テーマは 『 聖徒が逃してはならないチャンス 』 です

【イザヤ書1章18節-20節】

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。

しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、 主の御口が語られたからである。

先週は「今悔い改めなさい」という内容のメッセージをみなさんは聞きました。
そのメッセージを聞いて悔い改めた人たちがたくさんいると思います。

悔い改めた人たちにとっては、今という悔い改めのチャンスを逃さずに悔い改めたので、与えられたチャンスを生かした人たちです。

天国は悔い改めた人たちが入る所です。
“良い人”が入るのではなく、“悔い改めて赦された者”が入る所が天国であります。


地獄は“悪い人”が入るのではなく、“悔い改めるチャンスを逃し 罪を持ったまま”の人が入ります。


地獄へ行った人たちが1番願うことは、『私をここから出してください!出してくれるならば悔い改めます!』ということです。

地獄に来た人々は悔い改めのチャンスを逃したために自分たちがここに来ていることが分かっていました。
悔い改めをしなかったことが1番の心残りです。

ですから、地獄へ来ている人たちが1番欲しいと願っていることは「地上での悔い改め」であります。


チャンスは生きている時にしか得られないです。

そこで今回は、聖徒が逃してはならないチャンスが何か? をいくつか語りたいと思います。




①救いをもたらす悔い改めのチャンス




悔い改めない限り 救いはないです。
救いを受けるために悔い改めのチャンスを絶対に逃してはいけないです。

神様は初めから赦しの計画をもって罪人たちに語っておられます。


アダムとエバが罪を犯した時に、2人とも神様から離れて隠れていました。
しかし、神様は2人がどこに隠れているのか全てご存知です。

そこで神様は 怒って彼らを強制的に連れ出して厳しく責めたのではなく、彼らがどこにいるのかを知っていながら「あなたはどこにいるのか」と声をかけました。

「早く出て来い!」ではなく「あなたはどこにいるのか」でした。

これはすべてを知っておられる主のやさしい心から出たことばです。


本文でも「さあ、来たれ。論じ合おう」とやさしい言葉で語りかけています。
これは悔い改めのチャンスを与えていることばです。
神様は既に彼らを赦す計画で「出て来て悔い改めるならば わたしはその罪を赦す」と待っておられるのです。

このことばに耳を傾け、素直に応じて悔い改めるならば、神様はその人の罪を赦し、救いを与えてくださいます。


ここで私たちが反抗する心ならば、救いのチャンスを自分で捨てるようなものです。


神様は裁くために「出てきなさい」と言ったのではなく、裁くために「悔い改めなさい」と言ったのでもないです。

人間はとても心が頑なであります。

自分のために本気になって語ることばはいらないと言います。
そしてサタンは私たちを滅ぼすためにたくさんの偽りを言いますが、その言葉には素直に従順します。


サタンが何も言わなくても、人間は後ろをついて行きます。その道が死の道・滅びの道であるにも関わらず自らサタンの方へと進みます。

これが人間の姿であります。


私たちは最期まで諦めずに(人々に)悔い改めとイエス様を受け入れることを伝えることです。

私たちの周りには 心が頑なな人たちが大勢います。

それは人間が悪いからというのではなく、サタンの支配であります。サタンが(イエス・キリストを)信じないように妨害するのです。その人たちの心を頑なにして地獄へ連れて行く計画があるので そうするのです。


しかし神様が、私たちの周りの人たちのたましいを憐れむなら最期までチャンスを与えますが、最期のチャンスも逃してしまうなら後がないです。


そのような思いで私たちが福音を伝えることであり、「今日が最期かもしれない」という思いで罪を悔い改めたのかを自分自身に聞くことであります。




②主を迎え入れるチャンス




福音は悔い改めだけではないです。

悔い改めて、イエス様を自分の主として迎え入れなければならないです。


【ルカの福音書19章41節-42節】

エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、

言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら、しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。

イエス様は平和の主、救い主、慰め主、世界の光としてこの世に来て下さいました。
まずは選民であるイスラエルに来られました。

しかし彼らの反応は次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書1章11節】

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

イエス様はご自分の国へ行ったのに、民たちは心を閉ざしました。
もし主を迎え入れていたなら、次のような祝福がありました。


【ヨハネの福音書1章12節】

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

すばらしい祝福を持ってイエス様は来てくださいましたが、民たちは『人間 イエス』につまずきました。

光(イエス様)を拒否し、神の子どもとなる特権も拒否しました。


その後の彼らは苦難の道を歩むようになりました。

イエス様の預言通り、AD70年にローマ軍が入ってきてエルサレム神殿をすべて壊しました。
これはイエス様を受け入れなかったので起きたことでした。

そして全世界に散らされ、どこの国でもユダヤ人は歓迎されず迫害されました。

600万人のユダヤ人が第二次世界大戦の時に殺され、国が再び建国されてからも常に戦争状態です。
今も彼らには覆いがかけられ、メシアを受け入れていない状態です。


歴史を支配しているのは神様であります。






今、プロテスタントとカトリックのことを研究しているところです。

このような書籍は日本でも売っていますが、普段 みことばにふれていない人が書いています。
このように信じていない人の観点ではなく、(準備が出来ましたら)聖書の言葉を通して正確に皆さんに教えようと思います。


黙示録を読むとカトリックの姿がたくさん書かれています。一体、何が間違えているのでしょうか?

こういうことは多分、クリスチャンの人も分からないと思います。


しかし、クリスチャンこそ正しく知らないと、惑わしの霊がたくさん来た時に騙されてしまいます。

そして教会の教えも、有名な先生だからといって、語ることばが全て真実かといえば、そうではありません。
大きな教会でも反キリストの霊が多く働いています。

世の中の色々なことに騙されないように、聖書のことばと照らしてプリントを配ろうと思います。


今の時代は、ただ教会へ行けば良いということはなく、その教会で正しい真理が語られているのかが大切です。


今は恵みの時、救いの時です。恵みを受けてはじめて私たちの信仰が成長し神を知るようになります。

しかし、まだ神を受け入れていない人は、誰かが福音を語る時は、今がイエス様に出会うチャンスなのです。
もしそれを逃したら、いつ誰がその人に福音を語るでしょうか?その後クリスチャンに出会うこともなく世を去る場合もあるのです。

私たちは伝えていかなければならないです。
拒否をする人たちもたくさんいますが、それは(受け入れなかった)その人の問題(責任)であります。




③献身・召命実践のチャンス




クリスチャンは恵みだけを受けて「あぁ良かった。天国に入るまで何もしなくて良いのだ。」ではないです。

マタイの福音書25章はクリスチャンに向けたメッセージです。
選ばれた者がどのように献身し歩むべきなのかを教えています。


一タラント、二タラント、五タラントがあり、これは召命実践のチャンスです。
召命は皆違います。皆が同じ賜物や同じ働きはないのです。神様は1人1人に応じて使命を与えました。

私たちは自分は神様からどんな召命を受けたのか知らなければなりません。
祈りながら主に聞いてみて下さい。「私は主のために何をしたら良いでしょうか」と。

ある者には一タラント、ある者には二タラント、ある者には五タラントを任せました。そして働くように言いました。


あなたが受けた召命を、実践によって実を結びなさいということです。

二タラントと五タラントをもらった2人は一生懸命働いて次のように報告しました。


【マタイの福音書25章20-21節】

すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、 ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」

その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。 主人の喜びをともに喜んでくれ。」

その人たちは死に至るまで忠実な人でした。ですから このような素晴らしい決算が出来ました。
主人がその人の働きをとても喜び褒めてくださいました。このしもべは天国でたくさんの報いを神様から受けます。


そして、一タラントもらった者は何と言ったでしょうか。次の箇所です。


【マタイの福音書25章25節】

私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。

彼は働かず地の中に隠していたので、何1つ増えていなかったのです。その人は死ぬまで自分が(神様から)何をもらっていたのかを知らず、関心すらありませんでした。

働きが一切無いのです。土の中に入れましたので、それを主人に持ってきました。
主人は次のように言いました。


【マタイの福音書25章26-30節】

ところが、主人は彼に答えて言った。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、 持たない物は、持っているものまでも取り上げられるのです。

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

3人のしもべたちは、選ばれた信じる者なのです。

2人はきちんと主人の言葉通りに商売をして もうけました。
しかし1人は言うことを聞きませんでした。それは主人を侮ったことであります。


神様は怠け者、そして主人に対して悪い思いを持っている者は役に立たない者であるので、外の暗やみに追い出しました。外の暗やみの世界とは地獄であります。


私たちはチャンスを逃してはいけないです。「私はこんなに小さな働きだから…」ではないです。

どんなに小さな働きであっても、その時にそれが与えられたなら 一タラントであっても忠実に働くことが、すごく大切なことであります。


五タラントもらった人が二タラントの働きしかしていないならば、その人は怠け者です。五タラントには五タラントの働きが必要です。

働きは、教会だけに限られていないです。どこにいても私たちは主のみこころに従うなら、働く場所があるのです。
私たちが働く場所は人間なのです。他人に仕えることです。

家庭でも私たちはクリスチャンとして仕える働きがあるのです。


主が喜ぶ働きをするなら、立派な奉仕です。24時間どこででも私たちは奉仕が出来るのです。




献身のチャンスとは?




自分の召命のために働くことも献身ですが、あなた自身を捧げないと出来ないことがあります。

これは誰にでも出来ることです。

そして献身のチャンスを逃した人たちの言い訳の姿は次の箇所です。


【マタイ25章44-45節】

そのとき彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、 お世話をしなかったのでしょうか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、 この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

最も小さい者は私たちの目には入らないでしょう。
これは献身する思いがないと、自分を捧げることができないです。
自分のものを主張しないことであります。


聖書で見るならば、良きサマリヤ人の姿です。
憐れんで手を差し伸べる者こそが神様が求める者であり献身であります。

愛と関心、そして自分がその人に対して何かをしてあげようという思いがあれば出来ます。


「私は助けるものがなくて出来ません。」というのは全て言い訳であります。
私たちは有り余って処分するのが困るくらい持っているのです。

それなのに、本当に困っている人がいるのに助けないのは無関心の姿であります。


私たちはいつもアンテナをはって「私が助けなければならない人はどこにいるのか。」と、見ることであります。

私たちは与えることが愛であります。相手から返してもらおうと思うのは計算をしたことになります。


このチャンスも生きている時にしかできないです。本当に困っている時に知らんぷりではなく、食べ物を与え、着る者を与え、助けることが必要です。




④再臨の主を迎えるチャンス




このチャンスを逃したら本当の意味で終わりです。


【ルカの福音書17章34-35節】

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台で男がふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

これは再臨の主が来られる前の姿です。

イエス様は雲に乗って来られ、既に亡くなった聖徒たちが復活し、地上に残された聖徒たちが天に引き上げられます。


その時にクリスチャンたちの中でも、ふたりのうちひとりが残されるのです。

引き上げられる人と残される人の違いは、主が再臨することを常に知っていて準備をした人と、いつ来るか分からないから今は飲み食いしよう、人生1度きりだから楽しいことだけをしようと準備をしなかった人です。


神様は準備をしている者としていない者の違いを教えてくださいました。

目を覚ませというのはクリスチャンに言っていることであります。主は必ず再臨なさいます。

そこで残されたクリスチャンは悲惨であります。なぜなら大患難に突入するからです。


大患難は私たちが地上で考えたことも聞いたこともないほどの患難だと言っています。
今 信仰を持たなかった人が患難の時に反キリストが出て来て“666”を受けないと何も買えない状況になった時に、果たして信仰は見られるでしょうか?

ものすごく厳しい時代になると思います。




再臨の準備はどのようにしたら良いのか?




仕事を辞めて、祈りとみことばを読む生活をしたら良いでしょうか?と言う人がいますが、イエス様はそういうことではないと語られました。

それはイエス様が望む姿ではないです。次の箇所で良い助言が与えられています。


【Ⅰペテロ4章7-10節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。 愛は多くの罪をおおうからです。

つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

それぞれが賜物を受けているのですから、 神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

これは再臨を準備する姿です。

私たちは毎日の生活の中で準備をするのです。イエス様が喜ぶ生き方をするのが準備をする姿であります。

特別なことではなく、主は ここで3つのことを語りました。


・互いに熱心に愛し合いなさい(8節)

愛は神様から出て来るものであります。神様の兄弟姉妹たちに語ることばです。

・互いに親切にもてなし合いなさい(9節)

教会で食事をすることも、これは愛する姿であります。親切にもてなし合う姿です。
初代教会にその姿がありました。それを私たちが今 実践していくことです。


・互いに仕え合いなさい(10節)


この3つを私たちが実践していたら、その人たちはきちんと再臨の主を迎える準備をしている姿であります。
このような人は非難されるところがないので 何も心配する必要はないです。

これを日々行うことが未来を準備する姿であります。Ⅰペテロ4章7節の「心を整え身を慎む」姿です。

物を蓄えるのは、私たちの魂を救うことは出来ないです。


今、神様によってチャンスが与えられていること自体が恵みであります。今日 生きている者はチャンスがあります。

「明日から」というのはサタンが与える言葉です。どんどん先延ばしにして私たちが出来ないようにします。

ですから、今から行動する人がチャンスを逃さない人であり、「明日からします。」と言う人はチャンスを全て逃す人です。


今からしないといけないのだという思いで全てのことをして欲しいと思います。
(・∀・)

2014.7.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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