からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2014年03月

揺るがない土台を据えるには?

テーマは 『 揺るがない土台を据える 』 です

【ルカの福音書6章46-49節】

なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。

聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

イエス様は、この話を誰に聞かせたかったでしょうか?
未信者ではなく、みことばをしっかり守って主の中で生きている人でもないです。

46節でイエス様が次のように質問をしていました。
「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」
このような人にイエス様は語りたかったのです。


自分自身ではまだ気付いていない あなたの姿がわたしの目にはこのように映っているということを悟らせたかったのです。

その人たちは「主よ、主よ」と呼べば天国へ行けるから問題がないと思っています。
しかし 心から仕える思いで「主よ、主よ」と言うのではなく、口先だけの信仰は“迷惑だ”というイエス様の思いがあります。

十戒の中に「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」とありますが、これは信仰が伴っていないならば みだりに呼ぶ姿になります。
行いが伴わない信仰を見て、イエス様が喜ぶと思いますか?
神様に従わず、「主よ、主よ」と呼ぶならば それは虚しい言葉になります。


“そのまま(口先だけの信仰で)生きたならば あなたが後でどうなるのかということを今 教えるのでよく聞きなさい。”ということです。
本人は自分の問題に気付かぬまま“宗教活動”をして「教会へ行っています。奉仕もしています。献金も捧げています。」と言いますが、これは目に見える部分です。
しかし、イエス様が見ると その下(見えていない部分)には土台がないのです。


最も大切な土台がないのに、本人は別に気にしていないのです。今のままで良いという思いであります。

イエス様は最も土台が大切なのに、あなたが建てているものは土台なしで建てているから、後で全部倒れ、それも ひどい倒れ方をすると、事前に教えてくださっています。

本人はイエス様が喜ぶ家を建てていると勘違いをしています。


神様の裁きの時は、地震とは比べものにならないです。すべてのものを流して壊していきます。
その中で壊れないものを造らなければいけないです。




土台とは?



土台という言葉は、旧約聖書にも出てきます。

【イザヤ書28章16節】

だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

“堅く据えられた礎、尊いかしら石”と書かれています。
これだけを見ても何の意味なのか分からないと思います。これは預言の言葉でイザヤという預言者を通して神様が与えた言葉であります。

これがイエス様が来られた新約時代になると、この預言を明確に説明する箇所が出てきます。


【Ⅰペテロ2章4-8節】

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、

「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。

この預言はイエス・キリストであるということと、家をどんなに立派に建てたとしても 土台がイエス・キリストでないならば、必ず裁かれるということであります。


その土台に撚り頼まず、「別にそれじゃなくても家は建てられます。」と言います。
実際に土台がなくても家を建てることは出来ます。

多くの人たちが家を建てていますが、イエス・キリストという土台がないです。
「主よ、主よ」と呼びながら建てているので まさか自分の家が倒れるとは 思っていないです。


私たちが想像を絶するような世の終わりの裁きの時に、神様がなさろうとすることがあります。
その時に果たして土台なしに建てた者は生き残れるでしょうか。それは無理であると語っておられます。
神様の裁きの時は 神様以外のものは全て潰していきます。

しかし、神様の中に完全に根を下ろし属している者(土台にくっついている者)は何も被害を受けません。

「神に信頼する者は、決して失望させられることがない。」という言葉があります。ですから心配しなくて良いのです。


しかし土台がない人は、その時に失望するのです。


私たちが「神様、神様」と言っても、自分の生活の中で みことばに従っていない姿があるならば 自分は土台なしに家を建てているのだという認識が必要です。


地獄へ行ったクリスチャンたちは「土台」が問題でした。その人たちも働きをしていなかったわけではないです。
ある者は立派に信仰生活をしました。立派に犠牲を払いました。
全て行ったにも関わらず、地獄へ行ったということは その人たちにはイエス・キリストの土台が無かったことを意味しているのです。

この人たちは自分の価値観・ビジョン・要望・出世、このようなものが土台でした。




真理について



キリスト教の真理が土台でないならば、必ずそれは倒れる家になります。

【マタイの福音書24章35節】

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

裁きの時に、神様はすべてのものを巻物のように滅び去ります。
しかし世の中にあるたった1つの真理は神様の言葉だけであり、それは変わらないものであります。


真理の上に土台を立てなければいけませんが、今の時代は どんどん教会そのものも、信徒たちの信仰も 神の真理の言葉から離れています。

多くの妥協があり真理から離れていても平気であるのです。それは教団も同じなのです。
すべての教団ではないですが、ある教団の堕落している姿がありました。

アメリカでは同性愛者が多いです。とある教会で牧師になる人たちに向けて質問をすることがありました。
「私たちは(同性愛を)認めます。世の中の法律でも認めているのだから、私たちの教会も認めます。
ですから 同性愛者も教会に来てください。」ということを言いました。


これは真理の上に立っている姿でしょうか ――?

とんでもないことであります。
これは神様が忌み嫌うことなのです。ソドムとゴモラが滅びたのも同性愛でした。

しかし時代が違うからと言って、教会が同性愛を認めるということは、その教会の牧師が同性愛者であっても問題ではないということでした。


それだけではなく、もう1つは「あなたは神様の言葉だけが真理だと思いますか?」という質問に対して
「はい。そう思います。」と答えた人は、教団の牧師にはなれないというもので、「他の宗教にあるものも良いものだと認めます。」と言わないと牧師になれないのです。

ある牧師が同じく質問をされた時に、「私は認めません。同性愛を認めません。すべての宗教に救いがあることも認めません。神の言葉だけが真理であります。」と
答えると、「あなたは ここの教団の牧師にはなれません。」と言われたそうです。


初代教会の人たちがなぜ迫害されて 命が懸かっていたのでしょうか ――?
それは真理を曲げなかったからであります。命をかけて真理を守っていました。
たとえ殺されたとしても妥協しませんでした。


終わりの時にはたくさんの迫害や困難が来ます。そのことを次の箇所で教えています。

【Ⅰテモテ4章1-3節】

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、

結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

このみことばに書かれている「後の時代」とは、今のことです。
サタンが強く働きますが、どのように働くでしょうか?それは 惑わしの霊と悪霊の教えを持ってくるのです。
それは人間が持っている「欲」の部分をくすぐるものであります。サタンは巧妙に働き、妥協させます。

私たちに真理の土台がないと騙されてしまうのです。
あらゆる教えに心が取られて それを信じて、どんどん真理から離れたやり方をするのです。

信仰生活を、真理ではないところでするようになります。


【ヨハネの黙示録22章18-19節】

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

「少しでも」という言葉があります。つまり 妥協は許されないのです。
真理はそこに混ぜ物をしてはいけないですし、妥協をしてもいけないのです。


変わらない真理の土台の上に信仰生活を築いていなければ、後で黙示録に書かれていることが あなたに起こります。そしていのちの木、聖なる都から取り除かれるので、神様の祝福の世界にいることができないのです。
これはすごく大切であります。


イエス・キリストの土台がなくても、真理の土台がなくても、勝手に自分で建てたいものを建てておいて 自分の信仰生活を送り「私は敬虔な生活をしていました」というのは、パリサイ人たちがそうでした。

パリサイ人たちの信仰生活にはイエス様がいませんでした。
そして真理だけではなく、自分たちが勝手に作り出した言い伝えをたくさん作り何が何だか分からないものの上で必死になって信仰生活をしました。
このような生き方をするならば、サタンやパリサイ人がいるところに自分も一緒にいることになります。


しかし、キリストという真理の土台に、日々イエス様に拠り頼み みことばを実行しながら、すべての働きも「イエス様のために」という動機で働くならば、最期の裁きの時に その人たちは決して見捨てられることがないです。

その人たちは失望することがないのです。苦労があっても最期の時にすべてが報われるのです。


この地上での生活をあと何年生きられるでしょうか?自分の寿命通りに生きられるのではないです。
イエス様がいつ来られるかわからないのです。
もし明日来られたら「私は間違いなく天国に行ける」という確信があるでしょうか?


確信が無ければ、自分の信仰生活をやり直さなければいけないということであります。

「このままで良いんだ」と思うのは、今はそれでも良いかも知れません。
しかし 行く道が違うのでイエス様の守りがないのです。自分からイエス様のところを離れたからです。

自分の肉を打ち叩きながら「私は後で滅びを刈り取るのだ」という思いを持たなければならないです。

土台だけを建てておいて、あとは何もしないのも いけないことであります。


聞く耳があるということは、まだ恵みの時であり 救いの時であります。
神様は土台を築くことを求めておられます。
(´・ω・`)

2014.3.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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死んだ行いを悔い改める

テーマは 『 死んだ行いを悔い改める 』 です

【ヨハネの黙示録3章1-6節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『 神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」 』

サルデス教会に送った神様の啓示の言葉は厳しい言葉であります。

今の時代、私たちは本当に聞かなければいけない言葉だと思います。

この箇所を読んで何かを感じることはありますか?
彼らは教会に属して信仰生活をしています。しかし、悲劇的な姿であります。神様が喜ぶ姿ではないです。
神様に叱られている姿であり、悲しい姿であります。


彼らの中で一番悲劇的なのは『福音から離れた生活を行っていること』であります。

私たちは 福音に出会ったので救われました。


イエス様がどのようなお方なのか、なぜイエス様が十字架にかかって死んでくださったのか ――?
私たち罪人がそれを見て「私の罪のために死んでくださったのだ」、「救われる為には十字架に架かってくださったキリストを信じなければいけないのだ」、
「自分が犯した罪を悔い改めなければいけないのだ」と、私たちが罪から離れて自分の罪を悔い改めて イエス様を受け入れて 信じました。

信じたということは、魂が救われたことを意味するのです。


私たちが福音を受け入れたならば、その後はどうでも良いかと言うと決してそうではないです。
その時から本当の信仰生活がスタートするのであります。
生まれ変わった時から、私たちは生まれ変わった者として生きていかなければならないです。

もし 再び死んでしまうならば、どうやって救い出すことができるでしょうか?


サルデス教会の人たちは死人の方が多かったです。多くの中、生きている人は幾人しかいないということでした。
これは教会の姿なのです。イエス様は黙示録で 世の中に対してではなく、教会に対して警告を与えておられます。

「救われたから あとは天国に行けるし安心だ。」 このように思うのは、とんでもないことです。
もし教会の全員が天国へ行けるならば、このような啓示の言葉を教会ではなく まだ信じていない世の人に向けて神様が語ると思いますが、そうではないです。
すべて教会に教えています。



神様が語る言葉は「悔い改めなさい」、「目を覚ましなさい」であります。これは私たちに対する言葉です。
「終わりの時代なのに、まだ寝ているのか ――?」、「あなたは罪の中にどっぷりと浸かっているのか ――?」

福音から離れた生活をするということは、死んでいる状態であります。


福音を受け入れた人は、その時から信仰生活は福音の中に根を深く下ろして、そこから成長をして実を結ばなければいけないです。

根がないのに 実を結ぶことはないのです。私たちは「御霊の実」を結ばなければいけないです。

しかし、福音から離れて 世に根を下ろしている人たちが御霊の実を結ぶのは、有り得ないことであります。



教会の中で信徒たちの姿を見ると、同じ神様を信じて 同じメッセージを聞いて 同じ場所で礼拝を捧げているのに、
ある人たちは福音の力がすごくあります。実をどんどん結んで変化をしています。そして神様が喜ぶ姿に変わってきています。

しかし、ある人は力が全然ないです。クリスチャンであるにも関わらず 無気力で力がないです。
ある人は「私 本当に救われているのかな?」と 確信がないです。


「私、天国に行けるのかな?私、地獄に行くのかな?」 また、ある人は「私は地獄に行くと思います。」と自分で言う人は 地獄へ行くと思います。
「私は まだ救われていないかも知れません。」と自分で言う人は、その人はまだ救われていないのです。
自分の中で確信がないならば まだ救われていないのです。そのことに気付かなければいけないです。






神様は、自分の子どもたちを無理やり地獄へ送りたいとは思っておられません。

イエス様が血を流して代価を払い買い取られた者が堕落していく姿を見た時に 神様はどれほど苦しいでしょうか――?
地獄へ向かっていく人たちを見て、天の父なる神様は 大きな声で一言 次のように語ります。「悲しい ――。」
神様の胸が潰れるような思いであります。


イエス様は色々な人たちを地獄へ連れていき、地獄の姿を見せますが イエス様はそこで泣いておられます。
そこで苦しんでいる魂を見て、憐れみの心で涙を流しています。

そういうことを聞くと人々は「イエス様に憐みの心があるならば、そこで叫んでいる魂や“悔い改めます”と言っている魂を救い出せば良いでしょう?」と言います。
しかし、それは神様の公義ではないです。


イエス様はみことばで はっきりと語りました。
へブル書に「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」という言葉があります。
それを私たちは聞いています。特にクリスチャンであるならば 礼拝がありますので みことばを聞いています。それなのに なぜ化石のような状態になったのでしょうか。

なぜ無気力なクリスチャンになってしまったのでしょうか。なぜ死んでしまったのでしょうか。
これはすごく問題であります。


これは誰のせいでしょうか――?

自分自身のせいです。
自分が福音の中に根を下ろしていないので、神様を信じていても(自分で)好きなように生きています。

みことば中心に生きるのではなくて、自分がしたいように生きています。神様の言葉がもはや その中には存在していないです。


そして 一番の問題は、祝福を与えてくださる神様なので きちんと(祝福を)用意してくださっていますが、
神様を信じる目的が「自分の問題を解決して欲しい」、「病気を癒して欲しい」、「祝福して欲しい」、「私を天国に行かせて欲しい」など、それだけの思いで神様を信じるならば偶像崇拝と何ら変わりがありません。

世の中の人たちが神社やお寺へ行って拝む理由は何でしょうか?
祝福して欲しいからです。「地上で生きている時、私を祝福してください。この問題を解決してください。私の病気を癒してください。」


このように彼らは拝むのですが、クリスチャンが神様に対しても同じで、神様に祈るのが自分の祝福のため、欲しいものを手に入れるため、問題が解決されて欲しいという思いだけならば「偶像崇拝」です。ただイエス様の名を呼ぶことだけが違うことで、それでは神様は喜ばれません。
神様は「わたしを利用しようとするのか。」とおっしゃいます。これはとんでもないことであります。




悔い改め



地獄に落ちる理由は、悔い改めて新しくなる姿がないからです。

私たちは神様を信じるということは、何のために信じるのかを明確にしなければならないです。


皆さんは何のためにイエス様を信じていますか?
ただ単に この世で自分の願いが叶えられて 欲しい物を全部手に入れて 贅沢に生活をしたいためにイエス様を信じているのでしょうか?
もし そうならば、とんでもないことです。

私たちが福音を信じるということは、何を食べるか何を飲むかの問題で信じるのではないです。
“生きるか死ぬか”の問題であります。


福音は生きるか死ぬかをはっきりと分けるのです。
イエス様は「悔い改めて立ち返り 信じる者は救われる。信じない者は永遠の滅びである。」と語りました。
そのことを知らない人はいないと思います。

この言葉を信じて、もう滅ぼされたくないという思いで信じていますが、自分は命の道を歩いているのか?それとも相変わらず世と仲良くして
この世の霊に満たされて 妥協をしながら生きているでしょうか?


神様は今回の本文の中で「いのちの書から消すようなことは決してしない。」と書かれていますが、ある人たちはこの5節のみの言葉を取って「一度救われた人は決して いのちの書から名前が消されることはない。」と断言をしていますが、とんでもない間違いです。

これには神様の条件があります。
「勝利を得る者」と語りました。勝利をした人の姿は4節に書かれています。
死人が多い教会の中で幾人かの人たちだけが名前を消されないということであります。


その他の死んでいる者たちや 寝ている者たちに対して語った言葉は、「盗人のように来る」と語っています。
この意味は、神様はもともと盗人ではないです。盗人はサタンです。サタンが来る目的は盗む、殺す、滅ぼす です。
魂を盗むのです。そのため肉体が死に、永遠の滅びに至ります。つまり地獄に落ちるということであります。


神様が盗人のように来るということは、その者を神様が迎えに来るのではなく、イエス様が来る時は裁きの為で、 再臨は救いの為に来るのではないです。
世の終わりであります。すべてのものが終わりです。


その時に神様は勝利した者たちの魂を守ります。

しかし、霊的に死んでいる人たちや眠っている人たちは滅びていくのです。
その人たちにはサタンが飛びかかり、連れて行くところが地獄であります。


サタンも不思議な業を行います。サタンも病人を癒します。サタンは死人を生き返らせることも出来ます。人の人生の中でサタンはいくらでも働きます。
サタンからそういうものを受けて 安心している私たちの姿を見て、サタンは一番喜びます。

安心をしていると自分を顧みることをしないからです。
今、私は神様のみこころに従って生きているのか?と 自分を点検することをせずに眠っているのです。


ダビデが罪を犯して悔い改めていなかった時に、神様は預言者ナタンを遣わしました。
ダビデは預言者でもあり 王様でもあるのです。すごく神様に愛された者であります。
しかし、罪を隠して悔い改めませんでした。

神様はナタンを遣わしましたが、ナタンは行きたくなかったと思います。殺されるかもしれないからです。
王様に言うのは難しいと、それも隠れた罪を告げるのはとても勇気が必要であります。
それでもナタンは遣わされて行き、ダビデに はっきりと語りました。


ダビデの素晴らしいところは、その言葉を受け入れて その場で神様の前に出て灰をかぶり悔い改めをしました。
もし彼が悔い改めなかったならば、たとえダビデであっても地獄へ落ちたと思います。


神様が「いのちの道は狭く険しい。その道を歩む者はまれである。」と語りました。
これはクリスチャンだからと言って、「私、教会に通っています」ということだけで皆が天国に行くことはないのです。それは錯覚であります。

私たちは福音の中に根を下ろして生活をしなければいけないです。

信仰が強い者と信仰が弱い者の根本的な違いは、“十字架を経験したのか、十字架を経験していないのか”であります。


イエス様に出会い、イエス様が架かった十字架が誰のためであったのか? イエス様がなぜ そこで血と水と汗を流して ご自分の命を捧げたのか?
それは あの隣人のためでしょうか――?それとも、あの罪人のためでしょうか――?
これは あなたが十字架を経験していないことになります。


私のような罪人のために十字架に架かり、十字架の前でイエス様に申し訳ない気持ちで涙を流し、そうする中で自分の魂を救ってくださったイエス様に対して
「私は一生イエス様から離れません。恵みを忘れることはしません。」とイエス様と共に毎日 十字架を経験しながら生きる人は 最後まで大丈夫です。


そのような人たちは、イエス様が自分の罪のために十字架に架かりましたので 罪を軽く考えないのです。
「私がまた罪を犯すならば、それはイエス様を十字架につけることになるのだ。」と考えます。




クリスチャンへの裁き



クリスチャンに対して神様の裁きが厳しいのは何故でしょうか?


イエス様が十字架を背負って歩いた時に、エルサレムの神殿を見て泣きました。
これは教会を見て泣く姿であります。

教会が「私たちは神様に仕えています。立派な教会があります。律法を守っています。毎日行いをしています。」と言うのを聞き泣いておられます。
イエス様が泣く理由は、堕落しているからです。


神様のことを知っていると言いながらも、本当は知らないのです。
みこころのままに歩いておらず、クリスチャンが今 罪を犯しているならば
その人たちは日々イエス様を十字架につけています。ですから罪が厳しいのです。

裁きも教会から始まります。つまり、そこにいる信徒たちから始まるということであります。


地獄へ行った人たちの 色々な証を聞いていますが、全員が共通して言うことは、「地獄にクリスチャンがたくさんいた」ということです。牧師たちもたくさんいました。



―― 地獄の証 ① ――

ある南米の女性が イエス様に地獄へ連れて行かれた時に 火が燃えている場所や許さない心を持っていた人が入る場所を見ました。
そこでイエス様が「あなたはどちらに入るのかを選びなさい。」と語りました。彼女が驚いて「それはどういう意味ですか?」と聞きました。

イエス様が語った言葉は「ここは他人を絶対に許さない人が入る場所である。あなたの心の中に未だに許していない人がいるだろう?」とおっしゃいました。


神様は私たちに言いました。
「あなたが人を許すならば、天におられる神様もあなたを赦す」と語りました。

しかし、クリスチャンではありますが いつまでたっても「あの人だけは死んでも許しません!」と言うなら、この地獄があなたを待っているということです。


それで彼女が瞬間的に思い出しました。
彼女は長い間 祖母に対して憎しみの心が消えることがなかったのです。
もし祖母を許さないならば、自分はこの場所に来るのだと分かったので、その場で祖母を本気で許しました。

1人を許さないだけで、永遠に出られない恐ろしい地獄の火の中で(全身の)肉が落ちて苦しみ叫び、悲鳴を上げる暗闇の世界に自分は行きたくないと思いました。


聖書の言葉には従順しなさいということが書かれています。
私たちがこの1つ1つの言葉に不従順するならば、天の御国には入れないです。

不従順するということは、神様に敵対して生きるということであります。不従順はサタンからくる霊であります。



―― 地獄の証 ② ――

また他の人の地獄の証では、ある教会にいる信仰の良い信徒が亡くなりました。

誰もが「あの人は本当に素晴らしい信仰生活をしていたから、イエス様のところへ行って素晴らしい報いを受けるだろう。」と思っていました。

しかし、何と地獄で見つけたのです。
その姿を見てあまりにもびっくりしました。


「イエス様。あの人は生きている時に イエス様のことをすごく愛していました。イエス様からの言葉も“わたしも彼女を愛していた”でした。彼女は神様にたくさんのものを捧げました。彼女は素晴らしい働きをしました。素晴らしい信仰をもっていました。」とイエス様に聞きました。

これらの1つ1つのことに対してイエス様は知っておられて「彼女はそのようにした。しかし彼女は悔い改めなかった。」と言いました。


「何を悔い改めなかったのですか?」と聞くと 神様が見せる場面がありました。
彼女が生きていた時の普段の生活を見せてくれました。


彼女には1人の親しい友人がいました。
友人は病院に勤めていて薬を処方する担当をしていました。
彼女は病気を患っていて、ずっと飲み続けなければいけない薬があり、その薬代が高いので、彼女は友人にお金を支払わないで薬を得る方法を見付けました。

病院の受付時間内ではなく、誰もいない時間にその薬を貰っていました。
これは友人がさせたことではなく、その人が頼んだことでした。
本来ならばきちんと料金を支払って薬を得なければならないのですが、お金を払うのがもったいないという思いが働きました。


神様は 彼女が初めてそれを行った時に、心の中に「それは罪なんだよ。」という思いを入れました。

しかし、彼女は「あ、これは神様からの思いではない。」と考えました。
彼女の中での罪の認識は、人を殺す・盗みなど十戒に書かれているようなものであって
今回のことは合理的に考えました。「少しくらい貰っても」という思いでした。この罪を彼女は小さく考えました。

「私は主のために いっぱい働きをしていて、神様を愛しているし、信仰生活もまともにしているし、貧しい者もたくさん助けたから、地獄へ行くことは考えられない」と思っていました。


(神様は)警告を与えましたが「いや、これは大きな罪ではない。こんな罪で地獄へ行くことは有り得ない。」と ずっと思っていました。
神様の警告を「これはきっと私の考えだから、もう考えないことにしよう。」と死ぬ時まで これをやり続けました。

つまり死ぬ時まで泥棒をしていました。
そして それだけではなく、友人までも罪をずっと犯させ、もう1人の魂も罪人にさせていました。
そして彼女は悔い改めることもなく亡くなりました。


悔い改めなかったので地獄へ来たのです。

それまでどんなにその人が神様の働きをしていても、悔い改めない者は地獄へ行きます。




姦淫



また、姦淫を犯すクリスチャンもとても多いです。

これをやめようとせず 平気に行います。たくさんの罪が相変わらず行われているのです。


これをその人たちは安心しきっているのです。
「私はクリスチャンだし、命の書から私の名前が消されることはない。」という思いであります。

ですから、その人たちが地獄へ落ちた時に 一番びっくりするのです。「何で私はここに来ているの?」と。
そしてイエス様を見た時に「イエス様!私の罪を赦してください!」と叫びます。


しかしイエス様は「もう遅い。」
「何度も何度もあなたに警告をしたが、あなたは聞き入れなかった。罪から手を洗おうとはしなかった。」と語りました。






私たちはいつ死ぬか分からないでしょう?

ですから、日々準備が出来ていないといけないです。
のほほんとしているのは寝ている姿であります。

本文の「あなたの行いを知っている。」とは(神様は)全ての行いを見ているのです。
その行いを見て「それでもクリスチャンか」と言います。


人を憎む。神様のものは盗む。赦さない。不品行を行う。あらゆる世の人が行う罪を全て犯していながら 日曜日が来たら 教会でメッセージを聞いて、そしてすぐに忘れて あとは好きなように この世と仲良く生きています。


そうしながら自分が天国へ行くと思うのは錯覚であります。




福音を正しく伝えない



牧師たちが地獄へ落ちる一番多い原因は「福音を正しく伝えなかったこと」です。


「悔い改めなさい」という言葉を語らず、韓国の教会でも堕落をしている多くの理由は「天国も地獄も語らない」です。
「今は21世紀なのに天国とか地獄とか、そんなことを言うのは無知な者が言う言葉でしょう?」

このように一番大切なものが教会で語られずに「この世で祝福を受けましょう。」という言葉に皆が飛びついて「権力と富を手に入れましょう」とメッセージをします。

神様はそれを見て「それはあなたの魂を滅ぼすものなのに、それを求めるのか。」と語ります。


私たちが神様を信じるということは、区別された生活をすることであります。
この世の流れに従って生きるのではなく 私たちをそこから離して生き方を変えていかなければいけないです。

クリスチャンであるのに、口が悪い。他人を裁く。妬み 憎しみ 高慢 これらが身体に付いていると、いつの間にか汚れた衣になっていきます。
臭いがプンプンしている汚れた衣を着ている人を、神様は天国に入れるわけがないでしょう。


悔い改めるということは、その汚れた衣を綺麗に白く洗うことなのです。


黙示録で褒められた教会では悔い改めの言葉がないですが、非難された教会のすべては「悔い改めなさい」という言葉でした。

悔い改めが足りないということは、自分の罪に対する認識が足りないということであります。


これは毎日 十字架を経験していない姿です。十字架を見るならば、自分が犯した罪を思い出すのです。
「今日もこの罪でイエス様を釘つけてしまいました。主よ、本当に申し訳ありません。私の罪を赦してください。」
十字架を見て悔い改めないならば、何なのですか?
十字架の上で苦しんでいるイエス様を見て、「お金をください」「病気を癒してください」と言えるでしょうか。


十字架に架かったイエス様を経験することは、「そこで死ななければならないのは私なのです!罪人である この私なのです。」このように ひざまずいて悔い改めなければいけないです。

言葉だけではなく、毎日の自分の生活が 主に立ち返ってイエス様を見て生きないといけないです。
そして自分の中の小さな罪も、ガン細胞のように 後で私を滅びに落とすのだという怖い思いを持たないといけないのです。


もし自分の体にガン細胞を見付けたとしたら、小さいからと言って無視をしますか?「まだ小さいから病院に行かなくても大丈夫だ」とは誰も言わないと思います。
「小さいうちに見つかって良かった。早く病院へ行ってそれを取ろう」という思いになるでしょう。
お金をたくさん使っても診察へ行くと思います。それをそのまま放置することはないと思います。


それなのに、自分の魂に対しては 関心がないです。

その罪が自分の足かせになって、自分を永遠の滅びに陥れているのに、罪を捨てるどころか、
罪を楽しみながら、罪を増やしながら全身ガン細胞で蝕まれています。そうしたら死ぬしかないのです。




魂に対する準備



神様は 時はいつなのか、今は終わりの時であります。

地震が起こることは災いであるのです。

ある幻が開かれた人は、世界各地へ神様が連れて行き その国を見せるのです。
ソドムとゴモラを見た時に神様は何をされましたか?
同性愛で本当に汚れているので火をもって滅ぼしました。


日本でも、地震が起きるとずっと警告があります。先日も地震がありました。
これは神様が警告をしていることなのです。


私たちは準備をすることはもちろんですが、魂に対する準備は出来ているでしょうか?

私たちは地上でたくさん欲しいと求めていますが、これは肉の目で見るから地上のものを一生懸命集めようとします。しかし、もし私たちが神様の目で見るならば、考え方が180度変わると思います。

180度変わることで、「あの時に 私がもっと霊的になれば良かったのに。あの時にもっと神様に捧げたら良かったのに。あの時 もっと主のために仕えたら良かったのに。あの時に もっと信仰生活をきちんとしておけば良かったのに。」と、全て逆になります。


肉の目で見るなら、「地上のあれも これも欲しい。もっと欲しい。」と まるで永遠に地上で生きるかのように食べますが、神様の目から見たら、神様と私たちの思いは天と地ほどの差があると言います。

神様は霊的に見ているので、私たちの霊的状態を見ておられます。
そして「何と貧しい者であるのか。何と堕落しているのか。何と汚れた者であるのか。」

もし私たちが上から(自分自身の状態を)見るならば、自分の姿を見て飽きれると思います。


「何をしているの?服が汚れているよ!洗いなさい。今、あなたはサタンと仲良くしているよ。どんどん地獄に近付いているよ。早く立ち返りなさい!もっと神様に喜ばれる者になりなさい。」と、霊の目で見るならば、私たちはきっとそのように言うと思います。

神様が一度救われた者は、何をしても どのような罪を犯したとしても天国へ行けるというのは 間違えていると教えています。


聖書には「悔い改めないならば」という言葉がたくさん出てきます。

盗人のように来る、暗闇の中に落とされる、外の暗闇で歯ぎしりする、大きな艱難の中に投げ込む、火の中に投げ込む、「主よ、主よ」と言うものが皆天国に入るのではない。
この言葉を (多少 罪を犯しても天国へ行けると安心している人は)どのように解釈をするのでしょうか?


聖書全体の言葉、主のみこころは何か、悔い改める者に対する神様の恵みはいつでもあります。

しかし、悔い改めることをせずに それを軽く考えていつまでもそこに留まっているならば、いつの間にか罪によって その人を飲み込んでしまいます。

天国は罪人が入れないところであります。


死んだ行い、死んだ自分の心、死んだ信仰生活を悔い改めなければいけないです。


私たちの中に様々な問題を よく考えると神様と自分の関係が悪いと問題が消えることはないです。

この世にどっぷり浸かって生活をするならば、サタンが絶えず問題を持ってきます。
私たちを滅ぼし盗むために、そして私たちが死んだ時に誰よりも早く来るのはサタンです。


神様にたくさん仕えた人たちや、神様がいのちの書に名前を書いている人たちは、死んだ時に悪魔は来られなく、御使いたちが迎えにきます。
しかし どっぷりと罪の中で生活をしていたクリスチャンには、御使いが来ないです。悪魔サタンがその人の肉体から魂を奪い取って地獄へ連れていきます。

また 中途半端な信仰生活をしている人は、御使いとサタンが来て戦います。「これはわたしのものだ」とサタンが主張をし、御使いも「わたしのものだ」と言います。
そこで霊的戦いが起こります。


私たちが想像できないほど地獄は苦しみの場所であります。
すべての感覚が残ったまま 地上では有り得ないような拷問を受けて暗闇で悲劇的な目に遭います。


一番厳しい裁きは何だと思いますか?
神様から切り離され、神様がその人から目を逸らして 断絶された裁きが一番厳しいのです。

神様は私たちの いのちの主であります。その神様が私たちの命に関心がなくなり、助け主ですが もう助けることをしなく、私たちにとって希望ですがそれも神様がしない者に一番厳しい裁きがあります。


ですから地獄にいるその人たちは 必死にサタンに助けを求めますが、サタンは助けることをしないです。
イエス様がたまに訪問すると 魂が助けを求めてきます。しかし地獄から出た者は誰一人いません。そこに来ている人がそこから出て自由を得ることは有り得ないことであります。

天国に入っても同じことです。完全に死んだ人がその所から出たり入ったりすることはないのです。


天国と地獄を「(自分で)見てみなければ分からない。」と言うのではなく、見た時は既に遅いのです。

私たちクリスチャンにとって 天国が一番の希望であります。地上でいくら苦しい生活をしていても天の御国を本気で信じている人は希望があるのです。


悔い改めて「神様、私の魂を守ってください。私を苦しみのないところに導いてください。」と福音の中に深く根を下ろして神様に頼り みこころを行いながら天国に望みを抱き 生活できるように導いてくださいと 毎日自分の力で生きることが出来ないのでイエス様の力を求めるのです。

神様は何もかも知っておられます。そして私たちが今のままで良いのかを考えることであります。
もし今 神様が自分を呼ぶなら天国へ行けるのか ――? 行けない人たちもたくさんいるのです。

ですから神様が「目を覚ましなさい」とおっしゃいます。


このメッセージは神様が伝えて欲しいメッセージであります。


寝ているでしょう?―― 起きなさい。
死にかかっているでしょう?―― 生きなさい。
罪を罪とも思っていないでしょう?―― 悔い改めなさい。


教会へ行くのもイヤだ。神様を信じるのも面倒くさいと言っていたら、それが後になって自分の首を絞める言葉になります。自分で自分を地獄へ落とすことになります。


イエス様が「地上では辛いこともある。苦しいこともある。」
しかし私のいのちの主が私たちのために33歳で地上を離れたイエス様、苦しみを受けたイエス様を悲しませるのではなく、その恵みの中に留まる必要があります。 (・◇・)ゞ

2014.3.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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御霊に導かれて

テーマは 『 御霊に導かれて 』 です

【ガラテヤ5章16節、18節、25節】

・御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことは、ありません。

・御霊によって導かれるなら、 あなたがたは律法の下にはいません。

・もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

聖霊様は、どのようなお方でしょうか。

どんな時も助け、慰めを与え、力を与え、励ましてくださり、信頼することのできるお方で、私たちの為にいつもとりなし、愛を注いでくださり、罪を教え悔い改めに導いてくださり、世が与えるものとは違う平安・喜び・希望を与えてくださるお方であります。

御霊は、私たちの内に住んでくださり、教え導いてくださいます。


【ピリピ2章13節】

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

【Ⅰヨハネ2章27節】

あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。 彼の油がすべてのもとについてあなたがたを教えるように、―― その教えは真理であって偽りではありません ――また、その油が あなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

油がすべてのことについて教えてくださいます。
愛するがゆえに、進むべき道を示すために聖霊様を送ってくださり、誰よりも私たちのことを理解してくださっています。


御霊は賜物を与えてくださる

【Ⅰコリント12章8節】

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

知恵の言葉、知識の言葉、信仰、奇跡の力、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力です。

聖霊様の働きを決して留めることのないように気を付けましょう。



神の御霊に導かれるとは、どのようなことでしょうか ――?

御霊によって歩きなさい、御霊によって満たされなさい、御霊によって祈りなさい、御霊を消してはいけない。
御霊に拠り頼みなさい ・・・「主よ、導いてください。歩むべき道を示してください。」と祈ったなら、主を信頼し、委ねて待つということです。


困った時、助けが必要な時だけではなく、日常のあらゆる面に、聖霊様をお迎えして信頼し、拠り頼み委ねることを願っておられます。



御霊に導かれて 主のみこころを求め、歩みたいと願う時に邪魔するものがあります。

1つ目は、私たちの内に まだ残っている「肉」です。これは栄光の身体に変えられるまで戦いがあります。
2つ目は、サタンの誘惑・妨害です。


肉から出たもの

【ガラテヤ3章2-3節】

ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

主のために熱心に働きをするのですが、聖霊様に導かれながら進めていくうちに、いつの間にか自分の思いが入ってきて、神の栄光の代わりに自分の栄光へと すり替わってしまっている姿、誘惑され騙され、欺かれた姿です。
聖霊様が気付かせてくださいます。


私たちは、何かをすることによって祝福されるという思い、認められようとする古い自分がいます。
これは思い違いであり、自己義です。またサタンの誘惑です。

律法ではなく、恵みの中に留まるべきです。
私たちが神様のために何かをするのは、恵みに感謝し、主を愛する心から出たものを 主は受け入れられます。

自分の願いや考えを押し通そうとする人は、「周りが悪い」と環境のせいにします。
これは自分の姿が見えていないのです。聖霊様に教えていただき、みことばの鏡に照らし合わせると良いです。


【マタイの福音書12章31-32節】

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、 赦されません。

霊に注意をしましょう。




サタンに騙されている姿

【Ⅱコリント2章11節】

これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

聖書を読んだり、祈っている時に、用事を思い出したりすることはないでしょうか ――?
これもサタンの巧妙な手だと思います。


【ヨハネの福音書10章10節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

みことばを盗み、祝福(平安・喜び)を奪い、信仰を失わせます。
真理から目をそらさせ、確信を揺るがせ、信仰を奪うのです。


【ヨハネの福音書8章44節】

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから 人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。 なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

サタンは嘘つきです。アダムとエバを霊的に殺しました。
私たちも自分の罪過と罪との中に死んでいた者でしたが、キリストの贖いのゆえに私たちの霊が回復されたのです。


サタンは様々な方法で攻撃をしてきて、神様からの祝福を奪おうとします。聖霊様の導きから外そうとします。

誘惑する者、騙す者、惑わす者、嘘・偽り者、欺く者、不安や恐れ、不信仰、これらは私たちのたましい(心)の部分に攻撃をしてきます。

サタンは、私たちの「弱さ」を責めてきます。不信仰な思いを入れてきます。


①自己評価が低い人
劣等感、自己憐憫。「あなたが変わるわけがない。」、「どうせ無駄」、「時間の無駄」

【Ⅱコリント12章9節】

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。 ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

②固定観念
自分はこういう者だから、と固まった思い込み、どうせ抜け出せない。変わることは難しい。
これは騙され 欺かれた姿です。

【Ⅱコリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

③高慢な心
私の力が、私の手の力が、私が築いてきた。高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを注いでくださいます。


④理論的思考
「私は知っている。分かっている。」

【Ⅰヨハネ1章8節】

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。


⑤孤独
誰も分かってくれない。理解してくれない。しかし、捨てて孤児にはしないです。みことばの約束があります。

【イザヤ書43章4節】

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

私たちの立場は、神の子ども、罪赦された者、永遠のいのちが約束された者、神の共同相続人です。


聖霊様は、私たちのために何をしてくださるお方であるかを しっかり霊で受け止めて、自分の方法・思いではなく、 聖霊様はどのような計画を持ってくださっているのか、私はどのように進むべきなのだろうかと、導きを求めて祈り、みこころの中を歩んで いきたいと思います。

そしてもっと親しく 信頼し、頼れるお方であることを信じることが大切ではないでしょうか。


【Ⅱコリント3章18節】

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を 変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

ますます 主を慕い求めて、キリストに似た者と変えられていきたいと思います。
ですから、私たちは内にいてくださる聖霊様の優しい語りかけ、思いを与えて導いてくださる方に、共に歩んでください。私の人生のすべてを支配し、導いてくださいと祈る者になりたいと思います。


そして、目を覚まして御霊によって祈り、御霊に満たされ、御霊に導かれて歩んでいく者になりましょう。 (^∀^)

2014.3.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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