からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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2012年12月

働く態度と実

テーマは『 働く態度と実 』です。

【ローマ12章10-11節】

私たちは1年間、どのような気持ちで働いてきたでしょうか?どのような実を結んだでしょうか?
年末になると感謝はもちろんですが、反省もしなければならないです。

神様が喜ぶ態度で自分は働いてきたのか、考えなければならないです。

労働は人間としてすべきことです。
私たちはそれにプラスして、神様に仕える働きもあります。これはクリスチャンにとって大切なことです。

神様は「主のために○○をしなさい」と、私たちに与えておられます。
教会に来て何もしていないという人は1人もいないと思います。

働きの中でも、神様はその人の心を見ておられます。その人がどんな態度で仕事をしているのか ――です。
心の態度がとても大切で、それができていないと一生懸命働いたとしても、神様はある者は退け、
ある者はやっていても何も報いがない。ある者はやっていても何も実が結びません。

働く態度の姿は3つあります。

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①感動の心で使命感を持って働く姿

神様から受けた恵みに常に感動して、「どうやったら私が主を喜ばせることができるか。」
「神様は私の為にイエス様を送ってくださったので、私は何をもって神様に仕えることができるでしょうか。」
「主よ、私は何をしたら良いでしょうか。」
仕事をする前に神様の感動があります。

こういう者に対して、神様は喜んで働きを与えてくださいます。
それが、その人にとって使命なのです。「神様、与えてくださり感謝します。」

パウロは神様に出会った時から、死ぬ時まで感動の心で自分の使命を果たしました。
これは、神様が一番喜ぶ姿であります。

感動が消えると、それは「形式」になります。神様はこの形式的なのを嫌います。

パリサイ人は言葉や知識をよく知っていますので、その点では神様は彼らをけなすことはないです。

語る言葉は神様のことなので間違いはないのですが、彼らの心は恵みに対する感動がないです。
ですので、結局自分のための働きになります。

神様が喜ぶか 喜ばないか、それを考えながら聖書を読まなければならないです。
霊に燃えるということは、使命に燃えることであります。知識ではないです。
このような人たちがたくさんの実を結びます。そのような態度でしますので、実が落ちることがないです。

いつも同じ心で取り組むので、どんどん大きい木になって、そこにたくさんの実が結ばれ、
神様はそれをすごく喜びます。


②義務感で働く人の姿

私たちは義務感を持つ必要がありますが、それだけで働く人たちがいます。
その人たちはしたくないのに、「しなければならない」という思いでしています。
義務感で働くと、働きはきちんと出来ています。
しかし、働いている人の心には喜びがないです。

普段 喜んで働いていても、時々身体が疲れたり、心が落ち込んだりする時は「したくないな」という
気持ちになるのは当然出てきますが、
義務感で働く人たちは常に「したくないな」という思いを持ちながら、「自分に与えられたことだから、仕方がないな。」と働きをします。

義務感で働く人は、働きをしていますが神様に喜ばれない姿であります。
その働きが終わったら、サッと消えます。そして、それ以上のことはする気がないです。

神様の前で、義務感を持って働く人が意外と多いです。

例えば、したくないこともあると思います。「これは私の仕事でしょうか?」ということがあるかも知れませんが、
神様は私たちの中にある「別のもの」を見ておられます。別の可能性を見て、神様はそれを花咲かせる為に、
私にやらせるんだ、と。  人間にはたくさんの才能があります。
ですが、私たちは自分がしたいことをするので、自分に見えていない可能性は埋もれてしまいます。

光に当たることもなく、一度も芽を出すこともなく、消え去って行きます。

神様の素晴らしいところは、私たちの中にあるものを、引き出すのがとても上手いのです。

「出来ないです」と逃げることを考えるのではなく、
「神様、これが与えられました。どうか出来る力をください。出来るように守ってください。
出来るように神様が恵みをください。知恵をください。」
このように祈った時から、出来ないと思っていたことが光に当たっていきます。
自分でも知らなかった部分が、どんどん凄いものになっていきます。

神様によって1つのチャンスが与えられる事、それに出会うことは、私たちにとって恵みであります。
初めは義務感でしていたことも、それをずっと続けていることで義務感でなくなります。

神様から与えられたことは、義務でするのではなく、どうせやるならば主に喜ばれる実をしっかりと
結ぶものにして、神様に「私はこれを通して栄光を捧げました。」というものを持ったら良いです。

多くの場合は、「そんなことできません」という義務感から始まると思いますが、
「私のような者に与えてくだっさって感謝します。」という思いですると、たくさんの恵みを受けると思います。
主の働きは全て良いものであります。


③イヤイヤしながらする姿

逃げたいのに逃げられないという思いで、義務感もありません。

いつも逃げることを考えて、そして突然やめてしまいます。
その人たちからは1つも実を結ぶことがありません。「これ以上無理!」と投げ出し、
神様のことを全然考えないで自分がしたいようにするのは、ある意味役に立たない姿であります。

このような人たちはいつも不平不満が出てきます。牧師や周りの人たちにも不平不満を言います。
それは神様の恵みに気付いていない姿であります。

神様はいつも私たちの心をやわらかくしなさいとおっしゃいます。
そして、日々新しい恵みを備えてありますので、常に新しい革袋を用意しなさいと語ります。

---------------------------------------------------------

まず私たちが愛の心から出発していることで、
神様に喜ばれる態度で、良い実を結ぶためには「兄弟愛」が必要です。

兄弟愛があるので互いに仕えあうことができるのです。愛があると心に感動が出てきます。
愛と義務は全く違うものです。義務には愛がないです。
愛があると、「しなさい」と言われなくても、「仕えたい」、「ある人を喜ばせたい」と、その思いが出てきます。

愛がないと相手をけなして、相手を踏みつけます。

「愛してる」と言いながら相手を踏みつけたり、暴言を吐いたりするなら、それは愛ではなく執着心であります。
愛は、相手を大切にして、相手を自分よりも勝っていると思う心であります。そして、そういう人たちは
一生懸命、喜んで働きをします。神様はその人の上に祝福を与えてくださいます。

この1年の自分の姿がわかると思います。本音は自分の心の中にあります。
もし自分の心がどこかに当てはまるならば、それを改善すべきであります。
同じ心で来年も仕えていても、実が結ばれることはないので、確実に実が結ばれるように働くと、
神様には「栄光」、自分には「祝福」。
その人たちにはますます素晴らしい実を結ぶ人生になります。  v( ̄∇ ̄)v

2012.12.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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言い訳

テーマは『言い訳について』です。

【ルカ9章57-62節】

ここには弟子の姿が書かれてあります。
弟子は「主に従っていきます」と熱い想いを神様に語りました。
しかし、それに対してのイエス様の返答は「58節」にあります。
弟子には<弟子として従っていくことの先にある苦難>などに全く気付いていないです。
このような人達にはイエス様が事前にきちんと教えておかないと、後になって
「 神様に従うことはこんなに大変なことですか。従うことがこんなに苦しみが多くて、
経済的にもこんなに大変なんですか?もうこれ以上ついていけません。 」
実際にこのように神様から離れていく人がとても多いです。

イエス様はこの人達が後になって言い訳することを知っておられたので、言いました。
「覚悟ができて、はじめて私についてきなさい」

また、もう一方でイエス様が周りの人達に語った言葉があります。
イエス様が「従ってきなさい」と語っておられるのに、「 神様に従うことは従いますけど、
その前に人間としてやるべき事をしてからついて行きます。 」
これは人間が一番多く使う言葉であります。「 家族があります。他にすべきこともあります。
人間として当然のことですので、それを先にやらせてくださいね。 」

一見、この言葉は人間らしく、家族想いのように聞こえますが、神様はこれを否定しました。
私たちはこの言葉を使いながら、心の中に思っていることがあります。
世の中のことにまだ執着していることが多いです。
それによって神様を第一にすることができないです。優先順位が神様が一番ではないです。
召されているにも関わらず、まだ世に対しての未練が捨てられないです。

神様は「霊に属する者はどんな時でも霊のものが先なんだ」と語ってあります。
農夫は収穫の時に畑に立ちますが、(タイミングが)ズレてしまうと収穫がないです。
私たちの言い訳は、神様には通らないことであります。

「 信じたいのに信じられない 」という言い訳
これはよく聞く言い訳でありますが、その言葉の本質は嘘(言い訳)であります。
信仰は神様からのプレゼントです。(信仰の賜物)
その人がこのように語っているにも関わらず、神様がその人に信仰の賜物を与えないはずはないです。
口先だけで「 信じたい 」と言う言葉の中身は「頑なな心」であります。
本音は信じたくないのです。自分の思いのままに生きたいという想いがあります。
本当に信じたいと思うならば、心を開いて「聖霊様、私に信仰の賜物をください。」と言いますが、
頑なな心の人は全て計算済みであります。

【ルカ18章22-25節】

この言葉自体は求める人の言葉でありますが、この人が1つだけ手放していないものがあることを
イエス様が気付き、財産を手放すことを言いました。
するとその人は「 永遠の命 < 財産・地位 」だったので変えることができませんでした。
主に従うにはそれらが邪魔をします。
永遠の命も欲しい、財産・地位も欲しい、このように両方手に入れようとするのは、
神様は無理だと言っておられます。

【ルカ16章13-14節】

普通の人から見るとパリサイ人がお金を愛しているようには見えないです。
彼らは外見では絶対にその姿を見せないです。とても敬虔な者のように「神様、神様」と
言いながら、宗教ゴッコをしています。形だけで神様に従っていきます。そしてたくさんの言い訳をします。
神様の言葉よりも、他のことを取るなら、それの方を重んじていることになります。
これは私たちにもあります。神様の言葉を無視することが多いです。

【マタイ9章13節】

「 私はもっと立派な人になってから主に従います。こんな罪人が主に従うことは出来ません。 」
謙遜な言葉に聞こえますが、これは謙遜ではないです。
これはパリサイ人がしたことに対してイエス様が答えた箇所でありますが、
世の中で周りの人に「あの人が一番罪深い」と言われる人達がイエス様のところに集まり、共に食事をしました。
それを見て、自分の方が遥かに立派で 聖い者であると思っている人達が非難をしました。
「 もっと立派になってから主に従います 」と言うことは、自分の罪を認めていないことであります。
自分が罪人だと知っている人達は、誰がこの状況から救い出してくれるんですか?と
自分に失望をしているので自分を赦してくださる方を求めています。
だからイエス様のところに本当の罪人たちは喜んで来ました。
この言い訳を言うのは、自分の罪を隠しています。悔い改めたくないのです。
自分の罪を自分で聖めることができるでしょうか?これはイエス様にしかできないことです。

自分達の失敗に対して言い訳しながら、「 今は神様のときではない 」という人達がとても多いです。
「 神様のときが来たら、ちゃんと従います。 」

【ハガイ書1章2-4節、9節】

彼らは「 神のときは来ていない 」と、それらしき言葉を語っていますが、これは彼らにある心配がありました。
彼らが捕虜から帰ってきた時、彼らは全員熱心で、主のために一生懸命働き 取り組んでいました。
その時に敵から色んな非難が出てきました。すると彼らの熱心な心が冷めていきました。
「 非難されるし、したくないな。自分達の生活もあるし、しんどいな。 」
そこから神様のみこころに従って歩むよりも個人的な計画を立てるようになりました。
自分の家を建てるのに忙しく、
神の御前で言う言葉は「 主の宮を建てる時はまだ来ない 」と言い訳をしています。
優先順位が「自分」です。まず自分がしたいことを全部して、残った時間に神様の働きをしようとします。
ですから祝福がないです。種を蒔いたわりには収穫が少ないので、神様につぶやきます。

【ハガイ書1章6節】 【ハガイ書2章8節】

得るものが少なく疲れ果てるだけであります。
「言い訳せずに、わたし(神様)が一番上なんだ。」
神様のことを一番下にすると、神様が祝福したくてもそれが出来ません。

「 神様に従うことを誰にも知られたくない 」
自分がクリスチャンであることを隠して生きている人がとても多いです。

【マルコ8章38節】

「 私はまだまだ未熟だから知られたくないです 」と、
教会へ行くのに家族にはいつも「会社へ行く」と嘘を付きます。
家族に「 非難されるのがイヤ 」「 闘うのがイヤ 」「 自分の立場と地位が悪くなるからイヤ 」
「 迫害もイヤ 」
これらを恐れて神様を信じていることを隠します。
これに対して神様の言葉は「 わたしもあなたを恥じる 」であります。
このことによって、救いを受けているつもりでも、受けていないことになります。

公の場で、自分がクリスチャンであることを言わなければならないです。
わざと言う必要はありませんが、「日曜日どこへ行っているの?」と聞かれた時に、
「 ちょっと用事が・・・ 」、「 仕事です。 」ではなく、
教会に行くならば「教会へ行きます」と言わないと福音を伝えることができないです。
迫害されるならば、それを喜んだら良いです。「私の信仰が神様に認められた!」と。
しかし、多くの人はごまかすために言わなく、否定することすらあります。
これは正しくない姿であります。

「 何で救いがイエス様だけなんだ 」と腹を立てながら言う言い訳があります。
これは世の中の多くの人が持っている神様に対しての言い訳です。
「 日本には日本の宗教があるのに、何で外国の宗教を信じなければならないのか 」と
腹を立てて受け入れないです。しかしこれは正しい言葉ではないです。
その人達は救いが何なのかを知らないです。
ある意味、伝統儀式になっていて、自分の罪が贖われて天国へ行くという意識がないです。
実際 神様を知らないのに、まるで自分は神様を知っているかのように、日本の宗教、世界の宗教、
それぞれに救いがあるでしょう、と言いますが、
(その人達に)救いの意味を聞いても誰も答えることができないです。
それは、神様に出会わないと正しい返事ができないからであります。
「 私は今の宗教でいいわ。私はここで極楽に行くし。 」
これは生きておられる神様を信じたくない者の言い訳であります。
クリスチャンを神様から離そうとし、イエス様のことを非難します。

【ヨハネ21章22節】(教会での言い訳)

「 あの人がいる為に信じられない、従えない。あの人がつまずきの元である。
神様に従いたいのに、教会に行きたいのに、あの人がいるからできない。 」
イエス様は「人を見て来なさい」とは言っておられないです。
これは弟子たちの間でもありました。
人はお互いに助け合ったり、教えたり、世話をしたりすることがたくさんあります。
しかし、自分の世話をしてくれた人だからといって、その人についていくことはないです。

自分に教えてくれたその人が神様ではないです。人間は誰でも弱い者であり、
イエス様が語った言葉は、「わたしに従いなさい。」イエス様が先頭に立っておられます。
自分が信じたくないから他人のせいにする言い訳であります。

【使徒の働き16章29-30節】

「 主を信じたいのに、その方法がわからない 」と言い訳をします。
「 どう信じたらいいのかわからない 」と言い訳して信じない人がいるならば、
神様はこの人物を見なさいと言っておられます。この看守は福音を全く聞いたことがありませんでした。
しかし看守が監獄の中で起きたことを見た時に、パウロとシラスに言いました。
救われる為にどう従ったら良いかわからないと本気で思う人は、必ずこの看守のように熱心に聞きます。

【使徒の働き16章33節】

看守は2人から方法を聞いて、すぐに従いました。看守の中に言い訳は一切ありません。
自分だけではなく、家族も全員救われました。神様は 求める者に与えるお方であります。

【使徒の働き24章24-26節】

「 イエス様に従っていく確信がないので、だから今はついて行けません。 」
本音はそうではないです。初めはキリスト・イエスの信仰についての話を聞きたいという興味だけで来ました。
これはこの人が救われるチャンスを神様が与えてあります。
パウロがそこで福音を宣べ伝えました。すると彼はそこで恐れを感じました。
恐れを感じたということは、「これは本物だ」ということであります。
しかし、彼の中には「二心」がありました。

二心がある人達は、口先では神様を求める言葉を言います。
「 みこころを教えてください。そうすれば私は神様に従っていきます。 」
もう一方では、本当に従いたいという思いがないです。
まだまだ自分のしたいことがそこにあります。自分の心の中に決めたことがあります。
ですから神様に求め、神様の言葉を聞いていても、サッと逃げます。
興味があって何度も何度も聞きますが、もう一方では自分の思いが働きます。
神様のみこころを知るのが怖いのです。聞きたくありません。
それで「 完全に確信ができたらついていく 」と言いますが、神様についていく事を恐れています。

「 自分の力だけで出来るから充分。神様に従っていく必要がない 」という言い訳。
「 なぜ神様が私に必要なのかがわからない。 」
この人達の思いは、この世がすべてであります。神様なしでもこの世では生きることができます。
世の中は神様を信じる人達だけが生きているのではないです。
世の中とは、私たちが肉体を持って生きる世界であります。
肉体から命を取られたら、私たちは塵(ちり)に帰ります。これが神様の法則であります。

「 今までも(神様なしで)生きてきたし、他の信じない人もちゃんと生きてきたのではないか 」と言いますが、
この人たちがわからないことがあります。それは次のみことばです。

【ヤコブ4章13-14節】

自分の計画は全部うまくいくわけがないです。自分の命も、自分のものではないことに気付く時が来ます。
自分の計算の中には自分の命が入っていないです。
自分の命も自分の思いのままに生きていると思っていますが、神様は「消えていく霧にすぎないんだ」と
語ってあります。命の所有者は神様であります。自分の意思で命を延ばすことはできないです。
神様が命を取るときには、私たちは抵抗ができなく死ぬしかないです。
これは自分の力では生きていけないことを神様が見せてあります。

自分の力だけで生きていると思っている者たちに語ってある箇所があります。

【エレミヤ書9章23-24節】

一番賢いことは、悟りを得て自分の力では生きていけないことを知りなさい。
< 自分が主ではない、主はわたしである。 >
主がすべての物を支配しており、すべての物を動かして、すべての物の始まりであり、
終わりであるということであります。
それを、私(自分)が始まりであり、私が終わりである。とんでもないことであります。
これを私たちが忘れず、このような悟りを得るのが賢い人です。
自分がどう生きるべきか、それを分かる人であります。
 

言い訳ばかりする人を、神様はその人が頼るものを崩していきます。
健康に頼る者には健康を取ります。お金に頼る者にはお金を取ります。
失望させて、そして神様が導くことがとても多いです。

私たちはいつまでも神様に言い訳をするのではないです。短い人生なのに言い訳ばかりして、
私たちが恵みの時を逃す。すると後に残る物は、何の収穫もないです。
後で歯ぎしりをして自分の人生を後悔します。
「あの時にそうすれば良かったのに」と気付くのは愚かなことであります。

神様の言葉一つ一つに対して、なぜ主はそのように語っておられるのかを耳を傾けて従う者になると
その後は神様が導き助け、そして守ってくださいます。 (⌒-⌒)

< 今週の目標 >

【神様に対して、言い訳をしない】

2012.6.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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恵みの雨を求めましょう

テーマは『 神様の恵みの雨を求めよ 』です。

【ゼカリヤ書10章1節】

わかりやすいように書くならば、次のようになります。
「春には主に雨を降らせてくださいと求めなさい。主はいなびかりを作り、夕立を降らせ、
すべての人々に畑の野菜を与える方である。」

パレスチナ地方では10月中旬~11月に種を蒔き、その時に降る雨は「先の雨」と言い、
3月~4月は穀物が実を結ぶ時期で、良い実を結ぶには「後の雨」が必要であります。
イスラエルの民達は「先の雨」と「後の雨」が、その時期に適切に降るので
神様の特別な恵みであると考えています。

畑にはどんな物を育てるにしても、必ず適切な時期に適切な量の雨が降らなければ、
それは全てダメになります。

【申命記11章13-17節】

天を開くとは・・・私たちに「恵みを与える」
天が閉ざされるとは・・・私たちの「恵みが無くなる」 ということであります。

神様を信じる、信じないに関わらず、人は神様の恵みによって生きているのです。

神様との関係が悪い人には、神様の特別な恵みは流されないです。
「恵みが無いなぁ」と思う時は、神様のせいではないです。
自分自身を調べなければならないです。

【エレミヤ書5章23-25節】

原因は私たちの方にあるということであります。

【ヤコブ5章7節】

信徒にとって「先の雨」と「後の雨」は何でしょうか?
先の雨・・・救われた時に、神様から受けた恵みです。(命の種)
後の雨・・・成長していく為の恵みです。

私たちは「後の雨」に対する期待(願い)が乏しいです。
先の雨を受けてそれで満足して、あとは自分の方法や思いで生きようとしています。
それで自分は信仰生活をしていると勘違いをしています。

【マタイ5章45節】

自分の力に頼って生きることほど、愚かなことはありません。
自分たちが健康で生きている時は何も思わなかったことも、
身体の1箇所でも不調になると身動きがとれなくなります。
このことで「自分の力では生きていないんだ」ということがわかります。

神様の恵みによって私たちが日々生きていることを自覚しなければならないです。
祈るということは、神様から恵みが流れてくるということを認める行為であり、
自分は神様に頼らないと生きていけない存在だということが祈りであります。

祈りをするということは、準備をするということであります。
≪恵みをもらえる相応しい心の状態にしておきなさい。≫
「神様の時に恵みの雨を降らせてください。」

私たちは神様に恵みを求めるだけで、自分の信仰生活をないがしろにする場合が多いです。
恵みを受ける準備が出来ている人に神様は恵みを与えてくださいます。
そして、それは一番良い時に与えてくださる神様であります。

【レビ記26章4節】

【詩篇68編9節】

【ヨエル書2章23-24節】

◎今週実行することは、「恵みの雨を求めよ」です。
自分の力に頼らないで、毎朝 神様にその日その日に必要な恵みを祈ってください。
どこへ行くにしても、相手の不注意で自分も事故にまき込まれる事もあります。
昨日、健康だったから今日も健康ということでもありません。
「身体を守ってください。」など具体的に祈ってください。人間関係・家庭・職場・学校etcです。 (・◇・)ゞ

2012.6.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖霊充満な人

テーマは『聖霊充満な人の姿』です。

【ルカ4章1-2節】

イエス様が模範であります。
イエス様は肉体を持っていますので、私たち人間と同じことを感じ、弱さもありましたが、
公の働きをする時には聖霊に満ちました。
私たちも神様の働きをする時には、聖霊充満でなければいけないことを教えてあります。

聖霊に満ちて、聖霊に導かれて働きをすることを神様が私たちに1番に願うことでありますが、
今のクリスチャンを見ると、この姿が消えてきてあります。

人々が自由意思で思いのまま歩み、教会に来ているから、祈りをしているから、
聖書を読んでいるから「自分は何1つ間違ったことをしていない」と思っています。
聖霊に満ちて導かれて生きるという認識がないです。

正しい信仰はイエス様が見せてくださっています。
聖霊が自分の中にいっぱいになると、何が起こるでしょうか?
御霊の思いに従って生きます。主から与えられた言葉に対しては従います。
これが聖霊充満な姿であります。

①みことばに従順する生活
(聖霊の支配を受けている姿です)
聖霊に満たされている人は、言い訳をすることがありません。

神様が私たちの御霊を導く時に使うのは、ほとんどが神様のみことばです。
なぜ、私たちはみことばに対して従わなければならないのかが、とても大切です。

【ヘブル4章12節】

神様は私たちの全てを支配したいです。
ですから私たちの魂・霊・肉体もその言葉に従わなければならないです。
神様の言葉が生きておられるので力があります。
(自分が)変わりたいと思う人は、みことばに従わないといけないです。
聖霊充満になりたい人は、神様の言葉に従わないと聖霊に満たされないです。

「聖霊に満たされたら、私は従います。」というのは間違えています。
神様の言葉を聞いたら心を頑なにしてはいけません。

心が固いということは、みことばを入れないということであります。
心を開くということは、聖霊様に従いますということです。

聖霊充満になるには祈りは必要ですが、それだけではなく、もう1つすべきことがあります。
私たちは誰かを家に招く時に、部屋を掃除します。掃除をしなければ、部屋に入ることもできません。
それと同じく、自分の思いでいっぱいのところで、「私の心に聖霊様来てください」と祈って
招待をしても聖い神様は入れないです。
自分の心を掃除をしなければならないです。心がゴミ屋敷では、(神様が)入りたくても入ることができません。

しかし、みことばに従うということは自分の思いが消えたことを意味します。
逆らう思いが消えています。従順すればするほど、心が聖められていきます。

②謙遜な姿

聖霊充満な人は自分の姿がよく見えます。
いつも自分の事ばかり見ている人は、意外と自分のことを知らないです。
自分の足りなさ・弱さ・罪に対してよく分かり、ただ嘆くのではなく共におられる聖霊様のところに
持っていきます。
一番謙遜な者は悔い改める人であります。神様の前で赦しを求める人。
私の力や努力ではなく、命あることも、ここまでこられたのも、目に見えない神様の守りと助けが
あって私はここまで来られたんだ。
神様の恵みと憐れみと、自分のような者を常に赦してくださっている神様の寛容さを知って、
神様の前にひざまづく者が謙遜な姿であります。

低くするところに恵みが流れていきます。

ただ人に見せる為に身を低くしていたり、言いたい事を言わないで、じっとしているのは
謙遜とは違う姿であります。

神様が一番嫌うのは「高慢」であります。

  

③実を結ぶ生活

神様のみことばを聞き従って神様の中に留まっているならば、実を結ぶことに力はいらないです。
自然と実を結ぶようになります。

【ガラテヤ5章19-23節】

自分が何を結んでいるかによって、聖霊に満たされているのか、肉に満たされているのかがわかります。
中が悪いのに、外に良い実が成ることはないです。
自分の中身に悪いものがあるならば、悪い実を結ぶので捨てて、そして入れ物を変えることです。

肉の木を育てるのではなくて、聖霊の実を結ぶ聖霊の木を育てます。

覚悟を決めて変わらなければいけないです。肉の思いは殺しましょう。
そして神様を迎え入れる生き方をしなければならないです。

御霊によって導かれることが自分達が祝福される道でありますので、その自覚を持たなければならないです。
「教えを聞いて何もしない」のは何も変わりません。
変わることを神様が願っておられます。 (*´ω`*)

2012.5.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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新しい人の家庭生活

テーマは『新しい人である聖徒の家庭生活』です。

【コロサイ3章18-21節】、【エペソ5章22-25節】

家庭の中で大切なもの(夫婦・親子関係)

① 愛  ② 尊敬  ③ 従順

これがあるなら、神様が喜ぶ幸せな家庭になります。

男と女が出会った時は、エロスの愛(感情であって霊的ではない)で始まります。
お互いの心が惹かれていき結婚します。
しかし結婚をするとこれが長く続くことは不可能であります。
一緒に生活して初めてわかる相手の姿があり冷めていきます。

このようにエロスの愛は続くことがないです。

神様は夫婦の間では愛の形が変わっていかなければならないと語ってあります。
エロスの愛からアガペの愛に変わらないならば、その家庭は健全な家庭にはならないです。

教会と夫、教会と妻の関係。そしてそこにキリストが出てきます。
「キリストがこうしたように」というのがアガペの愛であります。

しかし結婚はアガペの愛(精神的な結びつき)だけではできないです。
なぜなら結婚するなら子供を産みなさいとあるからです。
そして、アガペの愛が相手をすごく尊重することになります。

クリスチャン同士の夫婦でも信仰が違うと問題が出てきます。
(神様の言葉に従うか従わないかによって)

エロスの愛が無くなったからといって、「愛がなくなった」というのではなく、
新しい愛を生んでいかなければならないです。

夫も妻も役割が違うだけで、同じ立場であります。
愛し方がわからない人が多いです。
夫の役割は、家庭を治めます。怒ることではなく、家庭を守ります。
それは無条件の愛です。

【エペソ5章28-29節】

見返りを求めて愛するのではなく、夫が妻を愛するならば自然と良い関係になります。
夫から妻への感謝の言葉が少ないです。優しい言葉が家庭を丸くさせます。
そして、妻は夫に尊敬をもって従います。

【エペソ5章33節】

お互いに このみことばを実行します。
若い人達は結婚する前に聞いて(学んで)いると良いです。

― 親子関係では ―

【エペソ6章1-4節】、【箴言13章24節】

甘やかしてはいけないですが、理由もなくムチをあげるのは虐待です。
両親は子供が悪い事をしたら正しく生きるように教育しなければならないです。

【箴言23章12-13節】

まずは自分から態度を変えて、良い家庭にしていきましょう。 (o^∇^o)ノ

2012.5.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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新しい人の日常生活とは

テーマは『 新しい人である聖徒の日常生活 』です。

【コロサイ3章5-17節】

新しい人と古い人の姿が書かれてあります。

● 古い人―罪の支配を受けている人(神を信じる前の姿)
● 新しい人―キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に生きている人(罪から分離された人)

この地上で信じる人と信じない人は一緒に生活をしていますが、身分は違います。
地上の闇、天国の市民です。

クリスチャンはそれにふさわしい生活をしていかなければならないです。

【コロサイ3章5節】

殺さなければならないものです。内側にあるもので、これは育つと実を結んでしまいます。
欲が大きくなってしまうと殺すことが難しくなりますので、欲が小さいうちに殺しましょう。

【コロサイ3章8節】

捨てなければならないものです。持ったままでいると汚されていきます。
日々捨てなければならないです。綺麗になるために捨てて、新しい者にならなければいけないです。

【コロサイ3章9節】

神の子ならば、神の国の言葉を使いなさい。
平気で嘘を付くのは、偽りの父・サタンの支配を受けていることになります。
偽りを言うなら黙っていた方が良いです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

【コロサイ3章12-14節】

これは身につけなければならないものです。
聖徒は神様から日々愛と許しを受けているので、自分達が救われています。
だからその愛を持って、兄弟姉妹たち&人々を愛する人にならないといけないです。

【コロサイ3章15節】

感謝をすると周りの人と調和できる生活になります。感謝なしには仲良くはできないです。
感謝は神様からもらわないとできないことであります。キリストの平和です。
日々の生活で求めなければならないです。
自分に愛が無いのなら、そのままにするのではなく求めましょう。

【コロサイ3章16-17節】

偽りを捨てて、キリストの言葉を入れます。使う言葉を変えましょう。
キリストの言葉を語るならば、人々がその言葉によって生きるようになります。
私たちが生きるために、成長していくためにキリストの言葉をたくさん自分達の中に
住まわせなければならないです。

悪いものを捨てて、良いものを取り入れ、日常生活で実践しましょう。 (・∀・)つ

2012.5.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖別された生活

テーマは『聖別された生活をするために』です。

【Ⅱコリント6章14-18節】

神様はこのみことばの中で全然違うものを2つずつ比べています。
そこに一致があるのか、それが釣り合っているのか調和しているのかという言葉を使いながら、
私たちがそこから出て分離することを語っています。

私たちが神さまの子どもになったということは、この世から聖別されたことを意味します。
元々は この世にいましたが、そこから神様が連れ出して聖めた者です。
聖徒という言葉は “聖くされた者達”のことであります。

神様は聖い方でありますので、神様はご自分の子どもにするのも まず汚れたものを洗い聖めます。
汚れたままで良いということはないです。

放蕩息子が帰ってきた時にお父さんはどう行動したでしょうか――?
息子は乞食(こじき)のような生活をしていました。出て行った時と帰ってきた時の姿が全然違いました。
お金をたくさん持ち立派な服装をして出て行きましたが、湯水のように使い散財しました。
完全に乞食になり食べ物がなく、道ばたに寝ていた者でした。
服も汚く洗うことなく誰が見ても乞食でありました。

汚くて見るに見られない状態でしたが、お父さんはそのままの状態で家に入れたわけではないです。
綺麗にしました。新しい服を着せました。新しい履物を与えました。
息子は「わたしはもうお父さんの子の資格はないです。」と言いましたがお父さんはまず全部洗って
新しい服に指輪をはめさせて新しくしました。
神様がなさることはそういうことです。

アダムとエバは、罪を犯した時に神様はどうしましたか――?
罪がない時は、彼らには汚れがなかったです。汚れがないので裸のままで生活をしていても
恥ずかしいと思ったことはないです。

しかし、罪を犯した時に葉っぱを持ってきて見せたくないところを隠しました。
そしたら神様が彼らに「イエス様・救い主を与える」と約束をし、
動物の皮で服を作って彼らに着せました。
以前、彼らが着ていた葉っぱのようなものではないです。寒さにも耐えられるように
神様自身が服を作って着せました。神の手によるものであります。

ですから、神様が私たちを子どもにしたということは私たちをこの世・暗闇の中から光に移し
サタンの奴隷、支配された者をそこから出しました。

(あなたがたは)神の子どもになったのに以前と同じ生活をするのか?ということであります。
そのことを神様は教えたかったです。
私たちは身分が変わると、それからの生き方も変わっていかなければならないです。
それを維持していく必要があります。

その時 1回だけ参加して「神様、聖くしてください。」と、それから世の中に出て行って
世の中にどっぷり浸かって生活をして、世の人なのか神様の子どもなのか区別がつきません。
そのような生活は神様は願っておられないです。

1度聖められた者はそれからはどうすべきなのかを神様は はっきりと教えてあります。

【Ⅱコリント6章14節】

聖別された生活をするためにとても大切なことであります。
「信じない人と断絶することですか?」、「彼らとは話をしてはいけないことですか?」
そのような極端な言葉ではないです。
神様は私たちの信仰を脅かす人、信仰を汚す人、妥協させようとする人達、
そういう人達と私たちはくびきを負ってはいけないということであります。

なぜなら私たちは信じていない人達に福音を宣べ伝える必要があるからです。
だけどその中で自分が持っている信仰が取られる そういう働きをする人と
私たちは一緒に歩くことはできないです。

不信者は、信者の傍にいるからといって(不信者が)勝手に救われることはないです。
同伴者にはならないです。
同じ信仰を持つならば天の御国に向かってずっと一緒に歩くことができますが、
「この人は私が好きな人だから、別に(イエス様を)信じなくても一緒に居たら
一緒に天国に連れて行ってもらえる。」 ――これは とんでもないことであります。

信仰は1人1人のものです。 あなたが信仰告白して信じるならば救われるということであります。
「私1人が信じたから勝手に家族が救われる」「私1人が信じるから自分が愛する人が勝手に救われる」ということは聖書には書かれていないです。

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも あなたの家族も救われます。」というみことばがありますが
私たちが信じると、神様を知る者になります。そうすると自分達の家族の為に祈ることになります。
私たちが信じないならば、家族の救いの為に祈ることはできないです。
しかし、自分だけが天国へ行って、家族が地獄に行って良いですか?――それは誰も思わないです。

「どうか神様、家族を救ってください。」と祈りを蒔くので、時が来た時にその家族が救われるようになります。
語ることで言葉の種が落ちるので救われます。種が落ちないと救われないです。

まだ信じていない人と一緒に教会へ来るから救いの同伴者になる、ということは絶対にないです。
ですから神様は勝手な思いを持ったらいけないということをおっしゃいます。
主の前に出てお互いに信者にならないと合わないくびきになってしまいます。

結婚相手は同じ信仰を持っていないのであれば、行く道が違うので同伴者にはなりません。
結婚する前はピッタリ合っていても、結婚をしたら色んな揉め事が出て来ますが
初めから合わないくびきを負って一緒になることはありません。価値観が違って、
目指すところが全部違います。歩くところが全部違います。
ですから 結婚はすごく大切なことであり、人生での大きな決断であります。
性格とかは皆違います。それを(自分も)一緒に合わせるということではないです。
それはその人の個性でありますが、聖書箇所は真理であります。
行く道が違うとどんどん分かれて行って1人は上に、1人は下へくだっていきます。
そこに幸せはないです。信仰と不信仰の戦いがあります。
そのことで不信者との親密な関係はいけないということです。
どちらかが影響されます。

ソロモンは立派な信仰を持っていました。しかし神様の言葉に不従順し、情欲が出て異邦人の女を
1000人妻にしました。
その妻たちは自分の偶像を持ってきてあらゆる物を建てました。ソロモンはそれを手伝いました。
ソロモンが知恵を持って信仰を守ろうとしても、そもそも出発から間違えていました。
神様がするなとおっしゃっているのに、自分の情欲に負けて倒れました。
女の人達は倒れず相変わらず偶像の神をそのまま信じました。

私たちも、ソロモンのような信仰が素晴らしかった人も倒れるのに、自分達も罪のくびきを負って
「大丈夫です」と言えるでしょうか? そしてますます自分が汚れていきます。
私たちは世の流れに流れるのは簡単なことであります。そこで生活しているので慣れています。

「何で教会にいつも行くの?」とかをいちいち言う人とは、縁を切った方が良いです。
それを聞いているとだんだん誘惑されていきます。そして自分自身が神様から離れていきます。
神様はそれを警告しておられます。

【Ⅱコリント6章16節】

私たちは神様を受け入れましたので、聖霊様は私たちの内側に住んでおられます。
ですので神様は私たちの身体は神の宮と言っておられます。
その身体を罪で汚してはいけないです。

1番汚すものは「偶像」であります。宗教は心でするものであります。
偶像は全てサタンでありますので、それを拝むならばサタンが当然入ってきます。
多くの人たちは自分の信じる神がいます。私たちがその人達と妥協し
その人達の考え・教え、そういうものに私たちが耳を傾けるならば、だんだん自分の中で
それらのものに対する色んな思いが出て来て思いが汚されていきます。
罪が出て、偶像崇拝をすることになります。
淫乱・姦淫によっても汚されます。思いが汚されます。そうすると聖霊様が悲しみます。
聖霊の宮なのに色んな汚いものをその中に持ち込んでくるならば、宮が汚されていきます。
それは全て罪であります。自分でごまかしても罪は「罪」です。
汚れたものに触れるな、そこから離れなさいということであります。

【詩篇1編1節】

汚い所に座ったら汚くなる、その人達と一緒になると思いが汚れていく。そうなってしまいます。

【ローマ書6章13節】

罪の道具にするのではなく、神様が喜ぶ働きをするために自分の身体を使うことであります。
神様に恥をかかせてはいけないです。
義のものに使わないなら全て不義になります。

【ローマ12章1-2節】

(みことばに従うなら)私たちは自然に聖い生活になります。この世は悪の領域です。
この世に調子を合わせるのではなく、その中でも神のみこころを求めて
自分自身が汚れないように聖い生き方をする人が一番立派な人であります。

【Ⅰテサロニケ5章22節】

みことばからずれたものは悪です。小さなことでも汚れなので警戒しなければ
ならないです。

【Ⅰヨハネ1章9節】

人間は弱いものなので、罪を犯すことがあります。それでも神様は、そこでお終い
というのではなく悔い改めなさいとおっしゃいます。
赦されるということは聖められるということです。汚れがついたままではなく、
これを繰り返さなければならないです。

【Ⅰヨハネ2章27-28節】

注ぎの油は聖霊様です。私たちがキリストに留まるということは、真理の中に留まるということで、
自分の中に聖霊様を招き入れるということであります。すると汚れることはないです。
いつでも神の前に出られる聖い状態になるようにしましょう。 v( ̄∇ ̄)v

2012.4.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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いと高き所に栄光が、地の上に平和が

テーマは 『 いと高き所に栄光が、地の上に平和が 』 です。

【ルカの福音書2章11-14節】

今の世の中を見て平和だと思いますか?
戦争がないと、平和のように見えます。ですが、よく見ると本当の意味で平和ではないです。
誰もが平和になって欲しいと願いますが、争いと戦争、殺し合いの中で私たちが生きているのを考えるならば、
毎日が不安や恐れでいっぱいだと思います。

国と国、民族と民族が争いを引き起こして、平和が消えていきます。人間が造り出す平和はないです。

エデンの園は平和な場所でした。しかし、そこにあった平和も人間が壊してしまいました。
人間に欲が出てきて、自分が神のようになりたいという思いを持って神様に逆らった為に、
神様との関係が壊れました。それは平和の関係が壊れたことを意味します。

その後、アダムとエバ、カインとアベルの4人家族の中で殺人が起きました。
兄・カインが、弟・アベルを殺し、平和が消えていきました。
人間が小さな理由で、自分の兄弟であっても憎んで殺してしまいました。

その後、(人間が)それぞれ勝手に生き、そして人間が企んだことは神のようになりたいと
バベルの塔を建てました。それによって神様を怒らせ、言葉が通じなくなるようにしました。
人間同士が繋がらなくなりました。それによって平和が無くなりました。

心の中で平和を願いながら、人間が平和を潰していきました。

そのような時に、イエス様が地上に来られました。その時、今回のテーマとなった言葉がありました。
「今はクリスマスだから楽しもう~!」という人達は世界中にたくさんいますが、
「その日って何の日?キリストは何の目的で地上に来たの?」と、知らない人のほうが多いです。

キリストが来られた目的を知っている人は、キリストが来られたことが自分にとって、
どれほど祝福なことなのかがわかっています。

神様が栄光を受ける時というのは、すべてのものは神様が計画をしています。
それが成就された時に、神様は栄光を受けます。

人間にとってキリストはどういう意味があると思いますか?

「キリスト教の教祖ですか?」――― そういうものではないです。

全世界の人に平和をもたらす為に来ましたが、その平和がどういう内容になっているでしょうか。
イエス様が地上に来られた目的を学んでいきます。


① 【ルカの福音書5章31-32節】

イエス様が一番関心を持っていたのは、罪人です。
人は皆、生まれた時から罪人でした。自分の思い通りのままに生きている姿がすごくたくさん出てきます。

「私は心の中でも罪を犯したことはないです。」というのは大嘘つきであります。
ですから、罪人を悔い改めさせる為にイエス様は来られました。

しかし、自分は正しい者ですと言う人は、残念ながら悔い改めるチャンスを得ることがないです。


② 【マタイの福音書20章28節】

人間の欲の1つは支配欲です。成功したい、人の上に立ちたい。自分に仕える者をたくさん作りたい。
ですが、イエス様が地上に来られたのは、人に仕えるためであります。
それも、小さな見せかけの働きではなく、命までも与えて仕えたいということであります。

世の中に平和がないのは、人々にとって周りの人がライバル・競争相手であり、他人の足を引っ張ってでも
上に立ちたいという思いがあるので争いが消えないです。

みんなが身を低くしているなら(これは奴隷という意味ではないです。奴隷は自分の意思ではなく、
無理やり買い取られて主人に仕えなさいということであります。)
しかし自ら身を低くして「わたしはあなたに仕えます」というのは、人に仕えるのがどれほど素晴らしいことなのかを
知っている人です。

私たちが尊敬をする人は、人に仕えた人達です。
高い地位に就いて、周りの人に命令をして「わたしに仕えなさい。」と言う人は、地位を得るかも知れませんが、
尊敬する気持ちにはならないです。そういう人は周りの人から愛されることはないです。

しかしイエス様は人を支配することは一度もありませんでした。
イエス様の弟子たちは「上に立ちたい」という思いで争いがありました。
その時にイエス様は話を聞き、弟子たちを戒めました。
《 人の上に立ちたい者は、まず仕える者になりなさい。》 と、語りました。

イエス様は徹底的に 人に仕えました。弟子たちの足までも洗いました。
仕える時に、喜びが返ってきます。


③ 【ルカの福音書4章43節】

福音を伝えることは、神様のみこころであります。

人間が勝手に判断するのは、みこころではありません。神様が教えなければわからないことです。
神の御子であるイエス様は誰よりも神様のみこころを知っているお方であります。
そしてその福音を私たちに伝えるために来ました。

イエス様はご自身のことを一言でこのように語りました。
「わたしが道であり、真理であり、命です。」
私たちはそれが必要であります。

  • 道・・・天国への道であります。天国へ行くために、どの道を歩いたら良いのかを導いてくださいます。
  • 真理・・・正しい道であります。変わることがない真理の道は、イエス様ご自身が福音です。
  • 命・・・肉体の命だけではなく、永遠の命です。

④ 【マタイの福音書5章17節】

律法を完成させる為にイエス様が来られました。
律法は世の中の法則とは違います。神様を信じる者たちへの、天国の法律です。

愛が私たちの間にあるならば、私たちは無理して律法を守ろうとする必要はないです。
神様を愛するならば、私たちは喜んで主に仕えることができます。
本当に愛するならば、相手のために生きるのです。自分のことを全部犠牲にしていても、
命まで捨ててでも、相手を大事にするのが愛であります。

愛と言いながら相手を苦しめるのは、愛ではないです。それは愛の仮面を被って、悪を行うことであります。


【ガラテヤ5章13-15節】

神様が私たちに願っていることです。
イエス様によって私たちが得たものは、どれほど素晴らしいものなのかを知らなければならないです。
「主は、私にこういうものを与える為に来てくださったんだ。」 と毎年クリスマスの時期に改めてそのことを
考えることです。そうすることによって、イエス様と自分の関係が より密接な関係になっていきます。
「このお方こそ、私の人生になくてはならない方であるんだ。」 ということがわかると思います。


今回、イエス様が来られた目的を学びました。
罪人たちが必ずイエス様に会わなければならないです。
イエス様から罪の悔い改めのチャンスをいただくことができます。
そして、イエス様は命をかけて私たちに仕えてくださいました。
イエス様は天の御国の福音を伝えてくださいましたし、律法を完成させてくださった神様、
律法の根本的な精神が何かをイエス様は私たちに教えてくださいました。

これがイエス様が地上に来られた姿であり、目的であります。アーメン (・∀・)つ

2012.12.23
クリスマス礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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成熟した人

テーマは『成熟した人の姿』です。

【コロサイ1章9-12節】

パウロがコロサイ人の為に、彼らの信仰が成熟することを願って祈る祈りであります。

私たち信仰を持った人達は成熟しなければなりません。
信仰の成熟のために求めるべきものがあります。
どんな人が成熟した人でしょうか。こちらの聖書箇所に書かれてあります。

奉仕を熱心にしているから、その人の信仰が成熟した人。
そういう基準はないです。
神様の基準は私たちが考えていることとは違います。熱心に神様のところに来るから、
日曜日に来るから、捧げ物をするから、奉仕をたくさんするから、信仰歴が長いから、
その人の信仰が成熟したのではなく、中身を見なければならないです。

自分の努力だけで成長することは難しいです。
人々はこの聖句を聞いて一生懸命努力してこうなろうと思いますが、
霊的なことは自分の努力だけでは成熟できないです。

聖霊様の助けが必ず必要であります。私達自身の中には霊的なものを生み出す力はないです。
聖霊様によって私たちが「これは霊的なものである」と、
そこから私たちは色々なものを受け取ることができます。

成長したいならば、聖霊様に求めて受け取り成熟しなければならないです。
受け取ってから努力が必要であります。最初から努力して実を結んで、
できない時に「神様助けてください」ではなくて、最初から神様と共に始めないとできないものであると思って、
まず神様にそれを求めていかなければならないです。

信仰が成熟するために、この聖句に祈りがあります。
〈あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように〉
 
私たちはいつも神様のみこころを求めます。
神様のみこころというのは、神様が喜ぶことであります。神様が喜ばないことは、みこころではないです。
私たちが何かをする時に一番わかりやすい基準です。
「この事をしたら、神様は喜ぶかどうか?」 それをまず考えるべきであります。

聖書はこうすると神様が喜ぶことだとたくさんみことばで教えてあります。
これは神様が喜ぶことであるというものは、それは全て神のみこころであります。
それを知るには霊的知恵の理解力が必要であります。

自分の知恵だけでは、世の中の人達、神様と何も関係なく生きている人たちは、
聖書の言葉を開いていてもそれは霊的知恵がないから理解ができないです。

聖書を読んで、神様のみことばを読むと神と人間との関係があり、そして書かれた目的があり、
そしてその理解力は片面だけではなく、全体を見て理解する力であります。
<少しだけ見て理解したからその人達に霊的知恵がある>ではないです。
全体像を見なければ理解したとは言えないです。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

「スリーミニッツ」という本は、アメリカ48州でベストセラーになりました。
(日本語版は、「天国は、ほんとうにある~天国へ旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語~青志社」
です。)

4歳の男の子が盲腸の手術をしました。お医者さんから助からないと言われましたが、
臓器が破裂して毒が体内に溜まっている状態なので洗わなければなりませんでした。
その男の子が手術室で体験したことがありました。しかし、その事はすぐに親には言わず、
数年後にポツポツと牧師である父親に話し始めました。
父親は自分の子供に教えた事もないですが、子供が今まで聞いたこともない話をするようになるので
気になっていました。
男の子が体験したことを「イエス様が話をしてくれた」と言うので親はびっくりしました。
父親が「どこで聞いたの?」と聞くと、
「イエス様が膝に乗せてくれて話をしてくれた」など、そのような事がありました。

その男の子が語る言葉は霊的知恵がすごかったです。それを聞いた父親が聖書を開きます。
なぜならば、子供が語っている言葉が真実かどうかを確かめなければいけないからです。
一度も天国の話をしたことがないのに、信徒の親族の葬儀に出席した時に、男の子が棺の前で
「この人は信じているの?信じていたら良いのに、信じていたら良いのに」と言葉を繰り返しました。
父親が「どうして?」と聞くと「イエス様がはっきり言った。
イエス様を信じない人は天国には入れないとはっきり言ったから。」
だから信じていたら良いのにという言葉を何度も言いました。

その男の子には1人のお姉さんがいました。そしてお姉さんと男の子との間に子供がもう1人いました。
しかし産まれる前に流産をしてしまい牧師夫婦はすごく悲しみました。男の子であるか女の子であるか、
両親は知らないです。
その事は男の子に教えたことがないですが、「僕にはお姉ちゃんが2人いる。」と言いました。
親は「お姉ちゃんは1人しかいないでしょう。」と言いましたが「いや、違う。2人、2人」と言いました。
「どうして2人なの?」と聞くと、「天国で会った」と言いました。「どのくらいの子供?」と
聞くと「お姉ちゃんより少し小さい」と言いました。
「どうやってわかったの?」と聞くと「イエス様が連れて来てくれた。」と。
髪の毛が黒い女の子だったことを言ったので親はそれを聞いて癒されていきました。

流産をした子がどこへ行くのか聖書には書いていないですし、神様の御座のことが書かれていても
神様の御座とはどういう所なのか?と。でもその男の子は行っていました。

お父さんは試しました。
「イエス様はどこにいたの?」と聞きました。聖書には「神様の右側に座っている」と書いてあります。
男の子はこの言葉を知りません。
男の子がジーッとお父さんを見て、「右の方にイエス様は座っていた」と言いました。
これは小さい子供であっても、聖書をたくさん読んでいる牧師であっても霊的知恵は足りないです。
でも直接そこにいて見た人は霊的知恵がすごいことであります。

お父さんはさらに試しました。
「そしたら左側には誰がいるの?」と聞きました。
お父さんの頭の中では「聖霊様がいるだろう」と思っていました。
男の子は「違う。ガブリエル天使がいた。」と言いました。お父さんがびっくりしました。
「聖霊様はどこにいたの?」と聞くと、「僕の傍にいてくれた。小さい椅子に座らせてくれた。」と言いました。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

ガブリエル天使は神様の言葉を聞いてメッセージを伝える方であります。その事が聖書に書かれてあります。

私たちは聖書を100回読んでいても、それこそ霊の目が開かれないと知恵がないです。知識がないです。

私たちは神様を体験すること。
それがすごく大切なことは成熟する時に、みこころを行う時にすごく神様を体験します。
みこころを行いなさい、ということは、もちろん「神様、霊的知恵と理解力を与えてください。」と祈りますが、
それだけでは不十分です。それは与えられても与えられたかをどうやってわかるでしょうか。
私たちが神のみこころを行う時に、みことばを行う時に、自分がそれをもらったことがわかります。
上から来るものは霊的知恵であります。知恵が与えられると理解ができます。神様はこれを与えます。

聖書を100回読んだからといって、理解ができるわけではないです。
1つの聖書箇所を読んで「神様、私はもっともっとみことばによって成長したいです。
ですから、私に霊的理解、知恵を与えてください」と それを求めながら私たちが聖書を読むならば、
聖霊様がすごく働きます。
偏ったところだけ自分で何とか分かるのは、バランスが悪いです。成長することができないです。
神様にそれらを求めるべきであります。

霊的理解力と知恵が与えられると、主に適った歩みができます。
主に適った歩みは、私たちの生活、そして霊的状態、それは神様に褒められます。
叱責される時は、主に適った歩みではないです。神様のみこころからずれていることです。

時々、みなさんに神様の預言を与える時がありますが、褒められる時もあれば、叱責される時もあります。
みこころに適った働きをした時は褒めてくださり、みこころに適っていない歩みをしている時は
叱責のことばを与えます。「悔い改めなさい。」叱責がある時は正しい道に戻れということであります。
「聖徒にふさわしく歩みなさい。」

自分がなぜ選ばれたのか。選ばれた者であるなら、選ばれた者らしく生きること。
これは主に適った歩みをすることであります。それができるには、みこころを知らなければできないです。

みこころを知らないと自分勝手に行動をしてしまいます。これは神様が褒めるわけがないです。

成長した人の姿はあらゆる点で主に喜ばれるように、その人達は(行動を)します。

―主に喜ばれるために何をしたら良いでしょうか。―

①神のみことばに従順することであります。

これに勝るものはないです。これは神様の権威に従うことであります。
最後の権威を持っておられる方の声にあなたは従わないのか?
従う時に神様は喜んでくださいます。私たちは従わなければならない存在であります。
自分が神様を指図するのではなく、神様の指示をもらってそれに従うのが私たちの義務でもあります。

ヨハネの福音書15章にある「父は農夫、イエス様はぶどうの木、私たちは枝」 この関係です。
そうでなければ実を結ぶことができません。
「私の中に留まり、そして私のみことばを行うならば、その人達は必ず実を結ぶ」
それが成熟した人の姿であります。成熟した人はこの世にたくさんの実を結んだ人であります。
まだ実が結ばれていない、まだ葉っぱだけだというのは まだまだその人は成長していかなければならないです。

成長はその人が結んだ実を見たらわかります。
あぁ、あの人は「喜びの実」を結んであるなぁ。(「従順の実」「信仰の実」「愛の実」)
実はどんな実でも成熟した人でなければ結ぶことができないです。
芽が出た段階ではなく、完全に花を咲かせ実を結んだ時に「成長した、成熟した」と言えます。

神様は常に小さいことに忠実になりなさいという言葉がありますが、それはテストの為であります。
この人がその事に対してどれほど心を込めてやるのか、準備するのか、実行するのか。
大きい事になると「力がないです。神様、やったことがないです。」と出来ないので、
神様はまず出来るところからやらせて、その人がそれに従ってきちんとやるのか、準備するのか、
それを神様はテストをします。

神様の言葉には不従順するのに、口だけは立派に語る。これはとても未熟な姿であります。
成長した人の姿ではないです。

自分や人を判断する時は、結んだ実を見ればわかります。
「あぁ、自分はまだまだなんだ」と分かったら、落ち込んで何もしないのではなく、成長しなければならないです。
いつまで経っても小さい枝のまま、いつまで経っても1つの実も結ばれていない。
―信仰の薄い者。―

神様は1年経ったり、2年経ったりするとそれぐらい大きくなっていることを期待します。
期待するのがみこころです。
そこまで自分がなっているかどうかを自分で点検することであります。
去年より私は成長しているのか? 去年よりも私は実を結んでいるのか?

②神の力によって強くされていかなければならないです。

力ある働き、奇跡を行う、そういうことの為ではないです。
忍耐と寛容、聖霊の実を結ぶために、私たちは強くされていかなければならないです。
忍耐をすることは力がないとできないことであります。
患難の中でも望みを抱いて忍耐する。待ち望む。これはものすごい内なる力であります。
力がないと出来ないです。小さな風が吹いてきてもすぐに倒れてしまいます。
これは忍耐する力がないことであります。

「今日も神様、力を与えてください」、「生きる力」、「患難の中でも耐える力」
「苦しみの中でも希望を持って辛抱する力」、「神様、ください」 これが内側の力であります。
肉体の力とは関係がないです。身体は立派であってでも心が小心者はたくさんいます。
か弱い女の人であっても神様から力をもらうと、ものすごい忍耐力があります。積極的な態度があります。
これは神の力をもらわないと私たちは絶対無理なことでありますので、
忍耐できるように「求めなさい」と語ってあり、私たちが「満たしてください」と願わなければならないです。

③いつも喜びをもって感謝を捧げることです。

一年中、毎日です。良いことだけではなく、悪いことでも感謝することであります。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

4歳の男の子が手術室に入った時、お父さんが病院の小さい部屋へ行き祈りました。
お医者さんも厳しいという言葉を伝えていたので、お父さんの祈りが感謝の祈りではなかったです。
神様に対してのつぶやきの祈りでありました。なぜならそのお父さんは、以前にも試練があったからです。
野球をしてスライディングをする時に足の骨を2本折ってしまいました。
何カ月も痛みを伴う不便な生活をしていました。
それから男性なのに乳癌にかかってしまい手術をしました。
次から次へと災難がありました。それは自分の事なので耐えましたが、
4歳の子供が死にそうになっているので病院も何か所か動きながらやりましたが大変である。
そして子供が骨と皮だけしか残らなくなりました。

お父さんは「あんまりです。何でこんなにひどいことをするんですか。」
これは祈りではないです。神様に対して言いたいことを言っている牧師先生でした。
お母さんは厳しい状態なので色んなところへ電話をかけていました。

そして4歳の子供はその後、「お父さんはその部屋で祈ったでしょう?」、
「お母さんはそこで電話をしたでしょう?」と言ったので、両親は「どうやってわかったの?」と聞くと
「自分の霊が手術をしている時に引き上げられた。手術する自分の体を見た。
イエス様が来て、僕にそうした。」そしてそのまま天国へ行きましたが、
「(天国は)あまりにも素晴らしいところだから、そこに居たかった。
でも、イエス様が「あなたは帰らなければならない。
あなたのお父さんが、あなたの為に必死になって私に祈っているから。あなたは帰らなければならない。
お父さんの祈りにわたしは答えたいんだ。」と言ったので戻ってきたんだ。」と言いました。

その言葉を聞いて、牧師先生はものすごく悔い改めました。
神様に感謝して祈ったわけではないです。
不平不満を言いながら神様に言いたいことを全て言ったその祈りをイエス様は聞いてくださったということに、
本当に神様の前に顔を上げられなかったです。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

感謝をして喜びながら祈りをするのは成熟した人の姿であります。
私たちも祈ってわかると思いますが、神様につぶやきながら祈る祈りもたくさんあると思います。
これはまだ未熟であります。それでもイエス様は悲しみの中で訴えているその祈りを聞いてくださるんです。

私たちは悪いからと言って、そうではないです。私たちは表面しか見ていないです。
その中で神様はどれほど働いてくださっているのか、私たちには見えていないです。

アメリカは医療費が高く、莫大な治療費や色んなお金がかかり、仕事もできないのですが
神様は色んな知らない人達を通して全て与えてくださいました。

私たちは先のことはわからないです。
現実のことだけを見るならば私たちは絶望になることもありますが
神様は全てのことを働かせて益にしてくださる。これも私にとったら何かの目的がある。
その中でも神様が働いてくださる。
そして私たちはその中でも喜びをもって感謝しなければならないです。
これが毎日できる人は1番成長した人の姿であります。

成長した人は、今日・明日と 心がころころ変わることはないです。
感謝すると決めたら一貫してすると、感謝の実が結ばれます。こうと決めたら何が起きても喜ぶ。

雨だから怒る、そこで風が吹いたから腹を立てる、これでは一年中休む暇がないと思います。

成熟した人達は、「私の物はこれです」とは言わないです。
完全に成長した人の姿は「私の物は一つもないです。」と本気に思っている人であります。
「全ては神のものであります。私も神のもの。私の命も神のもの。私のものはないです。」
この人達は神様の中で完全に生きている人であります。

まだ成熟していない人は「これは私のもの。これも私のもの。私のもの、私のもの・・・・・・・」
それが多ければ多いほど成長していないです。まだ神様から遠く離れています。
口では「神様、信じます。」と言っていても みことばの中に留まっていないです。

「神様、これは神様がくださったもの。私の命も子供も全て神様のもの。」 委ねてそれを認めて
そして本気にそう思って神様のために生きる人、この人は完全に成熟した人の姿であります。

成熟したいならば中途半端に成熟するのではなくて、そこまで成熟するんです。
その人達が天国でも神様に一番喜ばれる人、認められる人になります。

神様のみこころは私たちが成熟することであります。そして豊かに実を結ぶことであります。
それをもって神様に栄光を捧げることであります。
それを目指していきましょう。 (`・ω・´)

2012.4.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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3タイプ別の信仰

テーマは『信仰者の3タイプ』です。

【ヨハネ20章29節】

復活したイエス様が弟子のトマスに語った言葉です。

信仰には大きく分けると3つのタイプがあります。
イエス様を信じて教会に行っているからといって、その人達が同じ信仰ではないです。
外見は同じ信仰を持っているように見えます。もちろん信仰歴も違いますが、
みんながイエス様を信じているように見えますが、中を覗いてみると違います。

①見ても信じない人
信じているから教会に来ているのに、見ても信じない信仰を持っている人がいますか?
それは実際にいます。教会に来て神様の色々な奇跡を見ていても結局は信仰が無かったという人達です。
イエス様がいる時代、イエス様はたくさんの奇跡を行いました。
すごい数の群衆が集まってきていますが、奇跡が起こらなかった日はないです。
それも数え切れないほどの奇跡が、3年間 毎日起こりました。
聖書に記録できないくらいでした。

イエス様が活動したところで信じた人たちは多いと思いますか?毎日奇跡を起こしましたが、
彼らはイエス様を信じませんでした。 それは(イエス様を)神様として信じませんでした。
多くの人たちが色んなことを語りました。「優れた先生である」など色んな言葉を語って、
イエス様の働きや力は認めました。でも信じることはしなかったです。

私も昔はこういう者でした。救い主としては「あぁ、あの方は神様なのか」と思いましたが、
他人事のような思いでいました。それはなぜかというと、霊的に無関心だったからです。
「(聖書は)神様の言葉なんだ」と認めるのですが、信じないです。
信仰として、自分の救い主としては受け入れることはしなかったです。

見ても信じない。このような人達は、いつ信じるでしょうか。
こういう場合の人達は、色んな試練に出会ってからイエス様を信じる人が多いです。

イエス様の奇跡を見るために、毎日 見物に行きました。どんな人達が癒されるのか?
今日も奇跡が起きた。悪霊が追い出された。など
毎日それを目で見るのですが、それを神様だと受け入れて、イエス様の弟子になってついて行く
という人は少なかったです。

パウロが、イエス様が復活した後にヨーロッパに行って福音を伝えた時に、
彼らは実際に(イエス様を)見たことがないです。
今の時代のように旅行が自由でもなく行き来ができないです。
しかしパウロは行って、言葉・福音だけを伝えました。彼らは見てもいないのですが、
信じました。反対にその所で信じた人達が多いです。

イスラエルはイエス様が生まれて活動した場所ですが、今でも信じる人が圧倒的に少ないです。
ユダヤ教は多いですが、クリスチャンは少ないです。クリスチャンは今でも迫害されています。

ヨハネの9章で盲人の姿が出てきます。イエス様が可哀想に思い、目が見えるように癒しました。
そして目が見えるようになり、それはどれほど嬉しかったかわからないです。
すると、彼に困ったことが起こりました。
奇跡が起きて証をするのに、宗教の指導者たちが認めませんでした。
「あなたはどうやって見えるようになったのか?」
彼はもともと見えない者でしたので、イエス様から言われた言葉やどのように行動をしたかを
伝えました。
実際目が見えなかった本人が証言しているのに、彼らは何度も何度も呼んで
「誰がそのようなことをした」や「あなたはどう思うのか?」と尋問をしました。

【ヨハネ9章26-36節】

見ても信じない者がたくさんいる中で、盲人だった人に「あなたは信じますか?」という言葉を使いました。
「主よ。その方はどなたでしょうか。」これは目が見えなかったからわからなかったですね。
そして「信じます。」と言いました。

彼らはみことばをよく知っていると言い、イエス様が来られることは聖書に書いてあるのに、
彼らは本当に目が見えない者であります。

【ヨハネ9章39節】

そこでイエス様は彼らに厳しい言葉を言いました。
見ても信じない人は目が見えない者であります。自分では気づいていないです。

信仰は霊的なものであります。目で見て信じることが信仰ではないです。
信仰は「聞いて 信じること」です。信仰は「聞く事から始まり」ということばがあります。

【ローマ10章17節】

私たちが錯覚するのは「見たら 信じる」というものです。
こういうタイプが一番多いです。教会に来ていてもそうです。
聞くだけでは信じられない → この人は根本的なことから間違えています。

この世の中には、目に見える世界と目に見えない霊の世界が2つ同時にあります。
だから信仰というと今まで肉眼で見えない霊の世界。
これを神の言葉によって霊の世界がある、目に見えない神様がそこに存在する。
それを語ってくれるので私たちが見えなくても、その言葉を信じます。
そこから信仰が始まります。

神様は霊であります。ですから私たちは言葉で信じなければならないです。
見えるようにしてくださいと要求しても神様は絶対に応じないです。
これ自体が神のみこころからずれています。信じる気がないです。

【ルカ16章27-31節】

人の心を知っています。モーセと預言者の教え、すなわち神様の言葉を受け入れない者、
それを信じない者は、たとえ奇跡が起きても、絶対に信じないです。
認めることと信仰は全く違うものであります。

②自分が見たものだけを信じる人

自分が見たものだけ。他人が何と言っても、それは信用できない。
トマスがそうでした。
弟子たちにイエス様が復活した姿を見たと言った時に、トマスは「いや、それは私は信じない。」と言いました。
「私のこの目で確かめない限り、本物かどうか触ってみて、本物であれば私は信じる。」
同じものを聞いても、なぜそうなるのでしょうか。
心がとても疑い深いです。そして自分は知恵があると錯覚します。「復活なんか有り得ない」と。
自分の経験をとても大事にします。これは自分の理性が信仰よりも上にあります。
このようなタイプも多いです。

自分が見て自分で確かめたら信じるけど、人が「こんな体験をした。こんなものを見た」
こういうものには信じません。
それは違うものを見たのではないか?悪霊ではないか?と言います。

奇跡は信仰の結果として生まれてくるものです。
ですから私たちは理性だけでは理解ができないです。理性は信仰と正反対のことであり、
信仰を邪魔するものであります。
見ずに信じる者に向かって「あの人は考えが足りない。」とか「何でそんなに単純に信じるのか?」、
「だから知恵がない」とか色々言います。
このような人は神様を試します。 「私に見せてください。あの人は信じるかも知れませんが、
私にはそれだけでは不十分です。私が直接見て、体験しない限り神様を信用できません。」

しかしこのような人は自分の理性で考えているようで、そうではありません。
「見える」ということは「感覚」であります。「見る・触る」これらは感覚であります。
ある意味、理性ではないです。しかし自分は理性的で論理的であり合理的である、そういう錯覚をします。

ギデオンがそうでした。神様の言葉を聞いた時に、疑いが入ってきました。 
「私のような者が~」とか「神様、本当にいるならば、どうして私の国がこんな目に遭うのか」 と
色んなものがありました。神様が民を救いだしなさいと言った時も、神様をテストしました。
「神様、こういう奇跡を起こして下さい。」 そして神様はそれを聞いてあげました。
そしたらそれでもまだ満足しないで「神様、お願いします。もう1度奇跡を・・・」と
神様をテストしました。神様はそれも叶えてあげました。そしたら「信じます」と言いました。

神様は本当の意味では触らせません。触ってみなさいという言葉は使いましたが、
触れるなということであります。なぜなら疑いの心でイエス様に触れるなら汚れてあります。
自分達の心を見ると、色んな疑いが出てくると目が濁ってきます。心も濁ってきます。
まともに見えません。
自分ではまともに見えると思いますが、錯覚が多いです。自分の心の汚れを取り除かなければならないです。

疑いが多いと二心であります。ある意味で神様に疑いを持って祈ってもそれは答えられないです。
その人の心はいつも不安定で、風や波のように揺れるので、
そのような者の祈りは神様は受け取ることができないんだとおっしゃいます。
疑って得るものは1つもないです。せっかくの良い物も全て失っていきます。
神様を信じたら心が平安になります。信じる事がイエス様が私たちに求められておられることであります。
自分の求めているものが答えられる為にも、完全に信じることであります。

③見ずに信じる信仰は幸いである

イエス様がトマスに語りました。
これはみことばをありのまま、「主がそのように語っておられるから私はそれを信じます。」と
これは謙遜な信仰であります。

「印を見せてください。印を見せてくれたら私は信じます。」これは傲慢な心であります。

神様をテストすることが謙遜な心でしょうか? そうではないです。
私たちは他人からテストされることは嫌なんです。
相手が自分を疑う心でテストをすると「何で疑うの?」、「何で私がテストされなければならないの?」と。
私たちは弱い者ですので、時には神様は聞いてくださいますが、神を試みてはならない。
と聖書に書かれてあります。

「神が言ったならば、それを謙遜な心で信じなさい」神様は私たちの信仰の対象であります。
それが神様が一番喜ぶ信仰であります。見ずに信じる者、それはその人自身が見えなくても
神様のみことばを心から信じるその姿勢です。 「聞いて 信じる」この姿であります。

ノアが神様から聞いた言葉が「この世が洪水で滅びるから箱舟を造りなさい。」
神様が語った時に、彼は何も見ていないです。過去にそういう事が起こったことも聞いたことがなく、
箱舟も見たことがありませんでした。でも神様が1つ1つ指示をしました。その通りに彼は箱舟を造りました。
将来起こることを信じました。100年くらいかけて、ノアは箱舟を造りました。
見ていないのにしました。これが信仰であります。だから神様はノアを認めました。

アブラハムは神様から言葉を聞きました。(目では)見ていないです。
神様がカナンの地の写真を見せて、この地をあなたに与えるとは言っていないです。
どこに行くのかも神様は教えていないです。
「あなたの父の家、生まれ故郷を離れなさい」と言われてどこへ行くのかも知らないで、
ただその言葉だけを信頼し、「神様が私を導いてくださる。神様が私を祝福する」と彼は出ていきました。

ヘブル書11章に出てくる信仰の人は、全員このような人でした。
全員が神様に対して、絶対的な信頼を置きました。そして信じて行動をしました。
だから神様は彼らを祝福し、彼らを用いてくださいました。

イエス様の復活もある意味、人間の経験・知識では信じることができないものであります。
「信じられない。」、「そんなことが起こるはずがない」と。
ですから、トマスのような人は多いです。
他の弟子たちも初めは復活を信じませんでした。だけどその後、見た時に本当に信じました。
トマスは弟子たちの言葉を信じませんでした。

でも神様は信じられないことを信じなさいと語っておられます。
信じられないことを信じるのが信仰であります。

誰もが見て、十分信じられる可能性があるもの、それを信じることは信仰ではないです。

例えば、コップを見せながら「これはコップです。」と言うなら、目で見ているのでコップだと信じます。
「いえ、それは違います。」という人はいないと思います。
目で見えて、誰でも(コップだと)認めるものだからです。神様が「信じなさい」と言わなくても、
私たちは「言わなくても知っている」となります。

しかし信仰というものは人間的な理性では絶対に可能性がないものであります。
信じることができないものを、私たちはただ「神様が語るから」、「神様から出た言葉であるから」
私たちはそれを信じることであります。
だからイエス様はそういう人は幸いであると語りました。

誰も神様を見た者はいないです。しかし神様が生きておられることを信じています。
なぜなら言葉を聞いたからです。

【ヨハネの黙示録1章3節】

心に留める=信じることであります。この人たちが祝福を受ける人であります。
その人達が本物の信仰を持っている人達であります。

イエス様は子供のようになりなさいという言葉をよく使いますが、
それは子供たちは単純な心だからです。
子供が頭の中で計算をしたり、論理的に計算して理性的にすることはないです。
子供たちは単純にそれを信じます。それで騙されて誘拐されることがありますが、
神様の言葉には偽りがありません。騙すことがないです。

真理を聞いて信じられないという人は不幸な者であります。
見えない世界の方がある意味現実であります。それを神様は信じなさいと語ってあります。

「見せてください。見せてください。見せてください。」 と言うのは、神様は信仰の薄い者とおっしゃいます。
弟子たちがそうでした。

私たちがいつまで経っても「見ないと信じられません。見せてください。」と言うなら、
神様は「いつまで弱い信仰のままであるのか。本物の信仰を持ちなさい。みことばを信じなさい。
見なくても、神から出た言葉として見ずに信じなさい。」そしたらそれが現実に現れます。

奇跡は信じてから現れるものです。奇跡を見て信仰が生まれることではないです。
何も見えなくても信じるから奇跡が起こります。
だから奇跡を見たいならば、「見せて下さい」ではなく、「信じますか?」から始めます。

「神様は奇跡の神様であることを信じます。」、「私は神様のみことばをそのまま信じます。
ですから神様、これらのこと、主よ 働いてください。
そうすると私は神様が奇跡を起こしてくださることを信じるので、それが起こることを感謝します。」
このように、まず信仰を見せることであります。
信仰がないから神様は答えることができないのです。

ですから私たちは順番を間違えてはいけないです。
神から得る全てのものは私たちの信仰から得るものであります。
「ですから神様、わからないですけど、信じます。信じます。」
口先ではなく、心から信じることであります。そしたら神様が「わかった。あなたの信仰が奇跡を現す。」
私たちは口の告白がとても大事です。疑いの心があるから信仰を持つことができないです。

見ずに信じること、この道以外にはないということを心で信じてください。
私たちも信仰ある者になりましょう。 (*^・ェ・)ノ

2012.4.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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