からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2015年10月

勝利の人生

テーマは 『 勝利の人生 』 です

【エレミヤ書29章11-13節】

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。― 主の御告げ ― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

2014年・WHO(世界保健機関)報告では、世界の自殺者は年間80万人超でした。


それは 40秒毎に1人が自殺していたことになります。恐ろしい数字です。


最大の数はインドの25万人、中国、韓国、日本も自殺者の多い国に入りました。

国々によって理由も様々で、ストレスや うつ病、貧困、いじめ、経済面なども理由に入りました。

孤独のために自殺した人も多かったです。


昔と比べ 社会も人間関係もストレスが多く、不安や絶望感が大きくなったので、人生に絶望し、将来を悲観して いのちを断つ人が多くなったと思います。

その人たちは人生に負けたと思いながら亡くなったでしょう。


将来に対して全く不安がないと言うならば、それは嘘だと思います。

周りで起こる様々なことを見ると不安が出てきますし、絶望することも出て来ます。


その時に 私たちは世の流れに自分を任せて行きますか?

そうすると人生に疲れて自ら命を絶ちたくなると思います。


エレミヤと言う預言者がイスラエルの民に神のことばを伝えていましたが、その当時イスラエルは国も無くなり、彼らはバビロンで捕虜の身となっていました。


彼らの罪の結果でそのようになり、そして捕虜生活は長く続きました。

その中で人々は絶望していました。


絶望的になっている彼らを見て、神様は預言者エレミヤを通して語りました。

その内容は素晴らしいものでした。


絶望の中にいる人たちにとって希望と勇気を与えるメッセージで、勝利の人生を生きるヒントがそこにありました。


今回は、そこから勝利の人生のヒントを学びたいと思います。





・自分が置かれた環境の中で最善を尽くす




にせ預言者たちは 耳に良いことばを人々に語り、「捕虜期間が早く終わって国に帰られる」と民たちを惑わしました。


しかし主がエレミヤに啓示したのは、捕虜期間は70年間続くということでした。

それで神様は、彼らが地に足がつかない生活ではなく、しっかりと地に足をつけて生きることを示しました。


【エレミヤ書29章5-7節】

家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。

妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。

わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」

これらのことばは、今も主の再臨を待ち望みながら歩んでいる私たちに必要なことばです。

たとえ明日 世の終わりが来ても、今日しっかりと地に足をつけて生きることを主は勧めています。


聖徒は決して現実逃避しながら生きる存在ではありません。


現実を認め、自分が置かれた環境に適応しながら、その中で自分に出来ることが何かを思いながら、小さなことに忠実な人にならないといけないです。


神が与えた環境の中で神の栄光を現すために、信仰を持って最善を尽くすことが主に喜ばれる人生です。

神様はその人に恵みと力を与えて下さいます。





・自分の人生を主に委ねる




【エレミヤ書29章11節】

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。― 主の御告げ ― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

愛とあわれみ深い神様が私たちに与えるのは、災いの計画ではなく良い計画です。

しかし、私たちが神様のみこころを知らず 信頼しないならば、私たちは試みに会い、試練にも会います。


幼子が親に自分を完全にゆだねて生きるように、私たちも霊の父である真実な神様に自分の人生を完全に委ねて生きることを主は要求しています。


いつも私たちはこの部分が一番足りないと思います。
神様は私たちの保護者です。


私たちは主の前では幼子と同じなのに、主に委ねることも頼ることもせず、自分の力で生きようとします。
それが問題です。


謙遜になって委ねるならば、もっと自由に幸せに生きることが出来ます。



ですから人生を主に委ねることを学ばないといけないです。


【詩篇37篇5節】

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

【箴言16章3節】

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。

神様が私たちのために計画を立ててあり、安心してそれに従うなら 神様は一歩ずつ私たちを導いて下さいますし、困難の中でも私たちを守って下さいます。



頭では分かっていても主に委ねることがなかなか難しいのは、信仰の弱さが原因です。

神様への信頼が足りなく、“心配と疑い”が委ねることを邪魔します。


信仰の勝利者は自分の人生を完全に主に委ねて歩みました。

アブラハムの姿を見てもそうでした。


【ヘブル11章8節】

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

自分に対する神様の計画を知った時に、完全に自分の人生を神様に委ねて従いました。

それによって彼は幸せで満足ある人生を送りました。


自分の人生設計だけがすべてと思う人が多いですが、すべて自分の計画通りになりますか?

それは神様が喜ぶ人生でしょうか。


神様の計画に自分の人生を委ねることが良い人生であり 幸せな人生です。





・いつも主を求めながら生きること




【エレミヤ書29章13節】

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

神様は私たちの祈りを喜んで聞いてくださる方です。


幼子が持つママたちがよく言う言葉があります。
私も子どもを産んで経験しました。


実際は赤ちゃんが泣いてもいないのに、耳に赤ちゃんの泣き声がずっと聞こえてきます。

泣いていると思って赤ちゃんの傍へ行くと寝ています。
そのようなことがよくありました。


赤ちゃんは泣くことで色々なことを伝えるので、ママは赤ちゃんの泣き声にいつも耳を傾けます。

それが赤ちゃんから離れると、泣いてもないのに 時々泣いていると錯覚してすぐに赤ちゃんの所へ行きます。


神様はこれ以上に私たちの声に反応して下さる方です。

私たちは神様に祈ることが出来ますし、祈りは神様の力と恵みを自分のところに下らせます。


「祈ったのに何も答えて下さらなかった」と よく聞きますが、果たしてその祈りが主の心に適う祈りでしょうか。


もしみこころに適う祈りならば、主は答えて下さいます。


【エレミヤ書33章3節】

わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

このように約束して下さいました。


問題や試練の中で自分1人で解決しようとする人たちが多いです。

神様に頼らず、人にも頼らない人も多いですが、それは不信仰の姿であり、高慢な姿でもあります。


聖徒たちは問題が生じた時は 何よりも先に神様を呼ばないといけないです。


熱心に神様を求めながら、神様の導きと指示を受けることです。


1人で頑張る人は力尽きて絶望することが多いですが、神様に祈り 信頼する人は必ず神様に助け出されます。


詩篇42篇に出てくる祈りは良い祈りです。


【詩篇42篇1-2節】

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。


【詩篇42篇5節】

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

【詩篇42篇8節】

昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。

主のことばは魂を生き返らせます。


私たちの人生を食い物にしようとするサタンの勢力がますます強く働いているので、いつも主を求めながら、自分の人生を主に委ね、現実の中で最善を尽くす時に 私たちは神様の助けと計画の中で必ず勝利の人生を歩むことが出来ます。
(・◇・)ゞ


2015.10.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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失敗しない信仰生活

テーマは 『 失敗しない信仰生活 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

今回のメッセージタイトルは「失敗しない信仰生活」ですが、なぜこのようなタイトルにしたかと言うと、「信仰生活に失敗も成功もない」と思っている人が多いからです。


たとえば日本では信仰を持っていない人でも、“死んだらみんな天国” という発想がありますね。

ですから 信仰を持っている人は、さらに自分は天国は間違いないと確信を持っているので、果たしてそうなのか?ということを確認したいと思います。


あなたの信仰生活は大丈夫ですか?と聞きたいです。


1節に、「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから」と ありますが、彼らは誰でしょうか。そしてなぜ私たちを取り巻いているのですか。

彼らは私たちの何を見ているのでしょうか?


多くの証人たちとは、へブル11章に書かれている信仰の先輩たちで、キリストの証人としての働きを全うした人たちです。

すなわち神に勝利者として認められ、天の御国に入れられた人たちです。

信仰を全う出来なかった人たちはその中にはいませんでした。


天にいる彼らは 主の恵みによって、私たちのことを天から観察しています。

彼らは信仰によって生きている後輩たちを応援するために、エールを送っています。


彼らが見ているのは、私たちの信仰の競争です。


大勢が参加する競走を見ると、最後まで全うする人、途中で棄権する人、脱落する人が必ず出てきます。

棄権や脱落する人は、信仰の競争を全う出来ず失敗した姿です。

誰がそこに入るかは分かりませんが、必ずいます。






私たちが棄権や脱落をしないためには、どのようなことに気をつけなければならないでしょうか?


まずは、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てることです。


いっさいの重荷を捨てることは、信仰生活を妨げるすべてのものを捨てる事であり、まつわりつく罪を捨てることは、徹底的に罪を悔い改めることです。


これをやらないと、その信仰生活は必ず失敗に終わります。

教会に通うだけで何とか済ませるようなことではないです。


信仰の競走が何年、何十年前にスタートしたのに、いつも同じ状態ならば、未だにその人は この2つに係わっています。


そのような人は、信仰の妨げになるものがあっても そのままにしていますし、罪に対しても甘い考えを持っています。

この2つを持っている人は、真の信仰とは何か?そして御言葉通りに生きることが どのようなことであるのかを知らない人です。


それは怠けた姿であり、やる気がまったく見えない姿です。

そして不信仰で 形式的に信仰生活をしているので、神はその人を見て “怠けた悪いしもべ” と言います。


みなさんはいつも罪を捨てるための悔い改めをしていますか?


現代教会の大きな問題は、罪と悔い改めのことを叫ばす、信徒の耳に良いことばや世の価値観と妥協するメッセージだけを伝えることです。


牧師が神を意識せず、信徒の表情を意識するならば 罪と悔い改めのことは語りません。

みことばを正しく教えないので、信徒が罪の意識も持たず、何を悔い改めたら良いのかも分かりません。

これはとても危険です。


罪を捨てないで信仰を全うすることができるでしょうか?

罪を悔い改めないと、その人は罪人の姿のままです。


罪を洗う主の血潮は 悔い改める時に注がれますが、悔い改めないならば 罪は洗われることなく、そのまま残ってしまいます。


全身汚れた姿で主の前に立つことが出来ますか?


その姿が天国にふさわしくない姿であることは自分でも分かると思います。

罪を捨てず、罪を犯し続ける姿を堕落した姿と言います。

その人たちに対することばがあります。



【へブル6章6節】

しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

例えば ずっと盗みの罪を犯し続けているならば、その人はイエス様の手に釘を打ち続けているのです。

また 思いの中で罪を犯し続けているならば、主の頭に いばらの冠を載せ続けているのです。


そうしながらも、いたずらに主の名を呼ぶことはあってはならないことです。


そしてどんなに辛くても信仰の競走は忍耐をもって走り続けることです。


イエス様は自分の十字架を最後まで負いました。

その十字架は、罪を犯したから負った十字架ではなく、悪い人たちが負わせた十字架でした。

正しいことをしたのに迫害されて負わせられた十字架でした。


主が最初から私たちに語った言葉がありました。



【マタイの福音書16章24節】

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

この十字架は自分が犯した罪によって負う十字架ではなく、信仰のために負う十字架、悪い者から受ける迫害の十字架です。


この場合は忍耐しながら最後まで十字架を負ったイエス様のように十字架を負わないといけないです。


忍耐に対して次のように言われました。



【ヤコブ1章2-4節】

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

この忍耐がないと試練の時に倒れてしまいます。


忍耐のために私たちは、私たちを取り巻いて応援する証人たちを見、そして励ましを受けることです。
そうすると、力が得られます。


【ヤコブ5章10-11節】

苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

試練の中でも忍耐して信仰を守り、神のことばに従順した人が証人であり、その人たちが信仰を全うしました。


祝福は受け入れても、苦難を拒む人は信仰の失敗者になります。






失敗しない信仰生活のために、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てること、そして忍耐することも重要でありますが、もっとも大切なことはイエス様から目を離さないことだと教えています。


信仰そのものがイエス様を信じることなので、イエス様を見ることは当然でありますね。


しかし見ていない人が多くいます。目を違う所に向けています。

これが失敗の原因になります。


信仰生活において、生きる目的や 目指す目標も すべてイエス・キリストに焦点を合わせないと、競走の道から外れてしまいます。


イエス・キリストに焦点を合わせないすべてのものは間違えています。


信仰生活も、天国だけに目標を置くならば、それも間違いです。

教会を大きくしたくて、教会成長だけに目標を置くならばそれも間違いです。


目標はあくまでも、“イエス・キリスト” でなければならないです。


イエス・キリストに焦点を合わせて信仰生活をするならば、天国には間違いなく入れますし、教会も成長していきます。


証人たちはイエス様から目を離さなかったので、試練の中でも忍耐し信仰を全うすることが出来ました。

イエス様の十字架の勝利を見たので自分たちの十字架を最後まで負うことが出来、そしてイエス様が受けた栄光を見たので、喜びながら競走を走り続けることが出来ました。


イエス様だけを求め、見つめ、思う人は つまずくことも競走にやぶれることも脱落することも失敗することもありません。

しかし目を離してしまうと、その反対のことが起こります。


イエス様から目を離さず、すべての目標もイエス様に定め、すべての焦点もイエス様に合わせましょう。

これ以外に失敗しない方法はありません。
v( ̄∇ ̄)v

2015.10.18
聖日礼拝メッセージ

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神に忠実な人

テーマは 『 神に忠実な人 』 です


クリスチャンとして会社には忠実でありながら、神様に対して忠実ではないことを 皆さんはどう思いますか?

会社の命令には何でも服従しながらも、神様のことばに対しては いつも不従順するならば、その人の主人は会社であって、神様ではありません。


その人は その会社の人間であって、神の国の人とは言えないです。

自分が誰に服従するかによって所属が分かりますし、どこの人間であるかが分かります。


聖書に“神の人”と呼ばれる人々がいます。なぜそのように呼ばれたのでしょうか?


彼らは決して弱い人間でも、知恵のない人間でも、力のない人間でもなかったです。

王も人々も彼らを尊敬し 恐れました。


国が危機的な状況にある時、敵に襲われて戦う術がなかった時に、神の人に祈りを要請し、助けを求めました。
神の人たちは権力や王、勇士たちを恐れない人たちでした。


決して弱い人間ではなく、誰よりも強い人たちでした。

その力と大胆さはどこから得たのでしょうか?


それは、彼らが何よりも神を崇め、神の御前に謙遜であり、神の言葉に徹底的に従順したので、神様は彼らと共にいて、彼らに神の権威と力を与え、彼らが開くと誰も閉じることができないように、そして 彼らが閉じると誰も開くことができないようにして下さいました。


神に忠実な人は、強い信仰と確信があり、自分が誰に所属しているのかを明確に知っています。

神に対しても信仰においても、曖昧にしているならば、その人には力がありません。

どっちつかずの不安定な生活をして、いつかは無所属状態になってしまいます。


そして、神様が自分に対して奉仕の働きを任せた時には、逃げ道を考えたり、「忙しい」と言い訳をして断るのではなく、パウロが告白したように告白してみましょう。


【第1テモテ1章12節】

私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

パウロは、自分に与えられた務めを 神様の素晴らしい恵みとして受け取りました。


神様は、私たちがいないと働きができないので私たちに奉仕をさせるのではなく、私たちを祝福するために その奉仕を与えています。

それを拒むことは、自分が楽になる道ではなく、祝福を失うことです。


世の仕事で得るものを大きく考え、神からの恵みを小さく考えることは計算が間違えています。

それは大いなる祝福を退けることになります。
失った後に その恵みの大きさに気付くことも多いです。

小さなことにも忠実な人に 神様は豊かな恵みを注ぎます。

神に忠実な者と認められることは栄光です。


また、奉仕の働きは素晴らしい恵みです。

霊の目が開かれて、その価値を知る者になりますようにお祈りします。
(*゚∀゚)っ

2015.7.7
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主から知らないと言われた人々

テーマは 『 主から知らないと言われた人々 』 です

【ルカの福音書13章24-27節】

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

福音書には、イエス様と人々の会話の内容がたくさん書かれています。

イエス様ご自身から 人に真理を話すことが多いですが、人々の質問に対してイエス様が答えて教えたこともありました。


本文のことばは、「主よ。救われる者は少ないのですか」という質問に対しての主の答えでした。


結論から言うならば、答えは「救われる人は少なく、救われない人が多い」ということです。


すべての人が救われることが主のみこころではありますが、現実はとても厳しく 実際に救われる人は少ないと聖書は答えています。


そのことが主の悲しみですが、その原因はあくまでも人間にあります。

その原因になっている人間の姿を見たいと思います。


今日のテーマは「主から知らないと言われた人々」ですが、そのように言われた人々が意外とたくさんいました。

一体どのような人に向かって主が「知らない」と言ったのでしょうか。


主の裁きの時、そして再臨の時は、キリスト者と呼ばれる人々の中からも羊とヤギ、麦と毒麦が分けられるように、本物のキリスト者と偽物のキリスト者がきれいに分けられます。


それまで一緒だったのに 急に2つに分けられ、主に受け入られる人と 主から知らないと言われ追い出される人が出てきます。


今その裁きが行れるならば、自分はどちらでしょうか?
メッセージを聞きながら考えて下さい。




不正を行う者




【ルカの福音書13章27節】

『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

主のことばをよく聞いてみると、“あなたがたがどこの者なのか知らない” とは言いましたが、彼らが不正を行う者であることは知っていました。

一見、矛盾しているように聞こえますが、これには意味があります。


【ヨハネの福音書10章27節】

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

イエス様が “知っている” という意味は、「その人が主のもの、主の羊」である意味で、知らないと言うのは「主の羊ではない」という意味です。


イエス様がいるところには いつもたくさんの人が集まり、一緒に食事をしたり、教えを聞いていました。

今も全世界の教会にはたくさんの人が集まって礼拝をしています。


しかし その中には、真実な信仰を持って主を愛し、恐れ、また御心にふさわしく生きるために悔い改めながら罪から離れる人もいれば、悔い改めと信仰のない偽善的、形式的な信仰だけで生きる人も大勢います。


主は同じ扱いはしません。
主に認められる人もいれば、あなたを知らないと厳しく言われる人もいます。

教会に出席する事が、礼拝に参加することが イコール “天国への保証” ではないです。


天国から拒否される人は、信仰をごまかしながら生きる不正を行う者です。

主は不正を行う人を羊とは呼ばないです。


本人たちが いくら「羊です」と主張しても、主の目にはヤギに見えます。

その人の姿が主に似ていないからです。


羊は主の所に入りますが、ヤギは外に追い出されます。


自分のことを てっきり羊だと思っていたヤギは、外に出されてから やっと自分の姿に気付き びっくりして必死でした。

それまではヤギとして形式的な信仰生活をした人たちが、死にもの狂いで「ご主人さま。開けてください」と必死に戸を叩くようになると、イエス様は話しました。


その時、外の暗闇に追い出された人にあるものは恐怖と絶望です。


必死に主の名を呼んでも、一度閉められた戸の向こうから聞こえてくる主のことばは、「知らない」という冷たい言葉だけです。
そのことに耐えられますか?

一度想像してみて下さい。それがもし自分だったならばと――。




不法をなす者たち




【マタイの福音書7章21-23節】

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

不法をなす者とは どのような人でしょうか。


真理を知っていながらも、真理通りに生きることをしない人たちです。


みことばを聞きながらも行わず、砂の上に自分の家を建てる人です。

主を信じると言いながらも、不法をなす者が大勢いると言われましたが、実際大勢います。


信仰の形はありますが、御言葉よりは自分の思いのままに生きています。

そのような人に対して次のように語りました。


【マルコの福音書7章6節】

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

これは神と人を騙している信仰の姿であり、偽りで信仰告白する人の姿です。

そして、偽宗教指導者が不正をなす者たちのことで、自分を偉大な主のしもべだと思って、人の上に君臨する指導者たちです。


自分が主の名によって力ある働きをするので、それに酔って、態度が高慢であったり、人を利用したり、また貪欲であったりと悪い実を結ぶと、主はその人に向かって 「不法をなす者。わたしから離れて行け。」と言います。


今は立派な働きのように見えても、いつか捨てられる時がきます。

そして、まことの羊飼いであるキリストに従わないで、悪い偽者の牧者に従っていく人々も 不法をなす者なので、主は “彼らを知らない” と言います。


異端の教祖、自分を再臨イエスという人間について行く者に対しても、主は「知らない」と言います。

主が再臨してもないのに「再臨した」と言うことが間違っているのに、多くの人が惑わされています。


また口では自分は神の子どもと言いながら、行動においては主のことばに耳を傾けないで、従順しない人に対して主は 「知らない」と言います。




油の備えが出来てない人




花婿を迎える10人の娘のたとえがあります。


【マタイの福音書25章1-12節】

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

  • 10人の娘 → “聖徒”
  • ともしび → 聖徒たちの “信仰の姿”
  • 油 → 信仰を維持させる “聖霊”
  • 花婿 → 再臨する “キリスト”
  • 夜中 → “罪が満ちた時 を意味する”

花婿が迎えに来た時間は夜中でした。

油の用意をしなかった愚かな5人は、残念ながら婚礼の祝宴に入ることも出来ず、花婿であるキリストに会う事すら出来ず、花婿から「知らない」と言われましたが、なぜでしょうか。


信仰の形はありますが、信仰を維持させる聖霊の働きがない信仰だったからです。

形だけの信仰は、主に喜ばれる信仰ではなく、それは死んだ信仰です。


生きた信仰は、聖霊の助けによって 神が喜ぶ聖霊の実を結ぶことが出来ます。

そして日々聖霊の導きを受け、主の再臨を準備するために目を覚ましていますので、油の備えがあります。


「いつか用意します」では遅いです。
いつまでも恵みの日が続くのではなく、いつまでも救いのチャンスがあるわけでもないです。

そして、いつまでも神様が忍耐していることもないです。


罪に満ちた世界は裁かれ、そこに残された人々が苦しみを受ける時がきます。


“実” のない信仰生活がその時、自分のいのちを救うことは出来ません。


いくら主を知っていると叫んでも主はあなたを知らないと言います。

主の基準で、私たちの行動が不正、不法であるかによって運命が変わります。


形だけのクリスチャンであった大勢の人が その時には慌てふためきます。


必死になりますが、戸が閉められてからは、すべてが終わりです。

いくら叩いても一度閉められた戸は開かれません。






いま神に逆らう人間が作る秩序が世界をどんどん支配しています。


罪が罪ではなく、真理を行うことが罪に定められるという おかしな時代になりました。

これは裁かれたソドムの時代や、ノアの時代と同じです。


ですから主は 「目を覚ましていなさい」 と警告しています。

最近、日本では大雨や台風に対して 「各自しっかりと対策してください」 と よく聞かれるようになりました。


国だけでは守ることが出来なくなったからです。

それと同じで、準備をしっかりしていないと後で大変なことになります。


目を覚ましていることは具体的にどういうことかを聖書から学びます。


【ローマ12章11節】

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

【ヘブル10章24-25節】

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

【ヤコブ5章8-9節】

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

【第1ペテロ4章7-8節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

世の終わりの姿は、政治・経済・社会などよりは、人々の姿に一番現れています。


どの時代にも 神の裁きは人間が堕落し、神に逆らい、愛が冷め、罪が満ちた時に起こりました。

自分が自分の身に裁きを招きます。


しかし知恵ある人は、万物の主を恐れ、その秩序を守り、時代を分別し、信仰によって備えをします。

いつも伝えていますが、形だけの信仰、眠っている信仰、不従順の信仰が自分を守ることは出来ないです。


「自分は大丈夫だ」 という安心感ではなく、危機意識が必要です。
( ̄‥ ̄)=3

2015.10.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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