テーマは 『 神の心にかなった者・ダビデ 』 です

【使徒の働き13章22節】

それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。 「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する。

神様ほど人を正確に知っておられる方はおられません。
人の行動、考え、心すべてを知っておられます。

ですから 神様が下した人の評価は1つも間違いがないです。


ダビデに対する神様の評価は、「彼はわたしの心にかなった者でわたしのこころを余すところなく実行する者」でした。これは最高の評価だと思います。

神様からこのような言葉をいただけるのは羨ましいです。


私たちが裁きを受ける時に、神様が良い評価をするのなら救われた者として天の御国に入りますが、神様がその人に対して悪く思うならば、追い出されていきます。


生きていた時にダビデは神を喜ばせた者であったことが、ここで はっきりとわかります。
ダビデはサムエル記、列王記、歴代誌にも出てくるので、彼がどういう人であったか知ることができます。
そして詩篇の中に、1人の人間として神様の前に立たされている姿があり、そこに信仰の姿が書かれています。


私たちは色々な苦しみがある時に、詩篇をたくさん読むと思います。
読むと1つ1つの言葉は、自分たちの中にある思いを言葉で表現することはなかなか難しいのですが、
ダビデの祈りを聞くと「私自身もそう思っている。これは私の心だ。」と思って、それを自分たちの祈りにする場合がとても多いです。


ダビデが神様に対してどのような信仰を持っていたかは、詩篇の中に現わされています。
神様が最も目を留めているのは、その信仰の姿勢であります。

神の心をしっかり祈って求めるので、神の御心を知っています。
私たちも神様の心を知っています。

聖書のことばを読むと そこに書かれていますが、私たちがそれを聞いた後にどうするのか とても大切であります。
同じことばを聞いていても、その後の信仰の姿勢がそれぞれ違います。


同じ神様を信じて、同じことばを聞いても ある人は恵まれて、ある人は恵まれていない、ある人は良い評価で、ある人は悪い評価。
これは何かというと、その人の信仰の姿勢であります。

ダビデは従順する人でありました。




①従順する人



ダビデは神様だけに従順する人だったでしょうか?

神様は他人に従順する人を最初に選ぶのです。


【Ⅰサムエル17章17-20節】

エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。

この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。

サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。

ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。

ダビデはお父さんの命令に対して従順している姿が出ています。
この従順する姿は「嫌だ、嫌だ、仕方がないなぁ」という姿ではないです。

翌朝早くということは、自分で考える時間を与えません。
余計なことを考える必要がないのだという態度であります。


私たちが神様の言葉を聞いて、すぐに従順しないと人間の思いが出てきます。そして結局は自分の思いを優先にして従うことが出来ないです。

神様はまず目の前にいる人間に従順するかを見るのです。

それからが神様の出番になり、準備している祝福を与えて働きをさせます。

この後に、イスラエルの人々を苦しめるゴリヤテとの闘いがありました。
ダビデから見るとまさか戦うとは思いませんでした。ゴリヤテと闘うことは ものすごい大きな働きであります。


ある人たちは「私は神様には従っても、人には従わない。」と言う人がいます。
そう言いながら「私は神様に用いられたい。大きな働きがしたい。」と言いますが、神様は絶対にそういう人たちは遣わないです。

他人に従順しない人を遣いませんし、大きい働きをしたいと言いながら小さな働きに無関心であり、ないがしろにする人は神様は遣うことをしないです。


ある意味で人間に仕えている姿は、神様の1つのテストであります。
私たちは小さなことに忠実に働かなければならないです。聖書はそのことを教えています。


【Ⅰヨハネの手紙4章20節】

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

私は神様を愛しています。と言いながらも、他人に対して憎しみをむき出しにすると、神様は「偽り者」と語ります。

また「神様に従順します。」と言いながらも、(周りの人が)自分のために語る言葉や神様の言葉が伝えられた時に「いや、それはしない。」と言うならば、その人は脱落であります。


ダビデは従順に危険が伴うことでも すぐにその言葉を受け止めて何も言わずに、言われた通りに出掛けました。

これを見ても分かるように、従順する人を神様は喜びます。これがダビデの中にある姿でした。
神様は逆らう人は退けますが、喜んで従う人は神に用いられます。




②謙遜な人



イエス様はすごく謙遜な方であります。

神様は謙遜な人が好きですが、高慢な者は退けるという言葉を使いました。
謙遜な人はどこにいても人から愛されます。神からも愛され、人にも愛されます。


サウルとダビデの姿で違いが出てきます。
王として選ばれた時はサウルも従順で謙遜な者でした。

しかし、サウルは王になってから変わりました。
謙遜な者から高慢な者へと変わり、従順の者から不従順の者に変わりました。

ダビデは羊飼いの時の姿と、王になった後の姿は変わらず、従順で謙遜な者でした。


【Ⅱサムエル記7章18-19節】

ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にもはるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。

ダビデは「取るに足りない者」と言いました。
またパウロも「月足らずで生まれた者」と言い、彼らは人間の目で見ると偉大な者たちでしたが、 神の前ではどれほど謙遜な姿でしょう。


私たちはどうでしょうか?

私たちは偉そうにしている姿があります。神様に命令を出し、文句を言い、自分を高くして言います。
恵みを受けていても感謝をしなかったり、他人と比較して神様に不平不満を言うのは自分を高く評価することです。

高慢というのは、自分は本来そうではないのに 自分を高く評価することであります。
他人からではなく、自分自身を高く評価することを言います。


本当に評価されるに相応しい人であるならば 神様は高慢とは言いませんが、相応しくもないのに自分を高く評価してアピールするので神様は受け取ることができません。


ダビデは神様の前だけで謙遜な姿を見せたわけではないです。人々の前でも謙遜な姿でした。


【Ⅰサムエル24章14節】

イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、 一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

人々の前では、神の前よりも もっと自分を低くしている姿があります。

日本では「私はそんな者ではありません。」とよく言います。
謙遜な姿があり、自分をあまりアピールせず低く評価します。

しかし相手の人が「本当ですね。あなたは小さい者で、死んだ犬のようですね。」と言ったとしたら、一生恨むと思います。

でもダビデは自ら身を低くして、自分を殺そうとする相手に対しても自分を低くするのは、彼の人格そのものが謙遜な者であるのです。

私たちはやたらと自己卑下をする必要はないのですが、謙遜から出て来るものには評価してくださいます。


クリスチャンは自分を低くしなければなりません。他の人を高く上げます。それが恵みになります。他人が「この人は人格が出来上がった人だと評価します。」




③試練の中でも信仰を堅く守った人



多くのクリスチャンがいつ倒れるのか、いつ信仰を捨てるのか、それは試練の時が多いです。

もちろん良い時にも堕落することがありますが、試練の中で信仰が揺らいで 信仰が弱くなり、神の前で罪を犯す人が多いです。

ダビデは試練の中でも ずっと信仰を守り通していきました。サウロが彼の命を狙っていました。
サウロの命さえ取れば 自分は試練の中にいる必要がない と人間的にはそのような思いが来るはずです。

しかし、人間から来る思いと、神様のみこころとは一致しないことが とても多いです。


信仰を守り通すということは、どのような試練の中でも人間の思いを優先することではなくて 神様のみこころをまず求めることであります。

ダビデは7年間毎日 命を狙われながら生活をしていましたが、(サウロを殺す)チャンスが来ても彼はみこころを行いました。


【Ⅰサムエル記24章6節】

彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に 絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。

ダビデの部下が、目の前にサウルが現れたことを見て「チャンスです。殺してください」と言った時に、ダビデの口から出てくる言葉はすべてが信仰による言葉であります。人間的な思いが一切ありません。


私たちは、時と場合によって 信仰と自分の思いを使い分ける時が多いです。それによって聖霊様を悲しませているかもしれません。
しかしダビデは激しい試練の中でも 常に主に目を留めていました。

みこころを行う時には自分で犠牲を払わなければならないことが とても多いです。

しかし犠牲を払った後に、神様の報いが来ます。自分が蒔いたものが信仰なので、後から来るものはとても素晴らしいものであります。


ダビデは信仰第一にしましたので神様のみこころではないと 絶対に私は動かないと頑なな姿がありました。
私たちは信仰に対しては、譲らない姿勢が必要です。「絶対に神の言葉が優先である」と心を決めておかないと、あらゆる誘惑に引っ張られてサタンの餌食になってしまいます。


誰かに「そこまでしなくても良いでしょう?」と言われても良いのです。「これは神様のみこころなので、私は妥協しません。譲れません。」という思いが必要です。
そうすると勝利します。その姿勢を見て、神様が良い報いを与えてくださいます。

信仰によって生きるということは、神様の言葉が1番優先で みこころを行うことが優先であります。




④罪を犯した後に悔い改めた



私たちも罪を犯した後は悔い改めをしていると思ってしまいますが、ダビデの悔い改めは私たちとは違います。

どのような部分が違うのかと言うと、私たちは悔い改めても 時には神様に喜ばれない口先だけのことがあります。
ダビデは深い悲しみをもって本当に悔い改めました。

本当の悔い改めとは、次の箇所です。


【Ⅱサムエル記12章11節】

主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で 取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。』

【Ⅱサムエル記12章14節】

しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

この2箇所とも耐えられないような厳しい言葉であります。
ダビデはウリヤの妻を取り、自分の妻にしましたが、それは神様のみこころに損なったことであり聖霊様をすごく悲しませました。

それに対して神様はダビデが悔い改めるように勧めましたが、それに併せて神様はこちらの言葉を宣告しました。

これらの言葉を受け取った後のダビデの素晴らしい姿勢が次の箇所に書かれています。


【詩篇51編1-4節】

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎を、私から 全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、 あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

ダビデが犯した罪に対して悔い改める心をもって、まず神様に赦しを求めました。これは私たちが罪を悔い改める時も同じで誰もが出来ることです。
ここまでは同じであります。しかし、その後が違うのです。


4節に書かれている“あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。”
神様が宣告されているのは厳しい言葉でした。しかし(その言葉を聞いても)神様は正しいです。あなたはきよくあられます。と言える部分が 私たちにあるかどうかであります。

罪を犯したために償いをしなければならないと、神様が私たちを裁くときがあり試練の嵐が来ます。
すると人間はびっくりして「神様、これは何ですか?サタンの攻撃でしょうか?どうしてこんなことが起こるのか、私は神様に悔い改めたから全部赦してもらったと思ったのに、何ですかこの試練は?」と神様を問い詰める時があるのです。


自分たちは勝手に恵みだけを受けて、神様に「私に良いことだけをしてください。」という思いが強いので、その続きで言った言葉には気付いていないかもしれません。

ダビデは預言者を通して神様の言葉を聞き、罪を償うことを受け取りました。
その後、実際に神様の言葉通りに子供は死にました。

それでもダビデは一切つぶやかないで神様の前に出て礼拝をしました。


私たちもそのようにしたら良いと思います。
「どうしてあの人が用いられて、私は用いてくださらないのか。あの人は祝福して、どうして私は祝福してくださらないのですか。差別していますか?」と言う前に、何が違うのかを聞くことであります。


「あなたと私は何が違うの?あなたはどうやって恵みを受けているの?どうやって信仰が成長したの?どうして神様に用いられているの?」と聞くことであります。

私たちはダビデに聞けたら「わたしはこういう者であった。だから神様がわたしを遣ってくださり恵みを受けたのだ。」と、きっと言うでしょう。

(恵みを受けている人と自分には)必ず何かの違いがあるのです。私たちが信仰成長するには、自分との違いを見付けてやってみることであります。


神様はそのようにしてお互いの姿や、聖書の人物を通して成長して欲しいと願っておられます。

私たちが人物を学ぶことは ものすごく自分の信仰に役に立ちます。 (・∀・)つ

2014.6.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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