テーマは『信者と苦難の問題』です

【ヨハネ16章33節】

信者と苦難の問題は、誰にでもあることです。人間は生まれながら苦難は付き物です。
どの家庭、どの環境に生まれていてもあります。

イエス様が教える苦難の中で、私たちが必ず勝たなければならない苦難がありますし、
そのまま受け入れて忍耐していかなければならない苦難もあります。

しかし、私たちが実際に受けている苦難を見ると、受けなくていい苦難を自ら蒔いて
苦しみの中にいる人がほとんどです。90%以上がそれに当たります。


― 受けなくていい苦難 ――――――――――――――

①罪からくる苦難

自分が犯した罪のために、自分が苦しみを受ける苦難です。
すべての人間は罪人ですので、私たちには罪の性質がたっぷりあります。
良い方よりは、大人になると悪い方に傾いていきます。
罪を犯したからと言って、すぐに刈り取ることはそんなにないですが、
しばらくすると、それによって自分に災難がふりかかることが すごくあります。

クリスチャンは、この苦難はどこから来たのか?
「あの人から来た」ではないです。根本的にどこから来たのかというと【罪】から来ました。

【イザヤ59章1-13節】(みなさんは イザヤ書59章を読んでください)

これを止めない限り、いくら叫んでいても 仕切りになっています。
ですから光が届きません。声も届きません。
神様は光であります。自分たちの罪が、光が入らないように 仕切りを作ると
いくら私たちが神様に求めても、どんなに祈りを積んでも何も起こりません。

この苦難を乗り越えるにはどうしたら良いのでしょうか―――?
十字架の前に出てこなければならないです。
イエス様は私たちの罪を背負って十字架に架かって死んでくださいました。
十字架の前に来て悔い改めて、自分の罪を洗わない限り、いくら「この苦しみから私を救ってください」と
祈っても聞かれることはなく、悔い改めた時に まるで扉が開かれるように消え去っていきます。
そして光が届き、神様の救いが届きます。

自分の罪、家族の罪から出てくる苦難が一番多いです。
自分たちの罪を(自分で)知っています。知っているのですが立ち返りません。
ですからいつまで経っても苦難は消えることがありません。

自分の心に苦しみがたくさんあり、喜びがない、平安がないなら、暗闇の道にいるのです。
十字架の下に返り、イエス様に悔い改めて自分の罪を捨てて、
イエス様の血を求めて洗い聖められた時にその苦難が消えていきます。

②病気

「これは神様のみこころです。」と言う人がいますが、とんでもないです。
みこころであるなら、なぜイエス様は病気を癒したのでしょうか。

【イザヤ書53章4-5節】

イエス様の打ち傷によって癒されたと言っています。
ですから、病気になるのは神様のみこころではないです。
癒され、病気にならないのが、神様のみこころであります。

【詩篇103篇3節】、【Ⅰペテロ2章24節】

罪から来る苦難はいらないものであります。受けてはならない苦難です。
病気で絶望するのではなく、イエス様に癒してくださいと、イエス様に触れることであります。

【申命記28章】

罪から病気になります。私たちは罪から離れることによって変わることが多いです。
ただ「癒してください」ではなく、私たちのガン細胞【罪】というものを
自分の中に留めておくと腐っていきます。そこから病気が出てきます。

病気になった時に私たちが、まず すべき事は悔い改めることであります。

③経済的な貧困

全世界を見ると、この経済的貧困によって苦しみを受けている人がとても多いです。
ですが、クリスチャンが経済的貧困になるのは、みこころではないです。

【Ⅱコリント8章9節】

日本の牧師は貧困意識が強いです。
貧しさが美徳と言っていますが、それは聖書を知らない牧師の姿であります。
敬虔に生きることは問題がないですが、
まるで貧しい生活をするのが敬虔な者であるかのように認識しているのは聖書を知らない者です。

(聖書箇所は)貧しさの中でも献金を捧げた人に対して神様が与えた祝福であります。

神様に捧げることがもったいないというのは信仰でも何ものでもありません。
ますます貧困になっていきます。
天国の銀行に積んでいくと、30倍、60倍、100倍の利子がつきます。
神様に投資をします。それは破たんすることもなく、倒産することもないです。
利子が返ってこないこともなく、元金が無くなることもないです。

献金をケチってみてください。他のことでお金が出ていきます。

神様を信じるので貧困意識がないです。
クリスチャンは世の中の人とは違い、神様の中でその祝福を 私たちが神様の法則で正しく使うならば、
貧困になることはないです。持っていなくても豊かであります。

④失敗の苦難

マイナス思考で否定的な思いで満たされてありますので、何をしても失敗をします。
なぜなら その人の口は「何をしても上手くいかない」と言っているからです。
「 私にはできない 」 「 無理 」これは全て失敗意識であります。

【ローマ8章28節】

勝利の意識を持っている人だけが勝利します。
感謝は良い事が起きた時だけが、感謝ではないです。


― 受けなければならない苦難 ―――――――――――

⑤神様のために、福音のために受ける苦難

これはイエス様が与える苦難であります。
神様にひたすら頼りながら忍耐することであります。

使徒パウロはイエス様に出会うまでは全てが順調でした。
しかし、パウロがイエス様に出会ってからは苦難の扉が開かれてしまいました。
「この苦難は救い出してくださいと言うような苦難ではなく、自分の罪からきたのではない。
これは福音のために自分が背負わなければならない苦難であります。」
その苦難を受けながら魂を導かなければならない苦難です。

【Ⅱコリント1章4-5節】

これは、そこから「救い出す」のではなく 慰めであります。
イエス様もその苦難の道を通ったことと、全世界の人々を救うために
わたしもその十字架の苦難と人々からの迫害、そこから来るあらゆるものを わたしは黙って受けたから、
あなたも私の足跡に ついて来なさい。
ですから、イエス様を見ると慰めが来ます。

北朝鮮ではクリスチャンがどれほどの迫害を受けているでしょう。(※下記、詳細へ)
踏まれ、焼き殺されても誰1人、イエス様を否む人はいません。
彼らは皆、その中で黙って重労働をしていました。踏まれる度に「主よー!!」と叫び
彼らのような苦難を受けている人は、ここでは誰もいないです。
このような苦難を受けている人はいないので、今 私たちが受けている苦難は受ける必要がないもの、
自分から出てきた苦難であります。

「何で私がこんなに苦難を受けているんですか?」と神様に言える立場ではないです。
私たちが悔い改めて立ち返るならば、その苦難は祝福に変わっていきます。

【ヨハネの黙示録2章10節】

終わりの時代に艱難があるということは、信仰が試されるということであります。
死んでも良いので苦しみを受けて忠実でありなさい。と、そのような人だけが命の冠を受けます。
神様ご自身が「誰が信仰を持っているのか、信仰を持っていないのか」とジッと見ています。

信仰が不合格な人には、神様は何も言いません。「あなたの信仰はそれしかなかったのか。」
ですが、苦しみの中で耐えて信仰を守る人は、神様は大喜びであります。
全てのクリスチャンではないです。ヤギとヒツジに分けます。これは試してみないとわからないです。

クリスチャンは苦難に対して否定的な思いを持ってはいけないです。
苦難が来た時に自分を振り返ってみるべきです。私が間違った生き方をしたのか――?
私の中にまだ罪があるのか?どの罪がこの苦難をもたらしたのか?
私に感謝が足りなかったのか?神様が願うように私は生きたのか?全然違う道を生きたのか?

このように自分を調べる時間にしたら良いです。

ただ単に「助けてください」ではなく、原因を知らなければいけないです。
そうしないと、その問題が解決されないことであります。

悔い改めることは霊的に目が覚めることです。
口では「神様」と言いますが、神様を本気で求めなかった人が、
ひどい苦難が来た時に初めて本気で求めて従順する人もたくさんいます。
そういう面から見ると、苦難は悪いということではないです。

苦難の圧迫の中で強くなることが多いです。苦難の中で免疫ができます。
同情する者になり、愛のなかった者が愛のある者に変わり、
憐みの心がなかった者が自分の苦しみを通して憐みを知る者になります。その中で人格が変わっていきます。
苦難の中で感謝しなさい。それまで受けたものがどれほど感謝なことだったのか。

【ヨハネの黙示録2章9節】

信徒の姿です。外側から見ると乏しく見えても、彼らの内側には祝福がいっぱい詰まっています。

【ヨハネの黙示録3章17節】

全く逆の姿です。この2つの姿は、自分たちがよく学ぶべきことであります。
私の姿はどうなんだ、と。この苦難は何だ、と。

苦しみの中で変わってください。苦しみの中で自分自身のことをもう一度振り返ってください。
感謝を生み出し、悔い改めると自分の自我が砕かれます。 
謙遜な者は神様に頼る者、そうなると皆さんからいらない苦難が去っていきます。


北朝鮮のクリスチャンに対しての現状です。

北朝鮮ではクリスチャンの迫害が強くあります。
いわゆる“将軍様”を信じない者には、想像を遥かに超えた拷問があります。
これは、北朝鮮から韓国へ脱北した人が、
世界中の人々に伝えたいということでネット上に情報を公開したそうです。
情報を載せた人は、クリスチャンではなく共産党関係の人です。

突然、政治犯収容所での勤務を命じられ、その人は暗い場所へ連れていかれました。
――そこには溶鉱炉がありました。
そして、そこにはクリスチャン達が働かされていました。
ほとんど寝かされず、そして食べ物もほとんど与えられていないので、
その姿は骸骨のようにお腹と背中の部分がくっついていました。
正常な皮膚がどこにもない状態でした。

その人は、遠くから彼らを見ると黒い服を着ているように見えましたが、
少し近くに寄ると1枚の黒い前掛けをした格好でした。
動物以下の扱いを受けて、牛革でできたムチを何度も受けていました。
何度も踏みつけられて、うめき声をあげていました。

『見えない神を捨てて、将軍様を信じろ!』と怒鳴ってムチを打っても、彼らは無言を貫きました。
さらに『勝負だ!』と言って、溶鉱炉へ向かって走り 燃え盛る鉄をバケツに汲んで、彼らにかけました。
彼らは一瞬のうちに炭のような姿になり命を落しました。

その人は、その後 収容所での勤務を離れることができ、韓国へ脱北しました。
目を閉じると、一瞬で炭のようになった姿が浮かぶので恐ろしくて目を閉じることができませんでした。

愛する兄弟姉妹が実際に遭っている現状を知り、その人達のことを祈ることが私たちに出来ることです。

2012.9.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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