テーマは『 キリストの復活は歴史的事実 』です

【 マルコの福音書8章31節 】

このことは、イエス様が十字架に架かる前、苦しみを受ける前から弟子たちに教えていました。
しかし 弟子たちは意味もわからず聞いていました。

私たちも みことばを“聞いていることは聞いているけど、どういう意味だろう?”と思うことがあります。
特に預言の言葉は難しく、これから(未来に)起こることを語ると、わけがわからないです。
そして私たちが勝手な解釈をしてしまいます。私たちがどれほど霊的無知であるかがわかります。

復活ということは歴史の中でも1つもありません。
ですから、頭で理解をしようとしても理解ができませんでした。「そんなことは有り得ない」という人が多いです。

イエス様の復活はすべての面において証拠が揃っています。復活は事実であります。

当時のユダヤ教には2つの派に分かれていました。
サドカイ派とパリサイ派です。

この2つの派は神様に対しての解釈が違います。

サドカイ派は、大祭司、祭司、そしてその仲間たち、上流階級の人々でした。
彼らは「肉体の復活はない」、「未来の審判もない」、「報いもない」、「御使いの存在もない」と信じていました。
人々の前に出て神様に礼拝を捧げる者・大祭司がそのように信じるのです。

パリサイ派は、保守派でもあり、とにかく律法に熱心でした。しかし形式的で儀式ばかりを行っていました。
律法を守ることが生きがいでした。そして神様の言葉を守っていない者には罪人だと裁き、プライドが高いです。
彼らは復活を信じていました。

イエス様の弟子たちは、直接イエス様から教えられていましたが、復活や生きたまま十字架にかけられることを
聞いても悟れないので信じていませんでした。

しかし 弟子たちは復活したイエス様に出会って初めてわかりました。
復活がどういうものであるのかをハッキリと見たので信じました。それからキリストの復活を伝えるようになりました。

使徒パウロはパリサイ派で、復活を信じていました。しかし実際には信じていなかったです。
弟子たちがパウロに復活のことを語った時に「復活はない」と腹を立て、クリスチャンたちを迫害した者でした。

マリヤ・マルタ・ラザロの3兄弟も、ラザロが死にましたが、みんなが泣いている時にイエス様が来られました。
「よみがえりを信じるのか」とイエス様が語った時に、マルタは「信じます」と言いました。
しかし そう言いながらも、その事実を否定しました。
マリヤは復活する言葉を聞いた時に、それを事実として受け入れました。

多くの人たちは みことばを知識としては信じています。でも実際には信じないです。
牧師や信徒は「癒しを与えてください」と祈りますが、実際に 自分の身に癒しが起こることは信じないです。

これは「知識」と「実際に信じる信仰」は違うものであるからです。

私たちは聖書の言葉をそのまま信じなければならないです。
そして聖書に書かれていることは今も(起こることだと)しっかりと信じなければいけないです。

【 Ⅰコリント15章 】はパウロが書いた「復活の書」であります。

私たちは、復活と聞いてもピンとこないと思います。死んだら天国へ行くことはクリスチャンなら誰もが
信じています。しかしそれは「復活」ではないです。

天国に行くのが復活ではないです
イエス様は復活した時に、別の身体をもって地上に来られ 40日間活動をされました。

今、天国にいる人たちは地上に来て活動することはできないです。それは霊の存在だからです。
しかし復活は 私たちがもう一度、身体を着ることであります。しかしそれは同じ身体ではないです。
時間・空間・病気などに制限を受けないです。私たちは想像ができない身体で復活をするのです。
クリスチャンはそこまで信じなければいけないです。

私たちは復活にあずかるんだという思いがないです。
「死んで天国に行けば良い」と、それだけであります。ある意味ではそれでも良いのですが、
イエス様を復活させた神様は、私たちにもそれを味あわせるのです。

私たちはいつかはわかりませんが、神様が復活の身体を与えてくださり、永遠に主と共に住むのです。
私たちは復活の証人であります。

私たちもその素晴らしい姿に変わるんだという望みをずっと持ってください。

今、私たちは地上で受けている苦しみがありますが、その苦しみもイエス様の十字架の苦難に比べたら
大したことではないです。

私たちは死にますが、私たちより先にイエス様が体験をされました。
ですから、死を恐れる必要はありません。永遠に死に繋がれることがなく、
私たちに必ず 死→復活という素晴らしい奇跡を与えてくださいます。
クリスチャンはそこに希望があります。

人間は自分自身のことを可哀想に思うのですが、イエス様はいつも人を可哀想に思うのです。
不安と恐れの中にいる弟子たちを見て、可哀想に思って「平安があなたがたにあるように」と語りました。

イエス様は私たちを責めない方であります。
しかし私たちは自分を責めても良いのです。なぜなら自分で蒔いたものであるからです。
自分で自分を責めなければ、誰が責めるのでしょうか?
他人から責められたら恨みや憎しみを持つでしょう。
ですから、罪は自分で気付くべきであります。他人から言われて腹を立てるのではなくて、
自分で自身の心を見て、「何という汚い者であるのか」と気付かないと悔い改めができないです。

自分自身を責めている姿を、イエス様が傍でじっと見ながら
「立ち返れ。あなたが自分の罪のために苦しんでいることをわかっている。しかし目を上げてわたしを見なさい。
わたしはあなたを愛して十字架にかかったのだ。だから罪を洗い清めなさい。もう罪を犯すな。」と語ります。

聖書に出て来る罪人たちも、人々が殺そうとしていても、イエス様は「殺したらいけない」と語りました。
愛は強いものです。

【 Ⅰコリント13章 】に出てくるのが本物の愛の姿であります。

クリスチャンはいつもイエス様を見て 心を強くしていき、心をやわらかくし、心に愛を入れておき、
他人を許す心を持って生きる者であります。

イエス様はイースターで完結されました。私たちもイエス様についていくことであります。
中途半端では、よみがえりの祝福を受けることはできないです。

【Ⅰコリント15章】を読んでください。 (´・ω・`)

2013.3.31
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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