テーマは『 砕かれた、悔いた心 』です

【詩篇51編17節】

私たちには色んな痛みがあります。
軽い痛みもあれば、骨が押し砕かれた耐えられない痛みもあります。

砕かれたものから生じる痛み。
自分達の心の中に自分が犯した罪に対してそれくらいの痛みを感じることをここで語ってあります。
心が痛くてどうにもならない状態です。
罪は腐敗したものであります。自分の中に腐敗したものがあることを考えてみてください。

骨が砕かれた時に感じる痛みのように、自分の罪を見て、自分の心でそのように感じることであります。

クリスチャンは教会に来て初めて罪というものに対して、みことばを通して聞きます。
世の中では聞くことができないようなことが聖書に書かれてあります。
罪というものは恐ろしいものなのです。
なぜかというと、罪には必ず神様の怒りが下るからです。

多くの人が罪の奴隷として、「今さえ良ければ」と、目の欲や情欲、その中で皆が生きているので
罪の認識がないです。

この世が全てであるならば、それで(罪が)無になれば良いのですが、そうではないです。
私たちが肉体を脱ぎ捨てる時は、神様の裁きの座の前に立ち、自分たちが無意識に犯していたことまでも
神様が引っ張り出して、それに対して神様の怒りが下ります。

犯罪人が罪を犯している時には、自ら好んで罪を行います。捕まらない限り、何度も繰り返します。
しかし捕まって裁判にかけられて「あなたの罪は終身刑だ。」と一生 刑務所から出られないとわかると
その時に初めて自分が犯した罪の重さに気付き、心が痛くなります。
しかしその時に悔いても既に手遅れです。

この世の刑務所に入らなくても、死んで自分の罪が暴かれて刑罰が下った時には、
いくら胸を叩いて悔い改めても地獄から出られることはないです。

その時に私たちが泣く者になるのではなくて、今 砕かれた心にならなければならないです。

【詩篇38篇1-10節】

罪に気付いて、その前で砕かれた魂になっている姿です。それが神様が喜ぶ姿であります。
私たちは自分たちが犯した罪に対してこのような思いで祈ったことがあるでしょうか?
「私は何という罪人でしょうか」。それが本当に自分の中で起こされている人は、
神様はその人を見捨てることがないです。

【詩篇34篇18節】

他人から受けた傷のために悩みをもって苦しんでいる人は世の中に数えきれないほどいます。
呟きながら誰かを憎んで苦しんでいる人、神様はそういう人達に目を留めるのではないです。
人は、他人からされたことに対しては心に刻んでいつまでも覚えているのですが、
自分が他人にしたことや自分が神様に犯した罪に対しては蓋を閉めて
「そんなことはしていない」と 言います。これは多くの人間の姿です。

心が砕かれた人は、他人を見るのではないです。他人が自分にしたことを見るのではなくて、
自分そのものが罪人であるんだ、と自分の姿を見て悲しみ、苦しむ人であります。

【ローマ7章15-19、24節】

罪は、聖霊様に反抗するものです。そして神様に従わないようにします。
心が砕かれた者というのは、霊的に貧しい者たちであります。
貧しいということは、いつも神様にすがりつく思いで頼ります。

【ヨハネの黙示録2章9節】

【ヨハネの黙示録3章17節】

心砕かれた者たちは自然と謙遜になります。心の高慢な者は感謝をしないです。
神様は日々心を痛めながら、神様の憐みや恵みに感謝をする人に目を留めてくださいます。

【イザヤ書66章2節】

こういう人達を神様は喜んで天の御国に入れてくださいます。
私たちは神様の恵みや救いを軽く考えてはいけないです。もしも軽く考えるならば怒りが後で来ます。
罪に気付くこと、そして心を砕くということは、自分が生きる道なのです。

クリスチャンは恵みのことを考える時に、自分の罪がどれほど重たいのかを考えるべきであります。
罪がない人のような顔をして平気に生きるのは、まだ自分の罪の姿を見ていないことです。
他人のことを非難しながら、自分の中に汚れや腐敗している姿に気付いていないです。
これでは十字架をまともに見る事もできないです。

神様は心砕かれた者に目を留めることをしっかりと覚えてください。
毎日、自分の心を打ち砕くことが魂を聖く守っていく方法であり、神様が共に歩んでくださいます。 (´;ω;`)

2013.1.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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