テーマは『 良い実を結ぶ信仰生活 』です

【マタイ7章16-19節】

あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらから取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。

同様に、良い木は良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

良い木が悪い実をならせることはできないし、 また、悪い木が良い実をならせることもできません。

良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

今年の目標は3つの実を結ぶ年にしたいと思います。

このみことばは、周りの人を見分けるためだけに使う言葉ではないです。この言葉はそのまま自分にも当てはまります。
この言葉で、自分は本物なのか偽物なのか、良い木なのか悪い木なのかを見分けることができます。


エデンの園にある木の実のほとんどは食べても良いと神様がおっしゃいましたが、ただ1つ「善悪の知識の木の実」だけは食べてはいけないと語りました。
アダムとエバは「善悪の知識の木の実」を食べてしまい、それによって罪が入り、呪いが入り、それによって死が世界に入ってきました。
神様の言葉に違反をしたので、エデンの園を追い出されました。

「救われた人」というのは、何から救われたのでしょうか――?
この善悪の知識の木の実を食べた人として呪いを受けた者、死を宣告された者は、そこからイエス様によって解放されたのです。
そして(私たちに)喜びを与え、平安を与え、祝福、命を与えてくださいました。

その後に神様が私たちに「今度はあなた自身が良い実を結ぶ木になりなさい」と語りました。(私たちが)結ぶ実を見て、弟子であるかを見分けます。
たくさんの良い実を結ぶならば、「それはわたしに栄光を捧げることである。」と語りました。

悪い実を結ぶならば、神様は「あなたはここにいる必要はない」と言って、再び神様の祝福の地から追い出されることになるのです。
悪い木が火に投げ込まれるということは、必ず死ぬということなのです。

私たちは「救われているから、どうでもいい」ではないのです。
今、一生懸命良い実を結ぶために作業をしていかないと最後に裁かれるのです。




皆さんは昨年どのような実を結びましたか?皆さん1人1人の木はどのような木だったでしょうか?

聖書には良い実というのがたくさん書かれています。その中でも今年の目標として3つありますが、一番大切なのは次のとおりです。


①御霊の実・聖霊の実

【ガラテヤ5章22-25節】

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

柔和、自制です。 このようなものを禁ずる律法はありません。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、 さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

聖霊の実は、主にあるものとして当然結ぶべき実であります。これらのものは賜物ではないので
「賜物がないから、力がないから、このような実は結べません。」と言うのは通りません。

これは、主にあるものなので必ず実が結ばれるようになるのです。自分がイエス様の中にしっかりと留まっているならば、誰もが結ぶ実であります。

私たちはイエス様に出会うまでは自分が主人でした。自分の人生を思いのままに生きるのは、聖書の言葉で言うならば本能で生きることであります。
それによって結ぶのは、肉の実です。

世の中はみな肉の実を結んでいます。しかし世の中ではそれは問題にはなりません。

しかし、主人が変わった人は、主人が喜ぶ実を結ばないのは問題であります。イエス様を自分の主として受け入れたということは主人を変えたことなのです。
今までの主人は自分でしたが、受け入れた時からはイエス様なのです。
あらゆるものを十字架につけながら、主人の思いに従わなければならないです。


喜びの感情は良いものですが、怒りや妬みなど悪い感情はいらないものです。
人を憎むと、相手もその人を憎むのです。するとその悪い空気がどんどん流れて、皆が憎しみ合うのです。次から次へと悪い実が結びます。
私たちは肉を満足させるような生活をしてはいけないです。それは滅びる生活なのです。

聖霊様が喜ぶことをすると御霊の実が結ばれていきます。良い実には神様がさらに祝福します。

主人であるイエス様が 私たちの悪い実を見てどう思うでしょうか。
イエス様は斧を持って、いつ倒そうかと待っています。倒されたならば、終わりであります。ですからイエス様は忍耐をしてジッと見ておられます。

また クリスチャンではなく、世の中の人でとても立派な人格者の人たちがいますが、御霊の実を結んでいるのです。
そのような人たちは生まれつきではなく、その人自身が「人格者になりたい。」と良い人になるために自らを厳しく訓練しているのです。
私たちはその人たちを非難してはいけないです。「その人は神様を信じていないから、そんなことをしても滅びるでしょう?」と、それは勝手な判断であります。反対に神様は「あなたはそんなことを言う資格すらない」と言います。

「あなたは神を信じ、わたしの祝福を受けながら、わたしがしなさいと言う実を結ばず、葉ばかりで悪い木や実を結びながら何の資格があって他人を非難するのか。」と言われ 私たちは返す言葉がないです。


私たちは、外では とても愛があり穏やかな人のように見せるのですが、家に帰ったら別人であるならば、それは偽善者であります。
クリスチャンはどこにいても同じ姿勢を取らなければならないです。

神様は、私たちが家にいる時も見ているのです。神様が一番よく見ているところは家であると思います。
自分で見て、これはダメだという実があるならば、神様から討たれる前に悪い実は切ることです。そして十字架で殺すことであります。

御霊に導かれて歩むと人格が変わるのです。
自分の木はどんな木だろう?と見て、まだ小さいけれど愛の芽が生え、小さな愛の実が結ばれ、所々に小さな喜び・平安・寛容の実がなっているならば
これは神様はとても喜んでくださいます。神様はそこに栄養を与え、もっともっと育つようにしてくださるのです。

しかし、悪い実を結ぶと神様は絶対に恵みを注ぐことはしないです。ですから、恵みを求めても来ないです。

私たちは神様によって選ばれた者でありますので、悪い実を結んで神様を悲しませるのではなく、喜ばせる姿にならなければいけないです。




②伝道の実

特に今年は、見せる伝道をしたいと思います。
チラシを配るのはもちろんですが、それ以前に自分自身の姿を 人に見せる伝道が必要であります。

神様から恵みを受けた者には、愛の負債・罪の赦しの負債があります。
今度は私たちが他の人たちに良い知らせを伝える者にならなければなりません。

私たちは伝道を、「私は口下手だから。」「言葉で語るのは難しい。」「語ったけど全然聞いてくれない。」と、そのようなことを言います。
もちろんそういうことがあると思います。しかし、人々は私たちが語る言葉を聞きたいのではなく、イエス様を信じて何が良いのかを見せてほしいのです。
イエス様を信じてどこが変わったのかを見たいのです。
私たちは見せることが出来なければ伝道は失敗であります。

伝える言葉がどんなに立派なことであっても、伝える人が何も変わっていなければ「なぜあなたは押し付けるの?」となってしまいます。


また、ある人は自分がクリスチャンであることを隠しています。クリスチャンでも何も変わっていないから恥を受けたくないという思いです。
クリスチャンであることを公表しないのは、正しいことでしょうか?――そうではないです。

人々の前で「私はクリスチャンです。」と言うべきなのです。そして良いクリスチャンの姿になるために努力をすることであります。
言ってしまうと、その時から人々は自分のことをクリスチャンとして見ています。
クリスチャンであることを伏せていたら、誰一人救うことが出来ないですし自分も成長できないです。

クリスチャンであることを伝えてから、以前とは違う姿になるなら、人々が見たいものはそこであります。言葉ではないのです。
口先だけで私たちが変わらない姿で、言葉を語るならば それは虚しいものになります。

真実な行動とクリスチャンらしい言葉で見せる伝道をしてください。これは訓練なのです。
それをずっと続けていくと自分のものになるのです。難しいのではなく、それが慣れてきます。すると口の言葉が変わり、行動が変わってきます。




③善行の実

【使徒の働き20章34-35節】

あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを 思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示してきたのです。」

善行というと、私たちはすぐに貧しい者たちのためにと考えてしまいます。もちろんそれも善行であります。
しかし、ここでパウロが見せた1つの善行は、共に労苦する人たちを助けることでした。これも立派な善行です。

パウロには共に働く人たちがいました。パウロは自分で一生懸命に天幕を作る働きをしながら、その人たちの働きを助けました。

私たちは良い働きをしようと思って、道ばたにいる人たちだけを探す必要はないです。
教会の中にも、共に働く人々の中に私たちが手伝わなければならない人たちがいっぱいいるのです。
弱い人たちもその中にいます。そして1人でたくさんの仕事を抱えて労苦している人もいるのです。
その人たちに1つでも「それは私がしましょうか。」と手伝いをするならば、それは立派な善行であります。

自分の時間を捧げ、自分のものを捧げ、受けるよりも与えるほうが幸いであるという言葉は 本当にその通りです。


自分が受けたいと求めているばかりの人で 幸せな人はいないです。
自分が恵みを流していく時に、そして人を助けていく時、自分が持っているものを分け与えていく時に、私たちはますます豊かな者になっていくのです。

共に働く者のために祈ってあげることも、慰めることも、良い働きなのです。必要なものを与えることも神様から見たら立派な働きです。

私たちは愛の心がないと、自分の物は提供できないのです。愛があると人に差し出すことができるのです。
その人のために出来ることは何なのかを考えることなのです。その人が喜ぶことは何なのか、その人をどのように助けたら良いのかを信徒たちを見て常にその目で見たら良いと思います。

善行の実を結ぶのは、心がとても幸せになるのです。

自分は出来ないと思わないでください。出来ないと思うのはフタをしめて、やらないと宣言をしたことになります。
そうではなく、「出来るようになりたい」と祈ります。これは誰もが出来る働きであります。
しようと思うならば、神様はたくさんチャンスを与えてくださいます。ホームレスの人にお弁当を渡すのも、将来は30倍になって返ってくるかも知れません。

ですから避けて通るのではなく、覗いてみることなのです。出来ることがあればすぐに実行してください。


今年は御霊の実を結んで人格が変わるようにしましょう。見せる伝道の実でクリスチャンです と堂々と言えるような私たちになりましょう。
そして善行の実で良い働きをしてクリスチャンであることを見せるためにも実を結ばないといけないと思います。
( ̄‥ ̄)=3

2014.1.2
新年礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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