テーマは『キリストの苦難の特徴』です。

【イザヤ53章1-9節】

イザヤ書53章はイエス様に対する預言であります。人間として苦難を受けている姿です。
4月8日はイースター(復活日)です。
復活があるということは、その前に人間としての苦難とイエス様の十字架の死があります。

人間としてイエスキリストがどのような苦難を受けたのか学んでいきます。

― ①人間としての苦難 ―

イエス様はさげすまれた人生を送りました。 1ー4節まで苦しみ、苦しみ、苦しみ・・・
人間として受けた苦しみがずっと書かれてあります。
イエス様が生まれた時の姿もそうでした。産婦人科で産まれたわけでもなく、自宅でもなく、場所もなく、
馬小屋の暗闇の中でイエス様は産まれました。小さい時もずっと貧しい生活をしていました。
人間として生まれてあらゆる苦難を受けました。

この地上で贅沢な生活をするために、幸せに生きるために、イエス様が来たのではありません。
イエス様が人間の姿で生きるということが預言されています。
人は産まれてその人生が幸せになることを願っていますが、不幸な人生だと「自分は何の為に生まれたのか?」と
自分を責めたり、周りを責めたりします。

幸せになるのが当たり前だという思いがあります。
しかしイエス様は産まれる700年前からイザヤ書に書かれてありました。
人間としてすごく苦難が多いということが預言されていました。

誰よりもイエス様は人間としての苦難が多かったです。
人間が感じる悲しみ、辛さ、苦しみ、寂しさ、全てを体験しました。
私たちと同じ身体を持って、生まれてずっと命を狙われていました。
宗教の指導者達も常にイエス様の命を狙っていました。

人間としての苦難の姿がここにありますが、イエス様ご自身の為ではなく、私たちの為でした。

【ヘブル4章14-16節】

人間としての苦難を受けていないならば、人間にできないことがあります。
イエス様が苦しみを受けましたので、人間がいちいち語らなくても、イエス様は感じます。
悲しんでいる人を見ると、イエス様は人間の弱さがわかるので同情します。
人間の肉体が弱いことも知っておられますので、イエス様は同情をしました。

イエス様ご自身も弱さを持っておられましたので、私たちを生かし、受け入れ、憐れんで助けてくださいます。
そして恵みを与えてくださいます。

もし(天には)神様だけで、イエス様が地上におられなかったら、私たちが地上で「苦しいです~!
イエス様助けてください!」と叫んでも 「何が苦しいんだ?」と、多分同情できないと思います。
その立場に立っていないからです。
イエス様は神様と同じ方でありますから、それは父なる神様が痛みをこらえながらイエス様を人間として送ったことを意味します。

神様が「行って、苦労してきなさい。もっと人間が持ってる弱さを体験し、苦しみを体験して、
彼らの為に働きなさい。」とおっしゃったので、イエス様が来てくださいました。

憐れみを受けるのはイエス様が体験したから私たちが受けるのです。
何もしていない者に恵みを与えるのは、体験したから助けたのです。その人達を助けて導きたいです。
イエス様が人間としての苦難を受けたからで、自分が何か間違えた事をしたのではなく、
怠け者だから苦難を受けたのではないです。努力していないから苦難を受けたのではなくて、
それも私たちの弱さを同情して憐れみをもって助けるために、イエス様自らがその苦難を受けました。

【マタイ27章39ー44節】

イエス様が人間として苦難を受けた姿が出ています。
十字架で苦しんでいる上、周りの者達はさらに罵りました。
私たちがイエス様の立場に立ったとしたらどうでしょうか?
苦しいのに、人々がそれを見て可哀想にと誰も思わないです。
イエス様に従った人達は助けたい思いはありましたが、それ以外のほとんどの人達は罵っていました。
こんな苦しみは耐えられないと思います。死ぬ直前まで人間としての苦難を受けていました。
有り得ないことですが、実際にあったことです。

私たちは苦しみに遭うとすぐに逃げようとします。だから多くの人達が命を絶っています。
3月になると特に自殺する人が多いです。経済、病気、問題などで苦しいことがあると絶ってしまいます。

もし自分が苦しい立場に立っているならば、このイエス様の姿を思い出すべきです。
十字架の上で鞭打たれて身体が全て割かれて痛いのに、そこに更に人々は追い打ちをかけます。
罵られてもイエス様は静かにしていました。

イエス様は他人を見て「(自身の人生を)こんな人生」と言ったことはありませんでした。
初めからその苦難を受け入れました。

ー②人間のための苦難ー

【イザヤ53章5-6節】

意味のない苦難ではないです。意味のある苦難であります。
罪のないイエス様が、罪人たちの罪を贖うために苦難を受けました。

【Ⅰペテロ2章24節】

【Ⅰペテロ3章18節】

すごく尊い目的を持ってイエス様は来られ、その目的通りに苦難を受けました。
それは受けなければならない苦難でした。
悪い人々の身代わり、悪い者たちの代わりにイエス様が全部罪を背負って死なないと贖いの道が
開かれなかったです。そのためにイエス様は十字架という苦難を受けないといけなかったのです。
罪人達が死ぬべきところを代わりにイエス様が(十字架に)架かって死にました。
これは目的があってなされたことであります。

それによって私たちが受けた祝福が2つあります。

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①神の敵として生きていた私たちが、神様との関係回復が行われたこと。
エペソに「隔ての壁が イエス様の十字架によって壊れ、神の敵だった者たちが和解して神様の家族になる。」
しかし、神の敵として生きている人が多いです。
それを信じて受け入れた人達には、その祝福がそのまま流れます。

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②死の病気から解放され、そして霊肉とも神様が強くしてくださる祝福が与えられました。
私たちの霊が癒されたことを意味します。
ただ「病気が癒されました。」ではないです。
「死にました。」しかし、イエス様の血潮がそこに流れていくときに死人が生き返る祝福が与えられてあります。
私たちは霊的死んだ者は、人間に死にます。

しかし霊が生かされることによって永遠の命の中で力強く働きます。

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ー③人間による苦難ー

【イザヤ53章7-9節】

サタンが現れて苦しみを与えたのではないです。人々がそうしました。
祭司たちが、民たちが、ローマの兵士たちがそれをしました。

【マタイ27章27-31節】

人間がイエス様に苦しみを与える姿が出ています。
想像してみましょう。イエス様の立場を自分たちの立場だと思ってください。

~ イエス様の周りに隊が集まったのは何人だと思いますか? ~
100人です。そこに百人隊長がいたからです。
100人の男の人達が集まった中に、イエス様が1人でした。
彼らはからかい、面白がってすることでありました。100人の前で侮辱を受けました。
つばきをかけました。犬に対してもつばきはかけないと思います。
これを人間にするということは最も軽蔑することであります。

こんな侮辱、耐えられますか?私たちならば早く死にたいと思います。こんなに恥ずかしいことはないです。

これで解放されたわけではなく、さらに十字架にかけられました。
誰が耐えられますか?それをイエス様は人間から苦難を受けました。

しかし復活されました。
今もイエス様は生きておられます。私たちはイエス様に対してどうしているでしょうか?
イエス様が今も死人であるならば、私たちが何をしても感じないと思います。

再臨なんて有り得ないとか、イエス様は死んでいるから聞いているはずがないとか
イエス様に対して悪を働く者たちがその時になって驚くことになります。

自分達がイエス様の前で行っている姿が、こういう兵士たちがやっている姿なのか?
私たちの口から出る言葉がイエス様に対するからかう言葉でしょうか?軽蔑する言葉でしょうか?
時には、罵る言葉でしょうか?直接「呪います」とは言わなくても、「あんたなんか信じたくもない」と。

自分が感情的になって主の前に語る言葉は、すごく恐ろしい言葉であります。

【ヘブル4章13節】

神の前に立つ日が来ます。
≪あなたは私に何をしたんだ?≫ 私たちがどんなに隠そうとしても隠せないことであります。
その時になって恥をかきます。隠したくても、神の目にはそれは不可能であります。

今の私たちの行動が、イエス様が十字架にかかる前の人々の行動と似ている行動をするならば、
私たちはその仲間であります。
つばきをかけなくても、私たちの口から出る言葉がつばきをかけることと同じであります。

苦難の後に蘇ったイエス様は今も私たちの全てを見ておられます。

イエス様の前で私たちはまず何をしたら良いでしょうか?
「あの苦難は私のための苦難であったんだ。私の罪のため。
イエス様が人間の姿で来なければならなかったのも、イエス様が討たれたのも、私の罪のため。
そして私がイエス様にも十字架を知る前にそういう風にイエス様をからかった者であった。
イエス様を罵った者であった。」

以前はそうでありました。今はそうであってはいけないです。
今はその主に対して心を開いて受け入れて感謝して、それからみことばに従順する人。
これなら私たちは問題ないと思います。

イエス様が願うのは、それであります。 ≪ 私の前で生きる者になりなさい。≫

イエス様が来られた時も、神の前でも主を喜ぶ姿で生きるならば、私たちは恥をかかずに済むと思います。
その姿で生きる者になりましょう。

2012.3.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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