からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2014年05月

主の民になったならば

テーマは 『 主の民になったならば 』 です

【エレミヤ書7章21-26節】

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえに加えて、その肉を食べよ。

わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。

ただ、次のことを彼らに命じて言った。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。 あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。」

しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。

あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、 たびたび送ったが、

彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。」

人生最大の恵みは何だと思いますか?
私たちが今まで受けた恵みの中で、この恵みが一番だと思っている恵みは何でしょうか?


天地万物の創造主、主権者である神が 自分の神となり、自分が神の民になることは人生最大の恵みであります。


現在、地球上には約70億人が住んでいます。その人たちが皆、神様を信じているでしょうか?
そうではないです。多くの者たちは神様に背を向けています。

彼らも神と呼んでいるものがありますが、その神は実在する神ではないです。
人間が作った偶像の神ですので、そのまま進むならば、彼らに待っているのは裁きしかないです。


この世の多くの人々が捨てられた状態であり 裁きを免れない中で、私たちは天の神の民として生きているのは 恵みの中の恵みです。
これほど素晴らしい恵みはどこにあるでしょうか?そこに自分の永遠の命がかかっているのです。

この世で生きる期間は短いですが、その後に続くのは永遠の世界です。
その永遠の世界で 私たちはどこへ行くのかが重要であります。


私たちはいつも何が大切であるのかを 常に考えなければいけないです。
神様の民である価値を低く考えるならば、その人たちは世のものによって倒れてしまいます。


昨夜、生駒聖書学院長の奥様が病気によって息を引きとりました。その連絡を受けたので祈りました。

しかし、そこには悲しいという思いは一切ありませんでした。
天国がどのような場所であるかを知っていますし、私も天国に憧れているので、
“苦しみから解放されて 今は喜びあふれ、光と平安がある天国でイエス様に出会って喜んでいるでしょう。何と素晴らしいことでしょう?”

私はそこで感謝の祈りをしました。
残された家族のためには慰めの祈りをしましたが、
もしその方が イエス様を信じないで亡くなったならば、感謝の心ではなく 憐みの心が出て来ると思います。


しかし、イエス様を信じて神様のところへ行く人たちは 帰るべきところに帰ることなので、すごく感謝であります。御国の民になった者だけが死んでも幸せになります。


また、救われた者 皆が天の御国に入られるのではないです。
ある者は「主よ、主よ」と言っていましたが、天国に入れない者もいました。

なぜ入れなかったのでしょうか?
それは 神様が見た時に、神の民として選んだのに その人の生き方が神の子どもらしくなかったからです。

そして天国には入れずに、そこで歯ぎしりをするのです。


神様は始めから私たちを幸せにするために民として受け入れて下さいました。これはとても大きな恵みです。

神の民になった者は 神の民らしく生きる時に、神様はその人を神の民として認めて下さいます。


イスラエル民族は選民としてのプライドがものすごく強かったです。
しかし神の目にうつった彼らの姿は、神が民として認めることができないほどのひどいものでした。

彼らは不従順によって神に背を向け、ほとんどが荒野で死にました。神の民にふさわしくなかったのです。
私たちは彼らと同じ道をたどってはいけません。


これは彼らだけではなく、今の私たちに語る言葉でもあります。

「あなたはイスラエルの民とは違うのか?彼らのように歩んでいるのか 自分をよく見なさい。」と、
私たちが救われた時から 私たちはイエス様と1つにならなければならないです。


神の子どもになったので真理のことはもちろん重要ですが、いつもイエス様と共に歩きながら神の民らしく生きることが大切であります。


主の民になったならば、どのように生きるべきかを まず考えないといけないです。
自分の神に対して自分がどうすべきかを考えるのは当然です。
そこで、神のことばの中に神の民として生きるべき姿が出てありますので そのことを伝えたいと思います。



①主のことばに聞き従うこと



主は私たちを救い出した方であります。
それまでは神様とは無関係でしたが、私たちが神の民になった瞬間から神様は当然のように私たちの神になりました。
この神の言葉に対して私たちは聞き従うことであります。


神様がイスラエルを選んだ時に いけにえが欲しくて選んだのでしょうか?
そうではないです。いけにえは、いわゆる形式です。神様はいけにえを要らないとは語ってはいません。

ただ、いけにえだけでは満足することはないと語っておられます。


神様が求めておられるのはいけにえをささげる人の心です。


すなわち従順する心、感謝する心、きよい心を願っています。神様は 汚れのないいけにえを持ってきなさいと語りました。もしそれがないなら神は決してそのいけにえを受け入れません。

いけにえを持ってくる人が汚れているならば、そのいけにえも汚れてしまいます。


【エレミヤ6章20節】

いったい、何のため、シェバから乳香や、遠い国からかおりの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、 あなたがたのいけにえはわたしを喜ばせない。」

遠い所からわざわざ神様に捧げる為に良いものを買いました。
それを持って神様のところへ来て、神様が喜ぶと思って捧げたのに、それを神様は拒否しました。

問題はその人の心が神様に相応しくなかったからであります。その人自身が不従順の心があるからです。


神様の言葉には従わないのに、物だけを持ってくるのです。
「神様、これで満足でしょう?」「これで私の罪を赦してください。」「これで私を祝福してください。」
それは賄賂のようなものになります。神様はそのようなものを受け取らないです。


神の民になっても、うなじのこわい者がとても多いです。外見は敬虔なふりをしていますが中身は違います。
ですから神様は「偽善者」という言葉を使います。


神様のことを「私の神様です。」という人は、必ず(神様のことばに)従順をしなければならないです。
従順がないと神様はその者を“神の民”と認めることができないのです。従順しない者に 神様の祝福はないです。

神様は、聞き従う者だけに豊かに恵みを与えるのです。神様が私たちを神の民としている目的は、私たちを幸せにするためであります。

愛の神様ですので、私たちにみことばを与えて 「従いなさい。」ということは、私たちに恵みをたくさん与えたいからです。
これは神のルールを教えているのです。


不従順の罪は悔い改めないと天国には入れないです。
心を頑なにして悔い改めをしないならば神様との関係がなくなります。
いくら神の民であっても神に向かってうなじのこわい者、不従順する者に 救いの恵みが臨むことはありません。


神様は「わたしの声に聞き従うならば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と語りました。また神様は従順する者に聖霊を与え、祝福し、幸せにさせると約束してくださいました。


私たちが主の声に聞き従う時に、神様は私たちを民として認めて下さいます。




②霊とまことによって神に礼拝すること



【エレミヤ書7章21節】

全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえを加えて、その肉を食べよ。

と語りました。

全焼のいけにえとは、完全に焼いて捧げるいけにえなので 肉は残っていません。そして神様は その香りをいけにえとして受けます。それなのに神様は、肉もないのに、ほかのいえにえを食べなさいと言うのは、神様からの非難的な言葉であります。


全焼のいけにえを捧げているのに、神様はそのいけにえを受け取れないということです。神様が拒否する姿です。
それは神様が受け取らなければいけない物なのに、「あなたが食べなさい。」ということは、「わたしは受け取れないのだ。」ということです。

(受け取らないのは全焼の捧げ物の中に)その人の心が入っていないからであります。


今の時代では私たちが牛や羊を捧げることはないですが、神様に霊とまことによって全焼のいけにえを捧げる方法があります。次の箇所です。


【ローマ12章1節】

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

全焼のいけにえ そのものには、“献身”の意味があるのです。
「私の心も身体も神様に捧げます。神様を信頼し、愛します。」というすべての思いが込められて、神様に捧げることなのです。


神様は常に心を見ておられます。
神様を信頼する心も愛する心もなく ささげる礼拝を神様は喜ぶでしょうか。―― 喜びません。

神様が求めておられる礼拝について書かれているのは次の箇所です。


【ヨハネの福音書4章23-24節】

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

神様はこのような礼拝者を求めておられます。

日曜日に教会で神様に礼拝を捧げることだけが礼拝ではありません。


毎日の生活そのものが神の前で生きながら、神の中に根差して、毎日、毎瞬間 神様に礼拝をすることであります。


私たちが霊とまことをもって礼拝をしたいならば、神の目を常に意識しなければなりません。


私たちは気付いていなくても、神様は何もかも常に見ておられます。

「あぁ、そろそろ祈らなければならないか…」と 形式的に祈るならば神様は受け取らないです。
しかし、形式がなくても私たちが心から神様を見て 愛の心を見せながら感謝して生きるならば、24時間礼拝する者になるのです。


ヨセフがそうでした。ヨセフは24時間礼拝をする者でした。
彼は厳しい試練の中を通っている時 一言も神様に文句を言ったことがないです。
どのような環境に置かれても、常に礼拝でした。

毎日、美しい女性に誘惑されても、ヨセフはそれに倒れませんでした。
倒れなかったのは、ヨセフの心が強かったからではないです。

神様を常に意識するからなのです。
「神の前でこんな罪は犯せません。」と、それを堅く決めているのでブレることがなかったのです。


私たちは、あちこちを見たり世の流れに従ったりするので 倒れたりするのです。
信仰が台風に遭っているかのように常に揺れ動いています。それは礼拝をする態度ではないです。

それによって全部失敗をしながら日曜日だけ神様の御前に出て「私は礼拝をしています!」と言うならば、
神様は「違うぞ。あなたの普段はどこへ行っているのか?普段は何をしているのか?」―― それを私たちは意識しなければならないです。


素晴らしい礼拝者は ヨブもそうでした。ヨブがすべてを失った後に主にささげた礼拝は立派な礼拝でした。霊とまことが彼の中に常にありました。

自分の生活全体を通して神の前にははずかしくないように、神を敬い、心から神を求めて生きる人を神様は喜んで下さいますし、その心で礼拝する者を神の民として認めて下さいます。

神様はいつも私たちに良いものを与えてくださるので、それに対して私たちが常に礼拝を捧げる者ならば恵みがなくなることはないです。



③主の声を大切にすること



神様は昔、まだ聖書がない時代にはしもべたち、預言者を通して民に語りました。
彼らが伝えることばは神のことばであり、神の声でした。

しかし彼らは聞かず、耳を傾けませんでした。
主のことばを聞くことを拒否した結果、神のみこころを知らないので あらゆる不従順と罪を行いました。


神様は聖書の言葉を通して主の声を聞かせたり、礼拝メッセージを通して主の声を聞かせます。また兄弟姉妹を通しても御声を聞かせます。
私たちは それを聞く耳をもって聞くことです。


【箴言16章20節】

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。

主の声を無視せず、聞く耳をもって聞き、心に入れることです。
みことばを心に刻むと私たちの命になります。


今、私たちはいつでも主のことばを聞けることに対しても喜び 感謝しなければなりません。

人の話には興味があって よく質問までしながら聞くのに、「神の声には聞きたくありません」と耳を閉じるならば 神の民と言えるでしょうか。

個人の生活の中でも、教会でも、神のことばを聞くことほど大切なことはありません。

いつも耳を開いて、主のことばを聞きたいと願う人は主に喜ばれます。


自分が神の民であることを誇りと思っているならば、自分自身がその民にふさわしい者になることは当然です。
神の命令に従順し、霊とまことによって礼拝を捧げ、いつも主の声に耳を傾け、そのことばを大切に真剣に聞くことです。

そのように行う人は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた 民です。


神の言葉を無視するならば、その時から神様は語らなくなります。その人たちには、みことばを聞けない飢饉が必ず来ます。

「聞けることが感謝です。たくさん語ってください。」と謙遜な思いをもって主の前で聞くならば、その人はどんどん神の民らしく生きることが出来ます。 (´∀`*)

2014.5.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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信仰の遺産について

テーマは 『 信仰の遺産について 』 です

【Ⅱテモテ1章5節】

「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」

今日は母の日ですね。
昨日は花屋さんで花を買う人がとても多かったです。

母の日によくプレゼントするカーネーションもたくさん売っていました。この前は子供の日もありました。
4月末から5月にかけてはゴールデンウィークもありましたので 家族と共に過した時間が普段よりは多かったと思います。

今日は その意味で、家族・家庭のことを考えてみようと思います。


多くの親たちは自分の子供を愛するから 良い環境を与えようとしますし、自分は苦労しても子供には苦労させたくないと思いますし、 自分が貧しい者であるならば子供は豊かな者になってほしいと思います。

また子供には財産を残してあげたいと とにかく子供には良くしてあげたい思いがあります。
それらの遺産を残すと子供の生活は楽になると思いますが、子供のたましいには何の役にも立ちません。

なぜならばそれらのものはすべて消え去っていくものであり、
それらのものをあの世には持っていけませんし、魂を救い出すものでもないからです。


しかし 永遠に消えることもなく、子供の魂にも有益な遺産があります。
それは信仰の遺産です。信仰の遺産ほど価値ある遺産はありません。


今日の本文では信仰の遺産を立派に受け継いだ一つの家庭を見ることが出来ます。テモテの家庭です。

テモテは使徒パウロがとても愛した弟子でした。パウロはテモテをそれ以上に考えていました。
テモテのことを「信仰による真実のわが子テモテ」と呼びました。

テモテはパウロが最初から主に導いたのではありません。出会った時にテモテはすでに信仰を持っていました。


テモテの中には純粋な素晴らしい信仰がありましたが、この信仰は敬虔な家庭の中で彼が育てられたから、テモテは信仰を遺産として受け継ぐことができました。

祖母ロイスと母ユニケも純粋な信仰もっていました。素晴らしい信仰の家庭です。
信仰を遺産として子孫に残すために信仰の家庭が持つべき要素があります。


私たちも自分たちの家庭のことを考えてみらた良いと思います。テモテの家庭と自分の家庭を比べるのです。

信仰のない家庭で生まれた人もいますし、信仰がある家庭で生まれた人もいます。
その中で自分たちは何を受け継いでいるでしょうか。すごく親の責任があります。子供の責任ではないです。

信仰の家庭を築くのは親の責任です。
信仰を遺産として子供に残すために信仰の家庭はどうあるべきであるのかを考えていきたいと思います。




1.神を恐れることをすべての基本にする



神を恐れることは信仰の核心であり、基本であります。
神様は教会のかしらだけではなく、家庭の中でもかしらであります。

ですから夫がかしらになってもいけませんし、妻がかしらでもいけません。子供がかしらになってもいけないです。
自分の家庭の中で一番偉いのは神様であります。

信仰の先祖アブラハムが家庭の中で見せた姿も 神を恐れている姿でした。
親は子の前で神を恐れている姿を見せないと 子供は神を恐れる信仰を持たないです。


子供は親を見て育ちます。親がいつも神様を恐れる姿を見せるならば、自然と子供もそれを見て学びます。

しかし親が信仰を持っても神様を恐れる姿がないなら 子供は学ぶことができないです。

次の箇所にはコルネリオの家庭が出て来ます。


【使徒の働き10章2節】

彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが

家庭の中で神を恐れている姿をいつも見せていますか。子供は親を見て育ちます。

神様の権威に従うことが恐れることであり、神様を第一にして神を恐れる信仰を親が見せるならば、その家庭は神様が支配する家庭になります。
神を恐れる姿を見せるならば、自然と神様をまだ信じていない者までも「神様をけなしてはいけない。神様に逆らってはいけない。」と学ぶようになります。


次の箇所は、私たちが神様を恐れるならば素晴らしい祝福が与えられるという主の約束です。


【詩篇128編1-4節】

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

信仰の行動を通して祝福が流れてくるのです。




2.神のみことばに頼りながらみことばを実行し、 子供に小さい時から信仰教育をしなければならない



親が自分の価値観で子供にああだこうだと教育をするのが一番良くないです。
自分の価値観がすべて正しいわけではないです。


神を信じる家庭は自分の思いのまま家庭生活をするのではなく、みことばに従って生活しないといけないです。

子供は別の人格を持っている者として与えられています。子供は神様のものなのです。

親は(神様から)任されて育てるだけであります。決して自分の分身ではないです。


【箴言22章6節】

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。

みことばによる信仰の教育です。みことばは真理ですので変わることがないです。

信仰の遺産を残すためには、みことばの教育が必要です。


【申命記6章6-9節】

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。 あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、 記章として額の上に置きなさい。

これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

親がまず神様の言葉に従わなければならないです。「心に刻みなさい。」ということは、みことばがその人の価値観になることです。

家庭の中がみことば中心になる時に信仰を遺産として受け継がせることができます。


【エペソ6章4節】

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

親が子供に自分の価値観を押し付けながらそれを教育と勘違いしてはいけません。
親が押し付けるので子供が怒ります。「自分がすべて正しくて、子供が間違えている」ではないです。完璧な人間は1人もいないです。

しかし、神様のみことばはすべて正しいです。主の教育と訓戒によって育てなさいと主は語ってくださいました。
それによって子供が学んで信仰の人として育つことができます。
自分の思いのまま、自分の価値観をおしつけたら子供は反発するだけです。


主の言葉であるなら、子供は反発できないのです。反発するということは、神様に反発することになるからです。
しかしなぜ子供たちが親に反発するのかというと、親が一方的に自分たちの思いのままにするからであります。
子供は何も言わなくても、心の中には反発心がどんどん大きくなっていきます。これは本当に気を付けなければいけないです。




3.親の献身的な犠牲が必要



一人の子供がどんな人格を所有するかは、その親の人格と信仰教育にかかっています。
怠けた親が子供に向かって「勤勉な者になりなさい」と言うのは正しいことではないです。子供は聞いた瞬間「自分はしないくせに…」と思います。

嘘つきの親が 子供に「嘘を言うな」と言うのも 子供から見ると受け入れがたいものです。


まずは親が 肉のものを打ち叩いて殺しながら、親が嘘をつかないことが(子供への)教育になります。

神様は私たちに、子供に本気で信仰の遺産を残したいならば、親は模範的な信仰生活をしなければならないと語りました。


模範的な信仰生活をするためには、私たちは自分を打ち叩いて犠牲を払わなければならないです。
子供のために祈りの犠牲も必要です。

口うるさく言うのではなく、子供のために祈ることが大切であります。

もっとも親の献身的な犠牲は家族への無条件の愛です。


信仰の基本の中で一番最初に要求されるのは愛です。
家族を愛することです。惜しまずに愛することです。

愛を子供に注がないと、子供の人格は歪んだものになります。
家庭環境がすごく悪いと、子供の人格は真っ直ぐに育たないです。
押さえつけられて悪い物をたくさん見せられていると、人格を花咲かせることは出来ないです。


そうすると子供に恐怖心が出て来て「私は愛されていないんだ。」という思いが出てきたら一番 致命的であります。






テレビである芸能人の女の子の告白を聞きました。

一度も母親から愛された記憶がありませんとはっきり言われました。
常に怒られ、けなされ、また叩かれました。

可愛いと言われたこともなく醜い醜いといつも言われました。実際はとても可愛い子でした。

心に深い傷を負い、自殺未遂までして病院に運ばれました。母親はお見舞いに来るかと思いましたが一度も来ませんでした。

世の中で一番の虐待は「愛さないこと」です。 愛さなければならない者に 愛を与えないのは、これほどひどい虐待はないです。それで子供は深い傷を負うことになります。

その子供の人格は傷物になります。それは子供のせいではないです。


愛がなければ どんなしつけでも子供にとっては虐待以外なにものでもないです。
心に深い傷を与え、人格を踏みにじっているので虐待です。

たとえ しつけのために子供にムチを当ててても、それが愛のムチであるならば 子供にはちゃんと愛が伝わり 育ちます。


隣人を自分自身のように愛さず、自分だけを愛するのはサタンの心であります。
サタンは自分だけのために周りをすべて殺します。すべて自分のものにして与えることをしません。

愛は自分が犠牲を払い、愛は自分で我慢し、愛は自分から手を差し伸べることであります。
愛は自分の体を捧げて、相手の益のために働きます。


子供を育てる時も、子供を利用して自己満足のためにするなら、それは子供を愛する姿ではなく 親が自分を愛する姿であります。それでは信仰の遺産を残すことが出来ないです。




4.子供を主の手に任せることが大切



親だからと言って、全部責任を持って育てることはあり得ないことです。
神様は私たちを助けてくださる方であり、両親は「肉」の親ですが、神様は「霊」の親であります。

ハンナがサムエルを神の聖所につれて行き、祭司であるエリに任せました。
神に立てた誓願があるからそうしましたが、全能なる神の手に任せることを恐れませんでした。


親が子供を神様に任せず、自分の知識や経験で養育するならば子育てに失敗しやすいです。
また決して信仰の遺産を残すことはできません。

親が口うるさく言って子供を変えることができるでしょうか?
子供は心の中で「うるさい。聞きたくない。」と反発心と憎しみと敵対心が出てきます。つまり逆効果です。
しかし神に子供を委ねて祈り求めるならば、神はその祈りを聞いて下さいます。


聖書注解書を書いたスコルフィルド博士は、母親が毎日、彼のために祈りましたがキリストを信じませんでした。

しかし、亡くなる直前に対面をし 母親はスコルフィルドのために最後の祈りをしました。
決して口うるさく言ったのではなく、“スコルフィルドが神に仕える者になりますように。”と一言祈ってから亡くなりました。 スコルフィルドは、その母親の祈りによって神様を信じ、彼は変えられました。

お母さんの信仰の遺産を受け継ぎました。
神様によく仕えるクリスチャンになりました。


私たちは、家にいる時の姿が「本当の姿」であります。

他人の前では仮面をかぶることが出来るのです。少しの時間ならば良い言葉を使えますが、家族には隠すことが出来ません。

家族からの評価が 私たちに対する一番正しい評価です。
もし「それでもクリスチャンか」と言われたなら クリスチャン失格であります。
自分の行動はクリスチャンらしくないということに気付き、それを言われた私たちは恥ずかしい思いで変わらなければいけないです。

子供には純粋な信仰を残さなければならないです。

間違えた信仰を見せたら、子供たちは教会から離れていきます。


今、もう一度私たちは自分の信仰をよく見てみましょう。
子供に遺産として残せる純粋な信仰なのか?
それとも、私のようなクリスチャンにはなってほしくないなと思える信仰なのか。

純粋な信仰は、偽りのない信仰、疑いのない信仰です。神様が喜ぶ信仰です。


聖書には悪い信仰の姿もたくさん出てきます。
それを子供に残したら もう1人の悪いクリスチャンを生み出すのです。

子供のためにも、家族のためにも、私たち先に救われた者たちは 必ずそれを家族にも遺産として信仰を残していくことであります。

家族から「その信仰が欲しい」と思われるようにしなければいけないです。
「嫌だ。あんなものは受け取りたくない」というものは、私たちの失敗であります。


信仰の遺産は残しても価値がありますし、その遺産を相続した子孫や家族は魂が祝福されます。

その信仰の遺産を残した人に心から感謝するでしょう。
財産であるならば欲深い兄弟の間に醜い争いが起こります。財産を残しても放蕩に走ることが多いです。


信仰の遺産には、そんなに醜い争いは絶対に起こりません。取られる心配もありません。

(信仰の遺産を)受けた者にとったら最高の祝福です。
この最高の祝福を家族に残しましょう。
(^∀^)

2014.5.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエスから目を離さないでいなさい

テーマは 『 イエスから目を離さないでいなさい 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷と まつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめを ものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

先月 韓国で ある牧師先生が書いた『イエスから目を離さないでいなさい』というタイトルの本を買いました。

その牧師先生は“24時間 イエス様だけを見て生活すること”を日々 目指しているという内容が書かれており、
読みながら恵みを受けますし、チャレンジも受けています。

目的は「主の臨在の中で生きるキリスト者」です。


これはとても大切なことであります。
「イエスから目を離さないでいなさい」と言われるのは、すなわち「あちこちに目を移さないようにしなさい」ということです。 私たちがいつも見ていないといけないのは「イエス様」だけだという意味です。

いつもイエス様だけを見て生きるというのが、イエス様が私たちに願うことであります。


信徒たちは「24時間 イエス様だけを見るのは難しいです。しんどいです。」と言います。
これはただ単に仕事もせずに、何も考えずに そうしなさいという意味ではないです。

実際 イエス様が自分の心の中におられることと信じているならば、私たちは24時間イエス様を見て生きようと決断するのが当然であり正しいことです。
心の姿勢を徹底的にしなければならないです。


人は何も考えずに生きることはないです。
私たちは必ず何かを考えながら生きています。次から次へと思いが止まることがないです。
そう考えると私たちが24時間イエス様のことを考えることは難しくはないのです。

現実を見ると24時間“恋人”のことばかり考える人や、“株”のことを考える人、“お金”や“仕事”“心配”ばかりを考えています。
自分で自分の思いをどうすることもできないほど 人間は深く考えるとそれに没頭する姿が見られます。

信仰を持っている人はこれをイエス様に対してもそうするように決心をしなければいけないのです。


他のことは出来るのに、イエス様を24時間見るのは出来ないというのは、私たちの心が他のものが関心があるからです。


先ほど紹介した本に書かれている内容で、その牧師先生から影響を受けて 別の牧師も毎日24時間イエス様だけを見て生きる生活を始めました。

本を書いた牧師先生は、霊性日記を書いていますが、それを真似して その牧師も書き始めました。
霊性日記とは、日々の出来事を通してイエス様を見る訓練であります。


ある時に、この牧師は失望した表情で(本を書いた牧師先生を)訪ねて来て 苦しい胸の内を語りました。
「私は24時間イエス様だけを見て、霊性日記をつけていたのですが、私は罪に倒れました。どうしたら良いですか?」と質問をしました。

それを聞いた牧師先生はびっくりして苦しい心で「霊性日記を書いても無理でしょうか。」とお祈りをしました。
するとその時、主はすぐに鮮明に応えてくださいました。

神様は「わたしを24時間見ているなら罪に倒れることはない。その牧師は自らを欺いているのだ。」と語りました。


それでもう一度その牧師を呼び、「日々、どのような生活をしているのですか?」と聞いたので、
その牧師は「私は毎日、霊性日記を書いています。でもいつの間にかニュースのことが気になりインターネットで調べました。
インターネットで調べていると色々なサイトが出て来て、そこにアダルト動画があり、その誘惑が来ました。
その誘惑に勝つことが出来なかったので、アダルト動画を見て罪を犯しました。
霊性日記を書いても、こういう罪に私が倒れてしまったのだ。どうしたら良いのかと思いました。」


しかし神様が教えたのは、彼が語っていることとは違うことなのです。
「あなたは24時間わたしを見たのではなく、わたしから目を離してあなたがそういうものに心を開いてしまったからだ。ネットで調べている時に わたしのことを見ていたのか?」ということでした。

もしイエス様のことを見ていたならば、そういう誘惑が来ても開かないです。「これはサタンの誘惑だ。絶対に見ません。」という心の決断であります。
それをしていたならば絶対に罪を犯すことがありませんでした。

「見たい」という思いが来て、自分の手でそれをクリックして扉を開いてしまいました。
それを見た後に「あぁ、私は24時間 イエス様を見ていたのに罪を犯した。」と言うのは自分を欺いているのです。


神様は誰も誘惑をしません。
あなたが誘惑されたのは自分の中にそういう欲があるから、欲と誘惑の波長が合い繋がったために そこから罪が出て来るものであります。


私たちは一瞬でも、5分でも10分でも誘惑に心が奪われて目をイエス様から離して違うところを見ているから誘惑が来るのです。サタンは常に私たちを狙っているのです。



【箴言4章23節】

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

最も私たちが心を守るために重要なところであります。
なぜ神様はこのように私たちに語ったのでしょうか?

それは、私たちの心はとても重要な部分だからです。

私たちの心には、イエス様が共に住んでおられます。


聖書では、これを「結婚」にたとえました。

これを知るならば、私たちの心に サタンが与える思いを入れることがなぜ大きな罪になるのかが理解できます。
結婚した男が、妻以外の女性を家の中に入れて住むならば、また 結婚した女が、夫以外の男性を家の中に入れるならば、おかしなことです。
結婚生活が成り立たなくなり それは不品行・姦淫の罪なのです。

イエス様は「大丈夫だよ。あなたが罪を犯してもわたしは心が広いから赦してあげる。」とは言わないです。この罪のことだけはイエス様は赦さないのです。

妬む神様であり、他のものとイエス様が共存することはありえないことであります。

体よりも、私たちの心を一番に狙っています。心の中で犯す罪を人間はあまり罪だと思わないからです。


サタンの思いは心に来ます。そして神様も私たちの思いを通して働く方であります。
神様の声は、肉声のように聞こえる声ではないです。

私たちが祈ったりしている時に、急に良い思いが来る時がありますが、それは聖霊の思いです。
これはサタンも同じやり方をします。サタンも急に思いを入れます。それも悪い思い・否定的な思い・不安な思い・恐れの思い・憎しみの思いを入れます。

そこで私たちがその思いにやられて、思いを黙想するので そこから身ごもって大きくなり罪を犯すことになるのです。


神様の思いが来た時に私たちは「これは聖霊様から来た思いなのだ。」と自分の中になかった思いを素直に信仰で受け取って行動をしたら良いです。

神様は からし種のような小さな思いを入れて、それを私たちがキャッチするのです。


私たちはそこで従わないと、その思いは消えていきます。せっかく神様が私たちを助けようとしたのに、私たちは信仰で反応しないとチャンスが消えていきます。

これからは思いがパッと来た時に、サタンによる悪い思いだったら「違う!」と言って、それに心を開かないことであります。しかし良い思いが来る時は、「これは聖霊様から来たものである」と 従って信仰で受け取ることなのです。

心には神様以外を入れないと決めて、それをするならば、神様はそこで働いてくださいます。

ですから、その心を守るために24時間イエス様から目を離さないことが大切です。




狭い門から入りなさい



【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

滅びに至る道はなぜ広いのでしょうか?なぜそこへ行く人が多いのでしょう。
そこには誘惑するものが多いからです。私たちを潰そうとする敵ががたくさんいます。
でも人々は霊的存在を知らないので、目があちこちへ移ってしまいます。

そこには目の欲を満たすものがたくさんありますので、目の欲、暮らし向きの自慢、肉の欲、そのようなもので倒されていきます。


しかし、狭い道にはイエス様だけが存在しています。イエス様は「わたしが道である。」と語りました。
道そのものがイエス様ですから、誘惑するものがないのです。

私たちの心を守る時に、私たちの霊的命が守られます。心を守れないと命を失うことになり、イエス様も失うことになります。


道であるイエス様がおられないなら、どうやって父なる神様のところへ行けるでしょうか?
イエス様から目を離すということは、滅びが始まるのです。

私たちが本当にイエス様を愛しているならば、イエス様と二人きりになるのが一番楽しいと思います。

愛し合う人同士は、2人だけの時間をたくさん作って、その時間を大切にします。
私たちがイエス様を愛するならば、いつもイエス様のことを思うのは難しくはないと思います。


イエス様と2人で この小道を歩きたい、イエス様とだけ話をしたい、イエス様だけを見ていたい。イエス様とだけ仲良くしたい。という思いが出てきます。

その思いがないならば、イエス様を愛していないことになります。

自分を愛し、自分のために命を捨ててくださった命の恩人であるイエス様。そして自分もそのようにイエス様を愛するならば、他のものがいらないのです。 イエス様だけで十分です。と、このような思いが出てきます。


ですから狭い道でも、険しい道でも 決してその道が いばらの道ではないということであります。
愛する人と共に歩く道は 周りを全然気にしなくなり、イエス様を見るだけで心が幸せになります。

しかし「まだそこまで親密ではないです。」と言うならば(イエス様を)愛していないということです。

イエス様が私たちに一番求める心は「愛」なのです。


本来ならばイエス様を見ていなければならないのに、イエス様を見ずに どうでも良いことに目を奪われているから私たちの心の中には平安がなく、祝福・喜びがなく、いのちがないのです。

ヘブル12章1節に出てくる多くの証人たちは、ヘブル11章に出てくる信仰の人々です。その人たちは、地上で主と共に歩んだ人たちです。
その人たちは私たちより先に 主だけを見て生きた人たちです。彼らはどれほど祝福されたでしょうか。

それを見て、私たちもあちこち目を向けず、主だけを見る生活を目指すべきです。






このような話がありました。

イギリスの とある教会で、ある日の早天祈祷会で時間になっても、なぜか牧師先生が現れませんでした。 5分が過ぎると長老が代わりに祈祷会を導きますが、その日は長老も参加しませんでした。

誰かが祈祷会を導かなければいけないので、仕方なく靴の修理工をやっている執事1人が立ちあがって前に出ました。
その執事は 初めて前に立ちました。そして(今回のメッセージテーマである)ヘブル12章2節を読みました。

「今日のタイトルは『イエス様を見ましょう』です。」 このように言いましたが、次に何を語ったらいいのかわかりませんでした。それで彼はこのように言いました。


「イエス様を見ましょう。イエス様だけを見ましょう。ほかのものは見ないで イエス様だけを見ましょう。
私たちは必ずイエス様だけを見ましょう。
何があってもイエス様だけを見るべきで、他のものは見てはいけません。

とにかくこの世にイエス様がおられるように イエス様を見ましょう。
喜びの時も、悲しみの時もイエス様を見ましょう。

毎日鏡を見るように イエス様を見ましょう。

朝にもイエス様を見て、昼にもイエス様を見て、夜にもイエス様を見ましょう。
立ってもイエス様を見て、座ってもイエス様を見て、寝てる時もイエス様を見ましょう。

生きても死んでもイエス様を見ましょう。私たちは必ずイエス様だけを見るようにしましょう。」


このように たどたどしく、「イエス様だけを見ましょう」という彼の説教を聞いた信徒たちは笑いをこらえたり、失望したり、
ある人は目を閉じてメッセージを聞かずに祈ったりしていました。

しかし当時、その場所には幼い頃の“スポルジョン”がいました。

人類歴史上 一番優れた説教者で、説教の皇帝と呼ばれたスポルジョンだけがそのメッセージを真剣に聞いていました。

そして後に世界的に有名な説教者になりましたが、彼が語ったのは、「わたしはその日聞いたメッセージを一生忘れない。」と、彼が説教者として生きようと決心したのは、そのメッセージを聞いた時であったと告白をしました。





24時間イエス様を見て生きる生活は本当に大切なことであります。

これは主の臨在の中で常に生きる生活であります。これが私たちの目標でなければならないです。

私たちには人生の目標が色々あると思います。しかしその目標は、イエス様の臨在の中で生きている目標よりも高いですか?
それらのものは地上のわずかな時だけの目標であるのです。それはある意味では得なくても良い目標なのです。


他の目標を立てても良いです。しかし一番の目標は“いつもイエス様だけを見て生きる”生活を目指さなければならないです。
自分たちの心・自分たちの思いをイエス様に向けることであります。神様の中にすべてがあるからです。

空を見ても神様を想うのです。生き物を見て神様を見るのです。花を見て神様の作品を感じるのです。自分の身体も自分が造ったわけではないです。
命は目に見えないですが 動いていることは命なのです。空気もすべて神様の恵みであるのです。


ですからどこを見ても私たちは24時間 神様を見ることができるのです。

それを全て神様と繋げて考えるならば、そこに神様が存在するのです。


苦しみがあっても、神様からの教育や方法がその中から見えてきます。全て神様と関連して考えることです。

悪い思いが出てきた時は、「これは私がサタンに心を開いてしまったので サタンが私の心を苦しめているのだ。」と気付いて「出て行け!」と追い出していかなければならないです。


「イエス様。私の中にいつも共にいてください。私の心をいつもイエス様の思いで満たしてください。」と、このように祈るべきであります。
すぐに気付いて、入れるべき物を入れて いらない物は追い出していくのです。


心は常に掃除が必要であります。 心こそ整理整頓が必要です。いらない物が多すぎると語っています。

信仰の創始者であり、完成者であるイエス様だけを見て生きる時に、決して揺れ動くことも 恐れることもなく、信仰の競争で勝利することが出来ます。
v( ̄∇ ̄)v

2014.5.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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今日の「いのちのパン」

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