からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2013年06月

救いの条件とは?

テーマは『 救いの条件 』です

【マルコの福音書1章15節】

イエス様が語った言葉です。
イエス様を信じていない人が聞いたら、どういう意味かわからないと思います。
しかし、クリスチャンは教会で「救い」という言葉をよく聞くと思います。

「あなたは本当に救われましたか?」と質問をすると、
「はい、救われました。」や、「よくわかりません。」と答えます。

また、「天国へ行けますか?」と質問をすると、
「必ず行きます。」と言う人もいれば、「死んでみないとわかりません。」と言う人もいます。
そして「私、天国へ行けないかもしれません。」という人もいます。

これは問題であります。救いの意味がまだわかっていないのです。
どうやって救いを受けるのか 意味をわかっていないので、
自分が本当に救われているのか、救われていないのかが曖昧なのです。




< 救いを受ける条件 ①>

悔い改め

まず「罪を悔い改めなさい」ということです。

【マルコの福音書1章4節】

この時点では、まだ「信じなさい」という言葉は出ていないです。

現在の教会では信仰のことばかり伝えますが、それだと「半分だけの福音」になります。
ですので、多くの人がそこで間違えています。
イエス様は信仰だけで救われるとは一度も語ったことはないです。
私たちは「悔い改め」と「信仰」によって救われるのです。


【使徒の働き2章37-38節】

【使徒の働き20章21節】

「私は生まれながらに罪人だ。」と自分の罪に気付くことです。
自分には救いが必要だという認識がないと、イエス様の十字架が見えてこないです。

自分に罪の認識が来ると、「あの十字架は、私のための十字架である」と
十字架の意味がわかってきます。

「(罪人の)私はどうしたら良いですか?」という思いが来て、
それに対して主が「わたしを信じなさい。」というのです。
これは、イエス・キリストに対する「信仰」であります。

この2つ(悔い改めと信仰)が救いを受ける条件であります。

悔い改めの意味は、口先ではないです。次の箇所です。


【マタイの福音書3章7-10節】

ユダヤ人たちは天国へ行ける自信がありました。なぜならアブラハムの子孫だからです。
ですが、バプテスマのヨハネがそのことを指摘し「それはあなたの錯覚である。」と語りました。

自分の罪を知り、本当に悔い改めない限り、アブラハムの子孫であっても天国には入れないと
いうことです。これは現在のクリスチャンに語る言葉であります。
悔い改めに相応しい実を結ばないならば、実が成らなく 葉ばかりです。

みことばを聞くだけで、恵みを受けるだけでは、どうにもならないことであります。
「○○教会に所属していました。」と、いくらイエス様に伝えても、
神様が「全然、悔い改めていないではないか。あなたは罪の中にいるのではないか。
だから切り落とすのだ。」と語ります。


【マタイの福音書11章20-24節】

毎日、奇跡を見ながらもイエス様が望んでおられる 悔い改めにふさわしい実が
見えないです。その姿で天国に入れると思っているのかと、イエス様がはっきりとおっしゃいました。

本気で悔い改めをしなく、教会を行ったり来たりしているから大丈夫だというのは、
イエス様は「目を覚ましなさい。それでは(天国には)行けないんだ。」とおっしゃいます。

ですから、自分自身が「私は罪人だ。」という認識がないならば、まだ救われていないのです。
自分の姿をみことばで照らしてみてください。

主の前で、自分が罪人であることを告白し、罪を赦してもらえるように祈らなければならないです。


人々に福音を伝える時も、必ず悔い改めのメッセージを伝えなければいけないです。

「イエス様を信じたら天国へ行きます。」というのは、悔い改めの部分を完全に無視しています。
相手の機嫌が悪くなったらどうしようと思っているので言わないのです。
日本の教会では悔い改めの言葉をあまり言わないです。罪人という言葉も言わないです。

なぜ言わないのかというと、人々が聞きたがらないからです。
神様が伝えたいメッセージではなく、人々が聞きたいメッセージを伝えるのです。
ですから「愛・祝福がありますように。」以外には言わないのです。
そのような教会にはたくさんの人が集まります。牧師がまるでコメディアンです。
初めから終わりまで冗談を言うので信徒たちは笑っています。
しかし福音は語らないです。


【ルカの福音書5章31-32節】

悔い改めをすることは、認識をすることです。
誰が死から救い出すことができるのか? それにはイエス様が必要です。




< 救いを受ける条件 ②>

信仰とは?

律法の行いだけでは救われないということを教えるために、信仰という言葉が出ました。


【ローマ3章27-28節】

律法の権威の下にいるので、私たちは呪いから逃げることができないです。
罪からくる報酬は死なので、誰も死から逃げることができないのです。
ですから、すべてのものが「死」に閉じ込められています。
自分でどんなに努力し 聖い生活を励んでいても、結局シミ(罪)が付いているので、
罪人になり、その判決は「死」です。

神様は、救い主・キリストを送り(キリストが)救いを完成されました。
救いとは それを信じ、キリストを自分の救い主として心に受け入れることです。


【ヨハネの福音書1章12節】

尊い代価(十字架で流した血)を払って 罪の奴隷から私たちを神様の御国に入れてくださいました。
私たちを買い取ってくださった方が私たちの主人であります。王の王、主の主です。

私たちがイエス様を王様として心に招き入れて、王様に対する態度を見せないならば、
それは救われない信仰であります。

例えば、結婚のことで言うならば、
結婚する前の姿を見てください。男の人は女の人をまるで お姫様のように大切に扱います。
一番良いものを与えて(女の人を)大事にします。女の人も、自分が愛する人に対して
自分のものを惜しまずに与えます。「この人の為なら、命を捧げることもできる」と、大切にします。
そして お互いに「死ぬまで一緒にいたい。」という思いで結婚をします。

結婚してからも、その思いのままで生活をする人は本当に幸せです。

しかし、結婚した途端に男の人は妻を家政婦のように扱います。
そして家政婦ではなく奴隷と思っている人もいます。
いつも怒り 命令をして、自分に少しでも逆らうとDVです。そういうことが今は多いです。

また、妻も結婚するまでは大事にしていたのに、旦那さんに対して、外で奴隷のように働いて
お金だけ運ぶもの。まるでお金を作り出す機械のように王様としての扱いをしないです。

私たちはイエス様を心の中に受け入れてからは、どうでしょうか?
イエス様を王様のように自分が仕えているのか、それともイエス様を自分の奴隷のように命令を
しているでしょうか。


【ヨハネの黙示録3章14-20節】

ラオデキヤ教会は正統派の教会です。異端ではないです。
しかし、イエス様はどこにいるでしょうか?  20節にあるように、イエス様は外にいます。
王様の扱いではなくて、いつの間にか追い出してしまいました。
生温いということは、信仰が死んでいるのです。
イエス様が全ての主権を持っておられます。私たちはその主権のもとでひざまずかなければいけないです。


【マタイの福音書22章1-14節】

王様として主を迎えて、主の言葉通りにする人は少ないです。
天国に入る人は、全人口の3%しかいないです。
このみことば箇所を見ればわかります。王様から招待をされていましたが、無視をして来ませんでした。
そして礼服というのは、王様に対しての礼儀を表すものです。ですが自分のやり方で入ってきました。

【マタイの福音書24章45-51節】

自分は救われたと思っている人です。しかし主人を軽く見ているのです。
主人の言うとおりにしないで、自分の欲望のままに生活をしています。

【マタイの福音書25章14-30節】

主人が言われた通りに従順して従っていく人に対しては、神様はその人を認めてくださいます。
1タラントをもらった しもべは、主人のことを悪い主人だと思っていました。
ですから主人の言うことを聞かないのです。主人から言われたにも関わらず従いませんでした。

これらのみことばの箇所で、主人の言う通りにした者は天に入りましたが、
言う通りにしなかった者、自分勝手に動いた者、それは主人の顔に泥を塗った者です。
この人達はすべて暗闇に出されました。

これは私たちの裁きの時には同じことを受けるのです。その時に2つの道に分かれます。


【ルカの福音書6章46-49節】

その人の人生が、裁きの時に 虚しく崩れ去って行く姿をここで見せています。
私たちは死ぬ時に悔い改めをしたら良いと思っても、ある人は一瞬にして亡くなります。
地獄へ行っても構わないと強気で言う人もたくさんいます。

クリスチャンは騙されてはいけないです。クリスチャンは自分が罪人であることを忘れてはいけないです。
常にイエス様に対する信じる心と、信じた後でも常に足を洗わなければならないです。

罪を悔い改めて立ち返り、主のみこころ通りに聖くなることを目標にしているならば
その人たちは、救いから もれることはないです。このことを心に留めてください。 ( -д-)ノ

2013.6.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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他人を祝福する人とは?

テーマは『 他人を祝福する人 』です

【Ⅱコリント1章11節】

聖霊に満たされたパウロは個人に対しても祝福を祈り、教会に対しても祝福をたくさん祈ります。
そしてパウロ自身も信徒たちに向かって「わたしのためにも祈ってください」とお願いすることも多いです。
その祈りが自分にとって大きな祝福になることを知っているからです。

クリスチャンはなぜ他人を祝福しなければならないでしょうか?

自分の祝福だけではなく、なぜ他人を祝福しなければならないのか。 それは――
イエス様を 自分の主人として受け入れた人であるならば当然のことであります。

義務というよりも、それがとても価値あるものだからです。
イエス様は他人を呪ったことはないです。
朝から晩まで、いつも他人を祝福しました。人々が良くなることを誰よりも願いました。
それが神様のみこころなのです。

ですから、キリストに属する人は同じことをしてほしいと、それが神様が喜ぶことであります。

皆さんはクリスチャンになってから、常に人々のことを祝福していますか?
自分が知っている人だけではなく、見知らぬ人のために、困っている人のために、また国のために、
常にその人たちのために実際に祝福をしているでしょうか?

私たちは祝福をしなければならないです。
祝福を与えること、それは素晴らしいことであるのです。

私たちは他人を祝福する時に、どのような心で祝福をすべきでしょうか?
神様は私たちの心の動機を先に見られます。




神様が喜ぶ祝福の心があります。

私たちが相手に対して信じる心です

世の中では、他人を信じては絶対ダメだと言われます。もちろん他人を騙す人はたくさんいますので
信じた時に困る時があります。だからと言って他人を信じないのは不幸だと思います。
「誰も信じられない。」このような心を持っているのなら、とても孤独です。
家族、友達、誰も信じられない・・・信じられるのは自分自身しかいない。
―― そうではないです。

私たちはまず他人を祝福する時には、相手を信じることであります。
「私がこの人のために祝福の祈りをするならば、この人はそのようになるだろう」と必ず祝福される。 と
これが、信じることであります。

「私が祝福を祈っても、この人はそうならない。無駄だ。」ではないです。


愛する心

相手を愛する心がないと、私たちは口先だけの祈りで終わってしまいます。
愛するということは、相手が本当に幸せになってほしい、良くなって栄えてほしいという心でもあります。

しかし 愛する心がないと、たとえ相手に祈りを捧げたり、物を与えても自分自身が幸せではないです。
儀式的になります。まるで施しのように、自分が高い立場に立ってすることではないです。


相手を大切に思う心

大切に思うということは、相手を価値ある者と思うことなのです。
「この人は値打ちがない」というのは他人をけなすことであり、その人を救った神様をけなすことであります。

つい私たちは、悪い人ばかりを考え「そんな人には値打ちがない」と思ってしまいがちで、
私たちの眼はいつも否定的な悪いものだけを見て、自分の心を閉ざすのではなく、
悪い人より良い人がたくさんいるのです。

私たちは、色々な人からたくさん良くしてもらいました。
「誰からも良くしてもらったことがない」という人はいないと思います。もしそうであるならば、
今生きていないと思います。

幼い頃には、親からの愛を受け、世話を受けて大きくなりました。
成長した後も、先生や友達など色々な人によって、私たちは良いものをもらいました。ですから今日があります。

そういう部分で多くの人々は、皆 素晴らしい価値ある人なのです。そう思うことであります。


他人に良いものを与える思い

自分が使わなくて捨てたいものを与えるのではなく、自分が受けて嬉しいものを与えるようにする心を
持たなければいけないです。それこそが神様が喜ぶ 祝福を与える心の姿勢であります。

神様はどのような動機であなたがそれをするのか、まずそれを見ています。
心から良いものと悪いものが流れますので、私たちは良い心を持って人々を祝福していかなければならないです。

そして、祝福する対象は(神様を)信じる人だけではないです。
神様を信じる人も、信じない人たちも、私たちは祝福をしなければならないです。


【Ⅱコリント2章15節】

私たちクリスチャンが、自分たちの口から他人を非難したり罪に定める言葉や悪口を言うならば、
私たちが他人を汚す者になるのです。自分たちが悪臭を放つものになります。

人々を絶望させる言葉、傷を与える言葉、いじめの言葉がどれほど悪いものなのか、
それこそ包丁よりも怖いものです。

結婚をした1/3の人たちが(相手から)DVや言葉の暴力、経済的・肉体的な暴力 等、たくさん受けています。
他人の人格を踏みにじる言葉をたくさん使います。
そういう状態で、その家庭が幸せになることはまず有り得ないです。

もし私たちの口がそういうものを出し、行動するならば汚物と同じであります。
ですから、神様は「あなたたちの中からそういうものを出してはいけない。」と語っております。

相手を愛する言葉、相手の価値を認める言葉、相手を高める言葉、相手が良くなるように与える言葉、
祝福の言葉、これは絶望の中にいる人々を生かす言葉であります。

私たちが悪い言葉を使う時には、神様の恵みは絶対に流れないです。
逆にサタンが持っている汚いものが相手に流れていきます。

ですから私たちはまず 祝福の祈りをしなければならないです。
私たちは、自分たちの苦しみや問題をたくさん祈ることが多いですが、誰かに問題があって祈る時には、
祝福の祈りをするのが一番です。
「苦しいです」という言葉よりも、明確に祝福の言葉を祈る方が良いです。

それは自分のために祈る時も同じです。
たとえ自分を苦しめる人に対してでも、祝福の言葉を使って祈るのです。

「神様。 主人(息子、娘)を祝福してください。」 「主人が愛の人になるように祝福してください。」
「家庭を大事にする人になるよう祝福してください。」 「私のことを大切にする人になりますように祝福してください。」
「絶望から希望を得て立ち上がる人になれるように祝福してください。」


私たちはつぶやきが多いですが、例え つぶやきの言葉を並べても神様は聞きたくないです。

「死んでしまえ」や「消えてしまえ」という呪いの言葉ではなくて、
「神様、あの人が優しい人になりますように。」というように、祝福を受けてそうなって欲しい姿を祈ります。

他人を祝福するので自分も祝福され、自分も祝福する言葉しか語らないので、いつも心の中が平安であります。

クリスチャンにとって、祈りは誰にでも出来ることです。祈りによって常に人々を祝福することです。

また、それをしていくと何が起こると思いますか?

その祈りをもらっている人たちが、それによって力を受けるのです。
そしてその人たちに 神様が恵みを流していきます。

また、それをしないと 私たちは命取りになります。それは次の箇所です。


【マタイの福音書25章33-36節】

小さな働きなので人々は無視をすることが多いです。しかし神様が一番目を留める働きは、
このような働きでした。


【マタイの福音書25章40節】

大きな働きをしたい人はたくさんいます。我先に「これをしたら大きな祝福が来るだろう」と、
これは自分が受ける祝福のことしか考えていないです。

他人のためと言いながらも、心の中では「人々に尊敬されたい」と計算が働きますが、
このような小さなことは、目立たないことであり、やって何になるんだ?と思うことであっても
神様は「それをしなかったあの者たちは、天国には入れないんだ。」ということです。


【マタイの福音書25章41-46節】

神様は、最も小さな者に価値を与え大切に思い、その人たちを愛し、信じて、
手を差し伸べ、祈りをして必要なものを与え、励まし助ける時に、それが最もわたしが喜ぶ働きである。と、
あなたがその人たちを祝福したので、あなたたちは、父なる神に祝福される。
―― これが聖書が私たちに教えることであります。

家庭でも、会社帰りの旦那さんに家族が何も言わないのではなく、「ご苦労さま」 「ありがとう」と
この言葉は家族を祝福する言葉であります。その言葉を聞いて嬉しくなって更に頑張ることができます。
「働くのは当たり前でしょう?」だと、1日中働いて疲れて家に帰ってきているのに 更に疲れてしまいます。

それは旦那さんも奥さんに対して同じです。
「1日中、のんびりしながら何をしているんだ」ではなく、食事に対して「美味しい」 「ご苦労さん」と
このような一言が相手に対して祝福を与える言葉であります。

言うと自分も幸せになり、お互いが幸せになります。

私たちは言葉で表現をしなければならないです。いくら年をとっていても、このような言葉を聞きたいです。

私たちは家族に対して、そのように祝福の言葉を与えることであります。
大事にすることは、(家族の)奴隷になりなさいということではないです。
お互いの価値を認めることで良くなっていくと思います。


福音を伝えること

兄弟・姉妹の間でも相手の信仰を立たせるために、私たちが助けると、その人が祝福を受けるようになります。
とりなしをたくさんする人は、他人にたくさんの祝福を流している人であります。
それによってどれほど私たちが助かっているかわからないです。パウロも言っています。


【ピリピ4章14-18節】

すごく私たちが反省をしなければならないことであります。
受けることだけを考えて、自分たちが恵みを流さないと、自分の中の恵みが死んでしまいます。

私たちは恵みを受けたならば、常に恵みを流していかなければならないです。
流していくならば、神様は常に新鮮な恵みを流してくださるのです。

「この人は欲望にまみれた人ではなくて、自分が受けたことを感謝して、困っている人たちを助けている」となると
神様は更に大きな祝福を与えてくださいます。

福音を宣べ伝えるのは主の働きなので、それをする人たちが困ったり、苦しむことがないように
共に私たちが助けるならば、それは祝福を与える人であります。そうすれば私たちも霊的祝福を受けられます。

かぐわしい香りは、このような働きをしていく時に、その人自身からかぐわしい香りが放たれます。

自分が地上にいる一生の間、ずっと祝福を受けたいと思うならば、自分が常に祝福を祈り、
祝福を与える人、祝福を蒔く人でなければならないです。

「私だけ、私だけ・・・」となると、汚れて死がくる と神様が語っています。

聖書の言葉をよく理解して、神様が何をおっしゃっているのか、そして その通りにするならば間違いないです。


イエス様に出会って一番幸せなのは、誰だと思いますか?

【マタイの福音書26章6-13節】

誰もイエス様にこのように祝福をした人はいないです。
集まってくる人々は、常に受けることしか考えていなかったです。

あまりにも主を愛する心があり、あまりにも自分が受けた恵みが大きいので
自分が持っているものを全て捧げても、命を捧げても惜しくないという愛の心でした。

彼女も初めは受けるために来ました。罪が赦され、心が回復され、素晴らしいものを受けました。
そして、それに対して主を祝福した人は彼女1人だけでした。

私たちはどれほど主から祝福を受けたのかわからないです。
イエス様にこれほどのもてなしをしたことはないです。
彼女は最高のもてなしをしました。そのことでイエス様が喜ばれました。

私たちは自分の命が死から救われた者であります。人々のたくさんの祈りによって支えられているのです。
それを ただ受けることだけを考えて、更に「ちょうだい」ばかりを言うならば、
神様は「もう(あなたは)いらない」となります。

私たちは流していくのです。小さな者に対して、その人に必要ならば与え、
どんどん祝福を流していくならば、それが自分に祝福として返ってきます。

私たちは言葉1つにしても、行動1つにしても、それが人々の祝福になるようにしなければなりません。
悪いものが出そうな時は止めてください。

人間は皆、幼い頃から好き嫌いがあり、パッと見た瞬間にそれを頭の中で決めてしまいます。
私たちは好きなものは好きで良いのですが、嫌いなものに対しては「嫌い」という言葉よりも
「好きになろう」「嫌いなものを好きになってみよう」と思うならば、徐々にその良さが見えてくるのです。

一言「嫌い」と言ってしまえば、いっぺんにそれを切り捨てることなのです。

人に対しても、「この人の ここは好き、あれは嫌い」となると、愛することができなくなるのです。
しかし、「あぁ、こんなに良いところがあるんだ。」と自分の目線を変えて見るならば、
素晴らしい部分がたくさん見えてきます。

素晴らしいものは「素晴らしい」と言ってあげたら良いです。
悪いところを「悪い、悪い」と言うと、ますます悪くなります。人はその言葉では変わらないです。
ですが、悪いところがあっても 良いところを先に言うと、相手は恵みを受けるので変わっていきます。

自分の良い部分を励ましてくれる相手を裏切りたくない思いになります。

これから私たちは言葉を変えていきましょう。祝福の言葉を使うと人生が変わっていきます。

そして、これからは「私、私、私」よりも、神様の言葉通りに「祝福する人になろう」と他人のために祈る時に
私たちはやわらかい心になります。

家族においても職場においても、祝福を与えるために私たちは選ばれたのです。

キリストの心をもって他人を祝福をする人になりましょう。 (*´∇`*)

2013.6.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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悔い改めと神の救いとは?

テーマは『 悔い改めと神の救い 』です

【ヨナ書3章1-10節】

この民族はある意味では残忍で恐がられ
イスラエル民族にとっても、脅威的な存在でした。

3章2節と、3章4節では神様が語る言葉が違う事に気付くと思います。
4節では裁きだけを宣言する言葉でした。

そして、ヨナの心の中で思うことがあります。
彼らは神様を知らない残忍な者で、救いようもない者たちであり、
たとえ神様の言葉を聞いても立ち返ることは有り得なく、
この民族全体が救いから一番遠い存在だと思っていました。
ヨナは神様の言葉を1日しか伝えませんでした。彼らに伝えても無駄だと思っていたからです。

私たちも福音を伝える時に、同じように思う心があります。

福音を反対したり、神様を信じなかったり、悪い人を見ると、「あぁ、この人に福音を伝えても
耳を傾けて、悔い改めて、神様に立ち返るなんて有り得ない」と
続けて伝える事をしないで、1回で終わりになります。

そのような想いがどこかで働きます。それを自分で判断し、
「この者は絶対に救われない」と結論を出しています。

人間はいつも神様の言葉に従うと言いながら、自分の中には色々な思いがあって、
中途半端な働きをします。自分で勝手に止めてしまいます。

しかし実際には、ヨナが予想もしなかったことが、この町で起こりました。
彼らは、神様の裁きの言葉を聞いた瞬間に、なぜか心が開かれたのです。

ヨナの方が驚きました。言葉を伝えた次の日に彼らに変化が起こりました。
(ヨナは)1日しか伝えていないのに、彼らの心に神様への恐れが出て来たのです。

旧約聖書の中でこのような国全体の悔い改めが起こったことは歴史の中で一度もないです。
ソドムとゴモラの町でも同じく滅ぼされることを聞いています。
しかし、彼らはビクともしませんでした。「滅ぼされるわけがない」と、さらに悪を行いました。
誰一人立ち返った人や悔い改めた人はいませんでした。
ですから、滅ぼされました。

ノアの洪水の時も、箱舟を造りながら皆が滅ぼされる終末が来ることをメッセージで伝えても
人々はビクともしませんでした。
「私たちは今が良い。」 ――なぜ人は、警告の言葉を聞きながら そのような思いになるのでしょうか?
それは彼らの中にある思いなのです。人本主義です。

人本主義は、「この世が全て。人間の文化が一番良い」という根を下ろしているので
このような人たちは、神様の裁きの言葉を聞いても無視をするのです。

神本主義はそうではないです。神中心に生きる人は、神様の世界を期待しますし、
神様の言葉が一番恐ろしいのです。

神様の言葉に従わないで勝手にすることは、どんな結果をもたらすのかわかるので恐れ従いますが、
人本主義は、自分が中心であります。

4節の「四十日」という期間は、神様の憐れみの時間です。
人間に立ち返ってほしいという思いが強いです。人間にとっては悔い改めの時間であります。

神様の裁きの言葉の中にも、救いのメッセージがあります。

すべての人が真理を知り、救われる事がみこころです。
どんな悪人でも滅びるのは神様のみこころではないということであります。

そしてニネベの人々に、一気に悔い改めが起こりました。大リバイバルでありました。

リバイバルというのは、単に教会の人数が増えることではないです。
リバイバルは2つあります。

①罪の中にいる人や、神様に触れたことがない人たちがメッセージを聞いて、
自分の罪を悔い改めて、まことの神様に出会い信じて救われることです。

②救われた者たちが、いつの間にか信仰が生温くなり眠っているクリスチャンたちが
目を覚まして立ち上がり、悔い改めて「こんな生き方をしてはいけないんだ」という思いがくることです。

この両方が起こることが本当のリバイバルであります。

神様は私たちが罪を犯す姿を見ますが、悔い改める姿も見ています。
私たちの信仰生活は、みことばを聞いて努力する姿が見えないといけないです。
「自分は変わりたいです。でも自分の力では出来ないです。神様助けて欲しいです」と祈り、
自分が出来るところから動きながら変わっていく人は、その努力する姿を神様が見て祝福していきます。

努力する姿もなく、熱心な姿もなく、神様に頼る姿もないなら、何になるでしょうか?

ニネベの人たちが神様の言葉を聞き、恐れおののいて悔い改めている姿を、
私たちクリスチャンは学ばなければならないです。


【ヨナ書3章10節】

【ヨナ書4章2節】(私は、あなたが情け深く~)

神様を正しく見ているヨナの姿であります。

【ヨナ書4章3節】

これはいらない思いで、人間の思いであります。ヨナは彼らよりも汚い心を持っていました。
神様がなさったことに不満で、それを見たくないので殺してくださいと言ったのです。
怒りを神様にぶつけました。

他人が祝福される姿を見て、腹を立てるのは神様が喜ばない姿です。
クリスチャンの姿が時には汚いことが多いです。
肉の思いには綺麗なものがないです。神様が与える思いは美しいものであります。
主から来るものは全て良いものです。

肉の実を結んだら滅びです。

自分の思いの中にフッと入ってきたものに、これはどちらからきたのか?(神様ORサタン)
汚いものは全てサタンが与えたものです。たとえ受けたとしても「もういらない」と言って、
捨てます。
しかし、神様のものは、一生懸命求めて自分の中にたくさん良いものを蒔き、留めておきます。
そうすると、どんどん良いものが出てきます。


【ヨナ書4章10-11節】

罪人たちに対して長く忍耐して憐れんでおられる神様が見えます。
今の時代はまだ悔い改めができるチャンスがあります。
悔い改めのチャンスがないのは、イエス様が再臨して最期の裁きの時からです。

私たちが神様の言葉に反応して立ち返るならば、必ず救われます。
警告の言葉は、ただの警告ではなく、神様からの救いのメッセージだと思ったら良いと思います。
恵みを受けるチャンスでもあります。

ニネベの町は、ヨナが伝えたメッセージによって彼らは、この時は滅ぼされることなく
救い出されました。
しかし恵みを忘れてしまうと、後でどのような結果になるのかをヨナが亡くなって100年後に
ナホムという預言者がニネベに対して預言をしている言葉があります。

【ナホム書】を読んでください。

ニネベに対する滅亡のメッセージが伝えられました。そして彼らは立ち返らなかったので、
歴史の中で消え去っていきました。

私たちは救い出されたことを、いつも感謝して、目を覚まして慎み深くしておかなければならないです。
主がその人たちを守り、常に祝福を与えてくださいます。 (・◇・)ゞ

2013.6.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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大いなるものとしよう

テーマは『 大いなるものとしよう 』です

【創世記12章1-3節】

神様が個人的にこのように素晴らしい祝福の約束をしたのは、アブラハムだけであります。

その後、アブラハムは信仰の先祖になりますが、
神様を信じて従ってくる者に対しての、神様のみこころでもあるのです。

神様から選ばれた民たちや、神の子どもになった者たちに対しては、このような祝福を与えたいという
ものが初めからあります。

この世の中で一番愛し合っているのは親子関係だと思います。
親は子供のために祝福してあげたいと思いますが、親には力がないので「あなたが大いなるものになる」とかは
言えないです。ですので、せいぜい「財産を残してあげる」くらいの祝福の言葉しかないです。

しかし、神様は個人に対して素晴らしい祝福を与えました。
そしてアブラハムは霊的祝福を受け、実際に全ての祝福を受けました。

私たちも「霊的に繁栄する」、「この地上での生活も繁栄する」、「肉体も祝福される」と
このような三拍子の祝福は、誰もが願うものであります。

私たちはどのようにしてアブラハムが祝福を受けたのかを学ぶのは、とても大切です。

信仰の子どもに対して、神様は差別をするのではないです。
私たちがそれ(祝福)を受けるような器になるならば、アブラハムが受けた祝福を私たちにも与えてくださいます。

アブラハムが神様の約束の言葉を聞き、どのように彼が祝福を受けたのか、
その方法はすごく簡単ですが、私たちが難しく考えるので いつまで経っても実行をしないです。

難しい約束の言葉があるでしょうか? ――ないです。
とても短く簡潔で、分かりやすいです。

人は「何か難しいことをしないと受けられないのではないか?」と思うことが多いですが、
私たちの努力によって神様が祝福を与えるのではないです。
神様の方法は、言葉になって初めにきます。それを自分たちがどのように理解をして従うかによって
祝福を受ける者と受けない者がわかれていきます。

神様がアブラハムに祝福を語る前に【 創世記12章1節 】の指示を出しました。
私たちは神様が指示をする時に、反応をしなければならないです。
色々な反応があると思います。気に入らない反応があると思います。初めから聞く気がない人もいます。

神様が指示をする時に一番良いものは、心を開いて、ありのままの神様の指示を受け入れることです。
祝福を受けるスタートはそこからであります。
なぜならば、祝福を与えるという神様が語るのです。ですから私たちが祝福を受ける者になるためには、
まず神様が語る時に、耳を傾けることであります。適当に聞くのではなく、よく聞くことです。
自分が聞きたい言葉だけを聞くのではなく、1つも漏らさずに神様の指示を聞くことが第一歩であります。

ある人は、神様の言葉を聞きながら「そんなこと出来るはずがありません。」と、自分の経験や知恵で解釈をします。
最後まで神様の言葉を聞かずに、一言聞いただけで自分で計算をし始めます。
このような聞き方だと、神様は何を語っていたのか わからなくなります。残るのは自分の想いだけであります。

ですから、神様の指示をきちんと聞くべきです。


【エペソ5章17節】

「愚かにならないで」という言葉が始めにある理由は、自分は神様よりも知恵があると勘違いをするからです。
いくら自分で「私は知恵があります。」と言っても、人間同士で比べたら、それがあったとしても
神様と比べたら誰一人 知恵ある人はいないです。

ヨブは神様に ああだこうだと色々言いました。神様は人間同士のやり取りをずっと聞いて
ヨブと他の者の知恵比べでした。「私の思いでは~」「私の考えでは~」と責め合っていました。
神様は初めから終わりまで聞いて、ヨブに「わたしの質問に答えなさい。」と語った時に、
ヨブは1つも答えられませんでした。そしてヨブはすごく恥を受けました。
「私は何と愚かな者で、悟りのない者でしょうか。」と自分の恥を表しました。

神様の指示に対して「何でそんな指示を出すのですか?」と、ずっと言いながら
神様の指示を除けていくと、次に神様からの言葉は絶対にこないです。

そういう人たちにはサタンが喜びます。さらにサタンがその人を惑わしていき、繁栄を与えます。
サタンは嘘つきなので騙すのが上手いです。ですからずっと与え続けます。そして最期に潰します。
サタンが人に繁栄を与えるのは、その人を太らせて永遠の死(滅びの道)へ売り飛ばすためです。
そして大喜びをします。サタンに騙されて堕ちて行くのは繁栄とは言えないものです。


神様が語る祝福は、最期に素晴らしい良い実を結ぶことなのです。成就していきます。
神様の言葉を聞く時は、何をおっしゃるのか、よく聞いてください。

間違えて聞くなら、結局間違えたことをするので、口を出さず、考えずに文句も言わずに聞き、
すべてを聞き終わったら「わかりました。」と受け入れます。
「 アーメン 」とはそのような意味です。
しっかり聞いて、悟るということは心に刻むことであります。

指示をした後に、神様の約束の言葉があります。
(※「そうすれば~」のように、聖書は繋ぎの言葉がとても大切です。)

神様の指示を受けた後には、次の言葉を聞かなければならないです。
ただ指示だけを受けて行動するのではなく、神様の(祝福の)保障がないと私たちは不安定になります。
祝福の神様ですので、必ず続きがあります。

保障というのは、木の根と同じです。根は目には見えないです。ですが、木を支えるのは根であります。
それが深く地下のほうに根を下ろす時に木は成長をして伸び、実を結ぶようになるのです。
祝福は木に実が結ばれることと同じです。

根がないと倒れてしまいますし、花を咲かせることも実を結ぶこともないです。


【出エジプト記3章10節】

これは指示です。

【出エジプト記3章12節】

そして保障であります。神様より強い保障はどこにあるでしょうか。
神様には不可能がないです。


【創世記28章15節】

【創世記7章1-5節】

私たちはなかなか聞く耳がないです。
勝手に解釈をして、神様がすべてを語る前に立ち上がってどこかへ行ってしまいます。
ですから私たちは多くの祝福を逃してしまいますし、神様の思いとは違うところへ行き様々な問題にぶつかります。

自分の姿を振り返ってみてください。神様が自分にどのような指示をしたのか、自分がその指示通りに
やれているのか、それとも違うことをやっているのか、一番心配をしなければならないのはそのことです。


【創世記12章4節】

神様がすべてを語り終わった後は、私たちがしていかなければならないことであります。
神様が語った通りのことを受けるためには、主がお告げになった通りに行動を移すことです。
神様は、座っている人には絶対に祝福を与えないです。
ただ種だけを握り座っていては、自分の手の中で種が育つことはないです。
神様がその種を蒔きなさいというところに蒔かなければならないです。すべて自分の行動です。

神様はみことばを聞いて行う者を必ず祝福します。
動かない者は、その人が動くまで神様は祝福の扉を開かないです。動いて種を蒔かないので恵みを与えないです。

私たちが祝福されないのは、行動をしないで怠けて色々な言い訳をして、種を蒔く時なのに
種を蒔きに出ていかないからです。ですから秋になっても収穫がないです。

聞いてすぐに行動をすると、早く祝福を受けます。

家庭の中でも、教会の中でも、自分の人生の中でも、とにかく神様に言われた通りに種を蒔く人が
祝福を刈り取ります。
神様は、そういう人たちに対しては すべての手の業を祝福すると語られました。

天が開かれます。それまでは閉ざされてあります。
その鍵を開けるのは、私たちが信仰の行動をしていく時に、神様はそれを見て天から開けるのです。
その人に祝福が注がれるように、神様が開けるなら、それを誰も閉ざすことはできないです。
また神様が閉ざすなら、誰にも開けることはできないです。

共におられるので、神様は私たちの行動をすべてお見通しであります。

アブラハムは行動して出て行き、指示通りにしました。


【へブル6章13-15節】

アブラハムの人生の結果です。行動を起こしているので忍耐がありました。
実が結ばれるまで、アブラハムは待ち続けました。信仰の歩みをしました。

これは私たちが繁栄する祝福を得るために、この信仰においてはアブラハムから学ぶと良いです。 (。・ω・)ノ゙

2013.6.2
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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