からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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成熟した人

テーマは『成熟した人の姿』です。

【コロサイ1章9-12節】

パウロがコロサイ人の為に、彼らの信仰が成熟することを願って祈る祈りであります。

私たち信仰を持った人達は成熟しなければなりません。
信仰の成熟のために求めるべきものがあります。
どんな人が成熟した人でしょうか。こちらの聖書箇所に書かれてあります。

奉仕を熱心にしているから、その人の信仰が成熟した人。
そういう基準はないです。
神様の基準は私たちが考えていることとは違います。熱心に神様のところに来るから、
日曜日に来るから、捧げ物をするから、奉仕をたくさんするから、信仰歴が長いから、
その人の信仰が成熟したのではなく、中身を見なければならないです。

自分の努力だけで成長することは難しいです。
人々はこの聖句を聞いて一生懸命努力してこうなろうと思いますが、
霊的なことは自分の努力だけでは成熟できないです。

聖霊様の助けが必ず必要であります。私達自身の中には霊的なものを生み出す力はないです。
聖霊様によって私たちが「これは霊的なものである」と、
そこから私たちは色々なものを受け取ることができます。

成長したいならば、聖霊様に求めて受け取り成熟しなければならないです。
受け取ってから努力が必要であります。最初から努力して実を結んで、
できない時に「神様助けてください」ではなくて、最初から神様と共に始めないとできないものであると思って、
まず神様にそれを求めていかなければならないです。

信仰が成熟するために、この聖句に祈りがあります。
〈あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように〉
 
私たちはいつも神様のみこころを求めます。
神様のみこころというのは、神様が喜ぶことであります。神様が喜ばないことは、みこころではないです。
私たちが何かをする時に一番わかりやすい基準です。
「この事をしたら、神様は喜ぶかどうか?」 それをまず考えるべきであります。

聖書はこうすると神様が喜ぶことだとたくさんみことばで教えてあります。
これは神様が喜ぶことであるというものは、それは全て神のみこころであります。
それを知るには霊的知恵の理解力が必要であります。

自分の知恵だけでは、世の中の人達、神様と何も関係なく生きている人たちは、
聖書の言葉を開いていてもそれは霊的知恵がないから理解ができないです。

聖書を読んで、神様のみことばを読むと神と人間との関係があり、そして書かれた目的があり、
そしてその理解力は片面だけではなく、全体を見て理解する力であります。
<少しだけ見て理解したからその人達に霊的知恵がある>ではないです。
全体像を見なければ理解したとは言えないです。

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「スリーミニッツ」という本は、アメリカ48州でベストセラーになりました。
(日本語版は、「天国は、ほんとうにある~天国へ旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語~青志社」
です。)

4歳の男の子が盲腸の手術をしました。お医者さんから助からないと言われましたが、
臓器が破裂して毒が体内に溜まっている状態なので洗わなければなりませんでした。
その男の子が手術室で体験したことがありました。しかし、その事はすぐに親には言わず、
数年後にポツポツと牧師である父親に話し始めました。
父親は自分の子供に教えた事もないですが、子供が今まで聞いたこともない話をするようになるので
気になっていました。
男の子が体験したことを「イエス様が話をしてくれた」と言うので親はびっくりしました。
父親が「どこで聞いたの?」と聞くと、
「イエス様が膝に乗せてくれて話をしてくれた」など、そのような事がありました。

その男の子が語る言葉は霊的知恵がすごかったです。それを聞いた父親が聖書を開きます。
なぜならば、子供が語っている言葉が真実かどうかを確かめなければいけないからです。
一度も天国の話をしたことがないのに、信徒の親族の葬儀に出席した時に、男の子が棺の前で
「この人は信じているの?信じていたら良いのに、信じていたら良いのに」と言葉を繰り返しました。
父親が「どうして?」と聞くと「イエス様がはっきり言った。
イエス様を信じない人は天国には入れないとはっきり言ったから。」
だから信じていたら良いのにという言葉を何度も言いました。

その男の子には1人のお姉さんがいました。そしてお姉さんと男の子との間に子供がもう1人いました。
しかし産まれる前に流産をしてしまい牧師夫婦はすごく悲しみました。男の子であるか女の子であるか、
両親は知らないです。
その事は男の子に教えたことがないですが、「僕にはお姉ちゃんが2人いる。」と言いました。
親は「お姉ちゃんは1人しかいないでしょう。」と言いましたが「いや、違う。2人、2人」と言いました。
「どうして2人なの?」と聞くと、「天国で会った」と言いました。「どのくらいの子供?」と
聞くと「お姉ちゃんより少し小さい」と言いました。
「どうやってわかったの?」と聞くと「イエス様が連れて来てくれた。」と。
髪の毛が黒い女の子だったことを言ったので親はそれを聞いて癒されていきました。

流産をした子がどこへ行くのか聖書には書いていないですし、神様の御座のことが書かれていても
神様の御座とはどういう所なのか?と。でもその男の子は行っていました。

お父さんは試しました。
「イエス様はどこにいたの?」と聞きました。聖書には「神様の右側に座っている」と書いてあります。
男の子はこの言葉を知りません。
男の子がジーッとお父さんを見て、「右の方にイエス様は座っていた」と言いました。
これは小さい子供であっても、聖書をたくさん読んでいる牧師であっても霊的知恵は足りないです。
でも直接そこにいて見た人は霊的知恵がすごいことであります。

お父さんはさらに試しました。
「そしたら左側には誰がいるの?」と聞きました。
お父さんの頭の中では「聖霊様がいるだろう」と思っていました。
男の子は「違う。ガブリエル天使がいた。」と言いました。お父さんがびっくりしました。
「聖霊様はどこにいたの?」と聞くと、「僕の傍にいてくれた。小さい椅子に座らせてくれた。」と言いました。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

ガブリエル天使は神様の言葉を聞いてメッセージを伝える方であります。その事が聖書に書かれてあります。

私たちは聖書を100回読んでいても、それこそ霊の目が開かれないと知恵がないです。知識がないです。

私たちは神様を体験すること。
それがすごく大切なことは成熟する時に、みこころを行う時にすごく神様を体験します。
みこころを行いなさい、ということは、もちろん「神様、霊的知恵と理解力を与えてください。」と祈りますが、
それだけでは不十分です。それは与えられても与えられたかをどうやってわかるでしょうか。
私たちが神のみこころを行う時に、みことばを行う時に、自分がそれをもらったことがわかります。
上から来るものは霊的知恵であります。知恵が与えられると理解ができます。神様はこれを与えます。

聖書を100回読んだからといって、理解ができるわけではないです。
1つの聖書箇所を読んで「神様、私はもっともっとみことばによって成長したいです。
ですから、私に霊的理解、知恵を与えてください」と それを求めながら私たちが聖書を読むならば、
聖霊様がすごく働きます。
偏ったところだけ自分で何とか分かるのは、バランスが悪いです。成長することができないです。
神様にそれらを求めるべきであります。

霊的理解力と知恵が与えられると、主に適った歩みができます。
主に適った歩みは、私たちの生活、そして霊的状態、それは神様に褒められます。
叱責される時は、主に適った歩みではないです。神様のみこころからずれていることです。

時々、みなさんに神様の預言を与える時がありますが、褒められる時もあれば、叱責される時もあります。
みこころに適った働きをした時は褒めてくださり、みこころに適っていない歩みをしている時は
叱責のことばを与えます。「悔い改めなさい。」叱責がある時は正しい道に戻れということであります。
「聖徒にふさわしく歩みなさい。」

自分がなぜ選ばれたのか。選ばれた者であるなら、選ばれた者らしく生きること。
これは主に適った歩みをすることであります。それができるには、みこころを知らなければできないです。

みこころを知らないと自分勝手に行動をしてしまいます。これは神様が褒めるわけがないです。

成長した人の姿はあらゆる点で主に喜ばれるように、その人達は(行動を)します。

―主に喜ばれるために何をしたら良いでしょうか。―

①神のみことばに従順することであります。

これに勝るものはないです。これは神様の権威に従うことであります。
最後の権威を持っておられる方の声にあなたは従わないのか?
従う時に神様は喜んでくださいます。私たちは従わなければならない存在であります。
自分が神様を指図するのではなく、神様の指示をもらってそれに従うのが私たちの義務でもあります。

ヨハネの福音書15章にある「父は農夫、イエス様はぶどうの木、私たちは枝」 この関係です。
そうでなければ実を結ぶことができません。
「私の中に留まり、そして私のみことばを行うならば、その人達は必ず実を結ぶ」
それが成熟した人の姿であります。成熟した人はこの世にたくさんの実を結んだ人であります。
まだ実が結ばれていない、まだ葉っぱだけだというのは まだまだその人は成長していかなければならないです。

成長はその人が結んだ実を見たらわかります。
あぁ、あの人は「喜びの実」を結んであるなぁ。(「従順の実」「信仰の実」「愛の実」)
実はどんな実でも成熟した人でなければ結ぶことができないです。
芽が出た段階ではなく、完全に花を咲かせ実を結んだ時に「成長した、成熟した」と言えます。

神様は常に小さいことに忠実になりなさいという言葉がありますが、それはテストの為であります。
この人がその事に対してどれほど心を込めてやるのか、準備するのか、実行するのか。
大きい事になると「力がないです。神様、やったことがないです。」と出来ないので、
神様はまず出来るところからやらせて、その人がそれに従ってきちんとやるのか、準備するのか、
それを神様はテストをします。

神様の言葉には不従順するのに、口だけは立派に語る。これはとても未熟な姿であります。
成長した人の姿ではないです。

自分や人を判断する時は、結んだ実を見ればわかります。
「あぁ、自分はまだまだなんだ」と分かったら、落ち込んで何もしないのではなく、成長しなければならないです。
いつまで経っても小さい枝のまま、いつまで経っても1つの実も結ばれていない。
―信仰の薄い者。―

神様は1年経ったり、2年経ったりするとそれぐらい大きくなっていることを期待します。
期待するのがみこころです。
そこまで自分がなっているかどうかを自分で点検することであります。
去年より私は成長しているのか? 去年よりも私は実を結んでいるのか?

②神の力によって強くされていかなければならないです。

力ある働き、奇跡を行う、そういうことの為ではないです。
忍耐と寛容、聖霊の実を結ぶために、私たちは強くされていかなければならないです。
忍耐をすることは力がないとできないことであります。
患難の中でも望みを抱いて忍耐する。待ち望む。これはものすごい内なる力であります。
力がないと出来ないです。小さな風が吹いてきてもすぐに倒れてしまいます。
これは忍耐する力がないことであります。

「今日も神様、力を与えてください」、「生きる力」、「患難の中でも耐える力」
「苦しみの中でも希望を持って辛抱する力」、「神様、ください」 これが内側の力であります。
肉体の力とは関係がないです。身体は立派であってでも心が小心者はたくさんいます。
か弱い女の人であっても神様から力をもらうと、ものすごい忍耐力があります。積極的な態度があります。
これは神の力をもらわないと私たちは絶対無理なことでありますので、
忍耐できるように「求めなさい」と語ってあり、私たちが「満たしてください」と願わなければならないです。

③いつも喜びをもって感謝を捧げることです。

一年中、毎日です。良いことだけではなく、悪いことでも感謝することであります。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

4歳の男の子が手術室に入った時、お父さんが病院の小さい部屋へ行き祈りました。
お医者さんも厳しいという言葉を伝えていたので、お父さんの祈りが感謝の祈りではなかったです。
神様に対してのつぶやきの祈りでありました。なぜならそのお父さんは、以前にも試練があったからです。
野球をしてスライディングをする時に足の骨を2本折ってしまいました。
何カ月も痛みを伴う不便な生活をしていました。
それから男性なのに乳癌にかかってしまい手術をしました。
次から次へと災難がありました。それは自分の事なので耐えましたが、
4歳の子供が死にそうになっているので病院も何か所か動きながらやりましたが大変である。
そして子供が骨と皮だけしか残らなくなりました。

お父さんは「あんまりです。何でこんなにひどいことをするんですか。」
これは祈りではないです。神様に対して言いたいことを言っている牧師先生でした。
お母さんは厳しい状態なので色んなところへ電話をかけていました。

そして4歳の子供はその後、「お父さんはその部屋で祈ったでしょう?」、
「お母さんはそこで電話をしたでしょう?」と言ったので、両親は「どうやってわかったの?」と聞くと
「自分の霊が手術をしている時に引き上げられた。手術する自分の体を見た。
イエス様が来て、僕にそうした。」そしてそのまま天国へ行きましたが、
「(天国は)あまりにも素晴らしいところだから、そこに居たかった。
でも、イエス様が「あなたは帰らなければならない。
あなたのお父さんが、あなたの為に必死になって私に祈っているから。あなたは帰らなければならない。
お父さんの祈りにわたしは答えたいんだ。」と言ったので戻ってきたんだ。」と言いました。

その言葉を聞いて、牧師先生はものすごく悔い改めました。
神様に感謝して祈ったわけではないです。
不平不満を言いながら神様に言いたいことを全て言ったその祈りをイエス様は聞いてくださったということに、
本当に神様の前に顔を上げられなかったです。

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感謝をして喜びながら祈りをするのは成熟した人の姿であります。
私たちも祈ってわかると思いますが、神様につぶやきながら祈る祈りもたくさんあると思います。
これはまだ未熟であります。それでもイエス様は悲しみの中で訴えているその祈りを聞いてくださるんです。

私たちは悪いからと言って、そうではないです。私たちは表面しか見ていないです。
その中で神様はどれほど働いてくださっているのか、私たちには見えていないです。

アメリカは医療費が高く、莫大な治療費や色んなお金がかかり、仕事もできないのですが
神様は色んな知らない人達を通して全て与えてくださいました。

私たちは先のことはわからないです。
現実のことだけを見るならば私たちは絶望になることもありますが
神様は全てのことを働かせて益にしてくださる。これも私にとったら何かの目的がある。
その中でも神様が働いてくださる。
そして私たちはその中でも喜びをもって感謝しなければならないです。
これが毎日できる人は1番成長した人の姿であります。

成長した人は、今日・明日と 心がころころ変わることはないです。
感謝すると決めたら一貫してすると、感謝の実が結ばれます。こうと決めたら何が起きても喜ぶ。

雨だから怒る、そこで風が吹いたから腹を立てる、これでは一年中休む暇がないと思います。

成熟した人達は、「私の物はこれです」とは言わないです。
完全に成長した人の姿は「私の物は一つもないです。」と本気に思っている人であります。
「全ては神のものであります。私も神のもの。私の命も神のもの。私のものはないです。」
この人達は神様の中で完全に生きている人であります。

まだ成熟していない人は「これは私のもの。これも私のもの。私のもの、私のもの・・・・・・・」
それが多ければ多いほど成長していないです。まだ神様から遠く離れています。
口では「神様、信じます。」と言っていても みことばの中に留まっていないです。

「神様、これは神様がくださったもの。私の命も子供も全て神様のもの。」 委ねてそれを認めて
そして本気にそう思って神様のために生きる人、この人は完全に成熟した人の姿であります。

成熟したいならば中途半端に成熟するのではなくて、そこまで成熟するんです。
その人達が天国でも神様に一番喜ばれる人、認められる人になります。

神様のみこころは私たちが成熟することであります。そして豊かに実を結ぶことであります。
それをもって神様に栄光を捧げることであります。
それを目指していきましょう。 (`・ω・´)

2012.4.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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3タイプ別の信仰

テーマは『信仰者の3タイプ』です。

【ヨハネ20章29節】

復活したイエス様が弟子のトマスに語った言葉です。

信仰には大きく分けると3つのタイプがあります。
イエス様を信じて教会に行っているからといって、その人達が同じ信仰ではないです。
外見は同じ信仰を持っているように見えます。もちろん信仰歴も違いますが、
みんながイエス様を信じているように見えますが、中を覗いてみると違います。

①見ても信じない人
信じているから教会に来ているのに、見ても信じない信仰を持っている人がいますか?
それは実際にいます。教会に来て神様の色々な奇跡を見ていても結局は信仰が無かったという人達です。
イエス様がいる時代、イエス様はたくさんの奇跡を行いました。
すごい数の群衆が集まってきていますが、奇跡が起こらなかった日はないです。
それも数え切れないほどの奇跡が、3年間 毎日起こりました。
聖書に記録できないくらいでした。

イエス様が活動したところで信じた人たちは多いと思いますか?毎日奇跡を起こしましたが、
彼らはイエス様を信じませんでした。 それは(イエス様を)神様として信じませんでした。
多くの人たちが色んなことを語りました。「優れた先生である」など色んな言葉を語って、
イエス様の働きや力は認めました。でも信じることはしなかったです。

私も昔はこういう者でした。救い主としては「あぁ、あの方は神様なのか」と思いましたが、
他人事のような思いでいました。それはなぜかというと、霊的に無関心だったからです。
「(聖書は)神様の言葉なんだ」と認めるのですが、信じないです。
信仰として、自分の救い主としては受け入れることはしなかったです。

見ても信じない。このような人達は、いつ信じるでしょうか。
こういう場合の人達は、色んな試練に出会ってからイエス様を信じる人が多いです。

イエス様の奇跡を見るために、毎日 見物に行きました。どんな人達が癒されるのか?
今日も奇跡が起きた。悪霊が追い出された。など
毎日それを目で見るのですが、それを神様だと受け入れて、イエス様の弟子になってついて行く
という人は少なかったです。

パウロが、イエス様が復活した後にヨーロッパに行って福音を伝えた時に、
彼らは実際に(イエス様を)見たことがないです。
今の時代のように旅行が自由でもなく行き来ができないです。
しかしパウロは行って、言葉・福音だけを伝えました。彼らは見てもいないのですが、
信じました。反対にその所で信じた人達が多いです。

イスラエルはイエス様が生まれて活動した場所ですが、今でも信じる人が圧倒的に少ないです。
ユダヤ教は多いですが、クリスチャンは少ないです。クリスチャンは今でも迫害されています。

ヨハネの9章で盲人の姿が出てきます。イエス様が可哀想に思い、目が見えるように癒しました。
そして目が見えるようになり、それはどれほど嬉しかったかわからないです。
すると、彼に困ったことが起こりました。
奇跡が起きて証をするのに、宗教の指導者たちが認めませんでした。
「あなたはどうやって見えるようになったのか?」
彼はもともと見えない者でしたので、イエス様から言われた言葉やどのように行動をしたかを
伝えました。
実際目が見えなかった本人が証言しているのに、彼らは何度も何度も呼んで
「誰がそのようなことをした」や「あなたはどう思うのか?」と尋問をしました。

【ヨハネ9章26-36節】

見ても信じない者がたくさんいる中で、盲人だった人に「あなたは信じますか?」という言葉を使いました。
「主よ。その方はどなたでしょうか。」これは目が見えなかったからわからなかったですね。
そして「信じます。」と言いました。

彼らはみことばをよく知っていると言い、イエス様が来られることは聖書に書いてあるのに、
彼らは本当に目が見えない者であります。

【ヨハネ9章39節】

そこでイエス様は彼らに厳しい言葉を言いました。
見ても信じない人は目が見えない者であります。自分では気づいていないです。

信仰は霊的なものであります。目で見て信じることが信仰ではないです。
信仰は「聞いて 信じること」です。信仰は「聞く事から始まり」ということばがあります。

【ローマ10章17節】

私たちが錯覚するのは「見たら 信じる」というものです。
こういうタイプが一番多いです。教会に来ていてもそうです。
聞くだけでは信じられない → この人は根本的なことから間違えています。

この世の中には、目に見える世界と目に見えない霊の世界が2つ同時にあります。
だから信仰というと今まで肉眼で見えない霊の世界。
これを神の言葉によって霊の世界がある、目に見えない神様がそこに存在する。
それを語ってくれるので私たちが見えなくても、その言葉を信じます。
そこから信仰が始まります。

神様は霊であります。ですから私たちは言葉で信じなければならないです。
見えるようにしてくださいと要求しても神様は絶対に応じないです。
これ自体が神のみこころからずれています。信じる気がないです。

【ルカ16章27-31節】

人の心を知っています。モーセと預言者の教え、すなわち神様の言葉を受け入れない者、
それを信じない者は、たとえ奇跡が起きても、絶対に信じないです。
認めることと信仰は全く違うものであります。

②自分が見たものだけを信じる人

自分が見たものだけ。他人が何と言っても、それは信用できない。
トマスがそうでした。
弟子たちにイエス様が復活した姿を見たと言った時に、トマスは「いや、それは私は信じない。」と言いました。
「私のこの目で確かめない限り、本物かどうか触ってみて、本物であれば私は信じる。」
同じものを聞いても、なぜそうなるのでしょうか。
心がとても疑い深いです。そして自分は知恵があると錯覚します。「復活なんか有り得ない」と。
自分の経験をとても大事にします。これは自分の理性が信仰よりも上にあります。
このようなタイプも多いです。

自分が見て自分で確かめたら信じるけど、人が「こんな体験をした。こんなものを見た」
こういうものには信じません。
それは違うものを見たのではないか?悪霊ではないか?と言います。

奇跡は信仰の結果として生まれてくるものです。
ですから私たちは理性だけでは理解ができないです。理性は信仰と正反対のことであり、
信仰を邪魔するものであります。
見ずに信じる者に向かって「あの人は考えが足りない。」とか「何でそんなに単純に信じるのか?」、
「だから知恵がない」とか色々言います。
このような人は神様を試します。 「私に見せてください。あの人は信じるかも知れませんが、
私にはそれだけでは不十分です。私が直接見て、体験しない限り神様を信用できません。」

しかしこのような人は自分の理性で考えているようで、そうではありません。
「見える」ということは「感覚」であります。「見る・触る」これらは感覚であります。
ある意味、理性ではないです。しかし自分は理性的で論理的であり合理的である、そういう錯覚をします。

ギデオンがそうでした。神様の言葉を聞いた時に、疑いが入ってきました。 
「私のような者が~」とか「神様、本当にいるならば、どうして私の国がこんな目に遭うのか」 と
色んなものがありました。神様が民を救いだしなさいと言った時も、神様をテストしました。
「神様、こういう奇跡を起こして下さい。」 そして神様はそれを聞いてあげました。
そしたらそれでもまだ満足しないで「神様、お願いします。もう1度奇跡を・・・」と
神様をテストしました。神様はそれも叶えてあげました。そしたら「信じます」と言いました。

神様は本当の意味では触らせません。触ってみなさいという言葉は使いましたが、
触れるなということであります。なぜなら疑いの心でイエス様に触れるなら汚れてあります。
自分達の心を見ると、色んな疑いが出てくると目が濁ってきます。心も濁ってきます。
まともに見えません。
自分ではまともに見えると思いますが、錯覚が多いです。自分の心の汚れを取り除かなければならないです。

疑いが多いと二心であります。ある意味で神様に疑いを持って祈ってもそれは答えられないです。
その人の心はいつも不安定で、風や波のように揺れるので、
そのような者の祈りは神様は受け取ることができないんだとおっしゃいます。
疑って得るものは1つもないです。せっかくの良い物も全て失っていきます。
神様を信じたら心が平安になります。信じる事がイエス様が私たちに求められておられることであります。
自分の求めているものが答えられる為にも、完全に信じることであります。

③見ずに信じる信仰は幸いである

イエス様がトマスに語りました。
これはみことばをありのまま、「主がそのように語っておられるから私はそれを信じます。」と
これは謙遜な信仰であります。

「印を見せてください。印を見せてくれたら私は信じます。」これは傲慢な心であります。

神様をテストすることが謙遜な心でしょうか? そうではないです。
私たちは他人からテストされることは嫌なんです。
相手が自分を疑う心でテストをすると「何で疑うの?」、「何で私がテストされなければならないの?」と。
私たちは弱い者ですので、時には神様は聞いてくださいますが、神を試みてはならない。
と聖書に書かれてあります。

「神が言ったならば、それを謙遜な心で信じなさい」神様は私たちの信仰の対象であります。
それが神様が一番喜ぶ信仰であります。見ずに信じる者、それはその人自身が見えなくても
神様のみことばを心から信じるその姿勢です。 「聞いて 信じる」この姿であります。

ノアが神様から聞いた言葉が「この世が洪水で滅びるから箱舟を造りなさい。」
神様が語った時に、彼は何も見ていないです。過去にそういう事が起こったことも聞いたことがなく、
箱舟も見たことがありませんでした。でも神様が1つ1つ指示をしました。その通りに彼は箱舟を造りました。
将来起こることを信じました。100年くらいかけて、ノアは箱舟を造りました。
見ていないのにしました。これが信仰であります。だから神様はノアを認めました。

アブラハムは神様から言葉を聞きました。(目では)見ていないです。
神様がカナンの地の写真を見せて、この地をあなたに与えるとは言っていないです。
どこに行くのかも神様は教えていないです。
「あなたの父の家、生まれ故郷を離れなさい」と言われてどこへ行くのかも知らないで、
ただその言葉だけを信頼し、「神様が私を導いてくださる。神様が私を祝福する」と彼は出ていきました。

ヘブル書11章に出てくる信仰の人は、全員このような人でした。
全員が神様に対して、絶対的な信頼を置きました。そして信じて行動をしました。
だから神様は彼らを祝福し、彼らを用いてくださいました。

イエス様の復活もある意味、人間の経験・知識では信じることができないものであります。
「信じられない。」、「そんなことが起こるはずがない」と。
ですから、トマスのような人は多いです。
他の弟子たちも初めは復活を信じませんでした。だけどその後、見た時に本当に信じました。
トマスは弟子たちの言葉を信じませんでした。

でも神様は信じられないことを信じなさいと語っておられます。
信じられないことを信じるのが信仰であります。

誰もが見て、十分信じられる可能性があるもの、それを信じることは信仰ではないです。

例えば、コップを見せながら「これはコップです。」と言うなら、目で見ているのでコップだと信じます。
「いえ、それは違います。」という人はいないと思います。
目で見えて、誰でも(コップだと)認めるものだからです。神様が「信じなさい」と言わなくても、
私たちは「言わなくても知っている」となります。

しかし信仰というものは人間的な理性では絶対に可能性がないものであります。
信じることができないものを、私たちはただ「神様が語るから」、「神様から出た言葉であるから」
私たちはそれを信じることであります。
だからイエス様はそういう人は幸いであると語りました。

誰も神様を見た者はいないです。しかし神様が生きておられることを信じています。
なぜなら言葉を聞いたからです。

【ヨハネの黙示録1章3節】

心に留める=信じることであります。この人たちが祝福を受ける人であります。
その人達が本物の信仰を持っている人達であります。

イエス様は子供のようになりなさいという言葉をよく使いますが、
それは子供たちは単純な心だからです。
子供が頭の中で計算をしたり、論理的に計算して理性的にすることはないです。
子供たちは単純にそれを信じます。それで騙されて誘拐されることがありますが、
神様の言葉には偽りがありません。騙すことがないです。

真理を聞いて信じられないという人は不幸な者であります。
見えない世界の方がある意味現実であります。それを神様は信じなさいと語ってあります。

「見せてください。見せてください。見せてください。」 と言うのは、神様は信仰の薄い者とおっしゃいます。
弟子たちがそうでした。

私たちがいつまで経っても「見ないと信じられません。見せてください。」と言うなら、
神様は「いつまで弱い信仰のままであるのか。本物の信仰を持ちなさい。みことばを信じなさい。
見なくても、神から出た言葉として見ずに信じなさい。」そしたらそれが現実に現れます。

奇跡は信じてから現れるものです。奇跡を見て信仰が生まれることではないです。
何も見えなくても信じるから奇跡が起こります。
だから奇跡を見たいならば、「見せて下さい」ではなく、「信じますか?」から始めます。

「神様は奇跡の神様であることを信じます。」、「私は神様のみことばをそのまま信じます。
ですから神様、これらのこと、主よ 働いてください。
そうすると私は神様が奇跡を起こしてくださることを信じるので、それが起こることを感謝します。」
このように、まず信仰を見せることであります。
信仰がないから神様は答えることができないのです。

ですから私たちは順番を間違えてはいけないです。
神から得る全てのものは私たちの信仰から得るものであります。
「ですから神様、わからないですけど、信じます。信じます。」
口先ではなく、心から信じることであります。そしたら神様が「わかった。あなたの信仰が奇跡を現す。」
私たちは口の告白がとても大事です。疑いの心があるから信仰を持つことができないです。

見ずに信じること、この道以外にはないということを心で信じてください。
私たちも信仰ある者になりましょう。 (*^・ェ・)ノ

2012.4.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
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