からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2014年04月

古い人から新しい人へ

テーマは 『 古い人から新しい人へ 』 です

【詩篇51編10-13節】

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

私をあなたの御前から、投げ捨てず、 あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

神様の恵みの中で生きていながらも 神様との関係がうまくいかない人たちが多く、恵みの中で生きながら神様への不従順のために罪責感をもって 生きているクリスチャンも多いです。

「神様を信じているのに、どうして平安がないのか?」というような経験はありませんか?


【Ⅱコリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

クリスチャンとはこのような姿です。

しかし私たちは、新しくなった自分の中に、古い姿が相変わらず存在しているので 私たちは信じた後でも古い人の姿で罪を犯しながら苦しみながら生活をしています。


神様は、新しく生まれ変わった者は滅びていく古い人を脱ぎ捨て、心の霊において新しくされ、新しい人を身につけるべきだと教えておられます。

私たちはイエス様を信じた瞬間から、(私たちの)古い姿を思い出さなくなるでしょうか?
神様を信じているのに、自分が考えている思いはそんなに変わらなく、 自分の生活習慣も性格も行動もあまり変わっていない姿を見て、「私はまだ救われていないのかな?」と感じる時があると思います。


確かに私たちは救われました。
しかし自分たちの中にまだ古い性質が色々と残っていて、それがまた新しい罪を生みだすことが多いです。


ダビデの詩篇51編は、悔い改めの祈りであります。
彼が犯した罪は大きな罪です。

神様がダビデに目を留めて、特別に選び 油注ぎを与え、イスラエルの王にしました。
神の心に適う者でしたが、彼が一度も罪を犯したことがない ということではないです。

ある時に誘惑に受け、なぜかダビデは心を守ることができなかったのです。
人妻をとって姦淫の罪を犯し、その罪を隠ぺいするために その夫を殺害する罪をさらに犯しました。

そして彼はその罪までも闇に葬ろうとして 神に悔い改める事もせず隠していました。ばれないと思っていたのです。

しかし、この罪をばらしたのは、神ご自身でした。


アダムが罪を犯した後に、まず行ったことは 神の前から身を隠したことです。
これは光から闇になった姿であります。

人間はいつもそうです。
なぜなら神の御前に出ると、(神様は)心を見ておられるので、私たちは神様から隠れることは出来ないのですが「闇の中にいれば 大丈夫だ」と思って隠れています。

その意味で、人間は本能的に光より闇を愛します。闇に慣れています。


信仰の人であったダビデも 罪を犯してから、罪を闇の中に隠して普段通りに生活をしたのです。
神様は彼がいつ闇から出て来るのかと待っていましたが、出て来ないので、預言者を遣わして隠していた罪を全てばらしました。

しかし、これは良い事なのです。
罪を隠すことが良い事なのか、それとも罪をばらすことが良い事なのか?これは 罪をばらすことが良い事であります。

なぜならば現さなければいけない出来事は、必ず現さなければなりません。罪は隠すものではないです。


罪を隠しておいて、私たちは平安の中で生きることは出来ないです。

罪を隠しておいて、神様と良い関係を結べることはないです。罪があるならば、問題が解決されません。
罪があるならば、どんなに神様に祈っても その祈りは届かないです。


ですので、罪を明らかにされるのは自分にとっては祝福であります。

罪が明らかにされると、私たちは逃げられなくなります。
そうすると悔い改めるようになるのです。「赦してください。」という言葉を使います。
しかし罪を隠している時は「赦してください。」という言葉は使わないです。


神様が私たちの罪をばらすのは殺すためではないです。
神様は情け深い方、憐み深い方、赦す神様でありますので、それを神様が「いつまでも隠しておいたら命を失うから悔い改めなさい。」と赦すために ばらします。


もし死ぬまで隠しておくならば“罪に対する報酬の「死」”の恐ろしい火が、その人の身に迫ってくるのです。

罪に対する厳しい処罰があります。

しかし犯した罪を光に現わして悔い改めるなら、神様はどのような罪であれ赦してくださるのです。


放蕩息子の例えでも分かるように、立ち返った者たちには回復の祝福を与えてくださいます。


アダムが犯した原罪によって人間が失ったものがたくさんありました。

永遠のいのち・神が与えて下さった聖霊、神との霊的交わり、まことの平安、聖と義、善を行う力、神の中にある自由、エデンの園、神の祝福など私たちが古い人のまま生きるならば、これらのものは絶対に受けることはありません。

古い人の性質はアダムから流れてきているものであります。
神様は悔い改めて立ち返るなら、失ったものを再び与えます。

悔い改めて立ち返るということは、回復を受ける素晴らしい祝福であります。


神様はそれを願って「立ち返りなさい。罪を悔い改めなさい。そうすればあなたは祝福される。」という言葉を語っておられます。

私たちが救われた後でも罪を犯しながら、その罪から離れようとしないならば、その罪が神様との関係に大きなトラブルを犯し、 神から離れ、自分の本性のままに生き 滅びていくしかないです。


肉の欲に負けて、欲望の中で生きていたダビデがそれを脱ぎ捨てて 新しい人を身につける姿を見たいと思います。


【詩篇51編10節】

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

このように祈ったことはありますか?これはとても大切なことであります。

人々は罪を犯すと、なぜか罪ばかりに焦点を当てて「あぁ、罪を犯してしまった。もうこんな罪を犯したくない」と 罪のことを黙想してしまうのです。 「何でこんな罪を犯したんだろう?あの人が誘惑したから悪いのだ。サタンが悪い。」など罪を研究するのですが、それをするからといって 罪が消えるのでしょうか?

そうではないです。


罪から離れるために罪を見つめても、そこから離れることはできません。
私たちが神様の前に罪を犯さないために一番大切なことは、神のみこころに従う心であります。

神のみこころに従う心を、私たちは求めなければいけないです。


アダムが犯した罪は何でしたか?
人殺しですか?姦淫の罪ですか?妬み、怒り、高慢でしたか?――そのような罪ではありません。

一言でいうならば、神様への不従順でした。
“食べてはならない”と命じておられた 善悪の実を取って食べた不従順の実でした。

人間のすべての罪の根底は神の言葉に対する不従順です。


神様の言葉に従うならば、罪は出て来るはずがないのですが、数えきれない不従順の実が結ばれていきます。

ですから ダビデが罪を犯したのは、自分が神様の言葉に不従順していたことに気付いたので、神様に従うきよい心を求めました。


クリスチャンたちは、神様が「従いなさい。」と言うと すぐに「難しいです。出来ません。」と よく言います。

従順するのが難しいと ほとんどのクリスチャンたちが言います。
しかし、難しいのではないです。


私たちは“従順”という言葉と“不従順”という言葉に対して自分たちが持っているイメージであります。

不従順は、人間の自由であり私の思いのままにできるのだという思いです。また従順は、私は自由ではなくなるのだという思いがあります。

従順することは不自由になるという思いがあるので従えないのです。

そして不従順は、「私の思いのままにしても良いので神様の言葉は関係ない。私がしたいことをする!」という自由に出来るという思いがあるので不従順を選んでしまうのです。


しかし、それは真逆に考えなければなりません。

私たちが従順することは、本当に自由を得る道であります。「真理はあなたがたを自由にします。」というみことばがあります。

しかし真理から離れてしまうと、その時から私たちは自由のように見えるのですが、サタンの束縛の中に入っていきます。サタンこそ束縛する者であります。罪の中にどんどん連れて行って、そこから逃げられないようにします。
これがサタンのやり方です。


ですからダビデは、罪を赦して下さいと祈るよりも、自分に必要なものは従順する きよい心であることを知り、
「罪にそまった私の心を新しくし、きよい心に変えてください。」と祈りました。

私たちが神様に祈る時も、罪を赦してくださいということも重要ですが、それ以前にもっと大切なことは「私の心にきよい心がないから こういう罪を 犯してしまいます。ですから私の心をきよい心に変えてください。」という祈りです。

きよい心は罪を犯さない心であります。
しかし「赦してください。赦してください。」だけでは、心が汚れたままなので また罪を犯すのです。




それからダビデは「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と祈りました。
「ゆるがない霊」とは、真実な霊、神にすべてを頼る心、すなわち信仰を意味します。

信仰とは、神様にすべてを委ねて すべてを頼る心であります。


ダビデはすごく神様に従った者で、彼は様々な場面で素晴らしい信仰を私たちに見せてくれました。
彼の中に信仰があったのですが、信仰が落ちてきた時に罪が出てきて神様から離れていきました。

ダビデがこのように願っているのは、神様への信仰を回復したいという思いがあったからです。


クリスチャンは常に自分の状態を調べながら、このような祈りが必要です。

もし今、イエス様に救われたばかりの頃に持っていた喜びがない、その頃の感動がない、熱い心ではなく生温い心があるならば、この祈りが必要であります。

神様への不従順があると信仰は確実に冷めて弱くなっていきます。
それは他人のせいでも環境のせいでもないです。また 自分の力が足りないからでもないです。

先ほどにも言ったように、常に根底にあるのは神への不従順です。
神様を信じてから、ずっとみことばに従順していたならば その信仰は確実に熱くなりますし、確実に成長していきますし、確実に揺るがないものになります。


しかし不従順を重ねていくと、信仰はだんだん弱くなっていき、神様から遠ざかっていくので信仰が生温いものになります。ですから自分の中に生温いものが感じられるときは、不従順になっていることに気付くべきであります。

神様が自分を捨てたのではないです。自分の不従順があらゆる祝福を邪魔していきます。
自分の状態が祝福を受け取らないようになっているので祝福が来ないのです。


聖書にはそのような場面が出てきます。ロトの妻がそうです。

ロトの妻は ソドムの町から神様の特別な恵みで救い出されたのに、なぜすぐに塩の柱になってしまったのでしょうか?

御使いがはっきりと「後ろを振り返ってはならない」と言われたのに、ロトの妻は不従順して後ろを見たので、その瞬間に塩の柱になりました。

祝福を手に入れていたのですが 一瞬にして祝福を逃してしまいました。

私たちは神様の約束があっても自分のものにならない多くの理由は、ロトの妻のように どこか不従順があるので逃してしまっています。

不従順は、祝福をのろいに変えてしまいますので、ダビデのように信仰の回復を祈ることです。




続いて、ダビデは次のように主に求めました。

【詩篇51編11節】

あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

これは、「聖霊様、いつも私と共にいて下さい。」と切に求めた祈りです。

ダビデがこのように求めたのは、以前(自分よりも先に王であった)サウルが罪を犯して悔い改めなかった時に、聖霊がサウルから離れ、代わって悪霊がサウルの中で強く働いて滅びた姿を 目撃していたからです。
その時にダビデが賛美をすると、サウルの中で働く悪霊が出ていき 平安な心になる姿を何度も見ました。


聖霊が離れると、悪霊が入ってきて その人の心を支配し人生が潰れていくことを目の前で見たのです。
それでダビデは怖くなり、聖霊様を自分から取り去らないように祈りました。


私たちは何か力ある働きをしたいから聖霊様を求めるのではないです。それは二の次であります。
私たちから聖霊様が取られると、ただの人になるのではなく、悪霊がすぐに入ってきて心を支配してサタンの奴隷となり 悲惨な状態になってしまいます。


私たちが罪を犯すと聖霊様は悲しみます。
そして自分のほうから聖霊様を悲しませると、聖霊様は去って行きます。
聖霊が去った後 私たちはどうなるのかは、サウルの姿を見たら良いです。




【詩篇51編12節】

あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

彼は喜んで仕える霊を求めました。

ダビデが以前、神の恵みに対して歌の中で喜びを現しました。


【詩篇18編1-3節】

彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

ダビデにとって神様は身近な存在であり、神様の偉大さ、素晴らしさ、自分にとってはなくてはならない方であることを褒め称えました。

しかし罪を犯した後のダビデの姿を見ると、喜びがまったく無かったです。
彼が罪を隠していた時には、詩篇が1つも書かれていないです。

私たちが罪を犯して一番最初に消えるものは「平安・喜び」です。


ダビデは悔い改めながら 自分の中から消えてしまった救いの喜びを返してくださいと祈りました。

このようにして神様が彼の罪をばらしたことによって ダビデは勇気を出して神様に祈りました。
そして罪の支配・束縛から離れ、積極的に神様に従順する心で 喜んで主に仕えたいと願いました。

これが私たちの祈りであるべきです。

人々は罪を隠しておいて、罪を楽しむ心があるのです。
罪と知っていながらも離したくないという肉の思いがあるので ズルズルとそこに留まっているのです。

しかし罪と気付いたならば、そこから断ち切ることです。それは悪魔と繋がれた死の綱だからです。


聖書には「心を頑なにするな」という言葉がたくさん出てきます。

私たちが罪を犯すのも、私たちが従順しないのも、環境や弱さ、力や人のせいではありません。
それはすべて「心の問題」であると神様が指摘しているのです。

頑なな心を変えないならば、罪は消えないです。

自分が変わらない理由は、自分の心を変えないからです。
私たちは 自分は変わらないで 相手が変わることを願うのですが、それはとんでもないことであります。


神様は「あなたはわたしの言葉を聞いているのに どうしてあなたは心を頑なにしているのか?」と語ります。
聖書を読むと 神様が語る言葉で、常に私たちに対して厳しく語っているように聞こえてきます。
それは何故だと思いますか?

例えば、誰かが自分に対して罪を犯したとしても神様は「あなたが許しなさい」「憎んではならない」「愛しなさい」と語ります。私たちは「何で私が?!」という思いになるのですが、これにはすべて理由があります。

罪を犯した者に対して怒りや憎しみや恨みが出てきます。その時の私たちの心の状態は 悪魔の心とそっくりであるので、私たちの心を見る神様が苦しむのです。


神様から見たら「あの人も悪いが、その人に対してあなたが抱いている心を見ると、どっちもどっちだ」ということであります。
私たちの顔がだんだん悪魔の顔になるので、それを神様が見たくないので「その思いを捨てなさい」ということです。


反対に「愛しなさい」「許しなさい」となると、私たちの顔が笑顔になっていくのです。

神様の子供である私たちの顔が悪魔に変わっていく姿を見て、神様は喜ぶはずがないです。

あなたの姿が美しい姿であって欲しいので、その意味で神様は「あなたの中にあるものを捨てなさい。」と語ります。


罪を犯した者には、自分で蒔いたものを刈り取らせますが、しかし それに連れられて、あなた自身も罪人になってはいけないので、許すこと、愛すること、受け入れること、親切にすることを みことばによって自分で行わなければいけないです。


それをしない限り、自分の心は美しくならないです。

心を変えないならば、今すぐその人をエデンの園においても、そこで罪を犯します。
それは心が悪いままなので罪を犯すのです。

環境が良くても自分が持っているものは悪いものなので、悪の実を結ぶしかないのです。


ダビデは問題が自分の中にあることに気付きました。
自分の心が悪かったので、そのような罪が生まれたことを知りました。

ダビデは悔い改めて、自分の心を新しくしました。
それを神様が答えてくださり、罪から解放され、死ぬ時まで聖い霊と喜んで仕える霊で主に仕え勝利し偉大な者になりました。


【エペソ4章22-24節】

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、

またあなたがたが心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着けるべきことでした。

【コロサイ3章9-10、12節】

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

新しい人を着たのです。 新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、 愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

これは新しい人の姿であります。

こういうものを私たちは日々目指して自分の中に入れることであります。
そうすると人格や生き方が変わり、表情や結ぶ実も変わっていきます。 (´∀`*)

2014.4.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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あなたの中に復活信仰がありますか?

テーマは 『 あなたの中に復活の信仰がありますか 』 です

【Ⅱコリント4章7-15節】

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立てさせてくださることを知っているからです。

すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。

私たちは信仰生活をしていますが、自分の中に復活の信仰はあるでしょうか?

イースター礼拝の時になると、復活の信仰がある人は1つのことを考えます。
それは“キリストが私のために十字架にかかって死に、私に命を与えるために蘇ってくださった”ということです。
イースターの時はそれを考えなければいけないです。

受難週の時は、十字架の死について考えますが、イースターの時はキリストが死んで3日後に蘇ったのは 私たちに永遠の命を与えるためであります。

私たちは十字架の死を見た時には、「私の罪のために…」と自分の罪に気付きます。
これは十字架を正しく見ている人であります。


私たちに復活が与えられても今はまだ目に見えていないですが、イエス様が地上に再臨した時に イエス様と同じような身体に復活します。
今はまだ私たちは蘇りの身体を持つ事はできないです。

これには時があり、神様が定めた時にキリストが地上に再臨した時は、死んだ者がまず復活の身体を着ます。次にイエス様を信じている生きている者たちが
復活の栄光の身体を着るようになります。


復活信仰はキリスト教の最も基礎的な信仰であります。
他の宗教には絶対にないものであります。他の宗教では自分たちの教祖の墓を誇り お参りをします。

しかしキリスト教には墓参りがないです。なぜなら、そこにはおられないからです。生きておられる方であります。これが根本的に違います。
ですからキリスト教を信じる人は、この復活の部分まで信じなければいけないです。


自分が死んだ後、キリストが再臨する時に復活するという事実に感謝しながら 復活の信仰をもって臨む信徒たちはそんなに多くはありません。

クリスチャンとして復活信仰を持って生きるということは とても大切であります。
ただそれを信じるだけではなく、この復活信仰を持って生きるようにしないと、私たちの信仰生活は生き生きとはしないです。

同じ神様を信じているのですが、生き生きと信じている人と、力が抜けて生きているのか死んでいるのか分からないような信仰生活は何が違うのかを、私たちは今日 考えてみたいと思います。


復活信仰は、信徒生活の活力源でもあります。そこから活力をもらうので生き生きとした信仰生活をすることができます。

パウロが本文の中で語っているのは、私たちが理解できないような部分もあります。これは当時 パウロや信徒たちに激しい迫害がありましたのでその人たちに向けて手紙を送りました。

今の時代、迫害されていない私たちから見たら意味がよく分からない部分もあります。
しかし私たちはパウロから実践的な信仰生活を学ぶことができます。


イエス様は模範として見せてくださいましたが、神様ですので 私たちが信仰生活を学ぶことは難しいかも知れません。

しかしイエス様からその教えをしっかりともらって、その通りに生きた偉大な使徒であるパウロを見ると、私たちが地上でどういう信仰生活をしたら良いのかヒントを得ることができます。

激しい迫害の中で復活信仰がどのような形として現れたでしょうか?




①いつも主の臨在の中で生きること



もしイエス様が墓の中にいるならば臨在はないですし、何も出てくるものが無く 助けるものもないです。

しかし“臨在”ということは、今 生きておられるイエス様ですので、その中で私たちが生きることが復活信仰生活であります。

死人に頼って生きることと、生きている方に頼る信仰では 天と地ほどの差があります。

パウロ自身はキリストに出会ってから激しい苦難に次々と遭いました。


しかし彼はキリストに出会った瞬間から彼は自分に与えられた素晴らしい恵みに気付きました。
この恵みに気付いていない人は、イエス様を信じて何十年経っていても神様は見えないです。自分が何のために信仰生活をするのかも分からないです。


しかし恵みを知っている人は、神様の恵みによって自分が救い出された確信を得ているので苦難があっても忍耐ができます。
私たちが苦しみの中で忍耐が出来て、苦しみの中で勝利をするのは自分の力ではないです。
神様の力や恵みによって、その人たちが勝利し感謝することができます。


激しい迫害の中でもパウロは感謝を捧げていました。常にその中で感謝と賛美をしていたのです。これは臨在の中で生きることであります。

「主よ。私に力を注いでください。私を強めてください。」と祈るよりも 自分自身が主の中に入っていくことが大切です。私たちのように小さなものの中に入ってくるよりは、大きなイエス様の中に私たちが入るのが良いのです。


主はすべてのことを成し遂げられました。それを私たちは信じて主の中・臨在の中で生きると、常にそこから力が与えられるのです。

パウロは常にキリストの中で生きることを意識して生活をしていました。ですから力が強く 彼の信仰は常に前進でした。




②復活信仰はいつも未来を見ながら生きる信仰



世の中では現実を見なさいと言いますが、クリスチャンはそうではないです。

もちろん現実も見るのですが、現実がすべてではないのです。
私たちは現実を見てから 必ず未来を見なければなりません。

現実的に見るならば福音のために毎日激しい苦難を受けていたパウロの姿はあわれな姿でありました。それは8節~10節の言葉に書かれています。

その他にもパウロの手紙にはたくさん語っています。


【ローマ8章36節】

一日中死に定められている

【Ⅰコリント15章31節】

私にとって毎日が死の連続です

【ガラテヤ6章17節】

私はこの身にイエスの焼き印を帯びているのです

このように自分が受けている苦難を表現しました。

しかし この中で絶望している姿は1つもなく、不平不満を言っている姿も1つもありませんでした。
彼は現実だけを見ておらず、常に霊の目が開かれて未来を見ていました。

復活の信仰を持っている人たちは必ず先を見るのです。今は苦しみがあっても、このままでは終わらないのだと次の2箇所で語りました。


【ローマ8章17-18節】

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

栄光を共に受けるために苦難が必要であります。クリスチャンになるということは苦しみが全く無いということではないです。


なぜ患難があるでしょうか?
パウロは命をかけて主のために働きをしているので、激しい苦難の中でも常に神様がパウロを助けることによって福音は前進していきました。
それを通して神様が見せたいものは、苦しみがあるからこれが終わりではないのだと、その中で神様が力を与えて恵みを与え助けることによってこの世に福音が異邦人にも伝わっていることを直接見せてくださいました。

パウロは苦しみから救い出されるために神様の力を体験しました。


私たちに苦しみがある時に神様に助けを求めます。私たちが実際に受けている苦しみはパウロが受けている苦しみとは違います。
福音のために迫害を受けていることはほとんどないです。ある意味で自分たちの肉から出てくるものによって苦しみを受けることが多いので、その時 私たちは神様に立ち返らなければならないです。悔い改めて立ち返って主の中に留まることによって私たちは救い出されます。


パウロは自分の人生を全て主に捧げて仕えていました。パウロが受けた苦難は私たちの想像を遥かに超えたものであります。
しかしそれも全て神様の計画であるのです。

私たちは苦しい時「神様はなぜ助けてくださらないのですか?」と それだけを祈るのではなく、自分の苦しみがどこから来ているのかを考えるべきであります。

自分が蒔いて刈り取っているのか、それとも自分が実際に迫害を受けて苦しみがあるのかによって結果が違います。

迫害されて苦しみがあるならば、神様は常にその人を見捨てることがなく助けてくださいます。そして神の御力をその人に見せて希望を与えてくださるのです。


【Ⅱテモテ2章8-11節】

私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

ですから、私は選ばれた人たちのてめに、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

現実は、徐々に死に向かっていきます。あらゆる苦しみがあります。肉体も死にます。
しかし未来にあるものは“とこしえの栄光”です。これが復活の信仰であります。

復活の信仰は苦難だけを見るのではなく、苦難がどのような実を結ぶのか、苦難によって自分は何が得られるのか それを常に見るのです。

いつもイエス様を見て、イエス様がどのような道を辿って、どのような姿になっているのか それは将来の自分の姿であります。

苦しみは永遠に続くことはなく消えていきます。そして主の栄光を見る時に慰められます。


復活の信仰には良いものがいっぱいあります。栄光の姿を常に見ているので、喜びが出てきます。感謝が出てきます。力が湧いてきます。希望が出てきます。

絶望がないです。そこに弱々しい姿はないです。もしかしたら現実はそのような姿かもしれないです。弱さがあり、いつ壊れるかわからない土の器のようなものであります。
また 限界があります。

しかしキリストによって復活の力が自分たちの中で働くので どんな時でも希望があり、慰め・力があります。



③望みをこの世におかず、天においているので、この世を愛することをせず、
またこの世のどんな艱難に対して恐れません



いつも現実を見て恐れをたくさん持っている人がいます。
それは何故だと思いますか?

この世に対して、執着心が多いからです。この世ばかりを見るのです。
その人の関心事が全てこの世のものなので、この世に抑えられてしまうのです。この世に支配されるので、少し変化しただけで怯えて心配をするのです。


聖書には クリスチャンはこの世を見ながら、この世と仲良くして生きなさいとは語っていないです。
反対にこの世から聖められなさいと、クリスチャン生活は聖められる生活であります。この世の汚れから洗って内側を聖くし、この世の光として塩として聖い者として生きるように神様が選んでおられます。

そう生きるためには この世に対して執着を持つのではないです。この世を愛するのでもないです。
世に執着して愛する人は多いですが、この世は自分を愛してはくれないです。


しかし 神様のことを愛するならば、もっともっと大きな愛を神様から受けるようになります。
神様が与えてくださるものは、小さなものでも私たちの心を本当に満たしてくれるものであります。
神様に望みをかけるなら、神様は私たちに本当に必要な喜び・平安・力・命を絶えず与えてくださるのです。

神様が私たちに願うのは、私たちが地上で旅人として旅をしながら勝利し 天の御国に入ってくることを心待ちにしておられます。

でも旅人がこの世に執着して天国を見ないならば神様は残念に思います。

パウロは地上で色々なことがあっても そこに彼の心が捕らえられることはありませんでした。


信仰が弱い人たちは この世に倒されたり裏切られたりすることがありますが、
目をイエス様に向けて 自分の目的地を天に定めている人たちは、周りで色々言われても そこにあまり関心がないです。

「まぁ そういうこともあって、確かに生きている時に必要かも知れないけど、それが全てではないし大切なことではない。」とはっきりと自分の心に区切りをつけるのです。
「私が目指すのはここである。私はそれに向かって前進するのだ」と。このような人たちには恐れがないです。

自分が帰るところを知っていますので苦しみの中にいる人たちはそのようにして勝利していきました。


私たちが生きている時代も終末に向かって歩んでいます。
これからもっと様々なことが起こります。毎日、世界で事件があり 国の危機があり 個人の危機があります。
それを見て私たちがいつも恐れるならば心がもたないです。


「これは神様が聖書の中で教えてくださった黙示録の世界を生きているのだ。」と、その中で自分はどのように生きるべきなのかを、また 自分の望みをどこにかけるのかを考えるべきであります。

神様が備えてくださっている素晴らしいところがあるから迎えに来てくださるのだということです。


私たちはいつどのような姿でこの世を去るか分かりませんが、復活信仰を持っているならば どのような状況の中でも苦しみで終わるのではなくて
「私の地上での旅路が終わるのだ。しかし私はこれで終わりではない。私のためにイエス様が備えた永遠の住まいがある。もうすぐイエス様に会えるのだ。」と
このような希望があります。


ですから私たちが生きている時に復活信仰を持っていることの大切さが そこにあります。

復活信仰を持つなら 生き生きとした信仰生活ができます。持っていないならば小さな風で倒されて恐れて死んでしまうのです。
(・◇・)ゞ

2014.4.20
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストの死は何が違うのか?

テーマは 『 キリストの死は何が違うのか 』 です

【ヨハネの福音書10章17-18節】

わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それを もう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

今は受難週ですので、イエス様に目を向けて イエス様のことをもっと考えたいと思います。

生まれた人間は 必ず死を迎えますが、“人間の死”と“イエス様の死”は同じでしょうか?
それは全く違うものであります。


キリストの死が すべての人の死と同じであるならば、キリストの死には何も特別な意味はありません。

(イエス様は)2千年も前に亡くなった方ですが、普通ならば既に亡くなった人の死を、いつまでも語る必要はありません。

しかし、今もずっとキリストの死が語り続けられているのは、その死がほかの人間の死とは 明らかに違うからです。


キリストは生きている時に、既に 自分の死について語り続けました。
イエス様は33歳で亡くなりました。
30歳から公の場で働きを始めましたが、その時から「死」のことを語っておられます。
年を取った人が死について語るのは不思議ではないです。

しかし 一番力に溢れ、働き盛りの30代前半の男性は いわば「死」とは無縁ですが、自分の死に関して何度も 語りましたので、周りが聞いたら不思議だったと思います。

そして、33歳の時に イエス様ご自身が語られた通りに十字架にかかり死にました。


自分の死に対して「自分から命を捨てるのです。」と言いました。

この世が辛くて死にたいから 自身の死のことを語ったのではないです。
(イエス様は世に対して「嫌だ」と言ったことはないです。)
イエス様は自発的に天から地上に来られましたが、死ぬ時も自発的な死でありました。

これは 誰かが無理やり「死になさい」と言ったのではないです。

この「自発的な死」が、『キリストの死の特徴』です。


ここで なぜ「自発的な死」が必要であったかを考える必要があります。

「自発的な死」でないならば、本人は死にたくないのに(いじめなどで)誰かの強要で自殺に追い込まれることが世の中では起こっています。

しかしキリストが十字架に至るまでの過程は、様々な人間が関わって十字架にかけ 他人によって殺された形にはなっていますが、キリストはそれらのことが起 こる前に 「自らいのちを捨てます。」と自分の死について預言を語り、その死は「自発的な死」であることを明らかにしました。


その「自発的な死」はこのためであります。

人々は普通なら「長生きをして 人々に役立つ働きをしよう。」と考えます。
でも、イエス様はたった3年間しか働きをしていないです。

なぜイエス様に自発的な死が必要だったのでしょうか?それは次の箇所に書かれています。


【ヨハネの福音書10章10-11節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

盗人とはサタンのことです。そして もう1人の盗人は宗教指導者・偽預言者たち、言わば惑わす者であります。
当時も、宗教指導者たちは盗人でした。サタンがその宗教指導者たちの中で働くのです。


その者たちは神様の言葉を伝えますが、イエス様から見れば 全てが「盗人」でありました。
それは魂に関心がないからです。
自分の目の前にいる魂が、狼の餌食になっているのに 魂に関心がなく、自分の地位や権力・豊かな生活に関心があるのです。ですから、羊を食い物にしているのです。

そこでイエス様が羊のために働きをすると、彼らは妬み、敵対し、殺したいと思いました。その姿は盗人であります。
そして、狼が羊を襲うと、彼らは自分の命を守るために逃げるのです。


しかし、イエス様は違いました。
キリストの自発的な死は、羊のために自らがいのちを捧げたことが分かります。

旧約時代においては、神様のことを「羊飼い」と表現しました。民たちのことは「羊」と言いました。

ダビデも詩篇23編で「主は私の羊飼い」と呼びました。


【イザヤ書40章11節】

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

ここには良い羊飼いとしての神様の姿があります。
羊を飼い、世話をし、弱い子羊を引き寄せて主のふところに抱くとは どれほど主は優しいお方でしょう。
これが神様の姿であります。


それは、自分自身が全人類の救い主であることと、主ご自身が神であることの宣言です。


キリストの十字架の死は、本当は(私たち)羊が死ななければならないのですが、代わりに死んでくださったのです。

キリストの死の自発性は 人類の救いにおいては、必要不可欠な要素です。
もし、イエス・キリストの死が自ら選んだ死でないならば、人類を贖う効力(救い)が そこにはないです。
これでは(キリストは)死にたくもないのに殺された ということになるからです。


次の箇所では、キリストの死が自発的であることと、羊のためであったことが書かれています。


【Ⅰペテロ2章24-25節】

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、 自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

キリストの自発的な死のことも書かれていますし、イエス様が私たちの魂の牧者であることと 私たちは羊であることがはっきりと書かれています。

キリストは自分のいのちを捨てる権威があると語りました。そして、自分にはもう一度(いのちを)得る権威があることもヨハネの福音書10章に書かれています。これは、蘇るということをイエス様が宣言したということです。

つまり「死では終わらない」ということであります。

なぜなら、羊にいのちを豊かに与えると約束されたイエス様が 蘇らないならば、いのちがないのですが
復活することによってイエス様が語った通りに、羊にいのちを豊かに注ぐことができるのです。


「死」が無ければ 罪人の贖いはありませんし、キリストの「復活」が無かったなら 永遠のいのちが与えられることもありませんでした。 つまり福音が存在しなくなります。


福音には必ず十字架の死があり、その後に必ず復活があります。これで完全な贖いになります。

罪人たちが死ななければならないのに イエス様が代わりに死に、そして命を得る時にイエス様が3日後に墓から復活したので命が与えられています。


また、キリストの死は さらに他の人たちとの違いがあります。それを みことばで紹介していきます。




従順の死



【ピリピ2章8節】

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は神様がたてられた自分の計画に対して、たとえ死ぬことであっても従順しました。




代表者としての死



【ローマ5章19節】

すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

ひとりの人の不従順とは、人間の代表者であったアダムです。

原罪というものがありますが、人間は生まれがら罪があります。
しかし人々は、罪を知らないので 赤ちゃんを見て、「この子には罪がないです。」と言うのは聖書的ではないです。
まだ自らは罪を犯していなくても アダムから来た原罪の罪があるのです。

すると人々は「それは関係がないでしょう?アダムが犯した罪なのに、何で私が背負わなければならないのか?」と反論します。


もし このように言われたら、皆さんはどうしますか?
アダムは神様が一番初めに造った人間ですので、神様から見たらアダムは人間の代表者です。

この人間の代表が罪を犯したので、それに属するすべての者が汚れた者になっているということになります。


また、“ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです”というのは、イエス様が人類の代表者になるということです。その方の従順によって全人類の罪人たちが義人になるチャンスが与えられたことになりました。


私たちは「アダムのせいで私は滅ぼされるのだ」と不平不満を言う必要がないです。
なぜなら、イエス様が他に救いの道を備えてくださっているからです。

もしイエス様が代表者でないならば、1人の罪を贖うためにイエス様は毎度も死ななければならないのです。
この地球上に70億人が住んでいます。その人たちを救うためにイエス様が70億回死ぬことになりますが、それは出来ないことであります。


ですから、代表者を1人たてて(人々の罪を)イエス様が背負って死ぬならば、他の人たちが十字架にかからなくても イエス様を見て信じる者には神様がそれを認めて義人にしてくださるということです。これが神様の法則であります。

1人の罪人(アダム)によって全てが罪人になり、1人の従順(イエス様)によって私たちが義人になる道が開かれたのが「イエス様の死」です。




無罪の死



【ヘブル7章26-27節】

また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。 というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成した遂げられたからです。

ここに書かれている通り、イエス様は罪人を救うために共にいましたが、彼らと一緒になって罪を犯したことは1度もありませんでした。

無罪で死んだこの方こそが 私たち罪人を救うことができます。

誰が「私にはあなたは要りません。」と言えるでしょうか?
もし そう言うならば、その人は未だに自分が罪人であることを分かっていない人です。

分かっているならば、拒むことはできません。

もし自分が罪人であることを知っているならば、“誰が私をここから救い出してくれるのか、どうやったらこの罪が赦されるだろう?”と求めるようになります。

それに必要な方がイエス様であります。


しかし、イエス様を要りませんと言う人は、自分の罪の代価を自分で払わなければいけないのです。

神様はそのことを知っていましたので 私たちにとって必要なイエス様を無罪であるにも関わらず十字架にかかるようにしてくださったのです。
それによって神様と敵対関係にあった私たちが和解するようになりました。

そこで自分の罪を悔い改めた人は、神様から罪が赦されて、神様の子供になり和解できるのです。


歴史の中でイエス様以外に全人類のために命を捨てた人はいません。
自分の名誉、権力、利益、家族のために命を懸ける者はいるのですが、まったく関係のない全人類のために 罪がない者が死ぬということはないです。

イエス様は自発的にそれをしましたし、死にいたるまで従順しました。
私たちのために犠牲の死を払いました。


この特別な方は、私たちにとって なくてはならない必要な方であります。

「イエス様がいなければ、今も自分の罪の中にいますし、救いとは無縁な者でした。そして天国にも入られない者でした。」ということを自覚して欲しいです。

私たちのために命を捨ててくださったイエス様に、常に感謝をして“この恵みこそが 私たちにとって最も大きな恵みであること”を覚えて感謝しましょう。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2014.4.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストが受けた苦難の数々

※ 今回は内容を簡潔にまとめさせていただきました。恵みが三十倍、六十倍、百倍になりますように。


テーマは 『 キリストが受けた苦難の数々 』 です

【ヨハネの福音書1章9-11節】

すべての人を照らすそのまことの光が来ようとしていた。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

4月は キリストの受難週、十字架の死、復活などキリストに関わる重要な出来事が色々ありますので、そのことに対して語ろうと思います。

私たちの目をキリストにしっかり向けて、キリストが私たちのために どのような苦難を受けたのかを今日は知りましょう。


キリストが受けた苦難は むち打たれ、釘打ちにされ、十字架に架かっただけではなく、それ以前からもたくさんありました。

身体に受ける暴力もつらい事ですが、精神的な暴力のほうが ある意味もっときついかも知れません。


拒絶、無視、脅迫、敵対、裏切り、見捨てられるなど 人間から様々な苦しみを受けました。
どのような苦難を受けたのか知っていますか?




(1)人から拒絶されました。喜んで歓迎しなければならないのに、最初から人々はキリストを拒絶しました。



一部の人からではなく、すべての者から拒絶されました。


【イザヤ書53章3節】

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

と、預言された通りのことが 実際に起こりました。


【ヨハネの福音書1章11節】

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

民から拒絶された姿でした。
イエス様が育ったナザレの人たちは キリストを受け入れ、認めたでしょうか。
ナザレの人々はもっとひどかったです。受け入れないどころか殺そうとしました。


【ルカの福音書4章28-29節】

これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、

立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

ユダヤ人たちもナザレの人々と同じ姿でした。


【ヨハネの福音書7章1節】

その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

どこへ行っても拒絶する人々がたくさんいました。

この状況はとてもつらい状況で 悲しくやりきれない心境になります。

また、家族はキリストを信じ、理解者であったでしょうか。


【ヨハネの福音書7章5節】

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

キリストと認めず 信じませんでした。




(2)出身地と家庭環境によって 人々から蔑まれました。



人々は先入観と差別意識でキリストを見てました。


【ヨハネの福音書1章46節】

ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」

【ヨハネの福音書7章52節】

彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」

人格を無視されると 私たちの心は本当につらいですね。
イエス様は最初からこのように人格も無視されました。




(3)絶えず人々から来る脅威がありました。



いつも自分を憎んで、妬んで 命を狙う人がいることは大きな苦難です。
キリストは常にそのような状況の中に置かれていました。生まれた時からでした。

キリストが生まれたことを知ったヘロデ王はベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させました。

主の遣いの助けがなかったならば、赤ちゃんの時に殺されたでしょう。
安息日に病人を癒したことでも ユダヤ人はイエス様を迫害しました。
真理を語ると 人々はどのような反応をしたでしょうか。

喜んで受け入れたでしょうか?


【ヨハネの福音書8章40節】

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。



(4)弟子たちもイエス様が理解できず、ある者は裏切り、非難、否定して離れていき キリストを苦しめました。




十二弟子の1人、イスカリオテ・ユダはお金をもらって祭司たちにキリストを売りました。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様が十字架にかかるために とらえられた時には、ほかの弟子たちまでもがキリストから離れていきました。

信頼し、共に生きてきた人が、ある日 突然離れていくことほど つらいことはありません。


牧師としても愛していた信徒が去っていく時、とてもつらい思いをします。

イエス様は みんなが離れていき、一人ぼっちになりました。
どれほど心がつらかったでしょうか。




(5)そして 最もつらかったことは神に捨てられました。



【マタイの福音書27章46節】

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

神は人類の罪をキリストに負わせ、十字架の上に死なせました。

その瞬間は 自分の愛する子としてではなく、罪人とみなし 顔をそむけました。
いつも父と1つであったキリストにとって この瞬間は最もつらかった時だったと思います。

これらのことを見ると、人間社会でイエス様が受けた苦しみは 私たちの想像をはるかに超えた苛酷なものであったことが分かります。


私たちは人からの言葉1つでも、時には「心が傷つけられた。もう許せない。つらい。憎い。つまずいた。」と大騒ぎをします。

しかし、イエス様の立場から見ると、「たったそんなことで つまずくのか。わたしを見なさい。今もあなたはわたしの言うことも聞かず、苦しめ、悲しませているではないか。どれほど わたしがつらいかを考えたことがあるのか。」とおっしゃいます。




イエス様の十字架の証



ある人が幻で十字架に架かって血を流している主を見ました。


あまりにも苦しい姿でしたので、十字架の周りに集まっていた人からも 主がかわいそうで泣いている人も見えました。

多くの人々は 十字架にかかって苦しんでいるイエス様の姿を見るだけで、
なぜイエス様が十字架にかからなければならなかったのかと その理由を知る霊の目を持っている人は誰もいませんでした。


イエス様は肉体の痛みで苦しいよりは、自分が死ななければならない理由と、自分の心境を知らない人々がかわいそうで何倍も心の中で苦しんでいました。


(その幻をみた人は)それを霊で感じとって

「イエス様。力を出して下さい。私はやっと分かりました。
イエス様は全人類の罪のために大きな働きをしているのですね。
イエス様の死は、いのちを与えるための偉大な愛です。

私がこのことを皆に知らせます。そして、主が選んだ民たちを集めます。
そして主の愛を決して忘れません。」


イエス様は、その人を見て 自分の心を知っている人がいることで、うなずき 微笑んでくださいました。






蘇ったイエス様がペテロに3度も「あなたはわたしを愛しますか?」と聞きました。
イエス様を愛さない者たちが イエス様を苦しめました。

裏切り殺しました。


イエス様は私たちが主を愛することを求めています。

イエス様は 私たちを愛してご自身の命まで捧げたのに、私たちが愛さないなら それはイエス様の心を苦しめることになります。


【Ⅰコリント13章4-7節】

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

イエス様を苦しめず、心からこの愛を持って 愛する者になりましょう。

今まで与えた苦しみだけでも、あまりにも大きいですから。 (TДT)

2014.4.6
聖日礼拝メッセージ

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神の守りと慰め

テーマは 『 神の守りと慰め 』 です

【詩篇116編1-19節】

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり 主を呼び求めよう。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。 まことに、私たちの神はあわれみ深い。

主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、 私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。

私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を 呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを 解かれました。

私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

私は自分の誓いを主に果たそう。 ああ、御民すべてのいる所で。

主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。

祝福の中で、平安の中で、いつも神様と親しい関係を持ちながら神様を第一にして生きる人の信仰は成熟した素晴らしい信仰です。

なぜならば これが意外と難しいからです。
私たちは何も問題がない平安の中でいつも変わらない心で神様を第一にしながら生活をすることは 案外難しいのです。


知らぬ間に、神様への想いが薄れていき、信仰も生温くなり霊的にはダメになってしまうからです。
これは誰にでもなる危険性があるということであります。

神様は人間が苦難の時より、苦難から救い出され 祝福された時のほうが神様のことを忘れる可能性があることを指摘されました。


【申命記8章10-14節】

あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

気をつけなさ い。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

あなたが食 べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、

あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、

あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。――

神様のことを“忘れる”という言葉が出てきます。私たちは この言葉を心に留めて気を付けなければいけません。

苦しい時は必死に神様を求めたのに、苦しみが消えた途端 自分に祝福を与えてくださった神様のことを忘れてしまうのです。

詩篇116編は、神様からの救いを体験した者が その恵みを忘れることなく神様への感謝を捧げています。
これが私たちの姿でなければいけないです。


本文を通して、神様がどんなに素晴らしい方であるのか、そして その主に対して私たちがどのような姿勢で接するべきかを考えたいと思います。

私たちが今生きているのは、すべて主の恵みであります。
主の恵みはどのような形で現れたでしょうか。

恵みを受けることだけが大切なことではないです。
受けた後も、私たちは神様に対して正しい姿勢を見せなければならないです。




聖徒たちの祈りと願いを聞いてくださる主



【詩篇116編1-2節】

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり 主を呼び求めよう。

幼子が言葉を覚えてくると、お母さんに1日中 話しかけてきます。
「これは何?」、「どうして?」と好奇心旺盛です。
その姿は とても可愛いですし、嬉しいのですが 1日中だと、お母さんはさすがに疲れてきて うっとうしくなり
「うるさいよ」、「静かにしなさい」と愛する子供であっても 親はだんだん返事もしなくなります。
これは子育てをした人なら誰でも経験したことがあると思います。


しかし、私たちの神様はどうでしょうか?

神様が信徒たちに語る言葉があります。「たえず祈りなさい。」という言葉です。
私たちに絶えず誰かが声をかけてくるならば疲れると思います。でも、神様だけは違います。
絶えず祈りなさいということは、“絶えずわたしに話しかけなさい。”ということであります。

すなわち、神様は私たちがどんなに神様に話しかけても嫌がらないですし、面倒とも思わず むしろ話を聞きたいお方です。

そして願いを叶えてあげ 祝福もしたいと思っています。
死にそうになって助けを求めても誰も聞いてくれる人がいなく、助けてもらえないならば どんなに絶望するでしょうか。


しかし私たちは絶望する必要がありません。

私たちの声にいつでも反応してくださり、そして一番良い時に一番良いものを与えてくださる主がおられることを感謝しましょう。


ある人は「私の祈りは聞かれないんだ。」と言います。
これはどちらの問題だと思いますか?




ある本に次のように書かれていました。

ある人が天国へ行って イエス様によって幻を見せられました。

裁きの座にイエス様が座っておられました。そこに2人の子供を連れた母親の姿がありました。
母親はそこでひざまずくと、瞬間的に御使いによって2人の子供が目の前から消え 残ったのは母親でした。
この母親には旦那さんから受ける苦しみがあったので辛くて 子供を連れて自殺をした身でした。

そこで母親がイエス様に言いました。「私がどれだけ辛かったのかを知っていますか?」
それに対してイエス様は「分かっている。」と答えました。


その旦那さんは小説家で色々なことを妥協してほとんど家に帰ってきませんでした。
母親は2人の子供を育てましたが、苦しみがすごくあるので 旦那さんに色々と言いましたが、旦那さんには聞く耳がありませんでした。
家族をないがしろにし、仕事を優先にしていました。

それで母親が苦しく耐えられなくなり 最後には自殺をしましたが、その母親はクリスチャンでした。
母親は「いつも教会へ行き祈りました。だけどイエス様は全然聞いてくださいませんでした。全く旦那は変わらなく 私の苦しみは無くなりませんでした。
ですから私はあまりにも苦しいので死ぬしかありませんでした。」と言いました。


しかしイエス様が語る言葉は違いました。
「わたしはあなたが一生懸命に祈っているのを知っているし聞いていた。あなたの苦しみも全部知っている。
だから あなたがわたしに祈っている時に、わたしはあなたを助けようと思って何度も何度もあなたのところへ訪ねて行った。」と語りました。
そこで母親が「いつイエス様が私に訪ねてくださったのですか?私はイエス様に会ったことがないです。私がどんなに叫んでも聞かれたという思いが1度もないです。」と言いました。


しかしイエス様は「あなたの扉の外に立って、あなたの心を何度も叩いたのだ。でもあなたは1度も心を開いたことがなかった。わたしがあなたの耳に語ろうとしても、あなたの心の中は“あなたの旦那のこと”しか無かった。あなたは祈りの中でもずっと旦那のことしか考えていない。」と語りました。

母親は問題をイエス様に祈りながらも、母親の中にイエス様が入る隙間すらありませんでした。心の中には、100%旦那のことしか入っていませんでした。


私たちは問題があると神様にすごく祈りますが、
自分の心の中に神様が入ってくることが出来ないように問題だけを考えるのです。朝から晩まで問題を黙想するのです。

イエス様のことを黙想するのではなく、問題だけを黙想して心配ばかりをしているのです。

ですからイエス様がどんなにその人が可哀想に思って助けようとしても、結局はその人が拒んでいることになるのです。

イエス様が母親にそのことを語ると、母親は消えてしまいました。
それは天国ではなく 暗いものが来て一瞬にして姿が見えなくなりました。とても恐ろしいものでした。



私たちはイエス様が耳を傾けてくださることを知っていますが、その後は(祈りを)聞いてくださったイエス様が働けるように イエス様を歓迎し、そして問題を考えるのではないです。

私たちは忍耐をしながら希望をもって祈りながら「今日はどのように神様が働くのかなぁ」とイエス様を見れば良いのですが(イエス様を)見ないので失敗してしまうのです。

神様から祝福を受ける一番の手段は祈りなのです。神様は祈りなしに与えることはないです。
祈りは神様との交わりの手段だけではなく、神の恵みの通路です。




患難・苦痛から聖徒を助けてくださる主



祈りを聞いて、それで終わりということではないです。


【詩篇116編3-6節】

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。 まことに、私たちの神はあわれみ深い。

主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

この詩篇を書いた人がどんなに激しい苦しみの中にいたのかが 1つ1つの言葉で伝わってきます。主の御名を呼び求め、救いを訴えました。

苦しみの中、死の恐怖の中にいるならば 人間は生きてはいけないです。
人々は色々な方法を取りますが、クリスチャンはどのような方法を取ったら良いでしょうか?


どのような時でも聖徒たちは、その苦しみの中から出る為の突破口は 神様であります。他のものに頼るのではないです。

小さなことや、人間の力で出来る範囲のことでしたら、人間の力で解決されるかもしれませんが、
抱えている重荷が自分の力ではどうにもならない時は、「神様ならば この突破口を開いてくださることが出来るのだ」と初めから信じなければいけないです。

最強の救い主であり、最強の助け主であります。


この突破口は神様しかいない!という思いで 神様の御前に出てお祈りをしたら一番早いです。それが(問題解決への)一番の近道であります。


【イザヤ書12章2節】

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

どのような時代でも、苦しみの時に神様を呼び求めた聖徒たちは 神様から助けてもらいましたので、同じ告白が出ます。


世の中の人たちは苦しい時に何かに頼ります。しかし 祈りの対象を間違えて偶像の神に必死に求めます。


【詩篇115編2-8節】

なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか」と。

私たちの神は、天におられ、 その望むところをことごとく行われる。

彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。

口があっても語れず、目があっても見えない。

耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。

手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。

これを造る者も、 これに信頼する者もみな、これと同じである。

人々は誰かに助けを求めますが、多くの者たちが虚しいことをしているのだということです。
どんなにそこに心を注いでも、それは何も出来ない人間が作った偽りの神の姿であるので(助けることが)出来ないのです。ですから祈っても虚しいのです。

サタンが答えたとしても、与えた後には代価を取ります。その代価とは その人の命です。


しかし私たちの神様は、常に私たちを助けるために来てくださる神様であります。
この神様を心から信頼しなければならないです。

生きておられる神様は ただ1人であり、この神様だけが苦しみの中にいる者を助け 恵みを与え、そして救ってくださいます。




聖徒たちを完全に救いに導いてくださる主



【詩篇116編7-8節】

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、 私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

神様は 私たちの魂だけを救ってくださるために来られたのではなく、魂を死から救うのはもちろん、悲しみの時に慰めを与え、
つまずきから救い出してくださる方です。

イエス様が働いた姿を見ると、魂の救い、病人の癒し、悪霊の追い出し、問題解決、慰め、祝福など何一つ足りないものはありませんでした。

どのような時でも助けてくださる神様に祈らなければならないです。
どんなに小さなことでも、大きなことでも神様にとってすべてが可能であります。


人間にとって不可能なことでも、見捨てることがないです。

人々は試練の中で犯しやすい罪があります。―― それは神様に対するつぶやきです。

ひどい試練の中で、神様につぶやいたり 不平不満の罪を犯しやすいです。
本来ならば神様に助けてもらわなければならない立場なのに、反対に神様の前で罪を犯すので どんどん神様との距離が出来てしまい、なかなか祈りが聞かれなくなるのです。


その中で神様に対する正しい知識を持つことがとても大切であります。
1つのつぶやきがどれほど神様の前で大きい罪かわからないです。

神様に助けてもらうには、つぶやくのではなく 苦しい時、悲しい時、辛い時、どのような時でも神様に信仰によって求めることが大切です。

これが信仰の姿であり、謙遜な姿であります。


自動販売機のようにボタンを押したらすぐに答えが出て来るものではないのです。
頼り続けながら神様に委ねることです。

神様は 私たちを見捨てるどころか このように恵みを与えてくださる方であることを堅く信じてください。


このような素晴らしい神様に対する私たちの態度はどうあるべきでしょうか?
ただ「感謝します。」だけで良いでしょうか?

それで終わってしまうならば、神様の恵みを分かっていない人であります。
私たちは恵みを受けた後が大切であります。

謙遜な態度はもちろん必要ですが、何よりも神様に対する実践的な決断の姿勢が必要です。


【詩篇116編12-17節】

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を 呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを 解かれました。

私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

1回きりではなく、死ぬ時までです。
ずっと神様が良くしてくださったことを忘れないことが、神様への感謝のいけにえであります。
常に思い出して感謝を捧げ、祈りの中で誓いを立てたならば それは必ず果たしていくことです。

これを神様が喜んでくださいます。


恵みをいただいた後に、私たちは神様のところを去り 神様を忘れて好きなように生きるならば、いつかその人の魂は死んでしまいます。

神様を見失ってしまいます。
それがどれほど恐ろしいことなのかを知らなければならないです。 (; ̄Д ̄)

2014.3.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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