テーマは 『  神のみこころに従って生きる日常生活 』 です

【第1テサロニケ5章19-24節】

御霊を消してはなりません。

預言をないがしろにしてはいけません。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

悪はどんな悪でも避けなさい。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

先週の聖餐式の後に 神様が急に語ったことばがありましたので、皆さんに伝えました。


神様は「良いものを守りなさい」と語りました。

その時に少しだけ説明をしましたが、主がなぜそのことを語ったのでしょうか。


私たちはあらゆることを見て、今の時代が 以前とは違う終末の時代であることを見ていますし、感じています。

終末ということばは 今に始まったことばではなく、昔の人々もその時代を見て語っていました。



終末は まだ来ていない “未来” のことですが、既に自分たちが生きている生活の場、自分の人生の中で動いている人生の過程の延長とも言えます。


終末と言っても何か特別なものとして現れるのではなく、今のように 日常があり、その先にあるのが終末です。


ですから私たちは今の平凡な日常生活の中で 終末論的な霊性をもって生活しないと、主の再臨を喜んで迎えることが出来ないだけではなく、主に責められるようになります。


パウロは終末を生きている聖徒たちに「神のみこころに従って生きる日常生活」を教えました。


今日はそのことについて学びます。




「御霊を消してはいけません。預言をないがしろにしてはいけないです。」




神によって生まれ変わった人の生活は、肉の欲望や自分の思いのままに生きる生活ではなく、御霊に導かれて、御霊と共に歩む生活です。

そのような生活をするには御霊を消しては出来ないことなので、御霊を消してはいけないです。


御霊を消すことはどのようなことでしょうか?


御霊は神なので、実際に私たちがその存在そのものを消すことは出来ません。

本文での “御霊を消してはいけません” の意味は、聖徒が御霊の御心に反抗したり、その導きを拒否して、聖霊の活動を制限することを意味します。

つまり 聖霊が働けないように邪魔をしたり、妨害したりすることです。


聖霊は信じた時から私たちの中におられ、天国まで導く方ですが、クリスチャンになったからと言ってすべての人が聖霊に従って生活しているとは言えないです。


自分の欲望のために聖霊の導きを負担と思い、神の声を聞くことを嫌がります。

皆さんもこのことを経験していると思います。



いつも喜んで神の声を聞き、導きに従っているでしょうか。

自分の思いと合わなかったり、自分の計画と違うと、神様の導きよりも自分の思いのままに動くことが多いです。


そのような自分の思いがあるので、神から預言のことばを聞いても それをないがしろにします。


私自身、神のことばを伝えたのに、それに対して腹を立てられ攻撃されたことが今までに何度もありました。

そして聖霊の賜物に対しても否定したり、不道徳な生活を続けるとそれは神の品性とは合わないので聖霊が悲しみ、それによって聖霊の活動も制限されます。


聖霊の活動が止まると、信仰生活の中で喜びが消えるのはもちろん、聖霊の実を結ぶことも出来ません。
そして心の中には不安と恐れ、葛藤が生まれてきます。


イスラエルの初代王であったサウルが聖霊に従った時には 彼自身聖霊に満たされて良い実を結び、心も平安でした。
しかし神に逆らい始めた時から、彼の心から喜びも平安も消えて、不安と恐れに悩まされるようになりました。


ダビデも神の言葉に違反して罪を犯した時には聖霊の活動が止まり、彼の心からも平安が消えて、毎日葛藤の続く生活をしました。


神の霊的権威に逆らう生活をすると信仰生活に混乱が生じ、健全な霊的生活は出来なくなります。


士師時代の一番大きな問題は何か分かりますか。
士師記の最後のことばが問題の核心です。


【士師記21章25節】

そのころ、イスラエルには王はなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

王がいないことが問題ではなく、イスラエルの王である神のことばに従うことをせず、皆 自分がしたいようにしました。これが問題でした。


聖霊がなさることを、いちいち人間があれこれと判断し始めると恵みは消え、冷たい律法という物差しと自己義だけが残ってしまいます。

それでは良い実を結ぶ信仰生活は出来ません。


御霊を消さないためには自分の不信仰と かたくなさとを捨て、自分の経験に頼らず、神の導きとみことばに頼ることです。




「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」




肉の欲に従う人に欠けているものは、正しい分別力と判断力です。
なぜなら、欲に目がくらむからです。


しかし私たちのうちにおられる聖霊に支配され、聖霊に導かれるならば、聖霊は私たちに悟りを与え、導いて下さいます。


良いものと悪いもの、有益になるものと害をもたらすもの、創造的なものと消耗するもの、永遠のものと一時的なもの、神が喜ぶものと神が悲しむもの、神の国と世のものを分別させ、私たちの人生に良いものが残り、それによって良い人生が送れるように助けて下さいます。


【ピリピ4章8-9節】

最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいて下さいます。


本当に良いものを堅く守るために、自分が良いと思うものではなく、神が良いと思うものが何かを知ってそれを受け入れ堅く守ることです。

日常生活の中でいつも神の基準に従って何が良いものなのかを試し、良いものだけをつかんでそれを奪われないように守ることです。




「悪はどんな悪でも避けなさい。」




良いものを堅く守るためには、悪を避けなければなりません。
悪は良いものを傷物にし、ダメにしてしまいます。


外側だけ敬虔なパリサイ人や律法学者に対して、主は厳しく彼らを叱りました。

彼らが悪を避けず、それを自分たちの中に持っていたからです。


【マタイの福音書23章25ー28節】

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。

目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。

そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

彼らのような生活を もし私たちがいま続けているならば、それは主の再臨を待ち望んでいる人の生活とは言えず、終末を生きている人としてふさわしくありません。

なぜなら必ず主に責められるからです。


聖徒たちは平凡な日常生活の中でも、聖別した生活をしないといけないです。

主が 「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でありなさい」 と命じているからです。


形式的な宗教生活で自分の魂が救われるのではないです。


神の御心に従い、御霊の良い実を結ぶ人は 主の再臨の日に恥を受けることはないです。

そして そのように生きる時に、霊、魂、体を主は守って下さいます。


時間は止まることなく、確実に世の終末に向かって進んでいます。

いま私たちは終末に向かって日々歩んでいます。


誰もが主の前に立つようになります。


その日が、恥を受ける日、後悔する日にならないようにしましょう。

そうではなく、すべての労苦が報いられる日、喜びの日になるようにしましょう。


神の御心に従って歩んでいる人の終末は、希望ある明るい終末です。
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2015.8.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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