からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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キリスト復活の目的は?

テーマは『キリストの復活の目的』です

【ローマ10章9節】

神様を知らない人を導く時に、9ー10節はよく伝える箇所です。
私たちの口でイエス様が復活したことを信じて告白するならば救われるという言葉が出て来ます。

イエス様の十字架だけを告白したら救われるということではないです。
ここにはっきりと書いているのは、
「死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら」ば、復活があります。ということです。

『十字架の死、そして復活。』それが完全であります。
十字架だけで終わったら、神様は、その信仰は虚しい信仰であると語ってあります。

イエス様が死んで蘇ってくださらなかったら、私たちが信じても先に希望がないです。
イエス様は復活した理由を色々と語ってあります。

― イエス様が復活した目的はわかりますか?
ただ私たちに永遠の命を与えるために復活をしたのでしょうか。 ―

復活のことを知るには福音書を開くことが多いですが、今回はあえて福音書は開かず、
ローマ書はキリスト教の教理がすごく書かれてあります。
キリスト教とはこういうものなんだ、キリストを信じるということはこういうものであるんだ。
そして復活に対してもローマ書が一番多く書かれてあります。

①【ローマ書1章4節】

神の子であることを神様は復活によって人々の前に示しました。
これはイエス様が十字架になぜ架かったのか、どんな罪を被せられて十字架に架かったのか。
ユダヤ人達、律法学者、パリサイ人、祭司たちはイエス様が死ななければならない大きい罪は
自らを「神の子だ」と言っていることでした。彼は神を冒瀆する者である、と。
神聖冒瀆罪でイエス様は罪にされました。
そのまま死んでしまったならば彼らの言葉通りになっていましたが 
(やはり神の子ではなくただの人の子だったんだ)
ですから神様は、復活をさせて神の御子であることを示しました。
死者から復活した者はいませんが、イエス様は神の子であるので復活できました。

②【ローマ書4章24-25節】

私たちが義と認められる為です。
イエス様が十字架に架かるということは、私たちの罪の為であります。
そこで流した血によって私たちは洗われました。
それだけではなく、蘇ったことを信じる者(十字架を信じ、復活も信じる者)は信仰を義と認められます。
神様が認める義がないと私たちは天国に入ることはできないです。

自己義では入れないです。「私はこういう良いことをしました。だから私は罪のない者です。」
これでは天国には入れません。

【ローマ書3章28節】

十字架を信じる、復活を信じる。これだけで神様は私たちを義と認めて下さいます。

③【ローマ書6章4節】

私たちも、命にあって新しい歩みをするためです。私たちも古い物ではなく、新しい物で復活しました。
イエス様もそうでありました。十字架の前に歩んだ姿と、十字架があり復活もあった後の歩みが違うものでした。
十字架の前の歩みは人間として生きていました。
しかし、復活によってイエス様は再び元に戻り、神として生きます。
人の子として生きることはしないで、神様から力を受けて勝利し、今も神の右の座に座っておられます。

クリスチャンも同じであります。イエス様に出会った後からは歩みが全然違います。
天国に向かって命の道を歩んでいる者であります。
それ以前は全て滅びに向かって死の道を歩んでいた者でした。
しかしイエス様の十字架に出会った時に、
私たちは死んで命を受けて新しい歩みをするために復活の命が与えられてあります。

④【ローマ書6章5節】

将来、私たちも復活します。それの為に、イエス様は復活してくださいました。
前もってイエス様は復活はどういうものであるのかを見せてくださいました。栄光の姿でありました。
「あなたたちも将来、復活する時は私と同じ身体に復活するんだ」

⑤【ローマ書6章9-11節】

死がキリストを支配することができないように、死が私たちを支配することができません。
復活の命を持っている者の上には死は何も力がないです。
神に対してあなた達は生きた者だと思いなさいとおっしゃいます。
これは私たちが死んだ時に経験すると思います。今は肉体が生きているので、
「今生きている」としか考えませんが、肉体を脱ぎ捨てた時には命ある者と命のない者の行く道は
全然違います。
ですからキリストにあって命をもらっていない人は、第2の死が待ってあります。永遠の死です。
永遠の死は無くなって消えるものではなく、永遠に苦しみを受けることです。

しかし私たちが受けているものは永遠の命であります。
死がどんなに力を振って私たちを第2の死に落とそうとしてもできません。
復活の命はそれに飲み込まれません。

⑥【ローマ書7章4節】

目的は「神のために身を結ぶようになるため」です。
神様を信じる人は自分の為に生きるのではないです。聖書に神の栄光の為に生きなさいという言葉があります。
私たちが枝として、ブドウの木であるイエス様に繋がっている状態であります。

イエス様に復活の命がありますので、その力が私たちに流れてきますので聖霊の実を結ぶことができます。
聖霊の実は、イエス様から聖霊の力をもらって命をもらわないと結ぶことができないです。
離れたら命は消えてしまいます。

地上にいるときは命をもって神様のために実を結ぶ者にならなければいけないです。

⑦【ローマ書8章11節】

目的は「あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる」のです。
イエス様がなさったことは全部私たちの為であります。自分の為ではないです。
自分を通して全ての恵みを私たちに流すために、イエス様は十字架の死も復活もこの世に来られたことも
再臨することも全部私たちの為であります。無関係のことは1つもなさらないです。

復活したことも私たちの中にイエス様は御霊を送ってくださいました。その方は命であります。
その方が自分の命の中に住んでおられるならば死ぬことがないです。

サタンが持っているのは死の力であります。
死の力ということは私たちが罪を犯した時に入ってきた力であります。サタンは必ず死を持ってきます。
魂、肉体を殺していきます。ですから悪霊を受け入れている人には死しかないです。

聖霊様は命であります。命が入ってくるならば私たちの肉体が死んだとしても、その命にあって必ず生きます。
魂だけ生きるのではなく、死んだ身体さえも命を与えて栄光の姿に変わっていきます。

⑧【ローマ書8章34節】

罪に定められないようにするために、イエス様は復活されました。
罪に定めようとするのは、サタンであります。
サタンは神の前で訴える者であります。それは私たちに対して弁護士の役割をするのではなく、
まるで裁判にある検事と弁護士の検事です。
弁護士は罪を犯したことを知っていても、弁護をしてくれる存在です。検事と弁護士はいつも対立します。
私たちのとりなしをしてくださるのはイエス様であります。
神様は裁き主であります。サタンは「この者はこんな悪い事をしました。
あんな悪い事をしました。」と私たちが生まれた時から犯した罪のことを言って、
サタンは自分のことは棚に上げて私たちを地獄に落とそうとします。

そこで立ち上がって私たちをとりなして弁護をしてくださるのはイエス様であります。
「この者は罪を犯しました。しかし私を信じて罪が赦されました。私を見てこの人を赦してください。
 私はこの人の為に十字架に架かりました。」 
私たちが罪に定められることがないように、イエス様がずっと言ってくださいます。
イエス様が死んだままなら、誰も私たちを弁護してくれる人はいないです。

⑨【ローマ書10章9節】

私たちを救うために。私たちが救われることは、ただ罪が赦されるだけではないです。
それは2つあります。罪が赦され、そして永遠の命を受けることであります。
イエス様が死んでくださったと信じる時に罪が赦され、
イエス様が復活したことを信じる時に私たちは永遠の命を受けます。
この両方であります。これが本当の救いであります。

ですから苦難から救われる、病気から救われる。それが私たちの救いではないです。魂の救いのことです。
私たちが神様と交わりをして霊が救われないと、私たちは神様と何も関係のない者になり、
永遠の死を迎えるしかないです。
ですので私たちの信仰にはキリストの復活も入っていなければいけません。
その復活を信じなければいけません。
「十字架は信じても、復活は誰かの作り話でしょう?」 それならばその人の信仰は命とは関係がないです。
それは本当の信仰ではないです。

⑩【ローマ書14章9節】

目的は「死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるため」です。
この地上の真の神様はキリストです。キリストは人々に命を与える方ですが、裁き主でもあります。
肉体は生きていてもキリストから命をもらっていない人は既に死んであります。
「私の肉体は生きているけど?」 神様はそれは塵に過ぎないものだとおっしゃいます。

中に命を持ってある人こそが「生きている」者であります。キリストは全ての物に対する主であります。
命の主でもあり、死んだ者たちに対しては裁き主であります。
死んだ者には何も力がないです。命を得ている者が弱そうに見えても一番強い者であります。 

キリストはこのような目的で復活しました。
ですから復活を信じる皆さんは、何故イエス様が復活したのかをローマ書で今日挙げた言葉を覚えてください。

人に伝える時に十字架だけ伝えたら、それは50%しかなっていないです。
必ず復活を言わないといけないです。十字架の目的と復活の目的を両方語って、
それが完璧な福音であります。
それを聞いて人々が信じるならその魂は救われます。
自分の中にそれをしっかりと留めておいてください。(⌒∇⌒)

2012.4.8
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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受難の日の出来事

テーマは『受難の最後の(十字架にかかった)日に起きた出来事と、それに関わった人達』です。

【ルカ23章26-32節】

日本では、3人が1年8カ月ぶりに死刑が執行されました。法務大臣がそれを決定したら行われます。
それは非公開で行われます。

しかしキリストの死はそうではなかったです。最初から終わりまで全て人々の目に見えるものでした。

関わった人達もとても多いです。当時、イエス様はとても有名になっていました。
奇跡を起こしたり癒された人達にはとても人気がありました。しかし、それを妬む人達もいました。
民衆は2つに分けられていきます。

テレビでイエス様の十字架の刑を再現したものがありました。約3~4mの大きさです。
ローマ国家は危険人物だと思った人物を十字架に架けて見せしめにしました。
十字架刑にする理由は、痛みと屈辱を与えるためです。

足を地面につけている時はそんなに身体に力がかかりません。
体操の選手達は鉄棒にぶらさがったりする体勢になりますが、人間はしばらくならばそんなに苦しいことでは
ないそうです。

しかし(十字架刑の)腕を横に広げるのは不自然な体勢です。これは長くはもたないそうです。
すぐに痛みが走ります。釘は手首に打つと動脈などの血管があり、すぐに死んでしまいますので
じわじわと殺す為に、わざと手の平に釘を打ちました。釘は13cmくらいの大きさです。
十字架に架かると2倍の体重がかかります。息をするにも下に力がかかるので呼吸困難になります。
人間は息が苦しくなると、身体を上に持ち上げる為に足に力を入れるようになります。
すると今度は足の方に激しい痛みが走ります。それだけではなく、死刑囚をわざと太陽に向けて十字架を立てます。
そうなると脱水症状が起こります。水も食べ物も与えないです。
飢えと脱水症状と呼吸困難と激しい痛みを与えるために考え出されたのが十字架であります。
すぐに死ぬなら痛みが少ないです。
イエス様は十字架に6時間もかかりました。
十字架刑は私たちが想像しているよりずっと厳しいものであります。

それでもイエス様は「痛い」とも言いませんでしたが、自ら十字架に架かった目的は、
全ての人類のためでした。

これは聖書の言葉にあります。

最後の金曜日にどんな人たちが関わったでしょうか。

~ 祭司長と宮の守衛長と長老たち ~
この人達は以前からイエス様を殺したいという思いが強かったです。ユダがお金で「渡す」と言ったときは
大喜びをしてお金を渡してイエス様を捕らえに来ました。
妬みの心があり 「 私たちにチャンスが来た 」 と思いました。
この人達は外見は良い人、敬虔に見える人であります。神様に最も近い人達の姿であります。
人々はまさかこの人達が、罪のない人を妬みの心を持って殺すことは考えることもできないです。
人間の心は陰険で直らないと聖書の言葉にあります。
この人達の仕事が宗教的なものであっても、神に仕える仕事であっても、心が神様と1つにならないと
悪魔サタンはその人達の心を使います。

聖書の十戒の中に人を殺してはならないとありますが、計画を立てて殺しました。
この人達は天国に入った人はいないと思います。

【ルカ23章11節】

~ ヘロデ ~
よこしまな悪い者でした。派手な衣を着せてイエス様を笑い者にし、イエス様の人格を完全に無視する姿です。
悪人の代表者のような人でした。

【ルカ23章24-25節】

~ ピラト ~
裁判官であり、罪がないことを知っていました。
無罪であることを知りながら死刑を宣告するのは大きな間違いであります。
なぜこのようなことをしたのでしょうか。
自分の命を救う為であり、自分の立場を守る為です。自分の為に裁判を曲げました。
裁判官として正しく裁かなければいけない者が、無罪を有罪にし、しかも死刑にし、
悪い者たちの願い通りにさせました。

【ルカ23章26節】

~ シモン ~
イエス様の十字架を無理やり負わせられた人です。この人は幸せな人だと思います。
偶然その場にいましたが、本当はイエス様が自分で十字架を背負っていかなければならないです。
しかし その前に散々痛めつけられたので、そのような身体ではなかったです。
背負わせてもすぐに倒れてしまうのでたまたまその場にいたシモンに十字架を負わせました。
初めは「なんで私がこんな重い物を。罪を犯してもいないのに」 と思ったかもしれませんが、
イエス様が復活した時にその人は自分にとって祝福だったことがすごくわかると思います。
私たちは終わってみないとわからないことがたくさんあります。
「なんで私が!?」 「なんで十字架を負わなければならないのか?」と思うことがありますが、
私たちが主のために十字架を負うことは、どんな十字架であっても結果は祝福です。
神様はその人の働きに祝福を与えます。
シモンは後でイエス様を信じました。家族が神様に忠実に仕えるようになりました。それは祝福であります。

【ルカ23章27節】

~ 嘆き悲しんだ女の人たち ~
一般の人々でありイエス様を信じる人々であります。この人たちはイエス様を十字架につけることには
関わっていないです。もちろん民衆は心変わりが激しく、最初に仕えた者でもイエス様を十字架に付けろと言った人もいますが、イエス様を愛して嘆き悲しむ女の人たちがいます。
イエス様の素晴らしさは何でしょうか。聞く耳がない人たちには語りませんでしたが、
イエス様のことを本当に想って泣いている女の人たちに対しては最後の預言の言葉を語りました。
エルサレムが滅びるという言葉でありました。
そしてイエス様を殺す者たちの上にふりかかる悲惨さを思って泣きなさいという言葉でした。
ひどい滅びが彼らにはあるということです。

【ルカ23章32節】、【ルカ23章39-42節】

~ 2人の犯罪人 ~
彼らは自分で罪を犯して十字架に架かる者であります。2人共、犯罪人でありましたが1人は幸いな人であります。
この人は死ぬ直前にイエス様によって救われました。悔い改めの言葉を彼は語りました。
それまでの彼の人生は罪の連続でした。それを自分で刈り取るところまで来ていましたが
最後に神様の恵みで悔い改めることをしました。
1人は天国、1人は地獄へ、イエス様を挟んで2人の行く道が全然違いました。
このことは私たちに多くのことを教えます。罪をそのまま持っていると憐みを受けることはないです。 
しかし、どんなに罪を犯していても最後に悔い改めるなら、私たちは死ぬまではチャンスがあります。
死ぬまで救いの時、恵みの時があります。この1人は最後に恵みを手に入れました。
私たちもそのような者にならなければいけないです。
もう1人は最後の最後まで罪を犯しました。救い主に悪口を言うかたくなな心でした。

【ルカ23章35-36節】

死ぬ瞬間まで、人間が受けるあらゆる侮辱を受けながらイエス様は死にました。
民衆は最初はそういう者ではなかったのですが、イエス様が力なく弱い存在として十字架に架かり、
ある者たちは「あれは奇跡を行う者だから十字架から降りてくるだろう。」
「神様の子なら、神様が助けに来るだろう。」と色んな想像を持って眺めていました。
何かが起こるんじゃないかという期待を持って見ていました。でも自分たちが想像していたことは
起こりませんでした。
そしたら心をかたくなにしました。「やっぱり指導者、祭司たちが言っている言葉が正しいんだ。」
「あれは神の子ではない。」「あれは嘘つきだったんだ。何も起こっていないじゃないか。」
「自分を救うことが出来ないのに何が神様の子どもだ。」
そういう非難の思いがあったので彼らは好きなように嘲笑いました。これは息を引き取る6時間、
ずっと続いたものでありました。
これが最後の金曜日に起こったことであります。

死刑判決を受けて、そのまま死刑を執行する場所まで連れていかれました。世界で一番早かったかもしれません。日本でも死刑判決が出ても何年も生きている人がいます。

何の為にイエス様は惨い死を受けなければならなかったのでしょうか。
私たちの罪の為であります。罪を清算する為に、救いの道を開くためにイエス様は苦しみを受けました。

私たちが十字架を見た時に「イエス様がかわいそう」、「どれほど痛かったのか」と思って
十字架を見て泣くのではないです。イエス様を見て泣いている人たちへの言葉がありました。
それを私たちは思い出さなければならないです。

そしてイエス様が願うことは何でしょうか?
私たちを救う為に、私たちの罪の為に十字架に架かってあるならば、私たちは罪を本当に嫌わなければ
ならないです。罪を犯すならばイエス様はどれほど悲しむのか――。
イエス様は私たちが罪を犯す姿を見て悲しまれます。
私はあなたの罪のためにまた十字架に架かるのか ――

私たちは十字架に架かることがないので、罪を軽く考えます。しかし罪を軽く考えてはいけないです。
私たちが罪を好んで犯すと、それは神様を憎むことであります。神様を愛していない姿であります。
しかし罪を嫌い 憎むならば、その人は主を愛する人であります。
「 神様に、イエス様に2度と十字架の苦しみを受けさせない 」

既に起きた罪(十字架)は私たちはどうにもできないですが、それは私たちにとって祝福の十字架であります。
それが祝福だと思うならば、罪を嫌わなければならないです。

イエス様は 「 罪から離れなさい 」「 罪を捨てなさい 」 という言葉があります。
その為にわたしは苦しみを受けたんだ ――

私たちは罪を嫌いましょう。その罪のためにイエス様はとんでもない十字架の苦しみを受け、
人格が踏みにじられ、人々から嘲笑われ、そして息もできない苦しみを長い時間受けました。
「あぁ、イエス様が私に願うのは、私が罪から離れることなんだ。罪を憎むことなんだ。」

罪は私たちに「こっちに来なさい。こっちに来なさい。快楽を与える。あなたの欲しい物を与える。
こっちは楽だよ。良い道だよ。広い道だよ。みんな歩いているじゃないか。こっちの道に来なさい。」と
必死に誘惑をしてきます。
私たちは誘惑をされやすい者であります。まだまだ肉をたくさん持っているからです。
だけどその時に、私たちが思い出すことは 私の罪の為にイエス様があんなに苦しみを受けたのに
もし私自身が十字架を受けるなら1分も耐えられないのに、
また私が罪を好んで犯すと今もイエス様を十字架に架けていることなんだ。と
その事を思い出すべきであります。

罪を憎む、罪を嫌う、罪を重く考える。これが十字架が私たちに教えることであります。

2012.4.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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