テーマは『 私たちのために来られたキリストに対して 』です

【イザヤ書61章1-3節】

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、

シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

イザヤ書44章から後半は、「旧約聖書の中の新約」と言われています。

もし人々がこの箇所を正しく悟ることが出来たならば、その人たちはキリストをメシヤとして受け入れ、
信じたと思います。

特にユダヤ人たちが、この言葉を本当に理解できたならば彼らはキリストを十字架につけることは
しなかったと思います。

しかし、未だに この言葉を悟ることが出来ないために彼らの目は、覆いがかけられ、心が閉ざされて、
キリストを信じずにメシヤを待っています。
私たちクリスチャンもキリストを正しく知らないと、後でとんでもないことが起こります。

なぜ今回この箇所をテーマにしたのかと言うと、私たちが心の底から100% キリストを正しく知っておかないと、いつ つまずき惑わされるか分からないからです。

私たちはいつも口々に「終わりの時代だ」と よく使いますが、世の中の災いを見て世の終わりだと悟る以前に、教会の中で起こってくる様々なことを通して世の終わりだということを強く実感できます。


先週、韓国ソウルの教会で驚くようなニュースを聞きました。

少なくとも数万人が集まる教会で、クリスチャンであるなら牧師の名前をほとんどの人が知っています。
以前からとても良いメッセージを語り、すごくリバイバルした教会でもあります。
しかし、その牧師が真理とは違う ずれた話を突然 公の場で語りました。

「救いはキリスト教だけではない」という言葉を使いました。以前にローマ法王が語ったのと同じ言葉でした。
その時、他の教会や教団の人たちもいました。
そして先週、何が起こったかと言うと、釜山(プサン)の教会の牧師たちが ソウルの教会の礼拝堂に 汚物を撒きました。

なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか?

その牧師は明らかに真理ではない「非真理」で正面からキリストを否定する話をしているのに、そこで聞いていた副牧師、伝道師、長老、信徒たちが何万人もいるのですが、その人達が沈黙をして誰も否定をしなかったので他の教会の牧師や信徒たちが立ち上がったのです。
ですから、牧師だけではなく、それを聞きながら黙って教会に通っている人たちもおかしいということであります。

自分の立場のために黙っていたのでしょうか?


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。

使徒の働き4章12節のみことばを見ても、救いはキリストしかいないと書かれています。
聖書を知っていながら違うことを語った牧師に対して、なぜ周りの人たちが黙っているのか 理解が出来ないです。

今回のニュースを聞いて、本当に世の終わりだと感じました。(その時が来たら)教会から裁きが始まります。

私は牧師として、私たちがキリストのことをもっともっと知らなければならないです。
この世で成功するために色々なことを教えるのではなく、自分たちが信じるキリストがどのような方であるのかを教えたいです。
土台がしっかりしていないといつ倒れるかわからないのです。

私たちクリスチャンは、誰よりもキリストのことをしっかりと学んで悟らないと、後でとんでもないことになります。
すべてのものもそうですが、基礎が正しく出来ていないと、砂の上に建てた家のように誘惑が来た時にペッタンコにされるのです。




そうならないように、地上に来られたキリストがどのような方であるのかを はっきりと知りたいと思います。

イエス様がなぜ来られたのか、その目的、その働き、自分のために来られたキリストのことが【イザヤ書61章1-3節】に書かれていましたが、
イエス様ご自身も語りました。次の箇所です。


【ルカの福音書4章16-22節】

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

主の恵みの年を告げ知らせるために。」

イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。

イエス様は、偽預言者を見分ける方法はその人が語る言葉ではなくて、その人が結ぶ実を見て見分けなさいと語りました。
その通りの働きをしないならば、その人がどんなに有名で立派なことを語る人であっても、信用してはならないです。
言葉ではいくらでも人を騙すことができます。

私たちが結ぶ実は、最初に芽が出た時には分かりませんが、実をしっかり結んだ時に見分けることができます。

イエス様は実際に来られて、この通りの働きをしました。バプテスマのヨハネが弟子たちをイエス様に遣わして
「(メシヤとして)来られる方はあなたでしょうか?」と質問をしました。
それはヨハネに先入観があり、イエス様の姿がイメージと違ったからです。

しかし みことばが目の前で実現されている実を見ましたので、ヨハネは悟り、預言されたメシヤがイエス様だということが分かり、それ以上疑いを持ちませんでした。


終わりの時には、反キリスト、偽キリストがたくさん出てくると言われています。

なぜ人々がそういう者たちに騙されるのでしょうか ――。
それは、行いの実を見ていないからです。ほとんどがその者たちの言葉や姿に騙されるのです。
立派なものを建てて、大勢の人が集まり、そこで立っている姿を見て「この人が偽物なら、人々がこんなに集まる
はずがない」と勝手な思いを持ちます。
それは みことばの上に立った判断ではなくて、「神様が今まで隠しておいた秘密をあなただけに特別教えるから」という言葉に誘惑され、牧師や伝道師、信徒たちまでもが惑わされてそこへ行くのです。

イエス様とまったく違う働きをする人たちは、自分で名誉を受けて権力を手に入れて、お金を握ります。それはメシヤの姿ではないです。

ですから、イエス様は明らかに世の宗教指導者たちと違う姿で来られて、違う働きをすることをイザヤ書61章でも語っていました。

イエス様はどのような人を救い出すと語ったでしょうか ――?
貧しい者に良い知らせを伝えるために イエス様は来ました。(イザヤ書61章1節)

貧しい者とは、霊的に貧しく心に色々な悩みがあり生きる力がない人たち、希望もなく 頼るものもない人たちです。


【マタイの福音書5章3節】

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

苦しみから救い出すために来たとイエス様が語りました。それで実際にイエス様は貧しい者たちと共にいました。

すると宗教指導者たちが「あの者はいつも罪人たちと一緒にいる」と言って非難しました。
彼らは魂を導くと言いながらも、人々を完全に差別しました。

多くの者は口なめらかに、その人が持っている わずかな物までも全部取り上げて自分の腹を肥やしていきます。

ですが、イエス様は一度もそうしたことがないです。

イエス様は心が傷ついた者たちを癒すために来られました。

心に傷がない人はいないと思います。
他人からの言葉によって傷を受けたり、環境から傷を受けたり、生まれながら傷ついた人たちなど たくさんいます。

それは薬を飲むから癒されるのでしょうか?―― 癒されないです。
身体は薬を飲んで癒すことは出来ますが、心の傷は薬では届かない部分です。ですが、人々は傷を受けていないかのように振る舞っています。
傷があるということは、心にいっぱいヒビが入って粉々に壊れたことを意味するのです。

ヒビが入った心は痛いのです。それは誰が治せるのでしょうか?
―― それは私たちを救ってくださった主です。

私たちの痛みを知っておられるイエス様が癒してくださいます。

霊的に色々な葛藤や悩みが多い人たちは心が病んでいます。カウンセリングを受けても 聞くだけであります。
聞いてうなずいて、小さな助言を与えます。また、病院で薬だけを与えて(副作用で)何も出来ない者にしてしまいます。
それは癒すことにはならないです。


【マタイの福音書11章28-29節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

心が癒されたということは、たましいの安らぎであります。

それから捕らわれ人には解放を与えます。これもイエス様がしたことであります。

私たちはある意味で罪の奴隷でした。奴隷ということはサタンに捕らわれた者であります。
人間に捕らわれたり、環境に縛られて奴隷にされていたり、自分自身で自分を縛っているのです。

それで苦しい思いをしている人たちがどれほど多いでしょうか。
この世で生きているほどんどの人が何かに捕らわれて生きています。「ストレス」ということは、何かに捕らわれているのです。

刑務所の中に入っていなくても、家庭の中で監視、管理されていたりすることもたくさんあるのです。
その姿を見て、イエス様が本当に憐れんでおられます。

イエス様は知恵を与え解放したいという理由で地上に来られました。
ですから、私たち自身が本当にイエス様に出会っているならば、今 私たちは自由にされていなければならないのです。


【Ⅱコリント3章17節】

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

自分の力ではどうすることも出来なかったものを、イエス様はそこから解放し自由にしてくださいました。
自由は私たちのものであります。

まだまだ自分は頑張らないと自由になれないと勘違いをしてはいけないです。
イエス様は最初から自由を与えておられますので、それを使うことであります。




私たちがクリスチャン生活をする上で勘違いをしていることが1つあります。

「囚人には釈放」という言葉がありますが、これは刑務所に入っている者に語った言葉ではないです。

以前の悪い習慣、古いものに縛られて身動きが取れていない人達がいます。
クリスチャンなのに そういうものに縛られています。罪責感に悩まされている人がたくさんいるのです。
罪を犯すたびに「あぁ、私は地獄に落とされるのではないか」という思いで自分を縛ります。
しかし、イエス様はそのような方ではないです。

イエス様は、私たちの過去・現在・未来の罪までも赦してくださるのです。
だからと言って、「じゃあ いつでも罪を犯して良いんだ」というのも間違いです。

「あなたが本当にわたしの前で悔い改めるならば、それ以上自分を責める必要はない」ということです。

なぜなら赦されたからです。罪責感はサタンが私たちを縛る 「 足かせ 」 なのです。


旧約聖書を読んでみてください。
罪を何度も犯し、それに対して神様は彼らが蒔いたものの刈り取りはさせましたが、
それでも神様は彼らを捨てませんでした。最後まで彼らの世話をし、魂を憐れんで救い出してくださいました。
これが父の心であるのです。

このようなキリストを絶対に裏切ってはいけないです。豊かになった途端、心が変わる魂が哀れであります。

「私は大丈夫です。」というのは誰にも言えないことです。


日々、私たちの信仰の土台であるキリストを求めて、その方と共に歩み、敬わないと(私たちは)倒れていきます。

ソウルの牧師の姿を見て、私たちはただ非難するのではないです。それは自分たちに対する警告だと受け止め、
世の終わりが身近なところで起きているのだということを私たちは知らなければいけないです。

もしも、牧師が真理ではない言葉を平気で語るならば、皆さんは逃げたら良いと思います。
「牧師が堕落し、キリストに敵対する者になってしまったのだ」と牧師を追い出すか、皆さん自身が離れるか、
どちらかにしないと大変なことになります。

今回のことは、私たちに対する教訓であり警告でもありますので、私たちはどのような時でも自分たちのために
来られたキリストにしっかりと礼拝して信じて、ついていきたいと思います。 ( ̄‥ ̄)=3

2013.11.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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今日の「いのちのパン」

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すべての事について…感謝❤

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