からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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聖別された生活

テーマは『聖別された生活をするために』です。

【Ⅱコリント6章14-18節】

神様はこのみことばの中で全然違うものを2つずつ比べています。
そこに一致があるのか、それが釣り合っているのか調和しているのかという言葉を使いながら、
私たちがそこから出て分離することを語っています。

私たちが神さまの子どもになったということは、この世から聖別されたことを意味します。
元々は この世にいましたが、そこから神様が連れ出して聖めた者です。
聖徒という言葉は “聖くされた者達”のことであります。

神様は聖い方でありますので、神様はご自分の子どもにするのも まず汚れたものを洗い聖めます。
汚れたままで良いということはないです。

放蕩息子が帰ってきた時にお父さんはどう行動したでしょうか――?
息子は乞食(こじき)のような生活をしていました。出て行った時と帰ってきた時の姿が全然違いました。
お金をたくさん持ち立派な服装をして出て行きましたが、湯水のように使い散財しました。
完全に乞食になり食べ物がなく、道ばたに寝ていた者でした。
服も汚く洗うことなく誰が見ても乞食でありました。

汚くて見るに見られない状態でしたが、お父さんはそのままの状態で家に入れたわけではないです。
綺麗にしました。新しい服を着せました。新しい履物を与えました。
息子は「わたしはもうお父さんの子の資格はないです。」と言いましたがお父さんはまず全部洗って
新しい服に指輪をはめさせて新しくしました。
神様がなさることはそういうことです。

アダムとエバは、罪を犯した時に神様はどうしましたか――?
罪がない時は、彼らには汚れがなかったです。汚れがないので裸のままで生活をしていても
恥ずかしいと思ったことはないです。

しかし、罪を犯した時に葉っぱを持ってきて見せたくないところを隠しました。
そしたら神様が彼らに「イエス様・救い主を与える」と約束をし、
動物の皮で服を作って彼らに着せました。
以前、彼らが着ていた葉っぱのようなものではないです。寒さにも耐えられるように
神様自身が服を作って着せました。神の手によるものであります。

ですから、神様が私たちを子どもにしたということは私たちをこの世・暗闇の中から光に移し
サタンの奴隷、支配された者をそこから出しました。

(あなたがたは)神の子どもになったのに以前と同じ生活をするのか?ということであります。
そのことを神様は教えたかったです。
私たちは身分が変わると、それからの生き方も変わっていかなければならないです。
それを維持していく必要があります。

その時 1回だけ参加して「神様、聖くしてください。」と、それから世の中に出て行って
世の中にどっぷり浸かって生活をして、世の人なのか神様の子どもなのか区別がつきません。
そのような生活は神様は願っておられないです。

1度聖められた者はそれからはどうすべきなのかを神様は はっきりと教えてあります。

【Ⅱコリント6章14節】

聖別された生活をするためにとても大切なことであります。
「信じない人と断絶することですか?」、「彼らとは話をしてはいけないことですか?」
そのような極端な言葉ではないです。
神様は私たちの信仰を脅かす人、信仰を汚す人、妥協させようとする人達、
そういう人達と私たちはくびきを負ってはいけないということであります。

なぜなら私たちは信じていない人達に福音を宣べ伝える必要があるからです。
だけどその中で自分が持っている信仰が取られる そういう働きをする人と
私たちは一緒に歩くことはできないです。

不信者は、信者の傍にいるからといって(不信者が)勝手に救われることはないです。
同伴者にはならないです。
同じ信仰を持つならば天の御国に向かってずっと一緒に歩くことができますが、
「この人は私が好きな人だから、別に(イエス様を)信じなくても一緒に居たら
一緒に天国に連れて行ってもらえる。」 ――これは とんでもないことであります。

信仰は1人1人のものです。 あなたが信仰告白して信じるならば救われるということであります。
「私1人が信じたから勝手に家族が救われる」「私1人が信じるから自分が愛する人が勝手に救われる」ということは聖書には書かれていないです。

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも あなたの家族も救われます。」というみことばがありますが
私たちが信じると、神様を知る者になります。そうすると自分達の家族の為に祈ることになります。
私たちが信じないならば、家族の救いの為に祈ることはできないです。
しかし、自分だけが天国へ行って、家族が地獄に行って良いですか?――それは誰も思わないです。

「どうか神様、家族を救ってください。」と祈りを蒔くので、時が来た時にその家族が救われるようになります。
語ることで言葉の種が落ちるので救われます。種が落ちないと救われないです。

まだ信じていない人と一緒に教会へ来るから救いの同伴者になる、ということは絶対にないです。
ですから神様は勝手な思いを持ったらいけないということをおっしゃいます。
主の前に出てお互いに信者にならないと合わないくびきになってしまいます。

結婚相手は同じ信仰を持っていないのであれば、行く道が違うので同伴者にはなりません。
結婚する前はピッタリ合っていても、結婚をしたら色んな揉め事が出て来ますが
初めから合わないくびきを負って一緒になることはありません。価値観が違って、
目指すところが全部違います。歩くところが全部違います。
ですから 結婚はすごく大切なことであり、人生での大きな決断であります。
性格とかは皆違います。それを(自分も)一緒に合わせるということではないです。
それはその人の個性でありますが、聖書箇所は真理であります。
行く道が違うとどんどん分かれて行って1人は上に、1人は下へくだっていきます。
そこに幸せはないです。信仰と不信仰の戦いがあります。
そのことで不信者との親密な関係はいけないということです。
どちらかが影響されます。

ソロモンは立派な信仰を持っていました。しかし神様の言葉に不従順し、情欲が出て異邦人の女を
1000人妻にしました。
その妻たちは自分の偶像を持ってきてあらゆる物を建てました。ソロモンはそれを手伝いました。
ソロモンが知恵を持って信仰を守ろうとしても、そもそも出発から間違えていました。
神様がするなとおっしゃっているのに、自分の情欲に負けて倒れました。
女の人達は倒れず相変わらず偶像の神をそのまま信じました。

私たちも、ソロモンのような信仰が素晴らしかった人も倒れるのに、自分達も罪のくびきを負って
「大丈夫です」と言えるでしょうか? そしてますます自分が汚れていきます。
私たちは世の流れに流れるのは簡単なことであります。そこで生活しているので慣れています。

「何で教会にいつも行くの?」とかをいちいち言う人とは、縁を切った方が良いです。
それを聞いているとだんだん誘惑されていきます。そして自分自身が神様から離れていきます。
神様はそれを警告しておられます。

【Ⅱコリント6章16節】

私たちは神様を受け入れましたので、聖霊様は私たちの内側に住んでおられます。
ですので神様は私たちの身体は神の宮と言っておられます。
その身体を罪で汚してはいけないです。

1番汚すものは「偶像」であります。宗教は心でするものであります。
偶像は全てサタンでありますので、それを拝むならばサタンが当然入ってきます。
多くの人たちは自分の信じる神がいます。私たちがその人達と妥協し
その人達の考え・教え、そういうものに私たちが耳を傾けるならば、だんだん自分の中で
それらのものに対する色んな思いが出て来て思いが汚されていきます。
罪が出て、偶像崇拝をすることになります。
淫乱・姦淫によっても汚されます。思いが汚されます。そうすると聖霊様が悲しみます。
聖霊の宮なのに色んな汚いものをその中に持ち込んでくるならば、宮が汚されていきます。
それは全て罪であります。自分でごまかしても罪は「罪」です。
汚れたものに触れるな、そこから離れなさいということであります。

【詩篇1編1節】

汚い所に座ったら汚くなる、その人達と一緒になると思いが汚れていく。そうなってしまいます。

【ローマ書6章13節】

罪の道具にするのではなく、神様が喜ぶ働きをするために自分の身体を使うことであります。
神様に恥をかかせてはいけないです。
義のものに使わないなら全て不義になります。

【ローマ12章1-2節】

(みことばに従うなら)私たちは自然に聖い生活になります。この世は悪の領域です。
この世に調子を合わせるのではなく、その中でも神のみこころを求めて
自分自身が汚れないように聖い生き方をする人が一番立派な人であります。

【Ⅰテサロニケ5章22節】

みことばからずれたものは悪です。小さなことでも汚れなので警戒しなければ
ならないです。

【Ⅰヨハネ1章9節】

人間は弱いものなので、罪を犯すことがあります。それでも神様は、そこでお終い
というのではなく悔い改めなさいとおっしゃいます。
赦されるということは聖められるということです。汚れがついたままではなく、
これを繰り返さなければならないです。

【Ⅰヨハネ2章27-28節】

注ぎの油は聖霊様です。私たちがキリストに留まるということは、真理の中に留まるということで、
自分の中に聖霊様を招き入れるということであります。すると汚れることはないです。
いつでも神の前に出られる聖い状態になるようにしましょう。 v( ̄∇ ̄)v

2012.4.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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いと高き所に栄光が、地の上に平和が

テーマは 『 いと高き所に栄光が、地の上に平和が 』 です。

【ルカの福音書2章11-14節】

今の世の中を見て平和だと思いますか?
戦争がないと、平和のように見えます。ですが、よく見ると本当の意味で平和ではないです。
誰もが平和になって欲しいと願いますが、争いと戦争、殺し合いの中で私たちが生きているのを考えるならば、
毎日が不安や恐れでいっぱいだと思います。

国と国、民族と民族が争いを引き起こして、平和が消えていきます。人間が造り出す平和はないです。

エデンの園は平和な場所でした。しかし、そこにあった平和も人間が壊してしまいました。
人間に欲が出てきて、自分が神のようになりたいという思いを持って神様に逆らった為に、
神様との関係が壊れました。それは平和の関係が壊れたことを意味します。

その後、アダムとエバ、カインとアベルの4人家族の中で殺人が起きました。
兄・カインが、弟・アベルを殺し、平和が消えていきました。
人間が小さな理由で、自分の兄弟であっても憎んで殺してしまいました。

その後、(人間が)それぞれ勝手に生き、そして人間が企んだことは神のようになりたいと
バベルの塔を建てました。それによって神様を怒らせ、言葉が通じなくなるようにしました。
人間同士が繋がらなくなりました。それによって平和が無くなりました。

心の中で平和を願いながら、人間が平和を潰していきました。

そのような時に、イエス様が地上に来られました。その時、今回のテーマとなった言葉がありました。
「今はクリスマスだから楽しもう~!」という人達は世界中にたくさんいますが、
「その日って何の日?キリストは何の目的で地上に来たの?」と、知らない人のほうが多いです。

キリストが来られた目的を知っている人は、キリストが来られたことが自分にとって、
どれほど祝福なことなのかがわかっています。

神様が栄光を受ける時というのは、すべてのものは神様が計画をしています。
それが成就された時に、神様は栄光を受けます。

人間にとってキリストはどういう意味があると思いますか?

「キリスト教の教祖ですか?」――― そういうものではないです。

全世界の人に平和をもたらす為に来ましたが、その平和がどういう内容になっているでしょうか。
イエス様が地上に来られた目的を学んでいきます。


① 【ルカの福音書5章31-32節】

イエス様が一番関心を持っていたのは、罪人です。
人は皆、生まれた時から罪人でした。自分の思い通りのままに生きている姿がすごくたくさん出てきます。

「私は心の中でも罪を犯したことはないです。」というのは大嘘つきであります。
ですから、罪人を悔い改めさせる為にイエス様は来られました。

しかし、自分は正しい者ですと言う人は、残念ながら悔い改めるチャンスを得ることがないです。


② 【マタイの福音書20章28節】

人間の欲の1つは支配欲です。成功したい、人の上に立ちたい。自分に仕える者をたくさん作りたい。
ですが、イエス様が地上に来られたのは、人に仕えるためであります。
それも、小さな見せかけの働きではなく、命までも与えて仕えたいということであります。

世の中に平和がないのは、人々にとって周りの人がライバル・競争相手であり、他人の足を引っ張ってでも
上に立ちたいという思いがあるので争いが消えないです。

みんなが身を低くしているなら(これは奴隷という意味ではないです。奴隷は自分の意思ではなく、
無理やり買い取られて主人に仕えなさいということであります。)
しかし自ら身を低くして「わたしはあなたに仕えます」というのは、人に仕えるのがどれほど素晴らしいことなのかを
知っている人です。

私たちが尊敬をする人は、人に仕えた人達です。
高い地位に就いて、周りの人に命令をして「わたしに仕えなさい。」と言う人は、地位を得るかも知れませんが、
尊敬する気持ちにはならないです。そういう人は周りの人から愛されることはないです。

しかしイエス様は人を支配することは一度もありませんでした。
イエス様の弟子たちは「上に立ちたい」という思いで争いがありました。
その時にイエス様は話を聞き、弟子たちを戒めました。
《 人の上に立ちたい者は、まず仕える者になりなさい。》 と、語りました。

イエス様は徹底的に 人に仕えました。弟子たちの足までも洗いました。
仕える時に、喜びが返ってきます。


③ 【ルカの福音書4章43節】

福音を伝えることは、神様のみこころであります。

人間が勝手に判断するのは、みこころではありません。神様が教えなければわからないことです。
神の御子であるイエス様は誰よりも神様のみこころを知っているお方であります。
そしてその福音を私たちに伝えるために来ました。

イエス様はご自身のことを一言でこのように語りました。
「わたしが道であり、真理であり、命です。」
私たちはそれが必要であります。

  • 道・・・天国への道であります。天国へ行くために、どの道を歩いたら良いのかを導いてくださいます。
  • 真理・・・正しい道であります。変わることがない真理の道は、イエス様ご自身が福音です。
  • 命・・・肉体の命だけではなく、永遠の命です。

④ 【マタイの福音書5章17節】

律法を完成させる為にイエス様が来られました。
律法は世の中の法則とは違います。神様を信じる者たちへの、天国の法律です。

愛が私たちの間にあるならば、私たちは無理して律法を守ろうとする必要はないです。
神様を愛するならば、私たちは喜んで主に仕えることができます。
本当に愛するならば、相手のために生きるのです。自分のことを全部犠牲にしていても、
命まで捨ててでも、相手を大事にするのが愛であります。

愛と言いながら相手を苦しめるのは、愛ではないです。それは愛の仮面を被って、悪を行うことであります。


【ガラテヤ5章13-15節】

神様が私たちに願っていることです。
イエス様によって私たちが得たものは、どれほど素晴らしいものなのかを知らなければならないです。
「主は、私にこういうものを与える為に来てくださったんだ。」 と毎年クリスマスの時期に改めてそのことを
考えることです。そうすることによって、イエス様と自分の関係が より密接な関係になっていきます。
「このお方こそ、私の人生になくてはならない方であるんだ。」 ということがわかると思います。


今回、イエス様が来られた目的を学びました。
罪人たちが必ずイエス様に会わなければならないです。
イエス様から罪の悔い改めのチャンスをいただくことができます。
そして、イエス様は命をかけて私たちに仕えてくださいました。
イエス様は天の御国の福音を伝えてくださいましたし、律法を完成させてくださった神様、
律法の根本的な精神が何かをイエス様は私たちに教えてくださいました。

これがイエス様が地上に来られた姿であり、目的であります。アーメン (・∀・)つ

2012.12.23
クリスマス礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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