からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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罪が招く結果は?

テーマは『ペテロとイスカリオテ・ユダの罪とその結果』です。

【マタイ26章14-16節】、【マタイ26章69-75節】

十二弟子は自らが志願したのではなく、イエス様が呼んだ時に、彼らは従って弟子になりました。
十二弟子は3年間、イエス様の傍で学びを受け、共に生活をしていました。

ペテロは、イエス様のことを裏切るとは思ってもいませんでした。自分は大丈夫だと自信満々でした。
いつも自分はリーダーだと思っていました。
イエス様からそのような扱いを受けた時もあったのでそう思う部分もあったと思います。

ユダはお金の管理をしていました。お金の管理は信用できない人には任せられないと思います。
信用できるから、働きもきちんとするのでユダに全て任せてきました。 

十字架の受難の前に、イエス様は弟子から裏切られたのが最初の受難です。
イエス様に敵対する人からではなく、愛していた弟子からなので心に受ける苦難でした。

そして十字架にかけられる前に、イエス様は39回のムチを打たれましたが
見えないムチを、ユダとペテロが打ちました。
肉体の傷は、治ったら 痛みが治まりますが、私たちは心に受ける傷はなかなか消えません。

人を裏切ること。特に信用していた人から裏切られることほど、心が痛いものはありません。

ペテロとユダは同じ罪ですが、少し違います。どこが違うのかというと、
ユダは、「 計画的 」でした。自分の欲のために1人で計画を立てました。
イエス様を殺そうと考えていた祭司たちに売るということは、ユダがイエス様を殺すことと同じであります。
祭司長にチャンスを与えたのがユダでした。これは、パリサイ人や律法学者よりも悪いです。
サタンのようです。最後の日まで普段と同じ顔でイエス様と共にいました。
神様から見たら、計画的なのはとても重い罪であります。

イエス様を裏切る計画を立てて行動するのはとても重い罪です。
私たちはイエス様がその計画を知って、彼(ユダ)を説得しなかったことに注目しなければなりません。
イエス様がなぜそのことを指摘しなかったのか、悔い改めのことを言わなかったのか。
ただ、『 あなたのやってる事は大きな罪である 』と語りました。出て行く時も止めませんでした。

何が一番痛いのか――?
計画的に裏切る行動をする。そしてそれを実行に移す。
これは説得しても相手は聞かないです。なぜかというと、自分の中でしっかりと計算済みだからです。
たとえイエス様が説得したとしても聞かないです。
イエス様を裏切ってでも自分の思い通りにしたい。
それが先に立っていますので、そんなことをしては駄目だと言ったとしても「あなたが優先ではないです。」と
言うだけです。自分が一番大事になってあります。
良心の咎めはあると思います。「こんな事をして良いのかな」と思いながらも、だんだん自分の思いに引っ張られて、行動する日を決めて実行してしまうと、誰が止めてもダメです。聞く耳がないです。
計算済みでシナリオ通りに動くのです。

これは私たちの姿であります。
イエス様よりも大事にするから、「イエス様を売ってでも自分の計画の方がもっと良いよ」と思います。

信仰生活は、自分のしたいことをするのが信仰生活ではないです。
イエス様と自分を比べた時、いつでもイエス様を裏切る用意が出来てあるならば、信仰ではないです。
いつでも自分が犠牲になる。いつでも自分を打ち砕く。
この準備が出来ている人が信仰をまともにしている事であります。

イスカリオテ・ユダは3年間、イエス様と共にいて毎日メッセージを聞いていました。
神様は言葉を知らない人ならば説得すると思いますが、言葉や知識はいっぱいあるので、
それを自分で知っていながら犯すことは止められないです。
だからイエス様は止めることをしませんでした。

ユダは神様のしもべではなく、自分が神様を思いのまま動かすこと。まるで物扱いをしていました。
自分の所有物のように、お金を受け取ってイエス様を売りました。
この時点で既にユダにとって、イエス様は救い主でも、先生でもありませんでした。
これは裏切りの罪でとても重いものです。

ペテロは3度 イエス様を知らないと言いますが、彼の中には傲慢な思いがあります。
「他の人が裏切っても、私は絶対裏切りません。」と、聞いた人はその言葉を信じたくなります。
しかし、結果はどうだったでしょうか?

ペテロは自分自身を信じすぎました。イエス様から「あなたは私を裏切る」という言葉を聞いてその言葉を信じて
「主よ、助けてください」と祈るならば、つまずかなかったと思いますが、ペテロはイエス様の言葉を捨てました。
「私は死ぬまで絶対に裏切ることはありません」と言いました。
これは信仰ではないです。彼の傲慢さであります。

この姿が私たちの中にもあります。私たちは「私はイエス様から絶対離れることはありません。」
「イエス様を裏切ることは絶対にしません。」「イエス様と約束したことを守ります。」と言います。
「イエス様から離れます」と言うことはないと思います。
でも実際私たちは日々、イエス様を裏切る行動をたくさんしています。約束を守らず、自分で言った言葉を守らず、
環境が変わると私たちはイエス様からすぐ離れます。

傲慢な者は倒れる。自分が立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。という言葉があります。

ペテロは人と環境に弱い者でした。突然イエス様が捕えられて状況が一変しました。
それまで自信満々だったのに急に小さくなりました。人の顔と言葉が怖くなりました。
それから彼はイエス様を「知らない」と裏切りを始めました。

私たちもそうであります。小さい迫害や、環境が変わると弱気になってイエス様から距離を置き始めます。
イエス様よりも自分を愛している姿がその中に出ています。

最もペテロが一瞬にして倒れた理由があります。
イエス様が「目を覚まして誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言った言葉をゲッセネマの園で言いました。
祈るということは神様の力を受けるということです。
しかし肉体が弱くて寝てしまいました。ペテロは祈らないといけない時に祈らなかったのです。

「私はいつ倒れるかわからない者です。」「こんなに弱い私を助けてください。」
「環境が変わっても私が倒れないように助けてください。」と毎日イエス様にすがって祈り求めるなら、
環境が変わった時にすぐに「主よ!」と祈ることができます。

普段祈らないから、自分に頼っていたから、いざ問題が起きるとあっという間に倒れてしまいます。

自分の仲間から「この人は絶対に知らないです。」と呪いの言葉をかけられたイエス様の心はどうでしょうか?
心が引き裂かれる思いだったと思います。これほど悲しいことはありません。
その後2本の大きい釘を打たれて十字架にかけられました。

ここまで2人共大きな罪を犯しましたが、その後から2人の人生は全然違う方向へ向かっていきました。

幸いなことに神様は私たちに「悔い改め」という恵みを与えてくださっています。

【マタイ26章75節】

ペテロの悔い改めの姿です。全ての罪は神様の言葉から離れた時から始まります。神様の言葉を思い出すこと。
悔い改めはここから始まります。
立ち返るには神様の言葉を思い出さなければならないです。
言葉を思い出した瞬間に彼の心は耐えられなくなりました。自分の姿が見えてきました。
「結局自分が裏切ったんだ」「私は罪人なんだ」。
激しく泣いたということが悔い改めの涙であります。罪責感で以前の自信満々の姿はなくなりました。

【マタイ27章3-5節】

ユダの姿です。ユダも自分の罪に気付きました。しかし神様の言葉を思い出すことをせず、後悔をしました。
後悔と悔い改めは全然違うものであります。イエス様を信じない者でも後悔はします。
後悔ということは神様に立ち返っていないということです。

ユダはあくまで自分の思いで行動しました。世のやり方で首を吊りました。
死んで償えることはないです。償うということは、生きて償うということです。
イエス様はどんな罪人であっても、それを許す方であります。
しかし、何故ユダは悔い改めができなかったのでしょうか?

罪も弱さの為に犯したならば立ち返るのも早いです。
しかしユダは計画的だった為、悔い改めが無理でした。
時間をかけてじっくり計算をして裏切る計画を立てて神様から離れる人たちは、
自分の思いが満杯なので悔い改めないです。自分のやり方を通していきます。涙が一滴も流れていないです。

堅い心なので何を言っても聞かないです。相変わらず強気な心です。
「何も言わないでください、自分のことは自分で始末します。」

神様はチャンスを与える方です。
イエス様の前で泣いて赦してくださいと言うならば、血潮で赦してくださると思います。

私たちにもペテロとユダの姿があります。
「私には無い」と言うならばペテロのように倒れていきます。
2つの姿があるから私たちは他人を非難することはできないです。反対に気を付けなければならないです。
「いつかペテロのようになるかもしれないし」「いつかユダのようになるかもしれないし」ということであります。

【ヨハネ21章15-19節】

ペテロは悔い改めた後、ずっと弟子たちと一緒にいました。イエス様は彼を赦しました。
イエス様はいつまでも変わらない方です。そして真実な方であります。
しかし私たちは真実ではないです。信じられないくらい心の移り変わりが激しいものです。

ペテロはイエス様を愛する心が残っていることをイエス様が知っていましたし、
そして悔い改めの涙を流したのを見たので、彼を選んで初代教会の指導者として立たせました。
これはイエス様の素晴らしさであります。
自分の心に一番大きい釘を打った弟子なのに、最初から赦す心を持って接していました。

ユダは悔い改めなかったので永遠に裏切り者として滅んでいきました。

【マタイ26章24節】

これは私たちが心に留めなければならないです。
出会った者には責任があります。イエス様に出会ってそれで良しではないです。
最後の最後の瞬間まで裏切ってはいけないです。

【ヨハネ17章12節】

滅びの子が滅びるとは、イスカリオテ・ユダのことであります。
永遠の滅びです。二度と救われることがないです。多くの恵みを受けたのにないがしろにしました。

【使徒の働き1章17-18節】

首を吊ってただ死んだだけでは終わらなかったです。呪われた死に方です。
悲惨な姿であります。

旧約聖書~新約聖書まで読んでみると、神様に対してひどい事をした人は、普通の人が死ぬような死に方ではなく
悲惨な死に方をすることが書かれてあります。

私たちはこういう者になってはいけないです。
イエス様が願うのは、心から悔い改めなさいという言葉を使っています。
悔い改めないなら永遠の命が消えていきます。永遠の滅びがきます。

罪を犯してもそのままではなくて、悔い改めるならどんなに大きい罪を犯した者でも
心を痛めて涙を流して立ち返る者には、神様はこういう人を指導者として立てます。

「末席に座りなさい。」ではないです。本当に素晴らしい主であります。

パウロもそうでした。「罪人の頭です」と。
でもイエス様が現れた時に悔い改めて3日間断食をして、そして立ち返りその後 命を懸けました。
ペテロは恥ずかしい思いを持ちながら自分が犯した罪のことを思って
2度とイエス様に同じ罪を犯しませんでした。命を懸けて主に従っていきました。

【Ⅰペテロ5章8節】

自ら犯した罪の重さを身に染みて感じたペテロの言葉なので意味が深いです。
同じ目に遭わないために経験者が神の啓示を受けて語る言葉であります。

私たちは弱さの為に倒れてしまうことがあるので、目を覚まして祈らなければならないです。
私たちはこの言葉を重く受け取りましょう。
罪を犯すたびにイエス様を苦しめていますのでそうならないように気を付けましょう。

(イエス様はそれを受けてから、ローマの兵士達に苦しみを受けて十字架につけられます。)

2012.3.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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人間としての苦難

テーマは『キリストの苦難の特徴』です。

【イザヤ53章1-9節】

イザヤ書53章はイエス様に対する預言であります。人間として苦難を受けている姿です。
4月8日はイースター(復活日)です。
復活があるということは、その前に人間としての苦難とイエス様の十字架の死があります。

人間としてイエスキリストがどのような苦難を受けたのか学んでいきます。

― ①人間としての苦難 ―

イエス様はさげすまれた人生を送りました。 1ー4節まで苦しみ、苦しみ、苦しみ・・・
人間として受けた苦しみがずっと書かれてあります。
イエス様が生まれた時の姿もそうでした。産婦人科で産まれたわけでもなく、自宅でもなく、場所もなく、
馬小屋の暗闇の中でイエス様は産まれました。小さい時もずっと貧しい生活をしていました。
人間として生まれてあらゆる苦難を受けました。

この地上で贅沢な生活をするために、幸せに生きるために、イエス様が来たのではありません。
イエス様が人間の姿で生きるということが預言されています。
人は産まれてその人生が幸せになることを願っていますが、不幸な人生だと「自分は何の為に生まれたのか?」と
自分を責めたり、周りを責めたりします。

幸せになるのが当たり前だという思いがあります。
しかしイエス様は産まれる700年前からイザヤ書に書かれてありました。
人間としてすごく苦難が多いということが預言されていました。

誰よりもイエス様は人間としての苦難が多かったです。
人間が感じる悲しみ、辛さ、苦しみ、寂しさ、全てを体験しました。
私たちと同じ身体を持って、生まれてずっと命を狙われていました。
宗教の指導者達も常にイエス様の命を狙っていました。

人間としての苦難の姿がここにありますが、イエス様ご自身の為ではなく、私たちの為でした。

【ヘブル4章14-16節】

人間としての苦難を受けていないならば、人間にできないことがあります。
イエス様が苦しみを受けましたので、人間がいちいち語らなくても、イエス様は感じます。
悲しんでいる人を見ると、イエス様は人間の弱さがわかるので同情します。
人間の肉体が弱いことも知っておられますので、イエス様は同情をしました。

イエス様ご自身も弱さを持っておられましたので、私たちを生かし、受け入れ、憐れんで助けてくださいます。
そして恵みを与えてくださいます。

もし(天には)神様だけで、イエス様が地上におられなかったら、私たちが地上で「苦しいです~!
イエス様助けてください!」と叫んでも 「何が苦しいんだ?」と、多分同情できないと思います。
その立場に立っていないからです。
イエス様は神様と同じ方でありますから、それは父なる神様が痛みをこらえながらイエス様を人間として送ったことを意味します。

神様が「行って、苦労してきなさい。もっと人間が持ってる弱さを体験し、苦しみを体験して、
彼らの為に働きなさい。」とおっしゃったので、イエス様が来てくださいました。

憐れみを受けるのはイエス様が体験したから私たちが受けるのです。
何もしていない者に恵みを与えるのは、体験したから助けたのです。その人達を助けて導きたいです。
イエス様が人間としての苦難を受けたからで、自分が何か間違えた事をしたのではなく、
怠け者だから苦難を受けたのではないです。努力していないから苦難を受けたのではなくて、
それも私たちの弱さを同情して憐れみをもって助けるために、イエス様自らがその苦難を受けました。

【マタイ27章39ー44節】

イエス様が人間として苦難を受けた姿が出ています。
十字架で苦しんでいる上、周りの者達はさらに罵りました。
私たちがイエス様の立場に立ったとしたらどうでしょうか?
苦しいのに、人々がそれを見て可哀想にと誰も思わないです。
イエス様に従った人達は助けたい思いはありましたが、それ以外のほとんどの人達は罵っていました。
こんな苦しみは耐えられないと思います。死ぬ直前まで人間としての苦難を受けていました。
有り得ないことですが、実際にあったことです。

私たちは苦しみに遭うとすぐに逃げようとします。だから多くの人達が命を絶っています。
3月になると特に自殺する人が多いです。経済、病気、問題などで苦しいことがあると絶ってしまいます。

もし自分が苦しい立場に立っているならば、このイエス様の姿を思い出すべきです。
十字架の上で鞭打たれて身体が全て割かれて痛いのに、そこに更に人々は追い打ちをかけます。
罵られてもイエス様は静かにしていました。

イエス様は他人を見て「(自身の人生を)こんな人生」と言ったことはありませんでした。
初めからその苦難を受け入れました。

ー②人間のための苦難ー

【イザヤ53章5-6節】

意味のない苦難ではないです。意味のある苦難であります。
罪のないイエス様が、罪人たちの罪を贖うために苦難を受けました。

【Ⅰペテロ2章24節】

【Ⅰペテロ3章18節】

すごく尊い目的を持ってイエス様は来られ、その目的通りに苦難を受けました。
それは受けなければならない苦難でした。
悪い人々の身代わり、悪い者たちの代わりにイエス様が全部罪を背負って死なないと贖いの道が
開かれなかったです。そのためにイエス様は十字架という苦難を受けないといけなかったのです。
罪人達が死ぬべきところを代わりにイエス様が(十字架に)架かって死にました。
これは目的があってなされたことであります。

それによって私たちが受けた祝福が2つあります。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

①神の敵として生きていた私たちが、神様との関係回復が行われたこと。
エペソに「隔ての壁が イエス様の十字架によって壊れ、神の敵だった者たちが和解して神様の家族になる。」
しかし、神の敵として生きている人が多いです。
それを信じて受け入れた人達には、その祝福がそのまま流れます。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

②死の病気から解放され、そして霊肉とも神様が強くしてくださる祝福が与えられました。
私たちの霊が癒されたことを意味します。
ただ「病気が癒されました。」ではないです。
「死にました。」しかし、イエス様の血潮がそこに流れていくときに死人が生き返る祝福が与えられてあります。
私たちは霊的死んだ者は、人間に死にます。

しかし霊が生かされることによって永遠の命の中で力強く働きます。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

ー③人間による苦難ー

【イザヤ53章7-9節】

サタンが現れて苦しみを与えたのではないです。人々がそうしました。
祭司たちが、民たちが、ローマの兵士たちがそれをしました。

【マタイ27章27-31節】

人間がイエス様に苦しみを与える姿が出ています。
想像してみましょう。イエス様の立場を自分たちの立場だと思ってください。

~ イエス様の周りに隊が集まったのは何人だと思いますか? ~
100人です。そこに百人隊長がいたからです。
100人の男の人達が集まった中に、イエス様が1人でした。
彼らはからかい、面白がってすることでありました。100人の前で侮辱を受けました。
つばきをかけました。犬に対してもつばきはかけないと思います。
これを人間にするということは最も軽蔑することであります。

こんな侮辱、耐えられますか?私たちならば早く死にたいと思います。こんなに恥ずかしいことはないです。

これで解放されたわけではなく、さらに十字架にかけられました。
誰が耐えられますか?それをイエス様は人間から苦難を受けました。

しかし復活されました。
今もイエス様は生きておられます。私たちはイエス様に対してどうしているでしょうか?
イエス様が今も死人であるならば、私たちが何をしても感じないと思います。

再臨なんて有り得ないとか、イエス様は死んでいるから聞いているはずがないとか
イエス様に対して悪を働く者たちがその時になって驚くことになります。

自分達がイエス様の前で行っている姿が、こういう兵士たちがやっている姿なのか?
私たちの口から出る言葉がイエス様に対するからかう言葉でしょうか?軽蔑する言葉でしょうか?
時には、罵る言葉でしょうか?直接「呪います」とは言わなくても、「あんたなんか信じたくもない」と。

自分が感情的になって主の前に語る言葉は、すごく恐ろしい言葉であります。

【ヘブル4章13節】

神の前に立つ日が来ます。
≪あなたは私に何をしたんだ?≫ 私たちがどんなに隠そうとしても隠せないことであります。
その時になって恥をかきます。隠したくても、神の目にはそれは不可能であります。

今の私たちの行動が、イエス様が十字架にかかる前の人々の行動と似ている行動をするならば、
私たちはその仲間であります。
つばきをかけなくても、私たちの口から出る言葉がつばきをかけることと同じであります。

苦難の後に蘇ったイエス様は今も私たちの全てを見ておられます。

イエス様の前で私たちはまず何をしたら良いでしょうか?
「あの苦難は私のための苦難であったんだ。私の罪のため。
イエス様が人間の姿で来なければならなかったのも、イエス様が討たれたのも、私の罪のため。
そして私がイエス様にも十字架を知る前にそういう風にイエス様をからかった者であった。
イエス様を罵った者であった。」

以前はそうでありました。今はそうであってはいけないです。
今はその主に対して心を開いて受け入れて感謝して、それからみことばに従順する人。
これなら私たちは問題ないと思います。

イエス様が願うのは、それであります。 ≪ 私の前で生きる者になりなさい。≫

イエス様が来られた時も、神の前でも主を喜ぶ姿で生きるならば、私たちは恥をかかずに済むと思います。
その姿で生きる者になりましょう。

2012.3.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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