で地上に来られましたが、将来は復活した体で来られます。


今は聖霊として私たちの中におられる方ですが、将来は復活の体で再臨なさいます。


【ヨハネの福音書14章18-19節】

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。

いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

主を否定する人は 主を見ることがないですが、信じる者は天国で永遠に主を見ます。




本物の福音を伝える証人になる




なぜイエス・キリストの福音だけが本物の福音でしょうか?


私達のために死に、私達のために復活した方は、イエス・キリスト以外には いないからです。


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

【使徒の働き16章31節】

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」


救いもないのに、(他の宗教にも)まるで救いがあるかのように伝えることは、人を騙すことです。


しかしキリストの証人は、救いがある本物の福音を伝えています。

復活した主は 弟子たちに力を与え、証人にすると約束しました。


【使徒の働き1章8節】

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」



十字架の苦難は復活につながる




十字架の苦難は険しいものでした。

しかし、その後にあるものが “復活のいのち” でした。


【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

復活のいのちは、キリストを信じることで得ることが出来ます。

キリストの復活は、人間の理性では信じることが出来ません。


ですから、“信仰” によって、信じられないことを “信じる” のです。


ある人は 目の前で起きたことに対しても、「信じられない」と言います。


2千年も前に起きたキリストの復活は、信仰によって信じることが出来ます。


【ヨハネの福音書3章36節】

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。



主のための労苦は無駄にはならない




世の宗教は、死人に対しての供養や 死人に対しての献身を要求し、それによって “報いを得る” と言います。

それに疑いを持たずに信じる人が とても多いです。


死人に一体 何が出来ると思いますか?


彼らがどんな祝福を持っていますか?

死人が、生きている人のために一体 何が出来ますか?


もし、キリストが 復活 しなかったならば、これと同じことです。

すべてが むなしくなります。


しかし キリストは “復活” したので、結果が違います。


【第1コリント15章58節】

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

このように キリストの復活は、素晴らしい祝福を私たちに もたらしました。


ですから、私たちも 復活のいのちに望みを抱いて、荒野の道を歩むことが出来ます。


アーメン v( ̄∇ ̄)v

2018.4.1
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サタンの策略を知る必要がある

テーマは 『 サタンの策略を知る必要がある 』 です

【第2コリント2章11節】

これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

サタンが存在していること、実際に活動していること、そしてどこで何をしているのか知っていますか?

サタンはどんな策略を持っているのか知っていますか?


人々の中にはサタンの存在を全面的に否定する人もいれば、(存在は)認めていますが、サタンに対して何も知らない人もいると思います。

また、ある人はサタンに対して詳しい人もいると思います。



サタンは存在しています。

霊の存在なので、目には見えませんが確かに存在しています。


悪魔とも悪霊とも呼ばれ、今も活発に年中無休で熱心に働いています。

良いことのためではなく、悪いことのために働いています。


その熱心な働きぶりを聖書は次のように言っています。


【第1ペテロ5章8節】

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

人間を食い尽くすために、この世界で活発に働いています。

サタンは最初から目的を持って働き、その働きを成功させるために あらゆる策略を立て、それを使って成功を収めています。


サタンの働きの目的を、イエス様はご自分の目的と比較しながら教えて下さいました。

サタンを盗人に例えました。


【ヨハネの福音書10章10-11節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

本当にその通りの働きを イエス様も、そしてサタンもしました。

サタンはどのような人に対しても良いことはしません。


初めは良いことをしているかのように見せかけますが、最後は盗んだり、殺したり、滅ぼして終わります。


そのために多くの策略を持ってあります。



私たちがサタンに騙されないためには、サタンの策略を知らなければ 必ず騙されてひどい目に会います。


次の箇所にも 策略のことばがあります。


【エペソ6章11節】

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

悪魔は攻撃する策略を立てます。

ですから悪魔の攻撃に負けないためには、悪魔の策略を知る必要があります。






たとえば、平昌オリンピックが始まると 韓国と北朝鮮の間に南北融和ムードが広がりました。


どう見ても 偽の平和なのに、これが真の平和への道だと騒いでいる韓国の文大統領、オリンピックを利用して平和攻勢をかける北朝鮮の腹黒い策略、この策略に騙されないトランプ大統領。


トランプ大統領は 北朝鮮の策略を知り、彼らの本質を見抜いているので、史上最も強い制裁をこの時期に表明しました。


単に国と国との対決だと思いますか?
――そうではありません。

陰で活発に働くのはサタンの力です。






サタンが巧妙な策略で働く目的は何でしょうか?


根本的な目的は、人間に罪を犯させ、神の働きを妨害し、惑わして混乱を起こし、罪に定めて永遠の滅びの道に陥れることです。


そのために嘘、偽り、惑わしの策略を企てます。


真理と真実を “偽り” に変え、人を騙します。

この策略は最初から成功しました。


アダムとエバを騙しました。

彼らはサタンに騙されて神のことばを疑い、神のことばを信じず、逆らいました。


サタンのこの策略は、いつも活発に使われてあります。

騙される人が多いので、一番多く使われています。


真理と真実を はっきり知らないと、嘘にすぐ騙されてしまいます。


本人は騙されていることにも気付かないことが多いです。



旧約聖書ネヘミヤ記6章で、サタンの策略が どのようなものなのか知ることが出来ます。


ネヘミヤに罪を犯させ、神の仕事を妨害しようとする策略が出て来ますが、その策略を見抜いて騙されず、神の仕事を完成させていくネヘミヤの姿が ここにあります。


【ネヘミヤ記6章1-19節】

さて、私が城壁を建て直し、破れ口は残されていないということが、サヌバラテ、トビヤ、アラブ人ゲシェム、その他の私たちの敵に聞こえると、――その時まで、私はまだ、門にとびらを取りつけていなかった――

サヌバラテとゲシェムは私のところに使いをよこして言った。「さあ、オノの平地にある村の一つで会見しよう。」彼らは私に害を加えようとたくらんでいたのである。

そこで、私は彼らのところに使者たちをやって行った。「私は大工事をしているから、下って行けない。私が工事をそのままにして、あなたがたのところへ下って行ったため、工事が止まるようなことがあってよいものだろうか。」

すると、彼らは同じようにして、四度も私のところに人をよこした。それで私も同じように彼らに答えた。

サヌバラテは五度目にも同じようにして、若い者を私のところによこした。その手には一通の開封した手紙を持っていた。

それには次のように書いてあった。「諸国民の間に言いふらされ、また、ゲシェムも言っているが、あなたとユダヤ人たちは反逆をたくらんでおり、そのために、あなたは城壁を建て直している。このうわさによれば、あなたは彼らの王となろうとしている。

また、あなたはエルサレムで、自分について宣言させるために、預言者たちを任命して、『ユダに王がいる』と言わせている。今にこのようなことが王に聞こえるであろう。さあ、来なさい。いっしょに相談しよう。」

そこで、私は彼のところに人をやって言わせた。「あなたが言っているようなことはされていない。あなたはそのことを自分でかってに考え出したのだ」と。

事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。

私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家に行ったところ、彼は引きこもっており、そして言った。「私たちは、神の宮、本堂の中で会い、本堂の戸を閉じておこう。彼らがあなたを殺しにやって来るからだ。きっと夜分にあなたを殺しにやって来る。」

そこで、私は言った。「私のような者が逃げてよいものか。私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか。私は入って行かない。」

私にはわかっている。今、彼を遣わしたのは、神ではない。彼がこの預言を私に伝えたのは、トビヤとサヌバラテが彼を買収したからである。

彼が買収されたのは、私が恐れ、言われるとおりにして、私が罪を犯すようにするためであり、彼らの悪口の種とし、私をそしるためであった。

わが神よ。トビヤやサヌバラテのあのしわざと、また、私を恐れさせようとした女預言者ノアデヤや、その他の預言者たちのしわざを忘れないでください。

こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。

私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。

また、そのころ、ユダのおもだった人々は、トビヤのところにひんぱんに手紙を送っており、トビヤも彼らに返事をしていた。

それは、トビヤがアラフの子シェカヌヤの婿であり、また、トビヤの子ヨハナンもベレクヤの子メシュラムの娘を妻にめとっていたので、彼と誓いを立てていた者がユダの中に大ぜいいたからである。

彼らはまた、私の前でトビヤの善行を語り、私の言うことを彼に伝えていた。トビヤは私をおどそうと、たびたび手紙を送って来た。

敵はあらゆる策略を企てて、しつこくネヘミヤを攻撃しましたが、ネヘミヤは彼らの本質を見抜いていたので、騙されず、一切の妥協もせず、一歩も彼らに近づかず、最初から決めた通りの神の働きに専念しました。


そして いつも神に祈り、神に助けとあわれみを求めました。

そのようにして崩れた城壁の修復を52日で完成させ、敵に勝利することが出来ました。


サタンの策略を知るためには、何よりもサタンの本質を見抜くことです。


サタンは悪そのものです。サタンの中に、善は存在しません。


神のことばを引用して使っても、サタンは “悪” そのものです。

「盗む、殺す、滅ぼす」以外にないです。


ですからサタンがどんなに美しい姿で現れたとしても、本質は何一つ変わりません。


平和を語っても、それは “策略” であって “真実” ではありません。

策略を知れば知るほど、相手の動きを見抜くことが出来ます。


【第2コリント11章13-15節】

こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。

しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。

アーメン ( ̄‥ ̄)=3

2018.2.25
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もし愛がないならば

テーマは 『 もし愛がないならば 』 です

【第1コリント13章1-3節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

今日のことばは、心にしっかりと止めないと 後に大変なことになります。


愛がすべてのいのちの源で、愛があれば価値があり、命があるのに、愛がないなら いのちも価値もないことを教えています。


みことばを知って本気にしていましたか?
それとも、今まで頭に入れただけでしたか?


この愛の価値と重要性は すでにイエス様から聞いています。


【マタイの福音書22章36-40節】

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

このように、“大切な愛” に対して、人々は軽く考えますが、主は決して愛を軽く考えたことがありません。


いつか私たちは、主の前に立って、主から裁きを受けます。


その時、神の裁きの基準も、“私たちが神を愛したのか、隣人を愛したのか” が一番の裁きの対象になります。


そこで人々は戸惑うでしょう。

愛が裁きの対象になるとは考えなかったからです。


この世では そういうものが裁きの対象には全くならないです。


しかし神は 人の心を見る方です。

行動の内側にある目的や動機に目を向ける方です。

そして、しっかりと調べる方です。






もし、私たちが熱心に主の働きをしても、そこに愛がないならば どうなりますか。


“異言、預言、知識、完全な信仰” などは、聖霊の賜物であり、“善行、献身” などは それによって現れた実でもあります。


神が下さった素晴らしい賜物で、良い実を結ぶことは主が喜ぶことです。


主が喜ぶことをしたにも関わらず、ある人々の働きは評価されません。

その理由として挙げられたのが「愛」でした。


本文にもあるように、その人の中に愛がないならば、何の値うちもないものと評価されます。


聖徒は神の働きをすれば、当然良い報いを受けるものだと期待しますが、神は みんなが同じ報いを受けることはないと教えました。


反対に厳しい目に会う者もいることを語りました。


【マタイの福音書7章22-23節】

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

大いに期待した者たちが報われることもなく、悲惨なことに追い出されることになりました。

どのような理由で追い出されたと思いますか?


彼らに愛がなかったからです。


彼らは最初から愛がなかった者でしたか?
―― そうではないです。

彼らはみな、神を愛して神に従いました。


しかし、主の働きをしていく中で、彼らの愛が変わっていきました。

最初は主を愛し、魂を愛して一生懸命働きました。


しかし働きが続く中で、教会が大きくなるにつれて、彼らの愛が変わってしまいました。

そして心が主から離れるようになりました。


彼らは、教会や働き、自分自身をもっと愛する者になりました。

また ある者は富、ある者は世のもの、ある者は権力、ある者は快楽 を愛するようになりました。


表の働きには変化はありません。

しかし彼らは主への初めの愛から離れてしまいました。






エペソ教会に語った主のことばで確認することが出来ます。

エペソ教会は立派な働きをした教会でした。


信徒たちも熱心で、奇跡や賜物、みことばへの理解、霊的戦いなど すべてが揃った教会でした。


自分たちには 何の問題もないと思っていました。

しかし意外なことで主から非難されました。


【ヨハネの黙示録2章4-5節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

恐ろしいことばです。


燭台を取り外すことは、“教会を消す” という意味です。

なぜ、そこまですると思いますか?


教会はキリストの十字架の犠牲の愛によって出来た “愛の共同体” であり、神の愛を伝え、愛を実践する所なので、その力を失ったならば存在する目的がないからです。


なぜ、よく働いたクリスチャンたち、牧師たちの中で地獄に行く者がいますか?


彼らも最初は主を愛する者でした。

愛によって良い働きをしました。


しかし、途中から 彼らの愛が変わってしまいました。

イエス様よりも違うものをもっと愛する者になりました。


そして、死ぬまで それを愛し、悔い改めなかったので、彼らは地獄に行きました。

あり得ないことだと思ってはいけないです。



イエス様を一度裏切ったペテロに、再び使命を与える時に イエス様は何を彼に確認したでしょうか。

ヨハネの福音書21章15-18節 のことばの中にあります。


三度も主が彼に確認したことは、「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」でした。


主を一番に愛する心があるかどうかを確認しました。

主を一番に愛さず、働きをするならば、そこには別の目的があり、その人は結局 その目的のために働いたことになります。


ですからその働きは、主の働きにはならないので、主はそれを認めず、彼らは主とは関係のない働きをした者になります。


いま誰を一番愛していますか?

主ですか?
それとも、違うものですか ――。


この教会でも、主を愛さなくなった人たちがいます。

教会からも遠ざかりました。今、どこに向かっているでしょうか。


主を愛して奉仕をしていますか。

それとも別の目的があってやっていますか?


自分の心を点検してみて下さい。

あとで嘆くことがないように、初めの愛に戻るために悔い改めましょう。


役に立たないしもべにならないように、愛によって働きをする者になりましょう。
(・∀・)


2017.7.23
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