テーマは 『 3通りの立場の人々に自分を照らし合わせて吟味する 』 です
【ルカの福音書5章17-25節】
ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレ ムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そし て、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上 って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。
彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすこ とを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を 持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
①四人の男性
この四人が中風の家族なのか友人かは不明です。
【ルカの福音書5章18節】
するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
“何とかして”という四人の男性の強い愛とイエス様の前に置いたら必ず癒されるという信仰が伺えます。
しかし、次のようなことばも書かれています。
【ルカの福音書5章19節】
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので
中風の人をイエス様の前に運び込むことが難しい状況です。
もし私たちが4人のうちの1人だったならどうするでしょうか?
立ちすくんだり、諦めて帰るでしょうか?
しかし四人はこの状況でも諦めずに、聖書に “屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした”と書かれています。
屋上に上って屋根の瓦をはがすことは、普通で考えるとあり得ないことですし、尋常ではない発想です。
周りにいる人々はそれを見て軽蔑したり呆れたと思います。
しかし、中風の人をイエス様の前に連れて行き “何とかして、どうしても癒して欲しい”という切実な思い、強い愛がありました。
これは神様が知恵を与えてくださったと思います。普通ならば思いもよらないことです。
イエス様は屋根を壊したことに対して決して咎めることもなく、愛と熱意を見て中風の人を癒されました。
私たちには様々な妨げがあります。
自分が神様のもとに行こうとしているのに、妨げがあってなかなか前に進めない時があります。
しかし、この箇所で教えられることは、“上を見なさい”ということです。上には天があるだけで、神様がいてくださるのです。
また、この四人の男性を自分に当てはめると、この中風の人は、まだ救われていない家族や知人、友人です。
病気や罪などにどっぷりと浸かって縛られ自分1人では身動きが取れない状態です。
そして、この四人の姿はクリスチャンの祈りです。 それは切実な思いと熱意で、愛ある祈りで神様の前に人々を運ぶことが出来る力です。
みことばを握りしめるというのは どういうことなのか、ある時に教えられたことがあります。
私たちが困っている時にみことばの棒が差し出されます。
私たちは そのみことばの棒を必死で握りしめます。そして神様に“上に上げてください!”と必死で祈ります。
そうすると一生懸命 みことばの棒を掴んでいたのですが、それを引きずり下ろそうと サタンが妨げや攻撃を持ってやってきます。私たちを棒(神様)から引き離そうとします。
でも私たちが必死になって両手で握りしめていると、神様は棒ごと引き上げてくださいます。
私たちがみことばにすがり付いている時に、その姿を見て神様は引き上げてくださり、約束を成就してくださいます。
②中風の人
次に、中風の人と自分たちを照らし合わせてみたいと思います。
床の間まで寝ながら運ばれていくのは、ジロジロ見られるので結構恥ずかしくて辛いだろうなと思いました。
また、自分を運んでくれた四人の男性に申し訳ないという気兼ねもあるかもしれません。
中風の人も、たとえ運ばれたとしても “もしかしたら癒されないのではないか” と疑いを持つかも知れません。
しかしここに書かれている中風の人には、そのような雑念は一切ありませんでした。
自分自身が何とかして癒されたいという切なる願い、そしてイエス様の前に連れて行ってもらえたら必ず自分は癒されるのだという信仰。
そして人々が自分のことをどのように見ようが、そんなことは関係ないというプライドを捨てた謙遜さがありました。
これは私たちにも神様が言ってくださっていることだと思います。
例えば私たちが病気で倒れて身動きが取れなくなって祈れない時があります。自分の力ではどうすることもできないことがあります。
そういうときは周りの四人の人が助けてくれます。
これが教会の姿です。ですから私たちには教会が必要なのです。
私たちが1人で祈れなくても教会の人々が祈ってくれます。
自宅や職場など この世では本音と建前の世界があります。しかし教会では本音と建前は必要ありません。
教会ではプライドを捨てて自分自身の本当の姿をさらけ出して良いところです。
自分を強い者であるとか、信仰が強い者であるなど、見栄をはったりプライドを持つ必要はありません。
周りの助けをもらってでも、神様の前に切実に祈り求めました。そして四人の人は、その姿を見てイエス様の前に運びました。
これが、神様から喜ばれる教会ではないか と私は感じました。
③パリサイ人と律法の教師
【ルカの福音書5章17節】
ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。
【ルカの福音書5章21節】
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。 「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
神様が癒しをなさる場所にパリサイ人や律法学者がいました。
パリサイ人や律法学者たちは、“自分たちこそが神様の正しいしもべである”と高ぶり、集まっている人々を見下して真実である神様を批判していました。
このような人々は教会にもいます。
この人たちの罪の一番恐ろしいことは、自分たちは神様に反することをしていながら、自分たちは神様の前に正しい者であると勘違いをしているところです。
この教会では、牧師を通して地獄へ行った人々の証を聞きますが、
地獄へおちた人は「なぜ自分がここにいるのですか?!私をここから出して下さい!」とイエス様に叫んでいる姿があり、そのような人が多いです。
この人たちは自分の罪が分からなかったり、知ろうとしなかった人だと思います。
私たちは天国へ行きたいと願っているので、自分たちの罪が分かっていたなら心から悔い改めると思います。そして赦していただいて天国へ行きたいと切に願っています。
しかし地獄へ行った人は自分の罪が分からなかったので悔い改めをすることが出来なかった人も多くいるのではないかと思います。
これこそがパリサイ人や律法学者の姿であると感じました。
私自身もこの罪を犯しているのではないだろうか?と思います。皆さんはどうでしょうか?
自分の罪を悔い改めてはいるけれど、もしかしたら自分が気付いていないところで神様の前に相当大きな罪を犯しているのではないかと恐ろしくなります。
自分が正しいと思って取っている言動や言葉が、本当に正しいかは私たち人間には分かりません。
私たちは相手の側面しか分からず、そこで判断して言葉をかけますが、神様はその人の心の葛藤や苦しみなどすべてをご存知で、私たちの正しいと思っている言動や言葉が本当に正しいかは私たちには判断ができません。
これは神様にしか分からないことです。
しかし自分が正しいと思い込んで勘違いをしていることも多くあるのかも知れないということを今回教えられました。
私たちは信仰・愛・憐み・赦し・知恵・祈り・悔い改め、これらの何1つを取っても、自分の力で出来るものは何1つありません。
すべては神様から与えられる聖霊の油注ぎによらないと自分たちでは出来ません。
しかし、これらを自分の力や行い・正しさ・自分の聖い心でやると勘違いをしていることが大きな罪かもしれないと考えさせられました。
いつも悔い改めをしている罪は神様は既に赦してくださっています。
でも自分たちが気付かないところで悔い改めていない大きな罪が残っているのかもしれません。
罪とは的外れという意味です。私たちが悔い改めをしている時に、もしかしたら的外れな悔い改めをしてしまっているということも思いました。
そうしたら私たちはどのような悔い改めをしたら良いでしょうか?
神様の御前に私たちは謙遜になって、何を悔い改めたら良いのかも分かりません。
私たちの罪は何なのか、神様が示して教えてくださいと祈ることだと思います。
そして日々の悔い改めと共に私たちが何を悔い改めたら良いのか はっきりと示してくださいと祈るならば、必ず神様ははっきりと教えてくださいます。
悔い改めるなら神様は赦してくださいます。
神様は私たちを決して地獄へ落としたいわけではありません。
私たちが家族や周囲の人と共に天国へ行くことを神様ご自身が願ってくださっています。
そのためには私たち自身の罪の悔い改めが必要です。
そして何が罪であるのか教えてくださいと祈る謙遜な心が必要です。
家族や周囲の人々の救いや癒しのためには、私たちクリスチャンが諦めない祈りと熱意、切実な涙をもった願いと愛が必要であると思います。
私たちが疲れ果てている時に、周りの人たちに祈れない時もあります。ですからそれすらも神様に求めていかなければいけないと思います。
そうするならば神様が必ず私たちの願いを聞いてくださると信じます。
。゜(´Д`)゜。
2014.12.14
聖日礼拝メッセージ
八戸ノ里キリスト教会
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すべての事について…感謝
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