テーマは 『 十字架を負うことの意味 』 です
【マタイの福音書16章24節】
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
実際に人がかかる大きさの十字架を負ったことがありますか。
人がかかるということは、高さは2メートル以上必要ですね。
横棒だけで40キロ~50キロはあるらしいです。
ですから十字架は、私たちが想像する以上に 重たく背負って歩くことは本当に大変です。
自分の十字架を負って、ついて行くことの難しさが分かります。
教会に来ると、(講壇の)前に十字架があるので、私たちは十字架を見ることには慣れています。
しかし主は「十字架は見るのではなく、負うことだ」と教えて下さいました。
主の十字架を考えるならば、十字架の意味がはっきりと分かります。
主が十字架にかかったのは 罪人を贖うためでした。
それでイエス様は自分の十字架を負いました。
負う前に次の箇所のように父なる神に切に祈りました。
【マタイの福音書26章39節】
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
この祈りだけで、汗が血のしずくのようになりました。
全身に力が入ったことが分かります。
そこで主は自分を捨てました。
すでに目に見えない十字架を負い、
まず自分の思いを十字架につけ、心から血が流れました。
その後に十字架を負って死ぬ場所に向かうことが出来ました。
自分を捨てないと自分の十字架を負うことは出来ないです。
次の箇所は自分を捨てる十字架です。
【ガラテヤ書2章19-20節】
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに十字架につけられました。
自分を捨てた人が 自分の十字架を負って、主について行くことが出来ます。
十字架は私の代わりに誰かが負うことは出来ないです。
自分の十字架は自分で負わないといけないです。
“イエス様が負ったから 私は負う必要がない” と思うことは間違いです。
十字架が意味するものは、苦難と犠牲と献身です。
十字架がないことは、それら(苦難、犠牲、献身)がないことを意味します。
十字架を負ってついて来なさいと言われたのは、『苦難と犠牲と献身を覚悟してついて来なさい』 という意味です。
まっすぐに立って十字架を負うことは出来ないです。
体を低くしないといけないですが、それは身を低くし苦難を覚悟し、自分を犠牲にし、主に献身することです。
それが主の要求することです。
それがイエス様に似た姿であり、信仰生活であり、弟子の姿です。
今も主の十字架を見るだけで満足する人、自分の十字架を負う準備が出来ていない人、負う気がない人が多いです。
いつになったら主の要求に応じますか?
アーメン ヽ(TдT)ノ
2020.11.8
聖日礼拝メッセージ
八戸ノ里キリスト教会
~ お知らせ ~
人気ブログランキングへ
(別ウィンドウで開きます)
多くの人に読んでもらえる可能性があるので
皆さんのクリックが、福音伝道に繋がります☆
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜
毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」
神様からの警告のことばです
警告のラッパ
地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~
毎日、テーマに沿って学ぶことができます!
bible66のブログ
金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ
聖書を理解しやすい言葉に訳しています!
みことばサプリ
□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■