テーマは『自分の心を聖くする』です

【マタイ5章8節】

神様は肉眼では見ることができない方です。神様は霊であります。
人々は「(神様を)見たら信じます」というのがとても多いですが、その人達の心は
信じたい心で見るのではないです。それは自分の心を満足させたいだけです。

しかし、信仰は「見ずに信じるもの」です。これは定義であります。
肉の目で見たいと思っている人は、死ぬまで神様を信じることができないです。
これは心を閉ざして、自分を信じる者の姿であります。

イエス様は「見ずに信じる者は本物だ」と語ってあります。
この人達は神様の言葉を握っている人です。

人は外側(上辺)だけを見るものです。
そして自分自身も外側は良く見せたい。そして他人を見る時も、上辺だけを見ます。
その心の内もわかっていないのに上辺だけを見て「あぁだ、こうだ」と他人を評価します。
人間の姿はいつもそうです。
その人がどういう動機や目的でそうするのか、何もわかっていないのに勝手な想像をします。

しかし神様は「違う」と語りました。神様は心を見る方であります。
人が視覚的なもので評価をすることに対して否定をしています。

心が聖いということはどういうことでしょうか?
それは、内側が純潔であるということです。混じり気のない純潔さです。

パリサイ人、律法学者、聖書を研究する者たちは外側から見えるものに ものすごく重点を置きました。
一生懸命、律法を形式的に守りました。そしてイエス様や十二弟子たちを徹底的に非難しました。
パウロも以前はパリサイ人でしたので律法的に義とされるものを徹底的に守りました。
什一献金、施し、その他、律法が命じたものは全てやりました。
彼らの姿は人々から敬虔な者に映っていました。これが彼らにとって自慢でした。

【ルカ18章10-12節】

行っている行動自体は間違えていないです。自分が行ったことに対して酔っています。
「私は正しい、私は神様の前で非難されることはない」と自慢しています。
そして「自分はあの人(取税人)のようではないんだ」と言うのは、高慢・高ぶりであります。

【ルカ18章13節】

彼は自分の心を見ている者であります。
自分の心が汚れていること、心だけではなく外側も汚れているので彼は叫び、主に憐みを求めました。
自分の義がないです。

ここでイエス様が語った言葉は【ルカ18章14節】です。

【箴言16章2節】

主は人の心を見るということであります。主は人の心にとても関心があります。
もちろん私たちの行いも見ています。
人は人を騙します。良い行いを見せて、自分達の中の汚れたものを見せないので、
周りの人は騙されます。それを神様は偽善者と語ります。

【マタイ23章25-28節】

イエス様は公の場で暴きました。この人達はイエス様のあら探しに来ていました。とても目つきが悪いです。
人は目を見るとわかります。
私たちは背中には目が付いていませんが、誰かが自分を見ていることに目線を感じる時があります。
優しい目で見られているのはそんなに感じませんが、
嫌な目線には後ろを振り向かなくてもその目線を感じることがあります。
皆さんも「あの人が私を見ているんだ。
それもあら探しをする為に、非難する為に、何かを探る為に」というのを感じたことがあると思います。

パリサイ人がイエス様に対する妬みと高慢な心で、イエス様が神様の働きを潰すために
彼らは自分が義人のようにして潰そうとしました。

【マタイ23章33節】

イエス様の止めの言葉であります。
教会の中で、地獄へ行く者が多いということです。自分が一番神様を信じる者だと誇っていた者であります。
汚れた心では神を見ることはできないです。汚れた心で見るものはサタンであります。

このマタイ23章のみことばは私たちに対する警告の言葉です。

【マタイ5章-7章】

イエス様が要求する義が書かれてあります。
「兄弟姉妹を愛します。」と言って、心の中では憎むならば、誰がそれを受け入れるでしょう。
だから心から聖くしなさいと語ってあります。

私たちは心が汚れて悪い思いがたくさんあると、反対に外側を綺麗に見せようとします。
偽善者を装います。
なぜなら外側の汚れた姿を見せると人々から嫌われるので、心の中で隠しておこうとますます外側に
力を入れていきます。 しかし、神様は「無駄な抵抗はするな」であります。

【ヨハネ15章3節】

心を純潔にする段階があります。自分の力では出来ることではないです。
ただ、言葉を聞いたから自分達が聖くなったのではないです。
神の言葉には「聖める力」があると語ってあります。そして真理の言葉によって聖めてくださいと
イエス様が祈ってくださいました。
それはみことばを聞いている者たちが、権威ある神様からの言葉として聞き、その言葉をもって
自分の中に使わなければならないです。

 

【へブル4章12節】

みことばを聞いたならば、両刃の鋭い剣にし、自分を変えなければならないことであります。
両刃を自分に向けるならば、それによって自分の益になります。

自分にではなく、他人に向けるならば、どうなりますか?
裁く姿を神様が見て、同じく裁かれるようになります。
「汚いあなたが、誰のことを裁いているのか?あなた自身がまず聖くなりなさい。」

パウロが「いつも聖いことを考えなさい。」と語りました。
私たちが汚いことを考えるならば、ますます心が汚くなります。
「自分の心が聖くなることを強く求めなさい。」

誰でも他人を羨ましいなぁと思う気持ちはあります。妬みの心も出てきます。
でもそれは「良くないことだ」と止めてみてください。
誰かを妬むと、その人に対する妬みの心がどんどん どんどん大きくなって潰したくなる心が出てきます。
そしてあら探しをして、その人を非難します。
これは自分の首を絞めることと同じであります。

他人が受ける祝福もあれば、自分が受ける祝福もあります。
神様は私たちに正しい心があれば祝福してくださいます。

そして私たちの心はいつもイエス様の十字架を握らないといけないです。
日々、自分の汚れが目に見えてきます。十字架の前でイエス様に罪を赦してくださいと
悔い改めるなら、神様は祈りを聞いてくださいます。
本当に聖くされた人は、悔い改めの実を結びます。

【Ⅱテモテ2章21-26節】

神様の言葉を聞いて、自分はどんな者であるのか調べて、神様から尊いことに用いられる器なのか、
それともサタンの手に遣わされる滅びの器なのかを自分で知らなければならないです。

22節の、自分が誰と一緒にいるのかが大切なことであります。
高慢・高ぶる者と一緒にいるなら、自分も同じ者であります。そこで何を学びますか?高慢な者になるだけです。
不平不満を言う者と一緒にいるなら、自分もそのようになります。イスラエルの民たちがそうでした。

私たちは人を見る時に、その人に聖い心があるのかを見てください。外側ではないです。
その人がどういう思いでそれをしているのか、私たちはキャッチしなければならないです。
そして心の動機が悪いならば、その人と一緒に居てはいけないです。言葉を聞いてはダメです。
聖い心で主を呼び求める人たちと共に追い求めなさいということであります。

23節が指すことばは、知恵ではないです。
「これは正しいと思います」と自分から出た知識、みことばには無いもの、間違った解釈、
それは安易であります。
愚かで無知であるから、自分がサタンに遣わされていることに気付いていないです。
これは誰でもなることであります。「私はそうはならない。」これは違います。

一番強い戦いは、自分自身との戦いです。
24時間自分の魂を見張って油断せず、腹が立つことがあっても自分は何をやっているんだろうと気付き、
イエス様を見て助けてくださいと必死になって自分の心を守ることです。

そして他人が流す悪いものは受け取ってはいけないです。同じ者になります。
自分自身がサタンに遣わされた者にならないように、真理の上に立つことです。
他人を見ている暇がないです。自分の泉を守るのに精一杯で大変なのに、
他人を見て自分が裁き主でもないのに裁くのは、神様が「そんなに心が汚れてどうする?」と心配をしています。 本当に気を付けてください。

他人を見て、「あの人が気を付けなければならない」ではなく、「自分が気を付けなければならない」です。
私たちが目覚めて悔い改め、主に立ち返ること、尊い器になること。そうすると神にとっても、
人にとっても有益ものになります。
私たちは共にみことばを聞いて従順していきましょう。 ( -д-)ノ

<今週の目標>

心の聖い者になる。
悔い改めて、みことばを読み自分の姿と見比べると心が透き通ったものになる。

2012.6.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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