テーマは 『 キリストの死は何が違うのか 』 です

【ヨハネの福音書10章17-18節】

わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それを もう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

今は受難週ですので、イエス様に目を向けて イエス様のことをもっと考えたいと思います。

生まれた人間は 必ず死を迎えますが、“人間の死”と“イエス様の死”は同じでしょうか?
それは全く違うものであります。


キリストの死が すべての人の死と同じであるならば、キリストの死には何も特別な意味はありません。

(イエス様は)2千年も前に亡くなった方ですが、普通ならば既に亡くなった人の死を、いつまでも語る必要はありません。

しかし、今もずっとキリストの死が語り続けられているのは、その死がほかの人間の死とは 明らかに違うからです。


キリストは生きている時に、既に 自分の死について語り続けました。
イエス様は33歳で亡くなりました。
30歳から公の場で働きを始めましたが、その時から「死」のことを語っておられます。
年を取った人が死について語るのは不思議ではないです。

しかし 一番力に溢れ、働き盛りの30代前半の男性は いわば「死」とは無縁ですが、自分の死に関して何度も 語りましたので、周りが聞いたら不思議だったと思います。

そして、33歳の時に イエス様ご自身が語られた通りに十字架にかかり死にました。


自分の死に対して「自分から命を捨てるのです。」と言いました。

この世が辛くて死にたいから 自身の死のことを語ったのではないです。
(イエス様は世に対して「嫌だ」と言ったことはないです。)
イエス様は自発的に天から地上に来られましたが、死ぬ時も自発的な死でありました。

これは 誰かが無理やり「死になさい」と言ったのではないです。

この「自発的な死」が、『キリストの死の特徴』です。


ここで なぜ「自発的な死」が必要であったかを考える必要があります。

「自発的な死」でないならば、本人は死にたくないのに(いじめなどで)誰かの強要で自殺に追い込まれることが世の中では起こっています。

しかしキリストが十字架に至るまでの過程は、様々な人間が関わって十字架にかけ 他人によって殺された形にはなっていますが、キリストはそれらのことが起 こる前に 「自らいのちを捨てます。」と自分の死について預言を語り、その死は「自発的な死」であることを明らかにしました。


その「自発的な死」はこのためであります。

人々は普通なら「長生きをして 人々に役立つ働きをしよう。」と考えます。
でも、イエス様はたった3年間しか働きをしていないです。

なぜイエス様に自発的な死が必要だったのでしょうか?それは次の箇所に書かれています。


【ヨハネの福音書10章10-11節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

盗人とはサタンのことです。そして もう1人の盗人は宗教指導者・偽預言者たち、言わば惑わす者であります。
当時も、宗教指導者たちは盗人でした。サタンがその宗教指導者たちの中で働くのです。


その者たちは神様の言葉を伝えますが、イエス様から見れば 全てが「盗人」でありました。
それは魂に関心がないからです。
自分の目の前にいる魂が、狼の餌食になっているのに 魂に関心がなく、自分の地位や権力・豊かな生活に関心があるのです。ですから、羊を食い物にしているのです。

そこでイエス様が羊のために働きをすると、彼らは妬み、敵対し、殺したいと思いました。その姿は盗人であります。
そして、狼が羊を襲うと、彼らは自分の命を守るために逃げるのです。


しかし、イエス様は違いました。
キリストの自発的な死は、羊のために自らがいのちを捧げたことが分かります。

旧約時代においては、神様のことを「羊飼い」と表現しました。民たちのことは「羊」と言いました。

ダビデも詩篇23編で「主は私の羊飼い」と呼びました。


【イザヤ書40章11節】

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

ここには良い羊飼いとしての神様の姿があります。
羊を飼い、世話をし、弱い子羊を引き寄せて主のふところに抱くとは どれほど主は優しいお方でしょう。
これが神様の姿であります。


それは、自分自身が全人類の救い主であることと、主ご自身が神であることの宣言です。


キリストの十字架の死は、本当は(私たち)羊が死ななければならないのですが、代わりに死んでくださったのです。

キリストの死の自発性は 人類の救いにおいては、必要不可欠な要素です。
もし、イエス・キリストの死が自ら選んだ死でないならば、人類を贖う効力(救い)が そこにはないです。
これでは(キリストは)死にたくもないのに殺された ということになるからです。


次の箇所では、キリストの死が自発的であることと、羊のためであったことが書かれています。


【Ⅰペテロ2章24-25節】

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、 自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

キリストの自発的な死のことも書かれていますし、イエス様が私たちの魂の牧者であることと 私たちは羊であることがはっきりと書かれています。

キリストは自分のいのちを捨てる権威があると語りました。そして、自分にはもう一度(いのちを)得る権威があることもヨハネの福音書10章に書かれています。これは、蘇るということをイエス様が宣言したということです。

つまり「死では終わらない」ということであります。

なぜなら、羊にいのちを豊かに与えると約束されたイエス様が 蘇らないならば、いのちがないのですが
復活することによってイエス様が語った通りに、羊にいのちを豊かに注ぐことができるのです。


「死」が無ければ 罪人の贖いはありませんし、キリストの「復活」が無かったなら 永遠のいのちが与えられることもありませんでした。 つまり福音が存在しなくなります。


福音には必ず十字架の死があり、その後に必ず復活があります。これで完全な贖いになります。

罪人たちが死ななければならないのに イエス様が代わりに死に、そして命を得る時にイエス様が3日後に墓から復活したので命が与えられています。


また、キリストの死は さらに他の人たちとの違いがあります。それを みことばで紹介していきます。




従順の死



【ピリピ2章8節】

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は神様がたてられた自分の計画に対して、たとえ死ぬことであっても従順しました。




代表者としての死



【ローマ5章19節】

すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

ひとりの人の不従順とは、人間の代表者であったアダムです。

原罪というものがありますが、人間は生まれがら罪があります。
しかし人々は、罪を知らないので 赤ちゃんを見て、「この子には罪がないです。」と言うのは聖書的ではないです。
まだ自らは罪を犯していなくても アダムから来た原罪の罪があるのです。

すると人々は「それは関係がないでしょう?アダムが犯した罪なのに、何で私が背負わなければならないのか?」と反論します。


もし このように言われたら、皆さんはどうしますか?
アダムは神様が一番初めに造った人間ですので、神様から見たらアダムは人間の代表者です。

この人間の代表が罪を犯したので、それに属するすべての者が汚れた者になっているということになります。


また、“ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです”というのは、イエス様が人類の代表者になるということです。その方の従順によって全人類の罪人たちが義人になるチャンスが与えられたことになりました。


私たちは「アダムのせいで私は滅ぼされるのだ」と不平不満を言う必要がないです。
なぜなら、イエス様が他に救いの道を備えてくださっているからです。

もしイエス様が代表者でないならば、1人の罪を贖うためにイエス様は毎度も死ななければならないのです。
この地球上に70億人が住んでいます。その人たちを救うためにイエス様が70億回死ぬことになりますが、それは出来ないことであります。


ですから、代表者を1人たてて(人々の罪を)イエス様が背負って死ぬならば、他の人たちが十字架にかからなくても イエス様を見て信じる者には神様がそれを認めて義人にしてくださるということです。これが神様の法則であります。

1人の罪人(アダム)によって全てが罪人になり、1人の従順(イエス様)によって私たちが義人になる道が開かれたのが「イエス様の死」です。




無罪の死



【ヘブル7章26-27節】

また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。 というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成した遂げられたからです。

ここに書かれている通り、イエス様は罪人を救うために共にいましたが、彼らと一緒になって罪を犯したことは1度もありませんでした。

無罪で死んだこの方こそが 私たち罪人を救うことができます。

誰が「私にはあなたは要りません。」と言えるでしょうか?
もし そう言うならば、その人は未だに自分が罪人であることを分かっていない人です。

分かっているならば、拒むことはできません。

もし自分が罪人であることを知っているならば、“誰が私をここから救い出してくれるのか、どうやったらこの罪が赦されるだろう?”と求めるようになります。

それに必要な方がイエス様であります。


しかし、イエス様を要りませんと言う人は、自分の罪の代価を自分で払わなければいけないのです。

神様はそのことを知っていましたので 私たちにとって必要なイエス様を無罪であるにも関わらず十字架にかかるようにしてくださったのです。
それによって神様と敵対関係にあった私たちが和解するようになりました。

そこで自分の罪を悔い改めた人は、神様から罪が赦されて、神様の子供になり和解できるのです。


歴史の中でイエス様以外に全人類のために命を捨てた人はいません。
自分の名誉、権力、利益、家族のために命を懸ける者はいるのですが、まったく関係のない全人類のために 罪がない者が死ぬということはないです。

イエス様は自発的にそれをしましたし、死にいたるまで従順しました。
私たちのために犠牲の死を払いました。


この特別な方は、私たちにとって なくてはならない必要な方であります。

「イエス様がいなければ、今も自分の罪の中にいますし、救いとは無縁な者でした。そして天国にも入られない者でした。」ということを自覚して欲しいです。

私たちのために命を捨ててくださったイエス様に、常に感謝をして“この恵みこそが 私たちにとって最も大きな恵みであること”を覚えて感謝しましょう。
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2014.4.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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