テーマは『 イエス・キリストを信じる信仰 』です

【エペソ1章19-23節】

私たちはイエス様を信じる者ですが、キリストに対する信仰が自分自身にどのような影響を与えているでしょうか?
キリストにあって、どのような祝福を受けていますか ――。

多くの人は「罪が赦されて天国に行けるんだ」と言いますが、天国に行くだけが私たちに与えた祝福ではないです。
もちろん それも後に受けますが、神様は今回のみことば箇所で はっきりと語っています。

今の世の中でも祝福されないならば、それはみこころではないのです。

なぜ私たちが祝福されなければならないのでしょうか?
それは もともと神様が人間を造った時は祝福されていました。
しかし人間が神様から離れたことによって全てを失いました。
それでイエス様が来られて働いてくださったことによって(祝福が)回復されました。

「死」は十字架によって「命」に取り換えました。その他にもイエス様はたくさん回復してくださいました。

つまりキリストを信じるということは、回復されたものを(受け取ると)初めから約束されているのです。
キリストの中に全てのものが満ちていますので、その祝福を私たちが信じる瞬間から受け取るのであります。

神様はそれを与えたいので私たちを呼んでくださいました。
クリスチャンの生活になるということは、キリストが準備をしているものを相続者として受け、
楽しみながら生活をすることであります。


【イザヤ53章4-6節】

これは救われる者たちのためにしてくださったことです。
病の討ち傷をイエス様が負って、それを回復してくださいましたので私たちが受けるものは癒しであります。
病気になった人が「あぁ、これは主のみこころであるんだ」という人がいますが、とんでもないことです。
主のみこころには、私たちを病気にさせて滅ぼすということはなく、神様が祝福として用意したものではないです。


【Ⅱコリント8章9節】

弟子たちは家族のもとに帰りましたが、イエス様には帰る家がないです。
ですから山に行って、夜通し父なる神様にお祈りし話をしながら寝る事もありました。
しかし、それは何の為でしょうか?

イエス様ご自身が、人間が地上で何を食べるか何を飲むのか、そのような貧しくて苦しんでいる問題を
回復させる為でした。

今、地球上にいる80%が貧しい者です。食べ物がなくて亡くなる人もいます。家がない人も大勢います。
明日のことを心配する人もたくさんいます。何も心配せずに生きている人は、どれだけいるでしょう。

イエス様は人間の悲惨な状態を見たのです。それをイエス様ご自身も通ってきました。
十字架の上でイエス様が「完了した」と言ったのは、人間が失ったすべてのものをイエス様が回復する働きを
終えたということであります。

ですから私たちが様々な問題の中で苦しむ必要がないということです。


物質についても、(私たちが)貧しいのが神様のみこころであると、どこに書いているでしょうか?
それだとイエス様がずっと貧しく生きていた意味がないです。

昔から教会で間違えた聖書の解釈をするので、真理ではない言葉を流していくのです。
クリスチャンは貧しくなるのが敬虔な姿であるというのは、とんでもないことです。
貧しくなって施しが出来るのですか?人の益になること、物を分け与えることができるのでしょうか?

―― できないです。イエス様は常に人々に与えました。弟子たちにも与えていきました。
そこでキリストを信じる信仰とはこういうものなんだと、イエス様が(信じる者に)準備をした恵みの中に入りなさいと、
これがクリスチャン生活のスタートラインであります。


だからと言って、キリストを信じた瞬間に宝くじに当たってお金が与えられるということではないです。
それは祝福ではないです。キリストの祝福はそんなものではないです。
「何を食べて何を着るかを心配するな」と神様がすべて知っておられるからです。
世の中でも、悪い親でも子供には良いものを与えるように、神様は 神様を求める者たちに悪いものを与えるはずがないのです。

皆さん、クリスチャンの人たちはキリストに出会ってからも なぜ苦しむのですか?
なぜいつも日常の生活の中で、今も罪の問題、病の問題、貧困の問題、家庭の問題などを自分でそれを背負って
苦しむのでしょうか?

それは信仰が間違えているからであります。
なぜ自分がキリストを信じる信仰がそこに1つも影響力がないのでしょうか?
なぜキリストが与えた影響力が自分のものにならないのか、それは神様のせいでしょうか? とんでもないです。

神様は私たちが祈る以前に備えてくださっています。ですから、問題は常に私たちにあります。
その問題点を挙げます。


①キリストと1つになっていない


これはまだ生まれ変わっていないということであります。
信仰が形式的で、信仰の味をまだわかっていないです。私たちが生まれ変わるということは、何だと思いますか?
信仰をもって信じて、キリストと1つになることです。キリストの中に入ることです。
そして その人自身が古い人を脱ぎ捨てて、新しい人になることが生まれ変わったことであります。

古い人のままで生まれ変わることはないです。もはやあなたが生きるのではなくて、キリストがあなたの中で
生きているということを主が語りました。

キリストと1つになって生まれ変わっていないので、キリストが自分のために備えているものが
自分のものになっていないのです。
そして相変わらず 自分で全てのものを背負って「主よ、主よ、どうしてですか?!」になってしまうのです。

これはキリストにある権利を知らないからであります。
私たちがクリスチャンになって出発する時は、キリストが回復しておいた根本的なところに
気が付かなければならないです。
クリスチャンになることは何か?という時に、「あぁ、これから厳しい信仰生活が始まるなぁ」ではなく、
「キリストが回復したものを私が相続するんだ」と全ての良いものを自分が受けるという認識がないといけないです。


聖書に2人の放蕩息子の例えがありますが、これは2人とも間違えていました。
1人の放蕩息子は父の財産を「ください、ください」と言って(父から)もらいましたが、神様の目的とは違う
自分の快楽のために財産を湯水のように使って、結局は父の家にいた時より悲惨な罪の奴隷になりました。

もう1人、家の中に留まっていた長男ですが、この長男の姿のようなクリスチャンが多いです。
自分の弟が帰ってきた時に 父が赦して指輪をはめ、新しい服を着させ、ご馳走を食べさせたことに
ものすごく腹を立てました。
「私は朝から晩まで汗を流しながら働いているのに、私には1つも良いものをくれたことがありません。」と
言いました。長男の問題は何でしょうか?

父のものが自分のものだという認識がないのです。
つまり求めなかったことです。彼の中には「あれはお父さんのものであって、私のものではない」と思っていました。
ですから一度も父に「ください。」と言ったことがないです。
ただ黙々と死にそうな思いで働いたうえに、父に対して不満な心がありました。


父のものは自分のものだという根本的な権利を知らない長男でした。
知らないので1つも自分のものになっていないのです。こんなに金持ちの父親がいても、奴隷なのです。

「私が心の中でこんなに想っていても1つも叶えられない」というのは、世の中の宗教の信仰と同じであります。
信仰で必死に求めているのですが、それを叶えてくれるものがいないのです。
つまり神がいないということです。聞いてくれないものに いくら自分たちが拝んでも得るものはないです。


私たちの信仰も、(神様は)父のものはあなたのものなのに、なぜ自分のものだという認識がないのか―?と
語ります。自分のものだという認識があるならば、自由に使って良かったのです。
いちいち父親に許可をもらわなくても、正しくそれを使うならば、父親は喜んだと思います。
彼がその中で喜んで生活をする姿を見たら父親も嬉しいのに、いくら経っても何一つ求めないのです。
そして、いつ見ても不満な顔をしているのです。

クリスチャン生活はそのようなものではないです。信じる者の為にイエス様が犠牲を払って回復してくださいました。
天国に無いものはないです。

歪んだ信仰で何が生まれてくるでしょうか? 私たちは正しい者でなければいけないのです。


②期待しないものに神様は絶対に働かない


奇跡を行う神様だと期待をしないので奇跡が起こらないです。期待をしないので御使いも現れないです。

聖書はすべて言葉で書かれていますが、
言葉が働くのは、私たちが信じて期待をして宣言をする時に言葉が動き出します。
言葉は私たちが宣言をしない限り、絶対に動かないです。

私たちが色々な問題を抱えた時に みことばを宣言するのです。
「キリストの懲らしめによって私は平安になった。サタンよ、出て行け!」と潰すことです。
病気の時は「キリストの討ち傷によって私は癒された!」と宣言をします。
「もっとひどくなるのかな?」と、このような言葉を言うならば 癒しは絶対に起こらないです。

困った時だけ神様に求めるのではなく、初めから自分のものなのです。その中で生きることです。
キリストと自分が別々に生活をして、困った時にその問題を持ってわざわざキリストの所へ行き、
「私 困りました。」では得られないです。


キリストの中に住むということは、自分の人生すべてをいつも委ねて生きることなのです。
心の王座に自分が座っていてはいけないです。そこにはキリストが座るのです。
多くの人達が「主よ、主よ。」と言いながら、全部自分の力で色々なことをしようとします。

ちっぽけな人生を自ら歩もうとするのは、キリストが見て「それが信仰か」と泣いています。
私たちは「王の王、主の主」の子どもなのです。

祈って委ねると大胆になれます。毎日幸せだと宣言をします。
口から出る(不信仰な)言葉が恵みを閉ざしてしまいます。
不満を言うのはキリストが何をしてくださったのかをまだわかっていないです。
「私はまだ生まれ変わっていないんだ」と知り、反省をしなければならないです。

体験のない信仰は、信仰が1つも動いていないことであります。みことばが自分の生活の中で動いていないです。
それはその言葉を使っていないからです。


「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのすべてのものは与えられます。」
ということは、キリストの中で自分が今生きている目的は「キリストなんだ」ということです。
私のために良い事をしてくださったキリストを喜ばせる生活、キリストを愛する生活、キリストを敬う生活、
これが私たちの日々することであり、それをやっておけば自然と蛇口をひねって恵みが流れるように
主が備えてある祝福は全部自分のものになるのです。

ですから、自分の努力で得る必要は一切ありません。主のみことば通りにすれば、自然とついてくるものです。

信仰生活は最初から祝福を受け取る生活です。努力をして何もないところから一から始めるのではなく、
初めからあるものを信仰によって受け取るのです。

自分がいかに信仰によって、それを自分のものとして使うのか、これが試されているのです。
喜びながら、心配をしないことが信仰なのです。「豊かな祝福を一生受けます」と宣言をしてください。

一体、私は誰なんだ? ―― 私は王様の息子、娘であるということをもっと自覚して欲しいです。
以前は奴隷であったけど、今は違うという大胆さです。

嵐が起きていても立ち止まる必要がないです。蹴ったら良いです。
誘惑するものに向かって、いちいち立ち止まって潰れて、元の道に戻ることはサタンに負けることであります。
「下がれ。サタン。お前と私に何の関係があるのか。今の私は以前とは違うぞ」と戦うことであります。

イエス様がしてくださったものを、しっかりと受け止めてください。 (・◇・)ゞ

2013.7.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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