からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2013年11月

力と恵みと憐みの神様

テーマは『 力と恵みと憐れみの神様について 』です

【Ⅱサムエル記22章17-30節】

主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。

主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。

彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

主は、私の義に したがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

私は主の道を守り、私の神に 対して悪を行わなかった。

主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって、私に償いをされた。

あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者には目を向けて、これを低くされます。

主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。

あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。

この箇所は、ダビデの賛歌です。聖書には色々な賛歌があり、その人たちの信仰告白が書かれています。

ダビデほど波乱万丈な人生を送った人はいません。
神様がダビデをイスラエルの王にしなかったならば、とても平凡な人生だったと思います。
父が飼っている羊の世話をする羊飼いでありました。羊飼いの生活はとても単調です。
人との関わりが少ないので、他人から来るストレスがあまりなく、毎日同じことをします。
他人から命を狙われることもなく、妬まれることもないです。

しかし、神様がダビデに目を留めて イスラエルの王にするために油注ぎをした時から、彼の人生は本当に変わってしまいました。

羊飼いから王様になることは、ものすごく祝福があって、権力を手に入れて好きなように生きていけるだろうと思うのは世の中の人の考えです。

ダビデはそうではなかったです。
油注ぎがあった時から神様の計画の中で激しい人生を生きるようになりました。
その時から神様の恵みも多く注がれましたが、同時に別の力も襲いかかってきて急に敵が増えてしまいました。

毎日、戦いに出て行かなければなりませんでした。
妬む者たちが増えて、とにかく彼を殺したい人間が増えました。
一番激しかったのは義理の父であるサウル王でしたが、権力による妬みでした。

様々な苦しみをダビデは味わってしまいました。家庭の中でも色々なことがありました。
その中で誰1人 彼を助ける人はいなく、自分の身を隠すところも受け入れるところもありませんでした。
ダビデを誰が助けたでしょうか?――それは、神様であります。

私たちは、ダビデの人生を通してどのようにしたら神様だけに頼って生きることができるでしょうか。
そして、救われた者たちは、どのように生きるべきなのかを彼を通して学びたいと思います。




【Ⅱサムエル記22章2-3節】

彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。

私の神という言葉が連続して出てきます。これはすごく私たちが学ばなければならないことですし、
彼にとって神様がどのような神様であったのかを強調する言葉であります。

多くの者は神様は創造主であることを知っています。世界は神様が支配していることも知っています。
しかし、それだけでは何も始まりません。

ある人は「彼らの神様」と言います。それは自分たちと(彼らの神様)は何の関係もないです。
ある人は「われわれの神様」と言います。それも十分ではないです。
何が大切かと言うと、その神様が「私の神様」でなければならないです。

ダビデは「私の神」という言葉を使いました。
これは神様との関係が親密であることを示しています。

遠くに神様がいる感じがするのは、まだ親密度が薄いということです。
「わが巌、わがとりで」となった時は、その人自身が神様を日々の生活の中で体験していることを意味します。

私たちは自分で神様を体験しないと、わが神とは言えないです。

十二弟子のトマスは、イエス様が蘇った時に信じませんでした。ずっと疑いを持っていました。
そこでトマスの手が イエス様の傷跡に触れた時に初めて「わが主よ」と告白しました。

「わが巌、わがとりで、わが救い主」ということばを自分で認識し、信じて頼ることがないならば、
その神様と自分は何の関係があるでしょうか?


教会でも「私の神様」ではない人たちがいます。
「神様、神様」と呼んではいますが、親密な交わりがない中で信仰生活をしても何が得られるでしょうか?

それでは神様を知ることができず、神様を体験することもないです。
神様は私たちに「近づきなさい」という言葉を使いますが、これは親密度なのです。
自分1人の神様ではなく、もちろんみんなの神様でありますが、ダビデは「私の神」と言える強い思いがありました。

ダビデがどのような状況の中にいたのでしょうか。次の箇所です。


【Ⅱサムエル記22章5-7節】

死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

よみの綱は私を取り囲み、 死のわなは私に立ち向かった。

私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。

どれほど彼が厳しい環境の中にいたでしょうか。

サウルと3千人の勇士が、自分1人の命を狙うために追いかけてくるのです。
その中でダビデは生と死の隣り合わせでした。
もしこれが 私たちの姿だったとしたら、ものすごい恐怖心が出ると思います。

ダビデはどれほど不安・恐れがあったでしょうか。ですから彼は神様に頼るしかなかったのです。
身を避けることも出来ない荒野で神様を呼びました。その祈りが神様に聞かれました。
そして、一度たりとも神様は ダビデをサウルの手に渡しませんでした。反対にサウルをダビデの手に渡しました。
ダビデにとっては何度もサウルを殺すチャンスがありました。しかし手を下しませんでした。

自分を守ってくださった神様に対する恵みに溢れて、主が油注がれた者を殺さないという立派な信仰でした。
ただ自分自身が 神様に助け出され、神様が自分の避け所であったことだけでも喜びと感謝に溢れて、神様を褒め称えました。

これが私たちが 最初にダビデから学ぶ姿であります。

神様が 「 私の神様 」 になっているのか、その確信を持って神様に日々頼っているでしょうか?




そして、救いを受けている人たちは、神様の前にどのように生きるべきでしょうか。次の箇所です。


【Ⅱサムエル記22章21-25節】

主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

私は主の道を守り、私の神に 対して悪を行わなかった。

主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって、私に償いをされた。

ダビデが神様の前で自分の行いを誇っていると思ったらいけないです。
救われた人たちは、このように生きていかなければならないです。
「神様は救い主であるし、恵み豊かな神様だから、その恵みがいつまでもあるから自分が好きなように生きて良い」ということは、絶対にないです。

神様が自分を救ってくださったならば 恵みの中に留まり、その救いに相応しく生きていかなければならないです。


【マタイの福音書5章48節】

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

なぜこのような言葉がこの箇所に出てきたのかは、その前の部分を読むと分かります。
それを理解しないと「完全」だという言葉の意味が分からなくなります。次の箇所です。


【マタイの福音書5章46-47節】

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

この言葉を比べるとダビデが言った意味が分かります。

神様が「完全」と言ったことは、取税人や異邦人よりもあなたたちは勝る者でなければならないということです。
取税人や異邦人と同じことをするならば、それは救われた人の姿でしょうか?――そうではないです。

ですから、ダビデが神様の前で「手をきよくしました。自分が罪を犯さないように生きました。」と言ったのは、
そのようになるために彼が努力をしている姿であります。

神様は私たちを見て言います。人間には、誰1人完全な者はいないというのは神様が一番よく知っておられます。

それなのに、神様が私たちに完全でありなさいとおっしゃったのは、「あなたたちは救われた者として、実を結びながらわたしの前できよく正しい者として生きていきなさい。」というみこころなのです。

私たちは完全にはなれないのですが、だからといって何もしないのではなく、私たちは完全になろうと努力をして
取税人や異邦人に勝る者にならなければいけないです。

もし人間が完全な者だったとしたら、神様はいらないと思います。


パウロは、他の十二弟子よりも勝っている部分がたくさんあります。
しかし、パウロが語った言葉を見ると、自分は100%弟子になったと誇ったことがあるでしょうか?――それはありませんでした。
常に自分の中にある肉と戦い、肉を打ち叩きながらたくさん働いても「まだまだ私は足りない者」と語りました。

私たちは頑張っても罪を犯すことがあります。時には努力が足りなくてそうなる時もあります。私たちが完全ではないからです。時には弱くて倒れる時もあります。

ソドムとゴモラの町では「義人は1人もいなかった」と滅ぼされましたが、今の時代は義人がいるから違うだろうと思う人もいるかも知れません。
しかし、「私が義人です。」と誰が言えるでしょうか。世の終わりの時にもそう言える人はいないと思います。

パリサイ人は 神の前に来て「これを守りました。あれも守りました。」と言って、自分を義としました。
それをイエス様は退けました。いくら守ったとしても、その心の中には罪があるのです。


神様が言いたいのは、「努力しなさい。神様の命令に従順しなさい、主が喜ぶことをしなさい。」なのです。

神様が語ることは難しくて守れないことではないです。
私たちが本気で守ろうと思うならば、守ることが出来ると申命記30章に書いてあります。

昨日よりは今日、今日よりは明日が良くなるように努力する姿を 神様はすごく喜びます。
ダビデはそのように生きました。罪から自分の身を守ろうと必死でした。それでも人間ですから罪を犯しました。
間違えた判断もしましたが、それでも神様は彼を見て「わたしの心に適う者」と言ってくださったのです。

神様が私たちに多くの恵みを与えてくださるのも、私たちが努力している姿を神様が見るからであります。

まったく努力をしないで 恵みをないがしろにし、苦しい時だけ求めて自分勝手に歩むならば、神様は喜ばないです。


ダビデがそのように生きたことに対して、神様が「わたしのきよさによって、わたしに償いをされた」という言葉が2箇所も出てきます。

これは、神様は私たちの心や行いを見ておられますし、私たちが蒔いた通りに刈り取らせる神様であることが現れています。

神様に頼り、神様を敬う者、従う者に対しては豊かな救いと恵みを与えます。
しかし、主の言葉を退けて悪の道を歩む者に対しては懲らしめます。これは必ず来ることであります。


【レビ記26章23-24節】

もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、

わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。

これは神様の口から出た言葉であります。
「あなたをわたしの愛する子として見るのではなく、わたしに反抗する者として見る」のです。
そうすると報いを受けます。1人は良い報いを受け、もう1人は悪い報いを受けます。
これはどの時代であっても変わることがないです。神様の言葉は永遠に続く言葉であります。
私たちはそれを忘れてはいけないです。

救いの実を結ばないで、いばらとあざみを出して 自分だけではなく 他人にまでトゲを刺す者、他人の畑までもいばらで覆ってしまう者には、災いが必ず来ます。
悪い実を結ぶので、神様はその人に七倍にして報いを与えます。

私たちはそのことを本当に気を付けなければいけないと思います。




【Ⅱサムエル記22章29節】

主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。

この言葉はとても大切であります。

ダビデ自身が神様をどのように思っていたのかが分かります。

この世は光ではなく暗闇です。
暗闇に ともしびがあるということは、私たちにとって神様の救いと希望、喜びであり祝福であります。
神様に頼って生きることは、神様が自分のそばに共にいることは、自分の歩む道がたとえ暗闇の道を歩いていても その人は、その中で絶望することはないです。

主ご自身がその人の光となり導きとなり、助け・救い平安となり、祝福になりますが、ダビデはいつも自分のともしびにしていました。


私たちも歩む時には、神様が私たちのともしびでなければならないです。
主のともしびがある時に、闇が照らされていきます。

私たちがその道をつまづかずに、わなに掛からないようには、このともしびが必要であります。

私たちが光の中を歩む時に、神様は「あなたたちは世の光である。」と語りました。
ともしびを持たない人が光り輝くことはできないです。これを私たちが手放してはいけないです。

死ぬ時まで神様のともしびに導かれて、ダビデが経験したように私たちもこの地上で経験していかなければならないです。

救われた人はこのように神様と親密な関係を結びながら、「わが神、わたしのとりで、わが巌」このようにしながら
毎日神様をともしびに照らされて、その中を歩むのが信仰生活であります。

その中で受けた恵みを常に思いながら、神様に感謝の賛美を捧げることが 私たちに必要なことであります。
(・∀・)

2013.11.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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どのように祝福が与えられて、感謝が生まれるのか

テーマは『 どのように祝福が与えられ、感謝が生まれるのか 』です

【Ⅱコリント9章6-12節】

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。

なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

私たちはどのように多くの祝福を受けることが出来るでしょうか。
そして感謝がどこから生み出されていくのでしょうか?

神様がすべてのものを造られ、私たち人間も造ってくださったのです。今も主権者として働いてくださっています。

目には見えませんが、あらゆる自然界の法則があります。朝があり、夕があります。太陽があり、地球が回ることも法則があります。
そして、蒔いたら刈り取るという法則の中ですべてのものが動いています。

たくさん祝福を受けたいと誰かが思うならば、その人はある法則に従わなければいけないです。
それは、「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取る。」これは聖書を読まなくても自然界の中で知っていることでもあります。

豆を蒔いたら豆が生えて、小豆を蒔いたら小豆が生えます。
豆を蒔いたのに、小豆が生えることはないですね。

たくさん刈り取りをしたいなぁと考える農夫ならば、自然の法則通りに畑にたくさんの種を蒔くと思います。
そして秋になったらたくさんの収穫ができるようになります。

この法則を決めたのは神様であります。


【ガラテヤ6章7節】

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

悪いものを蒔いたら悪いものを刈り取り、良いものを蒔いたら良いものを刈り取ります。
少し蒔いたら少しだけ刈り取り、多く蒔いたら多くの刈り取りをします。

ある人が少しだけ蒔いて沢山くださいと祈り、手に入れてから「私は100倍を求めたのにこれだけですか?」と
言うならば、この箇所にある「神は侮られるような方ではない」のです。
少しだけ蒔くなら、それ相応の分しか刈り取れません。

神様の法則は、今も正しく働いています。世の中にも因果応報という言葉があります。
自分でしたことは自分で刈り取るのです。

蒔いてもいないものを刈り取ろうとするならば、それは詐欺師です。これは逆らって生きている人たちの姿です。
不正で得ているものは祝福ではないです。

私たちはそういうものではなくて、神様が決められた法則に従って生きていかなければならないです。


【箴言12章14節】

人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。

「人の手の働きはその人に報いを与える。」というのは、一生懸命 勤勉に働く人は、必ず報いを受けるということです。仕事をしないで何もしない人は、貧しさしか刈り取れないです。


【箴言28章19節】

自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。

一生懸命、朝から畑に出て種を蒔き 世話をし、そして水を注ぎ雑草を取り除く人々は、
秋の収穫になると 食糧に満ち足りるのです。また、むなしいものを求めると、良いものを手に入れることもないです。

私たちが豊かな祝福を受けるにはどのようにしたら良いのでしょうか。
忠実な者に、神様が豊かな報いを与えてくださるのです。忠実ということは、最善を尽くすということであります。

すべてのことに対して最善を尽くす人たちに、神様は豊かな祝福を与えます。

聖書には「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」という言葉があります。
神様を愛する時や信じる時以外にも、仕事や何かをする時には心を尽くしてしなさいということです。
適当にするのでは良い報いはないです。


【マタイの福音書25章21節、23節】(※同じみことばです)

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

働きを一生懸命した人に対して 神様が語る言葉です。わずかな物、小さなことにも とても忠実だったのです。
そして、その忠実さを見て 神様が語ったのは「たくさんの物を任せよう。」でした。これは祝福であります。

主に対して忠実な者には、神様ご自身が責任を取ってくださるのです。

豊かに与えてくださる神様であることをはっきりと語り、常にすべてのことに満ち足りるようにしてくださる神様なのです。


【Ⅱコリント9章14節】

また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。

「絶大な神の恵み」という言葉がありますが、これは私たちが信頼できるものであります。

今回のテーマの箇所は、献金のことを語りました。捧げ物に対して語った言葉でした。
「いやいやしながら」、「仕方がないなぁ」、「言われたから強いられて」、時には「惜しむ心で」捧げるならば、
それは忠実さではないと語りました。計算高いのです。また神様を試すことも、神様が喜ぶ心ではないです。

忠実にするのは、神様に対する愛の心があるからです。
「私が持っているものは、全部 神様から受けた良い物なのです。ですから、神様がそれを必要とするならば 私は主に喜んでそれを捧げます。」これが忠実な姿なのです。


また、神様はどのような人を豊かに祝福するのでしょうか?
良い種を蒔く時に祝福します。
しかし 種だからと言って、なんでもかんでも全部 祝福になって戻ってくるということはないです。

良い種とは、神様が喜ぶことに蒔く種のことです。
神様だけに蒔くのが良い種ではなく、神様が私たちにして欲しい所に働きをすることが「良い種」であります。


【Ⅱコリント9章9節】

「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

「この人は散らして、貧しい人々に与えた。」という言葉があります。
神様は私たちに良い働きをしなさい と語っています。
困っている人たち、貧しい者たちを助けること。これは良い種を蒔くことであります。
自分のため、自分の欲のために蒔いても、それは良い種ではないです。

また、豊かな人に与えるのが良い種ではないです。
ある人たちは自分に返ってくるものを考えて、豊かな者たちに与えます。そこに計算があるのです。

「貧しい者に与えたら、ただ与えるだけで終わりでしょう?」これは悪い種です。

貧しい者たちに与えると、それは全て神様が喜ぶ種であります。

日本は今、それをしています。東日本大震災が起きた時に、世界中から多くの援助がありました。
フィリピンも日本が困っている時に色々と助けてくれました。
ですから、先日のフィリピンの台風被害で 日本からもすぐに支援に行きました。医者や自衛隊も行きましたし、
物資も送りました。フィリピンが日本に対してしたこと以上に、日本がフィリピンに支援をしています。

「彼らが1個蒔いたから、私たちも1個にしましょう。」ではなく、「その時嬉しかったから私たちは10倍しましょう」と、
そのようにして支援をしています。

困っている人、貧しい人を助けるのは積極的にしなければいけないと思います。


【伝道者の書11章1-2節】

あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。

あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。

良い種を 多くのところに蒔くことが、後で多くの祝福を受ける秘訣でもあります。

パンを水の上に投げたら無駄なことでしょう?という思いがあります。ですが、多くの人々に良い働きをすると、
その時には何もないように見えて 無駄なように思えるかも知れませんが、神様はそうしてみなさいと語ります。
「七人か八人に分けておけ」ということは、畑が狭いのではなくて、広い畑なのです。

自分自身には たくさんのものを蒔きますが、他人に対しては手を差し伸べない人もいるのです。
そのような人たちは後で(自分が)困ることになるのです。

どんな災いが起こるかは分からないです。しかし、たとえ災いが起きたとしても その時に助けられる人の特徴は、既に色々な良い種を多くの人たちに蒔いた人です。その人に助けられた人は「今、あの人が困っているんだ。」と、助けようとするのです。

しかし、周りの人たちに蒔いたことがない人は、困ったことがあっても周りは手を差し伸べないのです。

ですから、自分が出来る時には 良い種をたくさんの人に蒔きなさい と主が語っておられます。


【伝道者の書11章6節】

朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。

ある種は道ばたに落ちて、ある種は岩地に落ちて、ある種はいばらの中に落ちて、ある種は良い地に落ちました。
あるものは無駄になりました。しかし、良い地に落ちた種は三十倍、六十倍、百倍の祝福がありました。
ですから、豊かに蒔くことなのです。たとえ、その人から何も来なくても神様が報いを与えてくださいます。


また、私たちの「感謝」はどこから出て来るのでしょうか?

働きをすると、神様がその人の上に蒔く種(食べるパン)を与えてくださいます。
良いことをしている人が飢え死になることは聞いたことがないです。神様が喜んで器に注いでくださいます。

私たちが良い働きをしたり、みことば通りに働きをすると、一番喜んでくださるのは神様なのです。

神様が喜んでくださることをするのが、神様に栄光を捧げることになります。
小さな力をもって神様の言葉に忠実にし、神様が決めた法則に逆らわないで生きる人に対しては、
神様はずっと恵みの雨を降らせてくださり、その人の蒔いたものが成長(収穫)するように祝福してくださるのです。
その中で既に神様は栄光を受けています。

そこで (その人は)神様の御手をたくさん体験しますので、感謝が溢れるのです。
与えない人は感謝がないです。しかし、与える人はいつも感謝が出てくるのです。

なぜならば、私たちが相手のために何かをした時には、相手は喜ぶのです。
喜ぶ顔を見ると自分も嬉しくなるのです。「やって良かった。感謝だなぁ。」と幸せな気持ちになります。

しかし、自分や自分の家族だけにすると、家族が自分に栄光を捧げるでしょうか――?
それはないです。自分の子どもを大事にしても、財産をもらう時だけ来て、全く会いに来なかったりします。


貧しい者たちや、隣人に良くしてあげてみてください。
その人たちが感謝をして、その人たちが世話をしてくれるのです。

家族や身内よりも、今は教会の信徒たちの方が良いかもしれないです。
困っている時にすぐ祈りをしてくれたり、助けてくれたり、協力してくれます。

(周りに良くすると)その時は無駄かも知れないと思っても、神様が喜ぶことをしていたら、神様は災いの日に祝福を与えてくださいます。
そうなると感謝が絶えることなく与えられてくるのです。


【Ⅱコリント9章8節】

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

神様への信頼がありました。神様は真実な方でありますので、このみことば通りにしてくださいます。


【Ⅱコリント9章7節】

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

神様はすべての者を愛してくださいますが、特別に愛する人とは、神様を喜ばせる人です。


【Ⅱコリント9章10節】

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

蒔きたいという気持ちがたくさんあるのに、自分の手に何も持っていない時は神様に祈ったら良いです。
すると神様ができるようにしてくださいます。


【Ⅱコリント9章11節】

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。

神様は蒔く者たちに豊かな恵みを与えるので、その人たちは 更に感謝しながら喜びながら蒔き続けるのです。

神様は「あなたたちは感謝の心を持つ者になりなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と教えてくださいましたので、
感謝の心を持ちましょう。そうすると環境が変わってきます。

不平不満をいっぱい言うと、後で刈り取るものは「不平不満の実」です。
しかし、感謝を蒔くと、後で刈り取るものも「感謝」であるというのが聖書の世界であります。 (⌒-⌒)

2013.11.17
収穫感謝祭メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あらゆる恵みに満ちた神

テーマは『 あらゆる恵みに満ちた神 』です

【Ⅰペテロ5章10節】

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

神様に出会うまでは、私たちは神様の存在を頭の中で自由に想像していました。
それも人間の数ほどの神様がいます。
自分がこういう神がいたら良いなぁと思う神を作ったり、誰かが作った神を自分の神だと信じる人がいます。
私たちも(救われるまでは)その中にいた者でした。

私たちが本物の神様に出会うまでは知らなかったことがあります。
それは神様が私たちに与えてくださった「恵み」であります。


私が生かされているのも神様の恵みであり、あれもこれも自分の命も、神様から受けたものであるのだという
認識がとても乏しかったのです。

親のおかげであったり自分の力であるという思いがたくさんありました。

しかし 本物の神様に出会って恵みの世界が分かりました。

すべてのことが神様からの恵みだったということが 聖書を読んで初めて正しく知ることができます。

皆さんはどのような恵みを実際に神様から受けたでしょうか?
ある人は恵みに気付いていますし、ある人はまだ気付いていないかもしれません。

神様は今回のみことばで「あらゆる恵み」という言葉を使っています。
その中で1つの恵みが表れています。
それは「苦しみの中の恵み」であります。

この時代の人々は特に迫害が多かったので、苦しみの中にいたと思います。
キリストを信じること自体が苦難の道に足を踏み入れることでありました。
苦難を受けたくないと思うならば、神様を信じることが出来ないです。


ローマ時代はどれほど迫害を受けたのか、歴史を通して知ることができます。
ローマには皇帝がいましたが、クリスチャンを見せ物にしていました。
競技場の中でクリスチャンたちに油をかけて たいまつのように使い燃えさせて、自分たちは飲み食いをして
楽しんでいました。このような悲惨な歴史がたくさんあります。

ですから、その中で「私は クリスチャンになります。」と言うことは、死ぬ覚悟がないと絶対にできないです。

今の時代はそんなに迫害はないです。しかし、いつか このような迫害が必ずあると聖書に預言されています。
ですが、それは災いではなくて神様の恵みであるということを、この聖書箇所で教えています。


苦しみの中の恵みとは どのようなものでしょうか?
苦しみの後で完全になるということは 忍耐であり、忍耐を最後まで出来る人は
完全なる者であります。

人間は完璧ではないのですが、忍耐を働かせると信仰の部分で完全になります。
それらのことを苦しみの中で実を結ぶことができます。

苦しみは誰もが嫌だと思います。
しかし、私たちは平安の中だけでは あまり変わらなく忍耐を学ぶこともないです。
強くなることもないです。苦難の中で耐える時に、あらゆるものが変わっていきます。
ただ ジーッとしているのではなくて、その中で神様に頼ることを学びますし、信仰の激しい戦いがあります。
「こんなに苦しくても(神様を)信じるのか?」と色々な自分との戦いがあります。

だけどその中でも神様は恵みを与えて私をさらに強くしてくださるのだという思いで生きていますので、
その苦しみが ただの苦しみに終わるのではなく、それが自分たちにとって恵みになるのです。

強い者にしてくれる恵み。苦しみがないと、そういう者にはなれないのだという認識が出てきます。

ヨブが激しい苦しみを受けている中で、愚痴をこぼさずに耐えました。
迫害の中にいる人々は、苦しみを神様の恵みだと思いました。恵みと思わないと、絶対に耐えることが出来ないです。
「神様を信じて、何でこんな苦しみが来るの?こんなはずではなかった。」と思う人は、簡単に心を変えて 世に出て行きます。

パウロは一番の苦しみを受けましたが、一度も不平不満を言ったことがないです。
「わたしはますますここで変えられていく。ますますここで耐え忍ぶ。なぜなら神様の恵みは充分にあるから。」と、生きていました。

ですので、もし 苦しみがあるならば災いだと思う必要はないです。
ただ、自分の罪によって来る苦しみは災いです。
しかし、そうではなくて主のために働いて受ける苦しみは 災いではなく、神様の恵みであります。


【Ⅱテモテ2章9-13節】

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

苦しみ自体も恵みを受ける1つの道であります。

恵み豊かな神様は、主のために受ける苦難を見て何もしない方ではないです。
その中でも守り、その人に良いものを流し 支え、助けてくださる神様であります。




そして、私たちが神様から受けた恵みで、どのような恵みがあるでしょうか。

- 救いの恵み -

【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救いは、もちろん 私たちの信仰も働きましたが、それは主の恵みであります。
救われた人たちは、神様に「私はこういう者だから救いを受けた。だけど、あの人は救いを受ける資格がない。」と、
誰も言える立場ではないです。

行いによって「救い」を獲得したのではなく、100% 神様の恵みによって救いを受けたことを悟るべきです。


【Ⅰコリント15章9-10節】

私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

-奉仕をする恵み-

私たちは奉仕について勘違いをすることが多いです。

「私が神様に対してしているのだ」と思うのですが、神様は「あなたが奉仕できるのも、わたしの恵みなのだ。」と語りました。

奉仕を「恵み」だと考えないと、長続きできないです。
神様から何か報いを受けるために奉仕をするとか、他人に見せるためにするのは良くないことです。
それは本来の意味から離れています。

私たちが主のために 何か小さな働きでも出来るなら、それは神様の恵みが働いているから出来るのです。
奉仕を恵みと考えていないならば、少し奉仕をしていただけで疲れてしまい 続けることが出来ないと思います。
「誰も分かってくれないな。これをしたのに何も良いことがないな。」と言ったら、すごく嫌になります。
ですから奉仕から離れていきます。

でも何年も変わらない心で奉仕をする人たちの中にあるのは、言われたから仕方がなくするのではなく、
何が原動力になっているのかと言うと、「私のような者を参加させてくださっている」という恵みなのです。
これはとても素晴らしい恵みであります。


もし神様が「あなたは役に立たない者だから、何もしなくて良い」と言って何もさせないならば、それは良いことでしょうか?
それは違うと思います。きっと自分自身のことを価値がない者だと思ってしまいます。

神様に奉仕をすることは素晴らしい恵みなのに、それを自分のほうから拒むということは自分の手で恵みを投げ捨てることであります。
神様が見た時に、(その人に)出来る力があるので それをさせるのです。
ですから、私たちの認識を変えなければいけないです。

何か奉仕をして、すぐに30倍 60倍 100倍の祝福を貰おうという思いだと、そのようにならない時には失望するでしょう。
そして投げ出してしまいます。

天国へ行って報いを受けるというのは、私たちが地上で働いた行いによって 天国で受けるものです。
神様は地上で与えないこともあるのです。地上で全部の祝福を受けてしまうと、天国へは持ってはいけないからです。

天国には魂だけが行きます。地上のものは置いていかなければなりません。

天国へ行った時に自分の住まいに、私たちが地上でした行いに応じて備えてくださっています。
奉仕はその為の恵みの働きだと思うならば、私たちの心は喜びで溢れると思います。




【ローマ5章17節】

もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

「ひとりの違反」とは、アダムとエバのことであります。サタンの惑わしを受けて 善悪の知識の木の実を食べてしまいました。
それで神様の言葉通りに、死がこの世界に入るようになりました。
罪が入ったことで汚れました。
罪というシミが付くことによって人間が汚れ、その子孫である私たちが罪の中で生まれ、汚れた者になりました。

それをイエス様が聖めてくださいました。
イエス様の十字架は、罪人のために流した血であります。
本人はシミがついていることに気付かないですが、神様や他人が見た時に、それがよく見えます。

罪を犯しながら外見を綺麗にしていても、神様はいつも私たちの心を見ているのです。
罪の臭いと汚れが丸見えであります。

パリサイ人にもイエス様は「白く塗った墓よ」と語りました。敬虔な者に見えても、いざフタを開けると汚れでいっぱいでした。

たとえ あなたの罪が火のように赤くても、悔い改めて主の血潮を求めるならば、雪のように白くなります。
これは真理であり、イエス様が与えてくださった恵みなのです。


【ローマ6章17-18節】

神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、

罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

義の奴隷ということは、聖められ罪が洗われたということです。神様の前では、その者が汚れた者ではなくて血潮を浴びて聖くなった姿に見えるのです。


【ローマ6章22節】

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

聖くないと天の御国に入ることは出来ないと語りました。


【Ⅱコリント8章1-9節】

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、

聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。

あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。

こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

私たちが何かを主に捧げるということは、犠牲が伴います。

神様に献金を捧げる時に、自分の方から出さなければならないです。
お金を大切に思わない人はいないと思います。
なぜなら生活に必要であるので、「たくさんあれば良いなぁ」と誰もが思っているでしょう。

生活をするにはお金は必要ですが、私たちがあれこれ心配し 計算高く将来の為に貯めて、「神様に捧げるものはないわ」とケチる心で神様に捧げるならば、それは恵みではないです。

マケドニヤ教会の人は極度の貧しさの中にいました。当時はクリスチャンであるだけで仕事場から追い出されたり
権利が奪い取られたりしたので、どんどん貧しくなっていきました。

しかし、何もない中でも、その人たちに「捧げたい」という心が出てきました。
神様はそれ自体が恵みであると語りました。惜しまずに捧げたいという心を持っている人は、恵みの中にいるのです。


ですが、計算機を出して「私の老後や子供のほうが大切だ」と捧げ物を減らして、ますます握りしめていくのです。
そのような人たちは神様の恵みを知らない人であります。
「あなたが持っているものは、全てわたしが与えた物である。」とイエス様は聖書で例えを語りました。

自分の命も神様の恵みであり、命を支えてくださっていることも、ものすごい神様の恵みであります。
もしも癌になって手術を受けるなら、何百万円もかかるのです。今、神様が健康を与えてくださっていることは、
ある意味では何百万円以上の祝福を受けていることなのです。

足が動かなくなれば何も出来ないです。
私たちはどれほどタダで神様から恵みを受けているでしょうか。

惜しみなく捧げる人は 恵みを悟った人であります。

マケドニヤ教会の人たちは、何のために献金を捧げたのかと言うと、自分たちも苦しいのですが、自分たちよりも
さらに苦しみを受けている人々に施しをしたのです。
私たちもそのようにしましょう。自分に出来ることを分けてあげる思いでしてあげることです。

地上で生きている時に神様が充分にしてくださるので、神様に信頼したら良いと思います。


【ヤコブ4章6節】

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

高ぶる人とは、恵みを知らない人であります。へりくだっている人は、恵みを知っている人です。

恵みを知っている者には、神様がさらに豊かな恵みを与えてくださると約束してあります。

どうやったら恵みを受けるのかと言うと、恵みを知れば受けます。
自分が生きていること、今まで導いてくださったのは神様であります という思いで感謝を捧げたら恵みを与えてくださいます。
恵みを知らない人は恵みをないがしろにしてしまいます。

私たちは今年もたくさん神様の恵みをいただきました。毎日、毎日 守られて生きてきました。

健康も平安も与えられて、あらゆる災いの中でも守られてきました。
どのような時でも 神様の見えない御手が私たちを支え、恵みが天から流れてきて、それによって生かされたことに感謝しましょう。

来週は、収穫感謝祭であります。
今年受けた恵みを1週間じっくりと考えて、歩みを振り返り1つ1つ神様の御前で感謝を捧げてください。 (*´∇`*)

2013.11.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちのために来られたキリスト

テーマは『 私たちのために来られたキリストに対して 』です

【イザヤ書61章1-3節】

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、

シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

イザヤ書44章から後半は、「旧約聖書の中の新約」と言われています。

もし人々がこの箇所を正しく悟ることが出来たならば、その人たちはキリストをメシヤとして受け入れ、
信じたと思います。

特にユダヤ人たちが、この言葉を本当に理解できたならば彼らはキリストを十字架につけることは
しなかったと思います。

しかし、未だに この言葉を悟ることが出来ないために彼らの目は、覆いがかけられ、心が閉ざされて、
キリストを信じずにメシヤを待っています。
私たちクリスチャンもキリストを正しく知らないと、後でとんでもないことが起こります。

なぜ今回この箇所をテーマにしたのかと言うと、私たちが心の底から100% キリストを正しく知っておかないと、いつ つまずき惑わされるか分からないからです。

私たちはいつも口々に「終わりの時代だ」と よく使いますが、世の中の災いを見て世の終わりだと悟る以前に、教会の中で起こってくる様々なことを通して世の終わりだということを強く実感できます。


先週、韓国ソウルの教会で驚くようなニュースを聞きました。

少なくとも数万人が集まる教会で、クリスチャンであるなら牧師の名前をほとんどの人が知っています。
以前からとても良いメッセージを語り、すごくリバイバルした教会でもあります。
しかし、その牧師が真理とは違う ずれた話を突然 公の場で語りました。

「救いはキリスト教だけではない」という言葉を使いました。以前にローマ法王が語ったのと同じ言葉でした。
その時、他の教会や教団の人たちもいました。
そして先週、何が起こったかと言うと、釜山(プサン)の教会の牧師たちが ソウルの教会の礼拝堂に 汚物を撒きました。

なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか?

その牧師は明らかに真理ではない「非真理」で正面からキリストを否定する話をしているのに、そこで聞いていた副牧師、伝道師、長老、信徒たちが何万人もいるのですが、その人達が沈黙をして誰も否定をしなかったので他の教会の牧師や信徒たちが立ち上がったのです。
ですから、牧師だけではなく、それを聞きながら黙って教会に通っている人たちもおかしいということであります。

自分の立場のために黙っていたのでしょうか?


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。

使徒の働き4章12節のみことばを見ても、救いはキリストしかいないと書かれています。
聖書を知っていながら違うことを語った牧師に対して、なぜ周りの人たちが黙っているのか 理解が出来ないです。

今回のニュースを聞いて、本当に世の終わりだと感じました。(その時が来たら)教会から裁きが始まります。

私は牧師として、私たちがキリストのことをもっともっと知らなければならないです。
この世で成功するために色々なことを教えるのではなく、自分たちが信じるキリストがどのような方であるのかを教えたいです。
土台がしっかりしていないといつ倒れるかわからないのです。

私たちクリスチャンは、誰よりもキリストのことをしっかりと学んで悟らないと、後でとんでもないことになります。
すべてのものもそうですが、基礎が正しく出来ていないと、砂の上に建てた家のように誘惑が来た時にペッタンコにされるのです。




そうならないように、地上に来られたキリストがどのような方であるのかを はっきりと知りたいと思います。

イエス様がなぜ来られたのか、その目的、その働き、自分のために来られたキリストのことが【イザヤ書61章1-3節】に書かれていましたが、
イエス様ご自身も語りました。次の箇所です。


【ルカの福音書4章16-22節】

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

主の恵みの年を告げ知らせるために。」

イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。

イエス様は、偽預言者を見分ける方法はその人が語る言葉ではなくて、その人が結ぶ実を見て見分けなさいと語りました。
その通りの働きをしないならば、その人がどんなに有名で立派なことを語る人であっても、信用してはならないです。
言葉ではいくらでも人を騙すことができます。

私たちが結ぶ実は、最初に芽が出た時には分かりませんが、実をしっかり結んだ時に見分けることができます。

イエス様は実際に来られて、この通りの働きをしました。バプテスマのヨハネが弟子たちをイエス様に遣わして
「(メシヤとして)来られる方はあなたでしょうか?」と質問をしました。
それはヨハネに先入観があり、イエス様の姿がイメージと違ったからです。

しかし みことばが目の前で実現されている実を見ましたので、ヨハネは悟り、預言されたメシヤがイエス様だということが分かり、それ以上疑いを持ちませんでした。


終わりの時には、反キリスト、偽キリストがたくさん出てくると言われています。

なぜ人々がそういう者たちに騙されるのでしょうか ――。
それは、行いの実を見ていないからです。ほとんどがその者たちの言葉や姿に騙されるのです。
立派なものを建てて、大勢の人が集まり、そこで立っている姿を見て「この人が偽物なら、人々がこんなに集まる
はずがない」と勝手な思いを持ちます。
それは みことばの上に立った判断ではなくて、「神様が今まで隠しておいた秘密をあなただけに特別教えるから」という言葉に誘惑され、牧師や伝道師、信徒たちまでもが惑わされてそこへ行くのです。

イエス様とまったく違う働きをする人たちは、自分で名誉を受けて権力を手に入れて、お金を握ります。それはメシヤの姿ではないです。

ですから、イエス様は明らかに世の宗教指導者たちと違う姿で来られて、違う働きをすることをイザヤ書61章でも語っていました。

イエス様はどのような人を救い出すと語ったでしょうか ――?
貧しい者に良い知らせを伝えるために イエス様は来ました。(イザヤ書61章1節)

貧しい者とは、霊的に貧しく心に色々な悩みがあり生きる力がない人たち、希望もなく 頼るものもない人たちです。


【マタイの福音書5章3節】

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

苦しみから救い出すために来たとイエス様が語りました。それで実際にイエス様は貧しい者たちと共にいました。

すると宗教指導者たちが「あの者はいつも罪人たちと一緒にいる」と言って非難しました。
彼らは魂を導くと言いながらも、人々を完全に差別しました。

多くの者は口なめらかに、その人が持っている わずかな物までも全部取り上げて自分の腹を肥やしていきます。

ですが、イエス様は一度もそうしたことがないです。

イエス様は心が傷ついた者たちを癒すために来られました。

心に傷がない人はいないと思います。
他人からの言葉によって傷を受けたり、環境から傷を受けたり、生まれながら傷ついた人たちなど たくさんいます。

それは薬を飲むから癒されるのでしょうか?―― 癒されないです。
身体は薬を飲んで癒すことは出来ますが、心の傷は薬では届かない部分です。ですが、人々は傷を受けていないかのように振る舞っています。
傷があるということは、心にいっぱいヒビが入って粉々に壊れたことを意味するのです。

ヒビが入った心は痛いのです。それは誰が治せるのでしょうか?
―― それは私たちを救ってくださった主です。

私たちの痛みを知っておられるイエス様が癒してくださいます。

霊的に色々な葛藤や悩みが多い人たちは心が病んでいます。カウンセリングを受けても 聞くだけであります。
聞いてうなずいて、小さな助言を与えます。また、病院で薬だけを与えて(副作用で)何も出来ない者にしてしまいます。
それは癒すことにはならないです。


【マタイの福音書11章28-29節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

心が癒されたということは、たましいの安らぎであります。

それから捕らわれ人には解放を与えます。これもイエス様がしたことであります。

私たちはある意味で罪の奴隷でした。奴隷ということはサタンに捕らわれた者であります。
人間に捕らわれたり、環境に縛られて奴隷にされていたり、自分自身で自分を縛っているのです。

それで苦しい思いをしている人たちがどれほど多いでしょうか。
この世で生きているほどんどの人が何かに捕らわれて生きています。「ストレス」ということは、何かに捕らわれているのです。

刑務所の中に入っていなくても、家庭の中で監視、管理されていたりすることもたくさんあるのです。
その姿を見て、イエス様が本当に憐れんでおられます。

イエス様は知恵を与え解放したいという理由で地上に来られました。
ですから、私たち自身が本当にイエス様に出会っているならば、今 私たちは自由にされていなければならないのです。


【Ⅱコリント3章17節】

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

自分の力ではどうすることも出来なかったものを、イエス様はそこから解放し自由にしてくださいました。
自由は私たちのものであります。

まだまだ自分は頑張らないと自由になれないと勘違いをしてはいけないです。
イエス様は最初から自由を与えておられますので、それを使うことであります。




私たちがクリスチャン生活をする上で勘違いをしていることが1つあります。

「囚人には釈放」という言葉がありますが、これは刑務所に入っている者に語った言葉ではないです。

以前の悪い習慣、古いものに縛られて身動きが取れていない人達がいます。
クリスチャンなのに そういうものに縛られています。罪責感に悩まされている人がたくさんいるのです。
罪を犯すたびに「あぁ、私は地獄に落とされるのではないか」という思いで自分を縛ります。
しかし、イエス様はそのような方ではないです。

イエス様は、私たちの過去・現在・未来の罪までも赦してくださるのです。
だからと言って、「じゃあ いつでも罪を犯して良いんだ」というのも間違いです。

「あなたが本当にわたしの前で悔い改めるならば、それ以上自分を責める必要はない」ということです。

なぜなら赦されたからです。罪責感はサタンが私たちを縛る 「 足かせ 」 なのです。


旧約聖書を読んでみてください。
罪を何度も犯し、それに対して神様は彼らが蒔いたものの刈り取りはさせましたが、
それでも神様は彼らを捨てませんでした。最後まで彼らの世話をし、魂を憐れんで救い出してくださいました。
これが父の心であるのです。

このようなキリストを絶対に裏切ってはいけないです。豊かになった途端、心が変わる魂が哀れであります。

「私は大丈夫です。」というのは誰にも言えないことです。


日々、私たちの信仰の土台であるキリストを求めて、その方と共に歩み、敬わないと(私たちは)倒れていきます。

ソウルの牧師の姿を見て、私たちはただ非難するのではないです。それは自分たちに対する警告だと受け止め、
世の終わりが身近なところで起きているのだということを私たちは知らなければいけないです。

もしも、牧師が真理ではない言葉を平気で語るならば、皆さんは逃げたら良いと思います。
「牧師が堕落し、キリストに敵対する者になってしまったのだ」と牧師を追い出すか、皆さん自身が離れるか、
どちらかにしないと大変なことになります。

今回のことは、私たちに対する教訓であり警告でもありますので、私たちはどのような時でも自分たちのために
来られたキリストにしっかりと礼拝して信じて、ついていきたいと思います。 ( ̄‥ ̄)=3

2013.11.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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