テーマは 『 父なる神、主イエス・キリスト、聖霊と聖徒 』 です

【ヨハネの福音書16章13-15節】

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、 聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのもの受けて、あなたがたに知らせるからです。

父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

このメッセージの中に父なる神、聖霊様、イエス・キリストが出てきます。
それが聖徒たちと、どのような関係があるのか 今回語りたいと思います。

クリスチャンでも 何が何だかよくわからないと思っている人がいるかも知れません。
神は唯一と言いながら、聖霊様とかイエス・キリストとか 父なる神とか、神が3体いるのではないのか?1体ではないのでは?と思うクリスチャンも多いでしょう。


曖昧な状態の中で信仰生活をする人もとても多いですし、他の人に説明をすることも難しく、私たちがどうしたら これを理解しやすくなるか一言では難しいですが、本文に出てきた箇所を通して説明します。



キリストと聖徒の関係




【ヨハネ15節1-8節】

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、 実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

わたしにとどまりまさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。 同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。 そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしにの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

【マタイの福音書15節16節】

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。 それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも 、父があなたがたにお与えになるためです。

一言で言うならば、キリストと聖徒はぶどうの木と枝のように互いに一つでなければなりません。

枝が木に留まるのは当然のことであります。枝である私たちが1人で実を結ぶことは有り得ないです。

私たちがキリストに出会って まず最初にすることは、信じてキリストを受け入れることであります。

受け入れるということは キリストが自分たちの中に、自分たちはキリストの中に、すなわち今まで罪によって死んでいた者が、キリストに出会い 霊によって1つになることを意味するのです。


罪人たちがキリストを通さず 直接父なる神の前に出て行くことは出来ません。
汚れた姿のままでは、聖なる父の前に出られないのです。

例えば、旧約聖書には幕屋がありました。
人間が誰でも至聖所に入ることは出来ませんでした。もしそうするならば、討たれて死にました。
大祭司であっても1年に1回の贖いの日だけです。


神の御子であり、人として地上に来られたイエス・キリストに属さない人は神の前に行くことはできません。

(私たちは)イエス様と外の結びつきで「一緒に行きましょう」というのではないです。
キリストが自分たちの中に、自分たちがキリストの中に入って1つになった時に、父なる神様はそれを見て祝福してくださるお方であります。


ユダヤ教の人たちは キリストを認めておらず信じていません。

彼らは、神は唯一であるから旧約の神以外はすべて偶像であると言って キリストも否定しています。
彼らは今もメシヤを待っています。「キリストはいらない。私たちは神と直結している」と彼らは考えていますが、神様は 人と直結することをしませんでした。


キリストを通らなければ(神様は)人と会うことがないと聖書で教えています。
神様に出会う人は誰でもイエス・キリストに属する人であります。

切られてしまった枝は、キリストから流れてくるものが何もないので必ず枯れてしまいます。

私たちがキリストに属することは、そこから命と赦しと救いが出てきますので、それが1番大切なことであります。

私たちはキリストを見て、はじめて父なる神を見るのです。
キリストを抜きにして神様を見ることは出来ません。その意味でキリストと聖徒は切っても切れない関係です。


【ヨハネの福音書3章16-18節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

父なる神はいつもキリストを通して私たちを見ています。

「私がキリストから離れても、キリストはついて来るのだ」ということではなく、
枝の方が 必死に木を頼って生きなければならないです。

私たちはキリストに繋がって1つになることを日々求める必要があります。
キリストの中に自分は留まっているのか、それともそこから離れて勝手に歩いているのかどうかを確認しなければいけません。



父なる神と聖徒の関係




【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、 わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

父なる神様は聖徒たちがキリストのことばをよく聞いて守り、キリストを愛する者に対して愛して下さいます。

私たちは父なる神様の子供ですが、キリストによって私たちも神様の子供になりました。
イエス様と私たちは親子関係ではないのです。
しかし神様は 私たちにとって「父なる神」親子関係であります。「アバ=父」です。

そこで一番大切なことは、愛の関係です。
神様は愛であります。私たちを愛してイエス様を送ってくださいました。私たちの魂を救いの道へと開いてくださいました。
神様の愛は直接聖徒たちに注がれます。

罪人さえも神様は愛してくださいますが、キリストを愛する者に対しては さらに特別な愛で、
しかし、キリストを苦しめる者には 神様は愛することができないです。なぜならそれは神を直接痛めることになるからです。


神の愛を受けるならば、私たちの心は本当に平安になります。その愛がそのまま慰めになります。
その愛がそのまま私たちの生きる力、希望になります。愛ほど強い力はないです。


(父なる神様は)愛だけは直接私たちに与えたいと願っていますので、私たちがその愛を受けるためにはキリストとの関係がすごく大切であります。
「神様は怖い、だから頼まない。」というのではなく、神様ほど愛の方はおられません。
ですから私たちは父なる神様とは愛の関係でなければなりません。



聖霊と聖徒の関係





【ヨハネの福音書14章16節】

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。 その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。

【Ⅰコリント3章16節】

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

聖霊様が来られた目的は イエス様のことばの中にあります。

イエス様は天に帰りながら私たちのために聖霊を遣わして下さいました。いつまでも私たちとともにおられる為に。


私たちが聖霊を受けても、聖霊が何をするのだろう?と よく分からないと思っている人もいるのですが、
一番の目的は私たちの中に住むために来られました。

霊ですので、世界中どこへでも行くことができます。そしてキリストを受け入れた人々の心の中に聖霊様が住むのだということを語りました。

そのような意味で 私たちが常に心を見守れと言うことは、自分たちの心が神殿ですので 私たちのために来られた聖霊様が住む場所なので、心を汚いもので満たすのは良くないことであります。


ゴミだらけの心の中に「聖霊様、どうぞ入ってきてください。」と言っても、聖霊様が入るわけがないです。

もし誰かが私たちに「どうぞ家に入って来てください。」と招待されて玄関を開けると、そこはゴミ屋敷のようだったら家の中に入ろうと思いますか?絶対に入らないと思います。


「聖霊様、私の心に入ってきてください。」と言いながら、心の中を何一つ掃除もしないならば 招いても聖霊様は入ることができないです。

「私は 私の身体、私の心を勝手にしても良いでしょう?」ではなくて、主が語っているように「私の身体と心は神の神殿であるのだ。だから毎日掃除をしなければならない。神は聖なる方であるから。」と聖霊様は聖い御霊でありますので、常にその認識が必要です。


ですから私たちは心を開いて聖霊様を大事に迎え入れなければなりません。聖霊様は求める者の心だけに入ってこられます。

その聖霊様が私たちと共にいて何をしてくださるのか、今回の本文の箇所に出てきます。


【ヨハネの福音書16章14-15節】

御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

すべてのものは父なる神が所有していました。それを御子キリストに全てを任せています。以前はイエス様がこの地上で活躍しました。

その後は同じ働きをイエス様が遣わした聖霊様がなさるので、同じものを全て(聖霊様に)与えています。そして今度は御霊が全ての権限を持ち、父なる神の栄光、キリストの栄光のために 聖霊がその働きをするのです。

本当に聖霊様は私たちを助けてくださるお方なのです。共におられるので、私たちは何でも聖霊様に相談することが出来ますし、助けを受けることも出来ます。


ですから、イエス様に対する同じ思いを持って 聖霊様を信じ委ねて導きを受けなければならないです。

私たちは毎日「今日も聖霊様を歓迎致します。」と頼って生きるならば 聖霊様が私たちの内側で働いてイエス様に栄光が現れるようにするのです。

その助けによって私たちは実を結ぶことができます。
ぶどうの木に繋がれている枝は常にそこから力をもらって実を結びます。
聖霊様がその働きをしてくださいます。


イエス様の中で留まっている私たちを 聖霊様が力を与え、助け、栄養を送り、私たちが実を結ぶようにしてくださり、実が結ばれたらイエス様が喜び、父なる神様が喜ぶ。このような関係で動いています。


三位一体は父なる神と イエス・キリストと 聖霊であり、それを切り離すことが出来ないです。
別々のものではなく、働きが少し違うだけであります。

その中に私たちも入るなら、私たちも切り離すことが出来ない存在になります。
そこで私たちが父なる神から愛を受け、イエス様や聖霊様から助けをもらって生きることが出来ます。


あるところでは、聖霊を認めない教会もあります。
イエス様が送った聖霊をなぜ拒むのでしょうか。それは間違えています。

聖霊様を歓迎しなければならないです。

今は聖霊様が私たちの内で働く時でありますので、日々 私たちが聖霊様に頼っていかなければならないです。
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2014.6.8
ペンテコステ礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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