からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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神の心にかなった者・ダビデ

テーマは 『 神の心にかなった者・ダビデ 』 です

【使徒の働き13章22節】

それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。 「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する。

神様ほど人を正確に知っておられる方はおられません。
人の行動、考え、心すべてを知っておられます。

ですから 神様が下した人の評価は1つも間違いがないです。


ダビデに対する神様の評価は、「彼はわたしの心にかなった者でわたしのこころを余すところなく実行する者」でした。これは最高の評価だと思います。

神様からこのような言葉をいただけるのは羨ましいです。


私たちが裁きを受ける時に、神様が良い評価をするのなら救われた者として天の御国に入りますが、神様がその人に対して悪く思うならば、追い出されていきます。


生きていた時にダビデは神を喜ばせた者であったことが、ここで はっきりとわかります。
ダビデはサムエル記、列王記、歴代誌にも出てくるので、彼がどういう人であったか知ることができます。
そして詩篇の中に、1人の人間として神様の前に立たされている姿があり、そこに信仰の姿が書かれています。


私たちは色々な苦しみがある時に、詩篇をたくさん読むと思います。
読むと1つ1つの言葉は、自分たちの中にある思いを言葉で表現することはなかなか難しいのですが、
ダビデの祈りを聞くと「私自身もそう思っている。これは私の心だ。」と思って、それを自分たちの祈りにする場合がとても多いです。


ダビデが神様に対してどのような信仰を持っていたかは、詩篇の中に現わされています。
神様が最も目を留めているのは、その信仰の姿勢であります。

神の心をしっかり祈って求めるので、神の御心を知っています。
私たちも神様の心を知っています。

聖書のことばを読むと そこに書かれていますが、私たちがそれを聞いた後にどうするのか とても大切であります。
同じことばを聞いていても、その後の信仰の姿勢がそれぞれ違います。


同じ神様を信じて、同じことばを聞いても ある人は恵まれて、ある人は恵まれていない、ある人は良い評価で、ある人は悪い評価。
これは何かというと、その人の信仰の姿勢であります。

ダビデは従順する人でありました。




①従順する人



ダビデは神様だけに従順する人だったでしょうか?

神様は他人に従順する人を最初に選ぶのです。


【Ⅰサムエル17章17-20節】

エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。

この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。

サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。

ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。

ダビデはお父さんの命令に対して従順している姿が出ています。
この従順する姿は「嫌だ、嫌だ、仕方がないなぁ」という姿ではないです。

翌朝早くということは、自分で考える時間を与えません。
余計なことを考える必要がないのだという態度であります。


私たちが神様の言葉を聞いて、すぐに従順しないと人間の思いが出てきます。そして結局は自分の思いを優先にして従うことが出来ないです。

神様はまず目の前にいる人間に従順するかを見るのです。

それからが神様の出番になり、準備している祝福を与えて働きをさせます。

この後に、イスラエルの人々を苦しめるゴリヤテとの闘いがありました。
ダビデから見るとまさか戦うとは思いませんでした。ゴリヤテと闘うことは ものすごい大きな働きであります。


ある人たちは「私は神様には従っても、人には従わない。」と言う人がいます。
そう言いながら「私は神様に用いられたい。大きな働きがしたい。」と言いますが、神様は絶対にそういう人たちは遣わないです。

他人に従順しない人を遣いませんし、大きい働きをしたいと言いながら小さな働きに無関心であり、ないがしろにする人は神様は遣うことをしないです。


ある意味で人間に仕えている姿は、神様の1つのテストであります。
私たちは小さなことに忠実に働かなければならないです。聖書はそのことを教えています。


【Ⅰヨハネの手紙4章20節】

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

私は神様を愛しています。と言いながらも、他人に対して憎しみをむき出しにすると、神様は「偽り者」と語ります。

また「神様に従順します。」と言いながらも、(周りの人が)自分のために語る言葉や神様の言葉が伝えられた時に「いや、それはしない。」と言うならば、その人は脱落であります。


ダビデは従順に危険が伴うことでも すぐにその言葉を受け止めて何も言わずに、言われた通りに出掛けました。

これを見ても分かるように、従順する人を神様は喜びます。これがダビデの中にある姿でした。
神様は逆らう人は退けますが、喜んで従う人は神に用いられます。




②謙遜な人



イエス様はすごく謙遜な方であります。

神様は謙遜な人が好きですが、高慢な者は退けるという言葉を使いました。
謙遜な人はどこにいても人から愛されます。神からも愛され、人にも愛されます。


サウルとダビデの姿で違いが出てきます。
王として選ばれた時はサウルも従順で謙遜な者でした。

しかし、サウルは王になってから変わりました。
謙遜な者から高慢な者へと変わり、従順の者から不従順の者に変わりました。

ダビデは羊飼いの時の姿と、王になった後の姿は変わらず、従順で謙遜な者でした。


【Ⅱサムエル記7章18-19節】

ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にもはるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。

ダビデは「取るに足りない者」と言いました。
またパウロも「月足らずで生まれた者」と言い、彼らは人間の目で見ると偉大な者たちでしたが、 神の前ではどれほど謙遜な姿でしょう。


私たちはどうでしょうか?

私たちは偉そうにしている姿があります。神様に命令を出し、文句を言い、自分を高くして言います。
恵みを受けていても感謝をしなかったり、他人と比較して神様に不平不満を言うのは自分を高く評価することです。

高慢というのは、自分は本来そうではないのに 自分を高く評価することであります。
他人からではなく、自分自身を高く評価することを言います。


本当に評価されるに相応しい人であるならば 神様は高慢とは言いませんが、相応しくもないのに自分を高く評価してアピールするので神様は受け取ることができません。


ダビデは神様の前だけで謙遜な姿を見せたわけではないです。人々の前でも謙遜な姿でした。


【Ⅰサムエル24章14節】

イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、 一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

人々の前では、神の前よりも もっと自分を低くしている姿があります。

日本では「私はそんな者ではありません。」とよく言います。
謙遜な姿があり、自分をあまりアピールせず低く評価します。

しかし相手の人が「本当ですね。あなたは小さい者で、死んだ犬のようですね。」と言ったとしたら、一生恨むと思います。

でもダビデは自ら身を低くして、自分を殺そうとする相手に対しても自分を低くするのは、彼の人格そのものが謙遜な者であるのです。

私たちはやたらと自己卑下をする必要はないのですが、謙遜から出て来るものには評価してくださいます。


クリスチャンは自分を低くしなければなりません。他の人を高く上げます。それが恵みになります。他人が「この人は人格が出来上がった人だと評価します。」




③試練の中でも信仰を堅く守った人



多くのクリスチャンがいつ倒れるのか、いつ信仰を捨てるのか、それは試練の時が多いです。

もちろん良い時にも堕落することがありますが、試練の中で信仰が揺らいで 信仰が弱くなり、神の前で罪を犯す人が多いです。

ダビデは試練の中でも ずっと信仰を守り通していきました。サウロが彼の命を狙っていました。
サウロの命さえ取れば 自分は試練の中にいる必要がない と人間的にはそのような思いが来るはずです。

しかし、人間から来る思いと、神様のみこころとは一致しないことが とても多いです。


信仰を守り通すということは、どのような試練の中でも人間の思いを優先することではなくて 神様のみこころをまず求めることであります。

ダビデは7年間毎日 命を狙われながら生活をしていましたが、(サウロを殺す)チャンスが来ても彼はみこころを行いました。


【Ⅰサムエル記24章6節】

彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に 絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。

ダビデの部下が、目の前にサウルが現れたことを見て「チャンスです。殺してください」と言った時に、ダビデの口から出てくる言葉はすべてが信仰による言葉であります。人間的な思いが一切ありません。


私たちは、時と場合によって 信仰と自分の思いを使い分ける時が多いです。それによって聖霊様を悲しませているかもしれません。
しかしダビデは激しい試練の中でも 常に主に目を留めていました。

みこころを行う時には自分で犠牲を払わなければならないことが とても多いです。

しかし犠牲を払った後に、神様の報いが来ます。自分が蒔いたものが信仰なので、後から来るものはとても素晴らしいものであります。


ダビデは信仰第一にしましたので神様のみこころではないと 絶対に私は動かないと頑なな姿がありました。
私たちは信仰に対しては、譲らない姿勢が必要です。「絶対に神の言葉が優先である」と心を決めておかないと、あらゆる誘惑に引っ張られてサタンの餌食になってしまいます。


誰かに「そこまでしなくても良いでしょう?」と言われても良いのです。「これは神様のみこころなので、私は妥協しません。譲れません。」という思いが必要です。
そうすると勝利します。その姿勢を見て、神様が良い報いを与えてくださいます。

信仰によって生きるということは、神様の言葉が1番優先で みこころを行うことが優先であります。




④罪を犯した後に悔い改めた



私たちも罪を犯した後は悔い改めをしていると思ってしまいますが、ダビデの悔い改めは私たちとは違います。

どのような部分が違うのかと言うと、私たちは悔い改めても 時には神様に喜ばれない口先だけのことがあります。
ダビデは深い悲しみをもって本当に悔い改めました。

本当の悔い改めとは、次の箇所です。


【Ⅱサムエル記12章11節】

主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で 取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。』

【Ⅱサムエル記12章14節】

しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

この2箇所とも耐えられないような厳しい言葉であります。
ダビデはウリヤの妻を取り、自分の妻にしましたが、それは神様のみこころに損なったことであり聖霊様をすごく悲しませました。

それに対して神様はダビデが悔い改めるように勧めましたが、それに併せて神様はこちらの言葉を宣告しました。

これらの言葉を受け取った後のダビデの素晴らしい姿勢が次の箇所に書かれています。


【詩篇51編1-4節】

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎を、私から 全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、 あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

ダビデが犯した罪に対して悔い改める心をもって、まず神様に赦しを求めました。これは私たちが罪を悔い改める時も同じで誰もが出来ることです。
ここまでは同じであります。しかし、その後が違うのです。


4節に書かれている“あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。”
神様が宣告されているのは厳しい言葉でした。しかし(その言葉を聞いても)神様は正しいです。あなたはきよくあられます。と言える部分が 私たちにあるかどうかであります。

罪を犯したために償いをしなければならないと、神様が私たちを裁くときがあり試練の嵐が来ます。
すると人間はびっくりして「神様、これは何ですか?サタンの攻撃でしょうか?どうしてこんなことが起こるのか、私は神様に悔い改めたから全部赦してもらったと思ったのに、何ですかこの試練は?」と神様を問い詰める時があるのです。


自分たちは勝手に恵みだけを受けて、神様に「私に良いことだけをしてください。」という思いが強いので、その続きで言った言葉には気付いていないかもしれません。

ダビデは預言者を通して神様の言葉を聞き、罪を償うことを受け取りました。
その後、実際に神様の言葉通りに子供は死にました。

それでもダビデは一切つぶやかないで神様の前に出て礼拝をしました。


私たちもそのようにしたら良いと思います。
「どうしてあの人が用いられて、私は用いてくださらないのか。あの人は祝福して、どうして私は祝福してくださらないのですか。差別していますか?」と言う前に、何が違うのかを聞くことであります。


「あなたと私は何が違うの?あなたはどうやって恵みを受けているの?どうやって信仰が成長したの?どうして神様に用いられているの?」と聞くことであります。

私たちはダビデに聞けたら「わたしはこういう者であった。だから神様がわたしを遣ってくださり恵みを受けたのだ。」と、きっと言うでしょう。

(恵みを受けている人と自分には)必ず何かの違いがあるのです。私たちが信仰成長するには、自分との違いを見付けてやってみることであります。


神様はそのようにしてお互いの姿や、聖書の人物を通して成長して欲しいと願っておられます。

私たちが人物を学ぶことは ものすごく自分の信仰に役に立ちます。 (・∀・)つ

2014.6.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主の民になったならば

テーマは 『 主の民になったならば 』 です

【エレミヤ書7章21-26節】

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえに加えて、その肉を食べよ。

わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。

ただ、次のことを彼らに命じて言った。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。 あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。」

しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。

あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、 たびたび送ったが、

彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。」

人生最大の恵みは何だと思いますか?
私たちが今まで受けた恵みの中で、この恵みが一番だと思っている恵みは何でしょうか?


天地万物の創造主、主権者である神が 自分の神となり、自分が神の民になることは人生最大の恵みであります。


現在、地球上には約70億人が住んでいます。その人たちが皆、神様を信じているでしょうか?
そうではないです。多くの者たちは神様に背を向けています。

彼らも神と呼んでいるものがありますが、その神は実在する神ではないです。
人間が作った偶像の神ですので、そのまま進むならば、彼らに待っているのは裁きしかないです。


この世の多くの人々が捨てられた状態であり 裁きを免れない中で、私たちは天の神の民として生きているのは 恵みの中の恵みです。
これほど素晴らしい恵みはどこにあるでしょうか?そこに自分の永遠の命がかかっているのです。

この世で生きる期間は短いですが、その後に続くのは永遠の世界です。
その永遠の世界で 私たちはどこへ行くのかが重要であります。


私たちはいつも何が大切であるのかを 常に考えなければいけないです。
神様の民である価値を低く考えるならば、その人たちは世のものによって倒れてしまいます。


昨夜、生駒聖書学院長の奥様が病気によって息を引きとりました。その連絡を受けたので祈りました。

しかし、そこには悲しいという思いは一切ありませんでした。
天国がどのような場所であるかを知っていますし、私も天国に憧れているので、
“苦しみから解放されて 今は喜びあふれ、光と平安がある天国でイエス様に出会って喜んでいるでしょう。何と素晴らしいことでしょう?”

私はそこで感謝の祈りをしました。
残された家族のためには慰めの祈りをしましたが、
もしその方が イエス様を信じないで亡くなったならば、感謝の心ではなく 憐みの心が出て来ると思います。


しかし、イエス様を信じて神様のところへ行く人たちは 帰るべきところに帰ることなので、すごく感謝であります。御国の民になった者だけが死んでも幸せになります。


また、救われた者 皆が天の御国に入られるのではないです。
ある者は「主よ、主よ」と言っていましたが、天国に入れない者もいました。

なぜ入れなかったのでしょうか?
それは 神様が見た時に、神の民として選んだのに その人の生き方が神の子どもらしくなかったからです。

そして天国には入れずに、そこで歯ぎしりをするのです。


神様は始めから私たちを幸せにするために民として受け入れて下さいました。これはとても大きな恵みです。

神の民になった者は 神の民らしく生きる時に、神様はその人を神の民として認めて下さいます。


イスラエル民族は選民としてのプライドがものすごく強かったです。
しかし神の目にうつった彼らの姿は、神が民として認めることができないほどのひどいものでした。

彼らは不従順によって神に背を向け、ほとんどが荒野で死にました。神の民にふさわしくなかったのです。
私たちは彼らと同じ道をたどってはいけません。


これは彼らだけではなく、今の私たちに語る言葉でもあります。

「あなたはイスラエルの民とは違うのか?彼らのように歩んでいるのか 自分をよく見なさい。」と、
私たちが救われた時から 私たちはイエス様と1つにならなければならないです。


神の子どもになったので真理のことはもちろん重要ですが、いつもイエス様と共に歩きながら神の民らしく生きることが大切であります。


主の民になったならば、どのように生きるべきかを まず考えないといけないです。
自分の神に対して自分がどうすべきかを考えるのは当然です。
そこで、神のことばの中に神の民として生きるべき姿が出てありますので そのことを伝えたいと思います。



①主のことばに聞き従うこと



主は私たちを救い出した方であります。
それまでは神様とは無関係でしたが、私たちが神の民になった瞬間から神様は当然のように私たちの神になりました。
この神の言葉に対して私たちは聞き従うことであります。


神様がイスラエルを選んだ時に いけにえが欲しくて選んだのでしょうか?
そうではないです。いけにえは、いわゆる形式です。神様はいけにえを要らないとは語ってはいません。

ただ、いけにえだけでは満足することはないと語っておられます。


神様が求めておられるのはいけにえをささげる人の心です。


すなわち従順する心、感謝する心、きよい心を願っています。神様は 汚れのないいけにえを持ってきなさいと語りました。もしそれがないなら神は決してそのいけにえを受け入れません。

いけにえを持ってくる人が汚れているならば、そのいけにえも汚れてしまいます。


【エレミヤ6章20節】

いったい、何のため、シェバから乳香や、遠い国からかおりの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、 あなたがたのいけにえはわたしを喜ばせない。」

遠い所からわざわざ神様に捧げる為に良いものを買いました。
それを持って神様のところへ来て、神様が喜ぶと思って捧げたのに、それを神様は拒否しました。

問題はその人の心が神様に相応しくなかったからであります。その人自身が不従順の心があるからです。


神様の言葉には従わないのに、物だけを持ってくるのです。
「神様、これで満足でしょう?」「これで私の罪を赦してください。」「これで私を祝福してください。」
それは賄賂のようなものになります。神様はそのようなものを受け取らないです。


神の民になっても、うなじのこわい者がとても多いです。外見は敬虔なふりをしていますが中身は違います。
ですから神様は「偽善者」という言葉を使います。


神様のことを「私の神様です。」という人は、必ず(神様のことばに)従順をしなければならないです。
従順がないと神様はその者を“神の民”と認めることができないのです。従順しない者に 神様の祝福はないです。

神様は、聞き従う者だけに豊かに恵みを与えるのです。神様が私たちを神の民としている目的は、私たちを幸せにするためであります。

愛の神様ですので、私たちにみことばを与えて 「従いなさい。」ということは、私たちに恵みをたくさん与えたいからです。
これは神のルールを教えているのです。


不従順の罪は悔い改めないと天国には入れないです。
心を頑なにして悔い改めをしないならば神様との関係がなくなります。
いくら神の民であっても神に向かってうなじのこわい者、不従順する者に 救いの恵みが臨むことはありません。


神様は「わたしの声に聞き従うならば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と語りました。また神様は従順する者に聖霊を与え、祝福し、幸せにさせると約束してくださいました。


私たちが主の声に聞き従う時に、神様は私たちを民として認めて下さいます。




②霊とまことによって神に礼拝すること



【エレミヤ書7章21節】

全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえを加えて、その肉を食べよ。

と語りました。

全焼のいけにえとは、完全に焼いて捧げるいけにえなので 肉は残っていません。そして神様は その香りをいけにえとして受けます。それなのに神様は、肉もないのに、ほかのいえにえを食べなさいと言うのは、神様からの非難的な言葉であります。


全焼のいけにえを捧げているのに、神様はそのいけにえを受け取れないということです。神様が拒否する姿です。
それは神様が受け取らなければいけない物なのに、「あなたが食べなさい。」ということは、「わたしは受け取れないのだ。」ということです。

(受け取らないのは全焼の捧げ物の中に)その人の心が入っていないからであります。


今の時代では私たちが牛や羊を捧げることはないですが、神様に霊とまことによって全焼のいけにえを捧げる方法があります。次の箇所です。


【ローマ12章1節】

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

全焼のいけにえ そのものには、“献身”の意味があるのです。
「私の心も身体も神様に捧げます。神様を信頼し、愛します。」というすべての思いが込められて、神様に捧げることなのです。


神様は常に心を見ておられます。
神様を信頼する心も愛する心もなく ささげる礼拝を神様は喜ぶでしょうか。―― 喜びません。

神様が求めておられる礼拝について書かれているのは次の箇所です。


【ヨハネの福音書4章23-24節】

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

神様はこのような礼拝者を求めておられます。

日曜日に教会で神様に礼拝を捧げることだけが礼拝ではありません。


毎日の生活そのものが神の前で生きながら、神の中に根差して、毎日、毎瞬間 神様に礼拝をすることであります。


私たちが霊とまことをもって礼拝をしたいならば、神の目を常に意識しなければなりません。


私たちは気付いていなくても、神様は何もかも常に見ておられます。

「あぁ、そろそろ祈らなければならないか…」と 形式的に祈るならば神様は受け取らないです。
しかし、形式がなくても私たちが心から神様を見て 愛の心を見せながら感謝して生きるならば、24時間礼拝する者になるのです。


ヨセフがそうでした。ヨセフは24時間礼拝をする者でした。
彼は厳しい試練の中を通っている時 一言も神様に文句を言ったことがないです。
どのような環境に置かれても、常に礼拝でした。

毎日、美しい女性に誘惑されても、ヨセフはそれに倒れませんでした。
倒れなかったのは、ヨセフの心が強かったからではないです。

神様を常に意識するからなのです。
「神の前でこんな罪は犯せません。」と、それを堅く決めているのでブレることがなかったのです。


私たちは、あちこちを見たり世の流れに従ったりするので 倒れたりするのです。
信仰が台風に遭っているかのように常に揺れ動いています。それは礼拝をする態度ではないです。

それによって全部失敗をしながら日曜日だけ神様の御前に出て「私は礼拝をしています!」と言うならば、
神様は「違うぞ。あなたの普段はどこへ行っているのか?普段は何をしているのか?」―― それを私たちは意識しなければならないです。


素晴らしい礼拝者は ヨブもそうでした。ヨブがすべてを失った後に主にささげた礼拝は立派な礼拝でした。霊とまことが彼の中に常にありました。

自分の生活全体を通して神の前にははずかしくないように、神を敬い、心から神を求めて生きる人を神様は喜んで下さいますし、その心で礼拝する者を神の民として認めて下さいます。

神様はいつも私たちに良いものを与えてくださるので、それに対して私たちが常に礼拝を捧げる者ならば恵みがなくなることはないです。



③主の声を大切にすること



神様は昔、まだ聖書がない時代にはしもべたち、預言者を通して民に語りました。
彼らが伝えることばは神のことばであり、神の声でした。

しかし彼らは聞かず、耳を傾けませんでした。
主のことばを聞くことを拒否した結果、神のみこころを知らないので あらゆる不従順と罪を行いました。


神様は聖書の言葉を通して主の声を聞かせたり、礼拝メッセージを通して主の声を聞かせます。また兄弟姉妹を通しても御声を聞かせます。
私たちは それを聞く耳をもって聞くことです。


【箴言16章20節】

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。

主の声を無視せず、聞く耳をもって聞き、心に入れることです。
みことばを心に刻むと私たちの命になります。


今、私たちはいつでも主のことばを聞けることに対しても喜び 感謝しなければなりません。

人の話には興味があって よく質問までしながら聞くのに、「神の声には聞きたくありません」と耳を閉じるならば 神の民と言えるでしょうか。

個人の生活の中でも、教会でも、神のことばを聞くことほど大切なことはありません。

いつも耳を開いて、主のことばを聞きたいと願う人は主に喜ばれます。


自分が神の民であることを誇りと思っているならば、自分自身がその民にふさわしい者になることは当然です。
神の命令に従順し、霊とまことによって礼拝を捧げ、いつも主の声に耳を傾け、そのことばを大切に真剣に聞くことです。

そのように行う人は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた 民です。


神の言葉を無視するならば、その時から神様は語らなくなります。その人たちには、みことばを聞けない飢饉が必ず来ます。

「聞けることが感謝です。たくさん語ってください。」と謙遜な思いをもって主の前で聞くならば、その人はどんどん神の民らしく生きることが出来ます。 (´∀`*)

2014.5.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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