からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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2013年03月

3本の十字架

テーマは 『 3本の十字架 』 です

【ルカの福音書23章32ー48節】

「どくろ」と呼ばれる同じ所に建てられた3本の十字架ですが、行き先が全然違います。

私自身はどこの十字架にかかっているのかを見なければならないです。


①滅びの十字架

犯罪人がそこに架かりました。
救われていない魂たちが架かる十字架です。自分の罪の刑罰をその身に受けている全ての罪人が、
架かります。

人々は「私は救い主なんかいらない。そこまで私は悪い事をしていない。私は死んでも地獄ではない。天国に行く。」
これは勝手な思いであります。
聖書には、すべての者は罪を犯したので、わたしの元には来ることができないと書かれており、
創世記からヨハネの黙示録まで変わらない真理であります。

この1人の犯罪人はイエス様の傍にいながら、イエス様に向かって罪を犯しました。
とても悪い者でした。これは救われていない人だからそうしているのではなく、
救われていながらも私たちはそのようにしていることが多いです。

私たちは犯罪人になって滅びの十字架を背負って死んではいけないです。


②救いの十字架

もう1人の犯罪人でした。同じ死刑宣告を受けた者は、死と滅びの道で真っ逆さまに地獄へ堕ちる直前に
イエス様に出会いました。

救いのチャンスは誰にでもあります。これは私たちの姿でもあります。

自分に残されたものは「死」しかないと思った瞬間 に違うものがあることを見付けました。
それはパラダイス(天の御国)があることでした。

そして罪のないイエス様には自分達を救うことが出来るんだということがわかりました。
イエス様に謙遜な言葉を語り霊が開かれました。

③力の十字架

イエス様が架かった十字架であります。

死に至る人を救い出す力の十字架です。

光として来られたイエス様が死ぬので暗闇になりました。

私たちは 「イエス様が罪人ではなくて、私が罪人で、とんでもない犯罪人なのです。
私の代わりに十字架に架かったイエス様、本来ならば私がもう1本の十字架に
架からなければならないのに、イエス様が代わりに死んでくださいました。
私はあの救われた犯罪人なのです。」 と、クリスチャンたちはそのように思います。

イエス様は地獄に堕ちていく人たちを救い出すことができる力のある十字架です。


【Ⅰコリント1章18-19節】

私たちは力ある十字架によって救われたことを感謝しなければならないです。
これは一方的な神様の恵みであります。これほど感謝すべきことはどこにあるのでしょうか。

その恵みを受けた者がどうやって感謝をすれば良いのか、
自分自身が今得ている命をもって、どうやったら神様を喜ばせることができるのか、
それを考えなければならないです。

自分の肉の思いの為に生きるのではなくて、命を与えてくださったイエス様に
「私はどうやったら主を喜ばせ、どうやったらこの感謝を捧げることができるのか」
これを私たちは死ぬまですべきことであります。

感謝をする人は、みことば通りにします。もっとも小さい者に愛を示します。

パウロは命を懸けてイエス様を愛していました。その愛は、人々を愛することに現れました。

全ての信徒たちの神様の働きの1番は魂を愛することです。
滅びていく魂を憐れむ心、そして隣人を自分のように愛しなさい。と、「愛」であります。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2013.3.24
聖日礼拝メッセージ・受難週

八戸ノ里キリスト教会

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聖心聖会・Ⅳ

Ⅰコリント15章50節

2013.3.13
聖心聖会メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖心聖会・Ⅲ

エレミヤ書5章25節

2013.3.13
聖心聖会メッセージ

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聖心聖会・Ⅱ

ローマ8章5-8節

2013.3.12
聖心聖会メッセージ

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聖心聖会・Ⅰ

Ⅱコリント3章18節

2013.3.12
聖心聖会メッセージ

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聖く生きるために

テーマは 『 聖く生きるために 』 です

【ガラテヤ2章20節】

パウロが語った言葉です。キリストにあって敬虔に生きるための毎日の自己宣言であります。

クリスチャンは古い罪からイエス様の十字架によって聖められていますが、
私たちが罪を犯すと汚くなります。衣服でもそうですが、私たちの霊の状態も
日々罪を洗わないと、以前の姿に戻ります。

天の御国は罪が存在しなく、誘惑がないです。サタンもいないので、
永遠の御国の世界に入ると私たちは聖くあります。

しかし、この地上は汚れた場所であります。この地上はサタンが支配するところであります。
罪が溢れるところで私たちが生活をしています。汚くならないわけがないです。

その中で日々私たちが聖くなるには、何もしないわけにはいかないです。
(イエス様を)信じたから敬虔な生活が自然にできることはないです。

「御言葉を読むから、祈るから、教会に行くから、礼拝に参加するから、奉仕をするから・・・」
それで自分が聖くなることは有り得ないです。

そういうすべてのものを私たちが活かして実践するなら、自分たちの欲を十字架につけて
初めて私たちは敬虔なものになります。


【エレミヤ書17章9節】

私たちは聖められても、聖められても、自分たちの深いところには まだまだいっぱい汚れたものが
あります。

私たちは自分の心を他人には見せたくないものですね。
他人の心は知りたいと思うのですが、自分の心は絶対に他人には見せたくないです。

それは、なぜかというと、心の中に汚れた物がいっぱいあるからです。
どんな人にも悪があります。それはなかなか治らないです。

打ち砕いても、打ち砕いても、変わろうと決心しても いつも倒れます。
(神様を)信じる、信じないに関わらず、人間であるなら誰でも同じです。

信仰生活は簡単ではないです。
罪を犯す生活は自分の欲のままに生きたら良いので簡単ですが、
自分の中の汚れたもの、汚い罪を、自分で日々十字架につけるということは、難しいことであります。

パウロの中にある一番の葛藤な何でしょうか?(私たちの戦いとは少し違います。)
―― それは律法との戦いでした。

パウロは誰よりも熱心に律法を守っていた者でした。
それからイエス様を信じて、そこから離れなければならないのに、恵みの中に生きようとすると
自分の中から出てくる律法という自己義が出てきました。

パウロは必死にその思いと戦っていました。

奴隷ということは 「 服従 」 を意味します。

罪の奴隷であるということは、罪が言うことをよく聞き、服従することであります。
私たちが(救われる前の)罪の奴隷の時は、悪に従順しました。
悪に服従すると、悪の力がさらに強くなり私たちを支配します。

悪に服従すると心に闇がどんどん入ってきます。闇が入ってくると滅びがきます。
滅びがくると、死がきます。魂も肉体も永遠の死です。

義の奴隷として生きるということは、義に対して従順することです。
それは真理に従順する姿であります。神様の御言葉に従って生きることを意味します。

日々、心の割礼を受けなさい。あなたの心を引き裂きなさいと主がおっしゃいます。
それは悔い改めることであります。

悔い改めは聖く生きるために必要なものであります。どんなに私たちが努力しても、
私たちは誘惑に弱い者ですから罪を犯します。

人々は臨在を求めますが、神様の導きに従うことはあまりしないです。

自分の思いを砕かなければ服従はできないです。義の奴隷になるには、
神様のみことばに従順し恵みを受けて、その中で生きることをしないと聖めることはできません。

神様は、神様ご自身を認めて従順する人たちをさらに恵み豊かに与えてくださいます。

(神様は)神様の子供である私たちを赦してくださいますが、赦してくださるからといって、
それを軽く考えていてはいけないことであります。

また、パウロは世に対して彼は死んで、神の御国のために生きました。
私たちも敬虔に生きたいと思うならば、世に対して死ななければなりません。
世ということは、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢、この世を愛することです。
それらを十字架につけなければならないです。

サタンが与えるものは私たちが手に入れた瞬間に捕えられて、闇が入ってきます。
日々、自分の中にある欲を十字架につけないと、その欲のために自分が後でひどい目に遭います。

悪に対する報いがすぐに出てこないので、多くの人々が罪を恐れずに平気に誘惑され罪を犯します。
しかし、自分が犯した罪に対しては他人が刈り取ることがないです。自分が刈り取ります。


【Ⅱコリント10章18節】

自分を良く見せて、色々なものを身に着けて、自分で自分を推薦する人を
神様は「そういう人は信用できない」と語っておられます。
そうではなくて、主に推薦される人、その人の心を見ておられる神様ですので、
「この人は聖い人だ。」、「この人は信用できる人」、「この人の中には偽りがない」など
私たちは神様に推薦される人を目指さなければならないです。

私たちは毎日、自分が誘惑されそうなものを十字架につけることであります。
・高慢 ・自分を正しいと思う心 ・妬み ・憎しみ ・野望 ・世を愛する心 ・人を人とも思わない心
色々なものに誘惑されて溺れている自分の姿を日々、そこにつけます。

自分の姿を見て、自分は本当に羊の姿なのか?山羊ではないのか?と
自分で自分の姿を見なければならないです。

聖く生きる者が天の御国を相続します。

私たちはしんどくても、嫌でも日々叩かなければならない姿であります。

日々、自分を棄て、自分を十字架につけ、十字架を負って神様に従わないと、
天国には入れないです。

目を覚ましていないと罪を犯しやすいので、もっと日々の生活に気を付けなければなりません。

私たちは他人を非難する資格はありません。

他人には綺麗ごとを言っていても、裏を見ると汚いものが出てきたらもっと恥ずかしいです。
毎日起きた時、また、その都度することは、自分の肉の思いを十字架につけていくことです。 ((=゜エ゜=))

2013.3.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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霊的スランプとは?

テーマは 『 霊的スランプについて 』 です

【マタイの福音書14章22-33節】

2つの弟子たちの姿を見て、イエス様が言葉を語りました。
1つは、イエス様が湖の上を歩いている姿を見て「あれは幽霊だ」と言って、
12人の弟子たちが叫び声を上げました。
もう1つは、ペテロが水の上を歩いて、そして波を見て怖くなり沈みかけました。
イエス様がその時に語った言葉は 「 信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。 」 でした。

また 「 しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。 」 と語りましたが、
この2つの言葉を私たちが聞くと、その人たちの霊的状態がはっきりと見えてきます。

私たちはいつ霊的スランプに陥るのでしょうか?
本文の弟子たちは苦難があり不安になりました。
私たちの心は、苦難が来た時に 「 何で(苦難が)来たの?! 」 と不安や恐れでいっぱいになります。

そのようになると私たちの中で一番初めにダメージを受けるところは心であります。
弟子たちは実際におぼれたわけでもないですが、しかし彼らを見ると怖くなったのは心の問題でした。

「 しんどいなぁ 」 という言葉は、どういうことを私たちに物語るでしょうか。
霊的スランプに陥ったという信号であります。赤信号です。
心が「しんどいな。」 「辛いな。」 「イライラするな。」 「忍耐できないな。」
私たちの(心の)状態が自分たちの口を通し、身体を通して苦しみが出てきます。

それらのものを私たちは霊的スランプに陥るものだとあまり気が付かないです。

いつもサタンは、私たちがそれに気づかないので働きやすいのです。
しんどい&疲れた&何もしたくない&やる気がない&頭がパニックになる。そのようにして、私たちの力が
抜けていきます。

そしてその人たちは環境を見ます。
「 神様はどこで何をしているのか?私がこんなに苦しんでいるのに。 」 と呟きます。

イエス様が弟子たちに語った 「 しっかりしなさい。 」 とは、何に対して言ったのでしょうか?
それは、あなたの心を立て直しなさいということに対してであります。

多くの人が苦難を受けると、心が沈んでいきます。表情を見ると笑顔がなく喜びがないです。いつも悩んでいます。

今、心の状態を覗いてみてください。どのような状態でしょうか。
――喜びはありますか? ――平安がありますか? ――波が立たない心ですか?
――自分の心をしっかり守っているという状態ですか?


イエス様が心のことを語る時は霊的なものです。

イエス様がここで霊的な姿をしっかりと見せてあります。イエス様やペテロが湖の上を歩いたことは、
それは現実的に可能なことでしょうか?
可能ではないです。現実的には不可能なことであります。

しかし、それは“自然法則がそれを許さなく、裏付けができない”と言うのは、現実だけを見る人たちです。
全てのことを理論的に考える人は、それを受け入れることができないです。

ですから、神様が 「 霊的になれ 」 ということであります。
現実ばかりを見て、信仰がない中で見るならば、「 そんなものは嘘だ 」 となります。

イエス様は、世の中のすべてのものは目に見えるものだけで動くのではないと語っています。

世界が広く、宇宙が広いということは、そこに霊的世界が存在するということであります。
私たちが自然法則だけで理解できないことがたくさんあります。

私たちの心は目に見えないものです。
肉体は機械を通してならば見ることができますが、心はいくら機械を通しても見ることができないです。
心を写真に撮ることはできないですが、でも私たちには心があるのです。

自然法則を乗り越えたもの、霊の世界では不可能がないです。

霊の世界は広く、その中に目で見える現実の世界があり、それは一部分であります。
ですから、神様がすべてのことを霊の目で見ないとあなたは理解できないと語ります。
しかし、私たちはそれをある意味では知っていながらも、訓練をされていないのですべてのものを霊的に
見ることをしないです。(現実に)目に見えるものだけ、人を見て、環境を見て、苦難を見て・・・等、
それだけで心が騒ぎ出して、それだけでもうダメだとなります。

そしてすぐに私たちはスランプに陥ります。

聖書に「あなたのこころを見守れ。」ということは、そこからいのちが出るということで、
いのちは霊的なものであります。

私たちがイキイキと常に生きるためには、心が元気でないとできないです。

しかし、人々は身体は元気であっても心が病気であったり、クリスチャンもいつも霊的スランプに陥って、
力のない生活をしています。

環境を恐れるのではく、本当に恐れなければならないのは神様であります。

スランプに陥るということは、サタンに引っ張られているということです。
そのまま引っ張られると不幸な者になります。

神様が私たちに苦難を与えるのは、目覚めさせるためであります。
あなたが誰に頼って生きるべきなのかということと、忍耐をさせるためです。
そして謙遜な者にさせるために苦難も与えると語ってくださいました。

ですから苦難が起こった時に、霊の世界の中でそれを見なければならないです。
誰かのせいではなく、
自分が眠っているから、自分が違うところを見ているから、神様ではなく問題ばかりを見ているから
神様に呟くから、自分の心が高慢だからなど、
神様はそれらのものを通して、私たちがそこから成長をして霊の人になることを望んでおられます。

苦しみに遭って、そこで霊的悟りを得た人は 「 苦しみに遭ったことは幸せでした。」と、
それは霊の目で見たからです。

私たちはすぐにイエス様から目を離します。そして自分で陥っていきます。
心に恐れが出て来るのは、私たちの信仰が薄く霊的スランプに陥ったことなのです。

私たちの心が強くなって自分の心を自分でしっかりと守っていくならば、
イエス様が常に自分と共におられることに気付くはずなのです。
イエス様が共にいるならば、何を恐れるんだ?と、これは成長の言葉であります。

イエス様が共におられながらも幽霊だと思うなら、小さな波でもすぐに落ち込んで沈んでいきます。

神様に従ってみることです。そしたら神様は見捨てることはしないです。
そして自分自身はしっかりと神様に繋がります。激しい攻撃の中でもイエス様だけが命の綱であります。


【Ⅰペテロ3章14節】

ペテロは何度も失敗をし、自分の心を守ることもできませんでした。
しかしだんだん霊の者として成長をしていった時に、すべてのことを霊の目で見ることが出来て、
自分の心をしっかりと守ることができました。

賜物を持っているから聖霊充満ということではないです。
聖霊充満は、自分の心をしっかり守って、その中で聖霊様が溢れることなのです。
聖霊によって導かれ、常に聖霊と共に歩む人が聖霊充満な人であります。

自分の心が揺れる度に、「 しっかりせい! 」 という言葉を自分にかけることです。

クリスチャンなのに現実に縛られて、クリスチャンなのにいつもイエス様を見ないで現実を見て、
悩んだり、苦しんだりする姿を見てイエス様が与えた言葉が次の箇所です。


【ヨハネの黙示録3章1-3節】

霊的スランプは死んでいる状態であります。

大胆に行動をしていくのが生きた信仰であり、ただ悩んで苦しんでいるのは眠った信仰であります。

霊は(出来事を)全ての角度から見ると、それが起きている原因がわかってきます。
すると正しい方法で戦うことができ前進をしていきます。

殺すのも生かすのも自分次第であります。

サタンの攻撃や環境など色んなことを通し、だんだんスランプに陥れて殺そうとしているサタンに向かって
(ダビデは霊的戦いに長けた者であり、色々な失敗を重ねて強くされた者でありますが)
ダビデのことが書かれている箇所があります。


【詩篇25編1-22節】

私たちの心が騒ぎ出す時に、じっくりとこの言葉を食べてください。
神様に助けを求め、神様に目を向けています。そして信頼しています。悔い改めています。
自分の悩みを打ち明けています。敵が立ち去る祈りです。

実際にはものすごい苦しみがあるのです。しかし神様の前に出て神様だけを求めることは、
現実を見ることではないです。
ですからダビデはいつも助け出されました。彼は勝利の人生で終わりました。

私たちは敵の思いのままにしてはいけないです。
自分が恥を受けるのではなくて、自分が信仰によって勝利をし、反対に敵が恥を見るようにしなければ
ならないです。

心が動揺し始めたら放置するのではなく、目を覚まし、自分の魂にしっかり主を見なさいと言葉をかけ、
祈りによって、賛美によって力を受けましょう。

私たちが勝利をすることは神様が喜ぶことであります。 (^∀^)

2013.3.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主の力によって強められなさい

テーマは 『 主の力によって強められなさい 』 です

【エペソ6章10節】

私たちはこの言葉に注目しなければならないです。
神様の力は大能の力であります。人間では考えられないような力を持っておられます。
しかし、そのことを“知っているだけ”では、そこで終わってしまいます。

神様が私たちに願うのは何でしょうか?
それは「わたしの力をあなたが受けて、あなたが強い者になりなさい」であります。

教会に来ている人の姿には2つのタイプがあります。
・神様の力を信じてその力を自分のものにする人がいます。
・そしてもう1つは、神様に力があることは知っていますが、自分の力にしない人です。

さらに後者(自分の力にしない人)は、さらに2つのタイプに分かれます。
・1つは自分の力で頑張る人です。神様に頼らず自分が精一杯頑張って何とかしようという人です。
・もう1つは、「私は力がないし、何も出来ない」と言って何もしない人です。

奉仕も自分の力で一生懸命する人がいます。そして最後は力が無くなりギブアップして逃げます。
また、何もしない人の場合は 逃げることもしないし、進むこともしないし、求めることもしません。
そして「あぁ、恵みがないなぁ。神様は私のために何もしてくれないなぁ」と死んだ信仰生活になり
神様から離れていきます。

神様は、私たち人間はもともと弱い存在であり、力がない者であることをご存知なのです。
ですから、神様が語る言葉は「主にあって強められなさい」であります。

イエス様が例えで話されたのは「ブドウの木と枝」の関係です。

【ヨハネ15章5節】

何もしないのに実を結ぶことはないです。実を結ぶにも力が必要です。

身体よりも心が弱い人がとても多いです。身体は食べ物によって生かされていくものでありますから、
健康によい食べ物を食べると身体が健康になります。(もちろん完璧ではないのですが)

しかし、心は食べ物で健康にはならないです。心を健康にするためにビタミンCやタンパク質を摂っても、
心は元気にならないです。
自分でどんなに頑張って守ろうとしてもそれが出来ないものは「心」であります。

ですから神様の大能の力によって心を強くすることが大切です。
それには神様の中に留まっていないとそれが流れてこないです。

霊的戦いは自分の力だけでは勝つことができないです。

次の箇所は神様の力、悪魔の力、人間の力が同時に出てくる場面です。

【使徒の働き8章5-24章】

ピリポや使徒たちはもともと弱い者たちでした。しかし、以前は普通だった彼らが聖霊によって
奇跡を行いました。これは神の大能の力によって強められた姿であります。

また、魔術を行っていたシモンも、色んな働きをしていました。彼は悪魔から力を受けていました。
シモンは悪霊には力があることを信じていました。だから悪霊が働いて彼を通して色んな働きをしました。
そして自分の力だけで生きている人々は、悪霊とは知らずシモンが行うそれらが神様の力であると信じ
シモンのことを神様のように思っていました。
実際に神様の力で満たされたピリポたちが来るまでは信じていました。

しかし、ピリポが来てシモンよりもすごい働きをする姿を見て、ピリポの方が本物の力だと思って
今度はそちらの方へ人々が向かっていきました。

シモンまでもが神のしもべたちが語る言葉を信じてバプテスマを受けました。
神様の力は悪魔よりも強いです。

多くの教会で聖霊に対して嫌がるところが多いです。しかしそれでは何で信仰生活をするのでしょうか?
ただ坦々とみことばだけを握って、そこだけの信仰生活であります。
すると自分の力だけで信仰生活を守ろうとします。するとある程度は守られますが、しんどいです。
「これも守らないと、あれも守らないと」となると楽しくないです。そして教会へ行きたくなくなります。

ですから、神様のみことば通りに力を求めなければいけないです。

【ヨシュア記1章5節、1章9節】

【エペソ6章19-20節】

パウロは力がある者ですが、神様から力を受けた方であります。
それなのに何故「祈ってください」と言ったのでしょうか。
それは継続する為であり、絶えずその力が流れるようにということであります。
自分でも祈りますが、他の人にも祈りの要請をしているのです。これは神様に頼っている姿であります。

私たちは力がないのに神様に求めることもしなく、神様にくっついてもいない枝だけでは何も出来ません。

聖書には強くなりなさいというみことばが色々と出てきます。

【エペソ3章16節】

パウロの祈りですが、これは自分の祈りにしたら良いです。

【Ⅰテモテ1章12節】

【Ⅱテモテ2章1節】

力が与えられるのは恵みであります。その恵みを受けて主に頼れば良いです。

【詩篇31編24節】

失望しなくて良いのだということです。あなたがわたしの中に留まり、わたしに力を求めるならば、
必ず神様がその人の願い通りに力を与えてくださるので失望しないで心を強くしていなさいということであります。

忍耐して待ち望むと主の恵みによってどんどんその人たちが強くなっていきます。

肉体が丈夫な人が強い者ではなく、心が強い人が一番強い者であります。
どんな環境に置かれてでも、その中で生き延びる人たち、心が死なない人たち、そういう人が一番強いです。

すごく身体が大きくて力が溢れているのに、ガラスのような心で すぐにくじける心、失望して
「もう駄目だ、死ぬしかない」という心を持つ人は世の中にたくさんいます。

弱い心は何もならないです。

しかし、弱いように見えても神様によって心が強くされた人たちは、どこにおいてでも平安で、
自分の心をしっかりと守ることができます。

ですので、自分の力に頼らず自分の限界を知り 「これは私の力では負えないもの」 と
神様にお願いをし 「来てください。私を強くしてください。あらゆるものを乗り越える力はもう無いです。
誘惑に勝てるように、主の働きが出来るように私に力を与えてください」 と求めたら良いです。

そうしたら神様が喜んで力を与えてくださいます。 (*´ω`*)

2013.3.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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