からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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2013年05月

主の小道とみこころとは?

テーマは 『私たち1人1人に対する 主の小道と主の御心について』 です

【詩篇25編4節】

【ミカ書6章8節】

【申命記10章12-13節】

【ホセア書6章5節】

イエス様を愛している私たちは、誰でも、主のみこころを知り、それに従い栄光を表わす者に
変えられたいと心から願っていると思います。

しかし、神様が私たちを知り尽くしておられるほどに、私たちは神様を知っているでしょうか。
生涯をかけて知ろうとしても知り尽くす事は出来ないでしょう。

主の御思いを知る事は、なんと広く深い事でしょう。と、みことばにあるように、
私たちの思いをはるかに超えたお方だからです。

また、主は、どんなお方でしょうか?
柔和でへりくだり、憐れみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵み深いです。【出エジプト記34章6-7節】
また、私たちをねたむほどに愛してくださっているお方です。【ヤコブ4:5】

みこころを知るには、みことばを通し、聖霊様を通し、預言の言葉を通し、周りの人の助言の中から
教えられることがありますが、それを聖書から見てみようと思います。


①みこころを知る為に、みことばを読む

聖書は、重要な問題の全てを網羅していますが、色々な問題や状況に直面した時に、
「こうしなさい」と細かくはっきりとは書いていません。

ですから、生活をしていく中で、色々な事が起きた時、みことばの中に主の導きを求めます。
すると、みことばをどのように適用していくのかを教えられます。
そして、そこに答えが見つかり、みことばが生きたものとなり、みことばを体験できます。

【詩篇119篇105節】

【エペソ5章17節】


②内におられる聖霊様が、語って下さったり、導きを与えてくださる

【ピリピ2章13節】

私たちの内に思いを与えて、神様が実現させてくださるという みことばです。

ですから、私たちはみことばを心と魂に刻みつけておく必要があります。
すると、聖霊様が時に適ったみことばを思い起こさせて下さり、決断する事を助けてくださいます。


③預言の言葉を通して、みこころを教えられ、励ましを与えられる


④周りの人からの助言で、聖霊様が気付かせてくださる

【箴言12章15節】

【Ⅰ列王記12章8節】

ソロモンの子レハブアムが王になり、民のことで、ソロモンに仕えていた賢明な長老に相談をしましたが、
長老の助言を退け、自分の意見に同調をしてくれるような若者に相談し、決断を下しました。
結果、民たちの心は離れていきました。
私たちは信頼できる人の助言を聞くべきだと思います。

このようにして、みことばを通し、聖霊様を通し、預言、周りの人の助言など、色々な方法で
主のみこころを悟らせて下さいます。




~みこころに従うことを、妨げてしまうもの~

私たちはみことばに従い、みこころに沿って歩みたいと願いますが、うまくいかない事があるのは、
どうしてでしょうか?

それは、私たちの古い人が反応し、それを妨げてしまったり、サタンがみことばに従わないように
妨げるからです。

妨げてしまうものには、どのようなものがあるのかを 一緒に考えてみたいと思います。

  1. 自分の願いと神様の思いが違うならどうしようと、不安になってしまう古い自分
  2. 自分の生き方を変える事を恐れてしまう。 ―― これは自分の考え方から出ようとしない古い自分
  3. 全てを委ねたくても、委ね切ることができない自我。そこにはいつも葛藤があります
  4. 祝福は望んでも、犠牲を払うことを嫌う心。 ―― 肉は犠牲を払うことを嫌います
  5. 世の物に対する色々な執着がないか

このように様々な自我との戦いがありますが、皆さんはいかがでしょうか?

神様の1人1人のご計画は違います。そして弱さも違います。
神様は、私たちが自分の自我と戦い 日々内なる人が強められて、造り変えられていくことを願っておられます。

どのようにして、主のみこころを知る事が出来るでしょうか?


①主に委ねる時に、主のみこころを明らかにしてくださる

【詩篇37編5節】

【詩篇55編22節】

【Ⅰペテロ5章7節】

【箴言16章1-3節】

自分の思いや方法ではなく、神様の導きや方法で従うということです。
人は心に自分の道を思いめぐらしますが、その人の道を確かなものにするのは主です。

私たちは自分にはどうすることも出来ない問題が生じた時に祈ります。
祈ってその問題を主に委ねる決断をします。そして、祈りながら待ちます。

しかし、待っている間に色々な思いがやって来ないでしょうか?
恐れが来たり、心配になったり、不安になったり、自分に対して安心できるものを置いておきたいという
ことはないでしょうか?
この肉との戦いは、生涯あるかと思います。
しかし、神様は私たちが思っている以上のことをしてくださるお方です。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです、とあります。


②日々、自分に死ぬ

「私の願いや思いはこうです。」と思う事は間違いではないです。
しかし、「主のみこころはどうでしょうか?」と祈る事は、とても大切です。
イエス様ご自身も「私の願うようにではなく、あなたのみこころのようになさって下さい。」と、
祈っておられます。

私たちは、時として犠牲を払わなければならない事もあるかも知れません。そして失うこともあるかも
知れません。
しかし、失うことによって得る恵みもあります。失うことによる恵みが大きいかも知れません。
私たちの肉は、難しく考えたり、律法的になったり、壁を作り、神様の働きを止めてしまう事があります。
また、自分の思いや考えを押し通そうとするなら、神様は決して働く事が出来ませんし、用いることも出来ません。

意外と自分の姿には気付かないことがありますが、聖霊様が気付かせてくださいます。
その時に、素直に従う者に神様の祝福があります。

また、思いこみが強く、自分の思いをしっかりと持っていると、自分の姿を知ることすら出来ません。
ですから聖書にある通り、砕かれた心、柔らかい心、鳩のように素直な心、また教えられやすい心をもって、
いつも心を開いて、主の御前に出る者となりたいです。

そうする時に、日々 自我に死ぬ者とされます。


③神様に全き信頼を置く者に、道を開いてくださる

神様は、しばしば試練を通して、いっさいを主に委ねる事を、分からせようとして下さいます。
しかし、私たちの気持ちを無視して 何かをすることはせずに、私たちが気付くようにしてくださいます。
じっと待ってくださるお方で、愛と忍耐の主です。

たとえ、自分の願い通りにならなくても、主は最善を成してくださるお方だと信頼し、委ねる時に
私たちが思っている以上の素晴らしい恵みを体験し、主の御業を見ることができます。

主に信頼する者は、失望させられることがありません。
そして、私たちは「自分が信じている方を知っています。」と告白することができます。


【Ⅰテサロニケ4章3節】

【ローマ12章2節】

どんなに素晴らしい神様のメッセージを聞いたとしても、古い革袋に入れるならば
恵みとして残らずに、どんどん漏れてしまいます。

「古い革袋」とは、生まれながらの性質そのものであり、「新しい革袋」とは、考え方を変えることです。

新しい革袋に入れて、恵みが漏れないように気をつけなければなりません。
つまり、≪自分の生き方を変える≫ ということです。


④神様に従順する時に、私たちが歩むべき小道へと導いてくださる

【ヨブ記23章8-10節】

試練の道、涙の道、曲がりくねった道、先が見通せない道・・・どんな道も知ってくださっています。
私たちの歩む道もすべて主が知って下さっています。

なんと幸いなことでしょうか。

【イザヤ書43章2節】

私たちは、神様が遠くに感じてしまう時や、孤独を感じる時こそ、主は最も近くにいてくださいます。

【詩篇142編3節】

【詩篇138編7節】

主のみことばの約束は満ちています。

盲目のテノール歌手・新垣勉氏

皆さんは この方をご存知でしょうか?
アメリカ人の父と、日本人の母との間から生まれてすぐに、助産婦の手違いで、
目に劇薬を入れられて失明しました。
その後 両親が離婚し、彼は父を恨み、中学生の時に自殺をはかりました。
しかし、その時にラジオから流れて来た賛美歌を聴いて 教会へと導かれました。
牧師との温かい交わりの中で、そこで彼はイエス様に出会い、そして信じました。
その後、様々な良き出会いを通じて、テノール歌手として多くの人々に生きる希望を与えておられます。

彼の名言:  ナンバーワンにならなくても良い。オンリーワン。(自分にしか出来ない生き方)
SMAPの「世界に一つだけの花」は、新垣勉氏の「オンリーワン」から出来た歌だと言われています。


私たちも世界に一つしかない花です。
私たちにしか出来ない生き方を、主は用意してくださっています。

他人と比べる必要はありません。
また、(自分に)無いものを捜すのではなく、与えられているものに感謝する者は幸いです。
私たちの内に働く力によって、私たちが願い、想いを超えて豊かに恵みを注いでくださる主です。

【詩篇143編8節】

【エレミヤ書10章23節】

【箴言3章6節】

【イザヤ書30章21節】

【Ⅰ列王記13章】

Ⅰ列王記13章には、騙されて神様のみこころから離れてしまった人のことが書かれています。

みこころを求め、神とともに歩む時に主が用意してくださった小道へと導かれます。
自分が何かをしようとするのではなく、いっさいを成し遂げて下さる主に明け渡して、信頼し
主が与えてくださる小道を真っ直ぐに歩みたいものです。

私たちがこの地上で生きている間、誘惑もあると思います。また、惑わされることもあるでしょう。
しかし、みことばをしっかり心に蓄えて、内におられる聖霊様に導かれて右にも左にもそれず
私たち1人1人に与えられている小道を歩んで行く者になりたいと思います。

命に至る道は、細く狭いとありますが、主の小道は 「天国へと通じる道」 です。

自分の将来も計画も主に委ね、自我を十字架につけ、信頼し従順する者に、
神様のみこころの道を歩むことの喜びと祝福があります。

主は1人1人の歩むべき道、最善の道を知ってくださっています。

大切なことは、何かをしてきたか ではなく、どのように主に仕えてきたか ではないでしょうか。

聖霊様に導かれ、日々自我を十字架につけ、
御心を求めながら 主が用意してくださっている それぞれの小道を歩んでいきましょう。 ( ̄‥ ̄)=3

2013.5.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖霊とその働きとは?

テーマは『 聖霊とその働きについて 』です

【ヨハネの福音書14章16-17節、26節】

聖霊様はどのようなお方でしょうか?
聖霊様はイエス様が遣わしてくださった助け主です。

【ヨハネの福音書16章7節】

聖霊様が来てくださったことは、私たちに益であります。
助け主というのは、英語で言うならばカウンセラーです。

しかも聖霊様はカウンセラー以上のものです。
イエス様が「いつもあなたたちと共におられる」ということを理解しやすくするには、
選手とコーチの関係をイメージすると良いと思います。

選手とコーチはいつも一緒です。
例えば、フィギュアスケートならば、コーチは必ず選手の傍にいて(リンクで演技をする前にも)助言をし、
演技が終わったらコーチの元に来ます。
コーチは厳しく色々なことを教えます。いつも共にいながらその人の働き1つ1つ、間違えたところを教え、
直しながら技術を教えます。そして1人の選手を育てていきます。
良い選手は、良いコーチなしに誕生することはないです。


聖霊様は、人格を持っておられる方です。ロボットではないです。
人格を持っている方で私たちの傍にいて、私たちを助け、時には慰め合い、
時には教え、時には叱責を与えて、私たち人間を造り直してくださいます。

これが助け主・聖霊様であります。

1人の人間として成長していくには、自分に教えるコーチである聖霊様がいなければ難しいです。

どんなに才能がある選手でも、自分の力以上のことは1人ではできないです。

旧約時代にも聖霊様が働きました。旧約の聖霊様はいつも共におられるわけではないです。
聖霊様が来たり帰ったり離れたりします。

それは、サウロ王を見るとよくわかります。
油注ぎを与える時に神の霊が強く働きました。しかし、彼が罪を犯したときに聖霊が去り、
悪霊が入りとんでもないものになりました。

旧約時代は必要な時だけ聖霊様が来て働き、そして去っていきましたが、
新約時代には、イエス様が「いつもあなたと共にいます。」と語りました。

そうすると例えば私たちが罪を犯した時、旧約時代のように罪を犯しても悔い改めをしないならば、
聖霊様が(私たちに)働くでしょうか――?
そうではないです。
聖霊様は離れないです。しかし、聖霊様が悲しみます。


【エペソ4章30節】

私たちが罪を犯したり、自分勝手に生きる時に、共におられる聖霊様は悲しみます。
コーチ(聖霊様)の言う事をまったく聞かないです。

聖霊様の心はとても悲しみますが離れないです。
なぜ離れないのかというと、私たちがイエス様の十字架の血によって贖われた者ですので、
イエス様を見て離れないのです。しかし喜びながらではなく、悲しみながら共におります。

救いが完成されるのはイエス様が来られた時です。つまり再臨の時であります。
再臨された時に、聖霊様が保障をするのです。
「この者は罪人でありましたが、キリストを信じて  キリストの血によって贖われた者なのです。」と、
私たちの傍に立って聖霊様が(私たちが)救われていることを保障する大切な役割をしてくださるのに、
私たちが聖霊様を悲しませるならば、聖霊様はどのような思いになるでしょう?

自分の命の保障ために聖霊様がおられるのに、言う事を聞かないで、
ずっと聖霊様に涙を流させ、(私たちが地上を離れる時に)聖霊様が「ずっとこの者はわたしを
悲しませました。」と言うならば、それを聞く父なる神様はどのように思われるでしょうか。

ですから私たちにとって、いなくてはならない聖霊様を悲しませてはいけないです。


また、聖霊様は真理の御霊で、私たちを真理に導いてくださるお方です。

【ヨハネの福音書16章13節】

聖書を教える先生です。なぜなら聖書は神の霊感によって書かれたものだからです。
ですから聖霊様が書いたものでありますので、正しく教えることができます。

【ヨハネの福音書8章32節】(ある韓国牧師の証の中より)

聖霊様はただ聖書の言葉を教えるのではないです。
みことばを悟って、生活の中で適応していかないと、みことばの意味がないです。

人間は色々なものに縛られています。その為、神様の中にいても不自由なのです。
みことばの真理を味わって悟るならば、その人はその言葉を繰り返し思いを持ちながら
行動や言葉、生活の中に出てきます。

行動とみことばを別々にするならば、それはまだみことばを悟っていないです。
知識だけ、情報だけのものであります。
聖霊様が悟らせ教えてくださると、私たちは生活の中で出来るようになります。

私たちがみことばを読む時には、聖霊様に「私が聖書を理解できますように。
悟ることができますように。生活の中で適応できますように教えてください。」と祈ることです。


【ヨハネの福音書14章26節】

私たちは生きている時に色々な問題に出会います。
どのように解決をしたら良いかわからないので、答え(解決する方法)が欲しいのです。

その時に聖書をあちらこちらを開き(解決する答えを)探します。
そしてなかなかみことばが見付からない時は、祈ってみてください。
すると以前に聞いたみことばが思い出されてきます。これは聖霊様が私たちにそのように
させてくださるのです。

聖霊様は生かす霊であり、宣教の霊であります。
聖霊様は必ず死んだ者を生かす霊であります。

死んだ者も生かしますが、また弱い者も生かす働きもするのです。
イエス様と共に3年間いても弟子たちの姿はとても弱かったです。人間の顔色をうかがったり、
不安がったり、失敗が多かったり、勝手な思いもありました。
イエス様が地上から離れる時もその姿が変わっていませんでした。

しかし、聖霊が五旬節で降った時に弟子たちの変化は驚くほどでした。
聖霊が降った時に神様の言葉がありました。「聖霊があなたたちに降ると、力が与えられます。」
この力が生かす霊であります。


【エゼキエル書37章2節】

谷間にたくさんの干からびた骨がありました。それは死んだ人の骨であります。
預言者が「これは生き返ると思うのか?」  これは人間の目から見たら不可能であります。
「骨に預言せよ。」と言いました。すると主が預言した通りに干からびた骨が立ちあがり、肉が付いて
息を吹き込んだ時に生きた者になりました。これは人間の姿であります。

聖霊を受けていない姿が干からびた骨と同じであります。そこに命がないです。
しかしその命がないところに聖霊様が降った時に命が生まれました。

ですから、聖霊が臨むと死んだ者が生き返るのです。それは魂だけではないです。
みなさんの家庭が死んだような状態であるならば、「あぁ、ダメだ。この家に帰りたくない。」ではなく、
家の中で「ここに命よ、溢れよ。聖霊様、この死んだ家庭を生き返らせてください。」と命じることであります。

「神様、死んだ職場を生かしてください。」、「死んだ私の心を生かしてください。」
そこに聖霊様の力が注がれます。


【ゼカリヤ書4章6節】

聖霊様の力の大切さを教えています。人間の力だけでどんな働きができるのでしょうか?

いつも聖霊に満たされてどんどんアップグレードしていく(容量を大きくしパワーを付ける)ことであります。
そうすると色々な働きができるようになります。


【Ⅰテサロニケ5章19節】

弟子たちが聖霊を受けた時に、火のような聖霊が降りました。
(聖霊を)消すということは、その「火」を消すことであります。
私たちはその火を燃やしていかなければならなく、燃やしていくのがアップグレードすることです。
しかし聖霊様を無視するならば、共におられる聖霊様なのにまるで共におられないようにするならば
聖霊様に向かって「引っ込んでいなさい。口を挿(はさ)まないでください。」と言っていることであります。

聖霊様は導こうとするのに、言うことを聞かないなら、「聖霊の火」を消すことです。
これは私たちに1つも良いことがないです。

私たちの人生を輝かせようとしているのに、自分の欲や計画が強すぎて、いつも導きに対して
無視をしています。

そして罪を犯しても悔い改めないので悲しませています。

私たちは聖霊様の人格を認め、世の中で一番素晴らしいコーチが来てくださったので
常に教えていただくことです。自分が改め正す部分を他人ではなく、聖霊様に聞くのです。

「立派な選手として実を結ぶために私をコーチしてください。自分の力では出来ません」と
このように祈るならば、聖霊様は知恵や すべてのものを用いて私たちを変えてくださいます。

自分のやり方でするならば、その人たちは立派な者には絶対なれないです。

私たちはいつも聖霊様を歓迎し 導きを受け、そして聖霊の賜物も自分が働くための大事な道具で
ありますので、それも求めながら日々聖霊を求めましょう。

聖霊様はとても喜んで聞いてくださると思います。その人の手足となって教えてくださると思います。

日々、聖霊様と仲良くしましょう。 (⌒-⌒)b

2013.5.19
ペンテコステ・聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖書が記録された目的

テーマは『 聖書が記録された目的に対して 』です

【ヨハネの福音書20章30-31節】、【ヨハネの福音書21章25節】

クリスチャンにとって聖書は「命の書」であります。
クリスチャン生活を送るうえで、もしも聖書が無ければどうなるでしょうか?
――それは食べ物がない状態と同じです。飢え渇き死んでいきます。

聖書があることで、自分たちの霊が守られていることを、私たちは知っています。

聖書が記録された一番の目的は、ヨハネの福音書20章31節です。

ただの「イエス」ではなく、神の子・イエスの「神の子」の部分が大切であります。
神の子を信じるということは、イエス様は神様であるということです。

イエス様を信じない人は、人間の子でしか見ていない人が多いです。
多くの異端がよくそのような話をします。

キリスト教はイエス様が教祖なのです。多くの宗教にあるような、人間の教祖です。
ですが、私たちクリスチャンは一度もイエス様のことを教祖と呼ばないです。
なぜならそれは、神の子であるからです。

聖書は、イエス様が神の子であること、そして私たちを救うために人間の姿をもってこの地上に来られ、
罪を犯した人間を救うために、その肉体を十字架にかけるために来られました。
それを聖書が私たちに一番教えています。

聖書は、自分の知識のために読む人も多いですし、疑いの心をもって読む人もいますし、
キリストが神ではないことを証明するために聖書を読む人も多いです。

しかし、クリスチャンが聖書を読む時は、神様が聖書を記録した目的通りに読まなければいけないです。
それは私たちのために来られた仲介者、神様と人間を和解させるために来られた主であるということを
私たちが信じることであります。

神様の知識・情報を「聞く」だけで終わる人が多くいます。
聞くだけで救われるわけがないです。真の神であることを信じて、初めて魂が救われます。
魂が救われることは、永遠の命を得ることであります。


【ヨハネの福音書3章16節】

聖書は人間が作り出したものではなく、聖霊によって動かされた人たちが作ったものであります。

聖書を読む時に、「 そこに神様の姿・全地を造られた主、人間を愛しておられる神様、
そして今も生きて働いておられる神様、これからの将来すべてのことを計画しておられる神様 」
それらの姿を私たちは聖書の中で見なければならないです。
ですから神様を発見することが一番なのです。


私たち個人に対して、クリスチャンはどのように聖書を読むのか?は次の箇所です。

【ローマ15章4節】

教訓を与えます。昔、信仰をもって歩んだ姿を見て、自分たちがしっかりと学ぶことであります。
周りにいるクリスチャンたちや、自分たちの前を進んでいたクリスチャンたち、
従順に歩んだ者たち、不従順に歩んだ者たち、その結果がどうなったのかを私たちが学ぶことであります。
「どうしてこの人は祝福されたのか」、「どうしてこの人は倒れてしまったのか」と、その結果には原因があります。
神様はそれを隠さずに聖書に記録しています。
それは、「あなたが読んで学んで教訓を受けなさい」ということであります。


【Ⅰコリント10章11節】

学ばないと教訓にならないです。


【Ⅱテモテ3章15-17節】

聖書を知らないと、本当の働き人にはなれないです。みことば(黙想)と祈りに専念することです。
聖書は たくさん読むよりも、短く深く読む方が良いです。
しっかりと理解をして自分に適応できるように聖書に触れることが大切であります。

たくさん読んでも1つも頭に残っていないならば、ただ舐めって終わったことになるのです。
自分が何を読んだかもわからないならば、それは間違った読み方であります。
ですから同じ箇所を繰り返して、掘っていき、「神様は私に何を要求しているのだろうか?」と
自分の姿が全然違うのなら、そこで気付いて直して立ち上がることが、本当の意味での訓練なのです。

訓練はただ聞くだけで終わるのではなくて、それによって自分を変えていくのが訓練であります。

神様はそのように訓練をして、(私たちが)良い働きのために相応しい充分に整えられた者となるためです。
私たちが聖書を読みながら、「神様、これによって私がこういう訓練をしっかり受けて、私が整えられる者に
なりますように」と祈ると良いです。


【Ⅰヨハネ2章26節】

終わりの時には、惑わしの霊がものすごく働きます。
ですので、みことばを知らない人たちは一番惑わされます。

サタンは、クリスチャンたちを信仰から落とすために、似たような言葉ですが真理ではない言葉を持ってきて
惑わします。
ですから、みことばを正しく知らないと、その人が惑わされます。

異端は信じていない人が作ったものではなく、信じて教会に通っていた者が異端を作ります。
似たような言葉ですが真理ではないことに騙されている人が、どれほどたくさんいるのかわからないです。

目を覚ますことが大切で、みことばの上にしっかりと立つことであります。
しっかりと立っているならば、サタンはその人を惑わすことができないです。

その人は、真理そのものを握っていますので偽物はすぐに分かります。

聖書は、偽物と本物を見付けるための大切な基準でもあります。
普段からしっかりと聖書を読んでください。
これから起こる終わりの時代に、騙されないために真理を知ってください。 (・◇・)ゞ

2013.5.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神様の栄光のため

※テーマが語られませんでしたので、内容を聞き 決めましたことをお許しください。

テーマは『 神様の栄光 』です

【ヨハネの福音書17章1-5節】

この箇所は、イエス様が自分のために、そして父なる神のための祈りです。
6-19節は弟子たちのためのとりなしの祈りです。そして20-26節は新約時代の聖徒たちのための祈りです。

ヨハネの福音書17章は、イエス様がどういう祈りをしたのか知ることができます。
それは私たちの祈りの生活においてすべて役に立つものであります。

イエス様が人々のためにとりなしの祈りをする前に、ご自分のためにも祈りました。
イエス様はご自分で何でも出来る方ですが、何でも自分の思いのまましなかったのがイエス様の姿であります。

イエス様はここで「父よ。」という言葉を使いました。
これはイエス様と神様の関係を表す言葉であります。

旧約聖書では、神様のことを「父よ。」と呼んだ人は1人もいません。イエス様が最初であります。

また、イエス様が「神様。」と呼んだ時もあります。それは十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしを
お見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27章46節)と、この箇所だけであります。
他の箇所は全て「父よ。」と呼んでいます。

これは、イエス様がそのように呼ぶことによって、私たちも呼んで良いのだということであります。
イエス様は「あなたたちも祈る時に、父よ。と呼びなさい」と教えてくださいました。

「父」と呼ぶのは、とても親密な関係であります。「神様」は遠い存在であり、恐れおののかなければ
ならない存在でありましたが、イエス様が和解させたことによって近い存在になりました。

【マタイの福音書23章9節】

血を分けた肉親の「お父さん」のことを神様は止めたのではなく、他の存在に対して私たちが「われらの父」と
呼んではならないということです。

私たちが祈る時に「父よ。」ということができます。それは罪でもなく、神様を軽く見たのでもないです。
パリサイ人は、みだりに呼んではならないと色々と非難をしましたが、イエス様ご自身が 父よ、と呼びながら
私たちに対しても 父よ、と呼びなさいと語っておりますので、私たちも呼ぶことができます。

ヨハネの福音書17章1節に書かれている「時」というのは、十字架にかかる時のことで、
イエス様は十字架にかかることはどういうことかをよく知っておられました。どれほど苦しみがあるものであるのか、
どういう死に方をするのかを最初から知っていました。それが目の前に迫ってきていることがわかりました。

そして十字架にかかることは、父のみこころに適うことでしたので最後まで出来るようにしてください。
そうでなければ主の栄光が表れないので、そのためにイエス様が来られました。

イエス様は神のみこころを行うために来られた生涯でありました。

そして人間そのものが創造された時に目的がありました。
人間は神の栄光のために創造されました。ですから私たちは、その人生を生きなければならないです。

しかし罪が入ってきてから人間は自分勝手に歩む者になりました。

「神様の栄光と私は何の関係があるのですか?そのために私が生まれてきたなんて考えられません」と
クリスチャンがそのように言ってはいけないです。

世の中の人たちは、神様という存在すら知らないので、自分が神によって造られたことも知らないです。
ですから、目的を知らないです。

でもクリスチャンは、神様に救われてから聖書を読んで初めて人間がなぜ生まれてきたのか、
自分がなぜ救われたのかを知りました。神様は「あなたは私の栄光を表すため造られたのだ。
あなたが選ばれたのも、わたしが造られた通りに
あなたがそれを悟って生きるためであるのだ。」とおっしゃいます。
ですから私たちが救われてから1番の目的は「神様の栄光のために生きる」ことであります。

イエス様は一度もご自分の意思で決めたことがないです。


【ヨハネの福音書5章30節】

これが神様の栄光を表すことであります。
神様の栄光を表すと言いながら 自分が望むままをするのは、どうやって神様の栄光を表すのですか?

悪と善の基準は何でしょうか?

「良い事だからこれは全て善である。反対にこれは悪い事だから悪である。」 というのではなく、
聖書の善と悪は、みこころを行ったのか、みこころと違うことを行なったのか、であります。神様が基準なのです。
自分の判断が基準ではないです。士師記の時代は、皆が自分の判断で動きましたので秩序がありませんでした。

みこころをそのまま聞いた通りに行うことが、神様の栄光に繋がります。
なぜならそれは神様が喜ぶからです。(神様が)してほしいことを行う時に神様はとても喜ばれます。
神様がそれを栄光として受け取ります。

たとえ良い事であっても、神様は今して欲しいことと、今して欲しくないことがあります。
礼拝中のみこころは、私たちがみことばを聞くことであります。マリアのように一生懸命に聞きます。
しかし、「○○をしなければ」と他のことをするならば、たとえ信徒たちに仕えることであっても
神様は喜ぶはずがないです。


【ヨハネの福音書6章38節】

目的がはっきりとしていて、これが揺れたことはないです。
父なる神様が栄光を受けるように、そして父なる神様が栄光を受けるならば、それが自分たちの栄光になります。


【ヨハネの福音書17章5節】

イエス様ご自身が最期の最期まで父なる神の栄光を表すために生きた生涯でありました。
イエス様は生まれた時から聖い生活をしながら父の栄光を表していました。
過酷な人生でありましたが、いつでも、どんな時でも父に感謝を捧げていました。
感謝を捧げる生活は、神様に栄光を捧げる生活であります。
罪から離れて自分を聖く保つ生活も、神様に栄光を捧げる生活です。

私たちが何か業績を残したり、何か働きをするのが、神様の栄光だと思う人が多いですが、
そうではないです。

私たちが聖なる者になればなるほど、神様は栄光を受けます。

人々から「クリスチャンはやっぱり違う。」と言われた瞬間に、父なる神様は喜びます。
神様に出会って変わっていくことが 神様が一番喜ぶことであります。
神様に出会っても何一つ変わっていないというのは、神様を悲しませることであります。

私たちが従順するのは、みこころを行う姿ですから 神様が栄光を受けます。
そしてサタンに勝利したことによって父は栄光を受けました。
サタンの奴隷にされてしまうと、神様は本当に悲しまれます。

サタンの誘惑が来ても 闘って勝利をするならば、私たちは勝利者になって、それが神様の栄光になります。

私たちは、イエス様を見て栄光を表す姿がどういうものであるのかを見ます。
私たちは自分の力では出来ませんので、祈りの中でイエス様が祈ったように祈るべきであります。

「私の生涯が死ぬまで父の栄光を表す生涯になりますように。
私が何をしていても、そこに父の栄光が表れるものになりますように。私が神様に恥をかかせる者ではなく、神様の心に私が苦しみを与える者ではなくて、
私は小さな者ですが、父のみこころを行うことで 父が栄光を受けますように。栄光を捧げる人生になりますように。」
それを私たちが祈ることであります。

ただ自分たちの願いを言うのではなくて、私たちが神様の栄光を表すことを1番目にすることです。

私たちは明日死ぬかも知れないし、あさって死ぬかも知れないし、私たちは自分の「時」がわからないです。
ですから命を与えられている今、そのことをしなければならないです。

毎日毎日、主の栄光を表すことを1番にし、その後に色々な自分の計画をすることで
神様は私たち自身の栄光をも表してくださいます。それを覚えましょう。

神様の栄光を後にして、自分の栄光を先に受けようとするならば、神様は与えないです。

すべてのことを神様の栄光のためにするならば、私たちの人生は本当に豊かな実と
神様に喜ばれる実がたくさん結ばれると思います。

イエス様がそうなられたように、私たちもそうなると思います。 (*´ω`*)

2013.5.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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