からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2013年04月

主に委ねるとは?

テーマは『 主に委ねよ 』 です。

【詩篇55編22節】

ダビデが客観的に自分自身に向かって語っている言葉です。
詩篇55編を見ると、ダビデが大変な状況にいることがわかります。


【詩篇55編1-8節】、【詩篇55編16-19節】

ダビデほど色々なことを経験した者はいないです。
詩篇は私たちが苦しい時に読む事が多いです。なぜならば、自分たちの中にある色んな思いを
とても詳しくピッタリと表現をしてくれるからです。それはダビデの頭から出たものではなく、
心、身体、環境で体験をして語った言葉だからです。すべて自分で経験をしたものであります。

ですから、何も経験をしないで頭で考えて書いているものとは全然違います。
それで自分たちが共感をする部分がすごくたくさんあります。

ダビデの敵は、彼の家族でもありました。家族や子供がダビデを苦しめました。
親しい友までもダビデを裏切りました。末っ子であるダビデを兄弟たちは冷たい仕打ちをしました。
結婚をしても家庭が平安ではなく、子供たちがダビデをすごく苦しめましたし、長男はダビデを
殺そうとしました。ダビデは悪い事をしているわけではないのに、彼の周りには敵が多かったです。

主は「ダビデはわたしの心に適った者である」と語りましたが、彼には色々な問題がありました。
しかし、その中でもダビデが潰れなかった理由は何でしょうか――?

【詩篇55篇22節】で語ってある通り、重荷を主にゆだねたので神様は彼を救い出してくださいました。
そのことをダビデは経験をしましたので、このような言葉が言えるのです。

ダビデはどんな時でも神様を見ていました。そして重荷を神様に委ねることを日々体験しました。

(金ヘス牧師が)実際に色々な相談を受ける中で、クリスチャンたちが多くの部分で勘違いをしている部分が
見えてきます。相談をする人には2つのタイプがあります。
表情に「問題があります」と書いてあるような曇った顔をしている人たちがいます。
「何かあったのですか?」と尋ねると「こういうことがありました。」と言います。そして、
「神様が私に与えてくださった十字架なので耐え忍んでいます。」と言って、黙って忍耐をしている人がいますが、
(このような姿は)特に真面目な人に多い傾向があります。

しかし、「十字架」と「重荷」は違います。

十字架は福音のために、主の名のために受ける苦しみです。自分がイエス様を伝えることによって、
また みことばを守ることにより生じた様々な苦しみであります。(ヨブがそうでした。)

自分に降りかかった苦しみを全部神様に委ねました。
そのことで失ったことに対してはヨブは一言も(不満を)言いませんでした。
私たちは失ったものに対して、ものすごく神様に文句を言います。それは十字架ではないです。

神様によって生じたものだけが十字架であります。

神様は立ち返らせるために、悔い改めの材料にしますが、十字架(使命)ではないです。
ですが、多くのクリスチャンたちが錯覚をして「どうして私にこんな重荷を神様は負わせるのですか?」と
言う時があります。
それは十字架ではないので重荷をおろして神様に委ねなさいと、はっきりと言います。
サタンに騙されている部分がとても多くあります。
サタンは「(あなたは重荷を)負っていなさい。それはあなたの十字架なのだ。」と言います。
しかし、それは十字架ではないのです。その人自身から出て来た色々な思いがそれを手放しません。

本来ならば手放すものなのに「私の訓練だ」と自分の背中に背負います。
そして苦しみながら「忍耐をしないと。耐えなければ神様が喜ばないんだ」と言います。

そのような考え方を変えなければならないです。神様から与えられた十字架ではないので、
それはあなたが背負っている重荷に過ぎません。

みことばには「あなたの重荷を主にゆだねよ。」と書いてありますので、背負ったままですと不従順になります。

神様は私たちが重荷を背負っていることに対して心配をしてくださいます。
神様は問題を見て心配をするのではないです。その問題を手放さないで抱え込んでいる人を見て
心配をするのです。

重荷を手放すと神様が解決させてくださいます。それが神様のみこころであります。

また、重荷以前に 神様は委ねてほしいことがあります。


【詩篇22篇10節】

自分自身を、命を与えてくださった神様に委ねることであります。
「私を神様に委ねます。」、「私を導いてください。」というのが私たちがすべきことであります。


【詩篇22篇8節】、【詩篇37篇5節】

私たちは神様の前で1つ告白すべきことがあります。
「神様、明日の事は私は何1つわかりません。」と、明日何が起こるのか誰もわからないです。
ですから「神様が私の道になってください」と告白をします。

神様はすべてのことを委ねなさいとおっしゃいます。
家族の問題も私たちの力で(解決)出来るものではないです。


【Ⅰペテロ5章7節】

1つの問題が生じると、一瞬にして思い煩いが私たちを襲います。それによって疲れてしまいます。
しかし神様が私たちが思い煩いで嘆いている姿を見て、心配をします。

ダビデも自分の命を狙う者の中で泣きながら うめきました。
だけどそれは思い煩いではなく、祈っている姿であります。
思い煩いと祈りは全く別のものであり、
思い煩いは肉から出たもので、祈りは神様から出たものです。

祈ると神様が働き、思い煩いがあると私たちの中の信仰が消えていきます。
信仰がなくなると、私たちは神様との関係がどんどん遠くなっていきます。

信仰は神様に近づいていく力であります。神様を信頼し、見上げることです。

思い煩いは問題を見る事であります。問題を見つめると、徐々に力を得て問題が大きくなります。
問題が目の前にあっても私たちはそれを見るのではなく、祈りによって神様の力が表れるように
神様が問題を持っていってくださるようにしなければなりません。

祈りは神様を動かす力でもあります。求めるなら与えられる約束があるので、
私たちがその言葉を握りしめて神様に求める時に、神様が答えを持ってきてくださいます。
ダビデのように朝も昼も夜も祈ったら良いのです。神様に訴えたら良いです。

祈るならば問題が早く解決されます。

次のみことばはダビデの姿です。


【Ⅱサムエル記22章31-35節】

委ねて祈ると神様は乗り越える力を与えてくださいます。それによって私たちは問題を解決する
こ とができます。


【Ⅱサムエル記22章47-51節】

このような姿を私たちは学ぶべき姿であります。どのように委ね、どのように神様との関係を
結んでいったのか、このようなことが聖書には書かれています。

敗北した者はいませんでした。委ねた者は全て神様によって救い出され、勝利者になったことを
私たちは学んでいきましょう。

力あるイエス様が傍にいるのに、(自分は)何をしているのか、自分の姿を見てください。

信仰によって主に信頼して委ねようとするならば、恵みを体験することができると思います。 (*´∇`*)

2013.4.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンの特権

テーマは『 主に出会った時に与えられたもの 』です

【 ヨハネの福音書1章12節 】

私たちがクリスチャンになって神様から与えられたものを知らなければならないです。
それは全て霊的なものです。

聖書を読んでいると無知という言葉がたくさん出てきます。
神様を知らない人だけが無知なのではなく、神様に出会って自分がどういう存在に変わり、
神様から何が与えられたのかを知らないということも無知であります。

それらを知らないと、救われたにも関わらず(自分が)神様についているのかも分からず、
古い人のままなのか、新しい人になったのか 分からないので さまよいます。ですから簡単に妥協します。

クリスチャンになったからといって、急に顔や生活習慣、性格や行動が変わるわけでもないです。
しかし内側は全く違うものに変わっていることを気付かなければならないです。
気付かなければ、そのように生きることができないです。

今回は自分は何者なのかということを語りたいと思います。


【 ヨハネの福音書1章12節 】

神の子どもになった「特権」とありますが、これは身分であります。
神の子どもというのは、私たちが生まれながらに神様の子どもということではないです。

もともとは神様に造られた子どもですが、私たちが罪によって自分の魂をサタンに売り渡していました。
ですから以前は罪の奴隷でありましたが、イエス様の血によって代価を払い神様の子どもとされました。


【 ヨハネの福音書3章16節 】

「永遠の命」です。これは私たちが自ら棄てない限り、永遠に私たちのものであります。


【 ヨハネの福音書8章32節 】

「真理」です。真理はイエス様であります。そのイエス様を知るということは、イエス様に出会ったことであります。
“あなたがたを自由にします”という言葉は、罪の奴隷から自由になるということです。
誘惑は必ず来ます。
以前は罪の奴隷だったけど、今はキリストにあって私は自由になったと言葉で宣言をすることで
サタンは逃げていきます。


【 マタイの福音書11章28-29節 】

安らぎ=「平安」です。イエス様が来なさいとおっしゃられて、その言葉を聞き、来た人は安らぎを得ます。
安らぎを得た人の姿が書かれている箇所は【 マルコの福音書5章32-34節 】です。
長い間、長血でとても苦しんでいた彼女は全てがダメになるほど酷い目に遭いましたが、
自らイエス様の前に出て  イエス様の衣に触れました。そして彼女は心も体も癒されて平安な心で帰りました。
私たちもイエス様に色々なことを打ち明けて、重荷を降ろして帰るのが主が私たちに与えてくださった
祝福の約束であります。

ですから心に安らぎがない時に、主の前に来てください。そして重荷を降ろしてください。
重荷を降ろさないで、ただ愚痴だけをこぼして そのまま帰るのではないです。
「私に平安をください。私の重荷を全部イエス様に委ねます。」と任せて、安心して帰ったら良いと思います。


【 使徒の働き2章38-39節 】

「聖霊」が与えられています。私たちが罪を悔い改めてイエス様を信じた時に、賜物で与えてくださいました。
聖霊はお金を払って得られるものではないです。
信じたら誰にでも聖霊を受けることができます。


【 使徒の働き16章31節 】

「救い」が与えられます。救いを受けるためには他に道はないです。
信じたら救われます。魂の救いがないと天国に入ることができないです。


【 ローマ3章26節 】

「義」です。イエス様を信じるということは自然とイエス様が十字架に架けられた時に流した血が注がれています。
血を流すことによって罪が赦されます。罪が赦された状態が「義」(正しい者)であります。
自分で一生懸命 努力をして正しい事を行い、私を義と認めてくださいと言っても
神様は絶対にそれは認めないです。
それは神様の方法とは違うからです。イエス様の血を注いで初めてその者を義と認めてくださるので
私たちが信じたその時に、神様の目から見て義とされています。


【 ローマ8章30節 】

「栄光」です。(みことばは)過去形で書かれてあります。信じた者だけに神様が次々と与えてくださったものです。
人間の努力によって得られるものは1つもないです。すべてイエス様によって私たちが得るものなのです。


【 Ⅱコリント2章14節 】

「勝利」です。私たちは神様から勝利を得ている者であります。
以前はどんなに世の中で立派な地位を得ても、結局その道は滅びの道でありますので
全てが虚しいものになっていき、敗北者で終わります。
しかしイエス様を信じたその時から 私たちはイエス様の足跡についていくものになります。
主は勝利をしましたので、イエス様と共にいる者は、その行列に入れてもらえます。
キリストが私たちを勝利者にしてくださいました。


【 Ⅱコリント5章17節 】

「新しいもの」にしてくださいました。自分にその認識がないと新しい者としての生き方ができません。
この世に引っ張られ妥協をしながら古い人のまま生きているのは、
神様のみこころと自分が何者かを知らない者であります。
私は新しく造られた者なんだと宣言をしたら良いです。私は神様の子どもの特権があることを告白していきましょう。


【 Ⅰヨハネ1章7節 】

「罪の赦し」です。神様は私たちがこれからも罪を犯すことを知っておられます。
イエス様の血には私たちの過去、現在、未来の全ての罪までも聖める力があります。
私たちは罪から生まれた者であり、私たちの中にそのようなものが染みついています。
ですから罪を犯した時は、そういうことを告白するなら 神様は またイエス様の血をもって注ぎ、
私たちの罪を赦し、聖めてくださいます。
悔い改めないなら赦されませんが、悔い改めるなら神様によって聖められます。これは聖書の真理であります。


【 ヨハネの黙示録3章5節 】

信じる者は、いのちの書に名前が書かれます。「○月○日にわたし(神様)の子どもになった」と
これがないと神の御国に入ることができないです。

クリスチャンの中に疑問に思っている人たち、開き直っている人たちは
信じた時にいのちの書に名前が書かれてあるから、その後は神様から離れて罪を犯したとしても、
神様は名前を消すことがないから、私は必ず天国に入るんだ。という人たちがいます。

それは全て真理でしょうか――?
そうではないです。なぜかと言うと【 ヨハネの黙示録5章5節 】に書かれてあります。
もちろん神様は信じたその時に、いのちの書に名前を書いてくださいますが、
その者が神様に背を向け、裏切り、悔い改めることもせず、罪の中にどっぷり浸かって生活をするならば
もはや、その者は神の子ではないです。そして いのちの書から名前が消されます。
しかし勝利をする者は、神様の方から いのちの書の名前を消すことは決してないです。


勝利をするということは、特別なことをするのではく、神様の中にしっかりと留まることであります。
そして、いのちの道を最後まで歩く者が勝利者であります。

まとめると次のとおりです。

  • 神の子どもになりました。
  • 永遠の命を受けました。
  • 自由を受けました。
  • 安らぎを受けました。
  • 聖霊を受けました。
  • 救いを受けました。
  • 義と認められました。
  • 栄光を受けました。
  • 勝利を受けました。
  • 新しくなりました。
  • 罪の赦しを受けました。
  • いのちの書に自分の名前が書かれました。

これらは素晴らしいものであります。これを私たちが信じた時に、神によって全て受け取ってあります。
どれほどクリスチャンという身分は素晴らしい身分であり 特権があるのか、
素晴らしい祝福を私たちが既に受けています。

主に感謝をしながら、その者らしく私たちが生きるべきであります。 ( ´∀`)つ

2013.4.21
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンの人生とは?

テーマは 【クリスチャンの人生】 です

【Ⅱコリント5章17節】

みことばを聞きながら自分自身を診断したら良いと思います。
みことばは、クリスチャンの人生とはどういうものであるのかを教えています。

日曜日に礼拝に来るのがクリスチャンだというのは違います。
クリスチャンが礼拝を守るのは当然のことです。
聖書を読んでいるからクリスチャンの人生を生きているというのは 一部分であります。

クリスチャンの人生は、生活の中にクリスチャンとしての様々な姿が実際に出てこなければならないです。
人生は生活そのものであります。
クリスチャンは、キリストにあって古いものが過ぎ去り、全てのものが新しくなった時から
スタートであります。新しくなった その時から新しいものとして生きるのがクリスチャンであります。

しかし、どのように生きたらクリスチャンの人生になるのかは、よく分かっていないです。
その部分を3つに分けて紹介します。


①信仰によって生きる

私たちは、信仰によってクリスチャンになりました。
毎日信仰によって生きるのがクリスチャンの人生であります。
神様は「義人は信仰によって生きる」と語りました。
義人は神様が認める正しい人であります。
神様から見て正しい人というのは、キリストに出会って信仰により救われた姿、罪が洗われた人を言います。
義人になった瞬間から、その人は信仰によって生きなければ意味がないです。

新しい者(義人)になったならば、その時から神様をもっと頼りながら信仰によって生活をしなければ
ならないです。

私たちが救われると、イエス様が私たちの心の中に入ってきます。これがクリスチャンであります。

以前はサタンの奴隷であり、サタンが私たちの心を支配して欲のままに生きていました。
しかし、救われたことによって変わってきました。私たちの中にイエス様が入って来てくださいました。
もし信仰によって生きないならば、「何をしても天国に行く」と言って、相変わらず古い人のままで
生きるならば、主は一緒に暮らすことはできません。その時から私たちの心はエデンの園ではないです。
主が共にいるのでエデンの園であります。

以前、私たちは広い道を歩きました。その道は大勢が歩いています。最期は滅びで、永遠の地獄です。
しかし信仰をもって救われたその時から道が変わってきました。険しくて狭い道であります。
しかし、その道は「命の道」であります。

命の道を通っているのに「この道はしんどい、歩きたくない。辛い。試練も多い。世の中の不利益もある。
日曜日に礼拝に行かなければならない。クリスチャンとしてこれもあれもしなければならない。」
「以前の方が良かった」と言って、そこから再び広い道に行くならば、その先には永遠の命はないです。

毎日、私たちは永遠の命の道を歩いているのかどうかを自分で点検しなければなりません。
狭い道だけを歩くのが信仰の道であります。

毎日、毎日、楽な道を歩くならば、その先は暗闇の世界です。
そのことを私たちは知らなければならないです。

「弱くて、まだ信仰が足りないけれど、『 それでもその道を選ぼう 』と、神様に私の力ではできません。
助けてください。この永遠の道を歩けるように、みことばに従って歩けるように神様 助けてください。」と
私たちが祈りながら神様に頼るならば、それが信仰によって生きる道であります。

完璧に守ることは誰にもできないです。だけど「神様、私は弱い者です。私は倒れやすい者です。
誘惑に負けやすいです。でも神様、信仰によって生きられるように私を助けてください。」と求めます。
信仰とは頼ることであり、自分の力では出来ることではないので、自分の力で出来ないことを認め
神様の力を求めるのが信仰であります。
それが信仰によって生きる人生であります。


②従順によって奇跡を体験する生活

不可能な部分は出来ないというのは、クリスチャンの人生ではないです。

聖書に書かれている出来事は奇跡だらけであります。

奇跡を行う神様ですので、クリスチャンはこの奇跡を必ず体験しなければならないです。
自分の力で「これは不可能で どうにもならない」と思うことを、信仰がある人は神様に奇跡を求めます。
「神様、私の力ではどうにもなりません。不可能に見えます。でも私は不可能であるからといって絶望しません。
神様の奇跡を見せてください。」――それがクリスチャンの人生であります。

神様はいつも奇跡を備えてあります。その時に必要なのが、従順であります。
(多くの奇跡が起こっていることの前提は)「あなたがみことばに従うならば奇跡を見る」――です。

信仰の先祖・アブラハムも同じでした。当時アブラハムは100歳で、サラは90歳でした。
サラは不妊の女性でした。
自然の法則で見ると子供を産むことは100%不可能でありました。
サラは神様の言葉を聞いて心の中で笑いましたが、神様は「約束の言葉を信じなさい」と語りました。
信じることは従順です。

自分の頭の中で「そんなことはない」と言うのは不従順であります。

病気で「余命○カ月です。薬もなくて手を尽くすことができません。」と医者に言われた時に、
「そうですか。」と死ぬ日を待つのは、普通の人であります。
しかし、クリスチャン達はそこで引き下がるのでしょうか?
神様の御前に出て、祈るべきであります。神様は奇跡を行いたいです。

従順すると、神様は不思議な方法で道を開いて与えてくださいます。
その奇跡を体験する人は、信仰がどんどん成長していきます。

奇跡を体験しない人たちは、普通の人の生活をします。
クリスチャンでも奇跡を体験しない人、信じない人が大勢います。ですから信仰生活が面白くないです。

奇跡を日々体験する人は、神様なしには生きていけないです。


③毎日生まれ変わること

毎日生まれ変わることによって、新しい者として生きることができます。

どんなに新しい者でも、そのままだったら古い者になります。そうすると枯れて死んでいきます。

日々、イキイキしている人と、最初は(信仰が)熱かったのに段々生温くなり、冷めてやめてしまう人との
生活は何が違うのかと言うと、日々生まれ変わることをするか しないかの違いであります。

日々生まれ変わるということは、どういうことでしょうか?
それは日々、肉や自分の古い性質を十字架につけて殺すことであります。それをしないならば、新しくなれません。

いつも自分が聖くなるための努力をしないと、罪と咎が増えて古い人が蘇ってきます。


【Ⅰペテロ1章15-16節】

儀式を行うからクリスチャンではなく、
信仰によって生きる人生、従順によって奇跡を体験する人生、日々生まれ変わることによって新しくなる人生、
これこそがクリスチャンの人生であります。

クリスチャンとは何ですか?と質問された時に、「教会に行くのがクリスチャンです」と答えるのは大きな間違いです。
教会に行きながらも異邦人がたくさんいますし、教会に行きながらも神様に出会っていない人もたくさんいますし、
教会に行きながらもいつまで経っても(信仰が)赤ちゃんのままの人がたくさんいるのです。

そうではなくて、「信仰によって救われ、信仰によって生きる人です。従順することによって、神様の奇跡を
たくさん体験する人生です。そして古い自分を棄てて、どんどん新しくなっていくのがクリスチャンの人生です。」と
自分たちがそのように生きなければなりませんし、
周りの人にクリスチャンのことを正しく説明しなければならないです。

十字架にかけられたイエス様を信じた人は、自分もイエス様と共に十字架につけなければいけないです。
それが日々死んで生まれ変わる姿であります。

毎日私が死んでキリストが私の中で生きてくださいというのが、クリスチャンの人生であることを
心に留めてください。

クリスチャンの人生がどういうものであるのか私は知りませんから、このまま生きます。
今まで通りの生き方で生きます。というならば、教会に来ても全く意味がないです。

キリストは従順し 父なる神に信頼し、実際に十字架にかかって死にました。
これを私たちが見習い、ついて行くのがクリスチャンの人生であります。
狭い道ですが命の道を歩む人であります。追い出されることがないです。

そういう人が最後に勝利を勝ち取ります。

そのような生き方をする私たちになりましょう。 ( ̄‥ ̄) =3

2013.4.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンが語る言葉

テーマは『 クリスチャンの言葉の生活 』です

【マタイの福音書12章35-37節】

心を「良い倉」と「悪い倉」に例えました。
心の中に悪いものがあるならば、それが自然と口から(言葉になって)出てきます。

恵みを受けた人は、言葉が変わっていきます。
以前の言葉は使わなくなります。以前は世の中の言葉を好んで使い、誰かを非難する言葉や
興味のある世のことばかりを語っていました。

しかし恵みを受けた人は、神様のことを語りたくて、うずうずします。誰に対しても神様のことを語ります。
恵みの言葉が、その人の中から出てきます。

言葉は、信仰生活と ものすごく密接な関係があります。

信仰生活をする人が、信仰や神様や恵みの話をしないならば、正しい信仰生活をしていないことであります。

《マタイの福音書12章34節》 に 出てくる「まむしのすえたち」という言葉は、
形では信仰生活を送っているように見えますが、その人たちの口から出る言葉があまりにも悪いのです。
他人を非難したり、罪に定める悪い言葉ばかりが出てきます。

イエス様の言葉はどうだったでしょうか――?
イエス様が来られる以前は、パリサイ人、律法学者、祭司たちが人々に教えていました。
人々はずっとその言葉を聞きながら信仰生活を送っていました。

しかし、イエス様が来られて言葉を語った時に、人々はその言葉を聞き 驚きました。
なぜ驚いたのかというと、(律法学者たちが語る言葉にも似ているのに)イエス様の口から出るのは
恵みの言葉だったからです。

今まで律法学者たちが語っていた(厳しくて 愛のない)言葉で、人々はとても重荷になっていたのですが、
イエス様は、重荷はご自身で負い、人々には恵みを流していきました。
絶望に陥っている人には「心配するな。わたしがあなたと共にいる」と癒し、命を注ぎました。

主から出てくる言葉はすべて私たちにとって益になるものです。

クリスチャンは当然のように、イエス様の言葉を習わなければならないです。
主は「あなたが口を開くならば、どんな言葉を語るのか」と見ておられますので
私たちが口から言葉を出す時には、悪いものを取り出すのか、それとも良いものを取り出して人々に与えるのか、
それを考えなければならないです。

聖書には私たちが避けなければならない言葉や、語らなければならない言葉が書かれています。
私たちは、時が良くても悪くても、口を開いて語らなければならない言葉がたくさんあります。

交わりの時でも、みんな信仰の話をしている時に、黙って何も言わないのは問題であります。
「語る言葉がないです」というのは心が空き缶の状態です。心に何も入っていないので語る言葉がないのです。
神様の言葉が1つも留まっていないので、その人は語る言葉がないです。

また、私たちは語らなければいけなく、語る時には気を付けなければならないのですが、
その前に、私たちは入れ物に気を付けなければいけないです。

悪いものを入れたならば、当然のように悪いものが出てきます。


【エペソ4章29節】

他人を傷付ける言葉を口から出してはいけません。それは相手を汚してしまいます。
自分は他人から悪い言葉を聞きたくないでしょう。
私たちは自分がされたくないことを(他人に)してはいけないです。

悪い言葉を使った本人は忘れるかも知れませんが、後になって神様から裁かれることになります。

クリスチャンは、口(=語る言葉)もクリスチャンでなければ ならないのです。
他の部分はクリスチャンで、口だけはサタン。これはいけないことです。

私たちは言葉を変えなければならないです。これは一夜で出来る事ではないです。

心の入れ物を変えていくならば、自然と使う言葉が変わっていきます。
相手を生かす言葉、慰める言葉、愛の言葉は、恵みを与える言葉であります。


【コロサイ3章16節】

まず自分たちの心の中にキリストの言葉を豊かに入れないと、世のものが入ってくるのです。
毎月みことばの暗唱をしていますが、私たちは心にみことばを蓄えて、必要な時にみことばを出せるように
しておかなければならないです。

聖書のことをたくさん知っていても、知識を誇るのではないです。
自分の知識を誇る人たちがいますが、これは高慢であります。
なぜならば主の言葉は、人に役立つように恵みを流しなさいと語っていますので、高慢を流してはいけないです。

ある人は頭に知識を蓄えて知識を語ります。しかし、それを聞いても相手は命を受けないです。

自分の心で噛みしめて味わい 恵みを受けたものを語るならば、人々はそれを聞いて「私もそうしよう」と思います。

しかし頭の中にある知識を、相手より上に立って教えるならば、
聞いてもどう活かしていけば良いのかがわからないです。知識は知識で終わります。
人に役立つ言葉や恵みを流す言葉を知恵にしていかなければならないです。

「私はこのみことばで、これをやってみました。そしたら本当に神様からの素晴らしい恵みがあって、
そしてこういう結果が出てきました。このみことばで力を受けました。」
これは心に(みことばを)住まわせた言葉です。頭の知識ではないです。

知識は冷たいものであります。知識は「あなた、そんなことも知らないの?」と相手を裁くことになります。
それは恵みにならないし、人の益にもなりません。

真理は正しい言葉でありますが、真理そのものを語る時はその人自身が真理を体験してから語るのが
一番良いです。

まず自分で行い、味わってみて、そして美味しかったものを人に伝えると、相手に慰めを与えることができます。


【コロサイ4章6節】

言葉は内容よりも言い方があります。言い方が悪いと、良いことでもトゲが付いたものになります。
綺麗なお花を渡すならば、トゲは取ってから渡すのが良いです。
「綺麗だなぁ」と思ってもトゲに刺されたなら手放してしまいます。

ですから、私たちが使う言葉もいつも剣であるならば、たとえ真理の言葉であっても親切ではない人が語るなら
剣に変わります。
聖書の言葉はすべて素晴らしいですが、愛のない人や親切ではない人が語るなら、裁くための言葉にしか
聞こえないです。

クリスチャン同士がみことばで裁きあって傷つけていることがたくさんあります。

しかし親切な愛の心で使う言葉なら、叱責の言葉であっても聞き入れるべきであります。

悪い言葉はやめようと努力をしなければならないです。
悪い言葉が出そうな時は口を閉ざし、良い言葉の時は口を開いて語るべきであります。


【詩篇37編30-31節】

【詩篇51編15節】

神様が語って欲しい言葉を語られるようにと祈ることであります。
祈る人は唇に気を付けます。口を開くべきか閉じるべきか、それを判断できます。

私たちは悩みを話したり、問題を話したりすることは良いのですが、ある人たちは常に不平不満や
感謝がなく、いつも自分のことしか語らないのは良くないことであります。
その人は相手の言葉を聞かないです。私たちは聖い会話をするべきであります。
私たちが話している言葉を、常に主が聞いておられるんだということを忘れないでください。

私たちも他人に悪い影響を与える者ではなくて、神様が恵みを流していきなさい、益になる言葉を語りなさいと
語ってありますので、私たちの中に留めて相手に益になるのかを考えてからみことばを使っていきましょう。
 (^∀^)

2013.4.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストの復活

テーマは『 キリストの復活は歴史的事実 』です

【 マルコの福音書8章31節 】

このことは、イエス様が十字架に架かる前、苦しみを受ける前から弟子たちに教えていました。
しかし 弟子たちは意味もわからず聞いていました。

私たちも みことばを“聞いていることは聞いているけど、どういう意味だろう?”と思うことがあります。
特に預言の言葉は難しく、これから(未来に)起こることを語ると、わけがわからないです。
そして私たちが勝手な解釈をしてしまいます。私たちがどれほど霊的無知であるかがわかります。

復活ということは歴史の中でも1つもありません。
ですから、頭で理解をしようとしても理解ができませんでした。「そんなことは有り得ない」という人が多いです。

イエス様の復活はすべての面において証拠が揃っています。復活は事実であります。

当時のユダヤ教には2つの派に分かれていました。
サドカイ派とパリサイ派です。

この2つの派は神様に対しての解釈が違います。

サドカイ派は、大祭司、祭司、そしてその仲間たち、上流階級の人々でした。
彼らは「肉体の復活はない」、「未来の審判もない」、「報いもない」、「御使いの存在もない」と信じていました。
人々の前に出て神様に礼拝を捧げる者・大祭司がそのように信じるのです。

パリサイ派は、保守派でもあり、とにかく律法に熱心でした。しかし形式的で儀式ばかりを行っていました。
律法を守ることが生きがいでした。そして神様の言葉を守っていない者には罪人だと裁き、プライドが高いです。
彼らは復活を信じていました。

イエス様の弟子たちは、直接イエス様から教えられていましたが、復活や生きたまま十字架にかけられることを
聞いても悟れないので信じていませんでした。

しかし 弟子たちは復活したイエス様に出会って初めてわかりました。
復活がどういうものであるのかをハッキリと見たので信じました。それからキリストの復活を伝えるようになりました。

使徒パウロはパリサイ派で、復活を信じていました。しかし実際には信じていなかったです。
弟子たちがパウロに復活のことを語った時に「復活はない」と腹を立て、クリスチャンたちを迫害した者でした。

マリヤ・マルタ・ラザロの3兄弟も、ラザロが死にましたが、みんなが泣いている時にイエス様が来られました。
「よみがえりを信じるのか」とイエス様が語った時に、マルタは「信じます」と言いました。
しかし そう言いながらも、その事実を否定しました。
マリヤは復活する言葉を聞いた時に、それを事実として受け入れました。

多くの人たちは みことばを知識としては信じています。でも実際には信じないです。
牧師や信徒は「癒しを与えてください」と祈りますが、実際に 自分の身に癒しが起こることは信じないです。

これは「知識」と「実際に信じる信仰」は違うものであるからです。

私たちは聖書の言葉をそのまま信じなければならないです。
そして聖書に書かれていることは今も(起こることだと)しっかりと信じなければいけないです。

【 Ⅰコリント15章 】はパウロが書いた「復活の書」であります。

私たちは、復活と聞いてもピンとこないと思います。死んだら天国へ行くことはクリスチャンなら誰もが
信じています。しかしそれは「復活」ではないです。

天国に行くのが復活ではないです
イエス様は復活した時に、別の身体をもって地上に来られ 40日間活動をされました。

今、天国にいる人たちは地上に来て活動することはできないです。それは霊の存在だからです。
しかし復活は 私たちがもう一度、身体を着ることであります。しかしそれは同じ身体ではないです。
時間・空間・病気などに制限を受けないです。私たちは想像ができない身体で復活をするのです。
クリスチャンはそこまで信じなければいけないです。

私たちは復活にあずかるんだという思いがないです。
「死んで天国に行けば良い」と、それだけであります。ある意味ではそれでも良いのですが、
イエス様を復活させた神様は、私たちにもそれを味あわせるのです。

私たちはいつかはわかりませんが、神様が復活の身体を与えてくださり、永遠に主と共に住むのです。
私たちは復活の証人であります。

私たちもその素晴らしい姿に変わるんだという望みをずっと持ってください。

今、私たちは地上で受けている苦しみがありますが、その苦しみもイエス様の十字架の苦難に比べたら
大したことではないです。

私たちは死にますが、私たちより先にイエス様が体験をされました。
ですから、死を恐れる必要はありません。永遠に死に繋がれることがなく、
私たちに必ず 死→復活という素晴らしい奇跡を与えてくださいます。
クリスチャンはそこに希望があります。

人間は自分自身のことを可哀想に思うのですが、イエス様はいつも人を可哀想に思うのです。
不安と恐れの中にいる弟子たちを見て、可哀想に思って「平安があなたがたにあるように」と語りました。

イエス様は私たちを責めない方であります。
しかし私たちは自分を責めても良いのです。なぜなら自分で蒔いたものであるからです。
自分で自分を責めなければ、誰が責めるのでしょうか?
他人から責められたら恨みや憎しみを持つでしょう。
ですから、罪は自分で気付くべきであります。他人から言われて腹を立てるのではなくて、
自分で自身の心を見て、「何という汚い者であるのか」と気付かないと悔い改めができないです。

自分自身を責めている姿を、イエス様が傍でじっと見ながら
「立ち返れ。あなたが自分の罪のために苦しんでいることをわかっている。しかし目を上げてわたしを見なさい。
わたしはあなたを愛して十字架にかかったのだ。だから罪を洗い清めなさい。もう罪を犯すな。」と語ります。

聖書に出て来る罪人たちも、人々が殺そうとしていても、イエス様は「殺したらいけない」と語りました。
愛は強いものです。

【 Ⅰコリント13章 】に出てくるのが本物の愛の姿であります。

クリスチャンはいつもイエス様を見て 心を強くしていき、心をやわらかくし、心に愛を入れておき、
他人を許す心を持って生きる者であります。

イエス様はイースターで完結されました。私たちもイエス様についていくことであります。
中途半端では、よみがえりの祝福を受けることはできないです。

【Ⅰコリント15章】を読んでください。 (´・ω・`)

2013.3.31
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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