からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

八戸ノ里キリスト教会より メルマガ配信中!

メルマガ購読・解除

読者購読規約
毎朝7時に配信しています! 1日の始まりを神様の恵みで満たしてくださいね
powered by まぐまぐ!
 
         

聖霊充満な秘訣とは

テーマは『 聖霊充満な秘訣 』です

【ローマ書12章1節】

教会に来る人たちは皆が同じラインに立っているわけでもなく、同じところに属しているわけでもないです。
羊とヤギ、麦と毒麦があります。
麦と毒麦の例えは、1つは実が詰まって良いもの。
1つは実が無いもの。外側は麦のように見えても、中身が無いです。

聖霊充満な人は、どのような人かと言うと、「内なる人」が生きている人、詰まっている人、健全な人であります。
このような人達が聖霊充満であります。

聖会巡りをする人達がいますが、それによって聖霊充満な生活になったでしょうか?
なってはいないです。だから飢え渇いて「どこへ行ったら聖霊充満になるのか?」と全国の聖会をまわります。
それは聖霊充満な姿ではないです。そのような方法で聖霊充満には絶対にならないです。
神様はそのような方法を絶対に使わないです。
その時の一時的な恵みはあるかも知れませんが、聖霊充満にはならないです。


―― 聖霊充満になるには ――

今回の聖句箇所のローマ書「聖い、生きた供え物としてささげなさい。」というのは、
『 献身 』であります。これは自分自身を神様に捧げたことです。
働きのために何かをするためでも、神学校へ行くことでもないです。

自分自身を聖い生きた供え物として神様に捧げたか 捧げていないか、であります。
捧げた人は聖霊充満に必ずなります。

日々、罪の悔い改めをしてイエス様の血が注がれると聖くなりますが、
どうやって聖い生きた供え物になるかと言えば、その人自身の自我が消えたことを意味します。

自我充満は肉に属している姿であります。
聖霊充満を妨害する1番の悪いものは、自我充満です。

自我がいっぱいになっているのに、聖霊様はどこに入りますか? 入りたくても入れないです。

順序があり「まずあなた自身をわたしの前に捧げなさい。」であります。
これが祝福を受ける秘訣であります。

【ルカ6章38節】

神からのものを受けたいならば、自分の心を空っぽにする必要があります。
「空っぽにして綺麗に掃除をしてきました。どうぞ入って来てください。」と
いうのが正しく聖霊を求める姿であります。


―― 聖霊充満を維持していくには ――

維持する方法は「愛」です。
献身をすると、神様のものが私たちの中に入ってきます。
その中には、賜物もあり、神様の愛もあり、神様がくださる色んな良いものがあります。

それを神様は「あなたが独り占めにしなさい」とは言っていないです。
今度は私たちが得たものを(周りの人に)与えることです。
無条件に与える。神様が示したところに与える。これは愛です。
他人の為に犠牲を払うと、聖霊が消えることはないです。

聖霊様が賜物を与えてくださるのも、他人に仕える為であります。
愛を実践しなさいということで、神様が賜物や恵みを与えてくださいます。

しかし、この愛は自分自身に勝たなければ出来ないことであります。
何故なら人は、自分を愛しているからです。「私のもの、私のもの・・・。」
自分の為には使っても、他人の為には使わない―。
犠牲の精神がない愛は、「愛ではない」です。

神様との関係でも、人間関係でも、犠牲が伴わない愛は「愛」ではなく、
世の中は「愛」、「愛」、「愛」ばかりを言いますが、それは「(自分に)くれ、くれ、くれ」という愛です。
与える愛ではないです。ですので、それには値打ちがなく すぐに壊れます。

しかし、神様は私たちに「あなたたちが聖霊充満を維持したいならば、ずっと続けて毎日のように
この愛を具体的に実践しなさい。」ということであります。
そうするならば、その人の中にある聖霊充満は消えることがないです。

献身はこの道の一番最初、入り口にすぎないものであります。
愛の実践を受けるために神様が与えてくださった賜物をタンスの中に仕舞い込むのではないです。

聖霊充満を受ける為に従順がないと全て虚しくなります。
従順する姿。これは秘訣でありますが、聖徒たちに何よりも必要なものであります。
従順ということは、神様の権威を認めることであります。神様を1番にすることであります。

祈りはたくさんしても、従順が無いならば、その祈りは聞かれないです。絶対に聞かれないです。
祈るということは、まず神様の声を聞くことであります。聞いて、それに従う時に管が良く通るようになります。

たくさん祈ったから与えられると勘違いをしていますが、
神様は「あなたが従順した分だけ、祝福が来る。」と語ってあります。
不従順をすると、神様から与えられたものも 取られます。

神様はどんな人に祝福を与えるか順番を決めるなら、従順した人であります。
神様がパッと見て、一番従順した人に先に与えます。その人をまず先に祝福をして、その次に従順する人、
またその次に従順する人・・・と祝福を与えていきます。
神様の言葉をよく聞いて、従いたいという心を持っている人達であります。

祈りをたくさんすれば、奉仕をたくさんすれば、神様は祝福するだろうと思いますが、
その前提にあるのは「従順」であります。

(神様が)自分に言われたことを、その通りにしていく その姿に神様が感動しますね。
神様はその人を呼んで祝福をしていきます。

従順しない理由は自我充満であります。


―― そして、信頼があります ――

神様は私たちに対する計画があります。私たちは自分で計画を立てて「神様、私の計画通りにしてください」と
神様に願いますが、それは正しいでしょうか?
―正しいものではないです。

神様は私たちに命を与えた時に1人1人に対する計画を持っています。
あなたの人生そのものを捧げなさい。
捧げることは信頼をすることであります。自分の命を神様に任せるということは信頼できなければできないです。
私たちが立てた計画よりも遥かに神様の計画の方が素晴らしいです。祝福するために立てた計画であります。
平安を与えるために立てた計画であります。

私たちは明日のことがわからないです。霧のような人生なのに、「明日のことを心配するのか?」
最後まで自分の計画を握りしめて通そうとするなら、神様がそれを壊してしまいます。
計画通りにならないようにしてくださいます。

私たちが聖霊充満にならないと、魂を失っていきます。
世の中での一番の悲劇は魂を失うことであります。それは全てを失ってしまうことです。
たくさんの世の物を持っていても、墓場に持っていけないです。

イエス様の弟子たちは、無学であっても聖霊充満になることで、
世の中の口の上手い者たちの人間的な知恵を潰しました。
弟子たちは何も持ってはいませんでしたが、魂を生かす者になりました。
神様の働きが出来る者になりました。
自分達の生きる目的が何なのかを聖霊充満の中で悟りました。

自分の魂が失われないように、自分の人生の目的、何の為に生きているのか
これを忘れないようにしっかりと日々生活の中で考えていかなければならないです。
 ( -д-)ノ

2012.9.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

大祭司の祈り

テーマは『大祭司としての祈り』です。

【ヨハネ17章6-19節】

1-5節はイエス様が十字架にかかるので、ご自身のために祈りをしました。
そして(6節からは)弟子たちに祈る、イエス様の祈りであります。
20節からは、未来の信徒たちのためにイエス様が祈る姿です。

イエス様がどれほど私たちのことを考えてお祈りをしているのか、
(この場面は)イエス様が十字架に架かる直前です。
イエス様は自分の為よりも、弟子たちのために祈る姿があります。

一切、世的なことは祈っていないです。
しかし、私たちはどうでしょうか。世的なことをたくさん求めます。
自分達の祈りと、イエス様の祈りが根本的に違います。
ですから、私たちはイエス様のみこころを知らないです。

6ー9節を見ると、弟子たちの霊的知識のために祈りました。
しかし、まだ彼らの中に守っていく力はありませんでした。

弟子たちはイエス様と3年間一緒にいる時に、「私たちは絶対に主を身捨てることはありません」と
語っていましたが、実際にイエス様が捕えられて十字架につけられる時には、1人残らず逃げて行きました。

そこでイエス様は失望するのではなく、そのことを全て知りながらも祈りました。
「1度はみことばから離れた者であっても、その時はあなたがたにみことばの知識がないから。
悟っていないから、そういう行動を取ったんだ。
立ち返ってあなたがたがみことばを守る者になるようにわたしは祈りました。」と。

(父なる神様は天地を造られ、イエス様の祈りを聞いてくださる方であります。)
イエス様が語る弟子とは【この世から取り出して、わたしにくださった人々】です。
その認識を皆さんが持たなければならないです。
この世の人々と自分が変わらないのなら、弟子ではないです。

何か訓練を受けた者が弟子ではなく、この世から取り出されてイエス様のものになってあるならば、
私たちは皆、イエス様の弟子であります。そこで訓練を受けるならば本物の弟子になっていきますが、
そうではない者たちは、何もしていない者になります。(=実を結ばない者です。)

みことばを知るということは、神を知るということであります。
神様の真理を知り、神様のみこころを知って、イエス様の事を知ることであり、自分の姿が見えて来ます。

聖書の言葉を読めば読むほど、神を知ります。読めば読むほど、神のみこころを知ることができます。
自分はどういう風に生きたら良いのか、それを私たちに教えてくださいます。

その為にイエス様は弟子たちのみことばに対する知識のために祈りました。
「彼らがみことばを聞いて悟り、みことばを聞いて守りますように。
わたし(イエス様)のことを確かに知りますように。」
口で言うだけではなく、そのことをイエス様は祈りました。

私たちも祈る時にそのような祈りが必要です。
「私がみことばを悟るように助けて下さい。神様をもっともっと知ることができますように」
聖書を読む時に「みことばを悟らせてください。私はみことばの知識が乏しいです。」

10-12節では、弟子たちの忍耐のために祈りました。これはとても大切なものであります。
聖書には「忍耐」という言葉がたくさん出てきます。何に対して忍耐するのでしょうか?

それは信仰を守るために生じてくる苦しみであります。
世の中は罪に染まっているところで、誘惑がたくさん来ます。
誘惑は甘いものですので、その誘惑を振り切って戦う時に必要なのが「忍耐」であります。

最近は、普通の人が平気で罪を犯しています。昔はヤクザや不良が罪を犯していました。
しかし最近の姿を見て下さい。そのような人達ではないです。
どこにでもいるような大学生、高校生、中学生、主婦・・・。恐ろしすぎる罪を犯しています。

私たちは悪を犯さないように耐え忍ばなければなりません。
自分自身を守る一番の姿は、罪を犯さないことであります。罪を犯したら(世の人達と)同じになります。

忍耐はジッとしていることではなく、それが自分に入らないように徹底的に戦うことであります。
辛くてもしんどくても戦って守ります。

13節でイエス様が1つの祈りをしました。「主よ、彼らがいつも喜んでいますように。」という祈りです。
 いつも忍耐で苦しいというのではなく、私たちがいつも喜びで溢れるようにと祈りました。
艱難と迫害と喜びは消えるものではないです。

パウロは鞭打たれた時にいつも喜びに満たされていました。 
忍耐はしなければならないという義務ではないです。
主の喜びがあると、そういうことがあっても平気であります。

クリスチャンとは、どんな時でも喜んでいるのがクリスチャンだと思います。
イエス様はどんな苦しみを受けている時も悲しんでいる姿は一切ないです。
人々が滅びていく魂を見て悲しむことはありますが、イエス様ご自身の人生について呪ったり、
悲しんだりしたことはないです。いつも喜んでいます。

世の楽しみを求めるのではなく、楽しく生きて幸せになる道を選ぶのが
神様が喜ぶことであります。喜びがないのは間違えています。
いつも喜びがないと、イエス様のみこころからズレています。
喜ぶというのは義務ではないですが、主が私たちの喜びのために祈ってくださっているので
私たちがそれを期待することであります。喜ぶことが主のみこころです。
どんな苦難の中でも誰にも喜びを奪われないように、それを自分のものにしていくことです。

暗い顔をして生きるのがクリスチャン。――とんでもないことです。
「主よ、私に今日も喜びで満たしてください。主の喜びで満たしてください。」
これは私たちがみことばを守っていく時に喜びが出てきます。満足感が出てきます。
しかし、みことばから離れて罪を犯したならば、罪責感が出てくるので喜びが消えていきます。

14-17節は、イエス様は弟子たちが聖くなることを祈りました。
弟子たちはイエス様の証人であります。「天の御国の福音を伝えなさい。」
世に生きていますが、世に属する者ではないです。世に生きていながら、世に属さない為には、
自分が聖い者にならなければいけないです。
光が暗闇の中に入って消えるのではなく、暗闇の中で光を放ちます。
塩は腐敗していく中で、それを止める働きをします。

聖くなる方法はみことばであります。みことば(真理)は基準です。
善悪の基準は自分の考えではなく、真理であります。そこからズレているのは罪になります。
罪はどんなに小さなものでも汚れてあります。

【Ⅰテモテ4章5節】

私たちがみことばを読むのは、それは生き方の基準だからです。
どの時代でも変わらないのが真理であります。
私たちが真理を知って守っていく時に、まず自分達が聖い者になっていきます。

18-19節では、弟子たちの使命の為に祈りました。
「世に遣わす証人として遣わす。」

「私はあなたと何にも違いがありません。私から見たら、あなたは相変わらず汚れていますね。
あなたを見たらどこにも喜びがないですね。あなたを見ていたらキリストの知識もないんですね。
学ぶことはありません。」
そうなると、収穫の為の働き人どころか、キリストに対して「あなたは使いものにならないなぁ」という者に
なります。

イエス様が1つ1つのことを私たちのために祈ってくださいました。
「私に対する期待なんだ。私がそうなることをイエス様はすごく願っているんだ」と。

私たちは主の祈りを通して、私たちに望んでいることを悟り、
その祈った通りに生きることが主が喜ぶことであります。祈りと反することをするならば、
イエス様はとても悲しみます。

これはイエス様が十字架にかかる前に祈りました。私たちにたくさんの期待を持って祈りました。
弟子たちは1人以外は使命を全うして生きました。
それをバトンタッチして、今 私たちが受けました。
イエス様の期待に外れないように、そういう者になろうという決心。
これがみことばを聞いている人の姿勢であります。 ヾ(´ω`=´ω`)ノ

2012.9.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

プロフィール

ヤエクリ

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

(^^) からし種 に投票してね
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ