からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2016年05月

出来ると言う信仰

テーマは 『 出来ると言う信仰 』 です

【マルコの福音書9章23節】

するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

今日のことばは、私がよく告白するイエス様のことばです。


力を与え、信仰を与え、行動を起こさせる素晴らしいことばです。

そして、次のことばも普段よく告白することばです。


【ピリピ4章13節】

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

この2つの言葉によって、数々の難関を今まで乗り越えて来ましたし、不可能に思われたことにも挑戦出来ました。


今回は、私が恵みを受けた ことばで「出来ると言う信仰」に対して学びたいと思います。


皆さんは「出来る」ということばをよく使いますか?
それとも、「出来ない」ということばをよく使いますか?

きっと分かれると思います。


旧約聖書の民数記を読むと、そこにも “出来る” と言う人たちと “出来ない” と言う人たちの姿が出てきます。


希望の地。憧れの地。神が約束した地。

乳と蜜が流れるカナンの地は、エジプトで430年の長い間、奴隷生活をしていたイスラエルの民にとっては一番行きたい所でした。


いま北朝鮮で苦しんでいる人々が、いのちを懸けても行きたい地が韓国であり、シリア難民がいのちを懸けて行きたい地がヨーロッパであるのと同じです。


神様は過酷な奴隷生活から彼らを解放しました。

そして乳と蜜が流れる希望の地カナンに導くために彼らを連れ出しました。

エジプトから出た彼らは200万人近い大集団でした。


希望の地、祝福の地は誰にでもタダで与えられる幸運の地ではないです。


出来ると言う信仰の人に与えられる神からのプレゼントです。


モーセの導きを受けてエジプトを出た民は、大きな期待を抱いて荒野まで出て来ました。

モーセはヨルダンの向こうにある希望の地を探らせるために、先に12人の斥候(せっこう)を送りました。

40日間その地を探った人々の意見が2つに分かれました。


まず10人がこのような報告をしました。


【民数記13章32-33節】

彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。

そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

彼らは「私たちがその地に入るのは無理だ。出来ない。出来るわけがない。彼らは巨人で私たちはいなごだ。そこに入るのはありえない。」と断言して言いました。


それを聞いた人々の反応はどうでしたか?


【民数記14章1―3節】

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。

イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。

なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」

みなさんならば どのように反応しますか?

この意見に賛成ですか?“私もそう思う” と納得しますか?


いなご自画像にとらえられている人は「挫折感、絶望感、劣等感、失望感」で、何でも大きく見て、出来ないと言う信仰をもって自ら諦めて何もせず座り込みます。


このような人が世の中には圧倒的に多いです。

そして今のままが良いとか、何もしない方が良いと言います。


しかし残りの2人、ヨシュアとカレブは彼らとは意見がまったく違いました。


【民数記14章6-9節】

すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、

イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。

もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。

ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

彼らは “出来る” という信仰を持って「出来る、すばらしい所だ、早く行きましょう。」と言いました。


肯定的な信仰、出来るという信仰は、確信と自信にあふれています。


始める前から疑いのない成就感に満ちて、戸惑いのない確信に満ちています。


このように希望の地を前にして「出来る。」と言う人と、「出来ない。」と言う人に分かれました。

出来ると言う信仰を持った人たちのことばを聞いた人々はどのような反応を見せたでしょうか。


【民数記14章10節】

しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。

「出来ない」という人の意見には賛成した人たちが、「出来る」という人たちに対しては怒りと殺意に満ちて殺そうとしました。

この反応には驚きです。

彼らの姿を見て神様も驚き、彼らの前に現れました。


そこに神様が現れなかったならば、この2人は殺されたでしょう。






今の世の中もそうです。


「出来ない」と言う人の方が圧倒的に多いです。

出来ると言う人はとても少ないです。


そして “出来ない” という人が、“出来る” という人の意見をつぶしていきます。


特に日本では、「出来ない、無理、リスクが高い」などと言って、否定的な意見を言う人たちが多く、その声が勝つことが多いです。

心配と不安と恐れの思いに満たされた人がとても多いです。


自分たちは それを “慎重な意見だ” と言いますが、否定的な人はどんな時でも否定的な意見しか出て来ないです。


出来るという人たちを殺そうとした時に、神様が現れて正しい判断を下しました。


【申命記14章11―12節】

主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。

わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

「出来る、しましょう。」と言う人は、神を信頼する信仰が認められて、期待したカナンの地に入ることが出来ました。

しかし「出来ない、無理だ。」と言った人たちは、神を信じなかった不信仰のために荒野で全員死にました。


いなご自画像から抜け出ない限り、どんなに素晴らしい環境が与えられても その人は何も出来ないです。

いなごが出来ることしか出来ません。


出来ると言う信仰を持っている人は、他の人が出来ないと言って諦めて離れていった所で、「やってみよう」と “出来る” という信仰で挑戦します。


「私が出来ないことを神様も出来ないならば、その方は私の神様ではない。私には不可能なことが神様にも不可能ならば、その方は私が信じる神様ではない。」と思います。


出来ると言う信仰は、座ったまま何もしない信仰ではなく、立ち上がって行動するところから始まる信仰です。
出来る所から始めます。

主のことばのように、「出来るものならと言うのか。信じる者はどんなことでもできるのです。」 と告白しながら行動を始めます。


出来ると言う信仰は、取るに足りない小さいものからでも始めます。

周りの人が出来ないと言うから しないのではないです。

出来ないと言う人の前で やってのける時に出来るようになります。


否定的な人のことばに耳を傾ける必要はないです。
何もしない人の意見など役に立ちません。


奇跡は、皆が出来るという所から出るのではなく、皆が出来ないと言われる所から出てきます。


出来るという信仰でやると、神様が働き奇跡も起こります。


ルイスフンという人は「失敗を恐れて新しいことを拒否してはならない。人生の一番悲しい3段階はこのように言える。出来る。出来るかも知れない。しなければ・・・」結局、いつも思うだけで何もせず人生が終わります。


ロバートシュラ―牧師は「不可能なことが存在するのではなく、不可能と思う思いが存在する。」と言いました。


出来ると思う人は、出来ると思うので何でも出来ます。

しかし出来ないと思う人は、出来ないと思うので何も出来ないです。


出来るという信仰が行動を引き起こします。

出来ないと言う人は、裏を返せば安定志向が強いです。


そしてそこに隠れているのは、“不安と恐れと心配” です。

しかし今の状態も本当は安定ではないです。

挑戦できないから何もしないだけです。


出来ると言う信仰を持っている人は、たとえ挑戦して失敗をしても、また出来るという信仰を持って さらに挑戦します。

ですから道が開かれます。


この人たちを神様は助け、力を与えます。この人たちが成功し、満たされた人生を送ります。


出来ないと言う否定的な言葉を使えば使うほど、いなごからさらに小さくなって蟻みたいになり、最後は いてもいなくても良いような存在になります。


しかし出来るという信仰で挑戦をすると、いなごからどんどん巨人に成長していきます。


その人たちが主に用いられ、新しい道が開かれます。


またビジョンや明確な目標がないと、出来るという信仰も生まれて来ないので、明確な目標を設定して、“出来る” という信仰を持つと、必ず神様が働いてくださり、助けて下さいます。
( ̄‥ ̄)=3


2016.5.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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人への施し

ハレルヤ。

今日もすべてが守られる一日になりますように祈ります。


使徒の働き10章にはイタリヤ隊という部隊の百人隊長コルネリオという人物が出てきます。


ある時、彼が祈っている時に、幻の中ではっきりと神の御使いをみました。

御使いは彼に言いました。


「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って覚えられています。」

これは何を意味するでしょうか?


コルネリオの祈りと施しが 神の喜ぶ行為であったことを神が認め、それを受け入れたことを意味します。


祈りは 神を愛し、信頼するところから始めないといけないです。

コルネリオの祈りには、神への愛と信頼がありました。


自分の欲を満たすための祈りではなく、神を愛するので神とともにいる時間が大切でした。

いつも神に祈りをしていました。


神はそのような祈りに耳を傾けます。


しかし神にとって何の意味もない祈りもあります。

祈る人が神に向けて祈らない祈りです。


【マタイの福音書6章5-6節】

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。

祈りが 人に見せるため、自分の欲を満たすためであるならば、その祈りは神に届かない祈りです。


祈ったのに何も答えがないと言う前に、自分の祈りが 神に覚えられる祈りであったかを真剣に考えてみることです。


また施しは、人を愛する心がないと出来ないです。

よく施しをする人は人間関係も良いです。


神様が私たちに “与えなさい” と言われるのは、人を愛する心を私たちが持って欲しいことと、施しは神が喜ぶ良いことだからです。

愛すると言いながらも、何も与えないなら愛していないことです。


何の犠牲もないリップサービスだけで済ませることは神と人を騙す行為です。


また施しをしても、神に受け入れられない施しもあります。


【マタイの福音書6章1-4節】

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。


あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。


コルネリオの施しは、人に見せるため、またほめられたくてした施しではなく、人を愛してした施しだったので 神が喜んで受け入れて下さいました。


そして彼に良い報いを与えて下さいました。

使徒ペテロを彼に送り、聖霊を注ぎ、罪を赦し、水のバプテスマも授けました。


それは、彼を神の民として受け入れて下さったことです。

その時代の異邦人に対しては破格的な出来事でした。
(=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2016.1.15
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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水のバプテスマと聖霊のバプテスマ

テーマは 『 水のバプテスマと聖霊のバプテスマ 』 です

【使徒の働き19章1-7節】

アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、

「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ。聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。

「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と言うと、「ヨハネのバプテスマです」と答えた。

そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。

これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。

パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。

その人々は、みなで十二人ほどであった。

今日は聖霊が下ったペンテコステの日です。

イエス様は復活してから天に上る前に、弟子たちに “一つの命令” と “一つの約束” を与えました。

“命令”は次の箇所です。


【使徒の働き1章4節】

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

そして “約束”は次の箇所です。


【使徒の働き1章5節】

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

これらを聞いた弟子たちはエルサレムを離れないで、聖霊を受けるために祈りながら待ちました。

そしてペテコステの日に彼らに聖霊が激しく臨みました。


弟子たちにとっても初体験で、彼らは聖霊に満たされ、異言を語ったり 預言したりと、聖霊によって新しい者に生まれ変わりました。

弟子たちのことばや行動を見ると、以前の弟子たちの姿ではありませんでした。


彼らを変えたのは聖霊でした。

彼らも以前、ヨハネから水のバプテスマを受けました。


そしてペンテコステの日に聖霊のバプテスマも受けました。




ヨハネのバプテスマとは




この“バプテスマ” は皆さんも、世の人々も知っている水の洗礼です。


ヨハネはイエス様よりも先に来られ、主のための道を準備した人物でした。

その時、ユダヤ全地域の人々は、ヨハネが水のバプテスマを授けているヨルダン川に来て、自分の罪を告白してヨハネから水のバプテスマを受けました。


その時ヨハネは、人々に次のように話しました。


【マタイの福音書3章11節】

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

ここでも水のバプテスマと聖霊のバプテスマが全く違うことと、両方のバプテスマが必要であることが明白です。


“水のバプテスマを受けたから、天国に行く切符を手に入れた” と喜ぶのは間違いです。


もう一つのバプテスマが、もっと重要です。
これなしに天国に入ることは難しいです。


パウロがエペソの弟子たちに会った時に、なぜいきなり「信じた時、聖霊を受けましたか。」と質問したでしょうか。

それは聖霊を受けた証拠が、本当に生まれ変わったことを証明するのに不可欠であったからです。


【ローマ8章9節】

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

パウロの質問は「信じた時に聖霊の臨在を体験しましたか。」という意味でもあります。


ペンテコステの日に集まっていた120人全員が聖霊の臨在を体験したので、彼らは自分たちが聖霊のバプテスマを受けたことを明確に知りました。

私自身も聖霊の臨在を体験したので、自分が聖霊のバプテスマを受けたことを知りました。


受けた人ならばそれが何かわかります。

臨在の体験は それぞれ違いますが、臨在を体験すると自分が変わったことが分かります。


心がまるで入れ替わった感じがして、以前と同じ心ではないです。



パウロは、エペソの弟子たちのことばや行動を見て、彼らが聖霊充満でないことを感じたと思います。


それで質問した時に、彼らは「いいえ。聖霊の与えられることは聞きもしませんでした。」と答えました。


パウロや主の弟子たちが福音を伝える所では、皆が水のバプテスマと聖霊のバプテスマを受けていましたが、なぜエペソの弟子たちは聖霊のバプテスマを知らなかったのでしょうか。

それには理由がありました。


彼らはパウロから福音を聞いて信じたのではなく、アポロという人から福音を聞きました。


【使徒の働き18章24ー25節】

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。

この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

これが原因でした。

ですから彼らは水のバプテスマしか受けていなかったのです。


今も世界のある教会では同じことが行われています。

水のバプテスマは受けていますが、聖霊のバプテスマを受けていない信徒たちも多いです。


その人たちも聖霊のバプテスマを知らない指導者から福音を聞いたからです。

しかしそれでは不十分であることを主が語っておられます。


水のバプテスマの儀式は “自分の罪を告白してキリストを受け入れたことを象徴する行為” です。


しかし、水のバプテスマが救いを受ける条件でも 明確に救いを受けた証明になるわけでもないです。

それは、教会がその人の信仰告白を聞いて、その人を教会員として受け入れたという意味で行う儀式です。


水のバプテスマは、地上の教会を作る時に必要です。

教会の外にいる人と教会員との区別にもなります。


使徒たちも福音伝道と水のバプテスマを平行しながら教会を設立していきました。

人は水のバプテスマを受けることで 自分がクリスチャンになったことを認識しますし、教会員になったと実感します。


しかしこれだけで救われた、生まれ変わったとの証明にはならず、必ず聖霊のバプテスマが必要です。




聖霊のバプテスマとは




水のバプテスマが教会員になったと教会が認めるものならば、聖霊のバプテスマは 聖霊が(その人が)クリスチャンになったことを認めたと印を押すようなものです。


【第2コリント1章22節】

神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

聖霊のバプテスマを受けた人は、罪が赦されただけではなく、サタンの支配下にいた古い人は死んでキリストの中で新しく生まれ変わったことを体験した人です。


これによってその人はキリストと一つになり、キリストの支配下にいます。


水のバプテスマを受けた人の中にもクリスチャンではない人もいます。

イエス様が語った天の御国のたとえに「麦と毒麦のたとえ」がありますが、麦は真のクリスチャン、毒麦は教会の中にいるクリスチャンに見えてもそうでない人のことです。


ヨハネが水のバプテスマを授けていた時に、大勢のパリサイ人やサドカイ人たちがバプテスマを受けに来ました。


彼らを見てヨハネは次のように語りました。


【マタイの福音書3章7-8節】

「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

このように厳しく言いました。

心からの悔い改めもなく、儀式や形を重んじる彼らは 皆が受ける水のバプテスマを受けずにはおられなかったです。

それをヨハネは見抜きました。


このようなクリスチャンが多いです。

洗礼は受けましたが、悔い改めにふさわしい実もなく、古い人のまま生きる人、主から離れた人も大勢います。


しかし本当に悔い改めて主を信じ、また聖霊のバプテスマを受けた人たちは、彼らとは明らかに違います。

たとえ主から “離れなさい” と言われても、彼らは離れることが出来ません。


なぜなら聖霊の印が心に押されていて、聖霊がその人の中に住んでいるからです。


聖霊を追い出して以前の状態に戻ることなど考えられないです。


「自分が聖霊のバプテスマを受けたかどうかは、どうやって分かりますか?」と知りたい人もいると思います。


特別に神秘的な聖霊の臨在を体験してなくても、主を愛し、主を自分の救い主として信じ、自分が変わったならば、その人は聖霊のバプテスマを受けた人です。


主から離れて生きることが出来ない人は、聖霊のバプテスマを受けた人です。


イエス様も水のバプテスマと聖霊のバプテスマを受けました。

それは私たちにその2つが必要であることを教える目的もありました。


【ヨハネの福音書3章5-6節】

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

聖霊のバプテスマを受けた人は、常に力に満ちた生活をするために聖霊に満たされることです。


聖霊は力を与えて、私たちを助けて下さいますし、賜物も与えて主の働きが出来るようにして下さいます。

日々聖霊に満たされ、聖霊の導きの中で生きる人は、安定した信仰生活が出来ます。


聖霊の助けなしにみことばだけでは弱いです。


みことばだけで大丈夫だと思う人は神に頼らない人です。


主のことば通り聖霊を受けて、聖霊と共に歩む人が力を受けて実を結ぶことが出来ます。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚


2016.5.15
聖日礼拝メッセージ

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愛を見せなさい

テーマは 『 愛を見せなさい 』 です

【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」

男性は愛を見せることがあまり上手ではないところがあります。


“言葉で言わなくても見たら分かるだろう” と勝手に思います。

女性は度々「愛している」という言葉を聞きながら、相手の愛を確認して幸せを感じ安心感を得ると言われています。

それは別に男性を疑っているわけではないです。


夫は、妻が愛のことばを言ってほしいと言われると、うっとうしいと思いますが、女性の心理を知って 理解するのが良いですね。


女性は愛されたい気持ちが強いので 愛を確認したいですし、男性は尊敬されたい思いが強いので 愛のことばよりは 尊敬のことばに感動するそうです。


イエス様は男性でしたが、やさしく愛をよく現していました。
心がとても温かい方でした。


愛は、無言で また何もしなくても感じるものでしょうか?


神様さえも私たちを無言で何もせずに愛したのでなく、行動で愛を現しました。


愛が本当にあるならば、それは必ず見える形で現れます。

ですから神は “愛を見せなさい” と語りました。


イエス様の告別メッセージには、特に “愛” に関することばが多かったですし、それが重要なテーマでした。


本文でも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」と語りました。



また、次の箇所にはこのように語っておられます。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

【ヨハネの福音書14章23-24節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

イエス様はこのように “愛すること” が新しい戒めであると明確に教えて下さいました。


私たちは 愛し合うという新しい戒めを、どれほど守っていますか?


さらに、“神を愛すること”、“互いに愛すること” は切っても切れない関係であることが次の箇所に書かれています。


【第1ヨハネ4章7-16節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

愛を軽く考えてはならないことが、これらのことばでも分かりますね。


愛はことばだけで伝わるのではなく、イエス様を愛する人は主の戒めを守ることで、主への愛が証明され、互いに愛することで神への愛がその人の中にあることが証明されます。


愛は、いのちある種です。

蒔かないと実が結ばない種です。


主の名によってどんなに素晴らしい働きをしても 愛が抜けてあるならば、いのちの実がない葉っぱばかりの働きになってしまいます。


それは実を結ぶことを期待する主を裏切ることになります。


【第1コリント13章1-3節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

働きと賜物も重視しますが、それを価値あるものにするのは “愛” です。

愛のないものは主が受け取らないです。

この世の評価は すべて結果ですが、主の評価は “愛があるかどうか” です。


なぜ主は、愛で評価をするのでしょうか?

愛は結果ではなく “方向” だからです。


結果ばかり考える人は、目指す方向が “結果” ですから、働きや賜物を重視し、そこにいつも目を向けます。

ですから確かに結果はついてくると思います。


しかし主を愛する人は、愛の対象である “主” に目を向けます。

つまり 愛の方が働きよりも優先です。


ですから、いつも目も心もイエス様に向けます。
その人たちは、イエス様から目を離しません。



【ヘブル12章2節】

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

このように私たちがどこに目を向けるべきかを教えて下さいました。


愛は、愛の対象に関心があり、そこにすべてを向けます。

主がそのようにしました。


働きよりは 人に関心を示し、人を愛することがいつも優先でした。

私たちもそうあるべきであると主は教えました。


マリヤとマルタ姉妹のことは皆さんも知っています。

マルタは働き者です。
しかしマリヤは怠けているように見えました。


なぜならマルタは忙しく回っているのに、マリヤはイエス様の足元に座ってイエス様を見ながら話を聞いていたからです。


手伝わないマリヤを見て、マルタは腹が立ってイエス様にその不満をもらしました。

しかしイエス様からは意外なことばが返って来ました。


【ルカの福音書10章41-42節】

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

多くのクリスチャンが“マルタ状態”かも知れません。


熱心な人は主のために何かをしようとあれこれとやりますが、それが段々しんどくなり、主に会うと文句を言います。


ある人は、自分の仕事や遊びが優先で主と会う約束をいつも破ります。

礼拝や祈りの時間は主と先約した時間です。


しかし、よく破るのでイエス様はその人に会えないです。


イエス様は愛する人を待っているのに、その人が来ないと寂しい思いをします。


主が一番願うのは、私たちが主を愛することです。


そして主との時間を大切にし、主のことばに耳を傾けることです。

そして聞いたことば通りに行動することです。


これが主を一番喜ばせることです。


主を愛する時間もない人は、主を忘れ、いつか主も「あなたが誰なのか知らない」と言います。


いつも主を愛して共にいますか?
それとも忘れていますか?遠く離れていますか?


聖書でマリヤとマルタの姿を見ても、マリヤの方が主への愛が強いように見えます。


主を愛するのでイエス様から目を離さないでいましたし、主のことばは彼女には一番のごちそうでしたので、みことばを消化していました。


主を愛する人は 主の戒めをないがしろにせず守ります。

それは当然ですね。






ベロニカという女性が主の恵みによって地獄と天国を見学しました。

地獄に多くのクリスチャンがいる姿を見てとても疑問でした。

クリスチャンがいるとは思ってもみなかったからです。


それで 主にその理由を聞きました。


主の答えは「彼らはわたしを信じてはいたが、わたしのことばに従って生きることはしなかった。
多くのクリスチャンが教会の中、家族の前、知り合いの前だけおとなしく行動しているが、彼らは自分自身をいつも騙しながら生きているのだ。
私の父の目はすべてを見ているし、どこでもすべてのことばを聞いているのだ。」でした。


形式的で愛の冷めた結婚生活のような信仰生活を 主が喜ぶでしょうか?


主がもっとも望んでおられるのは愛の関係です。

主の愛は熱い愛なので、なまぬるい愛では満足しません。

“あなたの愛を見せなさい” と言われます。


信じる者として生きることは、愛の関係をずっと保っていくことです。


愛すれば愛するほど 心も霊的にも豊かになります。

そこから多くの実が結ばれていきます。


愛は話したり、考えたり、感じたりする以上のものです。

愛の関係が必要です。


イエス様は、私たちを愛して十字架に架かると話しただけではなく、実際に架かりました。

いのちを実際に捨てました。


喜んで自分を与えるのが愛です。

私たちのために十字架を負った主が語ったことばがあります。


【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

主を愛する者ならば 自分の十字架を負って主についていきます。


ある教会で 主の教えとは違って人間的な思いで「こんなに苦労の多い時代に 教会の中でも重たい話を聞くならば ストレスガ溜まって死にます。教会では慰めと平安と安息を得なければなりません。」といつも祝福のメッセージだけを伝えるところがあります。


主の十字架は愛です。

私たちを愛したので死にました。


私たちが負う十字架も愛の十字架です。主への愛です。


自分のストレスの方がもっと大切で、自分が負う十字架を嫌がって拒否することは 主を愛していない証拠です。


愛する人には十字架は決して重荷ではないです。

育児は大変ですが、それを重荷と思って育児を拒否するでしょうか?


大変でも子どもを愛するので犠牲を喜んで払います。

他の理由はありません。


主を愛する人は自分が負う十字架を見るのではなく、愛する主を見て、自分も十字架を負います。


イエス様に対する自分の愛に偽りがあるならば、それは愛ではないです。

愛のない者に主は分からないとまで言われました。


主を愛する者は 父なる神に愛され、イエス様にも愛されます。


愛の本質は まぎれもない愛です。

愛がないならば、それは値打ちも本質も中身もない形だけのむなしいものになります。

互いに愛することで私たちが主を愛していること、そして神を知っていることが分かります。


主を愛していますか?互いに愛していますか?
愛の実が結ばれていますか?


それとも自分だけを愛しながら満足していますか?
Σ(`□´/)/

2016.5.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神の選びと召しの目的

テーマは 『 神の選びと召しの目的 』 です


【第2テサロニケ2章13-14節】

しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。

ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。

日本では春と秋に園遊会が開かれます。

天皇、皇后の招待によって、議会の議長、各界の著名人、功績者などが配偶者と共に招かれるので 2千人を超える人々が参加します。


誰でも招かれるのではなく、その時に活躍した人たちが招かれると思います。

招かれた時に、嫌がって断る人がいるでしょうか。

特別な理由がない限り断る人はいないと思います。


むしろ天皇、皇后からの招待だからこそ 光栄と思って喜んで参加するでしょう。


私が思うには まことの天の神に招待されることほど、この世で一番光栄な招待はないと思います。


その価値を知らない人はそうとは思わないでしょうが。


園遊会で天皇と会話をしている人たちを見ると、みんな緊張しているのが見てわかります。


救われた人が いつか天国で神と対面した時はどうでしょうか。

緊張よりは あまりにも嬉しくて言葉も出ないと思います。

想像するだけで心にこみあげてくるものがあります。


神様が私たちを特別に選び、召されるにはどのような目的があるでしょうか?


功績も活動もしていない者たち、罪と咎の多い者をなぜ選ぶのでしょうか。

この世では招かれることもない者たちを 神様が選び召される目的を、私たちは知る必要があります。


知らないと価値が分からず、感謝も出来ず、宝物を持ち腐らせる結果になります。


神様ははっきりとした目的をもって私たちを選んで下さいました。

今回はそのことを伝えます。




1.救いとキリストの栄光を得させるために




今回の本文に そのことが書かれてあります。


神様が私たちを選ぶ目的は たましいの救いを得させるためです。

このことは救われた人ならば皆が知っています。


救われないと誰も神の国に入ることは出来ません。

神の国に入る第一条件は “救われること” です。


神の恵みと福音によって罪人が救われます。

決して人間の努力や力で救いを受けることは出来ません。


神の真理のことばを聞いて 信仰で受け止める時に、神の恵みによって罪赦され、救いを得ます。


そしてキリストの栄光を得させるためです。

人からの栄光ではなく、神の栄光を与えて下さるために召して下さいます。


勝利の行列に私たちを入れて下さいますし、キリストの栄光も与えて下さいます。




2.完全な者、強い者、不動の者とするため




【第1ペテロ5章10節】

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

私たちをありのままの姿で選んで下さる神様ですが、ありのままの姿で生きるのではなく、新しい人にするように私たちを変えるために召して下さいました。

これは祝福です。


神にあって私たちは変わります。

それも弱い者ではなく強い者に、完全な者に変わります。

召しの目的です。




3.聖潔を得させるため




【第1テサロニケ4章7節】

神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためでる。



4.キリストの平和を与えるために




【コロサイ3章15節】

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

救われた人はイエス様によって神と和解した人です。


和解した人に与えられるのがキリストの平和です。

罪人にはこの平和がありません。




5.神のしもべとして用いるために




【ローマ1章1節】

神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、

召されたすべての人は しもべとしておのおの主から受けた召命があります。
忠実に従う時に、神は必ずその人に良い報いを与えて下さいます。




6.祝福を受け継ぐために




第1ペテロ3章9節】

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。

祝福を受け継ぐために召された人は、祝福の種を蒔かなければなりません。


悪を蒔いて祝福を願っても祝福はありません。
蒔いた種が悪いからです。

祝福の種を蒔けば祝福を刈り取ります。


神は このようにすべて良いものを与えるために 私たちを選び、私たちを召されます。


しかし、このことを どんなに人に話してもほとんどの人は関心を示しません。

目に見えるものではないと見向きもしません。

(その人たちは)人からの栄誉ではないと興味も示しません。


ある人は 「そんなものは要りません」 と拒否します。

ある人は知ろうとしません。

また 疑います。
「今は忙しいから いつか考えます」 と言って、神の選びと招待を断ります。


これは本当に愚かな選択だと思います。
自分の祝福を自分で断ることです。


偉い人の招待は 他のことを犠牲にしても喜んで応じる人が、神の招待だけは嫌って断る人が多いです。


このように素晴らしい祝福をどこで得られるでしょうか?

そして、すでにこの召しを受けた人は 召しにふさわしく生き、絶えず神様から受けた恵みに感謝して、さらなる祝福を神から受けましょう。
(・∀・)


2016.5.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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