からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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2012年12月

キリスト復活の目的は?

テーマは『キリストの復活の目的』です

【ローマ10章9節】

神様を知らない人を導く時に、9ー10節はよく伝える箇所です。
私たちの口でイエス様が復活したことを信じて告白するならば救われるという言葉が出て来ます。

イエス様の十字架だけを告白したら救われるということではないです。
ここにはっきりと書いているのは、
「死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら」ば、復活があります。ということです。

『十字架の死、そして復活。』それが完全であります。
十字架だけで終わったら、神様は、その信仰は虚しい信仰であると語ってあります。

イエス様が死んで蘇ってくださらなかったら、私たちが信じても先に希望がないです。
イエス様は復活した理由を色々と語ってあります。

― イエス様が復活した目的はわかりますか?
ただ私たちに永遠の命を与えるために復活をしたのでしょうか。 ―

復活のことを知るには福音書を開くことが多いですが、今回はあえて福音書は開かず、
ローマ書はキリスト教の教理がすごく書かれてあります。
キリスト教とはこういうものなんだ、キリストを信じるということはこういうものであるんだ。
そして復活に対してもローマ書が一番多く書かれてあります。

①【ローマ書1章4節】

神の子であることを神様は復活によって人々の前に示しました。
これはイエス様が十字架になぜ架かったのか、どんな罪を被せられて十字架に架かったのか。
ユダヤ人達、律法学者、パリサイ人、祭司たちはイエス様が死ななければならない大きい罪は
自らを「神の子だ」と言っていることでした。彼は神を冒瀆する者である、と。
神聖冒瀆罪でイエス様は罪にされました。
そのまま死んでしまったならば彼らの言葉通りになっていましたが 
(やはり神の子ではなくただの人の子だったんだ)
ですから神様は、復活をさせて神の御子であることを示しました。
死者から復活した者はいませんが、イエス様は神の子であるので復活できました。

②【ローマ書4章24-25節】

私たちが義と認められる為です。
イエス様が十字架に架かるということは、私たちの罪の為であります。
そこで流した血によって私たちは洗われました。
それだけではなく、蘇ったことを信じる者(十字架を信じ、復活も信じる者)は信仰を義と認められます。
神様が認める義がないと私たちは天国に入ることはできないです。

自己義では入れないです。「私はこういう良いことをしました。だから私は罪のない者です。」
これでは天国には入れません。

【ローマ書3章28節】

十字架を信じる、復活を信じる。これだけで神様は私たちを義と認めて下さいます。

③【ローマ書6章4節】

私たちも、命にあって新しい歩みをするためです。私たちも古い物ではなく、新しい物で復活しました。
イエス様もそうでありました。十字架の前に歩んだ姿と、十字架があり復活もあった後の歩みが違うものでした。
十字架の前の歩みは人間として生きていました。
しかし、復活によってイエス様は再び元に戻り、神として生きます。
人の子として生きることはしないで、神様から力を受けて勝利し、今も神の右の座に座っておられます。

クリスチャンも同じであります。イエス様に出会った後からは歩みが全然違います。
天国に向かって命の道を歩んでいる者であります。
それ以前は全て滅びに向かって死の道を歩んでいた者でした。
しかしイエス様の十字架に出会った時に、
私たちは死んで命を受けて新しい歩みをするために復活の命が与えられてあります。

④【ローマ書6章5節】

将来、私たちも復活します。それの為に、イエス様は復活してくださいました。
前もってイエス様は復活はどういうものであるのかを見せてくださいました。栄光の姿でありました。
「あなたたちも将来、復活する時は私と同じ身体に復活するんだ」

⑤【ローマ書6章9-11節】

死がキリストを支配することができないように、死が私たちを支配することができません。
復活の命を持っている者の上には死は何も力がないです。
神に対してあなた達は生きた者だと思いなさいとおっしゃいます。
これは私たちが死んだ時に経験すると思います。今は肉体が生きているので、
「今生きている」としか考えませんが、肉体を脱ぎ捨てた時には命ある者と命のない者の行く道は
全然違います。
ですからキリストにあって命をもらっていない人は、第2の死が待ってあります。永遠の死です。
永遠の死は無くなって消えるものではなく、永遠に苦しみを受けることです。

しかし私たちが受けているものは永遠の命であります。
死がどんなに力を振って私たちを第2の死に落とそうとしてもできません。
復活の命はそれに飲み込まれません。

⑥【ローマ書7章4節】

目的は「神のために身を結ぶようになるため」です。
神様を信じる人は自分の為に生きるのではないです。聖書に神の栄光の為に生きなさいという言葉があります。
私たちが枝として、ブドウの木であるイエス様に繋がっている状態であります。

イエス様に復活の命がありますので、その力が私たちに流れてきますので聖霊の実を結ぶことができます。
聖霊の実は、イエス様から聖霊の力をもらって命をもらわないと結ぶことができないです。
離れたら命は消えてしまいます。

地上にいるときは命をもって神様のために実を結ぶ者にならなければいけないです。

⑦【ローマ書8章11節】

目的は「あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる」のです。
イエス様がなさったことは全部私たちの為であります。自分の為ではないです。
自分を通して全ての恵みを私たちに流すために、イエス様は十字架の死も復活もこの世に来られたことも
再臨することも全部私たちの為であります。無関係のことは1つもなさらないです。

復活したことも私たちの中にイエス様は御霊を送ってくださいました。その方は命であります。
その方が自分の命の中に住んでおられるならば死ぬことがないです。

サタンが持っているのは死の力であります。
死の力ということは私たちが罪を犯した時に入ってきた力であります。サタンは必ず死を持ってきます。
魂、肉体を殺していきます。ですから悪霊を受け入れている人には死しかないです。

聖霊様は命であります。命が入ってくるならば私たちの肉体が死んだとしても、その命にあって必ず生きます。
魂だけ生きるのではなく、死んだ身体さえも命を与えて栄光の姿に変わっていきます。

⑧【ローマ書8章34節】

罪に定められないようにするために、イエス様は復活されました。
罪に定めようとするのは、サタンであります。
サタンは神の前で訴える者であります。それは私たちに対して弁護士の役割をするのではなく、
まるで裁判にある検事と弁護士の検事です。
弁護士は罪を犯したことを知っていても、弁護をしてくれる存在です。検事と弁護士はいつも対立します。
私たちのとりなしをしてくださるのはイエス様であります。
神様は裁き主であります。サタンは「この者はこんな悪い事をしました。
あんな悪い事をしました。」と私たちが生まれた時から犯した罪のことを言って、
サタンは自分のことは棚に上げて私たちを地獄に落とそうとします。

そこで立ち上がって私たちをとりなして弁護をしてくださるのはイエス様であります。
「この者は罪を犯しました。しかし私を信じて罪が赦されました。私を見てこの人を赦してください。
 私はこの人の為に十字架に架かりました。」 
私たちが罪に定められることがないように、イエス様がずっと言ってくださいます。
イエス様が死んだままなら、誰も私たちを弁護してくれる人はいないです。

⑨【ローマ書10章9節】

私たちを救うために。私たちが救われることは、ただ罪が赦されるだけではないです。
それは2つあります。罪が赦され、そして永遠の命を受けることであります。
イエス様が死んでくださったと信じる時に罪が赦され、
イエス様が復活したことを信じる時に私たちは永遠の命を受けます。
この両方であります。これが本当の救いであります。

ですから苦難から救われる、病気から救われる。それが私たちの救いではないです。魂の救いのことです。
私たちが神様と交わりをして霊が救われないと、私たちは神様と何も関係のない者になり、
永遠の死を迎えるしかないです。
ですので私たちの信仰にはキリストの復活も入っていなければいけません。
その復活を信じなければいけません。
「十字架は信じても、復活は誰かの作り話でしょう?」 それならばその人の信仰は命とは関係がないです。
それは本当の信仰ではないです。

⑩【ローマ書14章9節】

目的は「死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるため」です。
この地上の真の神様はキリストです。キリストは人々に命を与える方ですが、裁き主でもあります。
肉体は生きていてもキリストから命をもらっていない人は既に死んであります。
「私の肉体は生きているけど?」 神様はそれは塵に過ぎないものだとおっしゃいます。

中に命を持ってある人こそが「生きている」者であります。キリストは全ての物に対する主であります。
命の主でもあり、死んだ者たちに対しては裁き主であります。
死んだ者には何も力がないです。命を得ている者が弱そうに見えても一番強い者であります。 

キリストはこのような目的で復活しました。
ですから復活を信じる皆さんは、何故イエス様が復活したのかをローマ書で今日挙げた言葉を覚えてください。

人に伝える時に十字架だけ伝えたら、それは50%しかなっていないです。
必ず復活を言わないといけないです。十字架の目的と復活の目的を両方語って、
それが完璧な福音であります。
それを聞いて人々が信じるならその魂は救われます。
自分の中にそれをしっかりと留めておいてください。(⌒∇⌒)

2012.4.8
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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受難の日の出来事

テーマは『受難の最後の(十字架にかかった)日に起きた出来事と、それに関わった人達』です。

【ルカ23章26-32節】

日本では、3人が1年8カ月ぶりに死刑が執行されました。法務大臣がそれを決定したら行われます。
それは非公開で行われます。

しかしキリストの死はそうではなかったです。最初から終わりまで全て人々の目に見えるものでした。

関わった人達もとても多いです。当時、イエス様はとても有名になっていました。
奇跡を起こしたり癒された人達にはとても人気がありました。しかし、それを妬む人達もいました。
民衆は2つに分けられていきます。

テレビでイエス様の十字架の刑を再現したものがありました。約3~4mの大きさです。
ローマ国家は危険人物だと思った人物を十字架に架けて見せしめにしました。
十字架刑にする理由は、痛みと屈辱を与えるためです。

足を地面につけている時はそんなに身体に力がかかりません。
体操の選手達は鉄棒にぶらさがったりする体勢になりますが、人間はしばらくならばそんなに苦しいことでは
ないそうです。

しかし(十字架刑の)腕を横に広げるのは不自然な体勢です。これは長くはもたないそうです。
すぐに痛みが走ります。釘は手首に打つと動脈などの血管があり、すぐに死んでしまいますので
じわじわと殺す為に、わざと手の平に釘を打ちました。釘は13cmくらいの大きさです。
十字架に架かると2倍の体重がかかります。息をするにも下に力がかかるので呼吸困難になります。
人間は息が苦しくなると、身体を上に持ち上げる為に足に力を入れるようになります。
すると今度は足の方に激しい痛みが走ります。それだけではなく、死刑囚をわざと太陽に向けて十字架を立てます。
そうなると脱水症状が起こります。水も食べ物も与えないです。
飢えと脱水症状と呼吸困難と激しい痛みを与えるために考え出されたのが十字架であります。
すぐに死ぬなら痛みが少ないです。
イエス様は十字架に6時間もかかりました。
十字架刑は私たちが想像しているよりずっと厳しいものであります。

それでもイエス様は「痛い」とも言いませんでしたが、自ら十字架に架かった目的は、
全ての人類のためでした。

これは聖書の言葉にあります。

最後の金曜日にどんな人たちが関わったでしょうか。

~ 祭司長と宮の守衛長と長老たち ~
この人達は以前からイエス様を殺したいという思いが強かったです。ユダがお金で「渡す」と言ったときは
大喜びをしてお金を渡してイエス様を捕らえに来ました。
妬みの心があり 「 私たちにチャンスが来た 」 と思いました。
この人達は外見は良い人、敬虔に見える人であります。神様に最も近い人達の姿であります。
人々はまさかこの人達が、罪のない人を妬みの心を持って殺すことは考えることもできないです。
人間の心は陰険で直らないと聖書の言葉にあります。
この人達の仕事が宗教的なものであっても、神に仕える仕事であっても、心が神様と1つにならないと
悪魔サタンはその人達の心を使います。

聖書の十戒の中に人を殺してはならないとありますが、計画を立てて殺しました。
この人達は天国に入った人はいないと思います。

【ルカ23章11節】

~ ヘロデ ~
よこしまな悪い者でした。派手な衣を着せてイエス様を笑い者にし、イエス様の人格を完全に無視する姿です。
悪人の代表者のような人でした。

【ルカ23章24-25節】

~ ピラト ~
裁判官であり、罪がないことを知っていました。
無罪であることを知りながら死刑を宣告するのは大きな間違いであります。
なぜこのようなことをしたのでしょうか。
自分の命を救う為であり、自分の立場を守る為です。自分の為に裁判を曲げました。
裁判官として正しく裁かなければいけない者が、無罪を有罪にし、しかも死刑にし、
悪い者たちの願い通りにさせました。

【ルカ23章26節】

~ シモン ~
イエス様の十字架を無理やり負わせられた人です。この人は幸せな人だと思います。
偶然その場にいましたが、本当はイエス様が自分で十字架を背負っていかなければならないです。
しかし その前に散々痛めつけられたので、そのような身体ではなかったです。
背負わせてもすぐに倒れてしまうのでたまたまその場にいたシモンに十字架を負わせました。
初めは「なんで私がこんな重い物を。罪を犯してもいないのに」 と思ったかもしれませんが、
イエス様が復活した時にその人は自分にとって祝福だったことがすごくわかると思います。
私たちは終わってみないとわからないことがたくさんあります。
「なんで私が!?」 「なんで十字架を負わなければならないのか?」と思うことがありますが、
私たちが主のために十字架を負うことは、どんな十字架であっても結果は祝福です。
神様はその人の働きに祝福を与えます。
シモンは後でイエス様を信じました。家族が神様に忠実に仕えるようになりました。それは祝福であります。

【ルカ23章27節】

~ 嘆き悲しんだ女の人たち ~
一般の人々でありイエス様を信じる人々であります。この人たちはイエス様を十字架につけることには
関わっていないです。もちろん民衆は心変わりが激しく、最初に仕えた者でもイエス様を十字架に付けろと言った人もいますが、イエス様を愛して嘆き悲しむ女の人たちがいます。
イエス様の素晴らしさは何でしょうか。聞く耳がない人たちには語りませんでしたが、
イエス様のことを本当に想って泣いている女の人たちに対しては最後の預言の言葉を語りました。
エルサレムが滅びるという言葉でありました。
そしてイエス様を殺す者たちの上にふりかかる悲惨さを思って泣きなさいという言葉でした。
ひどい滅びが彼らにはあるということです。

【ルカ23章32節】、【ルカ23章39-42節】

~ 2人の犯罪人 ~
彼らは自分で罪を犯して十字架に架かる者であります。2人共、犯罪人でありましたが1人は幸いな人であります。
この人は死ぬ直前にイエス様によって救われました。悔い改めの言葉を彼は語りました。
それまでの彼の人生は罪の連続でした。それを自分で刈り取るところまで来ていましたが
最後に神様の恵みで悔い改めることをしました。
1人は天国、1人は地獄へ、イエス様を挟んで2人の行く道が全然違いました。
このことは私たちに多くのことを教えます。罪をそのまま持っていると憐みを受けることはないです。 
しかし、どんなに罪を犯していても最後に悔い改めるなら、私たちは死ぬまではチャンスがあります。
死ぬまで救いの時、恵みの時があります。この1人は最後に恵みを手に入れました。
私たちもそのような者にならなければいけないです。
もう1人は最後の最後まで罪を犯しました。救い主に悪口を言うかたくなな心でした。

【ルカ23章35-36節】

死ぬ瞬間まで、人間が受けるあらゆる侮辱を受けながらイエス様は死にました。
民衆は最初はそういう者ではなかったのですが、イエス様が力なく弱い存在として十字架に架かり、
ある者たちは「あれは奇跡を行う者だから十字架から降りてくるだろう。」
「神様の子なら、神様が助けに来るだろう。」と色んな想像を持って眺めていました。
何かが起こるんじゃないかという期待を持って見ていました。でも自分たちが想像していたことは
起こりませんでした。
そしたら心をかたくなにしました。「やっぱり指導者、祭司たちが言っている言葉が正しいんだ。」
「あれは神の子ではない。」「あれは嘘つきだったんだ。何も起こっていないじゃないか。」
「自分を救うことが出来ないのに何が神様の子どもだ。」
そういう非難の思いがあったので彼らは好きなように嘲笑いました。これは息を引き取る6時間、
ずっと続いたものでありました。
これが最後の金曜日に起こったことであります。

死刑判決を受けて、そのまま死刑を執行する場所まで連れていかれました。世界で一番早かったかもしれません。日本でも死刑判決が出ても何年も生きている人がいます。

何の為にイエス様は惨い死を受けなければならなかったのでしょうか。
私たちの罪の為であります。罪を清算する為に、救いの道を開くためにイエス様は苦しみを受けました。

私たちが十字架を見た時に「イエス様がかわいそう」、「どれほど痛かったのか」と思って
十字架を見て泣くのではないです。イエス様を見て泣いている人たちへの言葉がありました。
それを私たちは思い出さなければならないです。

そしてイエス様が願うことは何でしょうか?
私たちを救う為に、私たちの罪の為に十字架に架かってあるならば、私たちは罪を本当に嫌わなければ
ならないです。罪を犯すならばイエス様はどれほど悲しむのか――。
イエス様は私たちが罪を犯す姿を見て悲しまれます。
私はあなたの罪のためにまた十字架に架かるのか ――

私たちは十字架に架かることがないので、罪を軽く考えます。しかし罪を軽く考えてはいけないです。
私たちが罪を好んで犯すと、それは神様を憎むことであります。神様を愛していない姿であります。
しかし罪を嫌い 憎むならば、その人は主を愛する人であります。
「 神様に、イエス様に2度と十字架の苦しみを受けさせない 」

既に起きた罪(十字架)は私たちはどうにもできないですが、それは私たちにとって祝福の十字架であります。
それが祝福だと思うならば、罪を嫌わなければならないです。

イエス様は 「 罪から離れなさい 」「 罪を捨てなさい 」 という言葉があります。
その為にわたしは苦しみを受けたんだ ――

私たちは罪を嫌いましょう。その罪のためにイエス様はとんでもない十字架の苦しみを受け、
人格が踏みにじられ、人々から嘲笑われ、そして息もできない苦しみを長い時間受けました。
「あぁ、イエス様が私に願うのは、私が罪から離れることなんだ。罪を憎むことなんだ。」

罪は私たちに「こっちに来なさい。こっちに来なさい。快楽を与える。あなたの欲しい物を与える。
こっちは楽だよ。良い道だよ。広い道だよ。みんな歩いているじゃないか。こっちの道に来なさい。」と
必死に誘惑をしてきます。
私たちは誘惑をされやすい者であります。まだまだ肉をたくさん持っているからです。
だけどその時に、私たちが思い出すことは 私の罪の為にイエス様があんなに苦しみを受けたのに
もし私自身が十字架を受けるなら1分も耐えられないのに、
また私が罪を好んで犯すと今もイエス様を十字架に架けていることなんだ。と
その事を思い出すべきであります。

罪を憎む、罪を嫌う、罪を重く考える。これが十字架が私たちに教えることであります。

2012.4.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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罪が招く結果は?

テーマは『ペテロとイスカリオテ・ユダの罪とその結果』です。

【マタイ26章14-16節】、【マタイ26章69-75節】

十二弟子は自らが志願したのではなく、イエス様が呼んだ時に、彼らは従って弟子になりました。
十二弟子は3年間、イエス様の傍で学びを受け、共に生活をしていました。

ペテロは、イエス様のことを裏切るとは思ってもいませんでした。自分は大丈夫だと自信満々でした。
いつも自分はリーダーだと思っていました。
イエス様からそのような扱いを受けた時もあったのでそう思う部分もあったと思います。

ユダはお金の管理をしていました。お金の管理は信用できない人には任せられないと思います。
信用できるから、働きもきちんとするのでユダに全て任せてきました。 

十字架の受難の前に、イエス様は弟子から裏切られたのが最初の受難です。
イエス様に敵対する人からではなく、愛していた弟子からなので心に受ける苦難でした。

そして十字架にかけられる前に、イエス様は39回のムチを打たれましたが
見えないムチを、ユダとペテロが打ちました。
肉体の傷は、治ったら 痛みが治まりますが、私たちは心に受ける傷はなかなか消えません。

人を裏切ること。特に信用していた人から裏切られることほど、心が痛いものはありません。

ペテロとユダは同じ罪ですが、少し違います。どこが違うのかというと、
ユダは、「 計画的 」でした。自分の欲のために1人で計画を立てました。
イエス様を殺そうと考えていた祭司たちに売るということは、ユダがイエス様を殺すことと同じであります。
祭司長にチャンスを与えたのがユダでした。これは、パリサイ人や律法学者よりも悪いです。
サタンのようです。最後の日まで普段と同じ顔でイエス様と共にいました。
神様から見たら、計画的なのはとても重い罪であります。

イエス様を裏切る計画を立てて行動するのはとても重い罪です。
私たちはイエス様がその計画を知って、彼(ユダ)を説得しなかったことに注目しなければなりません。
イエス様がなぜそのことを指摘しなかったのか、悔い改めのことを言わなかったのか。
ただ、『 あなたのやってる事は大きな罪である 』と語りました。出て行く時も止めませんでした。

何が一番痛いのか――?
計画的に裏切る行動をする。そしてそれを実行に移す。
これは説得しても相手は聞かないです。なぜかというと、自分の中でしっかりと計算済みだからです。
たとえイエス様が説得したとしても聞かないです。
イエス様を裏切ってでも自分の思い通りにしたい。
それが先に立っていますので、そんなことをしては駄目だと言ったとしても「あなたが優先ではないです。」と
言うだけです。自分が一番大事になってあります。
良心の咎めはあると思います。「こんな事をして良いのかな」と思いながらも、だんだん自分の思いに引っ張られて、行動する日を決めて実行してしまうと、誰が止めてもダメです。聞く耳がないです。
計算済みでシナリオ通りに動くのです。

これは私たちの姿であります。
イエス様よりも大事にするから、「イエス様を売ってでも自分の計画の方がもっと良いよ」と思います。

信仰生活は、自分のしたいことをするのが信仰生活ではないです。
イエス様と自分を比べた時、いつでもイエス様を裏切る用意が出来てあるならば、信仰ではないです。
いつでも自分が犠牲になる。いつでも自分を打ち砕く。
この準備が出来ている人が信仰をまともにしている事であります。

イスカリオテ・ユダは3年間、イエス様と共にいて毎日メッセージを聞いていました。
神様は言葉を知らない人ならば説得すると思いますが、言葉や知識はいっぱいあるので、
それを自分で知っていながら犯すことは止められないです。
だからイエス様は止めることをしませんでした。

ユダは神様のしもべではなく、自分が神様を思いのまま動かすこと。まるで物扱いをしていました。
自分の所有物のように、お金を受け取ってイエス様を売りました。
この時点で既にユダにとって、イエス様は救い主でも、先生でもありませんでした。
これは裏切りの罪でとても重いものです。

ペテロは3度 イエス様を知らないと言いますが、彼の中には傲慢な思いがあります。
「他の人が裏切っても、私は絶対裏切りません。」と、聞いた人はその言葉を信じたくなります。
しかし、結果はどうだったでしょうか?

ペテロは自分自身を信じすぎました。イエス様から「あなたは私を裏切る」という言葉を聞いてその言葉を信じて
「主よ、助けてください」と祈るならば、つまずかなかったと思いますが、ペテロはイエス様の言葉を捨てました。
「私は死ぬまで絶対に裏切ることはありません」と言いました。
これは信仰ではないです。彼の傲慢さであります。

この姿が私たちの中にもあります。私たちは「私はイエス様から絶対離れることはありません。」
「イエス様を裏切ることは絶対にしません。」「イエス様と約束したことを守ります。」と言います。
「イエス様から離れます」と言うことはないと思います。
でも実際私たちは日々、イエス様を裏切る行動をたくさんしています。約束を守らず、自分で言った言葉を守らず、
環境が変わると私たちはイエス様からすぐ離れます。

傲慢な者は倒れる。自分が立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。という言葉があります。

ペテロは人と環境に弱い者でした。突然イエス様が捕えられて状況が一変しました。
それまで自信満々だったのに急に小さくなりました。人の顔と言葉が怖くなりました。
それから彼はイエス様を「知らない」と裏切りを始めました。

私たちもそうであります。小さい迫害や、環境が変わると弱気になってイエス様から距離を置き始めます。
イエス様よりも自分を愛している姿がその中に出ています。

最もペテロが一瞬にして倒れた理由があります。
イエス様が「目を覚まして誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言った言葉をゲッセネマの園で言いました。
祈るということは神様の力を受けるということです。
しかし肉体が弱くて寝てしまいました。ペテロは祈らないといけない時に祈らなかったのです。

「私はいつ倒れるかわからない者です。」「こんなに弱い私を助けてください。」
「環境が変わっても私が倒れないように助けてください。」と毎日イエス様にすがって祈り求めるなら、
環境が変わった時にすぐに「主よ!」と祈ることができます。

普段祈らないから、自分に頼っていたから、いざ問題が起きるとあっという間に倒れてしまいます。

自分の仲間から「この人は絶対に知らないです。」と呪いの言葉をかけられたイエス様の心はどうでしょうか?
心が引き裂かれる思いだったと思います。これほど悲しいことはありません。
その後2本の大きい釘を打たれて十字架にかけられました。

ここまで2人共大きな罪を犯しましたが、その後から2人の人生は全然違う方向へ向かっていきました。

幸いなことに神様は私たちに「悔い改め」という恵みを与えてくださっています。

【マタイ26章75節】

ペテロの悔い改めの姿です。全ての罪は神様の言葉から離れた時から始まります。神様の言葉を思い出すこと。
悔い改めはここから始まります。
立ち返るには神様の言葉を思い出さなければならないです。
言葉を思い出した瞬間に彼の心は耐えられなくなりました。自分の姿が見えてきました。
「結局自分が裏切ったんだ」「私は罪人なんだ」。
激しく泣いたということが悔い改めの涙であります。罪責感で以前の自信満々の姿はなくなりました。

【マタイ27章3-5節】

ユダの姿です。ユダも自分の罪に気付きました。しかし神様の言葉を思い出すことをせず、後悔をしました。
後悔と悔い改めは全然違うものであります。イエス様を信じない者でも後悔はします。
後悔ということは神様に立ち返っていないということです。

ユダはあくまで自分の思いで行動しました。世のやり方で首を吊りました。
死んで償えることはないです。償うということは、生きて償うということです。
イエス様はどんな罪人であっても、それを許す方であります。
しかし、何故ユダは悔い改めができなかったのでしょうか?

罪も弱さの為に犯したならば立ち返るのも早いです。
しかしユダは計画的だった為、悔い改めが無理でした。
時間をかけてじっくり計算をして裏切る計画を立てて神様から離れる人たちは、
自分の思いが満杯なので悔い改めないです。自分のやり方を通していきます。涙が一滴も流れていないです。

堅い心なので何を言っても聞かないです。相変わらず強気な心です。
「何も言わないでください、自分のことは自分で始末します。」

神様はチャンスを与える方です。
イエス様の前で泣いて赦してくださいと言うならば、血潮で赦してくださると思います。

私たちにもペテロとユダの姿があります。
「私には無い」と言うならばペテロのように倒れていきます。
2つの姿があるから私たちは他人を非難することはできないです。反対に気を付けなければならないです。
「いつかペテロのようになるかもしれないし」「いつかユダのようになるかもしれないし」ということであります。

【ヨハネ21章15-19節】

ペテロは悔い改めた後、ずっと弟子たちと一緒にいました。イエス様は彼を赦しました。
イエス様はいつまでも変わらない方です。そして真実な方であります。
しかし私たちは真実ではないです。信じられないくらい心の移り変わりが激しいものです。

ペテロはイエス様を愛する心が残っていることをイエス様が知っていましたし、
そして悔い改めの涙を流したのを見たので、彼を選んで初代教会の指導者として立たせました。
これはイエス様の素晴らしさであります。
自分の心に一番大きい釘を打った弟子なのに、最初から赦す心を持って接していました。

ユダは悔い改めなかったので永遠に裏切り者として滅んでいきました。

【マタイ26章24節】

これは私たちが心に留めなければならないです。
出会った者には責任があります。イエス様に出会ってそれで良しではないです。
最後の最後の瞬間まで裏切ってはいけないです。

【ヨハネ17章12節】

滅びの子が滅びるとは、イスカリオテ・ユダのことであります。
永遠の滅びです。二度と救われることがないです。多くの恵みを受けたのにないがしろにしました。

【使徒の働き1章17-18節】

首を吊ってただ死んだだけでは終わらなかったです。呪われた死に方です。
悲惨な姿であります。

旧約聖書~新約聖書まで読んでみると、神様に対してひどい事をした人は、普通の人が死ぬような死に方ではなく
悲惨な死に方をすることが書かれてあります。

私たちはこういう者になってはいけないです。
イエス様が願うのは、心から悔い改めなさいという言葉を使っています。
悔い改めないなら永遠の命が消えていきます。永遠の滅びがきます。

罪を犯してもそのままではなくて、悔い改めるならどんなに大きい罪を犯した者でも
心を痛めて涙を流して立ち返る者には、神様はこういう人を指導者として立てます。

「末席に座りなさい。」ではないです。本当に素晴らしい主であります。

パウロもそうでした。「罪人の頭です」と。
でもイエス様が現れた時に悔い改めて3日間断食をして、そして立ち返りその後 命を懸けました。
ペテロは恥ずかしい思いを持ちながら自分が犯した罪のことを思って
2度とイエス様に同じ罪を犯しませんでした。命を懸けて主に従っていきました。

【Ⅰペテロ5章8節】

自ら犯した罪の重さを身に染みて感じたペテロの言葉なので意味が深いです。
同じ目に遭わないために経験者が神の啓示を受けて語る言葉であります。

私たちは弱さの為に倒れてしまうことがあるので、目を覚まして祈らなければならないです。
私たちはこの言葉を重く受け取りましょう。
罪を犯すたびにイエス様を苦しめていますのでそうならないように気を付けましょう。

(イエス様はそれを受けてから、ローマの兵士達に苦しみを受けて十字架につけられます。)

2012.3.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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人間としての苦難

テーマは『キリストの苦難の特徴』です。

【イザヤ53章1-9節】

イザヤ書53章はイエス様に対する預言であります。人間として苦難を受けている姿です。
4月8日はイースター(復活日)です。
復活があるということは、その前に人間としての苦難とイエス様の十字架の死があります。

人間としてイエスキリストがどのような苦難を受けたのか学んでいきます。

― ①人間としての苦難 ―

イエス様はさげすまれた人生を送りました。 1ー4節まで苦しみ、苦しみ、苦しみ・・・
人間として受けた苦しみがずっと書かれてあります。
イエス様が生まれた時の姿もそうでした。産婦人科で産まれたわけでもなく、自宅でもなく、場所もなく、
馬小屋の暗闇の中でイエス様は産まれました。小さい時もずっと貧しい生活をしていました。
人間として生まれてあらゆる苦難を受けました。

この地上で贅沢な生活をするために、幸せに生きるために、イエス様が来たのではありません。
イエス様が人間の姿で生きるということが預言されています。
人は産まれてその人生が幸せになることを願っていますが、不幸な人生だと「自分は何の為に生まれたのか?」と
自分を責めたり、周りを責めたりします。

幸せになるのが当たり前だという思いがあります。
しかしイエス様は産まれる700年前からイザヤ書に書かれてありました。
人間としてすごく苦難が多いということが預言されていました。

誰よりもイエス様は人間としての苦難が多かったです。
人間が感じる悲しみ、辛さ、苦しみ、寂しさ、全てを体験しました。
私たちと同じ身体を持って、生まれてずっと命を狙われていました。
宗教の指導者達も常にイエス様の命を狙っていました。

人間としての苦難の姿がここにありますが、イエス様ご自身の為ではなく、私たちの為でした。

【ヘブル4章14-16節】

人間としての苦難を受けていないならば、人間にできないことがあります。
イエス様が苦しみを受けましたので、人間がいちいち語らなくても、イエス様は感じます。
悲しんでいる人を見ると、イエス様は人間の弱さがわかるので同情します。
人間の肉体が弱いことも知っておられますので、イエス様は同情をしました。

イエス様ご自身も弱さを持っておられましたので、私たちを生かし、受け入れ、憐れんで助けてくださいます。
そして恵みを与えてくださいます。

もし(天には)神様だけで、イエス様が地上におられなかったら、私たちが地上で「苦しいです~!
イエス様助けてください!」と叫んでも 「何が苦しいんだ?」と、多分同情できないと思います。
その立場に立っていないからです。
イエス様は神様と同じ方でありますから、それは父なる神様が痛みをこらえながらイエス様を人間として送ったことを意味します。

神様が「行って、苦労してきなさい。もっと人間が持ってる弱さを体験し、苦しみを体験して、
彼らの為に働きなさい。」とおっしゃったので、イエス様が来てくださいました。

憐れみを受けるのはイエス様が体験したから私たちが受けるのです。
何もしていない者に恵みを与えるのは、体験したから助けたのです。その人達を助けて導きたいです。
イエス様が人間としての苦難を受けたからで、自分が何か間違えた事をしたのではなく、
怠け者だから苦難を受けたのではないです。努力していないから苦難を受けたのではなくて、
それも私たちの弱さを同情して憐れみをもって助けるために、イエス様自らがその苦難を受けました。

【マタイ27章39ー44節】

イエス様が人間として苦難を受けた姿が出ています。
十字架で苦しんでいる上、周りの者達はさらに罵りました。
私たちがイエス様の立場に立ったとしたらどうでしょうか?
苦しいのに、人々がそれを見て可哀想にと誰も思わないです。
イエス様に従った人達は助けたい思いはありましたが、それ以外のほとんどの人達は罵っていました。
こんな苦しみは耐えられないと思います。死ぬ直前まで人間としての苦難を受けていました。
有り得ないことですが、実際にあったことです。

私たちは苦しみに遭うとすぐに逃げようとします。だから多くの人達が命を絶っています。
3月になると特に自殺する人が多いです。経済、病気、問題などで苦しいことがあると絶ってしまいます。

もし自分が苦しい立場に立っているならば、このイエス様の姿を思い出すべきです。
十字架の上で鞭打たれて身体が全て割かれて痛いのに、そこに更に人々は追い打ちをかけます。
罵られてもイエス様は静かにしていました。

イエス様は他人を見て「(自身の人生を)こんな人生」と言ったことはありませんでした。
初めからその苦難を受け入れました。

ー②人間のための苦難ー

【イザヤ53章5-6節】

意味のない苦難ではないです。意味のある苦難であります。
罪のないイエス様が、罪人たちの罪を贖うために苦難を受けました。

【Ⅰペテロ2章24節】

【Ⅰペテロ3章18節】

すごく尊い目的を持ってイエス様は来られ、その目的通りに苦難を受けました。
それは受けなければならない苦難でした。
悪い人々の身代わり、悪い者たちの代わりにイエス様が全部罪を背負って死なないと贖いの道が
開かれなかったです。そのためにイエス様は十字架という苦難を受けないといけなかったのです。
罪人達が死ぬべきところを代わりにイエス様が(十字架に)架かって死にました。
これは目的があってなされたことであります。

それによって私たちが受けた祝福が2つあります。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

①神の敵として生きていた私たちが、神様との関係回復が行われたこと。
エペソに「隔ての壁が イエス様の十字架によって壊れ、神の敵だった者たちが和解して神様の家族になる。」
しかし、神の敵として生きている人が多いです。
それを信じて受け入れた人達には、その祝福がそのまま流れます。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

②死の病気から解放され、そして霊肉とも神様が強くしてくださる祝福が与えられました。
私たちの霊が癒されたことを意味します。
ただ「病気が癒されました。」ではないです。
「死にました。」しかし、イエス様の血潮がそこに流れていくときに死人が生き返る祝福が与えられてあります。
私たちは霊的死んだ者は、人間に死にます。

しかし霊が生かされることによって永遠の命の中で力強く働きます。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

ー③人間による苦難ー

【イザヤ53章7-9節】

サタンが現れて苦しみを与えたのではないです。人々がそうしました。
祭司たちが、民たちが、ローマの兵士たちがそれをしました。

【マタイ27章27-31節】

人間がイエス様に苦しみを与える姿が出ています。
想像してみましょう。イエス様の立場を自分たちの立場だと思ってください。

~ イエス様の周りに隊が集まったのは何人だと思いますか? ~
100人です。そこに百人隊長がいたからです。
100人の男の人達が集まった中に、イエス様が1人でした。
彼らはからかい、面白がってすることでありました。100人の前で侮辱を受けました。
つばきをかけました。犬に対してもつばきはかけないと思います。
これを人間にするということは最も軽蔑することであります。

こんな侮辱、耐えられますか?私たちならば早く死にたいと思います。こんなに恥ずかしいことはないです。

これで解放されたわけではなく、さらに十字架にかけられました。
誰が耐えられますか?それをイエス様は人間から苦難を受けました。

しかし復活されました。
今もイエス様は生きておられます。私たちはイエス様に対してどうしているでしょうか?
イエス様が今も死人であるならば、私たちが何をしても感じないと思います。

再臨なんて有り得ないとか、イエス様は死んでいるから聞いているはずがないとか
イエス様に対して悪を働く者たちがその時になって驚くことになります。

自分達がイエス様の前で行っている姿が、こういう兵士たちがやっている姿なのか?
私たちの口から出る言葉がイエス様に対するからかう言葉でしょうか?軽蔑する言葉でしょうか?
時には、罵る言葉でしょうか?直接「呪います」とは言わなくても、「あんたなんか信じたくもない」と。

自分が感情的になって主の前に語る言葉は、すごく恐ろしい言葉であります。

【ヘブル4章13節】

神の前に立つ日が来ます。
≪あなたは私に何をしたんだ?≫ 私たちがどんなに隠そうとしても隠せないことであります。
その時になって恥をかきます。隠したくても、神の目にはそれは不可能であります。

今の私たちの行動が、イエス様が十字架にかかる前の人々の行動と似ている行動をするならば、
私たちはその仲間であります。
つばきをかけなくても、私たちの口から出る言葉がつばきをかけることと同じであります。

苦難の後に蘇ったイエス様は今も私たちの全てを見ておられます。

イエス様の前で私たちはまず何をしたら良いでしょうか?
「あの苦難は私のための苦難であったんだ。私の罪のため。
イエス様が人間の姿で来なければならなかったのも、イエス様が討たれたのも、私の罪のため。
そして私がイエス様にも十字架を知る前にそういう風にイエス様をからかった者であった。
イエス様を罵った者であった。」

以前はそうでありました。今はそうであってはいけないです。
今はその主に対して心を開いて受け入れて感謝して、それからみことばに従順する人。
これなら私たちは問題ないと思います。

イエス様が願うのは、それであります。 ≪ 私の前で生きる者になりなさい。≫

イエス様が来られた時も、神の前でも主を喜ぶ姿で生きるならば、私たちは恥をかかずに済むと思います。
その姿で生きる者になりましょう。

2012.3.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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プラス人生になるには

テーマは『プラス人生の計算法について』です。

【マタイ13章23節】

足して増えていくのが「+」であり、引いて減っていくのが「-」であります。
この計算が出来ない人はほとんどいないと思います。
同じく、プラスの言葉、マイナスの言葉も知らない人はほとんどいないと思います。

(暗算や計算機を使っての足し算や引き算は)とても単純な計算ですが、

人生においてプラス・マイナスはそう簡単なことではないですね。
数学の計算は知識があればできます。
しかし、頭が良くて、数学が良く出来たからと言って、それがそのまま その人の人生において
プラスになるかと言ったら、そうではないです。

私たちの人生において、プラス・マイナスの計算は、数学とは全然違います。

知恵が必要であります。
プラス人生を生きるには、知識ではなくて、知恵が必要です。

すごく頭の良い人でも、明日の事はわからないものであります。
また、人生の先まで全て計算できる人はいないです。

聖書のみことばは、私たちを救い、先のことまで全てご存知である神様が教えてくださる知恵を
自分の人生に当てはめていくと、私たちの人生にプラスになる知恵を神様からいただくことができます。

自分の人生は、ある部分で自分で責任を持たなければならないです。何かのせいではないです。
「親が悪いから、環境が悪いから、あれが悪いから。」これらは愚かな言葉であります。

自分の人生の最後が、今の歩みを見てプラスになるのか、マイナスになるのか、これくらいの計算は
しておかなければいけないと思います。計算せずに生きると、みじめな人生になります。

プラスになることを紹介していきます。

【イザヤ書40章28-31節】

今は疲れている人達が多いです。それも若者が人生に疲れているんです。
生きる希望を失って、本来は力が満ち溢れなければいけない20~40代の人が自殺をしています。

自分の思い通りに就職ができないからと、つまずいて毎日マイナスの言葉を使う毎に
心が疲れてきます。

力の源は、人間そのものではないです。人間には必ず限界があり弱さがあります。
しかし、自分に力を与えて命を注いでくださる神様を自分の味方にするならば、
弱くなった時に「力をください。」と呼ぶことができるのです。

【マタイの福音書16章26節】

いくらお金を手に入れたとしても、命が一番大切であります。命は買うことができません。
命を得ることは、プラス人生の始まりであります。

【ヨハネの福音書1章11-12、16節】

私たちは生きることと死ぬことはとても大切なことですが、それを曖昧にして(肉体の死後の世界を)
考えないようにしています。本当に自分の人生がプラスなのか、マイナスなのかを計算しなければ
いけないです。欲しい物や富など、私たちが生きている時には欲望を満たし楽しませることができますが、
しかし、命に勝るものではないです。

【マタイ8章5-8節】、【詩篇19編7-8節】

人間の言葉は完全ではありませんが、神様の言葉は完全であります。
今までは目が見えない者のように生きていました。目先のことも判断ができなく、分別力もなく、
悟りもないという者を、神様は言葉によって与えてくださる。そうすると、その人の人生が
マイナスの人生に転落をすることはないです。

真理の言葉でなければ、悟れないです。悟りを得ることで自分の人生にプラスになります。
神様の子供になった特権を与えた者達に、神様は良いものを与えたいです。
みことばを一言受けて、病気が癒された人もいます。

人間は生まれてから死ぬまでに、色んな良い事もあれば、病気になったり災いが起きたりします。
(悪い事があった時は)私は今、たくさん支払っているんだ。当然支払うべきことを今 支払っているから、
後は楽になるんだと考えたら良いです。

一度も不幸に遭わない人生の人はどこにいるでしょうか。

不幸なシナリオではなく、自分で幸せなシナリオを書くべきです。
神様は私たちにプラスの人生を歩むことを願っておられます。

【ルカの福音書6章38節】

プラス人生を生きたければ、与えることであります。
与えるものは色々ありますが、「愛を与える」、「人々に関心を与える」、「親切を与える」
これは私たちの人生を豊かにさせるものであります。

愛する人は、愛が返ってきます。自分が他人を愛さないなら愛が返ってくることはないです。蒔かないからです。
人々に関心を持ってみてください。その人たちも自分に関心を持ってくれます。
それも2倍、3倍になって返ってきます。

「ください、ください」だけを蒔くのではなく、そして「愛してほしい、愛してほしい」と言いながらも、
自分は愛を与えない。ですので、相手も反応をしないです。
これは家庭でも同じであります。自分の方から1つの親切を蒔いてみてください。
すると、相手の心が良くなって2つの親切が返ってくるのです。
1つの種を蒔いて1つの実を結ぶのではなく たくさんの実が結ばれるのです。
三十倍、六十倍、百倍になっていきます。

「ください」という者は何も増えなく、持っている物までも消えていきます。

自分が愛されたいなぁと思うならば、
愛を探し求めていくのではなく、自分が誰かに対して愛を見せることであります。
自分の知識を他人に与えることが出来、自分の身体を他人に与えて仕え、奉仕することもできます。
そして言葉で励ますこともできます。

自分がいざ困ったという時には、その前に(自分が)蒔いているので返ってきます。
みことばを一人歩きさせるのではなく、まず自分で実行していくことです。
期待して蒔けば、時が来た時にある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍になっていきます。

自分が死ぬ時に握りしめているものが役に立つものなのか?と神様が語ってあります。
だからと言って、お金を湯水のように使いなさいということではないです。正しい目的の為には使います。
愛を与えることができるのも、私たちが生きている時だけであります。
死ぬ時に「愛したかった」というのは愚かな言葉であります。

人に一番必要なものは愛であり、良いものは他の人にどんどん流していくことであります。
相手に何かが足りないことに気付いたならば、声を掛けて「私に出来ることは何かありますか?」と
与えることであります。そうする時に私たちの心に喜びが来ますし、
私たちの人生の中でこれからプラスになることが、いっぱいあちらこちらから出てきます。

敵を作るのではなくて、愛する仲間をたくさん作ることであります。
共に歩む人をたくさん作ることです。今、うまくいっているから「いらない」というのなら、
高慢になっていきます。だんだん人生がマイナス人生になっていきます。

聖書の言葉には人生を豊かにするものがたくさんありますので、自分にとってプラスになるものを
拒むことをしないように、「私はもっと豊かになりたい。」と思うならば、自分の人生に悪いものを捨てて、
足を引っ張らないように。そして神様からくる良いものはどんどんプラスしていくと人生そのものを豊かにするので
力が出て希望も出てきます。愛の人に変わっていきます。
イエス様に出会って みじめになったという人は、みことばが全然活かされていないことであります。
祝福を自分の人生にプラスしてください。神様は惜しまずに与えてくださいます。 v( ̄∇ ̄)v

2012.12.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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謙遜な者になるには?

テーマは『謙遜の実践』です。

【Ⅰペテロ5章5-6節】

みことばを聞いて終わるのではなく、みことばが命じることを聞いて実行して
初めて従順の実を結ぶことができ、そのみことばが自分の中で活かされていきます。

みことばは命であります。聞くだけで命になることはないです。
自分のものにして初めてそれが自分の中で命としての活動をします。

神様がここで語るのは高慢になるのではなくて、へりくだるものになりなさい。ということです。
神様は恵みを与えたいのです。

でもその恵みを受け取るには神様のみこころに叶わないと、受け取ることができないです。

主は「高ぶる者には与えない。」神様に敵対することは恐いことです。
≪あなたは私の敵である≫
自分が神様に向かって「自分は神様の子どもだ」といくら主張しても
≪あなたのその高慢な姿は私に敵対する。私の子どもには見えない。≫

神に対して最初に出てくる敵はサタンです。サタンがどれほど高慢な者であったのか。
もともとは御使いで神様が造ったものですが、神に対して心の中で思ったことがありました。

【イザヤ14章12-15節】

主に仕える者が自らが堕落していき、つまずきました。神に仕えることは素晴らしいことです。
それでも、そこで満足しないで神の上に立ちたいという、とんでもない思いを持ちました。
そこで神様に落とされました。 そしてアダムとエバにも同じく、高慢な思いを入れました。

【創世記3章4-5節】

人間は騙されて神様に敵対し、神様の言葉を退けました。人間を誘惑して
自分(サタン)と同じ目に遭わせました。人間は神のようになると思いました。

しかし、彼らは全てを失いました。エデンの園の祝福を失いました。
人間は神様から切り離されたものになりました。

こういう姿から私たちは学ばなければなりませんが、
人間は一番知恵があると言いながら、世の中で一番愚かなものであります。

私たちは同じことを繰り返して行います。歴史の中で戦争が絶えない。事件が絶えない。
これは何一つ学んでいない愚かな姿であります。
繰り返すならば私たちは受けた祝福を全て失いますので、神様はみことばを通して警告してあります。

神様は、高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えてくださるので、
へりくだりなさい、従いなさい。とおっしゃっています。

本日のテーマである聖句箇所の「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。」は
『私は年をとっているから別に関係ないか。』ではないです。
信仰にとってまだ未熟な者であります。まだ謙遜さを身に着けていない者に対して語る言葉であります。
素直に言葉に聞き従いなさい。これはへりくだらないと神様の言葉を受け取ることができないです。 
高ぶっている者は神様の言葉を聞いてもアダムのように聞かないで違う事をします。

謙遜を身につけなさいということは、態度で示しなさいということであります。
人々が見て、わかるようにしなさい。頭で理解するだけで何になりますか?
聞いて実践する者になるならば、周りの人が見て「あの人は謙遜である。
あの言葉、態度は謙遜である。」と、このように神様は見せなさいと語っています。

「謙遜、へりくだる」は、ただ小さくなることではないです。
謙遜な人は、ある意味で態度は大きくないですが、心は誰よりも広い心を持っています。

【ローマ12章3節】

それぞれレベルは違いますが、思うべき限度を超える時から高慢が始まります。
人間も神のようになりたいという思いを受けた時から、行動しました。
高慢な行動が実を結び、堕落が始まり、滅び・死を刈り取ることになりました。

私たちは常に何かを考えて行動するものです。その時に、自分の思いを知らなければならないです。
自分の中で思うべき限度を超えて思い上がっているならば、その思いを潰さなければならないです。
「あ、高慢の始まりだ。とんでもないことを私は企んでいるんだ。」
それを討たなければならないです。

これはイエス様の弟子達の姿でもたくさん出てきました。
人間は生まれながら思い上がっている者であります。
小さな子供でさえ、素直な部分もありますが、高慢な思いがあります。

【ルカ22章21ー27節】

イエス様が十字架にかかる前の晩、弟子たちは自分たちがどんな立場にいるのかを誰も気付いていないです。
イエス様が語っているにも関わらず、耳に入っていないです。
深刻な話でも弟子たちは「(裏切るのは)誰なのか?」と話しましたが、
その話を打ち切って「この中で誰が一番偉いだろうか?」と議論を始めました。

イエス様は1人の弟子から裏切られてもうすぐ死ぬんだと告げているのに
話題を変えました。思いが違うところにあります。
なぜこのような場面の時に、こんな話題が出るのでしょうか?

これは高慢な人間だからです。
イエス様と一緒にいながらも、深刻な話をされているイエス様のことを見ていないです。
互いを見て、このような話題が出たのは、誰もが「自分が一番偉い」と思うからです。
もし皆が「わたしはそんな者ではない」と思うならば、議論する必要がないです。
3年間イエス様を見ながらも、目が見えない者であります。高慢な思いはなかなか断ち切れないです。
自分が一番大切なのです。自分が一番偉いという思いです。

思うべき限度を超えて自分を偉いと思っています。
異邦人の王、知恵ある者、金持ちは偉そうにしているので、そういう人達が
みんな偉い人なのだという先入観があり、偉い人になるとそうしなければいけないのだ。
謙遜にしていてはいけないのだと、支配をしないと権威を認めてくれないのだ。と思いますが、
本当はそうではないですね。

イエス様は≪あなたたちは一体、誰を目指しているのか?あんな傲慢な態度を目指すのか? 違うだろう?≫
自分たちを育ててくださったイエス様を見なければならないです。
イエス様は最期の時に弟子たちの足を洗いました。

【ルカ14章7-11節】

高慢になると恥がついてきます。高慢は神様の敵なので、たとえ神の子どもであっても、
神の子どもの扱いをしないです。私たちの高ぶりは、まず神様の前で始まります。

神様の前で偉そうにしています。自分では気づいていないと思います。
私たちの態度・言葉が神様に対して高慢な態度であります。

私たちは貧しくなると、まず神様のことを切ってしまいます。これは神様に対して悪い思いであります。
病気であっても会社へ行きます。
しかし今日は疲れているから教会を休もうというならば、ただ教会を休んだということではなく、
主に会う約束をキャンセルすることであります。
いつも私たちは神様のものを最初に切り落として、世の物を最後まで残しています。

何が一番大切なのでしょうか?
全ての物を失っても自分を祝福し、守ってくださる神様を最後まで守らなければならないです。
 だから、まず肉のものから切り落としていかなければならないです。
でも実際は反対のことをしているのではないでしょうか?これは神様のことを軽く見ていることであります。
 「こんな時に神様のことなんか出来ません!!」これは神様の恵みを忘れた姿であります。

恵みを忘れると私たちは高慢になってしまいます。
滅びていく肉のものを最後まで「これは手放せない!」と。
そうなると、≪それは錆びて泥棒が来て全部失って、命まで失っていくんだ≫と神様が語ります。
私たちは知らぬ間にこういう事をしているのです。

一番大切なものを最初に手放し、価値のない物をずっと握りしめています。
ですが、手を広げてみてください。その握っているものはそれほど価値があるものなのか?
そういう私たちの態度が神様の前では高慢であります。

聖書にはヤコブとエサウが出てきますが、エサウがそのような姿でした。
ヤコブは一番大切なものを知っていましたので長子の権利を売ってくれとエサウに伝えました。
ヤコブの手段は悪かったのですが、霊的に何が一番大切であるかを知っていました。
一方、エサウは一番最初にそれを手放しました。
お腹がすいていたからということだけで一番大切な長子の権利を食べ物であっさりと交換してしまいました。
エサウは長子の権利を「こんなもの」と言いましたので、神様は呪いました。
神様よりも食べ物が「上」になっていました。これが高慢な姿であります。

エサウの子孫までも呪われ、すべて地獄へ落とされました。

【箴言11章2節】

答えがはっきりと書かれています。高ぶるなら恥が来ます。恥はかきたくないでしょう?
知恵が欲しいでしょうか?へりくだれば「知恵をください」と言わなくても恵みで知恵が来ます。

【箴言16章5節】

高ぶって得することは1つもありません。神様に嫌われ、神様の敵になり、恥が来て、罰を免れません。
しかし、人間はそうだと知っていながらも高ぶります。人よりも上に上がろうとします。
これは目標があって何かを達成するのは問題がないですが、心が高ぶってることを神様が教えてあるのです。

謙遜を実践するとどうなるでしょうか?
祝福があります。 

【箴言29章23節】

謙遜な人は心が広いのでどこにいても尊敬されます。寛容な人、柔和な人、敵をつくらない人たちです。
傲慢は自ら敵をつくることであります。
人を踏みつけて上に立とうとするので、トゲトゲしいから 周りの人達が近寄らなくなります。
偉そうな態度をする人の前では自分の姿が惨めな感じがするのですが、
謙遜な人は、その人が身を低くしているから、その人の傍に行くと自分が何者でもないのに
何だか自分が偉い人のように思わせます。だからそのような人の傍に行きます。

神様は≪自分で自分を褒めるのではなくて、他人の口から褒めさせなさい。≫
「あんな謙遜な人になりたいなぁ」「あんな柔和な人、心の優しい人になりたいなぁ」
神様はその祝福をお与えになります。  

祈りで「恵みを与えてください、恵みを与えてください」と。
神様は≪へりくだっているのか?あなたが心を低くし、へりくだるならそこに恵みが流れていく。 
みことばで約束してあるから、わたしが間違いなくあなたに恵みを与える。≫と語ってあります。

【ヤコブ4章10節】

神の前でへりくだる者は、人の前でもへりくだります。
そうすると神様ご自身が≪あなたは行くところまで下りていったんだから、上がってきなさい。≫
謙遜な者は神様が高いところへ、天国は謙遜な者が入り、神の御座の傍には一番謙遜な者が座ると
語ってあります。

パウロは本当に謙遜な人でありますが、だから神様が彼を高く評価して、イエス様とモーセの姿に似ています。
主に仕えた多くの立派な信仰の人たちに似ています。
神様はそのような人たちを高く御座のところまで引き上げてくださいます。

このように謙遜がもたらす物は良いものだらけで、傲慢は悪いものだらけです。
どちらを自分は選ぶのか自由であります。
だから傲慢なものを打ち砕いて内側から取らなければならないです。
それを持っていて自分が良いことが1つもないです。
自分の身を滅ぼさせます。そこにサタンがいることと同じであります。

【ピリピ2章3-4節】

神様が高慢にならないで謙遜になるために語った箇所であります。

自己中心的になると高慢になって「私が、私が・・・」になります。
思うべき限度を超える人たちの姿には必ず虚栄があります。ふくらませて良く見せます。
それで得るものは高慢な姿だけであります。

私たちがへりくだっていくと、他の人を優れた者だと思うようになります。神様はこのことを教えながら
イエス様があなたたちの模範である「謙遜な方」の模範でありますと5節から教えてあります。 

【ピリピ2章5-9節】

いつも謙遜な思いを持っていなさい。神様の前でイエス様はいつもへりくだっていたから高く上げられました。
みことばが実現されました。イエス様がしたならば、あなたは当然のようにすべきだろう?
イエス様のような方がしたのに、あなたにできない理由は何でしょうか?
「できません。」と言うならば、私たちが自分の高慢を捨てないことであります。
高慢な思いがあるとできないことであります。

しかし、「謙遜になろう」と決心するならばできないことはないです。
祝福を受ける一番の道は謙遜になることであります。恵みが与えられると語ってあります。
約束は全て良いものであります。

欲しいなぁと思うならば道は1つ。互いに謙遜を身に着けることであります。
謙遜な者になっていきましょう。(⌒-⌒)

2012.3.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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サタンとの戦いに勝利する!

テーマは『霊的戦いに勝利するために』です。

【ヨシュア記5章2-5節】

6章に大きい霊的戦いが出てきます。神様から出たものが霊的戦いです。
土地を奪うためにする人間の戦いではなく、滅ぼさなければならないサタンの勢力に対する戦いです。
聖なる霊的戦いであります。

イスラム教はアッラーの神の為と言いますが、自分達のために人を殺したりテロを起こしたりします。
そういうことをして自分達は天国へ行きたいと思っています。

聖書に出てくる霊的戦いは神様からの指示があります。
旧約聖書を読むと、戦いがとても多いですが、実際の戦いであります。
霊的戦いに対して一番偉大な教材は旧約聖書であります。
新約聖書はさらに範囲が拡大されて霊的戦いのことを主が語っておられます。

しかし新約聖書の霊的戦いをするには、旧約聖書に出てくる戦いを学ばなければならないです。
旧約聖書を通して主の戦いの姿を見せて、私たちはそれを学びなさいと言っておられます。

戦いに負けたことが一度ありますが、それを探ると何故負けたのか原因が出てきます。
そして勝利した戦いは、勝利した秘訣が書かれてあります。

旧約聖書は霊的戦いで勝つために学ぶ点が多いです。
エリコは、とても恐ろしい町です。
そこには強い軍隊やすごい城壁があり、彼らの力では勝利することは不可能であります。
イスラエルの民たちは武器を持っておらず、戦いの経験もなく、40歳以下の者でありました。
その中には女の人や子供もいました。

この状況の中、神様はどうやって勝利に導いたのでしょうか。
神様の命令がありました。戦いの前にまず させたことは、割礼をしなさいということでした。
これは人間的な思いで見たら、とても愚かなことであります。

割礼というものは、神様がアブラハムと契約を結んだ時に語った1つの印であり、神の民になる契約です。
神様との関係をもう1度整理し、新しくしなさいということであります。

【コロサイ書2章11節】

神様の前で無力な者、自分を否定する者、神様だけに頼る者、こういう者に神様は霊的戦いで
勝利を与えてくださいます。

割礼を受けた者らしく生きていかないといけません。
心が大切であります。心は聖霊様が住む「神の神殿」であります。
その神殿の中に神様がおられますので、私たちは割礼を受けないと聖霊様が住むことができないのです。 
私たちの肉のものを十字架につけなければならないです。
肉の手段を捨てなければ、本当の意味で割礼を受けた者ではないということになります。

【コロサイ書3章5-10節】

今あるべき姿は3章10節のことばであります。

サタンを恐れたりしますが、恐れはサタンが持ってきたものであります。
しかし、神様はサタンを恐れる必要がないとおっしゃっています。
なぜなら、当然守らなければならない神様の言葉を、自分達が守らないために受ける神様の御怒りの方が
大きいからです。
サタンがもたらすものよりも、神から来るものを恐れなければなりません。
私たちの身体も魂も殺すことができるのは神様であります。
サタンよりも力ある神様を恐れないといけないです。

神様に助けを祈り求めたら、助けてくださいますが、
しかし私たち自身が神様の敵になって神様の怒りを起こしてしまうならば、誰も助ける者がいないです。
サタンが助けてくれますか? ――サタンは助けるものではないです。私たちが滅びることをサタンは喜びます。

戦う時に、神様が味方である時に、私たちは勝利することができます。
霊的戦いは神に逆らう勢力に対する戦いであります。

なぜ私はいつも霊的戦いに勝利できないのか?なぜ神様は私を助けてくださらないのか?
あなたは本当に割礼を受けているのか?神様との関係であなたはどうなのか?あなたは私に従っているのか?
もし逆らっているのなら、いくら求めても神様は助けることができないです。

神様が一番悲しがるのは、既に自分がサタンのところに行っていることに気付いていないことです。
目が見えない、自分がどこにいるのかもわかっていないことです。

【申命記20章4節】

神様との関係を正しくするならば全ての戦いで勝利を与えてくださる神様です。

旧約聖書の霊的戦いで勝利したものは、神様の指示に全ての民たちがその通りに従いました。
そして神様に献身しました。すると100%その戦いは勝利で終わりました。

指導者も民も、祈りながら神様に作戦を聞くと必ず方法を教えてくださいました。
エリコの戦いでも神様の方法に従ったことで勝利することができました。
戦いに負けた時は、神様に従わなかったことが原因なのに、神様につぶやきました。
敗北の理由は神様ではなく、民たちにありました。従わなかった罪があるからです。

【Ⅱコリント10章3-4節】、【エペソ6章10-12節】

聖徒たちの霊的戦いは常にあります。
この時に私たちは「サタンを追い出さなければ」と考えたり、
自分を苦しめる周りの人達をターゲットにして「あれがサタンだ」と他人と戦い始めます。
しかし、それだけが霊的戦いではないです。

一番強いものは「常にあなたの内側にある」と神様が語っておられます。
私たちが戦うべき相手は、外部の勢力ではなく信仰生活で起きる
自分の内側にあるものとの戦いが一番しなければならない戦いであります。

①肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢
これは御父から出たものではないです。神様から出たものなら戦う必要はないです。
しかし、神様から出ていないものが私たちの中に存在するなら、それはどこから来たものでしょうか?
――それは、この世(悪霊)から来たものです。

私たちには肉の欲、目の欲がありますが、それらは神様に対して戦いを挑むものです。
肉の身体を脱ぎ捨てなさい、そしてイエス様から心の割礼を受けているのに、それを持つならば
再び古い者に戻ったということになります。
サタンと共に仲良く歩んだ時の姿に戻っていることを意味します。

こういう思いが出てきた時に、サタンに立ち向かっていかなければならないです。
そうしないと肉の奴隷になってしまいます。
霊的戦いを軽く考えるならば、自分の命が取られることを意味します。
サタンの目的は、「盗む」、「滅ぼす」、「(魂を)殺す」です。
わずかな肉の欲のために、あなたの大切な永遠の命を手放すのか?
肉の欲を殺しても殺しても常に出てくるので、これは激しい戦いになります。

②悪からの誘惑
サタンが私たちの心に植え付ける色んな想いです。
不信感、疑い、憎しみ、怒り、不安
これは私たちの想いにサタンが常に入れるものです。悪を行うように誘惑するものです。

良い想いは神様が与えてくださいます。私たちが良い行いをするためにみことばを入れます。
そうすると心が満たされていきますが、悪い想いは全てサタンが入れる悪いものです。
私たちは自分の心を守らなければならないです。サタンの誘惑に乗り、心に入れてしまうと罪を生みます。

③罪との戦い
罪と知っていながら、留まっているなら全てを失うので立ち返らなければならないです。
罪の奴隷になると、さらに罪を犯します。ついには心が死んでしまい、
良心が麻痺されて、罪を犯しても何にも思わなくなります。そうなると完全に神様から切り離されてしまいます。
私たちは罪を犯さずに生きる人はいないですが、しかし罪を犯したならば悔い改めて立ち返り、
罪の奴隷になってはいけないと神様が語っておられます。

罪は楽しいだろう?やり続けなさい。神様を信じてみことばに従って生きるのは、しんどいだろう?
短い人生、喜び楽しみながら快楽を求めながら生きなさい。
そして肉を喜ばせる言葉に誘惑され「神に従うのはしんどいな~、もう ほっといてくれ」となってしまうと、
その先は自分で刈り取らなければならないです。
他の者が刈り取るのではなくて、自分が蒔いたものは自分で刈り取ることになります。

しかし戦って私たちが神様の言葉に従っていくならば、神様が共に闘ってくださいます。
神様が戦うので負けることは有り得ないです。霊的戦いは自分の永遠の命にかかっています。

戦いそのものは楽ではないです。
しかし主は、楽ではない中でも神様に頼るならば、神様は力を与えて勝利することができます。

私たちは1週間に1回は礼拝に参加をしてみことばを聞きながら賛美をしますが、
これは軽く考えてはいけないです。これは戦いの1つの武器であります。

しんどくて参加したくない時こそ、それは肉の想いでサタンに抑えられていることなので
神様がいるところに行かないと、さらにサタンによって抑えられていきます。
礼拝の場所ではみことばを宣言し、賛美があるのでサタンは追い出されていきます。
来る時は肉体はしんどいです。しかし神様は、しんどい時に1人でどうやって戦うんだ?
サタンは私たちが神のところへ行かないように策略を持って働きます。

【詩篇149編5-9節】

礼拝の中でサタンを縛ります。知恵を受け、神様の助けを受けて勝利するために礼拝に来なければならないです。
その想いで来るならば、神様は帰る時に必ず勝利させてくださいます。
だからサタンに騙されてはいけないです。
サタンの誘惑であり聖徒たちが聖日礼拝に来ることは神様との契約であり、神の民である印であります。

本当に心に割礼を受けている者は、神様の安息日を守り、神様に祈らないといけないです。
もちろんこの複雑な世の中に生きているので、どうにもならない時もありますが、
それ以外の理由で、行けるのに自分の肉に負けてサタンに騙されて行かないならば
霊的戦いに負けたことを意味します。

ある牧師が「サタンを縛ることをしているんですか?そんなことをしてはいけない」と言っていました。
そういう牧師の教会は悲惨であります。サタンはやりたい放題です。
聖書にはこのように書いてあります。「悪魔に立ち向かいなさい。」、そして「戦いなさい」という言葉もあります。
私たちはサタンが多く働くところで生きているのに、戦わないならば奴隷になってしまいます。

霊的戦いに勝利するために旧約聖書で学び、負けた戦いにも何故負けたのかを知ると、
そこに自分の姿が出て来ます。
従わなかったから、欲を出したから、罪をそのままにしたから・・・いつまで経っても勝利できないです。

肉を叩いて潰して、聖霊に服従させなければならないです。
もし自分の想いのままに生きるならどうなるか、士師記を読めばわかります。

神様を恐れてください。そして神様が語った通りに指示に従ってください。そうするならば100%勝利します。
日々戦うと、どんどん新しい者に変わっていきます。 ( ̄‥ ̄)=3 フン

2012.3.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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人生で大切なものは?

テーマは『 人生において大切なもの 』です。

【伝道者の書3章12-13節】

ソロモンの口を通して何を神様は伝えたかったのでしょうか?

あなたの人生の中で一番大切なものは何ですか?
自分の関心はどこにありますか?お金、持ち物、命、家族…色々あると思います。

若い人達は「命の次には携帯電話」だという人もいて、自分の命を落とす人もいますが、
これは何も気付いていないことであります。

決して「物」ではないです。物は一瞬で消えていきます。「人」でもないです。
人ほど移り変わりやすい、裏切りやすいものもないです。
朝霧のように消えていくものですので、神様はそんなものに信頼するなとおっしゃいます。

ソロモンはこの地上で生まれた人の中で一番全ての物を持っていた人物です。
父・ダビデも素晴らしい人でした。神を信じ、知恵、お金、名誉、権力、欲しい物、全てを持っていました。
そして全てのものを経験していました。妻を1000人。あらゆる快楽も全部経験しました。

そのソロモンが語る言葉なので、私たちはすごく納得できます。実際に経験して書いたものが
伝道者の書です。その中でソロモンは「全てのものが虚しかった」と言っています。

それでは一体、生きてる人間は何が楽しみなのでしょうか?
虚しさの中で、「それでは、何故 神様は人間を造ったのだろうか?」
それでソロモンが主にあって悟ったことが、人生の中で一番大切なものが、伝道者の書3章12節のことばでした。

食べたり、飲んだりするのは、「それは快楽でしょう?」と思いがちですが、
私たちが喜び楽しむことは神様からのプレゼントです。
それなら私たちは喜び楽しまなければならない者だということです。

そうなると矛盾を感じてしまいますが、ここで神様が語っているのは私たちの平凡な日常生活の中でということです。
私たちは毎日食べたり飲んだりしています。

「飲む」というのはお酒のことではないです。
人々は特別なことがあると嬉しいと喜びますが、平凡な1日の生活の中では何も感じなくなっています。
しかし日々の生活そのものが、あなたたちにとって神様が与えてくださった喜びであります。

もちろん神様から離れて食べたり飲んだりするならば虚しさだけが残ります。

【伝道者の書2章24-25節】

神様の主権の中で日常生活を楽しみ喜ぶことが大切なことです。

日々、何も感じずにいた部分が1日取り上げられたらどうなるでしょうか?
食べ物が無くなったらどうなるでしょうか?毎年世界では10億人が飢えで命を失くしています。
アフリカでは飲み水がなく、不衛生な水しかない地域もあります。
韓国のある地域では、洪水が起こり各家庭に水が届かなくなりました。すると住人はトイレに行きたいのに
水が出ないから使えませんでした。すると1~2時間後、都会のマンションの裏には汚物が至る所にありました。

人々は1~2時間止まっただけでパニックになります。トイレの水が出ることがどれだけ感謝なことでしょうか。

神様は生きる為に必要なものをいつも与えてくださっています。
祈りの中で語ったことばで、《日毎の糧を今日もお与えください。いつも主にあって求めなさい。》
当たり前ではないです。与えてくださっていることに感謝しましょう。
そして与えられた時は、神様が与えてくださった素晴らしいものを喜び楽しみましょう。

お金が喜びを与えることはないです。お金はあればあるほどあらゆる誘惑に陥る、と。
これは【Ⅰテモテ6章】にあります。

明日の心配はするな。明日は明日祈れば良い。今日守られたことを感謝しますと
喜び楽しみなさい。平凡なことを当たり前ではないことだと気付きなさいと神様がおっしゃっています。
それはとても大切なことで、これらが崩れると全てが崩れるということであります。

【伝道者の書3章22節】

もう1つ人生において大切なことで、「自分の仕事を楽しむこと」です。
人間は働くように造ってあります。たった1度限りの人生です。
2度とやり直すチャンスが来ないということです。だから最善を尽くします。

年老いた人で悔いることは最善を尽くさなかったことで「若かったあの時に、もっと努力していれば――。」
と、よく後ろを振り返ります。わずかな時間の人生の中で、最善を尽くさなかったことを一番後悔します。

もし繰り返し生まれ変われるのであれば、私たちは怠けてしまいます。
しかしそのようなことはありません。1度だけのチャンスです。

だから自分に与えられた仕事・働きに最善を尽くすことが大切です。
手抜きをすると必ず後で自分に返ってきます。後悔ばかりの人生になります。
自分に仕事が与えられたことを感謝しましょう。

世の中には色々な仕事がありますが、自分の仕事に不満を持っている人がとても多いです。
不満があると手抜きになっていきます。心がそこにいかないからです。
不満ではなく、今自分に仕事が与えられていることに感謝しようと最善を尽くすならば
次にすごく良いものが待ってあります。

最善を尽くさない人に神様は祝福を与えないです。
「何で私がこんなことをしなければならないの」と不満を言うのではないです。
日本や韓国は就職難だと言われていますが、そうではないです。
大学生は一流企業を目指していますが、中小企業では人手が足りなくて困っています。

人々の益にならない仕事(詐欺師やヤクザなど)ではなく、
それ以外の仕事の人たちは、私たちにとっていなければ困る存在です。

例えば、ごみ収集の人達がいなければどうなるでしょうか?
1~2日で街中はゴミだらけになってしまいます。臭いもします。本当にその人達に対して感謝であります。

主婦の仕事や会社の仕事を喜び楽しみながら臨むと、努力した成果が出てきます。周りの人も見ています。

最善を尽くすことが大切です。手抜き・不満ではないです。

【エレミヤ書31章3節】

神様は何でもできるお方ですが、全てのことに最善を尽くす神様であります。
小さいことに忠実な者に大きいことを任せるということは、小さいことだからないがしろにするのではなく、
それを本当に心を込めて最善を尽くす人に神様は祝福を備えてくださいます。

「こんなこと…」ではなくて、私たちは与えられたことに対して最善を尽くす時に
神様はそれよりも大きいものを次から次へと備えてくださいます。
そのような人達が人生で成功します。人生で後悔もないです。

力を残すと、後で後悔し引きずってしまうので、引きずらない為にもその時に出来る精一杯のことをします。
「私に出来ることは何か?」探してみて、力が残らないようにやってみます。
それが終わったら、それ以上出来ることはないから感謝し、引きずらないことです。

神様は1つのことを教えてくださっています。
今日という日、それは今 生きているこの瞬間のことであります。
私たちは「明日が…、あさってが…。10年後が…、20年後が…。」いつもそれを見ているのは
それはしっかりと地に足がついていないことです。

【へブル3章13-15節】

今日1日、最善を尽くしましょう。「明日がどうなるかあなたにはわかるのか? わからないんだ。
今の時間が永遠に続くことはない。あなたに与えられた時間は今しかないんだ。
今日この時間が大切であり、すべきことをしなさい。神様を愛することを今日しなさい。」
今日与えられたことは、自分が持っている力を使うことです。自分に与えられた分だけ最善を尽くします。

隣人に対してもずっと自分といるわけではないです。「今日」愛すること。
仕事、家族、隣人に対してもそれを楽しみながら最善を尽くすと自分が満たされていきます。
そして自分が成長していきます。
しかし、「明日にしたら良い」となると、終わりの日になると後悔ばかり、引きずることばかりになります。
その人生は失敗になります。

【伝道者の書7章1-4節】

良い名声…これは有名になって、色んなことをして業績を残す、ということでないです。
神様と人々から受ける良い評判のことです。
霊的な姿、人格、行いの動機が神様から認められることです。
パウロのようになりたいな、ペテロのようになりたいなというのが良い名声ということです。

生まれたその日から、罪や労苦、心配が始まります。冷静に見ると苦労が多いです。
だれもが通る道です。
神様がいなければ死ぬ日は地獄へ行くので恐ろしいですが、私たちは主にあって
死ぬ日は全てから解放される日であります。労苦から悲しみから心配から解放されて
安息の地に入ることです。これが聖書が教える死後の世界です。信じる者が入る世界であります。
これを悟らなければならないです。

喪中の家に行くと、私たちの心が謙虚になります。自分もいつかこうなるんだろうと
誰も避けることができないので、自分を顧みる時間になります。そこで教わることが多いです。

肉体を喜ばせる快楽の人生が良いと求める人がとても多いです。
「それが無いと生きた意味がない」という人は、愚かな者です。
肉の満足だけの為に生きる人生は滅びだけが待っています。
大切なことは自分の未来を準備する人が本当に知恵ある者であります。

あらゆるものを通して学びなさい。
人々の心にいつまでも残る人になりなさい。どこに向かって歩くのか?

【伝道者の書12章13節】

最も大切なことであります。神様の栄光のために人間を造ったからです。

【イザヤ43章7節】(人間を造った目的であります。)

自分の為にこうしてくださいと次元の低い祈りではなく、そして神様を自分の為に使うのではなくて、
順番を間違えてはいけません。神様の為に私が造られたということです。

しかし神様は怖いお方ではありません。

あまりにも素晴らしいお方、偉大さの前で、それに対する尊敬の思いが「恐れ」であります。
その前に自分が軽率にできないからです。自分と同レベルだと思ったらいけないです。

神様を心から尊敬する人が、神様の命令を守ります。
神様を軽く考えるから、神様の命令を軽く扱います。自分が何者かを知るべきです。

①生きている間、日々の生活の中で喜び楽しむこと。
②自分の仕事を楽しみ、最善を尽くすこと。
③死んだ後に良い名声を残すように生きること。
④神を恐れ、その命令を守ること。

これらが最も大切なことです。悔いがない人生が成功した人生です。
日々の生活の中で実行してみてください。どう生きるべきかを知って生きる、知恵ある者になります。

そういう人がたくさんの良い実を結ぶことができます。
神様が、わからないなら学びなさいと教えてくださっています。
あなたの人生を楽しみながら生きなさい。苦しみながら、泣きながら生きるのは、神様のみこころではないです。
私たちの生き方が間違えているから、たくさんの苦しみに遭っているだけです。

教えられた通りにやってみるならば満たされます。
他人が認めるかどうかは関係なく、自分自身の心が満たされます。

今日学んだことを自分に当てはめて、生き方を直す部分があれば直してみてください。(^∀^)

2012.2.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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心を改めた人の特徴とは?

テーマは『 真の改心者の特徴 』です。

【Ⅰテサロニケ1章2-3節】

パウロはテサロニケ教会を模範となる教会だと思っていました。
開拓をするパウロは、ユダヤ人から命を狙われたり妨害・迫害を受けていました。

テサロニケ教会は小さい教会でしたし、集まる人数も少ないです。
しかし信仰は、信仰歴や教会の規模は関係がありません。
迫害を受けても信仰を守り通すのが真の信仰であります。

世のものでは、長い時間携わっている人が色々な経験があり上達している人が多いですが、
信仰は全く関係がないです。

どんな人が信仰が強い人と言えるでしょうか?
それは福音に対するその人の態度で、福音に対していつも熱い思いで湧き出ている人たち。
このような人が信仰が強い人です。弱い人というのは、死んだ信仰の人のことです。

【Ⅰテサロニケ1章9節】

これが改心した姿です。真の神様に立ち返る姿であります。

日本では、色々な神様を信じている人が多いです。
パワースポットという場に女性が多く訪れています。偶像の神を信じています。

私たちは、他の神々に拝んだり、方向転換をしないように気を付けなければいけません。
世の人は単純な思いで拝みに行き、知らないのでそれを悪いことだとは思っていません。
これは誰も教えてくれないことです。

生ける1人の神様に仕えることが、信仰です。徹底的にする人が改心した人です。

神がいないと言うのは愚かな者です。
しかし この世も、見えない神様が造ったものです。今も神様は働いておられます。
生ける神様を発見した人は幸いな人です。

ギリシャ神殿も偶像の神のものです。これは日本も同じです。
再び仏壇に拝んだりすることをしないで、周りの環境に染まってはいけません。
暗闇の中で光を放って輝くのが信仰生活です。暗闇には光が必要です。

愛の労苦とは、福音の為の労苦です。言葉だけではなく、愛する人のために自分が代価を払うことです。
信じない人へ福音を伝える為にする労苦です。

【ピリピ2章14-17節】

愛とは何でしょうか――?

①人に対する関心です。相手には何が必要か?そしてその人の責任を自分も負うことです。
②相手を尊重し、理解し、自分から与えることです。自分からその人に対して何かをしてあげたい。

愛は、自分から相手に犠牲を払うことです。そこに計算が入るのであれば「愛」ではありません。

テサロニケの人達は、愛の代価をたくさん払いました。
キリストの再臨に対する望みがありました。迫害の中で、キリストの再臨が支えになりました。
再臨を、自分たちが救い出される祝福の日だと思っていました。
今、受けている迫害と、その後に神様から受ける祝福を比べて、祝福を受ける方を握り迫害に耐えました。
テサロニケ教会の人達は、一番大切な物を握っていました。バランスが大切です。

福音を自分の物だけにするのではなく、人々に流していくことです。
神様を愛する心があるので、人々に愛の労苦ができます。

迫害はいつまでも続くものではありません。
自分はどうでしょうか、バランスが取れた信仰でしょうか――?
足りない部分は補わないと倒れてしまいます。マタイ7章には、ひどい倒れ方をすることが書かれてありますね。
 
この世を去るのは順番が決まっていないです。もしかしたら明日かも知れません。これは誰もわかりません。

私たちは、いつまでも残るものを握っていなければいけません。

主に喜ばれる者になりましょう。

2012.2.19
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちは何者でしょうか?

テーマは『私たちは何者でしょうか?』です。

※本日はいくつかのテーマで分かれています。

【詩篇20章1-9節】

神様はダビデの信仰を見ておられました。小さな石ころでゴリアテを倒されました。

世の人は、実力・競争など、あらゆるもので誇っています。
そしてどんなに頑張っても上には上がいるので、私たちは勝ち続けることができません。
また、自分より劣っている人を見て、慰めたりしています。

私たちは何者でしょうか?
私たちは救い主イエス様を受け入れているので、それらをする必要はありません。
人は、持っている物を羨ましく思いますが、私たちは魂を見ましょう。

【Ⅰコリント12章12-27節】

教会はキリスト(からだ)で、私たち1人1人は各器官なのです。自分の立場をよくわきまえましょう。
「自分は手なのか? 足なのか?」それは、わからないのですが
1つの器官が無くなると、教会は不調になります。
教会は神様のみわざで作られたものです。

小さな臓器であっても、無くてはならない重要性があります。
私たちは兄弟姉妹が休んだり、元気がないのを気付くと胸が痛くなるので、
神様にはなおさらです。神様は私たちの傍で見ておられます。

【Ⅰコリント12章21節】

私たちは、自分の口を通して相手を傷つけることがあります。
舌は使い方によって、とても危険なものになります。
兄弟姉妹を裁いたり、冷たい言葉をかけることは、罪を犯していることです。
なぜならそれは、兄弟姉妹1人1人は、イエス様が十字架にかかったほどの尊い魂だからです。

【詩篇32章1-11節】

32章8節のみことばは、イエス様を受け入れた人だけに与えられる言葉であります。
私たちは死んだ後に行くべき道があります。天の御国です。
≪ 神様の言葉を、曲げて受け取らない者は幸いです。 ≫
≪ 神様の言葉を、チャレンジする信仰で握りしめる人は幸いです。 ≫

私たちは牧師を通して、1人1人に預言の言葉をいただきますが、
言葉の内容が、「厳しいから聞きたくない。」、「祝福の言葉ではないと受け取らない」ではありません。
この言葉を受け取るのは自身の選択です。この時に、神様はどのようにするのかを見ておられます。

行くべき道を通すために、苦しい時を経験させることもありますが、神様はすべてをご存知であります。
目を真っ直ぐに上げましょう。

ここでイエス様を知っていたら、たとえ転んでも塵を掃って、また立ち上がります。
イエス様を知らないと、自らの命を絶ってしまうこともあります。

もっとイエス様に助けを求めてください。これは遠慮することではありません。
神様は助けたい思いでいっぱいであります。

立ち上がる度に強くなります。神様は私たちを甘やかすことをなさいませんが、
手を出すタイミングを見ておられます。
私たちが励ましを受けて歩いていけるようにしてくださいます。

【ルカ9章23節】

日々負っているもの = 例えば、家族の救いです。 日々祈りましょう。
自分を捨てることです。自我があると、神様とぶつかります。

自我があると、私たちの耳にやさしくサタンが囁いてきます。
イエス様が一番扱いにくい人は、自我が強い人です。
そのような人に、イエス様は苦しまれます。
何故ならば、敵を愛しなさい。→ 「それは無理です。」(このように自我が邪魔をします。)
家族の中で一番最初に救われたあなたが、自我を捨てて手を差し伸べるのです。

【エレミヤ29章11-14節】

29章11節は、私たちが問題の中にある時、良いことを考えられない時があります。
しかし、私たちは明日のことをわからない者です。今夜のことですらわかりません。
私たちは今のことしか出来ません。
将来と希望は明るいものです。ただし、これには条件があります。
29章12-14節です。

素晴らしい預言を与えられたからと待っているだけでは道は開かれません。
神様は待っておられます。私たちはついキョロキョロしてしまいますが、
神様は私たちをジッと見ておられます。
イエス様の足元にひざまずき、駆け込むことです。
常にサタンは心の奥を汚そうとします。

辛い時に一番悲しんでおられるのは、自分ではなく 「神様」です。
私たちは、魂の親がいることを意識した方が良いです。

頑ななのは、私たちの心で、イエス様に期待しましょう。
―― これらのことは、覚えているうちに祈りましょう。――

サタンは、私たちの内に落ちた種を盗もうとします。
すぐに家に帰るのではなく、礼拝堂で期待して祈ります。
花のつぼみを無理やり開くと、花を殺すことであります。
しかし、神様の愛が働くと綺麗に咲きます。私たちの心も同じように考えましょう。

≪深く植え付けてください。芽が出るように、祝福されますように。≫  アーメン

2012.2.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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