からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2016年03月

お知らせ

本日の 『からし種の信仰と成長』 は、更新をお休みさせていただきます。

いつも読んでくださっている皆様の上に、今週も神様の助けと導きがありますように。
アーメン(*・ω・)ノ

八戸ノ里キリスト教会

キリストの十字架がどう見えますか

テーマは 『 キリストの十字架がどう見えますか 』 です

【第1コリント1章18-19節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

4つの福音書には 十字架につけられたイエス様の姿がありますが、皆さんはその姿が想像出来ますか?

ムチ打たれ、いばらの冠をかぶっている姿を想像しますか?


私たちがどんなに想像しても、当時のイエス様の姿とは かけ離れています。


ある人が幻の中で十字架につけられたイエス様を見ました。
そして大きなショックを受けました。

それは自分の想像をはるかに超えた悲惨な姿だったからです。


ローマの刑罰で十字架につける犯罪人は、まず鞭打つことが慣例でした。

堅い皮のムチは先端だけが分かれていて そこに尖った鉛をつけて打つので、それが体をひどく傷つけるため、十字架につけられる前に死んでしまうこともあると言われています。


力強い兵士たちが 犯罪人を裸にして何十回も打つので、肉は全部裂かれ血が飛びます。


幻を見た人は、ムチ打たれて裂かれた体の部分がまるで線を引いたような模様になり、その傷は深く、骨まで見え、全身 血だらけで人間とは思えない姿であったと言いました。

あまりにも悲惨な姿で そのような姿は映画でも見たことがないと言っていました。


その姿を見た人たちに「この方は救い主で、あなたの罪のために十字架につけられて死にました。ですから信じて救われなさい。」と言うと、人々は首を横に振って信じませんでした。


「あれは犯罪人だ。神ではない。あんな悲惨な死に方をする者が救い主なわけがない。」と受け入れません。


現代人よりも、その時代の人々の方がもっと信じませんでした。

その姿を目の前で見ましたので、ほとんどの人が十字架につまずいてしまいました。

弟子たちは一生懸命に キリストの十字架を伝えました。


福音は キリストの十字架が核心です。


ですから伝えるメッセージも簡単で、“キリストの十字架の死と復活” でした。

『 十字架につけられて死んだ この方が人類を救うメシヤであり、王の王、主の主です。』 と福音のメッセージを伝えましたが、そのメッセージはユダヤ人だけではなく ギリシャ人にもローマ人にも受け入れ難いメッセージでした。


ローマ人の立場から見ると、十字架は 犯罪を犯した奴隷が 悲惨な死を遂げたことなので、救い主と認めることはナンセンスでした。


ギリシャ人は 常に理性的、哲学的知恵を追及しているので、野蛮な方法である十字架刑で死んだ者が 人類を救うことなどあり得ない と思っていました。


ユダヤ人は メシヤがそんな方法で人類を救うことが出来ないから、メシヤである証拠を求めました。

十字架から降りたら信じるとも言いましたが、(イエス様が)降りずに死んだので、メシヤとして認めることは出来ないと思っていました。


“十字架の上で死んで人を救う” ということが、彼らには愚かに見えました。


福音を伝えると必ず人々がこのような反応を見せるのでパウロは今回のテーマ箇所のように語りました。


【第1コリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

現代の人々はどうでしょうか?
昔とあまり変わらないです。

なぜ十字架に対する人々の反応がこんなに固いものでしょうか。


人々は何に憧れ、何を求めますか?

それは 強いもの、美しいもの、良いもの、魅力的なもの、知的なものです。

つまり苦難と苦痛、犠牲を避け、快楽を求めます。


しかし キリストの十字架は、何一つそれに当てはまるものがありません。


十字架を見ると、弱さ、惨めさ、辛さしか見えませんので、何ひとつ魅力的な姿がありません。


イザヤ書にキリストの姿が預言されています。


【イザヤ書53章1-3節】

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

人間の目には、魅力的な姿ではないと預言されています。

これがイエス様の時代や現代でも 十字架が拒まれる原因になってあります。


十字架が現代人の知的欲求、政治的欲求を満たすことも、個人の欲求を満たすことは出来ないです。


ですから「十字架にかかったキリストを信じなさい。」と言われても、それを認め 受け入れることが難しいです。


もし、キリスト教がキリストの十字架を伝えないで 道徳や倫理、愛、施し、正しいことだけを伝えるならば、もっと多くの人が気軽に受け入れると思います。


しかし“キリストの十字架が抜けた キリスト教”は、もはやキリスト教ではないです。






最近、韓国でも教会や伝道する時に キリストの十字架や罪、悔い改め等をほとんど言わず、祝福、恵み、癒し、繁栄のメッセージだけを伝える傾向が強いと聞きました。

それは人々が望むメッセージです。


伝道する時も、教会にはどのような娯楽施設があるか、サークルやイベントなどを宣伝して人を集めていると聞きました。


しかし初代教会の時代は “キリストの十字架”がメインでした。

パウロはキリストの十字架以外は語らないと宣言しました。


“キリストの十字架” に戻らないと、教会は堕落します。


どんなに人が集まっても、主は その教会を “死んだ教会゛ と言われます。


キリストの血なしに罪の赦しはないですし、救いもありません。


神を喜ばせないで 人を喜ばせるために、人々の負担になり、魅力的でないキリストの十字架をいつの間にか後ろに隠して、人々の耳に良い話だけをして 人の数を増やそうとします。


人の目には たくさん人が集まって成功しているように見えても、神の目には堕落した教会の姿でしか見えないです。


人間的な方法や やり方で人間の罪の問題が解決されますか?

人間がどんなに優れた知恵を持っていても、科学がどんなに発達しても解決出来ず、ますます増えていくのが “罪” です。


哲学者や政治家、心理学者も、罪の問題に対して解決策を出した人は1人もいませんし、宗教家たちも解決方法を提示した人は1人もいませんでした。


私たち人間の罪を解決できるのはイエス・キリストの十字架であることを認めなければなりません。


神の知恵である この“十字架” を無視して、人間の知恵だけに頼っているならば、罪の問題は決して解決されず、ますます罪によって 人類はさらなる悲惨な霊的状態になります。


イエス様は自分の十字架が人々を2つに分かれさせることを語りました。


本文にあったように、十字架を愚かだと思っている人は滅びますが、それを神の知恵、神の力と信じる人には救いがあると語りました。


【第1コリント1章23節】

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

十字架を見て救われる人もいれば、つまずく人もいます。


【ローマ9章33節】

「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

イエス様はご自身のことを「つまずきの石、妨げの岩」と表現しました。

それはイエス様を受け入れるのが簡単ではなく、拒否感が出てきて負担になるという意味です。


しかし 神様の知恵と思って受け入れる人には決してつまずくことなく、救いの岩になります。


人間の知恵によって十字架を見た人は、みんなつまずきました。

しかし十字架を神の知恵による救いの方法だと信じて受け入れた人は救いを受けました。


どちらが愚かな人でしょうか?

人間の知恵に頼っている人でしょうか、それとも神の知恵に頼っている人でしょうか。


人間の知恵には限界があることを 謙遜になって認めなければなりません。

そして十字架の秘密を悟るのは、人間の知恵で出来るものでもありません。



キリストの十字架の秘密は、“神の啓示と聖霊による悟り”です。

キリスト教は、啓示の宗教です。
人間の知恵によるものではないです。


自分が努力して救いに至ることはないので、神によって提示された救いを信じて受け入れることです。


キリストの十字架を正確に理解するためには 神の恵みが必要です。

すなわち 悟りの霊が必要です。


聖霊に頼り、神の知恵を求めることです。


【第1コリント1章25節】

なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

( ̄ー ̄)

2016.3.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストの十字架

テーマは 『 キリストの十字架 』 です

ハレルヤ
今日も平安がありますように


カルバリの丘で キリストが十字架にかかった時に、多くの人々が集まっていました。


そこにはあらゆる悪い人々がいました。

十字架にかかって苦しんでいる主を見て、勝利を歌いながら喜ぶ者たちがいました。


そこには狡猾な者、罪悪に満ちた者、主に対抗する者たちが多かったです。

そして自分を正しいと思い、自己主張の声が大きかった者たちでした。


キリストを憎み、殺意を持っていた人たちがキリストを十字架につけました。

次の箇所に彼らの様子があります。


【ヨハネの福音書19章15節】

彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」 祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」

その激し叫びに負けて、ピラトはキリストを彼らの手に引き渡しました。

殺人者たちの手に引き渡されたキリストは、あっという間に十字架につけられました。


十字架につけられたキリストを見る彼らの顔には、自分たちの思い通りになったことで、満足感と勝利に浸っていました。


そして苦しんでいるイエスに さらに彼らは「自分を救ってみろ」と嘲り呪いました。

良心の呵責(かしゃく)すら彼らは感じていませんでした。

皆、テロリストの姿と変わりなかったです。


別のグループの人たちがいました。


悲しみのあまり 声を出すことも出来ず、遠く離れて泣いている人たちがいました。


主から様々な恵みを受けた人たち、その恵みに感謝している人たち、主の苦しんでいる姿に心を痛めている人たちがいました。


彼らは何も言えず、黙って十字架のキリストを見ていました。

そして彼らは自分をキリストと共に十字架につけ、キリストと共に死にました。


キリストの十字架の前には、中間地帯がありません。

どちらにも属さないでいることは出来なく、ただの見物人で終わることは出来ません。


世の中のことは無関心であっても、それが罪に問われることは それほどないですが、人間を贖うために来られた救い主に対しては、神は「あなたはどちらにつくのか」と問われます。


今、あなたの前で「あなたの罪のために十字架にかかって苦しんでいる救い主を信じて救われたのか。それとも「こんな者は十字架につけろ」と 敵対する者になりたいのか」と聞いておられます。


私は十字架の主を、私の救い主として受け入れました。

皆さんはどうですか?
選ぶのはあなた自身です。
( -д-)ノ


2015.8.14
3分テレフォンメッセージ

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私たちのための主の祈り

テーマは 『 私たちのための主の祈り 』 です

【ヨハネの福音書17章15-22節】

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。

またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

今月はキリストの受難、十字架の死、復活があります。

その流れを今月のテーマとして語ります。


イエス様は いつも祈りをささげる方でしたが、特に自分の死が迫って来た時に、弟子たちのためにいつもより長い祈りをしました。

聖書に書かれたイエス様の祈りで、ヨハネの福音書17章の祈りが一番長いです。


その内容は弟子のため、また私たちのための祈りでした。

その祈りには、主の深い愛と主の願いがありました。


そして私たちに対する主の期待も反映されています。


今回は 祈りの内容に心を向けたいと思います。




・悪い者からの守りを祈る




悪い者に出会って良いことはありません。

サタンはいつも聖徒たちを狙います。


罪を犯させるために誘惑して、サタンがどれほど策略をもって働くか分かりません。


それに気付かず眠っている聖徒が多いのは事実です。

皆さんは目を覚ましていますか?
悪い者に いつも警戒していますか?


3年間、弟子たちと共にいたイエス様は 弟子たちの姿をよく見ていました。


肉の欲と思いで 互いに妬んだり、高慢になったり、争ったりする姿を見ました。

主と共にいながらも サタンの誘惑に負け、罪を犯していました。

そのことを深刻に考えている弟子はいませんでした。


悪者を警戒するように教えても、実行できていない弟子たちを見て、死が迫った時でも主は彼らのために祈りました。

主は 彼らの活躍、健康、幸せ、成功などは祈りませんでした。


なぜなら それより大切なことは、彼らが罪を犯さないことでした。


“罪” は神との関係を悪くし、いのちに関わることです。


人は罪を犯すと “罪の奴隷” になってしまいます。
それが神との関係を壊す要因になります。


“ 罪から来る報酬は死 ” ですので、悪の道へと誘う悪い者から守って下さるように祈りました。


この祈りはいつも必要な祈りです。

私たちも 神様に、悪い者から守って下さるように祈らないといけないです。

イエス様がそのように祈ったならば、私たちもそのように祈ることです。


実際に十字架にかかる前の晩に悪い者が近付くことを知っている主は 必死に祈りました。


そして弟子たちにも 「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい。」 と何度も命じました。

しかし眠気に負けた弟子たちは、誰も祈ることができず寝てしまい 祈りが出来ませんでした。


その結果、祈りがなかったので 人を恐れて、信仰から離れ、自分たちを愛し育てたイエス様をみんな裏切りました。


もし彼らのためのイエス様の祈りがなかったならば、彼らは誰も立ち直ることが出来なかったと思います。

そして主のための働きも出来なかったと思います。


ある時に、弟子たちが “祈りを教えて下さい” と言われた時に、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。」と祈るように教えました。

しかし彼らは その意味が分からなかったですが、あやまちを犯した後に その祈りの重要性をすごく実感したと思います。


弱い私たちも 主が私たちのために「悪い者から守って下さい」と祈ったように同じく祈ることです。




・聖別されること祈る




ヨハネの福音書17章17節にある 「真理によって彼らを聖め別ってください。」 と祈りました。


【ヨハネの福音書8章32節】

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

このような みことばがありますが、“真理を知ることは キリストを知ること” で、“ 自由になることはキリストを信じて信頼し服従すると罪から解放され罪に支配されることがない” ということです。


罪は私たちを汚しますが、罪赦され、真理の支配を受けると聖くなっていきます。


神の願いは 私たちが聖なる者になることです。

“聖” は神の属性です。


そして信じる者がますます聖化されることを主は願っています。

新しく生まれ変わった者にはこれが必須です。

次の箇所は “聖化” に関することばです。


【エペソ4章23-24節】

またあなたがたが心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

“聖化” は、聖霊抜きにして出来ることではありません。


聖霊が信徒の中に働いて、罪の汚れから解放し、新しい人にして、みこころに従うように、良い行いが出来るようにして下さいます。


“救われたので それで万事OKという事はない” です。


ますます聖なる者となるために、罪から離れ、真理に従うことが大切です。

聖め別たれることは、聖別されることですから、そのためには神の言葉に従うことが必要です。


みことばは 教えと戒めと矯正と義の訓練とに有益で、私たちを聖め、良い働きが出来るようにします。




・一つとなるように祈る




ヨハネの福音書17章21-22節で  一つになるように祈りました。


これは信徒たちが一つになることは もちろんですが、教会が一つになることを祈りました。


イエス様と父なる神は いつも一つでした。


教会はキリストの体で、かしらはキリスト、私たち信徒は 体である教会の各部分です。

そして教会が一つになることは、全世界の教会が連合するという意味ではなく、本質的な側面での統一性を意味します。


父なる神とイエス様はすべてにおいて いつも一致していました。


互いが愛し尊重していましたし、互いに高めていました。

それは素晴らしい関係でした。


それと同じように、私たちが 主と一致すること、聖徒たちもキリストにあって一つになることを祈りました。

教会の体の一部分になった信徒たちが “一つ” になることで、神とキリストを伝えることが出来ます。


分裂したり、争ったりすると キリストを伝えることが出来ません。

そんな所にたましいを導きたいとは誰も思わないですね。


年齢や出身、考えが違っても 互いに愛し合い、人を自分よりも優れた者と思い、互いに重荷を負い合う時に “一つ” になれます。


非難したり、壁を造ったり、差別することは みことばに背くことです。

主は私たちに合わせるために卑しい人間の姿になりました。

それが模範です。


大した者でもない私たちが高ぶった思いをもって一つにならないと、主もその人と一つになることが出来なくなります。


主が与えて下さった新しい戒めが、次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

これが一つになれる一番の方法です。

イエス様は、最後の日も このように弟子たちや私たちのために祈って下さいました。


その時、イエス様はどのような気持ちで祈ったのかをよく考えることです。

主の祈りが無駄にならないように、その祈りが自分の身になるように同じ祈りをしながら生きることです。


罪人、悪を行う者、汚れた者、分裂を起こす者は 神に喜ばれることも、御国に入ることもありません。

私たちを愛した主は 一人でも失われる者がないように、心を込めて祈りました。


日々、目を覚まして祈っているならば 悪者の誘惑に負けることはありません。

聖くなればなるほど 神を見ることが出来ますし、神の子と呼ばれます。

そして教会を愛し、キリストを愛し、聖徒を愛するならば それによって一つになれます。


主が祈ったように祈りながら実行してみましょう。
v( ̄∇ ̄)v

2016.6.14
聖日礼拝メッセージ

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