からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2017年01月

大胆さが必要

テーマは 『 大胆さが必要 』 です

【申命記31章6-8節】

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目で彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。

主ご自身があなたの前に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

モーセが民に対して、そしてヨシュアに対して、なぜ同じことばをもって励ましたでしょうか?


それは、これからカナンの地を征服しないといけない大きな戦いが 目前に迫っていたからでした。

戦う相手には 高い城壁、訓練された勇士たち、様々な武器がありますが、荒野を40年間通って来た自分たちには 武器も訓練された勇士も戦いの経験もまったくないので、どうしたら良いか分からず、当然民たちには不安と恐れがいっぱいでした。


戦う前から敗北感を味わっていたと思いますし、無気力状態だったと思います。


しかし神の約束を信じ、荒野で40年間 神の守りを見てきたモーセですので、自分がいなくても神ご自身が イスラエルの民を約束の地に必ず入れて下さると信じていたので、自分の後継者として これから指導者になるヨシュアと共に 戦いに参加する民を励ましました。


「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。」

このことばは、終わりの時代を生きている私たちに、今 もっとも必要な言葉だと思います。

なぜなら 主を信じている者にとって、これからの時代は患難の時代になるからです。


信じない人たちは世の流れに従い、それに合わせて生きるので、そんなに大変とは言えないです。


しかし神のみこころのままに生きようとする者には、それに逆らわなければならないことが多くなるので、戦わないと信仰を捨てるしかありません。


信仰を捨てることは、永遠のいのちを失うことですが、それでも現実の患難に勇敢に戦うことが出来ず 目先のことで恐れが入り、クリスチャンとして生きていくことをやめてしまいます。

これから ますます戦いが激しくなることは預言されてあります。


そして、その戦いは霊的戦いではなく、実際の戦いになるからです。


祈りの中で「サタンよ。イエスの御名によって出て行け。」は誰でも言えます。

別に怖いことも不安になることもありません。


しかし実際の戦いは、そんなものではなく “実戦” です。

現実の戦いで勝利することは 簡単なことではないです。


私たちがこれから直面する戦いが、どのような戦いになるのかを聖書と歴史を通して なぜ “大胆さ” が私たちに必要であるかが分かります。


信仰だけでは戦いに勝利できないです。

大胆さがないと、信仰があっても 負ける戦いがたくさんあります。


現実の中でどのような戦いがあるのかを学びます。




世の権力、すなわち政治的圧力との戦い




これはイエス様も バプテスマのヨハネも 聖書に出てくる多くの預言者も そして迫害を受けた信徒たちも経験しました。


神に逆らう法律を作って、クリスチャンを攻撃しました。

クリスチャンから信仰を奪うためでした。


従わない人は 殺されたり、迫害を受けました。


大胆な預言者や信仰ある人たちは見て見ぬふりをせず、不正と不義に対して大胆に抗議したため迫害を受けたり殉教したり、預言者たちは殺されました。


アメリカでもオバマ政権の時に、キリスト教に対して圧力をかける法律を作って物言えぬようにしました。


アメリカのクリスチャンたちは それに対して沈黙しました。

大胆に戦ったこともなく、とても無力でしたので、神が忌み嫌う法律が次々と決まってしまいました。

クリスチャンたちの負けでした。

それは政治的圧力との戦いに失敗したことになります。


その時に 大胆にそれに向かって立ち上がったのが 今のトランプ大統領でした。


彼にある最高の賜物は “大胆さ” です。

1人で不正な権力に立ち向かいました。




軍事的脅威との戦い




ダビデとゴリヤテの戦いがありました。


ペリシテ人の陣営から 並外れた体と戦いに強いゴリヤテが出て、イスラエル陣営に向かって脅しの言葉を掛けただけで イスラエルの民は意気消沈し、非常に恐れて誰も戦いに出なくなりました。

このままならば 完全にイスラエルの負けでした。


しかし、たまたま そこにいた兄たちに会いに来ていたダビデが まったく恐れず、大胆にゴリヤテに向かって叫びました。


【第1サムエル記17章45、47、46節】

おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

この戦いは主の戦いだ。

主はおまえを私の手に渡される。

そして1人で立ち向かいました。


結果はどうなりましたか?
殺されましたか?


その戦いの結果は、ダビデの勝利でした。

ダビデに力があったのではなく、彼の大胆な行動に 神が働き、彼のことば通りの結果をもたらして下さいました。


そのことで司令官に任命されたダビデは、それからのすべての戦いに いつも神に頼って大胆に戦ったので一度も負けたことがありませんでした。




軍事力脅威による戦い




まさに いま世界の多くの国々は軍事力の強い大国を目指しています。


代表的な国は、ロシアと中国と北朝鮮です。

周りの国や世界を不安にさせます。


軍事大国だからということで、戦争にいつも勝つでしょうか?

歴史を見ると、そうでもありません。


劣勢だったのに 神に祈って大胆に行動したことで勝利した実際の戦いは 歴史の中にも色々あります。

世界のあちらこちらで さらに戦争や内戦が起こります。


聖書にそのことも預言されてありますので、驚くことでもないです。




宗教弾圧による戦い




イエス様に対して敵意を持って殺したのも 当時の宗教指導者たちでした。


ローマ時代にあったクリスチャン対する大量虐殺、日本でも同じことがありました。

今もイスラム世界、北朝鮮で弾圧を受けるクリスチャンも多いです。


そして聖書の預言にもあるように 主の再臨の前に、反キリストが現れ、世界的に激しいキリスト教徒に対する迫害が起こります。


その迫害に耐えられず、信仰を捨てる者が大勢出てくると言われました。

しかし、その中でも最後まで耐え忍ぶ者が救われます。


主の弟子ペテロが “いのちを捨てても主に従う” と言った後に、何時間も立たないうちに主を知らないと三度も言ったことを見ても、人間は本当に弱い者です。


信仰が強い者でも、迫害に耐えることは大変です。


その時は殉教する覚悟が出来た人が 大胆に戦うことが出来、信仰を守ることが出来ます。


それ以外は無理です。




悪口、誹謗、中傷など人から受ける多くの攻撃や経済的攻撃




その時、つまずいたり、疑いや不安や恐れで心が折れて戦うことが出来ず、敗北してしまう人も多いです。

信仰を捨て、イエス様から離れる人も多いです。

そうなると 救いも永遠の命も失ってしまいます。


私たちが戦いに勝利して信仰を守るためには 人や環境を恐れず、また死をも恐れない大胆さが必要です。

それなしには恐れに負けて 勝利出来ないです。


「死ななければならないならば死ぬ。」という覚悟があると大胆になります。




大胆になるために役立つ方法




① モーセが話したことばに、その方法があります。


「あなたの神、主ご自身があなたと共に進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」


主が共におられることへの確信が 私たちを安心させ、大胆にさせます。


ヨシュアもダビデも その確信で大胆に戦い勝利しました。

主は力があり、味方になって下さいますし、約束に対して真実な方です。そして戦いに強い方です。


② すべての主権者である神を一番恐れることで、他のものへの恐れが消えて大胆になります。


【マタイの福音書10章28節】

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

人を恐れるとわなに陥ります。


③ 神の言葉の上に堅く立つ時に大胆になれます。


みことばは 力を与え、希望を与え、慰めを与えます。


そして、みことばを守る者には 神の助けと守りがあります。


【第2コリント4章16-18節】

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

④ 自分の弱さを知って神に頼り 大胆さを祈り求めることです。


パウロは自分の弱さを知り、自分が祈るのはもちろん、他の人々にも自分が大胆に福音を伝えることが出来るように 祈りの要請をいつもしていました。


神様にいつも大胆になれるように祈り求めることが必要です。

祈りの備えが いざという時に力になります。


⑤ 聖書に出てくる人物が、戦いや攻撃を受けた時に どのように戦ったのかを、しっかり学ぶことで その大胆さの秘訣も学べます。


攻撃や患難に人間的な方法で戦うのではなく、勝利した人たちからやり方を学び、その通りにやってみることも一つの方法です。

このようにして、普段から大胆さを身に着けるように訓練していかないと、すぐに恐れが入ってそれに負けてしまいます。


パウロは次のように言いました。


「私は私を強くして下さる方によってどんなことでもできるのです。」
大胆な宣言です。


そしてその通りに彼は激しい迫害の中でも福音を伝え、自分の使命を果たし、殉教しました。

殉教は負けたことではなく、いのちを懸けて信仰を守り通した証です。


目まぐるしく変わる世の中で、それに流されず神のみこころを行いながら生きるためには、たくさんの戦いに大胆に取り組まないといけないです。

目を覚まして神から力を受けて勝利していきましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2017.1.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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十字架につけながら生きる

テーマは 『 十字架につけながら生きる 』 です

ハレルヤ。

主の平安と恵みがありますように。


新約時代で、信徒たちが一番模範にして見習うべき人は 使徒パウロです。


新約聖書の多くの部分は使徒パウロが書きました。

聖霊が書くようにパウロを用いて下さいました。


キリストに出会って劇的に人生が変わった人です。

出会った瞬間から一直線にキリストを目指して走り続けた人でした。


主に対する愛はあまりにも熱く、その心はイエス様で満たされていましたし、自分の全人生を惜しまずに主にささげました。


彼ほど 主に救われたことに対して、価値を知る人はいないと思います。

私たちは あまりにもその価値に気付いていないですね。


【ルカの福音書9章25節】

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

全世界どころか、わずかなものに 自分のたましいを売る者が実に多いです。


クリスチャンは “救いの値打ち” が全世界よりも “上” であることを知らないといけないです。


パウロは主に出会って初めて自分が何者であるのかに気付きました。

それまでは自分を立派な者だと思っていました。


また、罪のない正しい者と思っていましたし、まともな者だと思っていました。

自己評価が高い者でした。


しかし主に出会って初めて “真の自分の姿” を見ることが出来ました。

そして びっくりしました。

とんでもない姿が そこにありました。


「私は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。私は罪人のかしらでした。(第1テモテ1章13節、15節)」

これがパウロの告白でした。


その後、彼の人生はどのように変わったでしょうか。

まず、パウロがしたことがありました。


【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

古い人を十字架につけました。

そして彼は その十字架を負いました。


“十字架を負う” ということは、情欲、欲望、貪欲、不義、妬みなど 人間の生まれながらの行為を十字架につけながら生きることです。


自分が誇りとしている すべてを捨てて、主を第一にすることです。


自分の十字架を負って生きているパウロの告白です。


【第1コリント15章31節】

兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

彼はどんなに苦しくても、自分の十字架を負って主に従って歩みました。


イエス様が死に至るまで父なる神に従順であったように、パウロも死に至るまでイエス様に従順な人でした。

一度もその心が主から離れたことがありませんでした。


イエス様に出会った後の彼は とても幸せでいのちに溢れ、いつも聖霊に満たされていました。

それがどんな苦難の中でも彼を勝利させる原動力でした。


この姿が私たちにも必要な姿ではないでしょうか。
(;´Д`)

2017.1.2
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちを祝福したいと願う主

テーマは 『 私たちを祝福したいと願う主 』 です

【民数記6章23-27節】

「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。

『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』

彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

人間が神に求めることは、何と言っても祝福ですね。

自分を呪ってほしいと神に祈る人がいるでしょうか。


時にはあまりにも辛いので、神に「生きるより死んだほうがましです。私の命を取って下さい。」と嘆くことはあるかも知れません。


しかし、本音は “祝福されること” です。

祝福されたら死にたいとは言わないと思います。


聖書によると、私たちが必死に祝福を求めて、やっと祝福されるのではなく、神の方が私たちを祝福したいと強い願いを持っていることが分かります。


親子関係で考えるとその意味が分かると思います。

子どもが生まれると、子どもが何も願わなくても、親の方がたくさんの祝福を与えようとあれこれ考えます。


神様もそうですね。

神様は私たちを愛しているので、祝福したいと願っています。


神が選んだ神の民には、特別な祝福があることを、イスラエルに向かって語った言葉で知ることが出来ます。


それは神を信じる者に与える祝福です。


今回は そのことを考えながら メッセージを聞いて下さい。




神は 祝福の神で、祝福を与えたいと願っています




神ご自身が「受けるよりも与える方が幸いである」と言われました。


世界とその中にある すべてのものを造ったのは 神であり、神はそれらを私たちのために与えて下さいました。

空気もタダ、太陽の光や熱もタダ、山や川、空もタダで見ることが出来ます。


とても大切なものをタダで使うようにしたのは神です。


それは神が “祝福の神” だからです。


【マタイの福音書5章45節】

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

すべてのものを人間の祝福のために創造し、創世記から黙示録まで読むと、神の祝福がたくさんあることが発見出来ます。

神を信じることは、その祝福を受けるためです。


神ほど私たちを祝福したいと願う方はいません。


人間は悪いことがあると、神様のせいにして、神のことを悪く言いますが、それは “悪魔” がしたことを神と勘違いした人がいう事です。


ですから 神に悪口言う前に、自分が信じる神が 本当の神かどうかを調べてから言って下さい。


人に悪を働くのは神ではなく、悪魔(サタン)であることを知りましょう。


聖書には悪魔の仕業がたくさん出てきます。

“盗む、滅ぼす、惑わす、誘惑する、罠を仕掛ける、襲いかかる、苦痛を与える、病気を与える、死をもたらす” など様々な例があります。


しかし神は初めから祝福の神です。

その祝福なしには人間は存在できないです。


【哀歌3章22-23節】

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。

祝福の神を信じる人は幸いな人です。


神を誤解しながら生きる人は、特別な神の祝福を逃すことになりますので本当にもったいないです。




祝福の神は、私たちが祝福を求めることを願っています




神は “祝福の神” ですが、私たちがその祝福を求めて神の御前に出ることを願っています。


何も求めないで、神に任せるのが “信仰深い姿” だと思いますか?

―― そうではないです。


神は祝福に対しては、求めるように言われました。


【第1ヨハネ5章14-15節】

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

イエス様は、声を上げてイエス様を呼んだ人々に「何をしてほしいのか」と聞きました。


その時、願いをはっきり言った人たちは みな祝福されました。


祝福は積極的に求めることです。


主がそのようにしなさいと言われましたので、祝福は本人が積極的に求めることです。

神がそれを願っておられるからです。




ほかの人のためにも 祝福を求めることを神は要求します




神はすべての人が祝福されることを願っています。


ですから 自分だけ祝福されることを願う人は、神の心とは違うので、神はそれを “貪欲” と言って嫌います。


神はどの人のことも愛しています。

神の愛は変わることがありません。


私たちは愛される資格があったでしょうか?

他の人より優れた所があるでしょうか?

罪がなかったでしょうか?


それを考えると、他の人を悪人呼ばわりしたり、祝福を受ける資格がないと言ったらいけないです。


神は次のように言われました。


【マタイの福音書5章44節】

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

また弟子たちを遣わした時にも このように話しました。

【マタイの福音書10章12-13節】

その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。

その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。

ですから私たちが他人のために祝福するのは、神のみこころですし、それは必ず相手の祝福になるか、自分の祝福になるかで無駄になることはありません。


相手のために神に求めることも祝福であり、自分が受けた祝福を 人のために使うことも祝福を与えることです。


最近ニュースで知りました。

わずかな年金で生活が出来ない貧困老人がたくさんいるのに、生活保護を申請しない老人が多いということです。


その理由は、受けることを恥だと思うらしいです。

「施しは受けたくないと。
生活はとても悲惨なのにそれでも受けないと。」


生活保護は、最初から困った人のために使う予算です。

自分たちが税金を払って、そこから受けることですから、 “施し“ ではないですね。


国には様々な制度が国民のためにあります。

他の制度は積極的に使いながら、生活保護だけをそのように思うことは、その制度に対する偏見だと思います。

困った人にはそれは準備された祝福です。


悪いのは、お金が十分あるのに、その制度を悪用する人たちです。


私たちは、神がどのような祝福を用意してあるのかを もっともっと知る必要があります。


そして、その祝福の制度を積極的に使うことです。

どうにもならないからと死を選んだり、諦めたりする前に、まだやっていないことがないかを探ることです。


聖書には神の祝福がたくさんあります。

神を信じてそれを求めるならば、その願いが みこころにかなう時には祝福を受けることができます。


神は真実な方ですから、その約束を守ります。
(・◇・)ゞ

2017.1.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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礼拝を捧げる姿勢

テーマは 『 礼拝を捧げる姿勢 』 です


ハレルヤ。

今日1日も主の導きと守りがあることを祈ります。

今年も神様の前で私たちは礼拝を捧げるようになります。


形式的に捧げる礼拝にならない為に、どのように礼拝すべきかをもう一度話したいと思います。


まず、私たちは礼拝の対象は、この世を創造し、私たちを造ってくださった1人の神様であることを覚えましょう。

他のどんなものに対しても私たちはそれを礼拝の対象にしてはいけないです。


多くの礼拝の中に、伝統に従うとか、人間的な想いから出た様々なやり方で礼拝を捧げますけれども、それは神の前には何の価値もなく、愚かな者に過ぎません。


神様の前に礼拝を捧げる時には、神様が語ってくださったように霊とまことを持って礼拝をしなければなりません。


霊とまことを持って礼拝を捧げることは、どういうことでしょうか?


神様に目を向け、神様に集中することです。

そして自分の心から礼拝を捧げることであります。


礼拝の中でも、多くの雑念が私たちの礼拝を妨害する時があります。

その時には、祈りによって雑念を追い出し、もう一度神様にしっかりと目を向けましょう。


そして神様に捧げる礼拝は、教会に来られた時だけではありません。


教会に来ていない毎日の生活の中でも、私たちは神の栄光を現しながら、神様が喜ぶ生活をする時に、そのことが神を喜ばせる礼拝になります。


生活と礼拝を分離することは出来ません。


教会に来ては御使いの顔をして、教会を出た瞬間から悪魔の顔になったらいけないです。


教会を出て仮面を脱いで、世の人々と同じように肉に従って生活をして、礼拝を捧げるその時だけ天使の仮面を被って 教会に入ってきて礼拝を捧げても、その礼拝は神様が受け入れることができません。


また、神に捧げる礼拝は、くちびるの賛美のいけにえを捧げなければなりません。


多くの人々が、ただ口を開いて賛美をしたら、神様がその賛美を受け入れてくださると思うんですけども、賛美はそういうものではありません。


賛美そのものも神に捧げるいけにえでなければならないです。


私たちが口を開いて主の御名をのべ伝える時に、それは立派なくちびるの実になります。

神への賛美になります。


祈りを中止しながらも、賛美生活をしない人も多いし、みことばには忠実でありながらも、賛美を飾りほどに考える人々は、自分の無知を悔い改めなければなりません。


【へブル13章15節】

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくびちるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

心から出てくる神様への感謝、神の御名を高めること、心からの祈り、私の手の奉仕、このすべてが神様に捧げられるものになるならば、神様はその礼拝を喜んで受け入れてくださいます。


このような姿勢を持って、神様に礼拝していきましょう。
(・∀・)


2017.1.9
3分テレフォンメッセージ

(毎日24時更新):06-6618-9105 、06-6618-9106

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私は礼拝者になる

テーマは 『 私は礼拝者になる 』 です

【ヨハネの福音書4章21-24節】

イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

サマリヤの女とイエス様の対話で、私たちは 主が求めておられる礼拝が どのような礼拝なのかを知ることが出来ます。


ユダヤ人は霊的ではない 形式的な礼拝をし、サマリヤ人は よく分かっていなかったので、みことばから離れた礼拝をしていました。

ですから神は、彼らから まともな礼拝を受けたことがありませんでした。

それは私たちにも当てはまると思います。


礼拝は “どこで(場所)” が問題ではなく、“何によって(霊によって)” 、“どのように(神の啓示によって)” ささげているのか が問題です。


神は 選ばれた民に、このような礼拝をささげてほしいと願っています。

そのためには、礼拝者自身が変わらなければなりませんので、どのように変わるべきかを話します。


形式的な礼拝、仕方なくささげる礼拝をして、やるべき義務が終わったと思って自己満足して帰る人は 一番気の毒な人です。


そのような礼拝はゴミ箱に入っています。
無駄なことをしただけです。


しかし、霊とまこと すなわち誠実、正直、啓示によって神の御顔を求める心で礼拝をささげる人は神体験をします。


真の礼拝者の姿を見ながら,、自分たちもそれを目指していきたいと思います。




召されたところで神を礼拝する




真の礼拝者は神に出会ったその場所で、すぐに神を礼拝しました。


【創世記12章7-8節】

そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

信仰の先祖・アブラムが一番にしたのは、神に召された所で まず祭壇を築いて、礼拝をささげたことでした。

自分の家を建てる前に まず祭壇を築いて神を礼拝しました。


他の神の人たちも召されたところで祭壇を築いて神を礼拝しました。


彼らにとって、神が臨在するすべての所が聖なる場所でした。


【マラキ書1章11節】

日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間で、あがめられているからだ。―万軍の主は仰せられる―

父なる神にささげる礼拝は、場所や儀式などの制限を受けることなく、すべての所で神への礼拝がささげられることを啓示されました。




どのような状況の中でも神を礼拝する




これが出来る人が真の礼拝者です。

このような人たちは、自分が礼拝する対象が誰であるかを明確に知っています。


そして彼らは真の礼拝者として生きることを決心しているので、どのような状況の中でも神を礼拝しますし、その姿を見ます。


ヨブの姿を見てみましょう。

1日のうちに子供10人と 多くのしもべが死に、財産もすべて悪者たちの襲撃を受けて奪われてしまい、子なし、無一文になりました。

すべてに恵まれていたヨブが、一夜で悲劇の主人公になりました。


それは強い津波が去った後のような状況でした。

しかし、そのような状況の中でも、ヨブがしたことは神への礼拝でした。


【ヨブ記1章20-22節】

このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

こういう状況でも 神に礼拝したのは、それが いつもの生活であったからです。


普段から礼拝をささげることは彼の日課でした。

週に1度ではありません。


ですから最悪の状況の中でも、いつものように神に礼拝をささげることが出来ました。


状況によって神への信仰が左右されるならば、果たして苦難の時に信仰が生きているでしょうか?


パウロとシラスの姿もあります。

主のために働いているのに、彼らが受けるものは迫害と侮辱だけでした。


何度もむち打たれて牢の中に入れられました。

牢の中での彼らの姿です。


【使徒の働き16章25節】

真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

辛い時の状況は暗やみに例えられます。


「神はどこにいますか?どうして私を見捨てましたか。」と言いたくなる時です。

それは普通の人の考えです。


しかし、信仰は心の目で神を見ることですから、信仰によって生きる人は暗やみの中で、光である主、愛である主を見上げます。


そして、その神と人格的な交わりをします。それが ”礼拝“ です。




人生の歩みの中で礼拝する




イエス様は 私たちが歩く時に、私たちの道になって下さいます。


私たちの人生の道の光になって下さる方で、世の終わりまで私たちと共にいて下さると約束して下さいました。


荒野でイスラエルの民を導き守ったのは誰ですか?

彼らが荒野を安全に40年間歩んだのは誰のおかげですか?


答えです。


【出エジプト記13章21-22節】

主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

神はこのように見える形で彼らを日々導いておられることを見せて下さり、彼らの道となって下さいました。


彼らは そのように導いてくださった神に感謝をして礼拝をささげたでしょうか?

残念ながら、彼らは礼拝者としては失格でした。


【詩篇78編17-20節】

それなのに、彼らはなおも神に罪を犯し、砂漠で、いと高き方に逆らった。

彼らは欲するままに食べ物を求め、心のうちで神を試みた。

そのとき彼らは神に逆らって、こう言った。「神は荒野の中で食事を備えることができようか。

確かに、岩を打たれると、水がほとばしり出て流れがあふれた。だが、神は、パンをも与えることができようか。ご自分の民に肉を備えることができようか。」

世界の どの国、どの金持ちが、米一粒も生産が出来ない荒野で 200万人もの集団を40年間も養うことが出来るでしょうか?


荒野で食べ物がなくて餓死した人は、1人もいませんでした。


神の奇跡で彼らは毎日導かれ、守られてきましたので、毎日その神に感謝して自分たちに出来る礼拝をささげることが当然なのに、反対に 彼らは欲深くなり、神への文句をブツブツ言う とんでもない者になっていました。



他人の姿を見る私たちは厳しいことを言います。

「私ならばそんなことはしない。毎日神に感謝して礼拝するよ。」と言いますが、実際は同じことをやっていませんか?


毎日必要が与えられ、守られたことに対して神の前で感謝していますか?

導きに対して感謝していますか?


すべての事について感謝して神と共に歩むことは、生活の中での礼拝です。


意識して礼拝をしないと、当たり前という思いに流されて、神への感謝が足りない者になります。


次の箇所で 真の礼拝者たちの姿を見ることが出来ます。


【使徒の働き17章11-12節】

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。その中には、ギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。

形式的に礼拝をせず、熱心にみことばを聞き、さらに神のことばを知りたくて、毎日聖書を調べていました。


みことばをしっかり聞くことは礼拝者としても基本的な姿勢です。


神は、私たちが礼拝者として 失格者ではなく “真の礼拝者” になることを求めていますので、今までの態度を変えて、認められる真の礼拝者になっていきましょう。


むなしい礼拝は本当に意味がないです。

心の目で神を見て、神に礼拝をしていきましょう。
(*゚∀゚)っ

2017.1.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

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シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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三つのことを目指す

テーマは 『 三つのことを目指す 』 です

【第1テサロニケ5章16-18節】
いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

新年をどんな年にしたいと願っていますか?


2017年に対して様々な予測や預言が言われてあります。


神からのものなのか、そうでないかは実際に起こるまでは判断できないです。

世界がどう変わるか、日本がどう変わるかは分りませんが、自分に関しては変わらないといけないので、そのことは真剣に考えないといけないです。

何よりもすでに神から言われた大切なことは、絶対に無視してはいけないと思います。


本文のことばは、どの時代にあっても私たちが目指すべき大切な神のことばです。

これを抜きに神のみこころを行うことは出来ません。


今回は「三つのことを目指す」という内容で伝えます。




いつも喜ぶことを目指す




なぜ 喜ぶことが大切で必要でしょうか?


「別に喜ばなくても良いでしょう。誰かに迷惑かけるわけでもなく、罪を犯しているわけでもないのに」と思っている人がいるかも知れません。

ですが、いつも喜ぶべき理由があります。


まずは喜びがどこから出て来るのかを考えてみましょう。


喜びは、頭や外部からではなく、心から出てきます。

聖霊を受けた人と受けていない人には違いがあります。
心の状態です。


【ヨハネの福音書7章38節】

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

このように書いてあるように、聖霊が心に内住します。

そして喜びは、“生ける水の川” から出てくるものです。


喜びは御霊によるものです。


喜びは御霊の九つの実にも入っています。

生ける水の川が流れる心は とても重要な場所なので、心を見守るように言われました。


【箴言4章23節】

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

心が守られると、そこから絶えず いのちの水が流れて、私たちの心は潤って当然そこから喜びも出てきます。

しかし、心が守られないと 泉は枯れて心はどんどん砂漠化していき、喜びが出なくなります。


心が荒れて疲れ果ててしまいます。

ですから喜びも消えていきます。


“いつも喜んでいなさい” と言われるのは、すなわち心の泉からいつも生ける水が流れる状態を保つためです。


いつも喜んでいる状態は、心が守られている状態です。

いのちの泉も守られている証拠です。

そして聖霊に満たされている状態です。


自分の心の状態を知る1つのしるしが、この “喜び” です。

もし喜びがないなら、胃カメラで胃を調べるように、自分の心を覗いてみて下さい。


聖霊は見えず、何か違うものがそこに詰まっていると思います。

心に “あってはならないもの” が入っていると思います。


喜びがないな と思った時は、すぐに心の状態を調べて下さい。


パウロが迫害され、むち打たれ、ピリピの牢獄の中にいながらも喜んでいたのは、どんな時にも自分の心を守り、聖霊に満たされていたからです。




絶えず祈ることを目指す




現代の信徒たちの特徴は、“祈らないこと” です。


忙しいから祈れないという人が多いです。

本当にそうでしょうか?


忙しいと言いながらも、自分がしたいことは全部しますね。

食べること、テレビを見ること、スマホをいじること、雑談、趣味生活、仕事などの場合は「忙しい」と言って、しないことはないですね。


しかし聖書を読んだり、祈ったりする時間だけは「ない」と言います。

ある意味、私たちは嘘つきです。


自分のためには時間を使っても、神様には時間を使いたくないです。

そうしながら神体験を願い、祝福や恵みを求めます。

そして信仰が強くなることを願います。


なぜ神様は「絶えず祈りなさい」と言われたでしょうか。

神を知るために、神体験するために “祈りは必須” です。


みなさんがメッセージを聞いたり、賛美をしただけで 神体験や神を知ることは難しいです。

神を知るためには、神の前に出る必要があります。


イエス様がどう祈るべきかを教えました。


【マタイの福音書6章6節】

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

神の前に出て、静まる時間が祈りの時間です。

それは神との対面の時間です。


神を知り、神体験が多い人たちは みんな祈りの人でした。

ダニエルは祈るために、わざわざ仕事の合間でも家に帰りました。


一日三度時間を決めて毎日神に祈りました。

神は彼に会って下さいました。


祈ったらいのちが取られることを知っていながらも、いつもと変わらない姿勢で祈るために家に帰りました。

その後にダニエルはすごい神体験をしました。


飢えた獅子の穴に投げ込まれても、えじきにされず 御使いたちによって守られました。


神を信じると言いながら 神への知識、神体験もないことは恥ずかしいことです。

それでは信仰も成長しません。

ですから神はそんな者にならないように “絶えず祈りなさい” と命じました。


祈って下さい。
そうすれば必ず神体験をします。




すべての事について感謝することを目指す




昨年の事を感謝で終えましたか?

感謝で終えた人は、感謝で新年を始めたと思います。


「すべての事について感謝しなさい」と言われると、「アーメン」と答えない人も多いです。


「色々あったから出来ない」という思いがありますね。

神は出来ないことを私たちに要求するのではありません。


「すべての事について感謝する」ことは、すべての事を感謝で解釈することです。


同じものを見ても、感謝する人と感謝しない人の “差” は何でしょうか?

思い出してみましょう。


モーセがカナンの地を探らせるために12人の斥候を送りました。

40日後に彼らは帰って来ました。

10人と2人の報告が正反対でした。


感謝の信仰があったヨシュアとカレブは、神の言葉通りの良い地であったので感謝しながら帰り、うれしい報告をしました。


しかし別の10人は、高い城壁、背の高い住民を見て 恐れが入って、その地をとても悪く言いふらし、自分たちを導いた主に不平不満を言いました。


主のことばで見ると、すべてが感謝ですが、主のことばを忘れ、人間的な目だけで見ると不安と恐れで、不信仰に陥って感謝の代わりにつぶやきが出てきます。


同じものを見てもどう解釈するかは人それぞれ違います。

ですから環境や人のせいで感謝出来ないと言うのは言い訳です。






私たちが住む世界には悪いことがたくさん起こっています。

自然災害、テロ、病気、内戦や戦争がいつの時代にもあります。

ですから自分たちが災難にあったとしても、おかしいことではないです。


特別に悪い人がそのような災難に遭うのではなく、誰にでも起こり得ることです。


ですから苦難を乗り越えていくために、気落ちせず、失望しないため、信仰を守るためには “感謝の解釈” が必要です。


不幸な時、辛い時に感謝が出来ないと、不幸と辛さに飲み込まれてしまいます。

感謝が出来ないと、つまずいて信仰を捨てる場合もあります。


神から離れることは、自分のいのちに関わることです。


どんな時でも感謝することを身に着けるための訓練としては、辛い目にあった時は、いつもイエス様のことを思い出して下さい。


人から侮辱されたり、迫害されたり、ひどい目にあった時は、イエス様がひどい目にあった時の場面を思い出して下さい。

すると慰められます。


自分とは比べられない試練を主は受けながらも感謝しました。

それを学ぶことです。


主がなさったようにするならば、どんな時でも感謝することができます。

主を見るならば我慢が出来、感謝も出来ます。


すべての事について感謝する姿勢は、成熟した信仰の姿勢です。

成熟しているので、その感謝によって多くの実を結ぶことが出来ます。


これらの三つのことは、キリスト・イエスにあって 神が私たちに望んでおられることです。


神の期待に応えますか?

これら三つのことを実行するならば 世界がどう変わるかは関係がなく、充実した一年、成長する一年、祝福される一年になります。


世界の主権者は神です。

神はみこころを行う人を特別扱いして下さいます。


神体験、奇跡、守り、祝福を与えます。
(´∀`*)

2017.1.2
新年礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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幻と啓示~天国と地獄~

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