からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2013年10月

忘れてはならないこと

テーマは『 忘れてはならないこと 』です

【詩篇106編6-15節】

私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行った。

私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。

しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった。

主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深みの底を。さながら荒野を行くように。

主は、憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われた。水は彼らの仇をおおい、そのひとりさえも残らなかった。

そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。

しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。

彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。

そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。

旧約聖書はイスラエルの歴史と言っても過言ではないです。
しかし 神様はイスラエルという国のことを私たちに知らせるためではなく、
≪彼らの姿を通して あなたの姿を見なさい。≫ということであります。

クリスチャンは、今の時代に選ばれた選民たちであります。罪から贖われて恵みによって救い出された者であります。
ですから、あなたと同じように選ばれたイスラエルの民たちの歴史を通して、「あなたの人生の歴史を振り返ってみなさい。」と神様はたくさんのメッセージを送っています。

決して「昔の歴史であって、今とは違う。私の国の話ではなく、イスラエルの歴史の話は(私には)関係がないでしょう?」ではないです。


教科書ではなく、聖書に書かれているということは、クリスチャンに対して神様が教えたいことであります。

読んでみると、私たちの姿がそこにあります。「こんな姿は見た事がない」と、誰が言えるでしょうか ――。
(自分の姿が)双子のように、そっくりなのです。

神様は歴史を通して、神様に喜ばれた者は1~3人と 本当に数少ないです。その他の者は、好き勝手に生きている姿がそこにあります。
逆らったり、罪を犯したり、神様に敵対心を燃やしたり、あらゆる姿がそこにあります。

私たちはこのような姿を見て、「これは私の姿だ。私もこのようにしている。」と思いながら読まないと
聖書が 自分とは関係のない書物になってしまいます。
神様はいつも「そこにあるのは、あなたの為の教訓である」と語っておられます。

私たちは彼らの姿を見て、何かを忘れている姿があるのです。
神様が忘れてはいけないと言うのに、平気に忘れていくのでそれによって様々な問題が生じます。




①私たちを憐み、苦しみと罪の中から救ってくださった神様の恵みは、絶対に忘れてはならない

イスラエルの民たちは、神様から恵みを受けました。
奴隷生活が何代にも渡って430年ほど続き、圧迫され自由がなく 人間扱いされない生活だったので(彼らは)当然のように その苦しみの中で神様を叫び求めました。

その叫びが天まで届き、神様は彼らの叫びの声を聞いてモーセを立てました。それは素晴らしい恵みであります。
そして彼らをその苦役の中から救い出しました。これは100% 自分たちの力ではないです。

神様が彼らを憐れんで解放する者を送り、そして神様ご自身の御手で彼らを救い、紅海を渡ってカナンの地へ導くと約束をし 連れ出しました。
しかし紅海を渡った瞬間に神様の恵みを忘れました。既にその前にも パロの軍隊が後ろから迫ってきた時にパニックに陥り、神様やモーセに対して文句を言いました。

彼らは都合の良い者たちなのです。自分たちが発した言葉を忘れています。
助けてくださいと散々言っておきながら、神様が助け出した途端に「あの時の方が良かったのに。なぜ私たちをここへ連れ出し、ここを墓場にする気なのか!」と呟きました。

恩知らずで恵みを忘れているのです。このような姿が私たちにもあります。
(恵みを)受けた時だけ「ありがとう」と言って、すぐに顔を変えます。


恵みを忘れる人は高慢であります。まるで自分の力でやってきたかのように、自分の力でそこから救い出されたかのように恵みをすっかり忘れます。

私たちは他人から裏切られると とても心が痛み、長い間苦しむ人が多いですが、一番痛めているのは神様であります。神様から見たら、裏切り者があまりにも多すぎます。ほとんどの者がそうなのです。

皆さん、振り返ってみてください。神様の恵みがどれほどたくさんありましたか?


イエス様はラオデキヤ教会を批判しました。彼らはなぜ批判されなければならなかったのでしょうか。
それは、恵みを忘れている者たちだったからです。
「自分は富んでいる。豊かになった。何一つ乏しいことがない。」と明言しました。
「これは神様のおかげです」と栄光を捧げる言葉がなかったです。

もしも私たちが神様の恵みを忘れて「私の努力で恵みを受けた」と散々言うならば、
「恵みを忘れた者よ、あなた自身の力か」と神様から叱責を受けます。

自分の姿を見た時に、どちらなのかを見なければならないです。

「神様の恵みによって今はこのようになりました」と言える者なのか、「大きなお世話です。神様がいなくても
自分の力で出来ます」と言う者なのか ――。

人は覚えなければならないことを忘れて、覚える必要のないものは しっかり覚えていることがすごく多いです。
神様はどうでもいいことは忘れなさいとおっしゃいます。


神様から一番大切な救いと恵みを受けて 苦しみから助け出されたことを死ぬ時まで忘れてはならないです。

天国へ入っても忘れてはならないです。
神様の恵みで天国へ入ってこられたことを、神様に栄光を捧げなければならないです。
神様の恵みを一つも忘れてはならないと心に刻まなければいけないです。




②無限なる神様の力を忘れてはならない

イスラエルの民たちが救われたのは神様の力なのです。

なぜ私たちがこの力の業を忘れてはならないのかと言うと、小さな問題にぶつかるとすぐに神様に対して疑い、
不信仰の心が出てくるからであります。

それは神様が過去にどれほど大きな力をもって自分たちを導き 救い出してくださったのか、と それを忘れるので(疑いや不信仰の心が)出てくるのです。


(神様の力の業を)しっかりと覚える人たちは「あの時は自分の力ではどうにもならなかったのに、神様の力によって
私はそこから助け出され、それで問題が解決されました。自分の力でも、他人の力でもなく、神様の力によって出来ました。」と、このことが いざ問題にぶつかった時に思い出すのです。

あの時にしてくださった神様の力は「昨日も今日もいつまでも同じ力である。この力がまた働いて神様が私をまた助けてくださる。」となります。

しかし私たちがそれを忘れてしまうと、問題の前で倒れるのです。
「どうしよう、どうしよう」と明日の事を心配し、神様に呟くのです。

イスラエルの民たちも、あれほど大きな恵みや力を見ながら、目の前にある本当にわずかなことで
つまずいたのであります。私たちもそうでしょう?

他人に語る時は「神様は力ある神様だから信じなさい。」と言うのですが、いざ自分が問題を抱えてしまうと
急に信仰がどこかへ消えてしまいます。そして、いつの間にか無能な神様と思ってしまいます。

これは神様の力を忘れたことであります。


【エレミヤ書32章17-22節】

「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を 造られました。あなたには何一つできないことはありません。

あなたは、恵みを千代にまで施し、 先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。

おもんばかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方に したがい、行いの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。

あなたは今日まで、 エジプトの国で、イスラエルと、人の中で、しるしと不思議を行われ、ご自身の名を今日のようにされました。

あなたはまた、御民イスラエルを、しるしと、不思議と、強い御手と、伸べた御腕と、大いなる恐れとをもって、 エジプトの国から連れ出し、

あなたが彼らの先祖に与えると誓われたこの国、乳と蜜の流れる国を 彼らに授けられました。

神様の大いなる力の姿が書かれています。
それを体験したイスラエルの民たちが この後どのようにしたでしょうか。次の聖書箇所に続きがあります。




③不義を行う者に対しては必ず神様の懲らしめがある


【エレミヤ書32章23-24節】

彼らは、そこに行って、これを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、 あなたが彼らにせよと命じた事を何一つ行わなかったので、あなたは彼らを、このようなあらゆるわざわいに 会わせなさいました。

ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、 剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は 成就しました。ご覧のとおりです。

神様がエジプトの国に対して多くの災いを下したこと、そしてパロとその兵士たちを紅海の海の中に沈めたことを イスラエルの民たちは全て忘れてしまいました。

神様は、神様に敵対する者・不信仰な者・高慢な者に対しては、たとえそれが選ばれた選民であっても
神様は正しく裁く方でありますので同じようになさるのです。
信じない者だけに災いを下して、自分が選んだ民たちが悪い事をたくさんしていても それを黙認する神様ではないです。

彼らの高慢な姿が出てきます。
「私たちは悪いことをしていても 神様が愛して選んだ者であるから、私たちにはそんなものは来ないのだ。」という特別意識があります。
祝福は来ても、災いを下す神様ではないと思いました。これは彼らの大きな勘違いであります。

災いを下さないと、それは甘やかすことになります。
それこそ父(=神様)に逆らう子になるので懲らしめるのです。
イスラエルの民たちが神様に逆らった時は、異邦人よりもひどい目に遭いました。


神様の裁きの時は、神の家から始めると語りました。まずは毒麦とヤギを取り除いて、そこから聖めます。

聖書の言葉は、信じる者にも信じない者にも同じく当てはまるのです。

神様は真理の言葉で私たちを正しく裁く方であり、そこで違反している者に対しては(神様が)同じようになさいます。
ですから、免れることがないです。

神様は 苦難がある時にはすぐに立ち返りなさいと語りました。
イスラエルの民を見て、自分の姿を見ることなのです。

私たちの内側が、神様が願うように いつも恵みを覚えて感謝し、神様の力に完全に頼り、そして神様が喜ばないことはしないことです。神様がおっしゃったことに喜んで仕えるならば、何一つ心配することがないです。


私たちは皆、足りない者で まだまだ失敗が多いですし、弱い者であり、知恵のない者であります。

ですから私たちは言葉を聞いて「神様、赦してください。恵みを忘れてしまいました。神様の力を信頼しませんでした。神様がこんなに良くしてくださったのに、私は自分勝手にそれに甘えて勝手な道を歩みました。主の声を無視しました。自分には災いが来ないと偉そうにしていました。赦してください。恵みを忘れません。神の力を忘れません。不義な者に対する神様の懲らしめも忘れません。」と悔い改めます。

これが今回の本文を通して神様が私たちに教えることであります。


耳のある者は聞きなさい、と私たちは主の前で本当に謙遜になる必要があるのです。
私たちは朝霧のように消え去っていく者であります。

今、平気でやっている小さなことによって 後で大きな代償を払わなければならない時が来たら、多分耐えられないと思います。
ですから私たちは、神様を 本当に恐れなければならないです。
神様という存在を軽く見てはいけないということであります。

受けた恵みに心から感謝して、この神様から絶対に離れないで信頼するならば、主は喜んでくださいます。


私たちが悔い改めをするのは、不義な者に対して神様の懲らしめがあるからなのです。

地上の小さなものばかりを頭の中に入れておいて、神様の存在を遠いところに投げ出して形式的な信仰生活をしているならば、後で 主の手の中で潰されます。

今回の言葉はしっかりと心に留めてください。これは忘れてはいけないことであります。
神様の道が一番安全であり、命の道、将来が保証される道であります。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2013.10.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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十字架中心の信仰とは?

テーマは『 十字架中心の信仰 』です

【Ⅰコリント1章17-24節】

キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

パウロがこの手紙をコリント教会に書きましたが、2000年も前の時代であります。
当時、ギリシヤは世界の文化の中心地のようなところでした。
哲学はどこから出たものでしょうか?
多くはギリシヤから出て来ています。
最も有名なのは、ソクラテスであります。世界や人間に対して根本的な思想は何かと追及するものが哲学です。

ギリシヤ人は日々、そのようなことで論争をしていました。
そして、ギリシヤ人はそれを誇りにしていました。
「わたしたちはこの思想によって生きるのだ」と人々の価値観になりました。

ギリシヤ神話がありますが、数えきれないほどの神々がいて神殿が建てられています。
そこに出てくる神々の名が、今も多くの人々が知っています。
ゼウス、ポセイドン、アポロなど、あまりにも多すぎて覚えきれないほど全てのものに神々がいます。
花の神、建築の神、空の神、太陽の神・・・etc
そして、その神々が戦っています。このように、たくさんの神がいることを彼らは誇りにしていました。

しかし、最近のギリシヤはどのようになっているでしょうか?
世界中にギリシヤの国が恥を受けています。
経済的危機があり、今まで誇りにしてきた思想などは何の役にも立ちません。

本当に苦しい時に何の救いにもならないです。そのような虚しい姿を世界中に見せています。


日本にも、そのようなことがあります。「サムライ精神」という言葉があります。
この言葉はよく使われ、オリンピックでメダルを取った時にも言われます。

しかし、このサムライ精神とはどのような意味でしょうか?

この言葉には良いイメージで使われますが、もし私たちにサムライ精神があったとしたら生きられないと思います。
自己犠牲がありますが目的はないです。一体誰のための自己犠牲でしょうか。
サムライ精神には、仏教や神道や色々な教えが混ざっています。
「命に執着しない」、「君主に対する忠誠心」、「逆境の中でも動じない」、「己に打ち勝ちなさい」と書かれています。
1つ1つの言葉は立派な言葉かも知れませんが、そこには善悪という意識がないです。

聖書は善悪の思想がとても強いです。「良いものは良い、悪いものは悪い」です。
しかし、サムライ精神にはそういうものは無いです。「尊いものは尊く、卑しいものは卑しい」と、上下関係が
あります。

人間は辛い時は泣きたいですし、わめきたい時もあります。
しかし、サムライ精神は 自分の内の中に納めます。そうすると心の病になってしまいます。

ですから、このような思想を持って生きても虚しいものであります。

もしも「サムライ精神をあなたの価値観にしなさい」と言われたら、私たちは遠慮すると思います。

このように国々には それぞれの価値観があります。
長い間、先祖から伝えられてきているので、綺麗ごとになっています。
しかし実際にそれを持って生きていたら満足がありますか?
「私は救われた」という思いはあるでしょうか?―― きっと満足しないと思います。




十字架中心の信仰とはどのようなものなのか、クリスチャンはもっと知らなければならないと思います。

パウロは律法に対しては、立派な知識を持っていました。
元々、彼はイエス様に良いイメージを持っていませんでした。そして偏見の度が普通の人とは違いました。

迫害してきた者の先頭に立っていたのがパウロでした。
しかし、蘇ったキリストに出会って、自分が持っていた価値観が一瞬にして崩れ落ちました。
目が開かれ悟りが来ました。私たちは悟りが来ないと、十字架の価値が分からないです。

それからパウロは変わり、(福音を)伝える側になりました。そして今までの価値観を全て捨てました。

パウロが心掛けたものが、2つありました。
1つは、人間の知恵では絶対に語らないということでした。以前 持っていた知恵は愚かなものだということが分かり、
人間的な思いで十字架を絶対に伝えないと思っていました。


【Ⅰコリント2章1-2節】

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

どのような言葉を人々から聞いても、十字架につけられた この方以外には絶対に語らないと決心しました。
人々はパウロ自身が持っている学歴や知識を聞きたいと思っていましたが、パウロは一切語りませんでした。

以前は(学歴や知識を自身の)誇りに思っていましたが、全部捨てて福音を宣べ伝えていきました。
そうすると神様はパウロをとても用いてくださいました。

私たちは、知識や知恵や力がある人もいますが、それらのものが自分の力だと思っているならば、
後に限界を感じます。

そして虚しさや壁にぶつかり、自分が持っていた価値観は何だったのだ?とギリシヤ人と同じ思いになります。
それらのもので自分の人生が素晴らしいものになると思っていたのに、結局最後に手に入れたものは虚しさだけで、
それらのものでは解決できないことが色々とあったのです。

しかし私たちがキリスト教のイエス様の十字架に初めて出会った時に、今まで聞いた価値観とは違うことを感じ、
「これは一体どういう価値観だろう?」という思いがあると私たちの心が開かれていくのです。

キリスト教の中心はイエス様の十字架です。そしてイエス様の十字架の中心は「救い」であります。

他の宗教との差は、救いの部分です。

イエス様が私たちに最も語りたい部分は、
「罪人である あなたがその罪のまま生きるならば、あなた自身がその罪からくる報いを自分で刈り取らなければいけないよ。罪からくる報酬は死であり、永遠の滅びである。救われなければ、あなたは天国へ行くことが出来ない。」ということです。


【Ⅰペテロ2章22-25節】

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

キリストは罪を犯したことがないです。
ですから私たちが犯した罪を、キリストが代わりに全部背負って清算することが出来ました。

「罪人のあなたたちが、あなたがたのために死んだわたし(=キリスト)を信じて受け入れるならば、
あなたの罪は許される。」 これが救いであります。


キリストを信じていない人々に聞きたいことは、あなたが信じている神はあなたにとってどのような方ですか?
あなたの魂を救う方ですか?あなたを愛する方ですか?あなたを助ける方ですか?あなたを守る方ですか?
みなさんもそれを聞いてみたら良いと思います。


私が出会った神様はこのようなお方です。

私の魂を救ってくださいました。私の罪を赦してくださいました。今も私と共におられる方です。
現在もこれから先も私を助ける方です。そして天の御国まで導いてくださる方です。

聖書の中に神様がご自分のことを啓示してくださいましたし、その方は今も生きていて、
私たちの祈りを聞き、私たちを導き、恵みを与えてくださる方です。
ですから1人で歩いているように見えても、決して1人ではないです。いつも共にいてくださり慰めてくださいます。

私たちは損が多かった人生でしたが、キリストに出会って力を受けました。救いを受けて恵みを受けて真理を知り、天の御国に入る希望が得られました。
キリストに出会えたことは何と素晴らしいことでしょう。




また、十字架の信仰を持って生きるとはどのようなことでしょうか?


【ガラテヤ2章20節】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

誰が自分の中に生きているのかということです。
イエス様が自分の中で生きているようにするためには、古い自分を十字架につけなければならないです。
古い自分ということは、間違えた価値観・思想です。
もう 今までの思想では生きないのだということです。肉体が死ぬことではないです。
それらのものを完全に捨てて、その場所に自分のために命を捨ててくださった十字架のキリストを立たせることであります。
そして、その十字架を見上げます。

キリストからのメッセージ、キリストからの力、キリストからの恵み、それによって私たちは生きる者になります。

私たちは自分に言い聞かせて、新しい価値観で生きるのが十字架中心の信仰です。 (⌒∇⌒)

2013.10.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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十二弟子の選びと伝道活動

テーマは『 十二弟子の選びと伝道活動 』です

【マタイの福音書10章1-15節】

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、

熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。

病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。

旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も 持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。

その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。

その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。

もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。

まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

イエス様が十二弟子を選びましたが、どのような目的で彼らを選んだのでしょうか。

イエス様は力ある神様でもありますので、ある意味では人の手がいらないかもしれないです。
1人で全部できるお方でもありますが、なぜ十二人の使徒たちを選んだのでしょうか。
そして私たちをイエス様はなぜ選んだでしょうか?
目的なしに人を選ぶことはないです。

一番の目的が、次のみことば箇所に書かれています。


【マタイの福音書9章36-38節】

また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

だから、収穫の主に、 収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

魂の収穫のための働き手として まず彼らが選ばれました。
羊飼いのない羊のように弱り果てている魂があまりにも多いので、働き手が必要なのです。
イエス様が1人で世話をすることができないのです。

魂の状態をイエス様が見ておられて可哀想に思ったので、十二使徒を先に選んでくださいました。

使徒とは「遣わされた者」という意味があります。主人のメッセージを受けて、それを持っていく人です。
収穫のための働き手は、今もっとも必要であります。


【マタイの福音書10章1節】

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

ですから「私には力が無いので出来ないです。」という言葉は違うのです。
神様に私たちが選ばれた時には、その力が自分たちに与えられているということを認識しないといけないです。

(力が)あると思って働きをする人と、私にはそんなものは無いから出来ないという人では全然違います。
自分たちが持ってあると思うならば大胆に働きができます。大胆に悪霊を追い出そうとすると悪霊は出て行きます。
「私は何も(賜物を)もらっていない、そんなに長い訓練を受けていない、まだ知らないことがたくさんあるので」
と言うのは、関係のないことなのです。

私たちは種として貰っているので、私たちがそれを使えば花が咲きます。使えば収穫することが出来ます。


私たちは、選ばれた十二弟子の姿を見ていますが、1人として立派な経歴や知識があったり知恵がある人は
誰もいませんでした。ほとんどが、漁師出身、学校に行ったことがない田舎者、しかし神様はこういう人たちを
福音を伝える人として選んでくださいました。

これが世の働きであるならば、このような人たちではなく 違う人を選ぶと思います。

しかし、福音は魂を刈り取る 倒れている人たちを可哀想に思って助ける人たちです。
ですから見る観点が違います。

神様は 福音を語る人は献身する人たちを選ぶのです。従順し、主の言葉通りに動く人を選びます。

完璧に出来上がった人たちを選ぶのではないです。弟子たちの姿を見ても失敗はたくさんありました。
しかし他の者を選んでいたら、だんだん高慢になって主の働きではなく魂を自分たちに仕えさせてとんでもない者に
なったと思います。

イスカリオテ・ユダ以外、彼らは本当に良い羊飼いになりました。


【マタイの福音書10章5-6節】

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

イエス様はユダヤ人のためだけの救い主ではなく、全世界の人々のための救い主であります。

まずは先民たちが救い主を分かっていないので、まず彼らから救われて欲しいとイエス様は願っていました。
福音はユダヤ人から始まり、ギリシヤ人、そして全世界に広がっていきました。
サマリヤ人の町に入らないように言ったのは、彼らが純粋なユダヤ人ではなかったです。ですから、イスラエルの
家を失われた羊のところへ行き福音を伝え、そこから全世界に出て行きなさいと語りました。

しかし、実際にはユダヤ人たちは福音を素直に受け止めたでしょうか?― そうではなかったです。

イエス様は3年間伝えましたが、素直な気持ちで受け取らず迫害しました。
使徒たちによって異邦人に福音が伝えられた時に 異邦人の方が素直に福音を受け入れたので リバイバルが起こりました。

神様がおっしゃるのは、まず あなたの家族、あなたの親族、あなたの友達に福音を宣べ伝えなさいということです。
そして、それを越えて宣教へ出て行き多くの人々に福音を伝えていきます。
これがイエス様が語っておられる伝道する時の順番であります。

祈りながら時が良くても悪くても、みことばの種を落していくことです。
ただ、「イエス様を信じなさい」と言うよりも福音が語る良い知らせをたくさん伝えることであります。


【マタイの福音書10章7節】

行って、『天の御国に近づいた』と宣べ伝えなさい。

素晴らしい祝福であります。それを相続するために準備をしておきなさいということです。
福音はそういうものであります。

私たちが福音を語る時に、地獄があることを先に語ってはいけないです。
そうではなく、天国があるということから語ります。このような祝福があるのだと先に伝えます。
メシヤが来ることは祝福であります。
天の御国に入るには、汚れたままではなく今まで犯した罪を悔い改めないといけないです。
悔い改めてイエス様を受け入れたら天の御国に入れると伝えることなのです。
複雑な言葉は救われた後に伝えます。何も知らない人たちには、天国があることを伝えるのです。

世の終わりが近付いていますので、周りを見ると不安材料(災害や戦争など)があります。ですから語りやすいです。
たとえ命を失っても天国に入れるので大丈夫だということを伝えるべきであると思います。


【マタイの福音書10章8-9節】

あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい。

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。

これは手ぶらで行きなさいという意味ではないです。

主が与えた色々な賜物があります。
病人を癒す力、死人を生き返らせる力、悪霊を追い出す力などがあり、これを主の福音のために私たちが使っても良いのですが、金儲けのために使ってはいけないのだと語っています。
ですから「ただで与えなさい」と書いてあるのです。

実際にそれらを用いて金儲けをする人たちもいるのです。
世の中の宗教は1回祈るのにお金を支払わなければならないです。
商売ですから、神社やお寺には金額が書かれています。とても高い金額です。


しかし、私たちクリスチャンはそういうもので商売をしてはいけないと神様が語りました。
働く者が食べ物を与えられるのは当然だからですという言葉があります。
ですから人ではなく、神様に頼りなさいということです。
神様が導いてくださり、そこで人々の心を動かして相手から「どうぞ入ってきてください。」「どうぞ食べてください。」
「どうぞこれを使ってください。」というのは素晴らしいことですが、自分のほうから要求してはいけないということであります。

神様は、きちんと働く人たちに対しては祝福を備えてありますし、もてなす人々に対しても祝福を備えてある方であります。


【マタイの福音書10章40-42節】

あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、 わたしを遣わした方を受け入れるのです。

預言者を預言者だというので受け入れる者は、 預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに 告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

福音のために働く人たちを私たちは尊敬し受け入れ、その人たちの世話をすることは祝福に繋がることであります。

また、自分たちもそういう者にならないといけないです。
「誰かが働くだろう」ではなく、何のために神様が私を選んでくださったのか
収穫の中で働く者として私は選ばれていると、今 私が伝えなければ誰が伝えるのだ、という認識です。

私たちは主の言葉に従って、弱り果てている人たちのところへ行き、福音を大胆に伝えるべきだと思います。
(・◇・)ゞ

2013.10.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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霊的生活は どう破滅するのか

テーマは『 霊的生活がどう破滅していくのか 』です

【へブル2章1-4節】

ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。

もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、

私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、

そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。

神様によって救いだされた人々は、新しく生まれた者ですので当然のように成長していかなければならないです。

霊的生活をしながら成長していかなければならないです。
しかし、成長せずに生まれたままの姿で自分は大丈夫だと思っているならば、その人はいつかは神様に背を向けて堕落していく危険がとても多いです。すると当然の処罰を受けるようになります。

私たちは、救いを受けたならば その救いは自分が持っているものの中で一番優れたものであるという認識が必要です。

この認識がないと、素晴らしい救いをないがしろにしてしまうのです。
本当に価値あるものは誰もないがしろにしないと思います。
しかし救われたのに、救いに対して価値を知らないと ないがしろにします。自分の思いのまま生きるのです。


そうなると、みことばから離れていますので押し流されて霊的に漂流する者になります。
しっかりと希望の港に留まっていないといけないのですが、勝手に動き出すのでいつの間にか広い海へ流されて
どこへ行くのかも知らないで、戻ろうとしても戻ることが出来なくなるのです。

救いはイエス様の中にしかないので、自分が勝手に神様から離れて他のところで「救ってください!」と叫んでも
誰もそこから救い出すことが出来ないです。


私たちは神様が願う信仰の実を結んでいかなければならないです。しかし、私たちは救われただけで
洗礼を受けただけで安心して何もせず、神様の前にも来ないで、みことばも読まず、祈りもしないで、霊的生活を
一切しないならば、その魂が実を結ぶことは有り得ないです。

世のことはだんだん好きになるのですが、みことばを読むのはだんだん面倒になります。
そして堕落する生活をするようになります。それが霊的堕落に繋がっていきます。

クリスチャンだから、救われたからと言って全員が天国に入るのではないです。
救いをないがしろにするならば当然のように処罰を受けることが、このみことばに書かれています。
誰もがその危険性があります。十二弟子もイエス様を一時的に見捨てました。




【へブル3章7-11節】

ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」

心が頑なになって、みことばに従わない姿勢は、不信仰の心であります。頑なな心は従順しない心です。

クリスチャンが生きる目的は主です。イエス様のために生きる道なのです。

私たちは自分の考えで生きる者ではないのです。自分の考えで生きるのは肉に属しているのです。
しかし神様の子どもになったのなら、主人が誰なのか、主の言葉が一番なのです。
ですから、頑なな心は砕きなさい。それはあなたの魂を滅ぼすものであると語ります。


【へブル5章11-13節】

この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。

あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。

【へブル6章4-8節】

一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、

神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、

しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。

しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。

成長しないのは怠けているからなのです。

成長することに関心がなく、怠けている人たちは、みことばを聞いても耳が鈍いです。
反応しない耳になっています。

成長したいと願う人は、いつも耳が開いていて神様の言葉を1つも漏らさず、
聞いて実行し自分の栄養にして成長する気持ちが強いです。

聖徒は自分のためだけではなく、主のため、教会のため、人々のためにも霊的に成長しなければならないです。
そのために努力をしなければならないです。

努力をすることの基本は、まず みことばを食べることであります。
みことばを食べる人はどんどん大きくなっていきます。




【へブル10章26-31節】

もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。

心が悪くなって罪を犯し、みことばをあざける人たちの姿です。

これは神様を信じていない人の姿ではないです。神様を信じていない人は、神様を裏切るということもないです。

つまり「真理の知識を受けて後」ということは、神様を知っている者たちの姿です。
悔い改めないで良心までも麻痺されて罪を犯しながらも 平気に生きているのです。
そして口先だけで「神様、赦してください。」と言いますが、生活そのものは立ち返っていないです。

イエス様は罪のいけにえになって十字架にかかりました。その十字架にかかったイエス様を無視し続けるならば、
誰が自分のための仲介者になるでしょうか?―― 誰もいないです。
誰もいないので滅びるしかないです。




【へブル12章25節】

語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。

神様の言葉は福音であります。たとえ警告の言葉であっても、私たちの魂にとっては良い知らせなのです。
その言葉を聞いて私たちが立ち返るならば、自分の命を守ることができます。

神様は必ずみことばに書かれた通りに裁く方であります。




霊的堕落を止めるために

  • 真理の言葉に対して正しい知識と信仰を持つべき
  • みことばを正しく悟って、みことばの上に堅く立って日々の信仰生活をすることが大切
  • 罪の誘惑を断ち切らなければいけない

神様が願う道から離れて自分の思いのままに生きるのが堕落であります。
自分の中から出て来る誘惑もあります。

間違えた悪い考え、頑なな心、毎日の罪の習慣、これをし続けるならば滅びてしまいます。

これらを潰していかないと、サタンがそのにおいを嗅いで近寄ってくるのです。


【へブル3章13節】

「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

心が頑なということは、罪に誘惑されているのです。
神様の言葉を握っているなら心が頑なにはならないからです。


【箴言4章14-15節】

悪者どもの道に入るな。悪人たちの道を歩むな。

それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。

このように語るのは、罪が誘惑をするからです。誘惑される場所に近寄らないことであります。
小さな誘惑でも私たちは断ち切ることが大切です。

堕落するならば、永遠の刑罰があることを覚えなければならないです。

自分が今、いばらとあざみを生えさせているのか、それとも神様が喜ぶ実を結んでいるのか、
自分の姿を見たら分かると思います。

神様は、成長して実を結んだ人だけを安息に入れるのです。これを忘れないようにしましょう。 (⌒-⌒)

2013.10.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神様から喜ばれる人、嫌われる人

テーマは 『 神様が喜ぶ人、神様が嫌う人 』 です

【詩篇5編1-12節】

私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。

私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。

主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行うすべての者を憎まれます。

あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。

しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。

彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。

神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らしてください。彼らはあなたに逆らうからです。

こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。

愛の神様が人間を造りましたが、神様はすべての人間を愛するわけではないです。
人間も、神様を知っていてもすべての人が神様を愛するわけではないです。

聖書には神様の祝福がたくさんありますが、その祝福も誰もが受けられるわけではないです。
神様は、その人を喜ぶ時に祝福を注ぎます。神様が忌み嫌う人にはそのような祝福が注がれることはなく、
その人たちが望んでいなくても滅びが来ます。

詩篇5編はダビデが書きましたが、ダビデは神様の目に喜ぶ者でした。彼の中に神様が喜ぶものがたくさんありました。

信仰は、神を神として認めることで、心に受け入れる人です。神を神と思って仕える人です。神を恐れる人であります。
そして主の前に出て礼拝を捧げる人で、神様を愛する人です。

自分が神様を信じると言いながら、神に対する愛も恐れも従う心もなく、神様を喜ばせようという思いもないならば、
それは死んだ信仰であります。

信仰がある人は自分には頼らず神様に頼ります。
神様は、その人が頼る姿を見て「この人にはわたしに対する信仰がある」と映ります。
ダビデもそうでした。巨人・ゴリヤテと戦う時にダビデが誰に頼っているのかを知ることができます。

ゴリヤテは神を知らない不信仰な者でした。


【Ⅰサムエル17章45-50節】

ダビデはぺリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私はおまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ぺリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。

この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

そのぺリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ぺリシテ人に立ち向かった。

ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ぺリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このぺリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このぺリシテ人を打ち殺してしまった。

ダビデに力があったのではないです。
相手のゴリヤテはすごい武器を持っていました。しかし、ダビデは初めから勝利を宣言していました。
ダビデは1つの石に頼ったのではなく、神様に頼る姿があります。


【エレミヤ書17章5-8節】

主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

主に信頼する者と、主に信頼しない者には、このような報いがあります。
神様に信頼しない者は、神様は忌み嫌います。


【詩篇5章7節】

しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。

【詩篇5章12節】

主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。

戦場でダビデが戦った時も、彼の身には盾1つなかったですが、神様は大盾で彼の命を守りました。


【詩篇4章5節】

義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。

人に信頼するのではなく、聖徒たちはその信仰によって主に拠り頼みなさいということです。


【詩篇2章12節】

御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。

「幸いなことよ。」ということは、神様に祝福されているということです。

世の終わりが近付いていることは、どの時代でも言われますが、今は本当に世の終わりなのです。
災いがありますが、私たちは自分の力で避けることはできないです。
しかし、神様が1つ安全な場所があると語りました。主に身を避ける人は幸いです。


【詩篇5章11節】

こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

ダビデには敵がたくさんいました。その敵は異邦人ではなく同じ国の者であります。
妬みや高慢な者たちはいつもダビデを殺そうとしました。しかし神様はその手には渡さなかったです。
なぜなら、ダビデを殺そうとする者たちは悪者だからです。

私たちはただ「祝福してください。」と祈り、実際の生活は神様に嫌われることばかりをするなら、
どんなに祈ってもそれは無駄な祈りになります。

言っている言葉と行動が全然違うものならば、神様はそれに騙されるでしょうか?――それはないです。


【詩篇5章4節】

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行うすべての者を憎まれます。

神様が忌み嫌う人です。神様が嫌うことは、十戒の言葉を思い出してください。
イスラエルの歴史の中で、列王記・歴代誌を読むと興味深いことが書かれています。

初代王はサウル王でした。彼は最初は良い者でした。しかし段々不信仰になって、悪い者として終わりました。
神様が彼から離れました。悪を行った瞬間に聖霊様が出ていき、悪霊が入ってきました。

次に立てたのはダビデでした。ダビデは良い王様でした。その息子がソロモンでありますが、
ソロモン王も良い王様でした。ほとんどの部分は良い王様でしたが、女に溺れて偶像崇拝をした者でありましたが、
最後には悔い改めた者であります。悔い改める姿は伝道者の書を読むと分かります。

ソロモン王の息子、レハブアムからイスラエルの国が分裂王国になりました。
北イスラエルと南ユダの町が出ていきました。
南ユダには20人の王様がいました。そこで神様が語る言葉があります。


世の中では、その人の業績を見て評価するのです。しかし神様は一切それでは評価をしないです。
神様の評価は、彼が主の前で悪を行ったのか、主のみこころに適うことをしたのか、これが基準です。
ですから1人1人の王様に対して神様は語りました。
「彼はダビデのようではなかった。主の前で正しいことを行わなかった」神様の前で悪を行ったのか、善を行ったのか、
神様が言う善とはダビデのように行ったのかを見て、ダビデは一生神様と心が1つでした。
罪がない訳ではなく、罪を犯した時も灰をかぶって神様に悔い改めて神様だけを見ていました。

20人の王様は誰一人 神様の目に適う者はいませんでした。全員が悪でした。

南ユダでは悪い王様が20人中14人でした。その他の王様が全て良かったかというと、そうでもないです。
まぁまぁ良かったのは7人ですが、初めは良くても後で悪くなった王様もいます。
それでも南ユダのほうが良かったです。

悪が満ちると必ず神様は潰していきます。悪を喜ぶ神様ではないです。
それを見た時に私たちも同じことなのです。
主の目の前で私は悪い者なのか、それとも主のみこころに適う者なのか。
奉仕をたくさんしたから良いのではないです。

高慢な者たちはゴリヤテのような者です。自分の力に頼って偉そうに自分が死ぬことも知らないで、
高ぶる者は神様は必ず倒れると語りました。
私たちは神様の前では謙遜な者でなければならないです。

神様に拠り頼む人は謙遜な者なのです。小さなことでも拠り頼みます。問題があれば神様に祈ります。
自分の知恵に頼らず、力に頼らず、周りの人にも頼らず、権力にも頼らず、主に頼ります。

しかし誇り高ぶる者は、誰にも頼りません。


【箴言6章12-19節】

よこしまな者や不法の者は、曲がったことを言って歩き回り、

目くばせをし、足で合図し、指でさし、

そのねじれた心は、いつも悪を計り、争いをまき散らす。

それゆえ、災害は突然やって来て、彼はたちまち滅ぼされ、いやされることはない。

主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。

高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、

邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、

まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者。

こういう者は主に忌み嫌われます。私たちはみことばを照らしてみて自分の姿を見なければならないです。


【詩篇7章11-13節】

神は正しい審判者、日々、怒る神。

悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、

その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

神様がすぐに私たちにしないのは、悔い改めて欲しいからです。悔い改めるチャンスを与えているのです。


【詩篇32章10-11節】

悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。

正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

【詩篇33章18-21節】

見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

多くの人は、愛の神様なのに「どうしてこんなに厳しい事を」と思いますが、
神様はこのようにすると、こうなると初めから教えているのです。
ですから、(それを聞いていたのに)違反をして悪を行った者が悪いのです。

私たちが神様から喜ばれる者として生きているのか、自分勝手に嫌われることばかりをして呪われているのか、
2つの道から1つを選択しなければならないです。その中間の道はないです。

自分が蒔いた通りに神様が正しく裁くので、自分がやっている事は神様が喜ぶことなのか、それとも自分自身は喜ぶけれど神様に忌み嫌われることをしているのか、それは判断できると思います。

その判断をしながら神様に喜ばれる者、みこころに適う者になって神様が用意している祝福・恵みを受けて欲しいです。 (´ω`)ノ

2013.9.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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