からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2012年11月

何を準備して主の前に出ますか?

テーマは『 何を準備して主の前に出るのか 』です。

【出エジプト記23章14-15節】

12月は1年を決算する月です。1年があっという間に過ぎました。振り返ると感謝が多いです。

主の前に自分が立つ時に、何を持っていますか?
――特別な人に会いに行く時に、手ぶらで行く人はいません。何か、特別な物を持っていきますね。
神様に対してはどうでしょうか。

神様は超VIPな存在であります。
しかし神様を、自分と同じレベルで考える人や、奴隷のような存在と思っている人もいます。
救われたばかりの時は感謝で溢れていても、時間が経つと恵みに慣れてしまいます。

夫婦も同じように、新婚の頃は ずっと一緒にいたい存在だったのに、いつの間にか・・・。
いつも一緒なので特別な存在だと感じなくなる部分が出て来ます。(お金稼ぎや家政婦さんのような存在)

神様に対して、感謝を捧げ、恵みを忘れてはいけません。
祭りの時には、何も持たずに神の前へ出てはならない、ということです。
神様は物が欲しいというわけではありません。神様の存在をあなたの中で特別扱いしなさい、ということを
おっしゃっています。
その時に、神様は私たちがどのようにするべきなのかを教育してくださっています。

気軽に接するべきではないです。他人には気を遣うのに、神様には気を遣わず、恐れないのは間違えています。

ヨブは神様を特別な存在として扱ってきました。(ヨブ記1章)
ヨブは環境に恵まれていましたが、神様は1日のうちにヨブの全てを取り上げ、一瞬にして何もかも失いました。

――その後、ヨブはどのような行動をとったでしょうか?
神様の前にひれ伏して礼拝をしました。感謝と信仰を持って、そのような状態でも神への感謝を忘れませんでした。
<今まで神様から全ての恵みをいただいていて、失わせたのも神様であるので、
自分が何か言えることではありません。>と。 
ヨブの妻は神様を恨みましたが、ヨブ自身は一言も不満を呟きませんでした。

私たちは何か1つ無くなっただけで文句を言って、「礼拝に出たくない」と思いますが、
ヨブは神様の主権を認めていました。

ダビデも断食で祈りましたが、神様は子供の命を取りました。
しかし、それを知ったダビデは姿を整えて神様の前に出て感謝を捧げました。
それを見た家来たちは驚きましたが、ダビデの中で神様は特別な存在でした。
どんなことがあっても神様への態度を変えませんでした。

何か悪いことがあると、神様を一般人のように存在を引き下ろすのは間違えています。
神様によって自分は生かされ、着る服も・・・多くの恵みを与えてくださっています。

手ぶら=物質的なものではありません。そしてお金のことでもありません。
神様は(あなたの)態度を見ておられます。
カナンの人、長血の女、百人隊長などイエス様の前に【信仰】を持ってきました。
「あなたなら、私を癒すことができます」と。
素晴らしい信仰を捧げたので、神様が祝福を与えてくださいました。

「あなたならばできます」と信仰を語り、自分の問題(悩み)を言いました。いきなり問題を言うのでは、
神様は喜びません。 <信仰のお土産を持ってきなさい。>

マグダラのマリアも、ひどい状況からイエス様が救ってくださったので、貴重な香油をイエス様の頭と足に注ぎ、
自分の髪の毛で拭き、感謝を捧げました。

貧しいやもめが、僅かな献金を捧げました。
他の人よりも金額は少ないですが、全財産を捧げましたので、イエス様はそれに目を留められました。
やもめは主に対する感謝で献金を捧げました。

神様は人格を持っておられますので、私たちは自分が恵みを受けることばかりを考えていてはいけません。
神様も私たちと同じ感情を持ちます。自分で蒔いた通りに刈り取ることになります。

僅かな物を捧げて自慢をするのは、傲慢であり 神様は喜びません。
ただ神様から何かをもらいに来るだけの礼拝ではなく、毎回 来るときは何かを捧げることを考えるようにすると
良いです。それは奉仕でも献金でも、自分に出来るもので良いです。

< 神様を特別な存在として扱います。神様は全てのものを持っておられますので >
― あなただけが、特別な存在です。 ―

主が喜ぶものを持ってきた時に、主は恵みを与えてくださいます。何でも与えてくださる神様です。

主権者を忘れず、恵みを忘れてはいけません。いつも準備をして礼拝に出ましょう。 v( ̄∇ ̄)v

2011.12.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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謙遜な人パウロから学ぶ

テーマは『 謙遜な人・パウロに対して 』です。

【Ⅱコリント12章9-10節】

パウロは新約聖書の中で信徒たちに多くの手紙を書いた、使徒の中の「使徒」の存在でした。
学ぶべきことがとても多い人物です。私たちが目指す姿であります。

目標はもちろんイエス様ですが、あまりにも素晴らしい方なので目指すには難しい部分がありますが、
パウロは自分たちと同じような性質(境遇)を持っている者です。

― パウロは、なぜ良い働きができたのでしょうか? ―
特別な者ではなく、パウロは救われた時から謙遜な者でした。
教えてくれる先生がいたわけではなく、主の言葉を聞いて、まず自分を打ちたたくことをしました。 

「傲慢な者は退ける」・・・自分の働きをアピールした者もいましたが、
そのように言った彼らをイエス様は「知らない」と退けました。 ≪傲慢な者よ。≫

主の働きをしているにも関わらず、「自分はイエス様に対して何もしていません。」という者に
神様は覚えてくださいます。(パウロの姿)

弱さを誇る者になること。(自らの弱さを認め、謙遜な者になる)
この世の中のルールでは、自分を強く見せようとしますが、それは神様から見ると傲慢になります。
もちろん、自分のことを「弱いです」と悲観的になって終わるのではなく、
「主よ。私はこんなに弱い者です。どうか私の内で働いて下さい。力を満たして、使ってください。」と祈ります。

パウロは、イエス様に出会って初めて自分の本当の姿を見ました。
それまでは他の者より優れていると誇っていました。しかし、罪人だということに気付きました。
自分の弱さを見つけるのが、謙遜なことです。

【Ⅰコリント1章26-29節】

この聖句で、神様は誰を選んだのでしょうか? 
神様はもちろん世の中すべての人を救いたいですが、ここに書かれている者を神様は選んでくださいます。
幸いな者です。弱かったこと、愚かな者であったことも感謝しなければなりません。(ここで悲観してはいけません。)

パウロは、その中のものと関連していることを悟り、弱さを誇る者になりました。
私自身は弱くても、神様は偉大な力を持っておられます。

特に日本人は、自分の悪いところばかり目につけて悲観しますが、
良い部分を伸ばしていくようにしなければなりません。
神様の中のことばに従って、弱い者だと悲しむ必要はないです。さらに神様が力を与えてくださいます。

【Ⅱコリント12章7節】

パウロは肉体に病気を持ったまま働きをしていました。これは「私も誘惑に弱い者だ」ということです。
私たちは自分の姿が一番信じられない姿で、世の中でも自分自身が一番裏切る者です。
パウロは自分自身を信じていませんでした。
「自分は大丈夫」という者は本当の姿を知らない者で、サタンによって倒されます。

ペテロは、イエス様から離れませんと言っていましたが、イエス様のことを一番に「知りません。」と言いました。
このペテロの姿が、私たちの姿でもあります。勘違いの性格。自分を信じるのは傲慢です。

しかし、このような者は何か苦難があるとすぐ神様に不満を言います。

【Ⅱコリント11章30節】

いつも自分の姿を見ていて、信仰生活の中で一番必要なことです。そして自らを低くする者。

「自分は弱いです。」と言いますが、その中には「頑固な心」がある人もいます。
人の言うことを聞かない、愛をもって語る言葉を聞かないならば謙遜な者にはなれません。
それを砕かなければいけないです。

【Ⅰコリント9章16節】

福音を伝えることはクリスチャンにとって義務なので、自慢することではありません。
「従います。アーメン。」と言うだけです。 義務は誇る必要がありません。

福音を伝えるチャンスが来たら、語ったりチラシを渡すなど、いつでも準備しておきます。

【Ⅰコリント9章18節】

奉仕をしているから恵みを与えてくださるだろうと取引をしている牧師や信徒がいます。
田舎や島には、牧師や伝道師がいない教会もあります。
人手が不足しているのではなく、実際は牧師や伝道師は余っています。
しかし、生活しにくいという理由で動かなかったりしています。これはお金を求めて動いたらいけないということです。

色んな働きがありますが、それらを誇ってはいけません。(神様は、既にたくさんの恵みを与えたではないか――。)
神様に「させて下さって感謝します!」と思ってすることです。

【Ⅰコリント9章19節】

奴隷は自分の権利を放棄した者だということです。これこそ謙遜な者です。「下で仕える姿」です。

【Ⅰコリント15章9節】

謙遜な心から出る思いであります。自分をけなした言葉ではありません。偽善的でもありません。
この聖句を自分の告白にしなければなりません。
自分では謙遜していても、他人から「その通りですね。」と言われると腹が立ちます。
心が高ぶる時に、叩かなければなりません。謙遜になってへりくだる時、神様は高く上げてくださいます。

【Ⅰコリント15章10節】

「全て神様の恵みによってなりました。」
栄光の告白です。恵みがなければできませんでした、と。全てのところで神様のことを出さなければなりません。
「自分、自分、自分・・・」ではないです。全て自分のおかげだと言う者は、何もわかっていないことです。
神様の恵みがない所はありません。

パウロを見習いましょう。(謙遜、忠実、聖霊、愛の姿)そうすると、自分が地上から離れる時まで
ずっと神様が共にいてくださり、祝福を与えてくださいます。(⌒∇⌒)

2011.11.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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乏しいことがない恵み

テーマは『乏しいことがない恵み』です。

【詩篇23章1-6節】

私たちは神様と正しい関係にある時は感謝に溢れています

世の中には色んな人がいますが、
神を受け入れたくない。 語るのも嫌い。神様に感謝を捧げることがないまま一生を終える。
神を知ってはいるが指図されたくない。自分勝手に生きたい。不平不満を言って敵対する。
良い時だけ感謝する。

神様なしには生きていけない。神様の言葉に対して従順する。 身体も命も神から与えられたものと感謝する。
このような人たちが、神様と正しく繋がっていている人で、次のみことばも実行できる人です。
すべてのことについて感謝をしなさい。』

≪ソロモンとダビデの信仰の差のたとえ≫
ソロモンは20歳で王様になりました。彼は神のみこころにかなう者で、神様からあらゆる祝福を与えられました。
受けた祝福を神様に感謝を捧げていましたが、彼の中に変化が起こり、霊的堕落をしていきました。
感謝を捧げなくなっていきました。いつのまにか、財産や1000人の妻を持ち、自分の物だと思うようになりました。
そこで神様が60歳で命を取りました。

神様への態度が熱かった者が、生温くなるのは本人は気付きません。人間の堕落です。

ダビデは罪を犯したことがありましたが、しかしそこから神様に立ち返り、罪を犯さなく
神様にしっかりと頼って繋がって
いました。そのため、神様がダビデに長生きをさせて祝福を与えました。

私たちはこの2人の話を聞いて、ダビデのような者にならなければいけません。


【Ⅰテモテ6章8節】

冷蔵庫が空っぽという人はどれほどいますか?
食べ物が溢れていて、賞味期限が切れて捨ててしまうことがあるくらいです。
衣服もタンスの中には捨てなければならないほどの枚数があるものです。
自分の手に入れたい物が、手に入らなかったから「私は乏しいです。」と言いますが、
神様はそれは違うと語ります。

生活に必要な物はすべて神様が与えてくださっています。(肉体の部分)

★霊的な食べ物で言うと、

神様は私たちに必要な言葉(パン)をいつも与えてくださっています。
いつでも食べることができます。聖書やホームページなどで、いつでも見ることができます。

本当に霊的食べ物を食べようと思うならば、満腹になるほど食べることができます。

金ヘス牧師の教会では聖書に書かれていることを全て語りますので、霊的食べ物に「偏食」がありません。
「癒し、サタン、地獄、恵み、永遠の命」 実際、このことを語らない教会もあります

霊的に乏しい者はいません。満たされたい思いで教会を探すことがありますが、
ここの教会では全てを受けることができるので、感謝しなければならないことです

~ 皆さんにとって今年、イエスさまは良い羊飼いでしたか?~

一番忍耐をしているのは、イエスさまです。かたくなな心の私たちをいつも見守ってくださっています。

【イザヤ書40章11節】

イエスさまは怖い方ではありません。荒野(この地上)の中のオアシス(イエスさま)です。
(この世を支配しているのがサタンなので荒野と言われています。)

荒野には罠が多いです。自分の誘惑に負けるので試練が多いのです。
しかし神様が示す道を通るならば安全です

吹雪の中、雪山を歩くガイドさんは、すべての地形を把握できているので、一番安全な道に導いてくれます。
試練があっても、神様の導きや守りがあるので安全に通ることができます。

勝利と救いを与えてくださる神様がいつも私たちの味方であることを忘れてはいけません。
サタンが攻撃してきたとしても、火矢を抜いて戦います。「力を与えてください」と祈ります。
実際に口で「勝利した」と語ることが必要です。みことばは剣、金槌です。
この言葉をサタンにかけます。大胆に語ることが大切です。

【申命記33章27-29節】

勝利を宣言し、救いを信じて このみことばを握り、いつも感謝をささげることです。

溢れた恵みに気付くならば感謝ができます。私は一体何者でしょうか?
たくさんの人がいるなか、なぜ神様は私を選び、救ってくださったのですか?

多くの恵みがあったことに気付くことができます。

2011.11.20
収穫感謝祭メッセージより

八戸ノ里キリスト教会

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聖書 新改訳c1970,1978,2003新日本聖書刊行会

キリストに学んだ生まれ変わった者の姿

テーマは『キリストに学んだ生まれ変わった者の姿』です。

【エペソ4章20-24節】

どんなに知識のある学者や、ノーベル賞受賞者でも、その分野の勉強だけでは名誉を受けることができません。
人々にどのように貢献しているかがポイントです。
ただ(その分野の)知識を持っているだけではいけないということです。

クリスチャンとは どのような人を指すでしょうか?――【エペソ4章20-21節】
教会に来ているから、という理由だけではクリスチャンではありません。(中身が変わっていないのならば)
主の教えを、心の耳でよく聞く人が「クリスチャン」であります。

礼拝メッセージでも、『私が聞かなければならないメッセージなんだ』という思いで聞くならば、
「聞いている」ということ。そうすると自分の身になくてはならない栄養になります

読書をするにしても、ただ単に浅い部分だけを読むならば、それは「本棚に飾ってある本」にすぎません。

この世では、多神論説などがありますが、これは人間が都合の良いように考えた話です。

人間を造ってくださった唯一の神様から、「このようにしたら人間の本来の姿で生きることができる」と教えを受け
そのことが書かれている真理(聖書)を学び、悟ることが、人間として幸せになれる一歩です。

【エペソ1章13節】

「私を神様の所有物にしてください。よそには行きたくないです。」というのが本物で、
他のところへ行ってしまうと、唯一の神様は証印を押すことができません。

マリヤは一番の良いものを選びました。日々、主の言葉を聞く人たち。
真理に混ぜ物をしてはいけないです。

【ホームページ・詩篇119篇の学び】を参照してください。詩篇119編の学び

この詩篇119編を書いた著者は、真理を聞き、学び進んだ人です。みことばの味を知っている人が書いたものです。
みことばの大切さ、魂にとって なくてはならないものだということがわかります。

救われた時だけではなく、日々 古いものを脱ぎ捨てることが必要です。
自分の努力ではできないです。心の霊によって変わることができます。殻を破ることです。
人間は他人に見られたくない部分があるので、他のもので飾ったりしますが、みことばで洗っていくことが必要です。

【ローマ13章13-14節】

「昼間らしい = 光の世界」
救われるまでは私たちは暗闇にいました。
今は神様の憐れみによって、光の子となりましたので他人に自分の姿を見せても恥ずかしくない姿で
いなければなりません。

私たちの信仰が、人々の役に立たなければ意味がありません。
それに反するならば、それは意味がない死んだ信仰です。
そして周りにいる人々の魂に光を照らし、滅びて行くのを防ぐことです。

私たちが学んで実行していくときに、人々の目が覚めていきます。

【ヤコブ1章21-25節】

祝福は、みことばを実行すると受けます。
本当にクリスチャンならば、日々キリストから真理を学び、生活の中で試してみます。
私たちは無知な者なので、素直にみことばを受け入れていきましょう

2次元の世界=肉・本能的な世界。(世を愛する人)
4次元の世界=みことばの中を歩く人・光の中で生きている人の世界。(神の世界を味わうことができる人)

動物と同じ生活(2次元の世界)をしてはいけません。ギャンブルや快楽から離れなければなりません。
人間らしく生きるには4次元の世界です。人間本来の姿で生きることが本当の幸せです

「財産や物を持っていなくても幸せ。神様がいるから幸せ」
捧げものはいつも大胆にします。(天国の銀行に貯めている行動です)

偽りのない神様なので、私たちを貧しい者にすることはないです。
神様に対してはいつも大胆にならなければ恵みを多くもらうことができません。
そうすると、心が「ハレルヤ!」になります。いつも喜びで溢れています。

みことばを素直に受け取り、実行する人になりましょう。

2011.11.13
聖日礼拝メッセージより

八戸ノ里キリスト教会

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感謝の心を忘れない!

テーマは『 感謝を忘れない 』です

【詩篇103編1-2節】

恵みは神様から与えられるものであり、恵みを受ける時は嬉しくて喜びますが
あっという間に私たちは(その恵みを)忘れてしまいます。

イスラエルの民たちの姿を見ると、そこに私たちの姿が描かれており、
まるで鏡のように映し出されています。

生きる為に必要な恵みを毎日受けていても、すぐに感謝と恵みを忘れてしまいます。
本来なら神様に感謝を捧げなければならないのに、不平不満が出てきます。

恵みをいつも覚えている人は、以前に受けた恵みであっても、まるで今恵みを受けているように映ってきます。

例えば、何十年前に心に受けた傷があるとします。
その出来事を思い出している時は、まるで今受けているように心が痛くなります。
しかしその事を忘れているなら痛みはないです。
しっかり覚えているので、過去のことが現在のことのように感じるのです。

神様から受けた恵みもずっと忘れないならば、今も受けているように感じるので神様に感謝をします。

いつも感謝をする人の姿を見ると、その人たちは恵みを忘れていないのです。
これは神様の恵みの中で生きる方法であります。

不平不満をつぶやく人の傍にいると気分が悪くなります。悪い物の影響力はとても強いです。

イスラエルの民たちは荒野の道を歩く時に、神様からの守りをたくさん受けました。
昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを守り、目の前に神様の恵みが見えていました。
天から40年間マナ(※下記参照)がおちてきました。
それなのに環境の中で1つでも足りないと、そのことに心が取られて神様に多くの不満をつぶやきました。
全員が「死んだ方がマシ」、「ここで殺してください」と平気にこのような言葉を発しました。

※マナとは?
出エジプト記第16章に登場する食物。イスラエルの民がシンの荒野で飢えた時、
神がモーセの祈りに応じて天から降らせたという。
この時人々は「これは何だろう」と口にし、このことから「これは何だろう」を意味する
ヘブライ語のマナと呼ばれるようになる。(Wikipediaより引用)

モーセは感謝をしている場面が聖書にたくさん出てきます。
しかしイスラエルの民たちが神様の御前に出て感謝をしている姿が1つも出てこないです。
恵みを忘れるのがあまりにも早かったです。

私たちは今年1月~今までの恵みで忘れているものはないでしょうか?
きっと私たちは恵みをどこかに忘れていると思います。

使徒パウロは、以前 パリサイ人でした。彼はとても宗教熱心で他の人たちよりも努力をしていました。
パリサイ人の中でも最も「パリサイ人」的な存在でした。

【ルカの福音書18章11-12節】

「私が…、私が…」と、主語が神様ではなく、すべてのものは私たちの努力の結果だ、と感謝がないです。
これは自分の努力や熱心さを人々にアピールしたいのです。
パウロもこのような姿でしたが、イエス様に出会って恵みを知る者に変わりました。

【Ⅰコリント15章10節】

自分というものが消えていき、神様の恵みが心を完全に支配し、全ての源が神様の恵みであって
そこから力を受けてこの働きが出来ました、これが本物であります。

一歩進むと恵みがあります。恵みを供えるのは神様ですが、取りに行くのは自分です。
これが従順です。
涙を流して一番苦しかったことが、結果的には神様からたくさんの霊的恵みを受け感謝をします。

色んな意味で自分の人生をやり直したり、神様を悟ったり、神様を体験したことは、
辛い時に体験をしていると思います。
たくさんの涙を流し、たくさんの汗を流して、たくさんの忍耐をした時に初めてその中で
新しい良い物や神様が供えた物を見付けたと思います。 ゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン

自分が努力しないで得た恵みは嬉しいですが、記憶から消え去っていきます。
しかし私たちが祈りながら苦しみの中で得たものは、その恵みが大き過ぎて忘れることがないです。

神様はそういうものも、自分が努力しないで得たものも、全てのものに対して
その恵みを忘れないで「いつも覚えていなさい」と語ります。
それは私たちが絶えず すべてのことについて感謝をするためであります。

感謝は恵みを覚えている人がすることであって、恵みを忘れている人は感謝しなさいと言っても
口が開かないです。何も覚えていないので「感謝することはないです。」と冷たい言葉が出てきます。

自分の信仰はそれで計ることができます。

感謝がないのなら、恵みを忘れているんだということが分かり、
感謝の言葉が今なくても、私の中にその恵みが生きているんだと覚えたら良いです。

2012.11.25
収穫感謝祭メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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罪の悔い改めとは?

テーマは『 悔い改めとは? 』です。

【エズラ記10章1-17節】

簡単そうで、一番難しいのは「罪の悔い改め」です。

人に対して意地を張って、なかなか謝らなかったり、罪があると認めていても「私には(罪が)ないです」と言います。
神様に対しても同じく、(自分の罪を)曖昧にしたい&見せたくないのです。

私たちは心の中で、他人を批判したり裁いたりすることがありますが、
これも神様の目から見ると、罪になります。

罪から来る報酬は「死」です。ですから私たちは罪の悔い改めを本気でしなければなりません。
これをするには、強力な決意が必要です。口先だけでは悔い改めにはなりません。

どういうものが、悔い改めかというと、「実行をして、完全に罪を捨てたことを神様に見せる」ことです。

サタンは「罪を悔い改めなさい」とは言いません。甘い言葉で誘います。
悔い改めの言葉が来るのは、必ず神様からなので、自分の霊のため、魂のために罪を捨てましょう。

すぐに実行することが大事です。
身体の異変を感じても、なかなか病院へ行かなかったり、後回しにしていると、
どんどん悪い細胞が増殖していきます。
その状態になってから病院へ行くと、医者から“どうしてここまで放置していたのか?!”と言われます。

悔い改めを面倒だと思っていると、悔い改めができるチャンスの扉が閉ざされます。

地獄にいる人というのは、罪を悔い改めるチャンスを逃した人です。
地獄では悔い改めたくても、もう手遅れで悔い改めることはできません。

(信徒が地獄を見てきたので紹介します。幻と啓示・天国と地獄 教会ホームページより)

【エゼキエル18章19-32節】

悔い改めは厳しい言葉ではなく、神様の優しさであります。(*´∇`*)
私たちに生きてほしいから、天の御国へ導くために「悔い改めよ」と言ってくださっています。

「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」  絶対に神様を甘く見てはいけないです。
神様はどんな者に対しても「赦し」があります。
こんなに優しい方はいないです。 世の中では、一度罪を犯しただけで裁かれたりします。

木に例えると、みなさんの木の根元には斧があります。そして、悔い改めない者は斧で根元を切られます。
そうすると神様からの恵みから離されるので、祝福がなくなります。

悔い改めると、器がきれいになるので、受ける祝福が多くなります。
×甘いものは、身体には天敵です。 ○苦いものが身体には必要です。

良い指導者はまず一番初めに立ち上がります。そして悔い改めをします。
なぜなら、信徒たちの罪も指導者が請け負うからです。代わりに涙を流しながら悔い改めをします。
もし悔い改めをしなければ、共に地獄へ落ちてしまいます。

指導者だけではなく、他人の罪は、自分の罪でもあるので、兄弟愛をもって、とりなしをすることが大切です。

2011 .11.23
聖日礼拝メッセージより

八戸ノ里キリスト教会

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サタンとの霊的戦い

テーマは『サタンとの霊的戦い』です。

疲れている時や、信仰が落ちている時に、サタンは狙ってきます。
このような人達が攻撃を受けて倒されやすいです。
これは人間の力では戦うことができなく、この戦いでの“最高の武器”は【祈り】です。

【出エジプト記17章8-16節】

祈りを休むとサタンが優勢になります。つまり綱引き状態です。(神様VSサタン)

  ◎モーセでさえも祈りを休むと、サタンの攻撃に遭います。
私たちが「できないから」、「やめよう」と呟くと、サタンが活発に働きます。
そうすると致命的な敗北を受けます。

 ◎神様は祈りを「休みなさい」とは言っていません。
目の前に大きな問題があり、たとえ弱くなっても祈らないと勝利できません。
霊的戦いには手を休めると負けますが、進んでいくなら必ず勝利します。(アーメン)

【Ⅰサムエル15章22-23節】

サタンに誘惑され、みことばに対し妥協させます。サタンはしつこいので
完全に断ち切れるまで戦います。

サタンは私たちを倒そうとしているのに、自分が生ぬるい信仰では勝てません。

【エステル記4章14-16節】

祈りの中でも最強は「断食祈り」です。自分の身を投げ出して必死に祈ります。

サタンは私たちを潰そうとしますが、恐れる必要はありません。

【ネヘミヤ4章1-9節】

神を恐れない人達を遣って、私たちの悪口を言ったり、働きを妨害することが
ありますが、【相手の顔をうかがってやめるなら、倒されるだけです。】

神様からの働きを喜んですることをサタンは嫌うので、働く気がある時は守られます。

放っておくことも策略です。私たちには、行くべき道がありますので
そこでサタンの誘惑に乗ると立ち止まってしまうので、分別力が必要です。
その小さな戦いで力を使ってしまうと、いざ本当の戦いの時には、力がなくなっているので
知恵をもって、相手にしないことが大切です。

サタンを潰さない限り、勝利は来ないです。

 

 ◎困った時だけ神頼みは通用しないので、絶えず祈ることをしましょう。 ( ̄∠  ̄ )ノ

2011.10.16
聖日礼拝メッセージより

八戸ノ里キリスト教会

何が人を汚すのでしょう?

本日のテーマは、『何が人を汚すのか?』

それは、人間の心から汚いものが出てきます
だから 神様のみことばを読んで悟りましょう。

いくら肉体や外見を綺麗にしていても、神様は私たちの心の中を見ます ので、
しっかりと分別をして、自分の心の中に汚れたものを入れないように気をつけましょう。

そして、“みことばの鏡”で自分の姿を見て、たくさんの罪を知り、悔い改めましょう。

罪については、ホームページの「聖書が示す罪とは?」を参照してくださいね。オオーw(*゚o゚*)w


自分の舌で語る言葉が「毒」であれば、周りで聞いている人の心も汚れていきます。(`Д´) ムキー!

・‥…━━━☆・‥…━━━☆

聖書箇所

【ヤコブ3:6】 【詩篇120:2-4】 【エペソ5:3-4】 【マタイ23:25-27】

光の子にふさわしい姿になりましょう。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

【黙示録19:8】
「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、
 聖徒たちの正しい行いである。」


八戸ノ里キリスト教会のメッセージより
~2011.10.9~


聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

恐れがあるのは・・・なぜ?

今日のメッセージは、詩篇23-4

 『 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』

恐れがあるのは、イエス様が自分のすぐ傍にいるのを忘れるから。
≪あなたは目が見えないのか?あなたの信仰はどこにあるのか?≫

信仰はみことばの上にあるので、しっかりと握って、
もし「主よ、どこにいるのですか?」と言ったとしたら「許してください」と悔い改めが必要です。( p_q)エ-ン
神様が共におられることを感じて歩くこと、それが信仰です。(*・ω・)ノ

八戸ノ里キリスト教会のメッセージより
~2011.10.2~


聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

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