からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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2013年09月

使徒パウロの同労者

テーマは『 使徒パウロの同労者 』です

【ローマ16章1-7節】

ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。

どうぞ、聖徒にふさわしいかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。

キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。

パウロは たくさんの働きをした人であることは、誰もが知っています。
彼は十二使徒たち以上の働きをし、偉大な人物でした。

しかし、どんなに偉大な人であっても、聖霊の力を受けた人であっても、1人ですべてをこなすことは出来ないです。

パウロの仕事の陰では、多くの人々の協力がありました。
すべて平信徒でした。この人たちはイエス様が働いたように働いた人々であります。

パウロの同労者には テモテ、バルナバ、ルカなどは聖書に度々出てきます。

今回は私たちがあまり聞き慣れていない名前ですが、その人たちのことを考えてみたいと思います。
パウロにとって とても大切な仲間たちであります。




【ローマ16章1節】

ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。

≪フィベ≫… 女性の執事です。教会での執事は、信徒たちの中で一番働きが多い者であります。
神学校へ行くのが献身ではなく、執事と任命されるのは「教会であなたは主に一生懸命献身しなさい」ということです。
あらゆる仕事をして教会をたてていく者です。
パウロが「この人を推薦する」と言ったのは、それは「認められた人」ということです。
私たちは信用できない人を人々に推薦することはできないです。
また、パウロにとってフィベは、パウロが伝道で出て行くことが多かったですが、そのための経済的援助をしました。
惜しまずに神様の働きのためにパウロに捧げて助けました。他にも、困った人たちに対しても彼女は助けました。
とても親切で心の優しい者でした。

人を助ける人たちは、優しい人でないと助けることができないです。
自分のことしか関心がない人は、他人を助けることはしないです。
心優しい人は、他人に関心があり、愛があります。彼女はそのような者でした。
奉仕をする時も、お金だけを捧げて偉そうにしたのではなくて、一生懸命に仕事をし献身しました。
また、フィベは従順で みことば通りに動く人でした。
私たちはこのような姿を学ばなければならないです。




【ローマ16章3-4節】

キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

≪プリスカ とアクラ≫… 夫婦であります。「使徒の働き」の中にはこの人たちの姿が何度も出てきます。


【使徒の働き18章1-4節】

その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。

ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、

自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。

パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。

【使徒の働き18章24-28節】

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。

この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。

そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。

彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。

プリスカとアクラは、パウロを招いて一緒に生活をしていました。
聖書の中で、一番理想的な夫婦の形は、この2人です。
夫婦が同じ神様を信じ、一緒に協力して素晴らしい働きをしました。

1年6ヵ月間パウロと生活をしました。その中でパウロは、夫婦に聖書のことをよく教えました。

そして、この家を解放して教会にしていました。この夫婦はパウロによって、みことば充満、聖霊充満になり
聖書の知識が多いアポロよりも この夫婦の方が霊の目が開かれていて彼より上でした。
アポロは知識だけでみことばを伝えましたが、彼に欠けているものを明確に知り、招き入れて聖霊によって働きをすることを教えました。

どれほどこの夫婦が、神様やパウロに献身的であったかは、パウロがコリントからエペソへ移動した時に、
この夫婦も引っ越し パウロについて行き、そこでもパウロを支えたことで分かります。


【ローマ16章4節】

この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけではなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

命を懸けてパウロと共に働きをしました。これはすごいことです。たとえ命に関わることであっても、
逃げることをしませんでした。

神様の働き、すなわち霊的なことと肉のことを、私たちはハッキリと区別をしなければならないです。
私たちは生活をしていますので、色々なことがあります。
しかし問題に引っかかる度に「神様の働きを辞めたい。今はそんなことをしている場合ではない」となると、
その魂は死んでいきます。その(肉の)問題は自分で精一杯努力をして解決していくものであります。

神様の働きは変わらないです。
自分たちが生活をしていることを 全て神様の働きに引っかけて神様の働きを辞めていくならば、
サタンはいつでもその人に問題を与えるのです。完全に働きが出来ないようにし、信仰が離れていきます。

神様の働きがあるので、今まで守られてきたのです。
「神様の働きは絶対に辞めることができません。ですので、色々な邪魔をする問題を早く解決してください。」と神様に助けを求めるのが良いです。
神様の働きを辞めたら楽になるということは絶対にありません。辞めると神様の助けがなくなります。

プリスカとアクラはパウロを守る為に自分たちが前に立っているのです。
このような人たちが 神様が祝福する人であります。

自分たちの家で礼拝をすることは、神様の恵みなのです。
私たちクリスチャンは何が一番大切かと言うと、霊的祝福ほど大切なものはないです。
それはいつまでも残るものです。
私たちはいつまでも残るものを手にしていなければ、ラオデキヤ教会のような霊的姿になります。




【ローマ16章5節】

またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

≪エパネト≫… 性別は分かりませんが、パウロがアジヤで伝道をして最初に信じた人です。
パウロの心にすごく残っている人物です。

しかし、それだけではないです。なぜここで、この人を語るのでしょうか―?

この人は救われただけではなくて、その後 立派な働き人になったからです。これはとても大切であります。
救いを受けても その後はどのようになっているのか分からない人が、世の中には大勢います。

しかし、救われたその時から信仰が成長して 神様の働き人になることは一番理想的であります。
救われた人が熱心に働くほど、主のしもべたちを喜ばせる姿はないです。




【ローマ16章6節】

あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。

≪マリヤ≫… 名前通り女性であります。信徒たちのために非常に労苦をしました。
熱心に自分の身体をもって奉仕をしました。旅人をもてなし、人々に食事の用意をし、苦しんでいる者を慰め、
お祈りをし、常に生活そのものが教会と信徒たちに関心があって生活をしてきました。

自分を犠牲にした立派な姿であります。このような人達がパウロを支えていました。




【ローマ16章7節】

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。

≪アンドロニコ とユニアス≫… ユダヤ人です。祈りと霊的戦いにおいてパウロのパートナーであります。
異邦人は全て偶像崇拝をしていますので、そこで福音を伝えると当然のように迫害を受けるのです。
ですから先頭に立って、パウロと一緒に捕らえられた者たちであります。
教会の奉仕には色々な戦いがありますが、このように霊的戦いを共にする人もすごく必要です。
とりなしの祈り、戦いの祈り、一緒に出て行って闘う働きをシラス、バルナバ、ルカ、マルコもこのような働きをしました。

ですから一緒に捕らえられて牢の中に入れられたこともたくさんありました。
自分たちの生活があるにも関わらず先頭に立っていました。

天国へ行った時にパウロだけ祝福をたくさん与えて、この人たちには祝福を少しだけ与えるということはないです。
神様の目から見たら同じなのです。名前の問題ではないです。
「使徒だから」、「平信徒だから」ではなく、命を懸けて働く姿は同じ姿であります。
パウロはそれを知っている者でした。




牧師であるのに仕事をしない。
牧師であるのに何もしない、遊んでばかり、寝てばかり、聖書も読まない、祈りもしない。
そのようは人たちもいるのです。

また、信徒だからといって「別に私たちはしなくて良い」と言って寝ている人、何もせず逃げてばかりいる、
このような人は神様はどのように見ているでしょうか―。
怠け者、使命を果たさない者、自分のタラントを土に埋めた者、自分の教会が苦しんでいるのに関心もない者です。


パウロは次のように語ります。

ローマ16章19-20節

あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。

これからも良い働きに励みなさいということであります。
今している働きは素晴らしい働きだからと高慢になってはいけないです。
過去のことを人前で誇って、働きをしなくなるのはいけない と、これからも良いことをし続けなさいと言っています。
悪に無関心になることが良いとパウロが語っています。

私たちがサタンに「出て行け」と言うから、サタンが私たちの言葉を恐れて出て行くのではなく、
私たちが従順して主が喜ぶ働きをずっとしていくと、神様がそれらのものを踏みつけてくださるのです。
サタンは私たちの力で踏まれるのではなくて、主が私たちを通して働きをしてくださるので踏みつけられるのです。

踏みつけられるということは、サタンが私たちを倒すことができないということであります。

立派に献身して働く人たちに サタンはどうすることもできないです。その人と神様の関係が平和です。

神様がその人を尊く用いてくださるのです。

今、使徒パウロは ここにはいませんが、聖霊様が働いておられます。
私たちは聖霊様の同労者にならなければならないです。
そして牧師や信徒たちが一緒に働きます。一緒に働くことで、一緒に良いものを神様から受けるようになります。

信徒と一緒に心を痛める事、教会に問題がある時に一緒に祈ること、問題がある信徒と一緒に祈ることなど
協力して初めて良い働きが出来るのであって、1人で全部しなさいと言ったら絶対に無理であります。

それを私たちは みことばを通して、いつか神様の御前に立った時に報いを受ける人になってほしいです。
今、振り返ってみると、あの時に神様から離れないで献身して一生懸命働いたことを良かったと思う日が必ず来ると思います。 (^∀^)

2013.9.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主の働きのヒント

テーマは『 主の働きのためのヒント  』です

【ヨハネの福音書5章17-20節】

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。

それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。

イエス様からヒントを得ることができます。

主に召された者たちは、当然のように働き人としての働きもあります。
救いだけ受けて「私は何もしません。世の仕事で忙しいです。自分の人生計画が優先です。」というのは、
相応しくない姿であります。

イエス様はこの地上に遊びに来たのではなく、天国から地上に仕事をしに来られたのです。
その仕事は、父なる神が計画した救いの働きをするために、神の代理人として地上に来られました。
父なる神様が「計画」し、イエス様が「実行」します。
これが三位一体の神様のそれぞれの分担であります。

イエス様は父から命令を聞きます。「父のみこころを行うために わたしは来た」とおっしゃっています。
イエス様に従っていく者たちは、イエス様からそのノウハウを学ばなければいけないです。

「自分で考えた方法があるので、私はその方法でやります。」と言うのは、その時点でピントが外れています。




①父が働くので わたしも働く

基本的にイエス様は、「父が働く時に わたしも働き、父が休む時に わたしも休む」 と、
常に父なる神様から目を離しませんでした。

イエス様が働くので私たちも働くというのが基本であります。

【ヨハネの福音書4章34節】

イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

また、どのように働けば良いのでしょうか ――?


②神のみこころのままに働く

イエス様の働きの土台となっているのは、「みこころを行う」ということでした。
自分勝手に計画を立てて、勝手なことをするのではなく必ず父のみこころを行うために
私たちは祈りが必要であります。

祈りということは、神様に聞くことなのです。
「どうか神様のみこころを教えてください。私はどうしたら良いでしょうか?何をしたら良いでしょうか?」

働きをする時に、「神様、もしかしたら自分の中に勝手な思いがあるかも知れないです。
そして今、私の中には このような思いが出てきましたが 果たしてこれは主のみこころでしょうか?」
それを求めることなのです。

私たちは教会の働きや 神様と関連している様々な働きがありますが、
その時には必ずみこころを求めなければならないです。人々の命と救いに関することも同じです。

祈ることによって神様と一緒に働くことになるのです。

聖書でも 神様のみこころを求めなかった時は必ず失敗しました。
勝手に人口調査をした時はひどい災いが来ました。
ヨシュアも神様の導きを受けている時は勝利をしましたが、アイの町を攻める時には みこころを祈らなかったです。
勝手な思いで行動をしたので失敗をし 人の命までも失いました。

主の働きは、必ずみこころを聞いて みこころ通りにするのです。イエス様の働きがそうでした。

教会で 神様がそれをしなさいと言われたことならば、私たちは一致して働くと祝福があります。


③聖霊様の力を受けて働く

人間の力だけでは癒しや奇跡を起こすことは出来ないです。
では、どのようにしてイエス様は奇跡を起こしたり 悪霊を追い出したり 病人を癒したでしょうか?
それはイエス様ご自身も聖霊様の力を受けたのです。

【ヨハネの福音書3章34節】

神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

「神が御霊を無限に与えられる」 ということは、力なのです。
力を受けないと、私たちは知識があっても何も実を結ばないです。実とは「御霊の実」であります。
人間の力では御霊の実を結ぶことができないです。
主の証人として選ばれた私たちは当然のように聖霊の力を受けなければならないです。

聖霊を拒んだり、聖霊のことを語らない教会では、信仰に力がないです。そこで奇跡が起こることはないです。
その力を求めないので出来ないのです。

みことばが、力のある言葉になるには 油注ぎが必要です。それが聖霊の力であります。

私たちが主の働きをする時には、まず神様に 「この働きに必要な聖霊の力を私にください。」 と
祈ることであります。


④神の権威を受けて働く

【ヨハネの福音書10章18節】

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

イエス様はハッキリとおっしゃいました。
「わたしに力がないから命が取られたのではなく、自分から命を捨てるのです。」
これを裏付ける言葉があります。十字架に架かる前に何が起きたでしょうか―?


【マタイの福音書26章51-54節】

すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。

だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

ペテロがすぐに剣を出して相手にそのようにしましたが、イエス様がそれを止めました。
しかし次の場面を見ると、イエス様が自ら命を捨てる場面が出てきます。

イエス様はみこころを行うために地上に来られたので、十字架に架かることを初めから分かっていました。
それは権威なのでイエス様が決めることが出来るのです。
力がないので世の権威にひざまずいたのではなく、父のみこころ通りに歩みました。

私たちも働きをする際に、神様から権威をもらわなければならないです。勝手なことをしてはいけないです。
牧師になる者たちも、権威を神様から もらわなければならないです。
自らが出来るものではないです。しかし世の中では自ら牧師になる人もいるのです。

主の働きは、神様がその人に権威を捧げないと (権威というものが)実際に発揮されません。
聖書に偽預言者、偽働き人など たくさん出てくるのは、神様が認めていないことなのです。

私たちは神様から使命をいただかなければならないです。
神様が「あなたはこれをしなさい。」と言うならば、他の人が「あの人は資格がないのに・・・」と言ったとしても
関係がないです。私たちは主の権威の元でしっかりと仕事をすることです。


⑤主の栄光のために働く

【ヨハネの福音書17章4節】

あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

イエス様が働いた目的は、「神の栄光」でした。すべてのことは神の栄光のため 目的は1つでした。

働く人も素晴らしい働きですが、もともとそれを初めに設計する方は もっと立派なのです。
私たちは設計された通りに動く者でありますので、それが完成された時にはその方が栄光を受け取ることなのです。

神様の栄光とは、神様が喜ぶことなのです。私たちがどんなに汗を流して働いたとしても、
神様が喜んでいない働きならば、神様がそれを見て褒めることがないです。

勝手なことをすると、口では神様の栄光のためと言っても 自分がしたいことをしているので
栄光は自分のものになります。

人々に褒めてほしい、人々が認めてほしいという下心があるのです。
自分から出たものは全部 虚栄心・高慢があります。

神様のみこころがあるのに、それには従わないで 何故勝手なことを一生懸命するのでしょうか―?
自分の栄光がかかっているからです。
それは天国には報いが一つもないので神様の栄光にはなりません。

ですから、私たちは下心を捨てるべきです。みこころ通りにすることが神様が一番喜ぶことなのです。

イエス様が十字架の上で「完了した」と言うことは、それこそが神様の栄光なのです。
最期の瞬間まで主の栄光のために、父なる神様が自分を通して栄光を受けてほしいという目的で働きをしました。

教会での働きも「したくない」ではなく、主がしなさいと言うならば どんなことであっても忠実に働くならば
それを通して神様は同じ栄光を受けるのです。

「目立つ、目立たない」 は自分の目線であります。神様は隅々まで見ているのです。
神様から言われた所ではなく、違う所で何かをしているのなら、神様はその時からその人を見なくなります。
自分勝手に自分のために働く者。そうではなく、まったく目立たない所でも神様がそれを見て喜ぶならば、
神様はその人を通して栄光を受けます。


⑥父の御名によって働く

【ヨハネの福音書17章11節】

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

父の御名によって働きをするということは、その父から私は委任された代理人という意味です。

命令に従順するということです。少しでも違うことをしていたら、主の名がはずかしめを受けて汚れます。

「私はしもべとして働きます。主の名が汚れないようにします。」ということです。
ですから、私たちが仕事をする時も 「クリスチャン」 ということはキリストに属する者ですので、
クリスチャン1人が何か変な事をすると、キリスト教全体が傷むのです。

クリスチャンという名に相応しく生きましょう。

私たちが主の働きをする時には、その名が汚されないように、その名に相応しく働きをすることなのです。

今回学んだところが、主の働きのためのヒントを得る方法です。
聖書に全て出てきますので、私たちがその通りに働くならば、イエス様が語ったように私たちも完了し、
「主よ、どうぞ私の魂を受け取ってください。」と この世で勝利し、神様に栄光を捧げ、
安らかに主のもとへ行けると思います。
アーメン (*´∇`*)

2013.9.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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ダニエルに学ぶ勝利する信仰生活

テーマは『 ダニエルに学ぶ勝利する信仰生活 』です

【ダニエル書1章8-16節】

ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官(かんがん)の長に願った。

神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。

宦官の長はダニエルに言った。「私は、あなたがたの食べ物と飲み物とを定めた王さまを恐れている。もし王さまが、あなたがたの顔に、あなたがたと同年輩の少年より元気がないのを見たなら、王さまはきっと私を罰するだろう。」

そこで、ダニエルは、宦官の長がダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤのために任命した世話役に言った。

「どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませてください。」

そのようにして、私たちの顔色と、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、あなたの見るところに従ってこのしもべたちを扱ってください。」

世話役は彼らのこの申し出を聞き入れて、十日間、彼らをためしてみた。

十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。

そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。

ダニエルの光り輝くものは、彼の信仰です。
西洋の人々は、自分たちの子どもがダニエルのようになって欲しいという願いを込めて、ダニエルという名前を
結構付けています。

当時のダニエルは、少年でありました。そして悲惨な状況にいました。
イスラエルの民は戦争に負けましたので、バビロンに連れていかれた捕虜の身分でした。

もともとはそのような者ではなかったです。彼は王族の親族でした。なぜならば、ダニエル書1章3節に
書かれています。

王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエル人の中から、王族か貴族を数人選んで連れて来させた。

王族だった者が戦争に負けた為に転落し、奴隷・捕虜の身分になりましたので絶望的な人生に変わりました。
自分の思い通りに何も出来ない「自由」が奪われるのは、一番最悪な環境であります。

しかし、ダニエルがその中でも絶望して自分の人生を投げ出していないことが分かります。
普通ならば希望がないので投げ出してしまいます。
今の若者たちが自分の命を投げ出す一番の原因は希望がないことです。

ダニエルの姿を見て、学ぶことがとても多くあります。

多くの人たちが環境のせいにして、「信仰生活をしたいです。良い信仰をもって、成長したいです。
だけど身体が言うことを聞かないです。」と、ああだこうだと言って 結局「出来ません。」と言うのです。
ですが、聖書には神様がいつもおっしゃっているように、主にある者には不可能がないのです。
不可能という言葉を使うこと自体が不信仰なのです。

聖書の中には、色々な人物が出てきます。色々な環境、色々な道を通る人物がいます。
それを自分に当てはめていくのです。
絶望的な環境の中で勝利した人たちは、どうやってそこから抜け出したのか、それを学ぶのが聖書なのです。

聖書を開いて、自分と同じ立場の中にいる人たち、自分よりも もっとひどい状況の中にいる人たちから学ぶと
自分とその人物との違いが分かります。

それを変えていくだけでも、私たちは今とは違う人生を生きることができます。

聖書に出て来る人物の生活を見ると、勝利で終わる人たちの話がたくさんあります。
それを今の時代で活かすと、自分たちも必ず勝利することができます。


ダニエルは悪い環境の中から、どうやって抜け出ることができたのでしょうか?

【ダニエル書1章8節】

ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官(かんがん)の長に願った。

これは、正しい決断力です。

神様が人間を造られた時は自分で何かを決断する必要はありませんでした。
神様が全て用意してくださり、人間はそれに従うだけで良かったのです。
しかし、人間が勝手に善悪の木の実を食べた瞬間から、自分が何を選ぶかによって責任を
負わなければならない立場に変わってしまいました。

ここでダニエルは1つの選択をしました。

王さまから出された命令は、王のごちそうを食べて、そこで彼を成長させて様々な学問を教えて王さまに仕える
訓練をすることでした。
ですから (偶像に捧げた)ごちそうを食べなければなりませんでした。他の者たちは大喜びでした。
本来、捕虜が食べる物はみすぼらしいものですが、ここでは王さまが食べるものでした。

若者は食欲旺盛ですので、目の前にごちそうが出たら「食べたい」と思うのは自然なことであります。
しかし彼はそれを聞いた瞬間に、王さまは偶像崇拝をする者でしたので「これを食べてはいけない。」と
思いました。

神様の言葉が、ダニエルの人生の価値観でした。
何によって生きるのかというと、神様の言葉でありますので、(食べてしまうと)神様に違反をすることになります。

イエス様が断食をして空腹なのを知り、サタンは「石がパンになるように命じなさい」と、
イエス様にも一番最初に来た誘惑が食欲でした。
ですから、私たちは軽く考えてはいけないです。若い人、特に男の人は食欲が旺盛です。
ダニエルに大きな誘惑が来ましたが食べないことを決断をし、相手に伝えました。

ただの食べ物の決断だけではないです。彼が口に出して言ったということは「死」を覚悟しているのです。
なぜならば、王さまの命令を捕虜が逆らうということは命に関わることだからです。

私たちはこのような選択をしなければならないです。
みことばに反する事をするのか、それとも肉を満たす美味しいものを拒むのか――。
その時 私たちはどちらを選ぶのかがとても大切であります。

私たちは間違えた選択をしてしまうので、それを刈り取ってしまうのです。
私たちは楽な道を選びがちです。

ダニエルもこの問題が来たときに悩んだと思います。ですが彼が握っているものは神様の言葉でした。

自分の所属がどこなのか――?
このバビロンの王さまに所属しているのではなく、その上に立っている神様に所属している者。
選択の基準は何かというと神様の言葉なのです。
みことばが心に根を下ろしている人は、心があまり揺れることはないです。

しかし、みことばが心に住んでいないと、神様の言葉をしっかりと握りしめて決断をすることが難しいです。

ダニエルは信仰第一でした。これは絶対に譲らないものだと決めてありましたので、それと違うものが来た時に
大胆に選択することが出来ました。

みことばに反することは全て罪になります。
私たちが罪を犯すことで最初に起こることは、神様との関係にヒビが入り 破壊されます。

誘惑が多い世の中でも、みことばの中で生きることが区別された生活です。

私たちが神様の言葉に沿って選択をすると、その時にはサタンがものすごく攻撃をすると思います。
しかし、神様は正しい選択をした者を必ず守ります。これが聖書の世界であります。

神様のみことばを守る為に、その道を選んだ者を神様は見捨てることはないです。

結果を見ると、ダニエルは正しい選択をしたことが分かります。




次に、ダニエルから学ぶ信仰の姿勢は、神様に全てを委ねて頼ったことです。

彼は1つの提案をしました。それはとても知恵のある提案でした。
「十日間、野菜と水だけをください。そして比べてみてください。」ということでした。
これはある意味で愚かな提案でした。医学的に見ても、化学的に見ても、野菜と水だけの者と
肉や好きな物を食べる者のどちらが血色が良くて健康的になるでしょうか?それは当然 後者でしょう。

人間の目には愚かな提案でした。人々が「そんなバカな」と思うことに神様が働きます。

人々は自分たちが思っていた事と違う結果になった時に誰を見るでしょうか――?
それは、神様であります。肉を食べていた者よりも(ダニエルたちは)血色が良く、肥えていました。
人間の思いを遥かに超えたことであります。

ダニエルの信仰を見て神様は祝福しました。
信仰の勝利は私たちが神様に頼る時に来るのです。

自分の方法であれこれやるので祝福が来ないのです。

今の時代で、王さまの存在に当たるのは、権威や物質であります。
物質は黄金主義です。これはクリスチャンも同じです。自分の手にしっかりと握っていないと安心できず、
神様だけでは不安なので「お金も神様も両方必要なのです。」と。

もちろん、物質も必要です。しかし神様は 2人の主人には仕えられないのだと語ってあります。

私たちは物質に頼るということは、世に頼るということです。
どうも私たちには、目に見えない神様よりも 目に見える物に頼る傾向があります。

ダニエルが祝福されたのは、たった1人の主人に仕えていたからです。
捕虜なので財産も何もなく、自分の命でさえ自分のものではないです。
しかし、彼はそのことを一切考えませんでした。


【エレミヤ書17章5-8節】

主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

これは約束であります。
主に頼る者は何もない中でも正しい選択をし、神様に委ねて生きるならば叶えてくださいます。

信仰がないなら神様は喜びませんが、信仰を持って頼るならば、神様の力はいくらでも働きます。
主がその者を通して神様の栄光を表してくださるのです。




次に、ダニエルから学ぶ信仰の姿勢は、行いの伴った信仰です。

「神様に頼ります。」「神様に信頼します。信じます。」と口では色々言うことはできますが、
本当に主に委ねた人たちは、行いがあるのです。

葛藤に私たちはすぐに負けてしまいます。決心しても3日も続かないので失敗するのです。
だけど彼は自分の肉体を打ち叩きながら、自分の信仰にある大きな障害物を毎日取り除けながら
行動しました。

神様は行いのない信仰は、一言で「死んだ信仰」だとおっしゃいました。
死んだ信仰に神様は働きません。また、行いはありますが 信仰が無いというのも神様は喜びません。

神様が喜ぶのは行いが伴った信仰で、自分が神様に約束した通りに日々続けていく人に信仰を認めて
喜んで、必ず勝利させてくださるのです。守るのです。

そして周りの人たちの心を変えていきます。

私たちが信仰の行動をすると、私たちは他人の心を変えることが出来ませんが、神様は人の心に働くのです。
それをダニエル書1章9節でも見ることができます。


【ダニエル書1章9節】

神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。

私たち1人1人が神様に正しい選択をし、みことばを守ろうと決心するその時から、神様は相手の心の中に
働きます。その人が信仰を守って生きていけるように、神様が全ての敵を取り除き 力を与え、恵みを準備して
くださるのです。

ですから、大切なことは、私たちが日々の生活の中で、神様のみこころを選ぶことなのです。
言われた通りに行いがある信仰を実行していくと、神様はその人に勝利を与えてくださいます。
喜ぶので神様の恵みがその人に来るのです。その人の生きた信仰が実を結ぶのです。

死んだ信仰はいくら待っても実を結びません。

しかし、生きた信仰には、芽が出て 時が来ると、神様の恵みによって実が結ばれます。
私たちが勝利をしたと言うことは、実が結ばれたということであります。その人が祝福されたという姿であります。

ダニエルはそのようにして、神様に祝福されました。
命を懸けた決断をしましたが、死ぬことはありませんでした。
常に神様は守ってくださいましたし、彼の信仰を周りの人が認めました。どんどん彼の地位を高く上げていきました。

ダニエルは、若い時から 年を取って死ぬ時まで、その信仰をずっと守っていました。

命に関わる選択がありますが、どんな時でもダニエルは正しい選択をしました。
それが、正しい者になり、良い実を結びました。

私たちは悪いものを選びながら「神様、私を祝福してください。」「滅ぼさないでください。」と言っていても
悪いものを選んでいるので、自分で清算をしなければならないです。

私たちが種を蒔くということは選択なのです。選択して行動をすることです。
決断して動くことが1つ1つの種であります。

ダニエルは、信仰(みことば)が第一だと思って、それをしっかりと握ったことによって
彼の人生は勝利で終わりました。

小さな信仰でも、それを働かせて多くの実を結びました。
私たちはそれを学びましょう。 (^∀^)

2013.9.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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霊的成長するには?

テーマは『 霊的成長のための祈り 』です

【コロサイ1章9-12節】

こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

パウロのコロサイ人に対する祈りです。

パウロは福音を伝えて教会を建てていきます。そして そこに集まる信徒たちに みことばをもって教育していきます。
彼らが神を知り 神の中で新しい者に変えられ、霊的に成長をして主の弟子たちになり、
彼らが次の世代に福音を宣べ伝えていくことが一番の願いであります。

そのためには救われただけでは話にならないです。
救われた者ということは、新しく生まれ変わったことを意味します。その人たちは、霊的赤ちゃんであります。
赤ちゃんのままでは何も使い物にならないです。
その人たちには恵みだけが必要で 養っていかなければならないです。

生まれ変わった人は自分自身が霊的成長することを求めなければならないです。
しかし、霊的成長は努力だけで出来ることではないです。

成長したいのにどうしたら良いのか?教会へ行き、みことばを聞き、皆と交わりをしたら成長できるのか?
みことばだけを読んだら良いのか、奉仕をしたら成長できるのか――。

それ以前に私たちは神様から受けなければならないものがあります。

このような(パウロの)祈りを 求め続けて、強くされていかないと成長することができないです。
私たちはこの祈りに沿って霊的成長のために日々 生活の中で祈らなければならないと思います。


9節の「あらゆる霊的な知識と理解力によって」というのは何を意味しているでしょうか?
物事を総合的に判断する力であります。
人々は何かを見て判断することが出来ますが、それは偏っています。偏った判断は間違えています。
全体を総合的に見る力は、神様による知恵がないと出来ないです。

霊的な知恵と理解力、これがないと私たちは先に進められないです。
霊的なことがよく分からないのに、私たちはどうやって霊的に成長をして、霊的な働きができるでしょうか。

ソロモンが祈った祈りを思い出したら良いと思います。
神様に「正しい裁きが出来るように、わたしに聞き分ける力をください。」と判断力を求めました。
これこそが霊的知恵・霊的理解力であります。

これは聖霊様が与えてくださる賜物です。賜物は聖霊様が持っているものですので 求めることであります。


9節に「神のみこころ」とありますが、神様のみこころが何であるかと言うと、神様が喜ぶことです。
神様が喜ぶことが何であるかを私たちがはっきりと知ることが大切であります。
私たちは自分が喜ぶことが良いことだと思っていますが、それは神様のみこころと違うことが多いです。

霊的知恵と霊的理解力があれば、神様のみこころを知ることは それほど難しくないです。
霊的なものを求めることは、神様が喜ぶことであります。

多くの者は肉のものをたくさん求めます。
高慢な思いで求めたり、みこころに適わないものを一生懸命祈っています。ですから叶えられません。
しかし、神様が喜ぶ霊的なものを求める時には惜しまずに与えてくださいます。

主にかなった歩みをすることは召しに相応しく歩くことであります。
みこころを知ると自分に対する召しが分かります。

私たちが自分勝手に歩くと、そこに罪が生まれます。


10節に「あらゆる点で主に喜ばれ」とありますが、神様を喜ばせる働きをすることです。

主を喜ばせるためには、時には自分の思いを神様の前で消していかなければならないです。
自分の計画、習慣、性格、色々なクセ、苦難、このようなものを私たちは消さなければならないです。
全部を持ったままでは神様に喜ばれる姿にはならないです。

この姿は、どのような姿でしょうか――?
主のみこころの全てにおいて従順する姿であります。

自分の思いが神様に敵対する思いになりますので、それらを十字架につけます。
霊的成長のために、肉のものはどんどん捨てなければならないです。
肉のものを捨てた時に、そこに霊のものが入ってきます。

その結果として 実を結ぶことができます。それが聖霊の実であり 美しい実です。(10節)

神様のことを知りたいという人が多いですが、このように歩んで実を結んでいくと自然に神様のことが
分かるようになります。

みこころに従順して、上にあるもの(霊のもの)を求めて成長し実を結んでいくと、実を結ぶ過程の中で
神様がどのような方であるのか すごく分かるのです。


【コロサイ1章11節】

また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし

力は自分にあるのではないです。神様によって私たちは力を受けなければならないです。内側の力であります。

内側に力がないと、忍耐ができません。

信徒たちの生活において、忍耐はとても大切なものです。忍耐できない人は成長は無理なのです。
成長する時には忍耐が必要です。
あらゆる訓練や苦しみや苦難、その中で 自分の思い通りにならなくてもその中で待ち望む力は内側の力であります。

「神様、私は力がない者なのです。忍耐をしようとしても力がなくて、すぐに切れてしまいます。
切れた瞬間に成長が止まってしまうのです。ですから、神様。私に力をください。実を結ぶためにも
忍耐が必要であります。そのために神様によって強くされる必要がありますので力をください。」と
肉の力に頼るのではなくて、日々 祈りによって主に求めることです。

希望を持って生きることができます。


11節に「寛容」とありますが、これは神様に対することではなく、人に対する寛容であります。

特に私たちが寛容を示さなければならないのは、自分が気に入らない人たち、自分が敵だと思っている人たち、
自分を苦しめる人たちです。
そういう人たちに対して狭い心ではなくて、広い心をもって恵みを与え続けることであります。

内側にその力があると敵を許すことができます。
狭い心は、クリスチャンの心ではないです。

私たちは元々、本当に狭い心なのですが神様から力を受けて、どんどん器を広くしなければならないです。


12節に「感謝をささげるように」とあります。

これも主に祈らなければならないです。「私が感謝の人でありますように。」

 

何を求めて生活をするのか、神様が一番願うのは霊的成長です。
これを求めないならば、神様は与えたものまでも取り上げてしまわれます。
しかし、豊かに持っている者は、さらに与えられます。

周りの人たちに影響力を与える人になってください。 (・◇・)ゞ

2013.7.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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伝道者パウロの姿勢

テーマは『 伝道に対するパウロの姿勢  』です

【Ⅰテサロニケ2章1-12節】

兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。

ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。

私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、 私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

ご存じのとおり、私たちは今まで、 へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。

また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。

それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。

このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、

ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

パウロは偉大な伝道者であります。
他の使徒も もちろんそうですが、福音のために自分の命を投げ出した人たちであります。

イエス様から尊い使命を受けたその時から、彼らは命を福音のために捧げるのだという強い決心で
働きだした者です。
パウロが他の弟子たちと違うのは、イエス様が生きている時には 弟子ではありませんでした。

イエス様を迫害した者が、今度は福音のために仕える者になりました。

パウロは特にヨーロッパに対して最初に出て行き福音を伝えた者であります。
アジア、ヨーロッパの門を開いたのはパウロです。

伝道する時に、どこへ行っても激しい迫害が 彼を待ち構えていました。
パウロほど激しい迫害、試練、苦難に遭った人はいません


なぜ、私たちが伝道をする時に迫害が起こるのでしょうか?
今の日本ではそれほど迫害というものはないですが、昔は日本にもヨーロッパから宣教師たちが来て
福音を伝えた時にはすごく迫害を受けました。

初めはそこまで(迫害が)ありませんでしたが、救われる人が増えてきてからは「危険だ」ということで迫害が起こり
多くのクリスチャンや宣教師が殺されました。教会も迫害されました。福音が入った地域はどこも同じです。

「迫害」 これは霊的戦いであります。光を持って入っていくところは暗闇だからです。
霊的に暗闇であります。豊かな国であっても真っ暗闇の世界です。

そこにいる人々は神を知らない者であります。神ではない偶像に仕える者であり、罪の奴隷です。
サタンが支配をしています。

ですから、そこに光を持って入ると、サタンが喜ばないです。福音の真理の言葉が気に入らないのです。
自分たちの肉と敵対するものであるので、そこに迫害が起こるのです。

しかし、神を全く知らない者よりも 一番パウロに迫害を加えた者は、ユダヤ人でありました。
神を知っている者たちで、彼らはイエス様を迫害し、殺した者であります。
パウロも以前は彼らの仲間でした。イエス様を殺した後に、福音を宣べ伝える人たちを迫害していました。
ですから当然のように(パウロが福音を伝える時には)彼らの妨害がありました。

敵対心、憎しみ、妬みの心で殺意を持って迫害しました。


【Ⅰテサロニケ2章2節】

ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、 私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。

パウロの素晴らしいところは、どんなに命を狙われる迫害を受けたとしても退かなかったことです。
もし 人や迫害が怖くてそこから逃げたならば、今 私たちに福音が届いていないと思います。

パウロの強さは、どんなに迫害されても逃げなかったことであります。
それは初めから命を捧げているので命を狙われても良いということです。
これが一番強いことであります。

私たちは福音を伝えていますが、多くの人たちが(誰かに)反対されると引っ込んでしまいます。
「この人は無理だ。」という思いが出て、自分自身も迫害に耐えられないので、「もういいわ」となります。


なぜ、このような思いになるのでしょうか――?

自分で自分を守ろうとするからであります。
恥をかきたくない、迫害をされたくない、苦しみも受けたくない、自分のプライドがそれを許さない。

そうなってしまうと、福音を伝えることが出来なくなります。
これはイエス様が来られた時も同じでした。誰も(イエス様を)歓迎をしませんでした。
イエス様が悔い改めを語っても、耳に厳しい言葉は聞きたくないのです。
しかし、これが普通なのです。

福音を伝えるならば、当然その人たちが反対をして抵抗し受け入れず、そして悪口を言います。
こういうものであると 私たちが初めから思う必要があります。

私たちが激しい迫害を受けても、パウロを見習って逃げてはいけないです。
相手の陣地に入るということは、激しい霊的戦いをしていく という思いをもって行かなければならないです。

インドに行った宣教師も1人の魂を勝ち取るのに7年かかりました。
行ってすぐにリバイバルが起きた事はほとんどないです。

環境を恐れる必要はないです。環境を恐れると何も出来ないです。
小さなアリのように思うと良いです。すると恐れの心が消えます。
「私の中におられる神様がどれほど力があるのか」と思う必要があるのです。

義人の道には苦難があるのです。クリスチャン生活も、敬虔に生きようとすると苦難があります。


【Ⅰテサロニケ2章3-6節】

私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、 私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
ご存じのとおり、私たちは今まで、 へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、 人からの名誉を受けようとはしませんでした。

4節に「神を喜ばせようとして」と書いてあります。

伝道する一番の目的は、神様を喜ばせるためです。
イエス様もそうでした。父なる神様のみこころを行うためでした。

神様を喜ばせたいという思いが初めに来た時に、神様はその人の働きを喜びます。


【Ⅰテモテ1章11-15節】

祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。
私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、 私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。
私は以前は、神をけがす者、 迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを 受けたのです。
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、 ますます満ちあふれるようになりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」 ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

自分が以前どのような者であったのかを語っています。命の恩人(キリスト)のことも言っています。

命の恩人には、感謝の心で命を懸けることなのです。
イエス様は、私たちの命の恩人であります。

私たちは神様を喜ばせなければならないです。神様は素晴らしい恵みとともに使命を与えてくださいました。
私たちが福音を伝えることは、神様がすごく喜ぶことでありますので伝えたら良いです。


そしてパウロが伝道をする時に1つの思いがありました。
パウロは人々の魂を愛しました。熱い愛がありました。これがないと伝道を続けることが出来ないです。

【Ⅰテサロニケ2章7-9節】

それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い 育てるように、優しくふるまいました。

このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、 私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者と なったからです。

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちは あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

パウロは天幕を作る仕事をずっとしながら、自分のための稼ぎもありました。
その目的は人々に負担をかけたくなかったからです。

愛には必ず犠牲が伴います。犠牲が伴わないものに「愛」という言葉は相応しくないです。

口先だけで「愛します。愛します。」と言っても何の値打ちもありません。
愛は必ず自分の方から犠牲を払うことであります。相手のために何かをすることなのです。
負担をかけることが愛ではないです。

ですから神様は、相手に必要なものを与えなさいとおっしゃいます。

人々がパウロの姿を見て、たくさんの魂が救われました。


世の中には様々な宗教がありますが、それらを素晴らしい愛の宗教だとは誰も思わないです。
自分たちがそれを信じていながらも言う言葉があります。「宗教 = 金儲け」 と日本ではたくさん言われています。

しかし、キリスト教の姿はそうではないです。イエス様ご自身が犠牲を払いました。
人々から名誉もお金ももらったことはないですが、イエス様は命までも捧げました。
弟子たちもそのような姿でした。
しかし、その時代でも他の宗教はそうではなかったです。金儲けであり、自分達の腹を肥やしていきました。

パウロはその中でも昼も夜も働きながら、神様の福音を彼らに伝えました。それが彼の愛の姿であります。


また、パウロは福音を伝える際に気を付けていることがありました。

【Ⅰテサロニケ2章10節】

また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、 あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

福音を聞く者たちにつまずきを与えないことであります。

私たちが伝える福音は素晴らしいものですが、伝えるその人自身がダメな者であるならば
人々はそれを受け取ることができないです。

神様は私たちに「世の光、世の塩です。」という言葉を使いました。もし、塩が塩けを無くしてしまうならば、
人々に踏まれると語っております。料理でも同じように、塩は少しで良いのです。
どんなに小さな光でも、暗闇の中では明るくなります。

私たちが完璧過ぎても周りは遠慮してしまいますが、まだまだ色々な部分で未熟な者であっても、
私たちは自分と近いところへ行き、福音を伝えたら良いのです。そうしたら受け入られやすいです。

わずかな塩でも、わずかな光でも良いです。そして自分自身もその中で変わっていくのです。
1日でも1回でも 行動を起こす時に、主の力がその中で働きます。

パウロはいつも人々に福音を伝えましたが、自分自身も福音の中で生きることを心掛けていました。
これは福音を伝える者は、誰もがそうすべきであると思います。
汚い手で良いものを渡すのではなく、手を洗って神様に悔い改めながら綺麗なものを与えるならば、
受け取るのです。

パウロの伝道者としての姿を見て、私たちも学んでいきましょう。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2013.7.21
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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ダビデの感謝の心から学ぶ

テーマは『 ダビデの感謝の心 』です

【Ⅰ歴代誌29章9-19節】

こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。

ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。

今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。

すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。

私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。

私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。

私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。

わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行わせて、私が用意した城を建てさせてください。」

私たちは日々 祈りを捧げていますが、このようなダビデが捧げたような内容の祈りをしたことがあるでしょうか?

これは感動的であり、美しい祈りであります。

ダビデは人生の旅路の終わりの時になって、彼は自分の人生を振り返ってみながら神様が自分に対して
どのようにしてくださったのか、神様がどういうお方であったのか、神様に栄光・賛美・感謝を捧げる祈りです。

この箇所には真実のことが書かれています。
ここに書かれているのは神様が私たちに常に求めるものです。

  • 神様に栄光を捧げること
  • 所有物に対して、どのような価値観を持つのか
  • 喜びとはどのようなものなのか
  • 本当の感謝とはどのようなものなのか

ダビデは神様を熱心に愛する者でした。


【Ⅰ歴代誌29章3節】

そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したすべてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげた。

それまで集めた財産はたくさんありましたが、神様に惜しまずに全部捧げました。


【Ⅰ歴代誌29章5節(後半部分)】

そこで、きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。

すると、地位の高い者たちから身分の低い者たち皆がみずから喜んで神様に捧げました。
それをダビデが見てとても喜びました。そしてその後にダビデは神様の前に出て感謝の祈りをしているのです。
「神様、見てください。すごいでしょう。」ではないです。

彼が語っている言葉1つ1つを見ると、彼がどんな想いで神様に対する成長した信仰の姿がどのような姿なのか、
献身している姿がどのようなものであるのかが分かります。

私たちがこのような言葉を聞いた時に、普段 自分が神様に信仰告白する姿と何が違うでしょうか?
私たちが考えている神様と、ダビデが語っている神様の姿は何が違うのか―――。

自分はこのように喜んで神様に捧げたことがあるのだろうか?
みことばを読む時には、いつもそれを見ることです。

正しく神様を知っている人たち、正しく信仰を持って神様の前で生きた人たちの姿を見て、「私とは関係がない」と
言うならば、その人の信仰は虚しいものです。成長することが まず考えられないです。

成長をするということは、自分よりも先に進んで行く人たちの姿を見て学ぶことなのです。
そして、自分でも真似していく時に少しずつ分かってくるのです。
すると自分自身で体験をするようになっていきます。


【Ⅰ歴代誌29章11節】

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

神様が絶対主権を持っておられます。
全世界は神様が創造したものであり、偶然に造られたものではないです。誰かの物でもないです。
すべては主のものであります。


【Ⅰ歴代誌29章12-13節】

富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。

このダビデの告白を聞いて分かるのは、自分自身に頼って生きるのではなくて、
私たちはこの神様に頼らなければならないのです。
自分の思い、計画、人生すべてのものを神様に焦点を合わせていかなければならないです。


【Ⅰ歴代誌29章14節】

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。
すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

神様の恵みを知っている者が語る告白であります。
神様の恵みを知らない者は、「すべて私の力」と言って捧げません。

信仰がある人と、信仰がない人は ここが違います。

世の中を見ても、貧しい者は豊かな者たちよりも圧倒的に多いです。80%が食べ物に困っています。
しかし、神様が与えていないから貧しいわけではないです。
20%の人たちが、80%の人たちの分まで握って贅沢三昧をしているのです。
ですから貧しい人たちに関心がないのです。

服をたくさん持っている者が1枚ずつ 持っていない人たちに渡すと、世界に裸のままでいる人はいなくなります。

神様の世界は乏しいことがないです。でも欲張りの人たちが手を差し伸べないので、神様はクリスチャンに
「良い業を行いなさい。」と語ります。
もともと神様が与えた物なので、神様に捧げなさいということは、
小さい者にしたことは わたし(神様)にしたことであります。


【Ⅰ歴代誌29章15節】

私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。

人間はこの地上で永遠に生きる存在ではないです。人間は1度生まれたものは、1度は死ぬのです。
その後に裁きがあります。これが神様が決めたものです。

「異国人」というのは、私たちの国籍がここにあるのではなく、私たちの国籍は天にあります。
自分の為に地上に蓄えるのはやめなさい ということです。地上で蓄える人はたくさんいます。
そして使うこともせずに残して死にます。死んだ後は無一文です。
自分で買った土地が付いて墓の中に入るわけでもないです。

これは真理を語ってあります。
それを知っていながらも不安だからと蓄えていくのは自分に頼って生きる姿です。


【Ⅰ歴代誌29章16節】

私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。

神様のものは神様に返して当然なのです。神様に自慢できるものは何もないです。


【Ⅰ歴代誌29章17節】

私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。

ダビデが自分自身も神様に捧げる時には、見せる為でもなく、仕方がなく捧げたのでもないです。
どこにも人間的な思いが入っていないです。
真っ直ぐな心で、神様が見ても恥ずかしくない心で捧げました。
自ら進んで捧げることは神様が喜ぶことです。


【Ⅰ歴代誌29章18節】

私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。

ダビデがなぜ この祈りをしたと思いますか?
今の民たちの状況は皆が喜んで捧げました。しかし、人間の思いほど変わりやすいものがないです。
いつその心が腐敗するのか。世の中で一番信じられないのは人間の心なのです。
自分でも自分の心が信じられなく、昨日思っていたことも今日は違う心になっています。

民たちの心が変わらないで欲しいという思いがダビデの中で出たので、神様にそのことを祈りました。
心が守られないと私たちの人生は崩れていくのです。
心を守るならば、どのような状態の中でも しっかり守ることが出来るのです。


【Ⅰ歴代誌29章28節】

彼は長寿に恵まれ、齢も富も誉れも満ち満ちて死んだ。彼の子ソロモンが代わって王となった。

ダビデの人生の結末です。波乱万丈でしたが、どれほど素晴らしい人生の結末でしょうか。

私たち人間の価値はいつ出ると思いますか――?

その人の業績で、その人の価値が決まるのではないです。
その人の人生そのものが、その人の価値を決めるのです。
最期になって決算した時に、はじめてその人がどのような価値があるのかが決まります。

満ち満ちた人生ということは勝利者であります。神様が認めた人生だということです。
たくさん捧げても捧げても、神様は満ちるようにしてくださるのです。


これを私たちはダビデから学びます。

ダビデは罪も犯しましたが、神様は彼がその中でも 神様がどのようなお方であるかを正しく知っており、
正しく神様との関係を結び、その人生を歩みましたので勝利で終わったということを見なければならないです。

ダビデの素晴らしい信仰を学びましょう。

私たちの信仰は問題がたくさんあると思います。本文を読んで1人1人が鏡のように照らしてみると良いです。
修正していくのが学びであります。 ( ̄‥ ̄)=3

2013.7.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主の再臨の時、幸いな人とは?

本日のテーマは『 主の再臨の時、幸いな人 』です

【ヨハネの黙示録1章7-8節】

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方。万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

7節は、黙示録の中でも一番確信的な言葉であります。そして「喜ぶ」のではなく「嘆く」と書かれています。
それは、悲惨な目に遭うから「嘆く」のです。

それまではのんびりしていた者が、その時は逃れることが出来ないです。
(その時には、すべての人たちが世の)終わりだということが分かるのです。
その時に笑うのはわずかな人だけであり、イエス様を信じていない人が再臨を楽しみにして、
終わりの時を迎えてしまったのならイエス様はその人を迎え入れることはないです。

クリスチャンでも、イエス様の再臨を「早く来てほしい」という人がいます。準備が出来ているのでしょうか?

今回語る聖書箇所で自分の姿を見てください。
再臨の日が私にとって喜びなのか、それとも「主よ、なぜ今 来てしまったのですか?」と思うのか、どちらでしょうか。


【ヨハネの黙示録1章3節】

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

最近は、不吉な予感がたくさんあります。地震、洪水、大嵐、内乱、戦争の噂などが、ずっと出ています。
終末の足音であることは、クリスチャンではなくても分かります。時が近づいていることが明確であります。

ですが、この時に何をしている人が幸いでしょうか?
神様がこれから起こることを語りますが、それをしっかりと聞いて心に留めるということは、
知識として聞くのではなく、神の真理の言葉として受け入れて従順をすることです。

聖書の祝福は、救い以外では、自分が従順して初めて手に入れる祝福なのです。

神様が「この言葉をわたしの言葉として信じているのか。」と、私たちが本気で信じると、
信じた通りの行動をするのです。

この言葉が本当に起こるなら、私は何をすべきなのか?どんな生き方をしたら良いのかを考えてしまいます。
「いつ起こるか分からないことで、今からそんなことばかりを考える必要がないわ。
好きなように生きて、その時に目を覚ましたら良い」と、それでは遅いのです。

1日中動かないだけでも、筋肉の力が落ちるのと同じように、私たちの心の中も日々栄養を入れておかないと
命の水が出て来ないと、だんだん枯れて心の中から力が出て来ないです。

一度立ち止まってしまうと、次の一歩を出したいのに足が出て来なく、なかなか主の前に出てくることが
出来ないです。

これは誰もが経験をすることです。ですから、しんどくても言葉を実行していくとそこに力が付くのであって、
立ち止まると どこかに漏れて出てしまい、後で気付くと全然力が無い者になっているのです。


【ヨハネの黙示録16章15節】

――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないように
する者は幸いである――

再臨の時に、ある者は寝ています。身に着物を着けていない人がいるのです。裸で歩いている人がいるのです。
霊的に目を覚ましていなさいということです。クリスチャンはイエス様の血潮によって聖められた者、
義と認められた者であります。イエス様が義の衣を着せてくださっているということです。

しかし、そのものを再び罪を犯して、この世の汚れで真っ黒にしてしまうなら、
その人が着ている衣は「義の衣」ではないです。

「罪」というものは恥をもたらします。人はそれを隠していると思うのですが、神様の目には、罪は裸の状態です。

イエス様を 裸の状態で迎えるのですか?
ですから、義となった状態を維持していくことが大切なのです。


【ヨハネの黙示録19章9節】

御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

イエス様が再臨する時に、自分は本当に招かれた者であるのか、そして資格があるのか。
口先だけで「小羊の花嫁です。」と言っても「残念ながらあなたの名前はないです。」と入ることができません。

ですから、自分の名前が消されていないのか、イエス様を受け入れた者は天国に入るまでイエス様と共に
歩みながら生きて行かなければならないです。

生きている時はチャンスがありますが、再臨の時はチャンスがないです。

クリスチャンだからといって安心してはいけないです。黙示録はクリスチャンに語った言葉であります。


【ヨハネの黙示録22章7節】

「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

ヨハネの黙示録1章~22章まで啓示した主の言葉のままです。


【ヨハネの黙示録22章18-19節】

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

真理の言葉をいじるからです。神様の言葉は完璧です。
それを人間が勝手な思いで切り刻んだり、違うものを入れるとそれが災いになります。


(ヘス牧師の教会では)悔い改めのことをよく語りますが、悔い改めは自分の着物を洗うことであります。

もともとイエス様が十字架の血潮によって、私たちが悔い改めた時に真っ白な綺麗なものにしてくださいました。
でもその後も罪を犯すので、着物も汚れてくるのです。しかし私たちがその時もそれを放置するのではなくて、
悔い改めるならば さらにイエス様の血潮が注がれて綺麗になるのです。

ですから天国に入るまで繰り返しが必要なのです。

罪を贖ってくださる神様の恵みを求めながらイエス様の血潮によって洗われていなければならないです。
白い衣を着て準備が出来た人だけが上げられて、汚れたものを着ている人は相応しくないので地上に残されます。

他人のことを心配をしている場合ではないです。自分が準備出来てから、他人を準備させます。

自分は目を覚ましているのか、自分の行いが主の前で正しい行いなのか、着物を洗っているのか、愛があるのか
色々と考えなければならないです。

地上でのことばかりを心配するのではなく、目を天に向けて、一生懸命準備して私の家族も準備させようという思いで働くと毎日、毎日時間がないと思います。
私たちはのんきに暮らすのではなくて、(再臨は)いつか分からないけど
いつか分からないからこそ、いつでも準備をしておかなければいけないという思いでしてください。 (´・ω・`)

2013.9.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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