からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2014年08月

イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか

テーマは 『 イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか 』 です

【ピリピ2章1-5節】

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

私の喜びが 満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、 他の人のことも顧みなさい。

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

全世界の人口は正確には分かりませんが、約70億人近くいます。
その中でキリスト教が一番多く、33%と言われています。22億人がクリスチャンということになります。(プロテスタントとカトリックの比率は50%です)


今、クリスチャン人口が一番増えている国は中国です。
人口13億人のうちの5%にあたる6700万人がクリスチャンであると言われています。
そして2030年になると、2億4700万人がクリスチャンになる計算です。

今はアメリカがクリスチャン人口が一番多いですが、2030年になると中国が世界一キリスト教徒が多い国になります。

日本は、東アジアの中で一番クリスチャン人口が少なく、1%くらいです。

韓国は人口の4分の1はクリスチャンであります。リバイバルをして6万ほどの教会が建っています。
しかし教会が大きくなっていくと様々な問題が生じ、クリスチャン人口が減ってきています。これはとても残念なことです。

原因はクリスチャンたちの生き方が人々に好感を持たせなかったからです。
初めは良かったのですが、大きくなるにつれて様々な問題が生じて人々が離れたり、またそれ以上増えませんでした。


神様は、ただ多くの人たちがクリスチャンになれば喜ぶでしょうか?
たとえ全世界の人がキリストを信じたとしても、神様はそれで満足をするでしょうか?


数え切れないほどの教会が建ったからと言って、イエス様はそれで満足しません。
神様は、このように数字や形には関心がないのです。

主が一番関心のあることは、私たちの心であります。

その心がキリストと一致しているのか、ということです。
それはキリストの心が自分たちの中にも無ければいけないということです。


“うわべ”だけのクリスチャンや、クリスチャンと言いながらも教会に通わず、祈りもまったくせず、みことばも読まないようなクリスチャンを神様は喜ぶでしょうか。

このような信仰で「私と神様は一致している」と言えるでしょうか?

教会に集まる人たちも色々な人たちがいます。
そこで問題や分裂、争いがあります。信徒同士や牧師など色々あります。


しかし、よく考えると その問題の原因になっているものは何かを詳しく調べていかなければなりません。

うわべに表れているものが、その問題の原因ではないです。

例えばピリピ教会の中でも信徒同士に分裂の問題がありました。
その信徒たちの自己中心的で高慢、妬み、争いなど、様々な思いで人間関係が壊れていました。


教会とは頭(かしら)がキリストであります。そして信徒は1つ1つの身体の器官だと聖書に書かれています。
目には見えない神様ですが、頭のない身体は存在しないのです。

そこで私たちが組み合わされているのが教会です。


ですから、そこにイエス様が存在しないならば、建物があって人が集まったとしても そこは教会ではないです。それを神様が教会とは認めないです。

しかし、ある意味で イエス様が存在しない教会が多いのです。形は教会でも、中身は教会ではないのです。

今回のテーマ箇所の3節に「自己中心」ということばが書かれていますが、自己中心が様々な問題の原因となっています。自己中心は、ある意味で高慢であります。「自分が1番」であるのです。


クリスチャンであり神様のことばを聞きながらも変わらない人々がいるのです。自己中心的な人がたくさんいます。
ですから問題が消えなく、分裂が起こります。


信仰歴が長い人でも自分を捨てないならば、自己中心的な思いが消えることはないです。


「私の意見が正しい。私の考えは曲げる必要はない」と自分が間違えていても変えようとしないのは高慢です。


【Ⅱ歴代誌7章14節】

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、 わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

これは全ての人に向けて語ったのではなく、「わたしの名を呼び求めているわたしの民」に語りました。

民になったから全部同じだということではないです。
民と呼ばれているにも関わらず、神様のみこころと反する生き方をする者たちが相変わらずいることを神様は見ておられます。


神様が求めているものは、みずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、悪い道から立ち返り罪から離れる者に対して神様は、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそうという言葉があるのです。

神様は、神様と心が1つになっている者を求めているのです。


【Ⅱ歴代誌16章9節】

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。 あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。

世界人口の33%がクリスチャンだと語りましたが、その中から神様と心が1つになっている者を探さなければ見つけることが出来ない状態なのです。

それは神様と全く一つになっている者が少ないということを意味するのです。


私たちはすぐに神様から見つけ出される者でしょうか?

外見はクリスチャンらしくしていても、神様とは違う心を持っている人が多いのが現実です。それをそのままにしておいても良いでしょうか。

私たちがキリストと同じ心を持っているならば、行くすべてのところの問題が消えていくと思います。
しかし、外見はクリスチャンだとしても 悪魔の心を持っているならば、争いや分裂の原因を作るでしょう。

自己中心的な思いは、どこにいても問題を起こします。


皆さんは精神科病院へ行ったことはありますか?

私は行ったことがあり、精神病にかかった人と多く接しました。見た目は変わったところがなく、分別力もあります。きちんと話もしますが、その人たちの中で共通するものがあります。

皆、自分の話しかしないのです。自分のことにしか関心がありません。
また、被害者意識が強く、他人の話を聞かず、変えようともせず、自分の考えや思いを主張する傾向が強いです。


クリスチャンも「主よ、主よ」と言っている人が、神中心ではなく自己中心な思いがすごくあり、自分の考えを捨てないです。


自己中心は何1つ良い実を結ぶことがないです。


ですからイエス様が「わたしについて来たい者は自分を捨て」という言葉を使いました。
これは自分の良い部分を捨てなさいという意味ではなく、自己中心的な思い、高慢な思いを捨てない限り、(イエス様とは)一致しないということであります。

イエス様と自分の中で葛藤が多い人は、何が問題でしょうか?
神様や環境ではなく、自分自身が問題であります。相変わらず虚栄心などを持っているのでイエス様と合わないのです。

イエス様と一致しない人は、周りの人とも一致ができないです。
一致をするためには、それらを捨てなければならないです。


私たちがイエス様の心を持つための1番の方法は、イエス様をいつも見ることであります。

福音書を読むと、イエス様の姿が出てきます。イエス様から目を離さず、イエス様の姿をジーッと見ることです。
これはイエス様を観察をすることであります。


そして、私たちがイエス様の心を持ちたいと思うならば、へりくだり謙遜にならなければいけないです。

イエス様はもともと神でありました。神が人間の身体をとって地上に来られました。
もうこれだけでも謙遜であります。人間は神になろうとしますが、イエス様(神様)は人間になりました。さらに人に仕えたので、ものすごく謙遜です。

私たちの足を洗い、私たちの重荷を負ってくださるのは、神様の謙遜な姿であります。

私たちが高くなろうとするなら、イエス様と一致するのは不可能です。

しかし、高慢で高ぶっていた者が自分を低くして へりくだっていくならば、だんだんイエス様の心を自分の中で持つことができます。

私たちはイエス様を見ながら、頭を下げて自分の身を低くしていかなければならないです。






愛・憐み・寛容な心は、なぜ必要だと思いますか?

私たちは他人を愛することが出来ない者であります。
自分のことや所有物、家族は愛しても、それ以上の愛がないです。

他人を愛することも、自分の好みの人だけを愛します。自分のことを愛してくれる人を愛します。
少しでも気に入らないと私たちは、その人と縁を切ってしまいます。その人を嫌ったり呪ったりします。
私たちはそのような者であります。


教会の中で、私たちが他人に接する姿をイエス様は見ておられます。
例えば、教会でアルコール中毒者が来たとします。また、麻薬中毒者が入ってきたとしたら、その人たちを歓迎するでしょうか?しないでしょうか?

そのことによって私たちの中にキリストの心があるかどうかが試されていきます。
「あんな人は来なければ良いのに」という思いを持って、その人に見向きもしないならば、自分にキリストの心がないことであります。


イエス様は罪人や遊女、悪霊にとりつかれている者や病人のところへ行きました。
そのことを宗教指導者たちはものすごく軽蔑をして悪口を言いました。

もし私たちが宗教指導者たちと同じ心を持つならば、それはパリサイ人、まむしのすえどもと同じであります。

私たちは自らその場所へ訪ねていかなければならないです。そして歓迎をしなければならないです。
そのような人の中にはイエス様の愛や憐み・寛容な心があるのです。寛容は広い心で、差別することがなく、その人を受け入れる心です。


神様はクリスチャンに願っているのは、イエス様の中にある心を持って欲しいということです。
愛を持って接するならば、死んでいたたましいが生き返ります。


信仰生活を送りながらも、心が冷たい人がいるのです。その人の中に温かいものがないです。人と接する時にも笑顔がないです。

これは鏡で自分の姿を見て、みことばに照らし、「果たして自分はどうなのだろう?」と自分の中にイエス様の心を持っているのかを確認しなければならないです。


イエス様が再臨した時は、信仰歴が長い者でも、奉仕をたくさんする者でもなく、イエス様と心が1つになっている者が一番初めに天に引き上げられます。






バンジージャンプをしたことはありますか?
ロープに身を任せて、高い所から飛び降ります。それはとてもシンプルです。飛び降りれば良いことです。
これは子供にも分かることです。それは理論的に難しいことがないからです。

しかし、知識と実際にやることは全く別のものです。
ある者は「出来ます」と言って 身体にロープをつけたのに、直前になって出来ない人もいます。


これを見て、私たちが分かることは、いくら理論を知っていても実際に飛び込まないと分からないことであります。
飛び降りた人が初めてバンジージャンプがこういうものだということが分かるのです。

私たちはイエス様に対しても、そういうことであります。

「イエス様の心を持つことはこういうものです。」と、このように言うこと自体は知識です。
しかしイエス様と親しくなってイエス様の心を持つことは全く別のものです。


理論だけで生きているクリスチャンが多いということです。実際に(イエス様に)飛び込んだ人は少ないということであります。知識を持ったからといって、それが何になるでしょうか。

信仰生活は実際にやらないと分かりません。実際にイエス様に近づかなければ、イエス様がどのような方なのかは分かりません。


クリスチャンは「信仰、信仰」と言っても、キリストの中に飛び込まないと、いつまで経っても その人の心が燃えることはなく、心が変わることもないです。

しかし、私たちがキリストの中に飛び込むなら、キリストも私たちの中に飛び込んでくださるのです。そこで1つになるのです。

信仰は知識ではないです。もしも知識の信仰ならば、その知識が偶像になります。


皆さんはイエス様に出会ったことに対して、どのように思っていますか?
イエス様に出会えたことは人生で最高の恵みだと思っているでしょうか?

皆さん1人1人の信仰の姿は違います。しかし神様が求めるのは1つであります。「わたしの心を持ちなさい。」ということです。

信徒1人1人にその心があるなら、争いが起こらないのです。皆違うのでバラバラになり分裂、争い、戦いがあるのです。

ですから、「自分の心にイエス様の心が無いのが問題であり、いつも私が問題を起こしているのだ。」と思ったら良いです。


自己中心を捨てない限り、イエス様の心が私たちに入ることはないです。

イエス様が行ったことはすべて正しいので分別をする必要がないです。
つまり、イエス様の口から出ることば、すべての行動は正しく、真理そのものですので、私たちがそのまま受け入れて良いということです。


様々な問題は自分自身の中にあるのです。ですから自分自身が変わらなければいけないです。


イエス様の心をもっと持たなければ、イエス様が私たちを見た時に「あなたはどこから来たのか。わたしはあなたを知らない。」という結果になると思います。
ですからそういうことにならないように、イエス様の心を皆さんが持ってください。それが聖徒であります。
(^∀^)

2014.8.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス様の驚きと悲しみ

テーマは 『 イエス様の驚きと悲しみ 』 です

【マタイの福音書11章18-24節】

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、 彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、 もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

聖書にはイエス様が驚く場面が出てきます。

百人隊長が素晴らしい信仰を見せた時にイエス様は驚かれました。彼はユダヤ人ではなく、ローマ人です。
しかしユダヤ人よりも素晴らしい信仰を見て、イエス様は『わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』と言いました。


またイエス様は奇蹟をたくさん行なったにもかかわらず信じなかった人々の不信仰な姿を見て驚かれました。

多くの人は「奇跡を見たら信じる」と言いますが、当時は数えきれないほどの奇跡がありました。
それなのに人々は信じませんでした。


【ヘブル書11章6節】

信仰がなくては神に喜ばれることはできません。

イエス様はその人の財産、権力、名誉などに驚いたことは一度もありません。

イエス様が関心を持っているのは ただ1つです。
「信仰」…その人が信仰を持っているのかどうか、それだけに関心がありました。


良い信仰を見た時にイエス様はとても喜びますが、奇蹟を見ても信じない人や不信仰の姿を見た時にも驚き、また悲しみます。


今の人々の姿を見て、イエス様はどのように思っているでしょうか?

特に信じている人たち、「私は信じて救われました。聖徒です。」という人たちの信仰を見て、イエス様は喜んでおられるでしょうか?

ある人たちは心の中で言うでしょう。「私には信仰がある。毎週きちんと教会に通っているし、聖書も読むし、祈りもするし、奉仕もするし、献金もささげているし。これ以上何ができるのか?」

自分自身で良い信仰だと思っています。
しかし、イエス様がどのように見ているかは分かりません。


また、ある人たちは心の中で言うでしょう。「ああ、面倒くさい。信仰、信仰と うるさいな。忙しくて それどころではない。したいこともいっぱいあるし、どうでもいいわ。別に地獄に行っても良いわ。」

この言葉は、実際に神様のことを知っている人が言っていました。
これがクリスチャンの口から出たことにびっくりしました。その人たちは信仰の失格者であります。

そのような信仰がその人を天国まで導くことはありません。


天国に入れる信仰は、神様が認め 喜ぶ信仰の者だけです。

自分の信仰が、果たして自分自身を天国に導くものなのか?と、いつも私たちは考えなければならないです。


日々の私たちの態度がどれほど不信仰であり、イエス様を悲しませ、涙を流させているのか。
天国に入った人たちは、そこは素晴らしい世界ですので涙を流す人はいませんが、イエス様だけが泣いています。

救われず、地獄に行くたましいを見て泣いています。教会、信徒が堕落していく姿を見て悲しんでいます。

主から離れた人々、さまよっている人々、イエス様よりこの世をもっと愛する聖徒たちを見て泣いておられます。
イエス様は私たちの姿を見て驚き、嘆き、そして叫んでいます。


イエス様は人々に裏切られ、除け者にされ、未だに苦しみを受けています。
イエス様がその人たちに向けて語ることばは、「どうしてわからないのか。悟らないのか。信じないのか。」です。


主の声を今回、みなさんに届けたいと思います。

「私は救われました」というクリスチャンは、自分の姿をもう一度考えてみる必要があります。




① 聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿




聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿に主は驚き、彼らの最後を知っているので主は心を痛めています。


イエス様を信じていない人たちは もちろん滅ぼされます。
しかしイエス様は「あなたたちの方がもっと悪い」と語りました。

なぜなら、「今、あなたたちは多くの奇跡を目の前で見ているのではないか。神が人間となって直接あなたたちの目の前に来ているのに、それでも信じないのか」


ソドムとゴモラの町は不信仰や同性愛などで滅ぼされました。
しかし彼らよりもあなたたちの罰が重いと言いました。

そしてイエス様は「どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」と はっきりと語りました。

ハデスとは地獄のことです。
消えることがない炎が燃え、入ったら出ることができず、永遠に刑罰を受けるところへ行くのだと語りました。


「私は救われました」と言う人を イエス様が見た時に罪を悔い改めず、昔救われて“いのちの書”に書かれているから何をしても大丈夫だと言う人はハデスに落とされると言いました。

イエス様が語ることは、その通りになります。

イエス様は天国のことよりも地獄のことをたくさん話しました。新約聖書で113回語っています。




② 十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのになぜそれがわからないのか




十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのに、なぜそれがわからないのかと主は驚いています。

イエス様からたくさんの恵みを受けた者たちが、その恩を忘れ、イエス様に対して敵対し、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。

十字架にかかったイエス様を見て、頭を振りながらののしりました。
「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。今十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じるから」と、ののしる者、あざける者がいました。


誰のためにイエス様は十字架にかかってくださったのでしょうか?
罪を犯している私たちのためなのに、私たちはののしり あざけました。


彼らを見て「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈りながら主は人々を見ていました。

イエス様の命を取っている者たちを赦してくださいと、これ以上の愛がどこにあるでしょうか?

私たちがイエス様を十字架につけたのです。その時、あなたはどこにいましたか? その群衆の中にいたのです。


今も主は十字架の上で血を流しながら苦しんでいます。
誰のためですか?イスラムの人々や まだ信じない人々のためです。

十字架は昔のことだと思うでしょうか?
しかし、今はイラクでイスラム過激派の人々の手によってクリスチャンたちが街の中で十字架にかけられ1000人以上が殺されています。


イエス様は信仰のために死んだ人々と共に十字架にかかり、血を流し、涙を流しています。

彼らはののしりあざけっていました。
「あなたたちを愛しているのにどうしてわからないのか。」イエス様は彼らが立ち返るように願っているのです。

実際に、イエス様はクリスチャンたちに「十字架であなたのために死んだ私を忘れることが、私には苦しみである。」と語りました。


みなさんはクリスチャンです。みなさんはイエス様の十字架を日々覚えていますか?

自分のような罪人を、世界の多くの人々の中から自分を選んでくださったということが どれほど大きな恵みであるか分からないです。


イエス様の十字架は私のために血を流してくださったのです。
“なぜわたしの十字架を忘れているのか――?”


忘れているという事実に、イエス様はすごく苦しんでいます。
そのことをクリスチャンは覚えていないといけないです。




③ あなたのことば一つ一つが わたしの心を引き裂いている




「あなたのことば一つ一つがわたしの心を引き裂いていることをどうしてあなたはわからないのか」と主は驚いています。

私たちはイエス様を十字架につけて殺した後、今でもクリスチャンたちがイエス様を痛めつけています。
「私はそんな思いはないです。いつ私がイエス様を十字架につけたのですか?いつ私がイエス様を悲しませたのですか?」

皆さん、気付いていますか?


【ヨハネの福音書6章60節】

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

イエス様は真理を語っていますが 自分たちの目がふさがれて、心に知恵がなく悟っていないのに、「主よ、私たちはそのことばの意味が分かりません。教えてください。」と聞くのではなく、自分たちの思いで勝手に解釈し、非難をしました。

その後、彼らはどのようにしたでしょうか。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様がこの姿を見た時に、どれほど悲しかったでしょうか?

彼らは霊的なことは分からないのです。それまでは「どこまでもついて行きます」と言った者たちが一瞬にして消えていきました。

イエス様は引き裂かれる思いでした。「真理を語っているのに なぜあなたたちは真理から離れていくのか?」
その辛さは皆さんも経験があると思います。

皆さんが人々に(福音を)語る時に「意味が分からない。聞きたくない。二度と言うな。」
そのような言葉を聞いた時に、私たちはすごく心が痛くなると思います。


そしてイエス様に「あれは悪霊に憑りつかれて気が狂っている。」という言葉を言いながら聖霊を汚しました。

私たちはイエス様に悪霊とは言いませんが、どれほど不信仰なことば、不平不満、つぶやきを言ったでしょうか?

神様のことを自分のしもべのように使う時もあります。


私たちが語る1つ1つのことばによってさばかれると聖書に書かれています。たとえ私たちが言った覚えがないと嘘をついても全て記録されています。

ですから私たちが間違えたことを語るたびにイエス様の心に釘を刺しているのと同じであります。




④ あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか




あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか、どうして分からないのかと主は驚いています。

イエス様の目からは いつも涙が流れています。


皆さんはイエス様を信じてから、自分の良いものを取られたことはありますか?

イエス様は悪いものは捨てなさいと言いますが、良いものを盗む方ではないです。


人々がイエス様から離れるのは、それぞれの理由があります。
「祈っても聞いてくれないから信じるのをやめました」、「忙しいのでそれどころではない」、「今は自分の好きなことをしたい」「金儲けが先」など理由・言い訳がたくさんあります。


しかし、よく考えてみてください。その1つ1つの理由が、離れる理由になるでしょうか。

そのことが自分の命よりも大切なことなのかを考える必要があります。
快楽のためにイエス様から離れ、この世を愛する心や物欲でイエス様から離れるなら、後になってどのようにしますか?

地獄は後悔の場所であり、自分自身の愚かさを憎む場所でもあるのです。
“あの時にイエス様から離れていなければ…地獄に来ることはなかったのに!”


イエス様が語るのは「全世界を手に入れても たましいを失うならば、それが何になるのか?」と語っておられます。
イエス様は「もしあなたの右手が罪を犯すならば切ってしまいなさい。」と語ります。全身を持って地獄へ行くよりは片手がないまま天国に入った方が良いと語ります。


たましいを失うと全てを失います。

地上のわずかなもので自分のたましいをないがしろにして、それによって永遠に出ることのできない地獄で苦しむのは、どちらが皆さんにとって得ですか?


常に聖書のことばを読んでください。聖書のことばは気休めのために書いているのではなく、生きるか死ぬかのために私たちに道を示しているのです。


この真理は変わりません。書かれた通りのことが必ず起こります。

もし今晩あなたが死ぬならば、天国に行けますか。天国に入る人は少ないです。地獄に入る人は大勢います。
イエス様はその姿を見て泣いています。


地獄に多くのクリスチャンたちが行きました。
イエス様が、クリスチャンが地獄へ行った理由を語りました。

その理由は、多くの人々がわたしが願っているようにはせず、わたしを敬わず、愛さず、断食を好まず、忍耐をせず、教会の中に留まることを嫌がり、礼拝が好きではなく、祈らず、みことばを読まず、口先だけで賛美するなど、イエス様がして欲しいことと真逆のことをしているからです。


カインの礼拝を捧げておいて、アベルの祝福を受けようとしているのです。
カインにはカインの裁き、アベルにはアベルの祝福があるのです。

自分が蒔いたとおりに刈り取らせるのが正しい裁きであります。


どれだけ私たちは神様のことばが与えられているでしょうか。

「今日、あなたが主の声を聞いたならば 心を頑なにしてはいけない。悔い改めて立ち返りなさい」とイエスさまが語っておられます。

これ以上、私たちがイエス様を悲しませてはいけないです。死んだ信仰、疑い深い信仰、不信仰を全部捨てなければならないです。


そしてイエス様が認める“あなたの信仰は立派です”と言われる信仰、長血を患った女の人、百人隊長の信仰、娘が悪霊にとりつかれた母親の信仰、イエス様に香油を注いだマリアの信仰、あなたはこのような信仰を持ちなさいと語ります。


へブル書11章は信仰の章です。ほぼ全員が厳しい状況の中で、自分たちの信仰の光を放ちました。

神様だけに頼る信仰はいつ試されるでしょうか?厳しい状況の中で初めて試されるのです。

私たちの信仰は天国に入れるような信仰でしょうか。それとも「信仰、信仰」と言いながらも地獄へ行く信仰でしょうか。これを考えなければなりません。


イスラム教の人々がクリスチャンを狙って殺してきています。終わりの時代が来ています。
その時に私たちが のほほんと「大丈夫。」と言えるでしょうか?

イエス様が目を覚ましなさいと語っています。
あなたに信仰が無ければ、彼らに捕らえられてひざまずくようになります。


大変な状況の中でも神様に信仰を見せる人だけが勝利者であります。
死に至るまで忠実でありなさい。その信仰を持ちましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2014.8.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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地獄を見てきた聖徒の証です
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効果的な祈りの模範

テーマは 『 効果的な祈りの模範 』 です

【イザヤ書37章1-7節】

ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った。

彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちは荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。

彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。

おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」

ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、

イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしたちを冒瀆したあのことばを恐れるな。

今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。 わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

クリスチャンは危機の瞬間にどこへ行きますか?家族の元に行きますか?友人の元ですか?
そして危険な環境の中でどのように対応をするでしょうか?これはすごく大切なことです。


今、イラクでは誰が迫害されているでしょうか?

イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が他宗教・キリスト教徒やクルド人の宗教少数派の人たちを敵視しています。

女性数百人は捕らえられ、奴隷にされ、改宗を拒否する者を殺しています。
大量虐殺が行なわれる恐れがあります。この者たちはナイジェリアで200人以上の女生徒を拉致した組織と同じ思考回路で行動していると言われています。アメリカは空爆を始めましたが、彼ら(イスラム国)は残虐な者です。

クリスチャンや少数派の人々は10万人が山へ逃げています。食べ物や水、着替える服も何1つありません。
改宗するか、町から出て行くか、それとも税金(日本円で約4万8000円)を払うかという厳しい条件をつけて、住み慣れた場所から追い出しています。


今、子供も大人も砂漠へ逃げ込んだり、海へ逃げたり、山へ逃げたりと 聖書の預言通りの終わりの姿であるのです。これは宗教戦争なのです。

彼らはイスラム教の中でも違う神なのです。
彼らは「あなたもイスラム教ですか?それなら仲良くしましょう。」ではないのです。

自分たちと少しでも宗教観が違う者は自分たちの敵であり、「ジハード(聖戦)」の対象であるから平気で殺します。

人権などは無いです。
神が喜ぶのは自分たちの敵を殺すことだと思っています。


キリスト教の教えとは全く異なります。
キリスト教の教えは「あなたの敵を愛しなさい。」「敵が飢えているなら与えなさい。」「赦しなさい。」という言葉を使っています。

イラク政府は自分たちの力ではどうにもならないので、アメリカに助けを求めました。


私は今回のテーマ箇所であるイザヤ書37章を読みながら、ヒゼキヤ王がアッシリヤの侵略を受ける直前に彼がどのような心境であったのかを考えました。

時代は違いますが、似たような場面であります。

アッシリヤは多くの軍隊があり、力や武器もあります。彼らはあらゆる戦いで勝利をしています。
その国がイスラエルを侵略しに来るのです。そして宣戦布告しています。


【イザヤ書36章20節】

「これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか」

これは彼らだけを侮辱することばではないです。
お前たちが頼っている神の力が自分たちの力よりも弱いと侮辱する敵の高慢なことばです。


聞くだけでも恐れてしまうようなことばです。

今、イラクで起きているのが これと同じです。

この状況の中でヒゼキヤは軍隊もまともに持っておらず、力も無く、その中で彼が王としてどのような態度を取ったのか 私たちが学ぶべきものがあります。




1.自分が重大な問題を抱えていることを認識し 神に祈った




まず彼は今、自分が重大な問題を抱えていることを認識しました。そしてそのことを神に祈りました。

祈り以外には、これを乗り越える方法はないと認識したのです。


イザヤ書37章1節で、ヒゼキヤは侮辱・恐れあることばを聞いて、“自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった。”と書かれています。

またイザヤ書37章3節では、“きょうは苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。”と言っています。
これは、私の力ではどうすることも出来ないです という絶望的な状況です。

彼はすぐさま神に祈りました。


当時、エジプトはとても強い国でした。
今の時代ではアメリカに「私たちを助けてください」という思いになるのですが、私たちは(何かが起こると)強いものに頼りたくなるものです。これは私たちの心に自然と出てくる思いであります。

しかし、私たちの神様は「あなたが困った時は力ある人のところへ行き相談をしなさい。」と語ったでしょうか?
そうではないです。


神様は クリスチャンはこのような時に、どのような態度を取りなさいと言うのか、みことばで答えをもらわなければいけないです。


【イザヤ書30章2-3節】

彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。

しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。

エジプトは強い国でしたので、多くの者たちが周りの国から侵略を受けるとエジプトに助けを求めに行くのです。

これは無償で助けることはなく、助けられる ということは、そのものにひざまずくことであります。借りを作ると後で返さなければならないです。


神様に祈りもせず、自分たちの計画でエジプトに下ろうとするのです。
“こんな時に神様に祈ってもすぐに答えを得られないし、私は祈っても神様の声が聞こえないし。”という思いがあるのです。






神様は、誰かに頼ることはむなしくなることを警告しました。

それならば神が望むのはどのような姿でしょうか。


【イザヤ書30章15節】

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」 しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

静かにしなさいということは、そこで神様の助けを求めなさい ということであります。


神様は私たちを助けてくださるお方です。

私たちに問題がある時に、確実に答えを得る方法は神様に祈ることです。
神様は祈る人に対して答えてくださるのです。

人はまともに祈りもせずに「この問題を何とかしてください!」と、これを祈りという人もいるのですが、これは祈りではないです。


そこに信頼する心がないからです。これは神様にお願いをする姿ではないです。


誰かに頼み事をする時は、礼儀をもってお願いをすると思います。
謙遜にして身を低くし、事情を話し丁寧な言葉で頭を下げると思います。

しかし神様にお願いする時には「なぜ神様はこんなことをするんですか?私が何か悪い事をしたのですか?!早くなんとかしてください。」

神様は私たちのしもべではないです。


神様に向かって口汚く心焦って語るならば、神様は聞きたくないです。「わたしを誰だと思うのか?」

私たちは神様に対して自分の態度が礼儀をもって語っているのかを考えるべきであります。


そこには信仰が必要です。
“神様は私のことをすべて知っている。今 私がどんな状況にいるのかも神様は知っている。ここで神様を信じて頼るならば、神様はきっと私を助けてくださる。”と落ち着き・信仰の心が必要なのです。


【詩篇68篇19-20節】

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。

これを自分の心の中で信じることであります。

神様が私たちのために重荷をになってくださるということです。
私たちは、になう力がないと下敷きになって倒 れてしまいます。

ですから神様はそうなさらないです。


私たちが重荷を背負ってしんどい時に「神様、私を助けてください。」と祈るならば神様は私たちの荷を軽くしてくださるのです。


しかし荷を完全に取って あなたは一生重荷を負う必要なない、ということではないです。


【マタイの福音書11章28節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

このように約束のことばがあります。

神様は私たちが倒されて死ぬことを願うのではなく「わたしがあなたの救いの神であるのだ。あなたの重荷を軽くする神である。」と神様に頼り求めるように語っておられます。


主こそが私たちの救い主であり、私たちが信頼しても安心できる方であり、私たちの喜びや悲しみにも共感し、私たちの荷を軽くしてくださる方です。

自分の手に負えない問題に出会った時にはこの神に頼るのが一番の方法です。


【詩篇68篇35節】

神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。

私たちが神様に信頼し、静まっているならば私たちは 神様から“力と勢い”が来るのです。
戦う力と試練を乗り越える力を神様が与えてくださいます。

問題を神様に委ねて「神様、私は○○○で困っています。私の力には負えません。私を助けてください。」と、祈ると神様は力を与えてくださるのです。




2.問題解決と共に神に栄光を捧げる




次にヒゼキヤは問題解決と共に神に栄光を捧げる解決策を求めました。

ヒゼキヤは自分の国の問題のためだけではなく、敵が自分たちにかけた言葉で神を侮辱する言葉がありました。


彼は神様に“あの者たちは神様を侮辱しました。神様がこの問題を解決してください。そして私たちが神様に栄光を捧げるようにしてください。”と祈りました。ヒゼキヤが祈った目的は次の箇所です。


【イザヤ書37章20節】

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、他のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。

侮辱した者たちが恥を見ますようにと祈りました。

神様が私たちを彼らの手から救い出して、彼らに神が生きておられる救い主であることを見せてください。と 祈っていました。神様はすべての祈りを聞きました。

祈りを聞いて預言者イザヤを通して、次のようなことばを与えてくださいました。


【イザヤ書37章6-7節】

イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちが わたしたちを冒瀆したあのことばを恐れるな。

今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。 わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

結果はどうなったでしょうか?本当にその通りになりました。

その後の部分を読めば分かりますが、人間の手によらない神様の方法で侵略した者は死んでしまいました。


今、イラクで行われていることも 神様は彼らが神に向かって侮辱していることばを全て知っています。
神の子どもたちを彼らが激しく迫害している姿も 虐殺している姿も全部見ています。

すると、あるクリスチャンは「どうして神様はそれが起こる前に防がないのですか?」と言います。
神様の聖書の大きな計画は、最初から人間を祝福した神様でした。


しかし人間自らの欲・堕落した行動によって世界中であらゆる問題が出ています。

クリスチャンだとしても、皆が主のみこころに従って生きているでしょうか?
「私は神様のみこころとみことばを知っているのですが、それに従順していない時の方が多いです。」このように言うのは正直な告白であります。


そうすると、神の目から見るならば私たちも変えなければならないのです。クリスチャンであってもただ甘やかすことではないです。私たちは聖める必要があります。


まず初めにクリスチャンの方から苦しみが来るのです。私たちが道からそれたり汚れた者になると、神様はそういう悪者たちを使うのです。

その時に初めてクリスチャンは自分が横道にそれたことによって襲った苦難が、自分の罪によって刈り取っているのだと気付いて、立ち返るのです。


神様に立ち返って祈ることであります。名ばかりのクリスチャンで神様は喜ぶでしょうか?
喜ばないです。愛のムチをもって「来なさい。そのまま行ったら滅びなのだ。」と語ります。

そしてクリスチャンを目覚めさせる為に用いた悪者には、その後に神様がひどい目に遭わせるのです。


神様に敵対する者に対して、何もしない神様ではありません。


歴史を見ても独裁者たちの最期を見ると分かります。
彼らは権力と富を手に入れ、人々を簡単に殺しました。その人たちの最期が平安だった人はいないです。殺されていきました。

今、この時代に生きている私たちに対して、神様はどのように語っているでしょうか?次の箇所です。


【Ⅰペテロ5章6-10節】

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

終わりの時代はますます敵である悪魔が働きます。

ですから今は、昔では考えられない悪が地上で行われています。中東、アフリカ、ウクライナ、南米など私たちは見ています。
多くのクリスチャンが苦しみを受けています。神様にはその目的があります。

“あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。”これは純潔のものです。


不純物が取り除かれて神の国に入るのに相応しい者にさせるために、そのような苦しみを受けるのを神様が赦しているのです。


私たち人間は力が無いですが、神様には力があります。何もない所でも神様に助ける力があります。どのような方法でも使うことが出来る神であります。


ヒゼキヤは祈って助かりました。
そしてその後にヒゼキヤは病気にかかり、預言者イザヤを通して「あなたは死ぬ準備をしなさい。今すぐ家を整理しなさい」ということばでショックを受けました。

ヒゼキヤは大声で泣きながら「神様、助けてください」と祈りました。
すると神様はすぐさま答え「あなたに15年の命を加える」と語りました。神様は助けてくださいました。


神様の答えは、一番良い答えであります。
普段、私たちはどのような言葉を使っているでしょうか?神様は全てを聞いています。

ですから私たちは悪い言葉を使わないことであります。後で自分で刈り取った時にビックリするようなものが、以前に蒔いた言葉の種が成長してそのようになったことであります。


私たちは後でこのような実がなるのだと思いながら、良い種を蒔くことです。
良い種を蒔いたら、後で必ず良い実を刈り取るようになるのです。

また、普段からしっかりとした祈りをしてください。そうすると神様は必ずそれに対して答えてくださる方であります。

祈ることを神様は願っています。どのような時でも「祈り、祈り、祈り」です。これが一番効果的な態度です。


自分の計画、自分の方法でやっていたら、後で困ることがたくさんあります。

ですから始めから 知恵があり、力があり、すべての良い計画をもっている神様の手に委ねて、
「私は力がない者です。私は弱い者です。私は知恵もない者です。神様、どうしたら良いのか教えてください。」と導きを受けるならば、後のことは私たちが心配しなくて良いです。


ただ困る時だけ祈る神頼みは、それは宗教であります。

生きておられる神様に委ねて祈ると、神様から導きがあり、神様の計画が現れ、解決の方法が現れますので、私たちは神様の御手の中で守られるようになります。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚ アーメン

2014.8.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神のことばの力

テーマは 『 神のことばの力 』 です

【ヘブル4章12節】

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

もし クリスチャンではない人が、皆さんに「神のみことばって何ですか」と聞くならば何と答えますか?

「聖書は神のことばです。」「神のことばは真理です。」
これは間違いではないですが、その言葉だけで相手は理解できるでしょうか?

また次に「聖書って何ですか?」という質問に対しては、「神のことばです」と言っただけでは 相手の人は「一体何が書かれているんだろう?」と思います。

「真理です」と答えても「真理って何ですか?」と聞かれたとしたら、私たちは正しく説明できるでしょうか?


私たちクリスチャンはいつも神のことばを聞いているので、神のことばに対して よく知らなければならないです。
そして人々に正しく伝えなければなりません。


「神のことば」が何であるかは聖書の中にちゃんと書かれていますので今回はそれを学びます。
今日の本文のことばに注目しましょう。




①神のことばは生きている



神のことばは生きていると説明することができます。
生きているということは、そこに“いのち”があることを意味します。

“いのち”があるということは、人を生かす力があるのです。これはイエス様もはっきりと語ってくださいました。


【ヨハネの福音書6章63節】

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

死んだ人に対しては「いのち」という言葉は使いません。
「いのち」は“今、生きている”ということです。


神のことばは、死んだ言葉ではないです。私たちに益をもたらす、生きたことばであります。

神のことばは死んだたましいに生命力と活気、満足を与えます。


生きているということは、働きますし、変化と発展をもたらします。
死んだものは動きませんし、死んだものが他のものを生かすことは出来ません。そして変質されていきます。

しかし、神のことばは世が始まる前からありました。そのことばによって、全てのものが生かされています。


クリスチャンが成長したいならば、そして神の子どもらしく生きるためには、神のことばが必要です。


【Ⅱテモテ3章16-17節】

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

“矯正・義の訓練・整える” これはすべて私たちを成長させるものです。


私たちはもともと神の人ではなく、サタンの奴隷でした。
そこで、サタンの奴隷から神の人に変えていくのに用いられているのが“神のことば”であります。

皆さんが霊的訓練を受けていた時に、世の教えで訓練をしたのではないです。
神様のことばを用いて訓練をしました。


それを聞いて、私たちは自分の中にあった死んでいる部分を見付けました。
そして神のことばを聞いて私たちは成長してきました。

ですから変わっていくためには神のことばを聞いて、それによって訓練されなければならないです。


肉の思いは何の益も もたらしません。
例えば、皆さんにお配りしたパープルブックですが、みことばを書く訓練はとても大切であります。

(聖書を)読んで通り過ぎるよりも、書くことによって みことば1つ1つが心に入ってくるのです。
みことばを読まないのは成長を止めていることになります。それは自分が死んでいく姿であります。


私たちが成長し、もっと変化したいと思うならば 毎日みことばに触れないといけないです。


パープルブックは簡潔に書かれています。書くことで皆さんが訓練をされていることになります。
教科書の宿題のように書くのではないです。

書かないということは、みことばをないがしろにしていることであります。

みことばは食べ物だと言っています。
皆さんは毎日3食をきちんと食べると思います。お腹がすいて夜中に起きて食べることもあります。


それなのに、みことばは一切食べなくても何とも思わず、みことばに触れないままでいると たましいは死んでいきます。

みことばは 私たちが必ず食べなければならないもので、それによって私は生きているのだという認識をし、自分の霊をどんどん生き生きとしたものにしていかないと霊が弱くなります。霊が弱くなると私たちのすべてのものが色褪せていきます。


霊が死んでいる者は、喜びが出てくるでしょうか?平安があるでしょうか?―― それはないです。


一番強くしていかなければならないのは、『霊の部分』であります。
霊の部分が強くなると、その人はとても大胆な人になります。生き生きする者になります。


「最近、元気がないなぁ~」と感じるならば、それは肉体の力以前に 霊の力が消えたことを意味します。
その時は他のことをする前に、みことばを食べることであります。

また、どうやったら毎日みことばに接することができるのかを考えると、不思議と神様が導いてくださって出来るようにしてくださいます。

聖書をいつも手元に置くことであります。スマホで聖書アプリをダウンロードしたら移動中でも読めるのです。


私たちはやろうと思えば出来るのです。みことばに親しんでください。そうすると成長していきます。




②神のことばは力がある



皆さんは神のことばには力があると実感しているでしょうか。


この力が一番最初に現れた場面は、天地創造であります。

神様が「光があれ。」と、全てことば通りになりました。人間以外の世にある全ての万物は神様がことばで造りました。
太陽、月、動物もすべてことば造られました。その威力がすごいです。


また、今も神様が万物を保っておられますが、何によって保っているでしょうか――?次の箇所です。


【ヘブル1章3節】

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

神様は今もことばによって全てに命令をしているのです。
「太陽よ、正しく回れ。」「月よ、夜に輝け。」と、神様の力あることばに全てが支配されています。

いつか神様が「地球よ、滅びなさい。」と言うならば一瞬にして滅びると思います。
神様はことば1つで それをすることができます。

これほど神様のことばには威力があります。


また、神様のことばの威力は クリスチャンの日々の生活の中で必要です。

悪霊を追い出す時に、私たちは何の力で追い出しますか?
それは神のことばです。

私たちは「イエス様の名」を使います。イエス様ご自身が みことばなのです。


【ヨハネの福音書1章14節】

ことばは人となって私たちの間に住まわれた。

すなわちイエス様のことばは霊でもあります。そこにあるのは力です。


イエス様が40日間 断食をした後で、サタンが試みるために来た時に、イエス様がサタンを何で退けたでしょうか?

喧嘩をして退けたのではないです。神の1つ1つのことばを語る時に、サタンが退きました。

私たちが人間の言葉でサタンと戦っても勝ち目がないです。
しかし私たちが神のことばを信じて 武器(みことばの剣)にして戦うならば、神様の力がそこから出てきます。


ですから、私たちがみことばを蓄えるということは、戦いの時にそのことばを使うためであります。




③両刃の剣よりも鋭い



神様は両刃の鋭い剣のことばで何をするのでしょうか?

私たちの心を刺し通します。
私たちの心がことばによってグサッと刺される時に、一番初めに気付くことは“自分の罪”であります。

そして「私たちは(罪を)どうしたら良いですか?」という反応を見せます。


神のことばに出会った時に、私たちは自分の行動や生き方が 神のことばとは全然違うということに気付きます。
神のことばに違反している自分の罪を示されるのです。

神のことばは本質的なことを示していますので、そのことばを聞いて何も感じないならば それは死んだ者です。


神様のことばは 罪人が聞いた時に心を刺されることばであります。ある意味で聞きたくないです。

私たちは罪にずっと覆いをかけて見て見ぬふりをして生きてきましたので、それを明るみに出して見せられるならば自分の罪であっても見たくないのです。

見たくないですし、逃げたくなりますし、隠したくなります。


しかし、神のことばは全てを刺し通します。『あなたは罪人であるのだ。』

そして神様は別のみことばを出して『だから悔い改めなさい。立ち返りなさい。』と、神様はあらゆることばを通して私たちの中で働くのです。


そこで私たちはどれほど不従順であったのかを気付き、そこから立ち返らなければならないと思うようになります。


また、神様はそのことばを用いて裁きます。
不従順したイスラエルの民たちを全員 神のことばの剣によって打ちました。
これからの時代も同じであります。神のことばによって正確にさばきを受けるようになります。


【ヨハネの福音書12章48節】

わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。 わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

すべてのものが裁かれるその時に ことばがその人を裁きます。

私たちはことばを知らないと自分がどこへ向かっているのか気付かないです。
ことばは聞かなければならないです。


ずっと聞くことで私たちは気付くことがたくさんありますので、礼拝の時にもたくさんのことばを語りますので聞くことであります。

家で聖書を読む時も、神様のことばとしてきちんと聞かなければならないです。




④たましいと霊、肉体すべてを刺し通し、判別することができる



神のことばは ある限られた場所だけで働くのではないです。


人間のすべての面において働きます。すなわち たましい・霊・肉体を新しく生まれ変わらせます。

神様はことばを使って一番したいことは、私たちの霊とたましいを新しくしたいのです。これは神様の願いです。


人はうわべを見ますが、神様は心を見ます。
神様は私たちの心に手を付けて新しくしたいのです。


【Ⅰペテロ1章23節】

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

私たちは死んだ者から新しい者になれたのは、何によってでしょうか?
ここに書かれているように、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって私たちは聖められました。

このようにして神様は私たちのたましい・霊をいやしてくださいました。


また、神のことばは肉体・病気をいやします。

百人隊長のしもべが病気になった時に、隊長がイエス様の所に来て『おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。』と言いました。

それを聞いたイエス様が『さあ、行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』と言いました。
すると遠く離れた所にいたしもべは ちょうどイエス様が語った時にいやされました。


つまり場所・空間は関係がないです。
全地・全世界は神のことばによって動いていますので主が働くのです。


また苦しみの中にいる者に主のことばは慰めであります。

皆さんは苦しい時に、神のことばによって どれほど慰めを受けたでしょうか?


【詩篇119編50節】

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。

悩みの時に、私たちは他人のことばを求める必要はないです。
一番 私たち自身のことを知っているのは神様です。

なぜなら神様には、私たちを生かしたい、新しくしたいという思いがいつもあるからです。


これらのことを通しても分かるように、私たちは単純に神のことばを読むだけで終わるのではないです。
神様のことばを聞いたら、私たちの日々の生活に適応しなければならないです。素直に使うことであります。


なにか大切なことを決めなければいけない時も 自分で色々と考えるのではなく、神様は何とおっしゃるのか?聖書にはどのように書いているだろう?と、みことばを探して神様の導きを受けて決定するのです。

どの道を歩んだら良いのか、その時も私たちはあっちへ行ったり こっちへ行ったりするのではなく、 「道であり真理であり いのちである主よ。今日も私の道を教えてください。」と、神様からことばを貰うことであります。


どう生きるべきなのか 生き方がよく分かっていなくても、聖書を開けば全て書かれています。
聖書には私たちが生きている時に出会う様々な問題に対しての答えが必ずあります。


それを私たちが探すことです。「教えてください。」と探すならば神様はその人に必ず示してくださいます。

私たちが従うならば成長していきます。

神のことばに対して私たちの取るべき態度は、まずは信じること・従うこと・勝手に判断しないこと・適応すること・導かれること・ことばによって生きることであります。


この人たちは明日のことを心配する必要はありません。神様はことばによって その人たちを守ります。
ことばがその人の代わりになってくれるのです。ことばが慰め・平安・祝福をもたらします。

ことばが自分にとってどれほど大切であるかを知らなければならないです。


相手が自分のことをどう思っているのかは考える必要がないです。その相手が神ではないです。
それは自分に対する悪口・批判など私たちを潰す言葉であります。

私を生かすことば、私に益をもたらすことば、私を助けてくれることばに耳を開いて聞かなければならないです。


偽りがたくさんある世の中で、私たちは何を聞くべきでしょうか?

神の真理のことば、それを常に聞かなければならないです。
(・∀・)つ

2014.8.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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