本日のテーマは『 主の再臨の時、幸いな人 』です

【ヨハネの黙示録1章7-8節】

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方。万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

7節は、黙示録の中でも一番確信的な言葉であります。そして「喜ぶ」のではなく「嘆く」と書かれています。
それは、悲惨な目に遭うから「嘆く」のです。

それまではのんびりしていた者が、その時は逃れることが出来ないです。
(その時には、すべての人たちが世の)終わりだということが分かるのです。
その時に笑うのはわずかな人だけであり、イエス様を信じていない人が再臨を楽しみにして、
終わりの時を迎えてしまったのならイエス様はその人を迎え入れることはないです。

クリスチャンでも、イエス様の再臨を「早く来てほしい」という人がいます。準備が出来ているのでしょうか?

今回語る聖書箇所で自分の姿を見てください。
再臨の日が私にとって喜びなのか、それとも「主よ、なぜ今 来てしまったのですか?」と思うのか、どちらでしょうか。


【ヨハネの黙示録1章3節】

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

最近は、不吉な予感がたくさんあります。地震、洪水、大嵐、内乱、戦争の噂などが、ずっと出ています。
終末の足音であることは、クリスチャンではなくても分かります。時が近づいていることが明確であります。

ですが、この時に何をしている人が幸いでしょうか?
神様がこれから起こることを語りますが、それをしっかりと聞いて心に留めるということは、
知識として聞くのではなく、神の真理の言葉として受け入れて従順をすることです。

聖書の祝福は、救い以外では、自分が従順して初めて手に入れる祝福なのです。

神様が「この言葉をわたしの言葉として信じているのか。」と、私たちが本気で信じると、
信じた通りの行動をするのです。

この言葉が本当に起こるなら、私は何をすべきなのか?どんな生き方をしたら良いのかを考えてしまいます。
「いつ起こるか分からないことで、今からそんなことばかりを考える必要がないわ。
好きなように生きて、その時に目を覚ましたら良い」と、それでは遅いのです。

1日中動かないだけでも、筋肉の力が落ちるのと同じように、私たちの心の中も日々栄養を入れておかないと
命の水が出て来ないと、だんだん枯れて心の中から力が出て来ないです。

一度立ち止まってしまうと、次の一歩を出したいのに足が出て来なく、なかなか主の前に出てくることが
出来ないです。

これは誰もが経験をすることです。ですから、しんどくても言葉を実行していくとそこに力が付くのであって、
立ち止まると どこかに漏れて出てしまい、後で気付くと全然力が無い者になっているのです。


【ヨハネの黙示録16章15節】

――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないように
する者は幸いである――

再臨の時に、ある者は寝ています。身に着物を着けていない人がいるのです。裸で歩いている人がいるのです。
霊的に目を覚ましていなさいということです。クリスチャンはイエス様の血潮によって聖められた者、
義と認められた者であります。イエス様が義の衣を着せてくださっているということです。

しかし、そのものを再び罪を犯して、この世の汚れで真っ黒にしてしまうなら、
その人が着ている衣は「義の衣」ではないです。

「罪」というものは恥をもたらします。人はそれを隠していると思うのですが、神様の目には、罪は裸の状態です。

イエス様を 裸の状態で迎えるのですか?
ですから、義となった状態を維持していくことが大切なのです。


【ヨハネの黙示録19章9節】

御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

イエス様が再臨する時に、自分は本当に招かれた者であるのか、そして資格があるのか。
口先だけで「小羊の花嫁です。」と言っても「残念ながらあなたの名前はないです。」と入ることができません。

ですから、自分の名前が消されていないのか、イエス様を受け入れた者は天国に入るまでイエス様と共に
歩みながら生きて行かなければならないです。

生きている時はチャンスがありますが、再臨の時はチャンスがないです。

クリスチャンだからといって安心してはいけないです。黙示録はクリスチャンに語った言葉であります。


【ヨハネの黙示録22章7節】

「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

ヨハネの黙示録1章~22章まで啓示した主の言葉のままです。


【ヨハネの黙示録22章18-19節】

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

真理の言葉をいじるからです。神様の言葉は完璧です。
それを人間が勝手な思いで切り刻んだり、違うものを入れるとそれが災いになります。


(ヘス牧師の教会では)悔い改めのことをよく語りますが、悔い改めは自分の着物を洗うことであります。

もともとイエス様が十字架の血潮によって、私たちが悔い改めた時に真っ白な綺麗なものにしてくださいました。
でもその後も罪を犯すので、着物も汚れてくるのです。しかし私たちがその時もそれを放置するのではなくて、
悔い改めるならば さらにイエス様の血潮が注がれて綺麗になるのです。

ですから天国に入るまで繰り返しが必要なのです。

罪を贖ってくださる神様の恵みを求めながらイエス様の血潮によって洗われていなければならないです。
白い衣を着て準備が出来た人だけが上げられて、汚れたものを着ている人は相応しくないので地上に残されます。

他人のことを心配をしている場合ではないです。自分が準備出来てから、他人を準備させます。

自分は目を覚ましているのか、自分の行いが主の前で正しい行いなのか、着物を洗っているのか、愛があるのか
色々と考えなければならないです。

地上でのことばかりを心配するのではなく、目を天に向けて、一生懸命準備して私の家族も準備させようという思いで働くと毎日、毎日時間がないと思います。
私たちはのんきに暮らすのではなくて、(再臨は)いつか分からないけど
いつか分からないからこそ、いつでも準備をしておかなければいけないという思いでしてください。 (´・ω・`)

2013.9.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■