からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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小さな憲法

テーマは『キリスト教の小さい憲法・詩篇15編』です

【詩篇15編1-5節】

クリスチャンとして生きるときに、これは義務でもあります。
神様は私たちに対して自由を与えてあります。しかしそれは勝手にするという自由ではありません。
みことばを行うことによって拘束されないことです。
安全に暮らせるように守ってくださる神様です。

信仰告白だけをしたから天国に行くということは聖書には書いていないです。
信仰によって義とされますが、その後は聖い者として生きていくのが神様のみこころであります。
信仰と行いがどのような関係があるのかを理解し、ただ口で告白したら救われるというのではなく、
信仰を持つ者としてどのような実を結んでいくのか。そのように(良い)実を結んでいかないと、
その救いがダメになります。天国の民として、日々の生活をしていかなければならないです。

日曜日に1回教会に来るだけで、あとの6日は世の中にどっぷり浸かった生活ばかりをして
日曜日になったら聖書の埃をはらって教会に行って、ジ―ッと ただそこに座っているだけです。
これは心が神様には向いていないです。教会にいても世の中の思いでいっぱいで耳が閉ざされて
いるので、神様が語っていても1つも耳に入らないです。

クリスチャンで地獄に行く人は多いです。

「私のような者を選んでくださって、私のような者に恵みを与えてくださって感謝致します。」と
こういう心が私たちの中にあるのかを点検しなければならないです。

【詩篇15編2節】

これが天の御国に住む人の姿であります。心が伴わないものは全て形式であります。
【イザヤ書1章】を読んでみてください。神様がどれほど形式を忌み嫌うのかが書かれてあります。
神様はその人が行う心の動機が何かをいつも見ておられます。
義を行う事は、神様の前で正しく行うことです。

【箴言21章2-3節】、【箴言21章8節】

まっすぐな道とは正しい道のことであります。
人が思う正しい道ではなく、神様が思う正しい道のことです。

【詩篇15編3節】

これは舌を使うことを教えてあります。
世の中で一番恐ろしい動物は何でしょうか?
――それは、人間であります。

山でクマやイノシシに遭遇したとしても、空腹でなければ襲うことはないです。
しかし、人間はそうではないです。人は関係が無くても、欲深い者であるので(関係がなくても)
人の命を取ります。腹が立つから他人の命を奪います。また自殺に追い込むなど。
人間ほど恐ろしいものはありません。

その人間の中でも、「舌・言葉」が恐いです。言葉は剣であります。
直接ナイフで刺さなくても、ネットを使って「死ね、消え去れ」などと中傷するなら、
結局人を殺すことであります。

家族に対しても同じであり、言葉で刺して殺しています。これは恐ろしい罪であります。
自分の子どもは自分の分身ではありません。人格を持っています。
母親が子どもを愛のまま受け入れるならば、子どもは間違った道にはいかないです。
いつも子どもの考えを批判して潰そうとして、母親の言うことだけを聞けば良いと言うならば、
それは何ですか?子どもという新しい人格を全部殺すことになります。
なぜ一番近い隣人を殺すのですか?
言葉を使うならば、愛の言葉、慰めの言葉を与えるべきです。

もし今までそれができていなければ、神様は「舌に気をつけろ」とおっしゃいます。
また、どんな親でも、≪ 親は親 ≫であります。
言いたいことがあったとしても言わないで、親も全て正しいわけではないですし親には親のものがあります。 

【詩篇15編4節】

神様と自分の関係であります。神に捨てられた人とは、神に敵対する人です。
未信者ではなく、一度救われた人です。それは高慢な人です。
そして自分はどうなのかを見ます。あの言葉は私には関係ない、ではないです。

【使徒の働き13章40-41節】

また【イザヤ書10章】も読んでみてください。警告の言葉であります。真剣に読んでください。
聞いて立ち返るならば救われます。

【詩篇15章5節】

クリスチャンにとって、お金の管理が大切です。
お金に対して正しい知識が必要であります。

【レビ記25章35-37節】

クリスチャンは利息を取るのではなく、助けなければならないです。
弱い人を困らせてはいけません。

【申命記16章19-20節】

自分も罪を犯していながら、他人を罪に定めるのではないです。
不利であっても、正義を追い求めなければなりません。これは神様が一番喜ぶことであります。

クリスチャンはこの世の秩序も守らなければいけないです。正義を守ることであります。
自分がいる所で、自分が光として輝き、腐敗を止める。この働きが私たちに任された
正義を行うことです。そうすることでそこから平和が生まれてきます。
人々にとって益になることをします。良い物を蒔いていきましょう。

そして神様の言葉と約束を守ることであります。人々にとって益になることをする。
そうすると、祝福を得るのは私たちであります。 (* ゚∀゚) ❤

< 今週の目標 >
【唇に気を付ける。悪口、非難の言葉を語らない。口から出る前に考え、悪いことなら飲み込む。
ヤコブ書3章には舌の使い方、箴言にも書かれてあります。】

2012.7.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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自らを小さい者とする

テーマは『 自分を小さい者と思った人たち 』です

― エレミヤ ―

【エレミヤ書1章5-8節】

エレミヤが語った言葉は、コンプレックスから出た言葉ではないです。言い訳でもありません。

神様はコンプレックスに陥っている人を遣うことはないです。
このような人は否定的な思いが多く、すぐに他人と比較をし自分より優れた人に対して妬みを持ちます。
自分の良い部分より、悪い部分ばかりに目がいきます。
そして、神様には「私はこんな者だから出来ません。」と言います。

このみことばのエレミヤが語ったのは、預言者としての使命がどういうものであるのかを知っていましたので、
恐れの心がありました。とても重たいもので大変な仕事なので、ただ逃げたいというものよりも
 「わたしにはふさわしくないです」という思いでした。
今の預言とは違い、当時の預言は世界や王様や国民に対して悔い改めの言葉を語らせるので、
「(若い者が)取るに足りない者です」と言いました。

自分には出来ないと、自分の姿を正しく見ています。
これは自己卑下ではなく、その働きと自分という人間を比べると、もっともっと出来る人達がいます、と
誰かと比較をしたのではないです。これは謙遜な姿です。謙遜とは自分自身を正しく見ることを言います。

神様の言葉を受けて、それ以上彼は言い訳をせずに受け入れ、50年間預言者として働きました。
たくさんの迫害を受けましたが、その働きを続けていました。
人々は心が頑なで高慢でしたが、エレミヤは初めから謙遜な者で、50年間ずっと忠実な者でした。
人々の評価は気にしなく、神様が自分を立てたので誰も耳を傾けなくても、与えられた言葉を語りました。
忠実な者は仕方なく従う者ではないです。常に神様に感謝しながら、その働きを喜んで続けます。

【哀歌3章22-24節】

どんな時でも心が神様にあります。

― サウル ―

【Ⅰサムエル記9章20-21節】

民たちの願いによってサウルが王に選ばれましたが、サムエルを通してそのことを聞いた時に語った言葉です。
「私はそんな者になるでしょうか。」彼はとても謙遜な者であります。
神様は油注ぎを与えて、サウルをイスラエルの初代王にしました。
そして神様によってサウルに力が付いてきました。するとサウル本人だけが変わってきました。
神様という存在がうっとうしくなり、誰の命令も聞きたくなくなりました。

王になり人々を支配することを味わって、神様から言葉が来ても言い訳をして中途半端に守りました。
自分の欲が優先になっていました。この原因は高慢からきています。

人の話を聞かない人がいますが、その心の中には高慢があるからです。
話を聞かないということは、相手よりも自分の方が偉いという思いが働いてあります。
それは謙遜とは言えないです。
謙遜な者は、小さい子供が語っても話を聞きます。子供からも学ぶことがあります。

自分が年を取ったから偉いのではないです。

サウルは最期には自殺をしました。神様が共におられない戦いで敗れ、怪我を負いました。
自殺は罪になります。自分の命を粗末にすることであります。

― ダビデ ―

サウルの後に王様になったダビデを見ます。

【詩篇131編1-2節】

ダビデが王様になった時の言葉であります。
彼の口から出た言葉は高ぶりではありませんでした。
神様からの祝福を得ていてもダビデは一度も高ぶったことはないです。

謙遜な姿は、神様より前に自分で勝手に(行動を)しないことであります。
神様の時がまだ来ていないのに、自分で判断をして自分で動き出すのは、
神様から見たら高慢な姿であります。

高慢は勝手なことをします。こういう者には神様は祝福を与えません。
ダビデは死ぬ時まで同じ姿でした。いつも神様に感謝をして愛していました。

― パウロ ―

【Ⅰコリント15章9-10節】

パウロはイエス様のことをメシヤとは認めていませんでした。
先頭に立って教会を迫害しクリスチャン達を苦しめていました。
高慢で自分がしていることが正しいと思っていました。
彼がやっていることをイエス様が指摘した時に目からウロコが落ちて、初めて自分の姿が見えました。
その時から砕かれて高慢さがなくなっていきました。

【エペソ3章8節】

謙遜な姿で、私たちが見習わなければならない姿であります。

【Ⅱコリント11章5-15節】

信徒達の中では謙遜な者でしたが、福音を迫害する者の前ではそのような姿ではありませんでした。
働きを迫害する者にパウロは大胆に語りました。

【ルカ17章7-10節】

主の前ではそのようにしなさいと語りました。自分を誇る者には神様は「(あなたのことを)知らない」と言います。
サウル王のように高慢になって滅びることにならないように気を付けなさいという警告の言葉であります。

教会の中でも報いを求めるのではなくて、自分の役割があるならばそれを喜んで行い、
人が褒めてくれなくてもすべきことをしたと、神様はそれを知っておられます。

「私がそうしたんだから、ありがとうくらい言いなさい。」
「私があなたにしたんだから、あなたも私にしなさい。」
これはGive and Takeで愛でも何でもありません。

愛は与えることであります。相手から返ってこなくても愛があるから喜んで与えることができます。
謙遜になって「もっと、もっと働かせてください。主の為にもっと私は役に立つ者になりたいです。」と。
そして働きをした後は、「喜んでなすべきことをしました。」と言うならば、
神様の目から見ると、それは美しい姿に映ります。

自分が高慢になるならば、人に嫌われるということを知らなければならないです。
でも謙遜な人には人が寄ってきます。柔和・優しさ・笑顔・平安な心・その人の傍に行くと心が安らぎます。
恵みは謙遜なところへ流れていきます。

神様からの恵みの雨をもらいたいならば、低いところに下る人が一番神様からもらうと思います。

<今週の目標>

【自分の高慢を砕いて謙遜になる】
すぐに人を非難することは高慢であります。そしてまず悔い改めをします。
主に喜ばれる者になりましょう。

2012.7.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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