テーマは 『 みことばをさげすんではならない 』 です

【箴言13章13-14節】

みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。

知恵のある者のおしえはいのちの泉。 これによって、死のわなをのがれることができる。

みことばとは、聖書に書いているすべての言葉ではないです。
その中には、人々の言葉やサタンの言葉や歴史の事も書かれていますので、神様が語る言葉のことを「みことば」と言います。

また、みことばのことを一番正確に書かれている箇所は、次のとおりです。


【ヨハネの福音書1章1節】

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

「言葉=神様」です。目に見えない神様は言葉で表します。それは神様ご自身なのです。

私たちは、みことばをさげすむということは、神ご自身を無視し、さげすむことになります。その結果、自分の身を滅ぼすことになります。

みことばをさげすんではいけない理由がいくつかあります。




①みことばをさげすむ者は身を滅ぼす

みことばをさげすむ人の姿がホセア書に書かれています。


【ホセア書4章6節】

わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。 あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。

知識とは、頭に入れる知識とは違います。それは神様を知ろうとする思いがないです。

みことばを知るには、耳が開かれていないと知ることができないです。耳が閉ざしていると、どんなに語っても1つも言葉が入らないです。

イスラエルの民たちに 神様はたくさんの言葉を与えてくださいましたし、律法を与えてくださいました。
そこで祭司が律法を朗読して教えていました。しかし、神様は祭司に厳しい言葉を語りました。
「あなた自身の中には、知識がない。」と、また人々にもまともに教えていませんでした。ですから言葉を聞いているのに何一つ変わりませんでした。

神様が絶えず預言者を遣わしてみことばを送るのに、「聞かない。悟らない。行わない。」のです。
そして違うことを行うのです。それは神様のみことばをさげすむ姿であります。

私たちが本気で耳を開いて、神様の言葉を聞くならば悟りがきて みことばが開かれるのです。


【マタイの福音書13章14-16節】

こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。 確かに見てはいるが、決してわからない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

預言とは神様が預言者に与えた言葉です。
神様が言葉を聞こえないように邪魔をしているのではなく、神様がいくら語っても彼らが聞かないので 神様がこのような言葉を使いました。
集まった群衆の中には熱心に聞いて立ち返った人もいましたが、宗教指導者たちはいつも非難していました。
彼らは立派な服を着て、前に座って聞いていますが あら探しをするために来ていました。
彼らはみことばを悟らず、自分たちの思いだけでいっぱいでした。

これが神様の言葉をさげすむ者の姿であります。
聞く耳がなく、自分たちが一番(霊が)開かれた者であると思っています。
もし、私たちの中に「私には同じような思いがある。」「私はこういうことを決めているから、神様の言葉は聞き入れられません。」と言うならば、
それは パリサイ人と変わりがありません。

神様の言葉は常に上なのです。主が語ってくださる時は、私たちはストップしなければならないのです。
「アーメン」という言葉は「その通りです」という意味です。
「アーメン」と言って 神様が語る言葉を聞き入れて行う人が信じる人であります。

みことばを知らない人、悟らない人のことを聖書では次のように書かれています。


【詩篇49編20節】

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。

悟りがなければ実際に滅びます。人間として悟らないといけないです。人間と動物の違いは「悟り」があるかどうかです。

なぜ人間が造られたのでしょうか――?
神様に仕えて栄光を捧げるために造られた者であるので、その役割をきちんと果たして初めて人間と言われるのです。
役割を果たしていないのなら、ノーベル賞をもらったとしても 神様は滅びうせる獣に等しいと語ります。




②みことばをさげすむと祈りの答えがない

私たちが祈っても聞かれないならば、とても虚しいでしょう。私たちは祈りを叶えて欲しいので神様に祈るのです。
しかし、断食をして祈っても祈りが聞かれないならば、その原因は次の箇所に書かれています。


【ヨハネの福音書15章7節】

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを 求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

みことばの中に留まっている人だけに神様が祈りを聞いてくださるということです。

祈りを長くするから 神様に祈りが聞かれ、祈りが短いから聞かれない ということではなく、イエス様は私たちが必要としているものをすべてご存知であります。
すぐに祈りが聞かれる人というのは、主の言葉の中に留まっているので与えられているのです。

ですから、みことばに留まっていないということは、祈りが聞かれないことになります。

神様の言葉をきちんと聞いて、その中に留まって悟るならば その時から祈りが答えられます。




③みことばをさげすむ者は神様に属しません


【ヨハネの福音書8章47節】

神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から 出た者でないからです。

とても厳しい言葉です。神の子どもと認められていないので滅びるしかないです。
神の子どもだけが天の御国に入れるのです。神様ご自身がその人のことを忘れてしまいます。




私たちはそうはなりたくないですね。そうならないためには私たちはどうすべきでしょうか?

知恵ある者とは、悟っている人のことです。そして命令を守る者です。


【詩篇119編103-104節】

あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。

みことばが命の水であります。
自分の中にあるいらないものや教えを捨てます。甘い水を飲んだ者が苦い水を飲む必要がないからです。


【詩篇119編129-131節】

あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。

みことばの戸が開くと、 光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを 愛したからです。

神様の言葉の恵みがどのようなものなのかが すごく分かるのです。
みことばの味を知っている者は、みことばを親しみ学ぼうとします。その人はどんどん悟りが与えられ霊的な者になります。

また、悟ったということは行動が伴っていることを意味します。
みことばの種を蒔いたので、その人たちはたくさんの実を結びます。
そのような者に神様は喜んで認めて受け入れてくださり、さらにそこに恵みの雨を降らせて、ますます時に適った恵みを受けて豊かになるように祝福するのです。

祝福を受けたいならば、命に満たされたいならば、知恵ある者になりたいならば、滅びたくないならば、天国に入りたいならば、
神様の言葉をさげすむのではなく、聞く耳をもって悟り 行い、そしてみことばの中に留まることであります。
そうしたら間違いなく祝福を受ける者になります。

神様の言葉を軽く考えてはいけないです。大事にしてください。

私たちにとって神様は権威あるお方です。ですから一番恐れなければならない存在であります。

人間が完璧にすべてを守ることは出来ないのですが、逆らったときは すぐに悔い改めることであります。
「もう過ぎ去ったことだ」ではなく、今からでも立ち返るならば神様は喜んでくださいます。

みことばに従順した者、こういう者は大胆に祈りができる者になります。 (`・ω・´)

2014.1.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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