からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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プラス人生になるには

テーマは『プラス人生の計算法について』です。

【マタイ13章23節】

足して増えていくのが「+」であり、引いて減っていくのが「-」であります。
この計算が出来ない人はほとんどいないと思います。
同じく、プラスの言葉、マイナスの言葉も知らない人はほとんどいないと思います。

(暗算や計算機を使っての足し算や引き算は)とても単純な計算ですが、

人生においてプラス・マイナスはそう簡単なことではないですね。
数学の計算は知識があればできます。
しかし、頭が良くて、数学が良く出来たからと言って、それがそのまま その人の人生において
プラスになるかと言ったら、そうではないです。

私たちの人生において、プラス・マイナスの計算は、数学とは全然違います。

知恵が必要であります。
プラス人生を生きるには、知識ではなくて、知恵が必要です。

すごく頭の良い人でも、明日の事はわからないものであります。
また、人生の先まで全て計算できる人はいないです。

聖書のみことばは、私たちを救い、先のことまで全てご存知である神様が教えてくださる知恵を
自分の人生に当てはめていくと、私たちの人生にプラスになる知恵を神様からいただくことができます。

自分の人生は、ある部分で自分で責任を持たなければならないです。何かのせいではないです。
「親が悪いから、環境が悪いから、あれが悪いから。」これらは愚かな言葉であります。

自分の人生の最後が、今の歩みを見てプラスになるのか、マイナスになるのか、これくらいの計算は
しておかなければいけないと思います。計算せずに生きると、みじめな人生になります。

プラスになることを紹介していきます。

【イザヤ書40章28-31節】

今は疲れている人達が多いです。それも若者が人生に疲れているんです。
生きる希望を失って、本来は力が満ち溢れなければいけない20~40代の人が自殺をしています。

自分の思い通りに就職ができないからと、つまずいて毎日マイナスの言葉を使う毎に
心が疲れてきます。

力の源は、人間そのものではないです。人間には必ず限界があり弱さがあります。
しかし、自分に力を与えて命を注いでくださる神様を自分の味方にするならば、
弱くなった時に「力をください。」と呼ぶことができるのです。

【マタイの福音書16章26節】

いくらお金を手に入れたとしても、命が一番大切であります。命は買うことができません。
命を得ることは、プラス人生の始まりであります。

【ヨハネの福音書1章11-12、16節】

私たちは生きることと死ぬことはとても大切なことですが、それを曖昧にして(肉体の死後の世界を)
考えないようにしています。本当に自分の人生がプラスなのか、マイナスなのかを計算しなければ
いけないです。欲しい物や富など、私たちが生きている時には欲望を満たし楽しませることができますが、
しかし、命に勝るものではないです。

【マタイ8章5-8節】、【詩篇19編7-8節】

人間の言葉は完全ではありませんが、神様の言葉は完全であります。
今までは目が見えない者のように生きていました。目先のことも判断ができなく、分別力もなく、
悟りもないという者を、神様は言葉によって与えてくださる。そうすると、その人の人生が
マイナスの人生に転落をすることはないです。

真理の言葉でなければ、悟れないです。悟りを得ることで自分の人生にプラスになります。
神様の子供になった特権を与えた者達に、神様は良いものを与えたいです。
みことばを一言受けて、病気が癒された人もいます。

人間は生まれてから死ぬまでに、色んな良い事もあれば、病気になったり災いが起きたりします。
(悪い事があった時は)私は今、たくさん支払っているんだ。当然支払うべきことを今 支払っているから、
後は楽になるんだと考えたら良いです。

一度も不幸に遭わない人生の人はどこにいるでしょうか。

不幸なシナリオではなく、自分で幸せなシナリオを書くべきです。
神様は私たちにプラスの人生を歩むことを願っておられます。

【ルカの福音書6章38節】

プラス人生を生きたければ、与えることであります。
与えるものは色々ありますが、「愛を与える」、「人々に関心を与える」、「親切を与える」
これは私たちの人生を豊かにさせるものであります。

愛する人は、愛が返ってきます。自分が他人を愛さないなら愛が返ってくることはないです。蒔かないからです。
人々に関心を持ってみてください。その人たちも自分に関心を持ってくれます。
それも2倍、3倍になって返ってきます。

「ください、ください」だけを蒔くのではなく、そして「愛してほしい、愛してほしい」と言いながらも、
自分は愛を与えない。ですので、相手も反応をしないです。
これは家庭でも同じであります。自分の方から1つの親切を蒔いてみてください。
すると、相手の心が良くなって2つの親切が返ってくるのです。
1つの種を蒔いて1つの実を結ぶのではなく たくさんの実が結ばれるのです。
三十倍、六十倍、百倍になっていきます。

「ください」という者は何も増えなく、持っている物までも消えていきます。

自分が愛されたいなぁと思うならば、
愛を探し求めていくのではなく、自分が誰かに対して愛を見せることであります。
自分の知識を他人に与えることが出来、自分の身体を他人に与えて仕え、奉仕することもできます。
そして言葉で励ますこともできます。

自分がいざ困ったという時には、その前に(自分が)蒔いているので返ってきます。
みことばを一人歩きさせるのではなく、まず自分で実行していくことです。
期待して蒔けば、時が来た時にある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍になっていきます。

自分が死ぬ時に握りしめているものが役に立つものなのか?と神様が語ってあります。
だからと言って、お金を湯水のように使いなさいということではないです。正しい目的の為には使います。
愛を与えることができるのも、私たちが生きている時だけであります。
死ぬ時に「愛したかった」というのは愚かな言葉であります。

人に一番必要なものは愛であり、良いものは他の人にどんどん流していくことであります。
相手に何かが足りないことに気付いたならば、声を掛けて「私に出来ることは何かありますか?」と
与えることであります。そうする時に私たちの心に喜びが来ますし、
私たちの人生の中でこれからプラスになることが、いっぱいあちらこちらから出てきます。

敵を作るのではなくて、愛する仲間をたくさん作ることであります。
共に歩む人をたくさん作ることです。今、うまくいっているから「いらない」というのなら、
高慢になっていきます。だんだん人生がマイナス人生になっていきます。

聖書の言葉には人生を豊かにするものがたくさんありますので、自分にとってプラスになるものを
拒むことをしないように、「私はもっと豊かになりたい。」と思うならば、自分の人生に悪いものを捨てて、
足を引っ張らないように。そして神様からくる良いものはどんどんプラスしていくと人生そのものを豊かにするので
力が出て希望も出てきます。愛の人に変わっていきます。
イエス様に出会って みじめになったという人は、みことばが全然活かされていないことであります。
祝福を自分の人生にプラスしてください。神様は惜しまずに与えてくださいます。 v( ̄∇ ̄)v

2012.12.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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謙遜な者になるには?

テーマは『謙遜の実践』です。

【Ⅰペテロ5章5-6節】

みことばを聞いて終わるのではなく、みことばが命じることを聞いて実行して
初めて従順の実を結ぶことができ、そのみことばが自分の中で活かされていきます。

みことばは命であります。聞くだけで命になることはないです。
自分のものにして初めてそれが自分の中で命としての活動をします。

神様がここで語るのは高慢になるのではなくて、へりくだるものになりなさい。ということです。
神様は恵みを与えたいのです。

でもその恵みを受け取るには神様のみこころに叶わないと、受け取ることができないです。

主は「高ぶる者には与えない。」神様に敵対することは恐いことです。
≪あなたは私の敵である≫
自分が神様に向かって「自分は神様の子どもだ」といくら主張しても
≪あなたのその高慢な姿は私に敵対する。私の子どもには見えない。≫

神に対して最初に出てくる敵はサタンです。サタンがどれほど高慢な者であったのか。
もともとは御使いで神様が造ったものですが、神に対して心の中で思ったことがありました。

【イザヤ14章12-15節】

主に仕える者が自らが堕落していき、つまずきました。神に仕えることは素晴らしいことです。
それでも、そこで満足しないで神の上に立ちたいという、とんでもない思いを持ちました。
そこで神様に落とされました。 そしてアダムとエバにも同じく、高慢な思いを入れました。

【創世記3章4-5節】

人間は騙されて神様に敵対し、神様の言葉を退けました。人間を誘惑して
自分(サタン)と同じ目に遭わせました。人間は神のようになると思いました。

しかし、彼らは全てを失いました。エデンの園の祝福を失いました。
人間は神様から切り離されたものになりました。

こういう姿から私たちは学ばなければなりませんが、
人間は一番知恵があると言いながら、世の中で一番愚かなものであります。

私たちは同じことを繰り返して行います。歴史の中で戦争が絶えない。事件が絶えない。
これは何一つ学んでいない愚かな姿であります。
繰り返すならば私たちは受けた祝福を全て失いますので、神様はみことばを通して警告してあります。

神様は、高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えてくださるので、
へりくだりなさい、従いなさい。とおっしゃっています。

本日のテーマである聖句箇所の「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。」は
『私は年をとっているから別に関係ないか。』ではないです。
信仰にとってまだ未熟な者であります。まだ謙遜さを身に着けていない者に対して語る言葉であります。
素直に言葉に聞き従いなさい。これはへりくだらないと神様の言葉を受け取ることができないです。 
高ぶっている者は神様の言葉を聞いてもアダムのように聞かないで違う事をします。

謙遜を身につけなさいということは、態度で示しなさいということであります。
人々が見て、わかるようにしなさい。頭で理解するだけで何になりますか?
聞いて実践する者になるならば、周りの人が見て「あの人は謙遜である。
あの言葉、態度は謙遜である。」と、このように神様は見せなさいと語っています。

「謙遜、へりくだる」は、ただ小さくなることではないです。
謙遜な人は、ある意味で態度は大きくないですが、心は誰よりも広い心を持っています。

【ローマ12章3節】

それぞれレベルは違いますが、思うべき限度を超える時から高慢が始まります。
人間も神のようになりたいという思いを受けた時から、行動しました。
高慢な行動が実を結び、堕落が始まり、滅び・死を刈り取ることになりました。

私たちは常に何かを考えて行動するものです。その時に、自分の思いを知らなければならないです。
自分の中で思うべき限度を超えて思い上がっているならば、その思いを潰さなければならないです。
「あ、高慢の始まりだ。とんでもないことを私は企んでいるんだ。」
それを討たなければならないです。

これはイエス様の弟子達の姿でもたくさん出てきました。
人間は生まれながら思い上がっている者であります。
小さな子供でさえ、素直な部分もありますが、高慢な思いがあります。

【ルカ22章21ー27節】

イエス様が十字架にかかる前の晩、弟子たちは自分たちがどんな立場にいるのかを誰も気付いていないです。
イエス様が語っているにも関わらず、耳に入っていないです。
深刻な話でも弟子たちは「(裏切るのは)誰なのか?」と話しましたが、
その話を打ち切って「この中で誰が一番偉いだろうか?」と議論を始めました。

イエス様は1人の弟子から裏切られてもうすぐ死ぬんだと告げているのに
話題を変えました。思いが違うところにあります。
なぜこのような場面の時に、こんな話題が出るのでしょうか?

これは高慢な人間だからです。
イエス様と一緒にいながらも、深刻な話をされているイエス様のことを見ていないです。
互いを見て、このような話題が出たのは、誰もが「自分が一番偉い」と思うからです。
もし皆が「わたしはそんな者ではない」と思うならば、議論する必要がないです。
3年間イエス様を見ながらも、目が見えない者であります。高慢な思いはなかなか断ち切れないです。
自分が一番大切なのです。自分が一番偉いという思いです。

思うべき限度を超えて自分を偉いと思っています。
異邦人の王、知恵ある者、金持ちは偉そうにしているので、そういう人達が
みんな偉い人なのだという先入観があり、偉い人になるとそうしなければいけないのだ。
謙遜にしていてはいけないのだと、支配をしないと権威を認めてくれないのだ。と思いますが、
本当はそうではないですね。

イエス様は≪あなたたちは一体、誰を目指しているのか?あんな傲慢な態度を目指すのか? 違うだろう?≫
自分たちを育ててくださったイエス様を見なければならないです。
イエス様は最期の時に弟子たちの足を洗いました。

【ルカ14章7-11節】

高慢になると恥がついてきます。高慢は神様の敵なので、たとえ神の子どもであっても、
神の子どもの扱いをしないです。私たちの高ぶりは、まず神様の前で始まります。

神様の前で偉そうにしています。自分では気づいていないと思います。
私たちの態度・言葉が神様に対して高慢な態度であります。

私たちは貧しくなると、まず神様のことを切ってしまいます。これは神様に対して悪い思いであります。
病気であっても会社へ行きます。
しかし今日は疲れているから教会を休もうというならば、ただ教会を休んだということではなく、
主に会う約束をキャンセルすることであります。
いつも私たちは神様のものを最初に切り落として、世の物を最後まで残しています。

何が一番大切なのでしょうか?
全ての物を失っても自分を祝福し、守ってくださる神様を最後まで守らなければならないです。
 だから、まず肉のものから切り落としていかなければならないです。
でも実際は反対のことをしているのではないでしょうか?これは神様のことを軽く見ていることであります。
 「こんな時に神様のことなんか出来ません!!」これは神様の恵みを忘れた姿であります。

恵みを忘れると私たちは高慢になってしまいます。
滅びていく肉のものを最後まで「これは手放せない!」と。
そうなると、≪それは錆びて泥棒が来て全部失って、命まで失っていくんだ≫と神様が語ります。
私たちは知らぬ間にこういう事をしているのです。

一番大切なものを最初に手放し、価値のない物をずっと握りしめています。
ですが、手を広げてみてください。その握っているものはそれほど価値があるものなのか?
そういう私たちの態度が神様の前では高慢であります。

聖書にはヤコブとエサウが出てきますが、エサウがそのような姿でした。
ヤコブは一番大切なものを知っていましたので長子の権利を売ってくれとエサウに伝えました。
ヤコブの手段は悪かったのですが、霊的に何が一番大切であるかを知っていました。
一方、エサウは一番最初にそれを手放しました。
お腹がすいていたからということだけで一番大切な長子の権利を食べ物であっさりと交換してしまいました。
エサウは長子の権利を「こんなもの」と言いましたので、神様は呪いました。
神様よりも食べ物が「上」になっていました。これが高慢な姿であります。

エサウの子孫までも呪われ、すべて地獄へ落とされました。

【箴言11章2節】

答えがはっきりと書かれています。高ぶるなら恥が来ます。恥はかきたくないでしょう?
知恵が欲しいでしょうか?へりくだれば「知恵をください」と言わなくても恵みで知恵が来ます。

【箴言16章5節】

高ぶって得することは1つもありません。神様に嫌われ、神様の敵になり、恥が来て、罰を免れません。
しかし、人間はそうだと知っていながらも高ぶります。人よりも上に上がろうとします。
これは目標があって何かを達成するのは問題がないですが、心が高ぶってることを神様が教えてあるのです。

謙遜を実践するとどうなるでしょうか?
祝福があります。 

【箴言29章23節】

謙遜な人は心が広いのでどこにいても尊敬されます。寛容な人、柔和な人、敵をつくらない人たちです。
傲慢は自ら敵をつくることであります。
人を踏みつけて上に立とうとするので、トゲトゲしいから 周りの人達が近寄らなくなります。
偉そうな態度をする人の前では自分の姿が惨めな感じがするのですが、
謙遜な人は、その人が身を低くしているから、その人の傍に行くと自分が何者でもないのに
何だか自分が偉い人のように思わせます。だからそのような人の傍に行きます。

神様は≪自分で自分を褒めるのではなくて、他人の口から褒めさせなさい。≫
「あんな謙遜な人になりたいなぁ」「あんな柔和な人、心の優しい人になりたいなぁ」
神様はその祝福をお与えになります。  

祈りで「恵みを与えてください、恵みを与えてください」と。
神様は≪へりくだっているのか?あなたが心を低くし、へりくだるならそこに恵みが流れていく。 
みことばで約束してあるから、わたしが間違いなくあなたに恵みを与える。≫と語ってあります。

【ヤコブ4章10節】

神の前でへりくだる者は、人の前でもへりくだります。
そうすると神様ご自身が≪あなたは行くところまで下りていったんだから、上がってきなさい。≫
謙遜な者は神様が高いところへ、天国は謙遜な者が入り、神の御座の傍には一番謙遜な者が座ると
語ってあります。

パウロは本当に謙遜な人でありますが、だから神様が彼を高く評価して、イエス様とモーセの姿に似ています。
主に仕えた多くの立派な信仰の人たちに似ています。
神様はそのような人たちを高く御座のところまで引き上げてくださいます。

このように謙遜がもたらす物は良いものだらけで、傲慢は悪いものだらけです。
どちらを自分は選ぶのか自由であります。
だから傲慢なものを打ち砕いて内側から取らなければならないです。
それを持っていて自分が良いことが1つもないです。
自分の身を滅ぼさせます。そこにサタンがいることと同じであります。

【ピリピ2章3-4節】

神様が高慢にならないで謙遜になるために語った箇所であります。

自己中心的になると高慢になって「私が、私が・・・」になります。
思うべき限度を超える人たちの姿には必ず虚栄があります。ふくらませて良く見せます。
それで得るものは高慢な姿だけであります。

私たちがへりくだっていくと、他の人を優れた者だと思うようになります。神様はこのことを教えながら
イエス様があなたたちの模範である「謙遜な方」の模範でありますと5節から教えてあります。 

【ピリピ2章5-9節】

いつも謙遜な思いを持っていなさい。神様の前でイエス様はいつもへりくだっていたから高く上げられました。
みことばが実現されました。イエス様がしたならば、あなたは当然のようにすべきだろう?
イエス様のような方がしたのに、あなたにできない理由は何でしょうか?
「できません。」と言うならば、私たちが自分の高慢を捨てないことであります。
高慢な思いがあるとできないことであります。

しかし、「謙遜になろう」と決心するならばできないことはないです。
祝福を受ける一番の道は謙遜になることであります。恵みが与えられると語ってあります。
約束は全て良いものであります。

欲しいなぁと思うならば道は1つ。互いに謙遜を身に着けることであります。
謙遜な者になっていきましょう。(⌒-⌒)

2012.3.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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