からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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2015年08月

死の陰の谷はどこなのか

テーマは 『  死の陰の谷はどこなのか 』 です

【詩篇23篇4節】

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

詩篇23篇は、聖書の中で最も愛用されている箇所の一つですが、1節から6節まで全部暗記している人も多いと思います。


今はどのようになっているかは分かりませんが、アメリカの多くの兵士たちが戦争に行く時は 詩篇23篇を書いた紙をポケットに入れて戦場へ行ったと聞きました。


不安と恐れがある時に きっと慰めと力を受けたと思います。


4節に書かれている “死の陰の谷” とはダビデにとってどのような環境だったと思いますか?

私たちは “死” という言葉に反応して「死ぬほど辛い環境」を思い浮かべると思います。

生きるか死ぬか分からない環境の中で、必死に神に叫んでいる姿を想像するでしょう。


アメリカの兵士たちも死と隣り合わせの戦場で戦っていたので、詩篇23篇が慰めになったと思います。


ダビデも数々の戦いがあり、そこで守られたので、自分たちも守られると信じていたと思います。

死は人間にとって最大の恐れであり、最大の敵です。
この死は人間の罪から始まりました。


ですから、環境が厳しかったり、絶望的な中にいるので、そこが “死の谷” ということではないです。

人間が罪を犯して神との関係に問題が生じた時が、人生の一番恐ろしい死の谷であることに気付かなければなりません。


新約聖書でイエス様が 死の道といのちの道について話しました。


【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

主のことばによれば、狭く険しくて辛い道が死の道ではなく、そこはいのちの道でした。

そして広くて楽な道が祝福の道、いのちの道に見えますが、実は“死に至る道”でした。


私たちはダビデにとって死の谷がどこだったのかを知ることで、自分たちの人生でも どこが死の谷であるかを確認し、そこでどのようするかを学びたいと思います。




ガテのツィケラグの谷がダビデにとって死の谷でした




【第1サムエル記21章10-15節】

ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」

ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。

それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。

アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気が狂っている。なぜ、私のところに連れて来たのか。

私に気の狂った者が足りないとでもいうのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

ガテとはペリシテの国のことです。


ペリシテは5人の王がいる連合国です。そして ガテはイスラエルと国境を共にする国で、お互いの民が行き来したりもしました。

しかしいつも戦っている敵国でもありました。

当時、無名のダビデを一躍有名にした戦いがゴリヤテとの戦いでしたが、そのゴリヤテはペリシテ人でした。


そのダビデがサウルを恐れ、その追跡を避けて逃げたのが敵国であるガテで、そこでもダビデは人を恐れて気が狂ったふりをしました。

ダビデはこの時、どのような心境だったでしょうか。


彼が神を恐れ、神に頼っていた時には巨人ゴリヤテも倒しましたが、人を恐れた時には、心が不安になり、猫の前のねずみ状態で、いのちを守ろうと醜い姿を見せ、人々の物笑いになりました。

自分も恥をかき、神にも恥をかかせました。


そこからダビデは死の谷に足を踏み入れました。


ダビデはそれからアドラムの洞穴に避難しましたが、そこにイスラエルから色々な人が集まって来ました。

問題を抱えた人たちもいれば、戦いに強い勇士たちもいて、600人までに増えました。


以前は1人だったダビデが600人の部下を抱えたので不安と恐れが消えたでしょうか。

彼は相変わらずサウル1人を恐れていました。その時の告白が次の箇所です。


【第1サムエル記27章1節】

「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

このように思って、再びアキシュ王の所へ行き 安全に住む場所をお願いしました。


アキシュ王も策略家であるので、ダビデと600人を受け入れ、ツィケラグの谷を与えました。

そこでダビデは1年4か月も住むことになります。


サウルは二度とダビデを追うことはしなかったですが、ダビデはそこで何をしたでしょうか。

アキシュ王はダビデを自分の護衛長に任命しました。


“次期イスラエルの王になる” と神から言われたダビデが、敵国であるペリシテの王アキシュの護衛長として働いている姿は本当に情けない姿だと思いませんか。


ダビデにとって肉体的には ある意味安全でした。

そこにいればサウルから逃げる必要もありません。


しかし現実は 神と共に歩みながら、神に仕える姿ではなく、サタンに仕える姿になっていました。

彼は自分の思いで広い道・楽な道を選びました。


ダビデはそこでサウルから苦しめられることなく1年4か月も楽な生活を送っていました。

しかしそこにいる時の彼は、神への1つの賛歌も 信仰の詩も残すことはありませんでした。


ダビデがペリシテの王に仕えたことは人を喜ばせることであって、神を喜ばせることではありませんでした。


肉体は楽でしたが、彼の心は楽ではありません。
その場所で神を礼拝することはありませんでした。


いくら肉体が楽でも、神を礼拝出来ず、神に仕えることが出来ないならば そこが地獄です。


地獄は苦しい場所よりも、神と断絶されたところが地獄です。


その地獄が “死の陰の谷” です。


福音を伝えた為にむち打たれ、牢獄に入れられたパウロとシラスが真夜中に神を賛美し祈りをささげた時に 主がそこに共におられました。

牢獄であっても、主がおられるならばそこが天国です。


自分の肉体を喜ばせ、楽をさせるために礼拝も平気に休んだりするならば、自分がいま死の谷を歩いていることに気付かないといけないです。


広い道、楽な道はいのちの道ではなく、死の道であると 主がはっきりと言われたからです。


ダビデは死の谷で多くの問題にぶつかることになりました。

同族であるイスラエル人とも戦わなければならない場面もあり、家族や財産も全部奪われ、仲間に石打ちにされそうにもなりました。


神様の憐れみと助けがなかったならば、ダビデはイスラエル人から一番憎まれる人になって殺されていたと思います。

自分から死の谷に入りましたので、死にそうなことが起こります。


彼がそこから助け出されたのは神の恵みでした。

ですからダビデは詩篇23篇でそのことを告白しました。


色々な出来事を通して やっと自分がとんでもない所にいることに気付き、神に立ち返ることになりました。


楽な道、広い道を求めてはいけないのは、そこが地獄へとつながる入口だからです。


神が導く道ならば安全ですが、自分の肉の思いから考え出した道は誘惑が多いですし、そこが死の谷になります。




ダビデにとって死の谷はサタンの罠に落ちた所




それはある日起きました。


【第2サムエル11章2-4節】

ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか」との報告を受けた。

ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。―― その女は月のものの汚れをきよめていた―― それから女は自分の家へ帰った。

その時、国は戦争中でしたが、ダビデ王は軍隊を送り出して、自分は遅くまで寝ていて夕暮れにやっと起きました。

ここで彼の生活も霊的状態も怠けていることがすごく分かります。


【マタイの福音書26章41節】

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。

このように主が言われるには意味があります。

いつも信じる者を誘惑しようとサタンが待ち構えているからです。


ダビデは油断していました。
神を経験し、また神は彼を祝福しました。

ですから自分が誘惑に陥るとは考えていなかったです。


しかしサタンは休まず誘惑、罠、策略をつねに考えながらチャンスを狙います。

そして霊的に油断しているダビデを一人の美しい女を通して誘惑しました。


油断していたダビデはあっという間にその誘惑に陥りました。


彼は王宮の屋上から、死の谷に転落しました。

そこから彼の長い地獄生活が始まりました。


女が妊娠してしまい、それを隠ぺいするために様々な策略を試しましたが失敗に終わり、ウリヤが殺されるように仕向け、ウリヤは死にました。

その後、バテ・シェバを自分の妻にしましたが、それは主のことばをさげすむことであり、とても悪いことでした。


生まれた子は死にましたし、家庭に多くの災いが起こりました。

ダビデがそのような罪を犯していた時には、神を呼んだことはなく、神の前に出ることすら出来ませんでした。


もし神が彼を見捨てたならば、彼はどうなっていたでしょうか。


しかし、この時も彼を死の谷から救い出したのは神様でした。

預言者を通して彼を戒め、罪を赦したと宣言しました。


彼自身のあやまちによって二度も死の陰の谷を歩きましたが、神の憐れみと赦しによってそこから救い出されました。


広い道で自分の欲に従って歩み、自分の欲望を満たしても、それが神なしの人生であるならば、その先はいばらの道が待ち構えていることを知らなければなりません。


本当の死の谷は神のみこころにそむいて歩く道、自分の肉の欲望に従う道、神がいなくても平気と思いながら進む道です。それが本当に怖い道です。


生活が苦しくても、問題が大きくても神に求めるならば、神はそのことで死ぬことがないように助けて下さいます。


しかし広い道、楽な道で楽しいと思いながら歩き、私は大丈夫だと思っている人は自分がいつ つまずくかわかりません。


気楽に歩くその人が一番危ない人です。
なぜなら自分が永遠の死の谷を歩いていることを知らないからです。


いま楽な道だからと安心していますか?
私は大丈夫だと油断していませんか?

誘惑を祝福と勘違いしていませんか?
神抜きでも何の問題もないことを喜んでいますか?


ダビデが通った死の谷をみて考えて下さい。
ヽ(TдT)ノ

2015.8.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主が喜ぶことをする

テーマは 『 主が喜ぶことをする 』 です

【箴言21章3節】

正義と公義を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。

主が喜ぶことが何かに対して考えたことがありますか。


偉大な信仰の人たちを見て分かることは、彼らは主を喜ばせた人たちでした。

主が喜ぶことをするならば、主もその人を喜んで下さいますし、主が嫌うことばかりをするならば、主もその人を嫌います。

主が喜ぶなら祝福がありますが、主が喜ばないなら 祝福はどんどん遠のきます。


私たちが神を愛し、信じるならば、主が何を喜ぶかに対して特別な関心が必要です。


なぜならば、私たちは自分を喜ばせるために神を信じるのではなく、神を喜ばせるために存在しているからです。


そのために私たちは 主が何を喜ぶかを知ることは、基本中の基本です。

今日の本文にも主が喜ぶことを私たちに教えています。





・正義と公義を行うこと




正義と公義は、人間が追及すべき絶対的価値があるものです。


なぜかというと、聖書が示す “正義と公義” は神のみことばを実践することだからです。


罪は神の言葉に違反した時に生まれました。

罪ほど神を怒らせ、悲しませるものはありませんし、神が一番忌み嫌うものです。


私たちは自身が罪を犯しながらも、他人が犯す罪に対しては怒りを発し 腹を立てます。


先日、殺された中学生たちのことを思うと、罪を犯した犯人に対して怒りの思いが出て来ます。

その犯人を赦して下さいという思いが出て来ないです。


ですから私たちが神に対して 人に対してひどいことをする時に、神様はどのように思うでしょうか。

決して喜ぶことはなく、まずは神の怒りが出てくると思います。


その罪がいけにえで解決されるでしょうか。
旧約時代はいけにえで解決されると思って、いけにえばかり捧げました。


正義と公義を行わず、罪を犯して いけにえばかり捧げたとしても、それで神を喜ばせる事は出来ません。

いけにえよりも、正義と公義を行うことを主は喜びます。


正義と公義を行うためには、まず すべきことがあります。

それは罪を認め、主に悔い改めることです。





・いけにえよりも 悔い改めと神の言葉に聞き従うこと




神は、私たちが罪を悔い改めて神のことばに従うことを願うのに、それをせず 奉仕や捧げもの等でごまかすことを嫌います。


サウル王が神の言葉を無視した後、分捕り物の中から羊と牛を残した理由を、“神へのいけにえのためである” と言われた時に、サムエルが語ったことばを皆さんも聞いたことがあると思います。


【第1サムエル記15章22節】

するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

神様は、主のことばを素直に聞き従うことを喜ぶ方です。

それが主を恐れる姿であり、主の権威を認める姿です。


そして罪を犯した者が言い訳したり ごまかしたりせず、素直に悔い改めることを喜んで下さいます。


ダビデ王も神の前に罪を犯し、しばらくは悔い改めることをせず、罪を隠したままでした。

しかしそのことで彼と神の関係は悪化していました。


悔い改めた後のダビデの告白を聞きたいと思います。


【詩篇51篇16-17節】

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

私たちは日々、罪を犯しています。それを素直に認めて神様に悔い改めていますか?

主は罪を赦して下さるお方です。


罪人を受け入れて共に食事をしているイエス様を非難した宗教家たちに主は次のように言いました。


ルカの福音書15章で失われた一匹の羊のたとえを語った後に次のように語りました。


【ルカの福音書15章7節】

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。




・主を正しく知ること




神ほど誤解される存在もいません。

目に見えないので人間が勝手にあれこれと言います。


もし自分のことをよく知らない人間が、自分のことを誤解して違うことを勝手に言うならば、どのような気持ちになりますか?

人間が勝手にいうことばを聞いて主はどのように思うでしょうか。


【エレミヤ書9章24節】

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。― 主の御告げ ―

神を知る努力もせず、自分勝手な神のイメージで神を誤解することは愚かなことです。

自分勝手な信仰生活をしながらも、それが神に受け入れられると勘違いすることも愚かなことです。


主を正しく知ることで、私たちは真理の中を歩むことが出来ますし、まっすぐに歩くことが出来ます。

そのことを主は喜びます。





・絶えずささげる感謝



【第1テサロニケ5章18節】

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

感謝されると、心が自然と嬉しくなります。

感謝は、恵みやありがたさを知っているので出ることばです。

“こんなもん” とか “当たり前” としか思わない人からは感謝は出ません。


いつも口から感謝がこぼれる人を主は喜んで下さり、恵みを注いで下さいます。

それは神の耳に美しい歌のようです。





・神に対する信仰




【ヘブル11章6節】

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

無神論者、偶像崇拝者、信仰の薄い者は神に喜ばれることはありません。

純粋に素直に神を信じる者を主は喜んで下さいます。


自分が持っている信仰が果たして神に喜ばれる信仰かどうかを知る必要があります。

喜ばない信仰をいつまで持ち続けても、それが自分に何をもたらすでしょうか。


主が喜ぶすばらしいいけにえがあります。


【ヘブル13章15-16節】

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。

神をほめたたえ、人を心から愛し、みことばを実行する時に、主が喜ぶことは当然なことだと思います。


その他にも主が喜ぶことがありますので、それはみことばだけを伝えたいと思います。

みなさんが心に留めて、実生活の中で実行出来たら主は喜んで下さいます。


【箴言11章20節】

心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。




・福音伝道




【ローマ10章15節】

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」




・神へのささげもの




【ピリピ4章18節】

私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。




・祈り




【黙示録5章8節】

彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。

これらのみことばによっても分かるのは、神を喜ばせることはハードルが高くて難しいことは何もないです。


私たちが神への愛と関心と信仰の心があれば、すべては今すぐにでも実行出来ます。

神は誰にでも出来ることを求め、それに従う人を喜んで下さいます。

神に栄光をささげることは、神が喜ぶことをすることです。


愛は相手が喜ぶことをすることです。

それが犠牲を払う事でも、愛があればその犠牲も喜んで払います。


神を愛していますか?
(・∀・)

2015.8.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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誰が冠を受けるのか

テーマは 『  誰が冠を受けるのか 』 です

【第2テモテ4章6-8節】

私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けて下さるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けて下さるのです。

世界で最も値段の高い王冠や宝石をインターネットで調べてみました。

100億円を超えるものから 何十億円のものまでありました。


イギリス王室の王冠などは 宝石がたくさん装飾されており、とても高価に見えますし、他の国の王族やお金持ちが高い宝石を所有していました。


しかし、どんなに高価で輝く王冠や宝石であっても 誰1人それを死後の世界にまで身につけて持っていった人はいません。
誰もが地上に残して行き、その所有者が次々と変わっていきます。


永遠に自分の物にはならず、あっという間に自分から離れて行くものと知っていながらも、人々は地上の様々なものを得るために、自分のいのちさえも惜しまずに必死の努力をします。



最近、東大阪市で 64歳の兄が、61歳の弟を殺害する事件が起きました。

親が残した財産による金銭トラブルでした。

親は子どもの幸せと思って財産を残しましたが、結果は悲惨なものになりました。


持っているために生じるトラブルはたくさんあります。

それでも人はそんなことは心にも留めません。


聖徒もそうやって生きるべきでしょうか?

朽ちて行くものを得るために人生を懸けるべきでしょうか。


聖徒の生き方はそれとは違います。

聖徒が得ようとするものはむなしく消えて行く世のものではなく、永遠に消えることのない神が備えておられる冠です。


それは神様が与えて下さる聖徒への報いです。

しかし聖徒という理由だけで、自動的に受けられる冠ではないです。


ある人は、“それならあまり価値がない”と言います。


冠が勝利者に与えられるものであることを知らないといけないです。


それならば、どのような人が冠を神様から受けるでしょうか。
今回はそのことを学びたいと思います。




1.人生の最後まで勇敢に戦い、忍耐によって自分の信仰を守った人




主に選ばれ、主を信じた人たちが皆 最後まで信仰を守り、主と共に歩むと思いますか?
――そうではないです。


多くの人が主から離れて行きます。

イエス様の12弟子の1人であったイスカリオテ・ユダも主を裏切り、去って行きました。


また、イエス様が語ったことばに対し、自分たちが気に入らないという理由でつぶやきながら、12弟子ではない他の多くの弟子たちも離れ去っていき、もはやイエス様と共に歩かなかったと聖書に記録されています。


パウロと共に福音伝道に仕えていたテマスも 世を愛した為、パウロを捨てて去って行きました。

毎日奇跡を体験し、神の存在が明確に現れているのを見ながらも、神から離れて行きました。


実際に この教会でも信仰告白をして救われた人が ずっと教会に残っていたならば、今 空いている席はだいぶ埋まっていると思います。


しかし他の教会に移った人よりも 信仰を捨てた人の方が多いので、とても残念に思います。


なぜそのようになってしまったのかを考えると、サタンに惑わされて不信仰になったり、富の誘惑に目がくらんだり、この世を愛する心が強くて、信仰を捨てて世に戻りました。



信仰の道、いのちの道は狭い道であると 主が語って下さったように、その道を歩むためにはこの世から来るあらゆる誘惑や試み、試練に忍耐しながら戦わなければなりません。


ですから信仰を最後まで守ることは簡単なことではないです。


また、時には信仰のために家族や親族、職場からも反対されたり、迫害されたり、侮辱されたり、不当な扱いを受けたりします。

それで信仰を捨てた人も多いです。


しかし そのような中でも、神から離れず信仰を守った人たちには神が素晴らしい報いとして冠をその人たちに与えることは当然のことです。


神は初めから信仰の勝利者のために、永遠に消えることのない いのちの冠、栄光の冠を備えておられます。


いのちをかけて信仰を守ったのに何もないならば、それほど虚しく無駄なことはないです。

しかし神様はそのようなことはなさらない方なので、豊かに祝福して下さいます。


【マタイの福音書24章13節】

しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

このような約束がありますが、救われることは いのちの冠を得ることを意味します。


このいのちは永遠のいのちです。
いのちほど大切なものはないので、これほど素晴らしい祝福はありません。




2.自分に与えられた使命や働きに忠実な人




パウロが神からの冠を期待する理由は、神から与えられた “走るべき道” を走り終えたからです。


走るべき道がまだ残っているのに走りを中断したのではなく、“疲れたから後はゆっくり休もう” ではないです。

ゴールは、“いのちが尽きるところまで” が走り終える地点です。


ある牧師の話です。

年を取ったので、教会からも引退するように言われ、引退しました。

奥さんの方が先に亡くなり、牧師は子供たちに迷惑はかけたくないということで、老人ホームに自ら入りました。


しかし、そこで何もせずに時間を過ごしたのではなく、周りの入居者の様子を見ていました。

そこには寂しさを感じている人、問題を抱えている人、病気の人など様々な人たちがいました。


そこで牧師は毎日 人々の世話を始めました。
そうすると、皆がとても喜んでくれて、施設の関係者たちもすごく喜んでくれました。

そして、全員がその牧師のことを “神様が送って下さった天使” と呼びました。


これが忠実な働きです。

言い訳が多いのは忠実とは言えないです。


私たちは、“死に至るまで忠実でありなさい” と言われています。


神様が(その働きを)取り上げない限り、自ら辞退をしないことです。

それは主から受ける冠を自分から拒否することになります。






ロサンゼルスオリンピックのマラソンで、ある女性選手がフラフラと意識が朦朧になりながらも、ゴールに向かって歩きました。

何度も倒れそうになりながら、ゴールまで辿り着いて倒れました。


選手としてずっと目指して走って来ましたので、簡単に諦めることが出来なかったと思います。


その姿に皆が大拍手を送りました。

メダルは取れませんでしたが、最後まで走りぬく姿勢は 私たちに感動を与えました。


自分に与えられた神からの奉仕をないがしろにして、忠実でもないのに神様が与えてくださる冠に対しては関心と期待が大きい人がとても多いです。


しかしこのような人たちには、忠実な人だけに与えられる冠を受けることが出来ません。


神の働きをするためには、自分がしたいことを先にしてから 残りの時間ですることは出来ません。
神様は、“神の国とその義とをまず第一に求めなさい”と語りました。


自分のことよりも、神様の働きをまず考えて忠実に働いて下さい。


黙示録でも忠実な人たちだけに与えられる祝福がたくさんありました。

そうではない人たちには「悔い改めなさい」と言われました。


「昔はよく奉仕をしましたが、今はしていません」という人たちがいますが、それは自慢話ではなく、その人が忠実な者から今は怠け者になったことを意味します。


特別な事情も もちろんあると思いますが、本当にそれだけの理由なのかをよく考えてみて下さい。

神様は心の内を誰よりも知っておられるからです。




3.福音を伝える人




イエス様がわざわざ地上に来られた目的は何でしょうか。


【ルカの福音書19章10節】

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

イエス様ほど魂に対して関心が強い方はおられません。

神様が1番喜ぶのは、失われた魂を捜して救うことです。


よみがえってから天に上る時に、弟子たちに命じたのが 全世界に福音を宣べ伝えることでした。

福音を伝えるのは聖徒たちに与えられた使命です。


自分だけが救われて天国に行くのではなく、他の人も天国へ行けるようにと福音を伝えます。


弟子たち全員は、なぜ殉教しましたか?
――彼らが主の命令に従って福音を伝え、福音を拒否する人たちによっていのちが奪われました。


日本でも韓国でも、初めに福音を伝えに来た外国人の宣教師たちが多くいのちを落としました。
そして信徒たちも殉教しました。


福音の内容もまともに聞かず、最初から反対されました。

心の頑なな者は聞く耳がないです。


古いものに執着を持っている人や既得権を持って良い思いをしている人たちは、新しいものに対していつも反対し妨害します。
それは全世界どこも同じです。


それでも逃げず、恐れずに福音を伝えることが大切です。


なぜなら福音を聞かせないと彼らは救われることがないからです。

反対する人の中にも、聞いて信じる人がいるかも知れないです。


パウロは福音に命を懸けました。

その様子は次の箇所です。


【第1テサロニケ2章9節】

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

神様はこのように、主のことばに従いながら、働く人に目を留めておられます。

そして彼らの労苦と苦闘に、報いとして栄光の冠をその人たちに与えて下さいます。


この世でも最善を尽くした時に良いものを得ますが、主のために最善を尽くして働いた者たちに対する神からの報いは、私たちが想像することも出来ないほど尊い物であり、永遠のものです。

価値あるものを目指すのが、無駄な人生を歩まない方法です。


財産、権力、名誉、欲しい物のために命を懸けて最善を尽くす人がたくさんいますが、それによって神からいのちの冠、栄光の冠を受けることは出来ません。


聖徒の人生は価値があり 尊いものですので、(まだ救われていない人とは)目指すものが違います。


素晴らしいものを用意しておられる神様に期待しながら、この世で走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し、そして人々に福音を伝えることです。


そのようにしている人は神様が用意した素晴らしい報いがあります。

それは永遠にその人の冠として その人に栄光を与え続けます。


人それぞれの働きに神は正しく報いて下さいますので、いのちと栄光の冠を受けられるように 与えられた人生で最善を尽くしていきましょう。
( ̄∠  ̄ )ノ

2015.8.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神のみこころに従って生きる日常生活

テーマは 『  神のみこころに従って生きる日常生活 』 です

【第1テサロニケ5章19-24節】

御霊を消してはなりません。

預言をないがしろにしてはいけません。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

悪はどんな悪でも避けなさい。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

先週の聖餐式の後に 神様が急に語ったことばがありましたので、皆さんに伝えました。


神様は「良いものを守りなさい」と語りました。

その時に少しだけ説明をしましたが、主がなぜそのことを語ったのでしょうか。


私たちはあらゆることを見て、今の時代が 以前とは違う終末の時代であることを見ていますし、感じています。

終末ということばは 今に始まったことばではなく、昔の人々もその時代を見て語っていました。



終末は まだ来ていない “未来” のことですが、既に自分たちが生きている生活の場、自分の人生の中で動いている人生の過程の延長とも言えます。


終末と言っても何か特別なものとして現れるのではなく、今のように 日常があり、その先にあるのが終末です。


ですから私たちは今の平凡な日常生活の中で 終末論的な霊性をもって生活しないと、主の再臨を喜んで迎えることが出来ないだけではなく、主に責められるようになります。


パウロは終末を生きている聖徒たちに「神のみこころに従って生きる日常生活」を教えました。


今日はそのことについて学びます。




「御霊を消してはいけません。預言をないがしろにしてはいけないです。」




神によって生まれ変わった人の生活は、肉の欲望や自分の思いのままに生きる生活ではなく、御霊に導かれて、御霊と共に歩む生活です。

そのような生活をするには御霊を消しては出来ないことなので、御霊を消してはいけないです。


御霊を消すことはどのようなことでしょうか?


御霊は神なので、実際に私たちがその存在そのものを消すことは出来ません。

本文での “御霊を消してはいけません” の意味は、聖徒が御霊の御心に反抗したり、その導きを拒否して、聖霊の活動を制限することを意味します。

つまり 聖霊が働けないように邪魔をしたり、妨害したりすることです。


聖霊は信じた時から私たちの中におられ、天国まで導く方ですが、クリスチャンになったからと言ってすべての人が聖霊に従って生活しているとは言えないです。


自分の欲望のために聖霊の導きを負担と思い、神の声を聞くことを嫌がります。

皆さんもこのことを経験していると思います。



いつも喜んで神の声を聞き、導きに従っているでしょうか。

自分の思いと合わなかったり、自分の計画と違うと、神様の導きよりも自分の思いのままに動くことが多いです。


そのような自分の思いがあるので、神から預言のことばを聞いても それをないがしろにします。


私自身、神のことばを伝えたのに、それに対して腹を立てられ攻撃されたことが今までに何度もありました。

そして聖霊の賜物に対しても否定したり、不道徳な生活を続けるとそれは神の品性とは合わないので聖霊が悲しみ、それによって聖霊の活動も制限されます。


聖霊の活動が止まると、信仰生活の中で喜びが消えるのはもちろん、聖霊の実を結ぶことも出来ません。
そして心の中には不安と恐れ、葛藤が生まれてきます。


イスラエルの初代王であったサウルが聖霊に従った時には 彼自身聖霊に満たされて良い実を結び、心も平安でした。
しかし神に逆らい始めた時から、彼の心から喜びも平安も消えて、不安と恐れに悩まされるようになりました。


ダビデも神の言葉に違反して罪を犯した時には聖霊の活動が止まり、彼の心からも平安が消えて、毎日葛藤の続く生活をしました。


神の霊的権威に逆らう生活をすると信仰生活に混乱が生じ、健全な霊的生活は出来なくなります。


士師時代の一番大きな問題は何か分かりますか。
士師記の最後のことばが問題の核心です。


【士師記21章25節】

そのころ、イスラエルには王はなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

王がいないことが問題ではなく、イスラエルの王である神のことばに従うことをせず、皆 自分がしたいようにしました。これが問題でした。


聖霊がなさることを、いちいち人間があれこれと判断し始めると恵みは消え、冷たい律法という物差しと自己義だけが残ってしまいます。

それでは良い実を結ぶ信仰生活は出来ません。


御霊を消さないためには自分の不信仰と かたくなさとを捨て、自分の経験に頼らず、神の導きとみことばに頼ることです。




「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」




肉の欲に従う人に欠けているものは、正しい分別力と判断力です。
なぜなら、欲に目がくらむからです。


しかし私たちのうちにおられる聖霊に支配され、聖霊に導かれるならば、聖霊は私たちに悟りを与え、導いて下さいます。


良いものと悪いもの、有益になるものと害をもたらすもの、創造的なものと消耗するもの、永遠のものと一時的なもの、神が喜ぶものと神が悲しむもの、神の国と世のものを分別させ、私たちの人生に良いものが残り、それによって良い人生が送れるように助けて下さいます。


【ピリピ4章8-9節】

最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいて下さいます。


本当に良いものを堅く守るために、自分が良いと思うものではなく、神が良いと思うものが何かを知ってそれを受け入れ堅く守ることです。

日常生活の中でいつも神の基準に従って何が良いものなのかを試し、良いものだけをつかんでそれを奪われないように守ることです。




「悪はどんな悪でも避けなさい。」




良いものを堅く守るためには、悪を避けなければなりません。
悪は良いものを傷物にし、ダメにしてしまいます。


外側だけ敬虔なパリサイ人や律法学者に対して、主は厳しく彼らを叱りました。

彼らが悪を避けず、それを自分たちの中に持っていたからです。


【マタイの福音書23章25ー28節】

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。

目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。

そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

彼らのような生活を もし私たちがいま続けているならば、それは主の再臨を待ち望んでいる人の生活とは言えず、終末を生きている人としてふさわしくありません。

なぜなら必ず主に責められるからです。


聖徒たちは平凡な日常生活の中でも、聖別した生活をしないといけないです。

主が 「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でありなさい」 と命じているからです。


形式的な宗教生活で自分の魂が救われるのではないです。


神の御心に従い、御霊の良い実を結ぶ人は 主の再臨の日に恥を受けることはないです。

そして そのように生きる時に、霊、魂、体を主は守って下さいます。


時間は止まることなく、確実に世の終末に向かって進んでいます。

いま私たちは終末に向かって日々歩んでいます。


誰もが主の前に立つようになります。


その日が、恥を受ける日、後悔する日にならないようにしましょう。

そうではなく、すべての労苦が報いられる日、喜びの日になるようにしましょう。


神の御心に従って歩んでいる人の終末は、希望ある明るい終末です。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚


2015.8.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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天国の扉

今週は、礼拝メッセージの更新をお休みさせていただきます。
毎週楽しみにしてくださっている皆様に以前の3分テレフォンメッセージを載せました。
まだ3分テレフォンメッセージを聞いたことがない方は、毎日24時に更新していますので 恵みを受けてください。 〔 06-6618-9105 、06-6618-9106 〕

天国の扉に1人の天使が立っていました。

その天使は、イエス様と同じ特徴をその顔に持っている人たちだけを天国に入れ、その他の人々は入らせない責任を持っていました。


頭に素晴らしい冠を被った人々が来ました。王たちでありました。

しかし その天使は、その王たちに何の尊敬も現さず、 「世の王冠は天国では何の価値もないんだよ」ということを、その人々に教えました。


今度は、素晴らしい制服を着た人々が来ました。

今度もその天使は何の尊敬も現さなかったです。


なぜなら その人たちの顔に、十字架にかかったイエス様の顔のような顔はありませんでした。

全然違う顔をしていましたので、彼らを入らせなかったです。


今度は洗練された美貌を持った女性が来ました。

しかし、その天使は彼女を見ていました。彼女の目、彼女の美貌から 神様が求めている美しさは発見できませんでした。


今度は有名な人が来ました。人々はその人に歓声を上げていました。

でも天使はその人に語りました。
「人々から受けるその歓声・拍手は、人間には相応しいかも知れないが、ここに入って来る権利はありません。」


天国に入る入場券。
それはイエス様のように清くされた人だけに与えられるものであります。


例え その人が貧しい者であっても、無学な者であっても、そういうことは関係がなく、 天使がその人を見た時に その人の顔にイエス様と似ている特徴を見つけた時に  その人を天国に入れます。


「あなたはイエス様とそっくりな人ですね。入って来なさい。入って来なさい。 永遠の栄光があなたのものです。あなたはキリストのようになりましたので 天国でキリストと共に永遠に生きることができます。」





この内容は20世紀の有名なイギリスのスポルジョン牧師がメッセージの中で 語った言葉であります。

天国は誰でも入るような場所ではないです。


地上で福音を聞くのは誰でも聞くことが出来ますけれど、天国に入るのは イエス様を受け入れ、信じて、イエス様のように聖なる者に変わっていく人たち。
その人たちはイエス様が喜んで天国の中に入れてくださいます。


有名であったから、財産がたくさんあるから、その人が地上で色々なことをしたから、 天国がその人を受け入れるのではないです。


天の御国は、イエス様に似た者たちが入るところでありますので、 自分たちの姿が今どのようになっているのか、イエス様に似る者になっているかどうかをよく見てください。

~ 2012/2/14 ~


2015.8.2
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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